メモ帳 -- 抄録、覚え (その15)若宮おん祭覚書奈良に住んで二十有余年、これまで一度も春日若宮おん祭に出向いたことはなかった。奈良の町挙げてのお祭りで、そのハイライトとなるお渡り式(風流行列)の行われる12月17日は市内の小・中学校は午前の1・2時間で授業が打ち切りになる。ふた昔前は我が家の愚息どもも喜び勇んで出かけていたが、数多く並ぶ屋台巡りが目当であって、それは今の子供たちも同様だろう。母親はPTAのお役目で子供たちの見守りに出動していた。奈良市民で春日若宮おん祭に接していないのは、京都市民で祇園祭の山鉾巡行を知らないようなもの、かくてはならじと今回は積極的に出かけることにした。まずは12月15日、餅飯殿町の大宿所祭へ、2時半から大勢の一般参拝者に混じって御湯立に参列、巫女さんから笹の葉でお湯を降り注いで頂きました。 17日はお渡り(お練り)。11時過ぎ、近鉄奈良駅から登大路を少し上って興福寺北側で大勢の見物人に交じって待機。大勢の人出とはいえ、京都の祇園祭の山鉾巡行に比べればゆっくり前列で見物できます。 馬上の人、ひょっとして市長さん? 目前のお練り行列が一段落ついたところで、興福寺境内を抜けて猿沢池近くのカフェへ。軽く昼食を済ませて今度は、油坂からJR奈良駅前をUターンして戻ってくる行列を、三条通りで待ち受ける。 春日若宮おん祭とはそもそも如何なる祭事なのだろうか。春日大社公式サイトには以下のようにある。 春日大社の摂社である若宮の御祭神は、大宮(本社)の第三殿天児屋根命と第四殿比売神の御子神であり、その御名を天押雲根命と申し上げます。平安時代の中頃、長保五年(1003年)旧暦三月三日、第四殿に神秘な御姿で御出現になり、当初は母神の御殿内に、その後は暫らく第二殿と第三殿の間の獅子の間に祀られ、水徳の神と仰がれていました。春日大社と興福寺(と東大寺)は平城京以来奈良の歴史の中心にある。春日大社は平城遷都(710年)後まもなく御蓋山山頂に祭神を祀り、やがて神護景雲2年(768年)、称徳天皇の命により藤原永手によって、現地に社殿を造営したのが始まりとされる。一方の興福寺は藤原鎌足夫人の鏡女王が建てた「山科寺」が始まり、飛鳥で「厩坂寺」となり、平城遷都とともに現在地に移って興福寺と改名、藤原氏の氏寺として栄えた。興福寺に対して東大寺は天皇自ら創建したので、こちらは皇室の氏寺のような地位を占めるようになった。 平城京の寺院は政権に保護され多くの墾田、荘園を獲得し、その経済力によって発展した。平安遷都の後も南都の社寺は広大な所領により衰退を免れた。ことに藤原氏の保護を受けた興福寺は遷都の打撃も軽くて済んだ。東大寺も官寺として寺領を確固とし、その地位を維持した。摂関政治で政権を支配するようになった藤原氏はさらに春日社や興福寺に荘園を寄進し子弟を送り込み寺院は貴族化した。春日社の規模は拡充され祭儀も確立し、藤原氏が氏長者として祭儀を司った。 神を祀るものが支配者という祭政一致思想がよみがえる。神仏信仰が盛んになり、春日行幸が一条天皇に始まった(989年)。藤原氏の保護が国家的保護のかたちとなった。春日社の法会に参勤して、興福寺が布施(料所の荘園)を得る。本寺の法会も増えていった。摂関家に法会の創始を要請した根拠となったのが、八百万の神々は様々な仏が化身として現れた権現であるとする本地垂迹思想であった。興福寺は皇室と摂関家の両勢力を導入したのだ。 広大な領地と経済力を獲得し、さらに在地土豪の武力を僧兵とした興福寺が、領国大和の支配のため、春日社の祭祀権も手中に収めなければならない。そのために興福寺が春日若宮祭を創始する。このあたりの経緯を永島福太郎『奈良』(*)によって見てみよう。 興福寺は春日社との一体化に成功し、その具体化につとめた。当然、春日社の支配を念願したが、祭祀権はいぜん摂関家に握られており、直接的には春日祭に参与が許されていないのである。法会ではこの祭礼に代えるものとはならない。したがって興福寺が春日社を意のままに動かしたとしても、祭祀権者ではないから神意によるとはいえない。つまり、春日社の支配ということにはならない。そこで、この春日社支配の理論的根拠は本地垂迹説によるが、その具体化として春日若宮祭を創始するにいたったのである。若宮おん祭は春日社支配のため興福寺が始めた(**)ものだった。官(国司)の大和統治に抗する振舞いだった。だが、興福寺による春日社支配は数世紀の後、明治維新できついしっぺ返しを受けた。「神仏分離令」で攻守所を代えたのだ。貴族子弟の寺僧は還俗し、布告から半月でほとんどの僧は袈裟から狩衣直垂姿になり、お経を捨て肩身の狭い新米神官としてノリトをあげた。「廃仏毀釈運動」が激しくなり興福寺の堂塔・坊舎は破壊され空地と化し、残った建物は警察署に、裁判所に、師範学校に、武道場に変わり、五重塔は50円で払い下げられ、九輪など金属のみを回収しようと危うく焼却されかけたのは有名な話である。 柳田国男『日本の祭り』(***)にマツリ、祭礼、大祭など「祭」という言葉について考察している箇所がある。そこでマツリとオマツリを使い分けることに関して、 著しい例は奈良の春日若宮の十一月のお祭り、これは必ずオンマツリと一般にいって、ただマツリという者はない。この敬語には意味があったかと思う。すなわち祭るのは自分たちでなく、政府領主尊いかたがたがお祭りなされるからオマツリで、めいめいだけで祭るものをただマツリと呼んでいたのが、それでは紛らわしいので一方のごく少数のものを、祭礼と言い始めたのが元ではないか、云々(37/38頁)また折口信夫に、昭和十五年の「能楽畫報」に寄せた「春日若宮御祭の研究」(****)という短い文章がある。春日のおん祭りに関して一番参考になるのは「嘉慶元年春日臨時祭記」で、ここに記録されている行事が現在の若宮祭りの行事とある点までぴったりと合っている、と言う。田楽、猿楽、御旅所の儀式、特にその舞台のことなどについて述べ、さまざまに議論のある「日の使」については、 興福寺の僧が日の使に扮したのであるといふが、日の使の意義は、はつきりわからない。が、ともかく宮廷から来たものではない。この日の使は若宮祭りにもとからあったかどうかわからない。此起源の説明として、藤原忠通が、これに当たる役を勤めた処、急病で装束を楽人に与へて代理させ、その日の使に命じたから日の使といふ、といふ伝へは訣らぬ様で意味がありさうだ。交代で勤務することが、日の勤めであり、蔵人にも日下﨟などといふ名称もある位だから、当番のことである。当番の人が使として来る位の義かも知れぬ。(283頁、旧漢字は新字体に改めた)と、なんだか肩透かしを食らわせるような話である。 あの長慶さん(「長慶寺」「石人長慶」など参照)もお渡りに一役買っていた。『宇宙菴 𠮷村長慶』(*****)によると長慶は奈良女高師(現奈良女子大学)の日本古代史の教職にあった森口奈良吉をその方面の師と仰いでいた。森口は女高師を退官後、春日大社で権宮司を務めた。 [森口奈良吉は]春日大社で権宮司を務めていた関係で、おん祭りでは主催者側の「日の使い」に扮して先頭で馬に乗っていた。長慶は奈良奉行に扮して駕籠に乗り、行列のシンガリを務める。二人で長い「お渡り」の前後を固める年が数年続いた。(163ページ)長慶は奈良市の市会議員を長らく務めていたし、「三尺将軍」として町の人気者でもあったから、「奈良奉行」役に適任だったかもしれない。また興福寺や東大寺にも石灯を奉納した「石の人」長慶のこと、春日大社をないがしろにするはずはなかった。明治31年に若宮に諫鼓型石灯を、大正8年には大社本殿の前庭に神符石を納めている。 余談を一つ。「若宮十五社」の一つに夫婦の大國神を祀る「夫婦大國社」がある。この社は「恋愛のパワースポット」として、水に浸すと文字が浮き出てくる「水占い」おみくじとハート型の絵馬で人気を集めているらしい。 『大和百年の歩み』(v*)によると昭和25年ころ、春日若宮に易断所が新設されたとのチラシ広告が新聞に挟み込まれていたそうだ。易断所は夫婦大國社にあって担当の易者が、何と、作家の今東光だった。執筆の北村信昭によると「今さんはここで易をみていたが、場所が奥まったへんぴな所にあったためかあまり繁盛しなかったらしい」(336ページ)とのこと。当時、東光は週二回東京から奈良に通って春日大社で易学の講義をしていた。講義は夜だったので暇な昼間に易を立てていたのだろうが、ひょっとして「水占い」の始祖は繁盛しなかった今東光の易占だったのか。 * 永島福太郎『奈良』(吉川弘文館、昭和38年) キラキラネーム先日図書館で伊東ひとみ『恋する万葉植物』(光村推古書院 2010)を読んで感心し、同じ著者のものならきっと面白いだろうとこの2冊を古書で取り寄せた。高橋政巳・伊東ひとみ『漢字の気持ち』(新潮文庫 2011) 伊東ひとみ『キラキラネームの大研究』(新潮選書 2015) 期待に違わず読み応えのある内容だった。『キラキラネームの大研究』序章によると、著者はネット上の記事で2010年に光宙(ぴかちゅう)とその仲間たち――苺苺苺(まりなる)、澄海(すかい)、在波(あるふぁ)、今鹿(なうしか)、心愛(ここあ)、王冠(てぃあら)、希星(きらら)などなど――に出くわしたときから、この問題に関心を持つようになった。それはちょうど古代漢字に関する本(『漢字の気持ち』であろう)を執筆していた時で、古代漢字が集う森で奇妙な風体の光宙くんとひょっこり出会った体験として記憶されているそうだ。 今、ネット上では、こうした命名を問題視して、「非常識すぎて呆れる、引いてしまう」といったマイナスのニュアンスの「DQN(ドキュン)」という言葉を用いて「DQNネーム」と呼び、珍奇な名づけをする親を非難する声が渦巻いている。(13頁)しかし著者の印象は、この名前が本当に実在するのだろうかという戸惑いと、困惑、漠然とした違和感であった。そこからキラキラネームをめぐる謎を追いかけることとなったが、調べ始めてやがて名づけの現状として浮かび上がってきたのは、奇矯な例は少数の突出したケースで、「読めない名前」が多数派だということだった。続けて「序章」を見てゆこう。 キラキラネームというと、親がDQNである表れと見なされて、おもしろおかしく語られることが多い。しかしキラキラネームは今や、一部のいわゆるDQNな親による命名ではなく、フツーの親たちがフツーにつけるものとなっているのは間違いない。もはや、暴走族の「夜露死苦(よろしく)」みたいだと嘲笑している場合ではないのである。(15/16頁)まことに万葉仮名の時代から千数百年にわたってやまと言葉と漢字の格闘は続いている(「寧楽人的」参照)。この言葉にどの文字を当てるか。いにしえの人々は波流(はる)、阿岐(あき)、伎弥乎麻都(きみをまつ)、加奈之可利家理(かなしかりけり)など音仮名、また名津蚊為(なつかし)、春過而 夏来良之(はるすぎて なつきたるらし)など訓仮名と、工夫を凝らして表記した。 本書の冒頭では「見た目は変わっているところはないけれど、漢字に書くと大袈裟なもの――いちご。つゆくさ。(中略)くも。くるみ・・・」と挙げ連ねて、「いたどりも虎の枝と書くという。虎は杖などなくても大丈夫という顔つきをしているのに、おかしな話ね」、という『枕草子』の一節が紹介されている。覆盆子(いちご)、鴨頭草(つゆくさ)、蜘蛛(くも)、胡桃(くるみ)、虎杖(いたどり)は無理な当て字に見え、今では蜘蛛、胡桃のほかはなかなか読めないと思う。 このように清少納言が「文字に書きてことことしきもの」と挙げ連ねている漢字植物名とはいえ、その素性は平安時代の薬物辞典『本草和名』に掲載されている由緒正しい表記である。同じ無理読みでも最近の名前は「とんでもなくアクロバティック」で、「漢字の世界観に背を向け、字形に刻み込まれた字義の引力をまったく感じられないように見え」るのだ。こうした両者の間にある断層、ここに追及すべき問題の核心があるのではないか、と著者は指摘する。 キラキラネームの背景にあるのは、若い親たちのヤンキー気質に帰結するような単純な問題ではない。その奥には、日本人全体の言葉の問題が横たわっている。と、本書の「序章」は締めくくられる。 キラキラネームがネットでスキャンダラスに取り上げられている中で、著者は世間一般の名づけの実際を "生け捕り" にするため、まずは地方自治体の広報誌の慶弔欄を調べる。秋田県のある市の2012年6月号から12月までの「お誕生おめでとうございます」欄には、凌真(りょうま)、遥斗(はると)、尋(ひろ)、奏和(かなと)など男の子の名56、咲愛(さくら)、楓華(ふうか)、栞來(かんな)、望花(みか)など女の子の名47がリストアップされている。なるほど個性的な名前ぞろいである。「正直言うと、予想以上にキラキラしていた。読み方が掲載されていなかったら読めない名前がほとんどだ」とのこと。 加えて明治安田生命が毎年発表している「子供の名前ランキング」による2012年生まれの新生児の名前、そしてマタニティ雑誌『たまごクラブ』と「たまひよ」名づけ本(ベネッセコーポレーション)から命名例を収集し、キラキラネームを作る音と漢字の組み合わせを分析して、「キラキラネームの方程式」として十方式にまとめている。
日本神話の神の名や、初期の時代の天皇名を見よ。神武天皇は『古事記』では「神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)」、『日本書紀』では「神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)」「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」「若御毛沼命(わかみけぬのみこと)」などと称されていた。神武天皇と結婚した「富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすすきひめのみこと)」は、「富登」を嫌って改名し、「比売多多良伊気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)」となった。 そして音読み・訓読み以外に、さらには「名乗り」が加わる。人の名前に限って慣習的に使われてきた漢字の読み方である。大伴家持の「家(やか)」、源頼朝の「朝(とも)」も名乗りとしての読み。楠木正成の「成(しげ)」、徳川家斉(いえなり)、家茂(いえもち)、慶喜(よしのぶ)もそうである。 日本歴史の人名はおよそ正しいとは思われない無理読み、無理な名乗りのオンパレードである。こういう事態を苦々しく見る人も早くからいた。鎌倉時代末期には、兼好法師が『徒然草』で、「人の名も、目慣れぬ文字を付かんとする、益なき事なり。何事も、珍しき事を求め、異説を好むは、浅才の人の必ずある事なりとぞ。(百十六段)」と痛烈に批判している。名づけに限らずあらゆる面で「個性的であること」を尊ぶ現代人にも、「浅才の人の必ずある事」とはグサッときますね。 江戸時代には本居宣長『玉勝間』が、「近き世の人の名には、名に似つかはしからぬ字をつくこと多し、又すべて名の訓は、よのつねならぬがおほきうちに、近きころの名には、ことにあやしき字、あやしき訓有て、いかにともよみがたきぞ多く見ゆる、すべて名は、いかにもやすらかなるもじの、訓のよくしられたるこそよけれ、(十四の巻)」と嘆いている。本居宣長の門人にも難読名が多く、門下生名簿に宣長はフリガナを振っていたという。稽古(とほふる)、光多(みつな)、美臣(よしを)、毎敏(つねとし)、信満(さねまろ)、舎栄(いえよし)などなど。宣長ならずとも嘆くのも無理はないですね。 明治維新になって、四民平等、平民も苗字を届けて戸籍簿を整えることになり、それがこんどは難読苗字を続出させる事態を招いた。「目(さつか)」、「一寸木(ちょっき)」、「及位(のぞき)」、「八月一日(ほづみ)」、「栗花落(つゆり)」、「樹神(こだま)」、「四十八願(よいなら)」、「部田(とりた)」、「一尺八寸(かまつか)」、「子子子(ねこし)」、「十二仏(おちぶるい)」、「十八女(わかいろ)」など。これでもか、これでもかと襲いかかる難読苗字の群れだ。 明治期は西洋の文物や新しい概念に対して、新しい漢語を造った。文明、文化、思想、哲学、科学。卓子(テーブル)、手帛(ハンカチ)、洋袴(ズボン)、襯衣(シャツ)、珈琲(コーヒー)など。国名や地名になると、亜米利加(アメリカ)、英吉利(イギリス)、仏蘭西(フランス)、独逸(ドイツ)、諾威(ノルウェー)、西班牙(スペイン)、都市名で巴里(パリ)、倫敦(ロンドン)、牛津(オックスフォード)、剣橋(ケンブリッジ)など。まるで万葉仮名が復活したかのような光景ではないか。 明治31年に改正戸籍法が公布され、みだりに苗字を新設することが禁じられたが、氏名の名の方は制限されることはなかった。その頃の状況を知る手掛かりとなる書物が紹介される。大正七年から昭和十八年にかけて同志社大学教授兼図書館長を務めたという荒木良造の編纂した『名乗辞典』(昭和34年)である。歴史的な人物以外に、人事録、学士会員氏名録、職員録など多様な名簿にあたって同時代人の名前についても調査されている。明治期から昭和初期生まれの人々の名前がメインと想像されるが、まえがきで挙げられているサンプルが以下の通り。
このように難読名は今に始まったことではなく、歴史的なものであった。しかし従来は「難読名だけがやたらと増殖しまくることはなく、大筋のところは、命名の伝統に従った "常識" の範疇に収まるような」漢字と音訓を用いた名づけがされていた。難読名は決して多数派ではなかった。ところが最近のキラキラネームの増殖は伝統的な命名をはるかに凌いでいる。 私たちは万葉仮名の時代からやまとことばに漢字を当てて使ってきたが、漢字それぞれの意味に関しては、従来はもとの意味を引き継いでいた。江戸期までの支配層・知識人にはもちろん、明治のエリートたちにも近代的な西洋の知識以前に漢籍の素養があった。夏目漱石のペンネーム「漱石」は『晋書』に出典がある。森鷗外は子供たちに於菟、茉莉、杏奴、不律、類という西洋の人名 Otto, Marie, Anne, Fritz, Louis と読める名前をつけたが、於菟は『春秋左史伝』に典拠があり、「虎に育てられた男」の意味をもつ。 しかし次第に漢字の歴史との断絶が進み、漢字を用いる際の常識は失われてゆく。明治期の西洋化の流れの中で漢字は「封建的な文字」と批判されるようになってゆく。漢字廃止論・制限論がたかまり、1923(大正十二)年、「常用漢字表」1962字とその略字154字が発表された。ところがこれは関東大震災が発生して実施に至らず、お蔵入りとなった。1931(昭和六)年に改めて常用漢字表がつくられたが、ほとんど効果なく終わった。 第二次世界大戦後の1946(昭和二十一)年、1850字の「当用漢字表」が発表され、いよいよ漢字制限が実施された。二年後に「当用漢字音訓表」が、その翌年には「当用漢字字体表」が制定された。そしてついに名前表記にも改革が及ぶ。1947(昭和二十二)年に公布された戸籍法によって「子の名には常用平易な文字を用いなければならない」と定められた。すなわち「当用漢字表」の文字と片仮名・平仮名に制限された。だがこれは余りにも範囲が狭く、名によく使われていた「稔」「弘」「穣」「奈」「玲」「綾」などまで使用不可になり、不満が噴出したため、1951(昭和二十六)年に「人名用漢字別表」92字が制定された。 戦後の漢字改革は、国民の読み書き能力を向上させ、教育を高め、国民の言語生活を向上させるためには漢字の整理と使用制限を実現しなければならないとの信念のもとに進められた。 そして実際、当用漢字によって旧来の難解な漢字遣いが封じ込められたことで、漢字は格段に付き合いやすい文字となった。おかげで教育の民主化が進み、誰もが漢字を無理なく勉強できるようになり、かつては漢字の難しさに辟易していた一般庶民も、だんだん当用漢字の枠内での読み書きに不自由しなくなっていった。こうして漢字政策見直し論が高まり1973(昭和四十八)年に、音訓の読みを大幅に増やした「当用漢字改訂音訓表」がまとめられ、1981(昭和五十六)年に、日常使用する漢字の範囲を定めた「当用漢字表」に替えて、漢字使用の目安である「常用漢字表」を告示した。「かつて一部の特権階級だけに帰属していた漢字は、格式あるハイブロウな文字からカジュアルな文字に改造され、すっかり国民みんなのものとなっていた」のである。 著者のいわゆる「迂遠な "旅" 」はようやく終わりに近づいたようだ。第二次大戦をはさんで社会・政治の価値観が一変したが、国語においても大きな断層があった。当用漢字の導入がその主たる要因だが、その影響は三段階で捉えられる。
さて、第三世代の彼らが子供の名づけをするようになったら、どのようなことが起こるか。戸籍法や施行規則によって名前に使える字種は限定されたが、使用漢字をどう読ませるかについては、昔のまま、何の制限もされていない。 とすると、第三世代が名づけにあたって、個性的な名前をつけようとする風潮が強まっていくと、漢文の素養をもとに "塩梅" していく術を知らない世代だけに、一般的な漢字の読みを無視した突飛な当て字を使ったり、外来語を無理やり漢字に当てはめたりするようになったとしても、ちっとも不思議ではない。 伝統的な漢字の常識からかけ離れたキラキラネームがつけられるようになったのは、カジュアルで平易な漢字観が三世代かけて造成され、それが若い世代の漢字の捉え方の土台になったから。そういう大前提の土台ができあがっていたからこそ、少子化に伴う名づけの個性化願望の強まりや、新しいセンスの名づけ本の創刊といった社会変化の圧力がかかったとき、断層がズルリと動いた――こういう話なら納得できる。(221頁) 何度も言っているように日本語は、中国語の文字だった「漢字」と、言霊を震わす「やまとことば」とがせめぎ合い、融合することによって醸造されてきた "ハイブリッド言語" だ。多様な音訓が煩雑きわまりない結果になっていようと、世界から見たらガラパゴス化した言語であろうと、それが日本語のあり方なのである。はるか昔、古代日本は「言霊の幸はふ国」(山上憶良)であったが、自前の文字はなく、漢字を導入した。言霊を漢字という容器に入れたのである。それ以降、大和言葉と漢字の関わりの長い歴史において、漢字を換骨奪胎して体内に取り込んでしまった日本語はもはや音声のみでは成立しない言葉になっている。だから、 歴史の中で培われてきた漢字の伝統が失われることは、日本語全体も貧弱な力のないものになって、私たちの言葉は表面をさっとなでるだけの薄っぺらなものになってしまうことだろう。いや、まことに長い旅でした。著者に導かれるまま歩いてきて、これまで知らなかったさまざまな文字の姿に出会うことができました。キラキラネームは現在の私たちの言葉が病みつつある徴証で、その病因は「漢字の伝統との断絶」にある、という著者の主張にも納得がいきました。では、「漢字」を「感字」にさせないための具体的な処方箋は? それはこの本の読者がそれぞれに考えることでしょう。『キラキラネームの大研究』なる書名はおそらく出版社・編集者が主導してつけたのでしょうが、「大研究」のタイトルに恥じない周到な調査・分析と創見が随所に光る好著だと感心させられました。
赤埴の磨崖仏近世奈良が生んだ奇人、𠮷村長慶が残した石像について、安達正興『宇宙菴 𠮷村長慶』(奈良新聞社 2011)をガイドに、昨年中に市内の主なものは訪ね歩いて、このサイトの「長慶寺」以下で報告した。少し市外にも足を延ばして宇陀市榛原大野弥勒磨崖仏の向かいの岩壁の磨崖大黒天も訪ねた。ここでは大黒天の下の碑文が削り取られている。その顛末については「不平等が天則」をご覧いただきたいが、その中で、長慶はこれより2年前の大正11年、宇陀市榛原赤埴佛隆寺の裏山に厄除十一面観世音を中心とした磨崖仏を作っている。観音像、大黒天、天照皇太神宮、長慶自像、教義銘文からなる大作である。こちらの教義銘文「不自由不平等是/人道之天則有元/首有階級是人世/之理法 宇宙菴」は大野寺近くの大黒天と同じ信条の宣言だが、人目につかない山中にあるためか残っているとのこと。そのうち訪ねてみましょう。と書きましたが、この望み、かなえました! これが榛原赤埴(あかばね)の磨崖仏の全景、大正11年9月に作られたもの。中心の観音像は高さ3メートル近くあるとのこと。大黒天、トンビ姿の自像、教義銘文と長慶おなじみの石像がすべて含まれる大作である。石工・新谷信正にとっても「畢生の大仕事」(安達書111頁)であった。本稿でも安達氏の著書を導きにしてレポートします。 赤埴仏隆寺の背後にある向山に磨崖仏が作られた経緯には新聞紙上にも大きく報道された一つの事件があった。長慶はこの土地を巡って山林詐欺にかかったのである。山師の一味が「二千円そこそこの価値しかない山林を、他人の山林も所有地と騙って一万三千五百円を騙し取った」詐欺事件だった。「しかし災難の事後処理が実にさわやかである。検察は詐欺罪で起訴し、犯人は法廷で判決を受けたが、被害者長慶は告訴を取り下げ、山師を追求するよりも、この厄年の災難とどう向き合うか考えた。そしてふりかかった還暦の厄除けに十一面観世音を同十一年、詐欺にかかった赤埴向山の岩壁に彫ることにしたのである。」(88/90頁) 近隣の住民も大変感銘を受け、毎年磨崖仏の祭祀の日が決められ、祭りの日には踊りに合わせて次の謡が唄われたとのこと。作詞者は廣船寺住職の日高大信師と見られている。(90/92頁) 女人高野の室生山 大師参詣の道すがら近くで見ると、さすがに「長慶石造物の最高峰」(291頁)とされるだけあって、見事な彫に感心させられる。左から大黒天、厄除十一面観世音、天照皇太神宮(長慶は神宮廳から「御神号宣下」を受けていた)、長慶寿像、教義銘文が刻まれている。 下部に観音像を彫るに至った経緯が刻まれている。安達氏は「壁面の一部に読み辛い箇所があり、正確ではないが」(291頁)と断りながら訓読されている。「壬戌正に還暦、予初めて赤埴に来たりて有事遭災す。時六十一才厄年の災難と自から知るなり、観音滝に安置せり観音菩薩あり。余此の巌に遇し観音像を刻みて祭らんと欲するに、郷士長に藤村辰蔵ありて予の企劃に賛し寄進す。此の大巌の巌前に土地を開くことを許され、よって此の山に観音霊を刻す。長慶山厄除観世音並びに出雲太天を刻し、以て後人の誡めと為さんや。[中略]大正十一年壬戌秋九月宇宙菴𠮷村長慶刻誌」とあり、賛助功労者9名の氏名を刻んでいる。 最近とみに脚力の衰えを感じているので、この磨崖仏を訪ねるのは、ずいぶん苦労だろうと予想された。榛原大野の場合と異なって主要道から相当離れた山中にあり、公共交通を利用するとすれば近鉄電車で「榛原」、駅前から369号線(伊勢本街道)を走るバスを使って「高井」で下りるのだが、その奈良交通バス27番路線「曽爾村役場前」行は一日に3~4本しかなく、行き帰りの組み合わせを考えると難しいスケジュールになる。それにバス停から仏隆寺まで歩くとすると30分から40分かかりそう。ということでマイカーで行くしかないと決め、女房殿に同行を懇願した。ナヴィゲーター(介助者とも言う)無しでは車の運転、山野の徒渉に不安があったのである。 「千年桜」で知られた仏隆寺までは迷うことなくすんなりと到達した。駐車場に車を置き、林道を登ってゆく。案内板や標識の類は無く、目的地へはどう進めばいいのかよくわからない。たまたま寺近くに居合わせた地元の人に場所を尋ねて、紙に略地図を書いて貰い、教わった方向に歩く。この方々は親切で後ろから車で追いかけてきて、間違わないよう道を教えてくれた。さもなくば行きつけたかどうか。林道から折れ、急な崖を難儀して進みようやく辿り着いた。しっかり鑑賞して写真を撮り、再び足場の悪い中を這うように、そして藪を漕いで何とか林道まで下りたときは、よくぞ無事に生還したとほとんど放心状態だった。帰路の運転は女房殿に請うた。三拝九拝、感謝! * 磨崖仏を造ったときに、周辺の土地を長慶寺が買い足し登記を済ませた上で一帯を「長慶山」と命名した。現在この山林は別人の所有となって「向山」の地名で呼ばれている。(92頁) |