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メモ帳 -- 抄録、覚え (その17)


クラブ財

「ちくま」No.564(2018.3月号)の上野千鶴子<情報生産者になる 最終回>にクラブ財という耳慣れない言葉が出てきた。
財には私有財とクラブ財、公共財があります。知財も同じです。財は通常、移転や分割をすれば元の財が減りますが、知財だけはそうなりません。いくらでも複製が可能で、複製しても元の価値は減ぜず、しかも共有の範囲が広ければ広いほど価値が上がる場合もあります。
私有財と公共財の中間にクラブ財というものがあります、限られた範囲の人々にだけアクセス権のある共有財のことです。書物はいわば、代金という会費を払った人だけがアクセスできる会員制のクラブ財と考えることができます。ですから著作権者や出版社が、新刊が図書館に出回るのに不快感を持つのも無理はありません。図書館で新刊を借りる人が会費を払わないでクラブ財にアクセスするフリーライダーに見えるからです。

はじめこれは上野氏の造語かと思ったら、歴とした経済学のタームなのですね。うかつなことでした。ウィキペディアで「公共財」の項目を見るとこのようなマトリクスが載っています。英語版ウィキペディアにもドイツ語版にも同様の図が掲載されています。


排除性をもち非競合性のものがクラブ財 club goods, Klubgut になる。注目させられるのは「図書館」である。英語版ウィキペディアでは cinemas, private parks, satellite television が club goods の分類に例示されていて、図書館 libraries は含まれていない。図書館、美術館などは微妙な位置づけになっているようだ。英語版の解説にはこうある:
法の執行、街路、図書館、美術館、教育は誤って公共財に分類されるのが通例だが、それらは専門の経済用語では疑似公共財である。なぜなら排除の可能性はあるが、なおいくらか公共財の性格に適合するからだ。
Law enforcement, streets, libraries, museums, and education are commonly misclassified as public goods, but they are technically classified in economic terms as quasi-public goods because excludability is possible, but they do still fit some of the characteristics of public goods.
ドイツ語版でも、フィットネスクラブ、ゴルフクラブ、Pay-TV(衛星放送に相当するのだろう)がクラブ財の例に挙げられていて、図書館はない。日本版は扱いが異なるのはどうしてだろう。

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そこで思わず考えさせられたのは、このサイトにおける私の書き物についてである。主にドイツ語の本を読んでの覚書、まあ読書ノートみたいなもので、まったく私的な営みとして始めたものだが、ネット上に公開しているからには「非排除性」、すなわち「対価を支払わずに消費できる財」で、かつ「非競合性」、すなわち「利用者による消費が増えても財の便益が減じることはない」ので、これは公共財なのだろうか。そもそも「財」でありうるかどうかが問題だが。

そう遠くなく後期高齢者の仲間入りする身にとって、私も御多聞にもれず断捨離や終活ということを考えて実行し始めている。すでに多くのモノを処分したし、文書やら書信やらアルバムの写真など、遺していけば家族が扱いに困るようなものを整理してどんどん捨てている。難しいのはパソコン内のデータはともかく、オンライン・ストレージなどネット上のデータの処理である。WEBサイトはどうするか、すぐにすべて破棄してもいいのだが、1、2年後にプロヴァイダーに連絡してサイトを閉じるように、家族に頼んでおくか、まだ決められないでいる。

最近《デジタル時代の終活》というような話題を目にしたり耳にしたりすることが多くなった。「デジタル遺品」という言葉が生まれているようだ。遺品整理の中に故人のパソコンやスマートフォンの扱いが問題になる。手元の機器内のデータだけでなく、使わなくなったサービスの解約のこと、プロバイダーとの契約や有料サービスの解約、ネット上のデータ消去など、悩ましい問題が生じる。それを見越して様々なビジネスも生まれているようだ。

ヤフーでは2014年に「家族葬などオーダーメイドの葬儀の紹介および永代供養墓、納骨堂、樹木葬をはじめ、日本全国6800件以上の霊園・墓地から、希望に合った墓を探すことができる」終活支援サービスを5つのカテゴリーで提供した。その中の『生前準備』で「自分が死亡した際に最大200名に向けて送付されるメッセージを、あらかじめ個別に作成しておける機能や、登録しておいた友人・知人などに共通のお別れメッセージを表示し、訪問者による追悼メッセージを残すこともできるメモリアルスペースの装備など」(*)がある。

グーグルでは「アカウント無効化管理ツール」のサービスを提供している。「ユーザーが一定の期間自分のアカウントを利用していない状態が続いた場合に、そのアカウント データの一部を公開したり、他のユーザーに通知したりするための手段」である。「信頼できる連絡先にデータを公開することを選んだ場合は、公開対象のデータの一覧と、それらのデータをダウンロードするためのリンク」が知らされるので、処理をその人にゆだねることになる。

「秘密のファイルは抹消を前提で管理しなければ、家族に見られたら死んでも死にきれませんよね」とか「自分の死後、家族にスマホの中身を見られたら…と思うと死んでも死にきれない人は多いだろう」と、このサービスを宣伝しているところもあるが、私には家族に見られて困るようなファイルは(残念ながら?)ない。パソコン・スマートフォンを開くパスワードや、すでに少しずつ解約を進めているがネット上のサービスにアクセスするパスワードなど、私もエンディングノートに「デジタル遺品」の項目も加えなければならない。すべてのデータを残すとしてもUSBメモリースティック1本に収まってしまうのだが。

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「書物はいわば、代金という会費を払った人だけがアクセスできる会員制のクラブ財」だと上野千鶴子氏は言う。きちんとした学術論文を想定しての話であろう。こちらは「知財」と呼ぶに値するかどうかはさておいて、このサイトにおける私の書き物を終活の一環として例えば、いくつかの項目を抜粋して1冊の書物にまとめるとすれば、それは「クラブ財」になるのだろうか。つまり経済学的な見地から見れば、やがてこの場で書き散らした原稿から「クラブ財」なるものを拵えるかどうか、という判断を迫られることになるのだろうか。そうなのかな ……
* 死亡確認には『火葬許可証』を使うとのこと。だが『生前準備』は2016年3月31日で終了。結局は葬儀や墓のネット販売に過ぎなくなったようだ。

奈良の犬狩

江戸中期の市井の郷土史家村井古道による『奈良坊目拙解』(1735年)を掘り出し、この労作を現代語訳してよみがえらせた喜多野徳俊氏は、奈良郷土史にまつわるエッセイ集も著している。その一冊『奈良閑話』(*)には40ほどの興味深いテーマの文章が並んでいるが、そこから「南都犬狩考」を紹介したい。

奈良公園では春になると小鹿が誕生する。これを天敵の犬から守るために「犬狩が中古から行われていたことは、古文書に散見される」という。いつから始まったかは不詳だがと断り、喜多野氏が目にした最も古いものは16世紀の文献、興福寺に残された「多聞院日記」(**)で、その後は「江戸時代享保の頃、奈良町町代の和田藤右衛門文書が、藤田祥光氏によって「近世以降の春日神鹿」の中に紹介され」ているが、その和田文書に犬狩の記述がある、とのこと。

郷土史家藤田祥光(1877-1950)が収集した文献資料を収める「藤田文庫」が奈良県立図書情報館に設けられている。「奈良町町代の和田藤右衛門文書」とは、同文庫にリストのある『町代和田藤右衛門諸事控 享保年間』のことかと思われる。手書きの冊子らしいので、現物に当たるのはちと勇気が要りそう、ここは喜多野氏の引用から孫引きさせてもらう。
それによると、
「犬狩の根源、僉譲すれども難知、奈良廻り神鹿横行するより、昔は犬を飼う事不成、犬あれば鹿を喰故なり。云云」
とあって、近世までは奈良町の出口七所え、犬堅く入るべからずと定めたが、興福寺の威勢が衰えるにつれて、次第に犬が横行したので、この犬狩りの儀式を取り立てたのであろうか。何年よりということはかつて知られないと思われる。また、同氏
[藤田氏]は奈良に二三残された「犬狩の図絵」を実見したが、いずれも徳川時代初期のものであると記されている。(喜多野 51-52頁)
では江戸時代、その犬狩はどのように行われたのか。
……和田藤右衛門文書を大体辿ってみると、毎年五月十日以後に、奈良町のつぎの八カ所に犬を集めて、犬が走れないように足の筋(アキレス腱?)を裁ったのであった。
一、一﨟代方へ下﨟分の出家衆寄合、二、興福寺の東室、三、東大寺新禅院、四、東大寺知足院、五、手掻大門、六、称名寺、七、角振会所、八、元興寺 これが犬を集めて行事を行う場所である。そして行事を務めるのは、興福寺の一﨟代ならびに下﨟分の出家で、年により二十人をくり出した。(喜多野 52頁)
その日、その八カ所から、各地域で集めた犬を連れに行く。
犬狩の日、犬をつれに行く所としては、般若寺村、奈良坂、博奕谷、興善院、不退寺と奈良廻り八カ村、すなわち、城戸、油阪、杉ケ町、芝辻、法蓮、川上、野田、京終の各村と大安寺村、八条村、西九条村、法華寺村、東九条村、白毫寺村、杏村、古市村と広い範囲にわたっていた。この村々へ同心者や、仕丁が往って犬を前記八カ所に集めたのであるが、もし犬がいなければ、犬無しとの一札を取ってくるとのことであった。
ところが寛文の頃から天和にかけて、奈良奉行を勤めた溝口豊前守は、着任の翌年の寛文十一年に、古法であるからと云って、犬の足の筋を切るのは誠に不憫であるとして、ただ裁るまねばかりして犬を追放したのであった。(喜多野 53頁)
この犬狩も、時が経つにつれ、様子が変わってきたようだと、『奈良坊目拙解』の記述をもとに喜多野氏は指摘する。
……行事の場所となった寺では、かなり迷惑もあったと見え、「奈良坊目拙解」の称名寺の項に、「毎歳五月犬狩役人等が当寺に来て飲食した。そこで元禄年間、当住長老海空が、興福寺の寺務の許へ訴え、寺内での犬狩の雑人の葷酒を禁じ、これを将来も恒例とした」とある。
また同じく「奈良坊目拙解」の角振町の項に「ある家の小児が戯れに狗の吠える声を出した処、衆僧がすわこの家に犬を飼っていると責めたて、遂にこの家の主から詫をとり、硯料紙二折を当町から出させたが、以後このことがこの町での慣わしとなったと、そして、惣犬狩巡行の日、道路、休息所等で非常のことがあるとすぐ恒例とする弊風があって、昔の奈良法師猛盛の遺風は嘆かわしい」としている。犬狩の小役人が町を威張りちらした様子がうかがえる。(喜多野 53-54頁)
犬狩はやがて終わる。いつから行われなくなったのであろうか。
……恐らく貞享四年(一六八七)将軍綱吉による生類憐みの令が発せられてからと思われる。そして宝永六年(一七〇九)に同令が廃止された後も、復活することなく消滅したものであろう。その後の奈良地誌には何の記載もなく、鍋屋町竹林家所蔵の衆徒日誌にも、幕末の名奉行川路聖謨が残したあの克明な「寧府紀事」にも、在任中に行った記載は何も見出すことができない。(喜多野 54頁)
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「南都犬狩考」の執筆に当たって喜多野氏が参考にされた藤田祥光「近世以降の春日神鹿」を見ることができた。それは『奈良叢記』(***)に収録されている20ページほどの文章である。奈良図書情報館報「うんてい」(復刊第七号 2015)によると、藤田の論考で活字になっているのはこれだけとのこと。春日大社の神鹿について、その信仰について、徳川時代以降の状態を23の項目にわたって記述したものだが、最初の2項で犬狩を扱っていて、「町代和田藤右衛門、享保年間文書」が引用されている。この和田文書の他に、分量は少ないが「大乗院日記」と「興福寺文書」も引用されている。

犬狩についてさらに広く記録を渉猟して史実を明らかにしているのは、その名も『奈良の鹿 「鹿の国」の初めての本』(****)なる書物の第5章、幡鎌一弘「神鹿の誕生から角切へ」である。 この論考はタイトルが示すように鹿の角切に焦点を合わせたものだが、関連して犬狩についても、行事実施の組織、人員、役割分担、経費などに踏み込んで詳しく記述されている。

平安時代、春日社と興福寺の神仏習合がすすみ、興福寺大衆が力を持つようになって、鹿を神聖視する見方も現れた。しかし「神鹿」という言い方は、幕府の誕生、武士の台頭以降の寺社の権益が損なわれてゆくなかで生まれた。「東大寺大仏殿の回廊内で、白昼、鹿が武家により殺害され、これを鎌倉幕府に訴えた」ときに「神鹿」という言葉が初めて使われたようだ。「自らの権威を神に仮託し、鹿もまた、神鹿として強調することが必要になってきた。春日社・興福寺の地位が確立していたからではなく、確立せずにゆらいでいたがゆえに」生まれた言葉だろうという。武家政権が確立するに至って、それまでの広範な権限のうち、神鹿と猿沢池の魚の扱いだけが、春日社と興福寺に残されたというのが実態なのだ。
やがて、神鹿殺害の対処法が、寺社内部で取り決められるようになる。弘安元(一二七八)年六月一日の春日社法では「神鹿を殺害したものは、興福寺僧の衆徒が取りさばくだけでなく社家も同じようにかかわること、捕まえた者には褒美を与えることが決められている(「中臣祐賢記」)。同時に社頭の犬を捕まえることも命じられているが、文永元(一二六四)年五月一七日には、鹿を食い殺した犬を捕まえたことがあった(「中臣祐賢記」)。興福寺の行事として行われる犬狩は、こうした取り決めに従ったものだろう。(幡鎌 108頁)
興福寺では、大罪を犯した者の処罰を「大垣回し」といった。大垣とは興福寺周囲の築地塀のこと、これを三度引き回した後に断頭により処刑する。
一五世紀の段階で、犯人を捕らえ審理し、処罰する(これを検断といった)のは、興福寺の衆中および講衆が分担していた。興福寺僧侶のうち、半僧半俗で武力と呪術をもって奉仕する集団のことを衆徒といい、その中でも中核となった二〇人の寺住の衆徒が、しばしば衆中と呼ばれている。それ以外の各地に散在している衆徒は、田舎衆徒と呼ばれた。南大門前で行われる薪能は、衆徒が中心になって執行された。その頂点には棟梁がいて、古市氏・筒井氏などから任ぜられた。たとえば茶人としても著名な古市澄胤、織田・豊臣時代に名を知られた筒井順慶などである。(幡鎌 111-112頁)
角切行事の人員に、また死鹿の片づけに被差別部落民が従事していたことにも触れられている。江戸時代になり、徳川幕府にも神鹿に関する方針は引き継がれる。「慶長五年九月二十一日、関ヶ原合戦の直後に進軍した徳川家康の禁制で、鹿と猿沢池の魚をなぶる事」が禁じられている。江戸時代、19世紀の初めまでは、
まず、死鹿が発見されると、町方から興福寺一﨟代へ届け出る。一﨟代とは、下﨟分の代表者である。前述の通り、下﨟分は検断にかかわっていて、そのほかにも、春日社頭の管理、神人の処罰などを担当した。下﨟分一﨟代から仕丁に指示があり、現場で鹿が検分される。仕丁とは、興福寺の最下級役人で、俗体のものをいう。この一﨟と二﨟は戸上とがみ柏手かしわでと呼ばれ、かれらが現場へ向かい、取り調べの結果、問題がなければ、町方は清め銭を一﨟代へ払い、死鹿は被差別民が片付けた。(幡鎌 146頁)
という段取りだった。負傷した鹿の保護は一﨟代の指示で「鹿守(鹿太郎)」に預けられた。『奈良坊目拙解』には、「鹿太郎は累代春日興福寺の奴婢なり、神鹿もし煩い臥しあるいは斃れるときは、一﨟代よりかしらがもとに仰せ、神鹿を守らしむ。これによって、鹿守と称す」と書かれている。
鹿の保護が大きな問題になったのは、溝口信勝が奈良奉行の時、犬狩を儀礼的なものにして、実際には処分させないよう指示したことに端を発している。その後、徳川綱吉の生類憐みの令によって、さらに犬の扱いは難しくなった。[中略]
元禄五(一六九二)年のことである。生類憐みの令によって奈良中に犬が増え、これに食われて鹿の数が減った。このため奈良奉行は、余り物の湯水や食物を犬に与えず、犬に触らないよう長竿で驚かし、町内に置かないように指示している(「中臣延相記」元禄五年正月二十日条)。(幡鎌 150頁)
幡鎌氏は、江戸時代の鹿の保護・管理について、「出発点として家康の鹿の保護の方針に従いながら、やはり江戸時代の政策である身分制に裏打ちされ、総町あるいは個別町の単位に負担・維持されてきた」とまとめている。そして、
明治維新になると、興福寺は神仏分離によって解体した。奈良県は明治元(一八六八)年には犬の取り締まりをやめるだけではなく、死鹿の清め銭を取ることも禁止し(「神鹿殺害一件書留」)、奈良の人々は負担を強いられることはなくなった。しかし、逆にいえば、時代によって事情は異なっていたにせよ、中世・近世と続いていた、鹿を保護し管理する主体がなくなってしまったのである。近代社会になって、奈良の市民は、鹿と新しい関係を自らの手で切り開くことが求められたのである。(幡鎌 152頁)
幡鎌一弘「神鹿の誕生から角切へ」は最後に、近松門左衛門の浄瑠璃で有名になった「十三鐘(じゅうさんがね)」の伝承(誤って鹿を殺めてしまった子供が死んだ鹿とともに石埋めにされる)、そして「鹿と灯篭の数を数えると長者になる」とか「奈良の早起き」(*****)という都市伝説、さらには桂米朝の落語『鹿政談』(誤って鹿を殺してしまい興福寺の鹿守僧から訴えられた豆腐屋を、それは鹿ではなく犬だと押し切って処罰しない奉行の大岡裁きの話)にまで話題を広げて論を締めくくっている。
* 喜多野徳俊『奈良閑話』(近代文芸社 1988)
** 『多聞院日記』は文明10年(1478年)から元和4年(1618年)まで三代の筆者により書き継がれた日記。江戸中期の写本が興福寺に残されている。
『奈良県史』第二巻には、北条時宗執権時代(1275-1277年)に「神鹿を殺害した者を極刑に処す」という禁制があったこと、慶長五年には、「さらに一方には鹿もりを置いてシカを保護させ、他方には野犬・畜犬の徘徊取り締まらせ……」とある。
*** 仲川明 編著『奈良叢記』(駸々堂書店 昭和17年)
**** 『奈良の鹿 「鹿の国」の初めての本』(奈良の鹿愛護会監修、京阪奈情報教育出版、2010年)
***** 『奈良叢記』に寄せた新村出「奈良七重」にも「……春日の神鹿が家の前に斃死してゐると、極刑に處せられるといふので、毎朝早起きをして家の前を檢死する必要から、さういふ習慣が養成されたのであると云ふ」と紹介されている。

奈良の旅宿

奈良の宿と言っても、このごろ奈良を訪れる人は増えたが大阪や京都に宿をとる日帰り客ばかり、奈良の宿泊者を増やさねばと、行政や商店街が熱をあげている話題ではない。前項で、『奈良叢記』所収の藤田祥光「近世以降の春日神鹿」を閲覧したことに触れたが、同書に永島福太郎も「南都に於ける旅宿の發達」(*)という文章を寄せている。ごく短いものだが興味を惹かれるところがあったので、これを紹介させてもらう。

永島福太郎には『奈良』という著書がある。これは奈良史の基本文献であろう。少なくとも私はこの書を座右に奈良の歴史を学んでいる。これによると、平安遷都の後、旧平城京内は荒野となり、田圃が開かれ、宮城跡は荒廃した。しかし京東の地は堂塔伽藍が競い建って「社寺の都」が誕生することになった。「南都」が成立するのである。そして社寺の周辺に発達した街地を「郷」と呼ぶ。
南都七郷は興福寺七郷のことだが、七小郷から成ったというものではない。興福寺郷には数十の小郷ができた。東大寺郷など、鎌倉時代に発達した結果ようやく七郷となった程度だが、興福寺郷はこれを数倍したものであった。支配単位としては小郷を認めたが、支配の集約化をはかって、これらの小郷を七集団に編成した。労役奉仕の単位集団としたのである。(166頁)
-- 永島福太郎『奈良』(吉川弘文堂 1963)
社寺郷の大略を示す地図が添えられているのでここに転載させていただく。


永島福太郎『奈良』(吉川弘文堂 1963) p.171

ここに見える郷名は、ほとんどが現在の町名として残っているが、包永、内侍原、大豆山、漢國、城戸、高天、角振、鵲、京終、肘塚などは、奈良市民でなければ、なかなか読めない難読地名だろう。これも難読と思われるが、東大寺七郷の一つ、転害郷(てがいごう)は、東大寺の転害門の前にできた街地である。平安朝以降、都の人が東大寺・春日社へ参るときの、また伊勢参宮の途中宿として、ここに旅宿が発達した。鉢屋、稲屋という屋号の旅宿が数多くみられ、室町時代の記録には団扇屋、太刀屋、鯛屋という名の旅宿も見られるとのこと。

「南都に於ける旅宿の發達」には転害郷の旅宿を舞台にした二つの事件が挙げられている。一つは永享二 (1430) 年二月のこと、
幕府要路の畠山満家の家臣齋藤榎本なるものが、轉害の藤丸といふ旅宿に滞泊してゐたところ、或日主人が伊勢詣の旅人がその日來泊の先約があるからとて、他の旅宿への移泊を申出た。仍て榎本はこれを諒として轉害大路の烏帽子屋といふのに移つたところが、その時刻に藤丸に参宮客はやつて來ない。そこで榎本は憤慨して藤丸に訖問に出かけたところ主人は留守であつたので、下女に仔細を尋ね、そのうちにこれを斬捨てゝ仕舞つた。これを見た郷民は大擧して榎本を追ひ、これを誅するに至つた。此の報を得た畠山満家は藤丸への報復を行はんとして幕府に請うた。仍て幕府は興福寺別當一条院昭圓に通じてこれを逮捕し、その旅宿と共に焼死の刑に處せしめたのであつた。此處に幕府が興福寺別當に下令したのは、この藤丸が興福寺の承仕法師であつたからである。なほこれによつて旅宿の經營者が興福寺とか東大寺に依存したものであつた事が知られよう。
あと一つは天文二十一 (1552) 年のこと、
適々轉害郷にやつて來た丹後国の女房巡禮が三人あったが、これを同郷の焼餅賣の女房が甘言を弄し、十九歳になる巡礼をば今辻子の傾城屋に賣り飛ばしたといふ事件がある。これが當時筒井氏から 南都代官として入れられてゐた中坊高祐の聞くところとなり、焼餅賣及び傾城屋の賣手買手は召捕られ、斷頭の刑に處せられ、夫々住宅は檢斷せられた。この焼餅賣の女房は常習犯で當年も二三人巡禮をその手で賣却したといふ風聞であると註せられてある。
-- 永島福太郎「南都に於ける旅宿の發達」
なんとも激しい話である。
* 永島福太郎「南都に於ける旅宿の發達」
仲川明 編著『奈良叢記』(駸々堂書店 昭和17年)所収(316-319頁)

ウィキのための語学

今回も月刊「ちくま」からの話題。これに戸田山和久「とびだせ教養」という連載記事がある。今月号(2018.6 [No.567])で連載15回とあるので、もう一年以上続いている。この筆者についてはちくま新書の『哲学入門』でお名前を存じ上げている。数年前に書店で、従来の類書とはガラッと趣の異なる哲学入門書を見かけて、立ち読みすると「序」の冒頭にこうあった。
本書は二〇〇〇年以上におよぶ哲学の歴史と問題を共有している。しかし本書には歴史上有名な哲学者はほとんど出てこない。プラトンもアリストテレスも、デカルトもヘーゲルも、ニーチェもフッサールもハイデガーもでてこない。ウィトゲンシュタインもデリダも出てこない。ドゥルーズは言うにおよばず……
-- 戸田山和久『哲学入門』(筑摩書房 2014年)
ならばひょっとしたら入門を果たせるかと期待して、この本(その著者が戸田山和久氏・名古屋大学教授)を購入し、性懲りもなく人生で何度目かの《哲学入門》にチャレンジしましたが、全体で七章の、その第一章の途中で挫折しました。やはりだめなものはだめ、というか、おなじみの哲学者が登場しないということは、すなわち<剥き出しの理屈>が扱われるということだったのだ。いくら砕けた(破天荒な?)文体で、身近な例えを駆使して説かれても、理屈は理屈、このときもまた自分は抽象的思考というものには不向きなのだということを確認させられました。

そんなわけで月刊誌「ちくま」の連載もちらちら眺める程度だったのですが、今月号では外国語学習について同じ<砕けた>調子で、しかも<抽象的>ではなく書かれている箇所に、ちょっと注意を惹かれました。
おそらくこれを読んでくれている大学生の半数くらいは、第二外国語(未修外国語とか初修外国語とも言う)の授業が必修だろう。でも、おそらくいまの大学の第二外国語の授業では到底ペラペラになるところまではいかない。時間数が足りなすぎる。だから、多くの学生が単位をとり終わると使わなくなる。そうすると、せっかく勉強したのに、大学卒業の頃にはすっかり忘れてしまうことになる。そして、第二外国語の授業は無駄だったとブツクサ言う。
ふざけるな、と思うわけだ。無駄にしてしまったのはキミのせいだ。まず、目標の設定が悪い。たとえばフランス語を数単位分学んだところで、フランス人相手に流暢にコミュニケーションできるところまではまず行けない。でも、ウィキペディアのフランス語版記事をグーグル翻訳を使いながらなんとか読み解くというところまで行くには十分だ。
大学での英語以外の外国語の冷遇、衰退、凋落の状況についてはもう言い尽くされているだろう。昔の(我々の)世代は、大学とか教養というものはすっかり変わってしまった(*)のだ、とため息をつくばかり。いまの大学生には週二回の授業、二年間必修が当たり前だった時代の第二外国語授業の様子は想像もつかないと思う。一年目で初級の文法とリーダーを学び、二年目には未知の作家の短篇小説やらエッセーを読む。時にはゲーテやリルケの難しいテキストを読ませるドイツ語教師もいた。だが当時でも大半の学生は「到底ペラペラになるところまで」は行かなかったし、「第二外国語の授業は無駄だった」との感想を抱く者も少なくなかっただろう。それでも新しくドイツやフランスの文化に、その言葉で接することができたという満足感をほんのり覚える学生も少数はいたと思う。

このごろの外国語教育の変貌ぶり、大学・学部のみならず高校にまで「国際」がひろまり、小学生から英語を教えるとか、大学入試に民間の語学検定を導入するとか、最近の<会話中心>の外国語教育という趨勢を見て、我々は時代が変わったと慨嘆するばかりであったが、そこに<ウィキのための語学>という発想を突き付けられて、うーむと考えさせられた次第。

戸田山氏はウィキペディアを「情報の宝庫」として利用するにあたって、まず記事数を問題にする。「この原稿を書いている2018年4月22日現在、ウィキペディア日本語版の記事数は110万3766件である。これに対し、英語版の記事数は561万8903件、およそ日本語版の五倍ある」 すなわち日本語しか読めない人は五分の一の項目にしかアクセスできない。ヒットする項目が少ないという不利だけでなく、日本語で調べた項目を英語でも調べるクロスチェックができないではないか、ウィキペディアの記事は情報の信頼性を高めるためにクロスチェックが望ましいと指摘する。「できれば、もう一つ外国語ができるといいよね。そうすればトリプル・クロスチェックができる」 戸田山氏は「フランス語を第三外国語として学んだ」そうで、
やっぱり、フランスの風俗や文化について知りたかったら、ウィキペディアではフランス語版が最も頼りになる。私は、フランスの歌手・映画女優ヴァネッサ・パラディが大好きだ。『エイリアン vs. ヴァネッサ・パラディ』なんてもう最高。けど、ウィキの日本語版の記述はじつにしょぼい。英語版はもうちょっと充実している。でもフランス語版にはかなわない。だから、フランス語で頑張って読むのだ。この程度の語学力に到達するのは、大学の第二・第三外国語の授業をまじめにやっていればだいじょうぶ。
言われる通り Wikipedia は日本語版だけでは不十分だろう。今の大学の第二・第三外国語の授業時間数でも、まじめにやればウィキの記事が読めるくらいにはなれる……と断言する勇気は私にはないが、小説やらエッセーを読むのと違って、微妙なニュアンスを問題にしないで済むとすれば、辞書で単語を調べて、そこそこ解るところまでは行けるかなと思う。かくいう私も、正規の授業で習ったことのない外国語の、時々はフランス語版、ごくまれにイタリア語版を参照することがある。だとすれば「ウィキが読める」という御利益を掲げて学生を叱咤激励するのが今後の語学教師の作戦になるのかな。

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現在では Wikipedia などのネット上の百科事典が、また事典に限らず Project Gutenberg やドイツの研究機関や大学の電子アーカイヴ、また Google Books とか、我が国では「青空文庫」のほか、諸大学のオンライン文献が重要な資料となっている。四半世紀くらい前まではドイツの図書館で文献を借り出し何百ページもコピーしたことが思い出されるが、ネットが、ちょっとした調べものに便利な手段から、現在は貴重なテキストの原本にアクセスするツールになっているのだ。

私のように、大学を退職し研究室図書の利用が困難(事実上ほとんど不可能)となった者は、やむなく公共の図書館を利用している手合いが多かろうが、その蔵書に外国の専門文献を求めるのは無理な話で、オンラインのアーカイブ(**)が無ければ、研究者は手足をもがれたも同然、何も書けないだろう。ちなみに普段私が利用しているのは、SPIEGEL ONLINE 上の Projekt Gutenberg-DE やベルリン=ブランデンブルク・アカデミーの DTA (Deutsches Textarchiv) 、バイエルン州立図書館の MZD (Münchener DigitalisierungsZentrum) 等のデジタルデータが主なところで、これらでは文字資料ばかりでなく図版、地図、楽譜なども続々と収蔵・公開が進んでいる。

言語辞典については、もうずいぶん前からドゥーデン辞書もグリム辞書もオンラインで提供されている。民話・メルヘンの収集で知られるグリム兄弟が着手し、100年以上の年月 (1854‐1960) をかけて完成した全16巻32冊におよぶグリム辞典に関して言えば、これのペーパーバック版が、1999年だったか、出た時に勇んで購入し、次にはトリアー大学によるCD-ROM版 (Zweitausendeins, 2004) もすぐさま買ったが、最近ではペーパーバックもCD-ROMも処分して、もっぱらオンライン検索に頼っている。
* 教養教育、リベラルアーツの変貌については「教養教育」を参照されたし
** 文学テキストのデジタル化、ネット上のアーカイブについては「編集文献学」を参照されたし