TOP > Variété oder Fundgrube? > notiz-ndx.html > Notizen-16

メモ帳 -- 抄録、覚え (その16)


雨さへ沙に沁みて

森鴎外に次の歌がある。

  とこしへに奈良は汚さんものぞ無き雨さへ沙に沁みて消ゆれば

「奈良五十首」のなかの一首である。鴎外は陸軍省を退いて二年ばかり過ぎた1918年(大正7年)12月、帝室博物館総長兼図書頭に就任した。博物館総長としての職務の一つに正倉院宝庫の開封に立ち会う役割があり、翌年から4年間の毎秋、奈良に1か月ほど滞在した。その間に詠まれた歌を集めたのが「奈良五十首」である。

ということで上で歌われているのは秋の雨なのだが、奈良に住む身にとって雨と言えばやはり梅雨の時期、その季節にこそ相応しいと思ってしまう歌だ。鴎外は秋の奈良滞在中、雨の日は宝物の虫干しがないので、近辺の史跡や寺社を精力的に訪ね歩いた。まるで雨の日を待ちわびた様であった。さて、永遠に奈良を汚すものはない、降った雨でさえすぐに地面に沁みこむ、というのだが、そうなのだろうか。平山城児『鷗外「奈良五十首」を読む』には次のようにある。
奈良盆地一帯の道は、実際に歩いてみるとよくわかるが、赤っぽい粘土に花崗岩の砕けた白く光る大きな粒が混じった土で、表面がざらざらしていて水はけがよい。東京近辺の土のように、雨になると一瞬に泥土と化すような道ではない。鴎外のこの歌は、そうした奈良の土の性質をまずとらえている。
奈良の博物館事務室で、山田孝雄と正宗敦夫を前にして、鴎外は次のように語っている。
「奈良地方は雨が降っても砂地だから道が泥海とならぬので気持ちが好い。雨の日は休みだから近辺の古跡を傘をさしてぼつぼつ見物するが、奈良の一ヶ月は誠に僕に取っての好い休養日だ」(正宗敦夫「高湛先生と私」(下)、『鷗外全集』月報40、昭29・10)
私たち奈良の住民も普段歩くのは舗装された道か、公園なら遊歩道か芝だから、ぬかるみに悩まされることはない。「降った雨がすぐに地面に沁みこむ」かどうかはともかく、「雨になると一瞬に泥土と化すような道」を経験したことはない。奈良盆地の土壌については近畿農政局のサイト(*)に以下のような説明がある。「地殻変動で現在の盆地が形成される前、今から300~100万年前まで、この地は湖だったといわれています。その頃、周りの山々から湖へと流れ込む河川によって、山の土砂が下流へと運ばれ、湖の底に堆積していきました。その後、火山活動や大規模な地殻変動によって、湖だったときに堆積した洪積層が地表に現れ、奈良盆地の原型となりました。その後、盆地中央部には、まわりの山々から流れ込んだ土砂によって、5mほどの沖積層が形成され、現在の奈良盆地の姿となりました。」それと「東京近辺の土」とどのように異なるのか、いつかじっくり比べてみたい。


奈良滞在中の鴎外は博物館官舎に住んだ。この建物はすでに取り壊され、それだけ残された門が「鷗外の門」としてひっそりと佇んでいる。

奈良に来た鴎外は市内地図を購入し、それに数か所の書入れをしている。平山城児氏の本にも挿絵として掲載(31, 138ページ)されているが、博物館敷地の北東隅に「博物館官舎」と記入されているところが鴎外の宿、いま「鷗外の門」が残されている場所だ。県庁東側、知事官舎の向かい側に「博物館長宅」とあるのは滞在中の宿所ではない。当時はまだ東京と京都・奈良は別の帝国博物館で、ここは奈良の館長の官舎。鴎外の日記を見ると、大正7年11月3日の「寧都訪古録」に「朝發東京。…抵京都下車。即日既暮矣。再上車。過伏見、桃山、達奈良。久保田鼎等在驛站迎接。卸行李於博物館官舎。…」とある。門脇に設置されている石碑の銘板にも「…大正七年から十年まで、秋になると、鴎外は正倉院宝庫の開封に立ち合うため奈良を訪れ、滞在中の宿舎は奈良国立博物館の東北隅、この場所にありました…」と記されている。石碑に彫られている歌は、これも「奈良五十首」のなかの一首である。

  猿の来し官舎の裏の大杉は折れて迹なし常なき世なり

鴎外の所持していた地図は「東京大学・鴎外文庫書入本画像データベース」によると大阪の和樂路屋の1918年刊行のもの(**)とのこと。その一部を下に転載させていただく。たまたま同じ和樂路屋の昭和28年版奈良観光地図 (53x38cm )が手元にあるので、同じ地域をスキャンして鴎外の地図の下に並べてみる。こちらは東を上にして印刷されているが、赤い丸の認印のような名所旧跡のマークは引き継がれている。余談ながら、この地図専門の出版社はすでに破産して消滅したが、大阪市西区新町通三、少年時代の私の住所のごく近所にあった。


「東京大学・鴎外文庫書入本画像データベース」から


「最新・奈良観光地図 (和樂路屋 昭和28年版)」から

鴎外が書き入れた「博物館事務所」「博物館官舎」のあたりは、昭和28年版では四角く囲われて「博物館事務所」の名称があり、その南に接する建物は「文化財研究所」の赤丸マークがついている。なお、奈良県立情報図書館「まほろばライブラリー検索」で調べると「實地踏測 奈良市街全図」があって、鴎外の所持していた大正7年版とほぼ同じものと思われる。地図裏面の写真入り市内名所案内も見ることができる。説明文には「日下伊兵衛が著作・印刷・発行した奈良市街図。発行元は和楽路屋で、販売所は奈良の筒井錦華堂。当館には大正5年(1916)と同6年発行の2部所蔵 云々」とある。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * *

「奈良五十首」は岩波書店版「鷗外全集」第十九巻の523頁~526頁に収録されている。大正十一年一月一日発行の雑誌『明星』第一巻第三号に「M.R.」の署名で掲載、と註が施されている。奈良に着くまでの旅、奈良の宿所、あるいは奈良一般を歌っているはじめの8首のあと「正倉院」と詞書のある15首、「東大寺」が3首、「興福寺慈恩會」が6種、「元興寺址」が3首、「般若寺」「新薬師寺」「大安寺」がそれぞれ1首、「白毫寺」が12首である。

私は実は、平山城児『鷗外「奈良五十首」を読む』によって、森鴎外が正倉院宝庫の開封に立ち会うため4年間にわたり、毎秋奈良に滞在し、そして奈良を歌った歌集があるということを知らされたのである。そして迂闊なことにしばしば訪れる博物館の敷地に「鷗外の門」が在ることすら気づかなかった。この度あわててカメラをぶら下げ出かけた次第。

奈良滞在中の鴎外は、晴れの日には正倉院に詰めて、見物に来る客人を迎えるのだが、不愉快な見物人も混じっていたようだ。単に拝観の資格があるからとやってくる第一次大戦後の大正の成金たちには、敬意も払わず御物を見る者もあり、

  み倉守るわが目の前をまじり行く心ある人心なき人

と、その礼儀を知らぬ態度に憤りを覚え、倉を開かない雨の日には、

  晴るる日はみ倉守るわれ傘さして巡りてぞ見る雨の寺寺

となる。平山城児氏はこの歌について「雨の降らない日の鴎外は、役目柄、いやでも終日正倉院事務所にいて、多くの客との応対をしなければならなかった。ところが、雨が降ると、その日の仕事は休みになるので、鴎外は嬉々として雨の中奈良見物に出かけてゆく。」(70/71ページ)と書いている。

しかしながら奈良の町を歩いても、崩壊しつつある土塀や崩れかけの建物、かつての大伽藍大安寺のみすぼらしい現状、衰退し見る影もなく荒廃した元興寺塔址を目にし、また白毫寺の多宝塔が大阪の富豪に売り払われたことなど耳にして、やはり慨嘆に耐えないのである。冒頭に引用した「雨さへ沙に沁みて」の歌について、平山氏は言う。
(この歌の)主題はもちろん別にある。永遠に奈良を汚すものはないのだと、妙に肩ひじ怒らせた言い方で鴎外はむきになっている。なぜこのような歌をわざわざよまなければならなかったのであろうか。
鴎外としては、正倉院を含めて、過去の奈良の都の遺産を、なんとかして「とこしへに」伝えたいと切望している。だが、のちに詳しくふれるように、現実の奈良には、「三毒(***)におぼるる民等」の魔手が、次々と襲いかかりつつあった。そうした実情を痛感したからこそ、鴎外はこのような歌をよんだのである。いうまでもないが、「汚さんものぞ無き」というのは、現状をふまえた上での鴎外の悲願なのであって、事実ではない。(73/74ページ)
平山氏は五十首の、一首々々につき和歌としての措辞を万葉集から明星派までの歴史の中に位置づけ、そして鴎外の置かれた状況、当時の社会の雰囲気を指摘したうえで、鴎外の悲嘆・怒りが「奈良五十首」の基調であると述べる。

  いにしへの飛鳥の寺を富人の買はむ日までと薄領せり

「いにしへの飛鳥の寺」とは元興寺を指す。この歌について平山氏は、
「富人の買はむ日までと薄領せり」という、いかにもさり気ない表現の背後には、次のような公憤が潜んでいると考えなければならない。――誰か知らないが、金儲けをした奴がいて、近々ここを買うらしい。薄よ、ここが買われる日までは、お前の平和な時代だが、買われてしまってからはどうなるかわからない。寺が荒廃して薄なぞが生えているのは悲しいことだが、金持ちに買われるくらいなら、いっそ薄が生えている方がましではないか。(120ページ)
しかし中には、鴎外さん、それはちょっと違うのでは、とツッコミたくなる歌もある。この元興寺のケースもその一つだ。元興寺塔跡を訪れ、その荒廃しきった様子を見て、またそこを紡績関係の仕事をしていた人物が買おうとしているという話を耳にして呟いたというが、しかしこの塔は江戸時代末期に火災で焼失し、それ以来荒れ果てていたのを、水野圭真なる人物(下の [付記] 参照) が中年になって仏道修行をし、私財を擲って跡地を買い取り整備しようとしていたというから、ちょっと話は違う。

白毫寺でも、その多宝塔が大阪の藤田財閥に買われたことを鴎外は「癡人しれびとの買いていにける」と憤慨しているが、明治以降お寺そのものも荒廃し、塔は破損したまま修理もせずに放置されていたのを、美術に造詣深い藤田平太郎が、選りすぐりの建築技師・大工・職人を動員して宝塚の藤田家山荘の敷地内に移築修復したのである。頭ごなしに「癡人」と激しい言葉で非難するのはどうなのか。

しかし平山氏は「奈良五十首」の措辞・背景の解説、そして構成、つまり制作年代順でない五十首の配列を論じ、そして最後に「奈良五十首」の意味を論じる結論部分で、鴎外の成金嫌いを「あまりにも単純すぎる」ところがあると認めた上で、それでもこう断ずる。
「奈良五十首」を造らしめた鷗外の「志」は、一言でいえば、「憤り」であった。ここで私は、司馬遷の「報任安書」を思い出す。「詩三百篇、大抵賢聖発憤之所為作也。」という言葉である。鷗外は、大正初年の政治や社会のあり方に「憤リヲ発シテ」、「奈良五十首」をよんだのである。そして、心に欝結するところがあってもそれを通ずることができずに、そのため「往時」をのべて「来者」に思わしめるために、正倉院や光明皇后や穂井田忠友や北浦定政をよんだのである。その「憤り」はいささか単純すぎるようだが、それは三十一文字の宿命であろう。だからこそ、鷗外はばらばらな短歌を秩序正しく構成し、塊りマスとして世に問うたのであろう。(235/236ページ)
--平山城児『鷗外「奈良五十首」を読む』(中公文庫)
いずれにしてもこの書は「奈良五十首」に限らず鴎外の歌、また短歌史全般について教えられるところの多い名著だと思う。
* 近畿農政局のサイト「大和平野の自然 4.土壌」参照。
** 大阪 : 和樂路屋, 1918.6
地図1枚 (3図) : 多色刷 ; 55x40cm (折りたたみ20cm)
別書名: 実地踏測奈良市街全図
内容: 附近精圖 ; 近畿ニ於ケル奈良市之位置
注記: 著作印刷兼発行人: 日下伊兵衛 ; 内匡: 52x37cm ; 縮尺1:8000 ; 附近精圖(縮尺1:100000), 近畿ニ於ケル奈良市之位置(縮尺1:600000) ; 官衙學校及名所距程表を記載 ; 裏面: [奈良市案内]
*** 広辞苑によると「三毒」とは仏教用語で「善根を毒する三種の煩悩。貪欲・瞋恚・愚痴」のこと。「奈良五十首」にこの語が二度出現する。
  三毒におぼるる民等法の手に國をゆだねし王を笑ふや
  富むといひ貧しといふも三毒の上に立てたるけぢめならずや
[付記]
『鷗外「奈良五十首」を読む』の説明では、今はこじんまりとした小寺院になっている元興寺東塔址を訪ね、住職が不在だったので留守番の人に話を聞いたとして、「東塔址を買ったという人は、水野圭真という人で、かつては紡績関係の仕事をしていた人であった。中年頃になり諸方で修業し、ここの荒れていることを知り、東大寺から東塔址の管理を任された。だから、現在は東大寺の末寺になっている」(118ページ)とし、後日再訪して住職に逢えたが、水野圭真がこの寺を購入したいきさつは「依然として明確にならなかった」(120ページ)とある。
* * *
福井町にある隔夜寺は「空也上人が長谷寺とこの寺を隔夜宿した」ところからこの名が生まれたという伝承のある寺院だが、山田熊夫『奈良町風土記』によると「現在の堂は昭和十年元興寺住職水野圭真氏の再建」とある。ここにも華厳宗元興寺の住職水野圭真が登場する。[2017.09 追記]
* * *
「ジャーナリスト・ネット」のブログ、鄭容順「奈良おんな物語《29》」で志賀直哉旧居に勤務する宗京容子さんが取り上げられているが、この人は高勝山「金龍寺」生まれで、その父親の叔父がどうやら水野圭真らしい。「父親(池田圭中)は池田勝三郎とヒサの長男として生まれた。父親は高野山で修行して僧侶になる。叔父の奈良元興寺住職水野圭真(勝三郎の弟)は、奈良県山辺郡針ケ別所村大字馬場、現在の奈良市都祁馬場町にある高勝山金龍寺の荒廃を嘆き、復興を発願、現在の位置に本堂を新築した。その寺の住職を任された父はここで宗京容子さんの実母と結婚している」と。
* * *
このブログは貴重な情報を提供している:森勝三郎が大阪住吉の老舗醸造所「池田屋」に養子となって商店を経営していた。その長男池田圭中は高野山で修行して僧侶になった … 水野圭真は勝三郎の弟で元興寺住職だった … だが平山城児氏が疑問とする「東塔址を購入した」経緯はやはり不明だ。金龍寺を訪ねて調査すると、もう少し事情が明確になるかもしれない。



小塔院跡

前項で、森鴎外は1919年(大正8年)から4年間、秋の奈良に1か月ほど滞在し、帝室博物館総長兼図書頭として正倉院宝庫の開封に立ち会ったことを取り上げた。そして雨の日には宝物の虫干しがなく役目を免れ、嬉々として奈良見物に出かけたのだが、しかしながら奈良の町を歩いても、崩壊しつつある土塀や崩れかけの建物、かつての大伽藍大安寺のみすぼらしい現状、衰退し見る影もなく荒廃した元興寺塔址を目にし、また白毫寺の多宝塔が大阪の富豪に売り払われたことなど耳にして、やはり慨嘆に耐えないのである。

とにかく鴎外は当世の成金を嫌っていたので、元興寺塔跡を訪れ、その荒廃しきった様子を見て心を痛めても、そこを紡績関係の仕事をしていた人物が買うらしいという話を耳にすると憤懣やる方なく、こんな歌を作った。

  いにしへの飛鳥の寺を富人の買はむ日までと薄領せり

俄か金持ちに買われるくらいなら、現状の荒廃してススキぼうぼうの方がよろしいと言わんばかり。しかしこの塔は江戸時代末期に火災で焼失し、それ以来荒れ果てていたのを、ある人物が私財を擲って跡地を買い取り整備しようとしていたのだから、ちょっと話は違うのではと、ツッコミを入れておいた。

『鷗外「奈良五十首」を読む』の著者平山城児は元興寺東塔址を訪ねてその顛末を記されているが、先日私も訪ねてみた。焼失した五重大塔のことなどが記されたお寺のパンフレットの、その最後のページにある「配置図」がもとの元興寺の規模と残存3寺院の位置関係を知るのに便利なのでここにコピーさせていただく。 元興寺伽藍配置図

もとの元興寺がどれほど広大な寺域を持っていたのか一目でわかる。現在「ならまち」とよばれる界隈の大半を含むのである。平城宮で有数の大寺院、南都七大寺の一つとされ三論宗教学の拠点であった元興寺も平安遷都以降は東大寺や興福寺のように皇室・貴族の援助を得られなかったので、荒れた伽藍地には民家が侵食してゆき、また相次ぐ戦乱、一揆、大火、地震で荒廃して往時の威容は失われた。現在は小さな3寺院のみが残っている。

[6] 番の赤で囲って「現在の元興寺」とあるのが華厳宗元興寺、東大寺の末寺となっている。安政六(1859)年に観音堂と五重塔が焼失、塔の基壇のみが残っている哀れな姿に接して、鴎外が嘆いた場所である。

いま単に元興寺と言えば、この配置図では [10] 番の「僧房」のあった一画を指す。そこは残存3寺域のうちでは一番広く、西大寺末寺・真言律宗元興寺となっている。藤原時代の後期になって法隆寺の僧坊の一部が改造されて聖徳太子を祭る聖霊院がつくられたころ、この寺でも僧坊の一部を改造して智光曼荼羅を祭る極楽坊が成立した。折からの浄土信仰の興隆の波に乗って、極楽坊は極楽堂とも曼荼羅堂とも呼ばれて南都系浄土信仰の中心となっていった。

鎌倉期以降の中世を通じてこの寺は智光曼荼羅を中心とする浄土信仰のほかに地蔵信仰、聖徳太子信仰、弘法大師の真言信仰などが入り交じった混然とした状態で群衆を集め、近世にその伽藍と伝統を伝えた。大塔のような立派な外観を持ってはいなかったが独立寺院化した極楽院が、庶民と呼ばれる階層の人たちが中心となって信仰をつなぎとめていったのである。

極楽院は長らく元興寺の名を名乗っていなかったが、昭和30(1955)年になって、元興寺極楽坊の旧称に戻し、さらに昭和52 (1977) 年、元興寺と改称したのである。平成10 (1998) 年、世界遺産に登録された。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * *

今回私が興味を抱いて参拝したのは、もう一つの元興寺、鴎外は恐らく訪れていないと思われる「小塔院跡」の方だ。上の「伽藍配置図」の [8] 番のところ。過日訪れ、こちらが主要な入口かと思われる下の略図の西入口 [A] から入った。

小塔院跡_Map

小塔院跡

小塔院の由来が書かれた説明板が立っている。近くで読んで見よう。

小塔院跡

ここは元興寺(極楽坊)と同様、西大寺の末寺の真言律宗の寺院となって、なんとか命脈を保ってきているのだ。標識には「小塔院跡」とあるが西大寺のサイトで末寺一覧を見ると「小塔院」が含まれているので「跡」は失礼に当たらないかと懸念を抱くものの、さて、中に入るといきなり一台の廃車が目に飛び込んでくる。こいつはマニア垂涎の高級廃車ではないか。以下に見るように、ここの敷地全体が廃墟のような有様で、これなら「跡」もやむを得ない? … ここを住処とするらしい猫が2匹いた。

小塔院跡

小塔院跡

小塔院跡
小塔院本堂(虚空蔵堂)(*)の全景

小塔院跡
私が訪れた時には猫の一匹は縁側に

小塔院跡

小塔院跡

小塔院跡

生い茂る雑草をかき分け [C] で外へ抜け出ると「奈良町豆腐庵こんどう」の横である。その南の通りを歩くと、[B] の箇所に絵馬のかかったお堂(**)があって、ここも「史跡 元興寺小塔院跡」とある。

小塔院跡

小塔院跡
二つの絵馬のうち、右の方はかろうじて絵柄(***)が見える。

小塔院跡
格子の破れ目から中を写す。

この堂もそして小塔院跡も今後どうなることか。世界遺産のすぐ傍で、同じ元興寺ながら、こんな有様なのだ。さてどうだろう。鴎外だったら、成金に買われるよりこの草葎のままでいいと、やはり言うだろうか。
* 日本の塔婆 より借用。このサイトは五重塔、三重塔など数多くの塔・塔跡の訪問記で、紹介されている豊富な写真、また丹念に収集された資料には圧倒されます。
** 平安時代以降南都にも多く作られた、宗派を超越した庶民信仰の地蔵堂のひとつだろうか。江戸時代の奈良の地誌『奈良曝』(1687年) にもいくつかの地蔵堂が列挙されていて、「地蔵堂 西の新屋町有、町中の守り佛也」とあるのが、ひょっとしてこれかも知れない。『元興寺編年史料〈下巻〉』(167頁)参照
*** 承和元(834)年に小塔院で入滅した法相宗の僧、護命(ごみょう)僧正? 『元興寺編年史料〈下巻〉』によると「法論味醤といふあり、護命僧正の製作也、故に人みな護命味噌ともいひ、又此処飛鳥川のほとりなれば又の名飛鳥味噌ともいう」という逸話が『奈良地誌』や『大和名所圖會』に紹介されているようだ。
小塔院 SHOTOIN というサイトがある。様々な資料の中に、かつて拝観者に配られたものか、先住河村景雲・現住河村俊英両師による『元興寺小塔院縁起』というPDFファイルが収められていて護命味噌の話題も出る。また先住河村景雲師の夫人河村みゆき氏について書かれた文章もある。みゆき氏は女流俳人で山頭火と交流があったようだ。
[付記]
西新屋町には「身代り申」で有名な「庚申堂」がある。庚申信仰はもともと道教に由来する習俗で、奈良末期に日本に伝来され、日本固有の信仰と交じり合い江戸時代に民間信仰として庶民に広まったとされる。堂正面左に「奈良町庚申」さんの由来、という説明板が貼られているが、
庚申縁起によれば、文武天皇の御代(700年)に疫病が流行し、人々が苦しんでいたとき、元興寺の高僧護命僧正が佛様にその加護を祈っていると、一月七日に至り、青面金剛が現われ、「汝の至誠に感じ悪病を払ってやる」と言って消え去ったあと、間もなく悪病がおさまった。
庚申堂 と、ここにも護命僧正が登場する。青面金剛を本尊とするが木造吉祥天立像と地蔵菩薩も祀られているので、『奈良曝』の「地蔵堂」はこちらかと思ったが、同じ『奈良曝』に「吉祥堂町 高御門町ゟ西の新や町へゆく道、にしひかしの町、いにしへ吉祥天女をまつりし跡、吉祥天女の堂あり」とある。こちらが庚申堂だろうか。大江親通『七大寺日記』(1106年)に「吉祥堂は金堂の坤角にあり」と見え、元興寺金堂の南西と言えば小塔院のあるところ。山田熊夫『奈良町風土記』の「西新屋町」の説明に「この町は一名吉祥堂町とも鍛冶町ともいわれている。吉祥天をまつる吉祥堂があったためで、鍛冶町も数軒の鍛冶屋があったところから里人たちはそう呼んでいたという」とある。小塔院と吉祥堂の関係は焼けたり再建したり移築したりで複雑。なお調査が必要。



西新屋町

小塔院跡のある西新屋町(にしのしんやちょう)について少し調べてみた。まずは江戸時代に奈良の「四民居所」について、すなわち町民の住む市街地について詳しく書き残した村井古道の『奈良坊目拙解』を見る。

村井古道(むらいこどう 1681-1749)は東城戸町(ひがしじょうどちょう)に生まれ奈良で生涯を送った医師であり、傍ら文人・俳人でもあった。平城京について「南都名勝記の類は少なからず上梓されたけれども、只神社の濫觴古跡名産の由来を説くのみで民家四民居所の町名を記していない」[喜多野徳俊 訳、(綜芸舎 1977年)による。以下『奈良坊目拙解』はこの訳を用いる]とこの本の自序にある。「そこで私は壮年の頃から志して、家々の旧史記録を求め国史縁起を調べ、或いはその町の俗諺、古老の伝説等を尋ねて、漸く十中七八分まで得るのに三十年をかけた」という。「誠に浅才愚蒙の私記」だと謙遜しているが、なかなか大変な労作である。

「坊目」とは? 平城京は《条坊制》による計画都市で、一条から九条まで東西に敷かれる大路が《条》、朱雀大路を挟んで左京に四路、右京に四路の南北に走る大路が《坊》で、その大路で囲まれる四町四方からなる区域も《坊》と呼ばれる。「目」は項目とか品目とか細目というときの目だろう。
昔の長さの単位は唐尺による大尺・小尺と、高麗尺を大尺とし唐尺による大尺を小尺とするものや、土木・建築とそれ以外の分野で異なる尺をもちいたり、時代と地域によって変化したりで複雑極まりないが、平城京の東西南北に走る大路は1500尺間隔で造られたので、一坊は一辺が533メートルの正方形ということになる。その中を南北4列、東西4行の十六坪に分け、坊内は坊間路、条闇路により2分割、坊間小路、条間小路によってさらに分割されていた(*)
平城京左京の傾斜地に外京(げきょう)が設けられている。そこに東大寺、興福寺、元興寺、さらに東に春日大社がつくられ、その周辺に町が形成された。飛鳥の法興寺は養老2年(718年)平城京へ移転して元興寺と称するようになったが、寺域は「左京の四・五条の七坊に当り、北は興福寺の南辺に接し、東南に紀寺、西南に葛木寺があり、この間南北四町、東西二町にわたっていた。」『元興寺編年史料〈下巻〉』(以下『編年史料下』と略す)(484頁) 移転時の元興寺の位置を示す略図を下に掲げる。
平城京
(ウィキペディア「平城京」の図をもとに作図)

この平城京も長岡京遷都により70余年で終わる。都は荒野となり水田となるが、社寺は残り、とくに東大寺、興福寺、春日大社などは皇室や貴族の保護を受け、平安遷都のあとむしろ盛んになる。「南都」が成立するのである。

永島福太郎『奈良』によると、奈良の町は社寺の郷で、郷とは「社寺の周辺に発達した街地を郷という。社地・寺地は清浄の結界である。その界外(戒外・垣外)は里と称せられたが、その里(街地)に郷の文字が宛てられたのである。いわゆる門前郷のことである」と言って、急いで「門前郷はいわゆる門前町のことではない。この門前の郷は社寺が社人・寺人の住居したことにより社地・寺地の延長として境内に囲い込んだものである」(159頁)と付け加えている。

同書から引用を続けると、
治承の平家の南都焼討(一一八〇)は東大寺および興福寺を焼掠したが、諸郷に散在した諸院・諸坊をも焼き払い、僧徒の一掃をはかったものだから、在家もほとんど罹災したらしい。新薬師寺辺や元興寺の南に小屋がのこった程度だといわれるから、ようやく発生をみた郷も、その発達が頓挫してしまったといえよう。(164頁)
興福寺郷を中心に東大寺郷や元興寺郷が地を接するにいたったが、各寺領郷にはそれぞれ小地域集団の郷が成立した。それぞれ地名を郷名とした。各寺院領主はこれを支配単位としたのである。(165頁)
--永島福太郎『奈良』(吉川弘文館、昭和38年)
しかしながら平安中期に至ると南都は変貌を遂げ始める。ことに南都七大寺のひとつ元興寺は「十世紀ごろからは急激に衰運をたどり始めた」『編年史料下』(513頁)という。堂舎の瓦が損失し、壁は落ち、扉板が破損し、雨漏りがひどいという有様。ただ極楽坊のみは庶民の信仰を集めて南都系浄土信仰の中心となり、元興寺から独立した寺院になっていた。そこへ宝徳三年(1451)の元興寺炎上という致命的な打撃が襲った。
この年十月十四日、土一揆がおこってそのために小塔院から出火し、金堂以下主要堂宇などが殆ど炎上し、さらに禅定院にまで延焼してここに置かれていた智光曼荼羅の原本までついに灰燼に帰した。[中略]
かつて中門観音堂を東金堂、吉祥堂を西金堂などと呼び、大寺の面影をなして残存していた元興寺も、いまやその中心はなく、焼け残った五重塔と観音堂の一角と、どうにか民衆との接触があったために復興への努力を続ける小塔院吉祥堂とが、全くばらばらの存在となり終り、元興寺の解体もくる所まで来たとの観を呈するのである。
--『編年史料下』(557/559頁)
近世には荒廃した元興寺域に民家がたち、また聖光寺、稱念寺、法界寺、興善寺、光傳寺など他宗派の諸寺がたてられた。『編年史料下』(7頁)

永島福太郎『奈良』は光明院実暁『習見聴諺集』の記述を基に元興寺郷の小地域集団として以下の郷名を挙げている。中世に郷と呼ばれた都市域は、近世に入ると町と呼ばれるようになった(**)
東鳴川、蔵下、高御門、東寺林、西寺林、辰巳辻子、無縁堂、南室、北室、小南院、中院、極楽、坊辻子、今御門。(永島『奈良』172頁)
同じ区域かどうか不明ながら、高御門、東寺林、西寺林、辰巳辻子、小南院(勝南院?)、今御門など現在に残る町名もある。もとの元興寺伽藍の北側は現在東寺林町、池之町、南市町、今御門町、西寺林町、勝南院町、下御門町、北室町という町名になっている。ほぼ中央に位置する極楽坊は中院町にあり、塔跡は芝新屋町、そして小塔院は西新屋町に位置する。

同書は富裕郷民の出現、郷民の町人化、領主からの自立の動きを辿って、郷民による祭礼の発展に触れ、氷室社・漢国社・率川社(子守社)・元興寺御霊社などを挙げ、「とくに大乗院門跡の鎮守天満社小五月会」に注目し、大乗院尋尊写の『小五月郷絵図』は奈良街区を描く最古の地図であると紹介している(永島『奈良』210頁)。この図(***)にも見られるが、こうして郷(町)を守護する吉祥堂、薬師堂、毘沙門堂、地蔵堂などの堂と町運営のための集会所が各町に作られてゆくのである。堂が集会所を兼ねる場合も少なくなかったようだ。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * *

『奈良坊目拙解』とは《坊》を単位に形作られ、《門前郷》として成立した奈良の各町の個別地誌といえる。橋本町から京終町まで15の町を取り上げた「拙解第一目録」から「拙解第十五目録」まで200を超える町を解説している。問題の西新屋町についてはこう記している。
西ノ新屋町
南北の町家を西ノ新屋と曰い、東西の町を吉祥堂町と曰う。共に一郷である。
当町は中新屋芝新屋が東方にあるので西新屋と謂った。新屋は新在家新町と云うように、元来は元興寺小塔院の廃地で後に町家となったので新屋と曰うのである。
宝徳三辛未年十月廿日、馬借のため、元興寺金堂小塔院極楽坊その他の諸堂が炎上して当地荒廃地となり、其の後亦天文元年秋親鸞派の土一揆大乱で、遺跡や残りの堂宇が全部兵火にかかり、いよいよ空地となった。(『坊目拙解』19頁)
「元来は元興寺小塔院の廃地で後に町家となった」ということで、初めはなかった町、そして町名である。新屋町と名の付く町名は現在3町ある。西新屋町と中新屋町と芝新屋町である。ほかに芝突抜町という小さな町があるが、『奈良坊目拙解』によると「当町は芝新屋突抜の略語で、先年は東方の鵲町に通らず、後新たに街路を開いたので突抜町と云う。亦その先は弥勒が辻子と謂った。昔弥勒堂があったのか詳らかでない」『坊目拙解』(56頁)とあるので、これも新屋町に加えておく。そして4町の現在の町割を作図した略図を下に示す。元来の寺域の南半分くらいに当たる地域である。


極楽坊がある中院町は、もと元興寺の中院があったことから付いた町名。宝徳三年の土一揆による火災で金堂など焼失、「其の後、廃地となって民屋が立った」『坊目拙解』(50頁)とあるが、極楽坊が大衆の信仰を集めていたので、いくつかの伽藍が再建されて、かなりの寺域を維持することができたようだ。

上に引用した西ノ新屋町の項目の中に寺社として吉祥堂、小塔院、飛鳥神並神社一座についての記述があるので、これを検討することにしよう。
吉祥堂 北側西門ぎわに在って吉祥天女の像を安置している。当町の会所である。
吉祥堂は小塔院境内で旧名は服部堂と号す。
諸堂雑記に、吉祥堂 五門四面 光明皇后の御願と云う。
この堂は始め服部氏の寺で、服部寺、服部堂(****)と号した。
霊異記に窮女王が吉祥天女像に帰依して報縁を得たと云う・・・
元興寺古地図をみると、当吉祥堂は小塔院内の北高御門の南方のこれである。
小塔院 西側にあって、南西は鳴川町に通じている。昔の元興寺の別院で・・・
諸寺雑記に、光明皇后の御願で八万四千基の小塔を安置したので小塔院と号すと。
里諺は、無垢浄多羅尼の小塔を納め奉るに困って小塔院と号すと云うが、この伝説は不可で、元興寺大塔に対して小塔院と名づけた。
小塔院 宝徳三年十月廿日火災以後遂に片田舎となり、漸く小庵が一宇あっただけで、近世に再興されて虚空蔵堂愛染堂を建立し西大寺の末寺となった。又弁財天小詞を建てて鎮守とした。亦近年裏門を白山辻子(鳴川領内)に開いて当新屋町に通したので、廃亡の旧跡は日を逐うて再興された。
飛鳥神並神社一座 当町東側南端人家の奥に在り。祭所は事代主命で大己貴命の御子である。
当座は元興寺伽藍鎮守神社で、昔高市郡の飛鳥法興寺より遷座した。近世率川明神と号すが良くない説で、飛鳥川は率川と和語が似ているので謬って伝えたので正さなければならない。
地蔵堂一宇、西側中程、町会所裏にあるが、本尊の来由は未だ明らかでない。
--村井古道『奈良坊目拙解』 喜多野徳俊・訳注(綜芸舎 1977)
吉祥堂の位置だが、村井古道の時代には「北側西門ぎわ」存在していたらしいが、正確にはどの位置だろう。また「元興寺古地図をみると、小塔院内の北高御門の南方」とあるのは「元興寺東塔址」パンフレットにあった18番のことだろうか。いくつかの古地図をあたっても堂宇の位置を正確に示しているとは言えず、吉祥堂の場所を特定することはできないのだ。

『編年史料下』に各種地誌・名所記などからの抜書きがあって、中に『奈良名所八重櫻』(延宝3年、1675年刊)からの引用がある。
吉祥堂
是はいにしへ元興寺鎮守のため毘沙門天の御妹吉祥天女を祝ひ、中比まで堂有しゆへ町の名とせり、今は堂も絶はて中むかしのあくまて大石有、毎年元興寺のうちなる観音堂におひて吉祥天のまつり事をなすという、
さてこの吉祥堂より南へゆく西の新屋といふ町のにしかは南よりは小塔院といふ有、本は元興寺の一院にして聖徳太子の作らせたまふ御長一尺あまりの愛染明王おはします、・・・
扨又御霊宮と号し此近所に有は、いにしへ元興寺のちんじゅのために吉備右大臣實保卿を祝ひしと也、日本八所御霊第一といへり 『編年史料下』(140/142頁)
同じく『奈良曝』(貞享四年、1687年)の抜書きがあり、
西ノ新屋町 高御門町の南辻を少東へゆきてそれゟ南へ入町なり、町役は吉祥堂町と一ツに合て三十九軒、此町に鍛冶屋おほし、元興寺の西の新屋敷といはんなるべし、
吉祥堂町 高御門町ゟ西の新や町へゆく道、にしひかしの町、いにしへ元興寺の吉祥天女をまつりし跡、吉祥天女の堂あり、『編年史料下』(158頁)
前項で示した地図を下に再掲する。「史跡 元興寺小塔院跡」の南端、[B] の箇所の堂はもともと何であったのか、これが「元興寺の吉祥天女をまつりし跡」だったのか、昔の吉祥堂はどうなったのか、「北側西門ぎわ」とは現在「奈良町資料館」のある辺りなのか。

小塔院跡_Map
「元興寺小塔院跡」近辺略図(再掲)

「奈良町資料館」には「吉祥堂」の扁額が掛かっている。資料館のサイトには次のような説明がある。「『日本霊異記』第十四巻「貧しき女王」の中に奈良の左京の服部堂にまつられていた福徳の女神、吉祥天女のことが記されています。この服部堂とは、かつて西新屋町にあり消失してしまった元興寺の吉祥堂のことで、現在奈良町資料館内に再建され、新たに平成の吉祥天女像をまつっています」と。怪しい説明だが、すなわちここはかつての吉祥堂を元の場所に復元したのではなく、新築した堂に新作の天女像を祀ったということであろう。

今回「史跡 元興寺小塔院跡」の南端の堂はもともと何であったのか、「元興寺の吉祥天女をまつりし跡」だったのその位置を確かめようと始めた作業だが、どうみても「吉祥堂」ではないようだ。しかしながら、先ほど挙げた『小五月郷絵図』のほか残された往昔の元興寺の伽藍図や周辺の古地図に拠っても、吉祥堂の位置を絞り切れず、「庚申堂」との関連も明らかでない。この堂はいつから現地にあるのか? 依然、調査は道半ばである。
* 坊内は二行八門制の地割だが、奈良末期には四行八門がも現れてきた。佐藤亜聖『平城京の条坊制-その実態と展開』 では具体的な調査発掘による報告がなされている。
** 『奈良坊目拙解』でも「享禄二年奈良七郷記」として『習見聴諺集』を何か所かで引用している。享禄二年は1529年に当たる。
「奈良において、中世にて郷と呼ばれた都市域は、近世に入ると町と呼ばれた」(土本俊和『中世奈良における「郷」の形態』 [日本建築学会計画系論文集 第495号、1997年])
*** 上記『中世奈良における「郷」の形態』にこの図が紹介されている。
**** 日本霊異記中巻第十四に、「聖武天皇の世に(一人の貧しい女王が)前世からの貧乏の報いを大いに恥じて、奈良左京の服部堂に行き、吉祥天女の像に向かって…」云々という、信仰が報われる話がある。(東洋文庫版 100頁)