メモ帳 -- 抄録、覚え (その18)奈良の五日えびす新年早々の初詣に続く神社のお祭りは初えびすであろう。初詣は、信心が篤くなくとも、いくらかは凛とした改まった気分で神社・寺院へ出かけるが、初えびす(ゑびす、戎、恵毘須、恵比須、恵比寿、蛭子などの表記あり)となると打って変わって賑やかな祭事である。小生のような大阪生まれ大阪育ちには「商売繁盛で笹持ってこい!」の「えべっさん」なのだ。たしか高校時代には笹に大判・小判や絵馬をつけるアルバイトをしたこともある。今宮戎では宝恵駕籠(ホエカゴ)行列もある。西宮神社では、千人を超える大集団が参道を猛スピードで駆け上がる福男選びがある。これらは毎年テレビで放映される。これらはみな「十日戎」である。京都ゑびす神社も「十日ゑびす」だ。ところが奈良に来て驚いたのは、ここでは「五日えびす」が初えびすの主たる祭事であることだ。奈良市内で最も賑わう餅飯殿商店街近くの南市恵毘須神社では四日に宵えびす、五日に本えびすが行われる。 今年初めて奈良の五日えびす見物に出かけた。まずは宵宮の四日の午後、率川阿波神社、南市恵毘須神社、北市戎神社の様子を見て歩いた。 率川阿波神社 南市恵毘須神社 南市恵毘須神社横の通り。飲食店の多い地区だ。 前の二つは準備の真っ最中という風情であったが、北市はひっそりしていた。《奈良まちあるき風景紀行》によると、この神社は「寿永元年(1182年)の創建とされており、ご祭神は事代主命(えびす様)となっています。(中略)通常時は境内へ入る柵は閉じられているような状況ですが、知名度の高い〈南市恵比須神社〉で1月5日に五日戎が行われるのに続き、こちらでは1月10日に〈十日戎〉が行われ、当日は地域の方々などが境内に参集されます」とある。 さて五日の本えびす。昼前に街へ出てみた。率川神社には数名の参拝客が見られるだけで、静かな景色だなと思っていると、そこへ何グループかの集団が登場した。えびす詣でとは見えない装いの元気な人々。率川神社を後にして、暗渠になった率川の上の細い道を10分ほど歩くと南市恵毘須神社。近辺に相当な人出、餅飯殿商店街から神社に通じる細い道に長蛇の列ができていた。 率川阿波神社 参拝者が長蛇の列をなした神社横の通り 南市恵毘須神社の狭い境内は入口と出口が分けられ、神殿のお参りと福娘から吉兆笹を受ける人びとが一方通行でぞろぞろと進んでいた。 南市とはかつての南都奈良の市場の一つとのこと。えびす様は商売繁盛の神として市場に祀られる。奈良の市場はいつ、どのように生まれたのだろうか。奈良の歴史について知りたいと思えば先ずは永島福太郎『奈良』(吉川弘文堂 1963)を参照することになる。IV《郷および郷民の発展》(*)、四《市と座》に詳しい。 奈良の定期市場のはじまりは北市である。鎌倉時代、住民の増加にともない、一条院門跡がその領内に開設したものである。[中略]「平城京の東西市をしのび」とあるが、同じ書の II《平城京》、二《平城京の規模》に、古い東西市についてこう記述されている。 平城京で特記されるのは、社寺とともに東西両市についてである。[中略]東西市の創設は、和銅五年(七一二)十二月に東西二市にはじめてそれぞれ史生二員が置かれたというし、さきの藤原京にも見え、また関市令の制定もあったのだから、遷都直後といってよい。[中略]商品は、たとえば天平宝字六年(七六二)に東大寺写経所が市で購入したものに米・布帛・野菜・果物・海藻・調味料・薪炭・紙筆墨・香薬・陶器などがあるし、そのほか調庸絁布や交易綿、ないし陸奥・上野・越の漆・淡路の片塩などを購入した例などもあるので、その商品には官の調庸物も売却されたのであろう。(47/48頁)とのこと。1300年も前に相当な種類の商品が扱われていたのだと驚かされる。さて、平城京が廃都となって400年以上過ぎた鎌倉時代に、また市が創られた経緯はいかに。 北市ははじめはたんに市と称せられたであろう。南市が創設されたので北市の称がおこったといえる。[中略]奈良の市の位置を大雑把につかむのに最適の地図がある。これは「奈良の旅宿」でも借用した同書 p.171 の《南都諸郷図》である。これを再度転載させていただく(市を □ で囲んだ)。一条院郷の北市、大乗院郷の古い南市などの位置関係がよくわかる。 中市は焼亡された。もう市座ではなく常設店舗となってしまっていたのだが、興福寺郷の奈良では市がまったくなくなった。これに乗じたというわけでもないが、興福寺の学侶が中市郷の北の高天郷に新市を開いた。学侶は春日社兼興福寺領から春日社に神供を上す責任機関だが、荘園崩壊のため神供備進に苦心した。臨時に神供反銭を賦課して弥縫していたが、好機と見て、神供備進のためだとしてこの高天市を開いたのである。(192頁) 新しく高天市、南市が開かれたのが天文二[1533]年のこと。戦国時代を経て市はどうなったのか。江戸時代の奈良の地誌としては、『奈良曝』(貞享四[1687]年)、村井古道『奈良坊目拙解』(享保二十[1735]年)が代表的なものであろう。これらを見てみよう。 『奈良曝』では、
『奈良坊目拙解』(喜多野徳俊 訳・註 1977年)では南市町の説明に、
村井古道にはもう一冊の地誌『南都年中行事』(喜多野徳俊 訳・注 1979年)があり、そこでは、
明治維新以降の南市については、調べればいろいろの証言が見つかるだろうが、さしあたり會津八一が「ささ の は に たひ つり さげて あをによし なら の ちまた は ひと の なみ うつ」(笹の葉に鯛吊り下げてあをによし奈良の巷は人の波打つ)と詠んだこと[『自註鹿鳴集』によると大正十一(1922)年の作]を挙げておく。郷土史家・山田熊夫の『奈良町風土記』(豊住書店 1976年)には次の記述がみられる。 この南市場も市場としての生命はなくなったが、ここにあるエビス神社を中心として最近、歓楽街として発展している。大正の初めごろから、俗に「乙種」と呼ばれた芸妓の置屋ができ、南市芸妓組合を組織し、観光奈良への客に対して大いにサービスにつとめ、好評を博し、その数も五十名余といった盛況ぶりであったが、最近は置屋も三軒にへり、かわりにスナックバー、喫茶店、キャバレー、映画館、旅館、料理屋などが軒をならべ、繁華街としてその名をなしている。昭和の時代には戦後にいたるも「参拝者も数万を数える」賑わいだったとは想像もつかない。現在はせいぜい2~3千人ではないか。南市町の北に接する元林院町は、同じ『奈良町風土記』に「大正から昭和の初期にかけて最も華やかな時代で置屋十六軒、芸妓二百といった盛況振りであったが、現在(昭和四十八年)置屋九軒、芸妓五十余名となり、芸妓も年配の方が多い」とある(***)。いまも南市恵毘須神社の周辺に飲食店、旅館等が目立つのも頷けよう。映画館とは「尾花座」のことだろうが、いまはホテルとなっている。 さて十日、これまでも何度かお詣りした春日大社若宮十五社の第八番、佐良気神社に向かう。こちらは「春日大社の十日えびす」である。朝の最低気温が零下2度にまで下がった寒さをおして出かけた。 甘酒を振舞われ、美しい福娘に縁起物を結んでもらった招福の吉兆笹を持ち帰った。きっと福が来る! * 「社寺の周辺に発達した街地を郷という。社地・寺地は清浄の結界である。その界外(かいと、戒外・垣外)は里と称せられたが、その里(街地)に郷の字が宛てられたのである。」(永島『奈良』159頁) 徳融寺の石像毎日新聞の奈良地域版に月2回のペースで奈良在住の作家・詩人、寮美千子さんが「ならまち暮らし」というコラムを連載されている。この筆者とコラムについてはかつてこのサイトで取り上げ(「ならまち大冒険」)、そして寮さんの童話『ならまち大冒険――まんとくんと小さな陰陽師』(2010 毎日新聞社)を紹介させていただいた。さて、同じ連載コラムの2019年2月6日の記事に、今回は「軍馬のいななき」と題して、鳴川町の徳融寺に吉村長慶が建立した石像・石碑について、寮さんが前の住職、阿波谷俊宏老院(*)のインタビューを交えて紹介されている。 だいたい主要な新聞や放送メディアで吉村長慶が取り上げられることは皆無に近いので、この記事の出現は特記すべき珍しい事件だ。ふつう徳融寺はならまちにいくつかある中将姫ゆかりの寺院として取り上げられている。「豊成公中将姫御墓」と刻まれた石塔、その左右に中将姫とその父藤原豊成を祀る石塔があることで知られている。ウィキペディアで「徳融寺」の項目を見ても、中将姫伝説と寺院の文化財として、阿弥陀如来立像や毘沙門堂などが挙げてあるのみ。奈良のガイドブックでも長慶の石像・石碑に触れているものを目にしたことはない。触れる価値がないのか、あるいは「如来道・宇宙教」を唱道した怪しい人物を敬遠しているのか。 小生は図書館でたまたま安達正興『宇宙菴 𠮷村長慶』(奈良新聞社 2011)を読んで、この「幕末の奈良まちに生まれた奇豪」(同書キャプション)の、あまりに型破りな思想と営為に呆然とさせられたほどだった。以来、長慶寺をはじめ、近隣の長慶石像作品を見て歩いている。それらは「長慶寺」以下、本サイトのいくつかの記事に記録し、徳融寺の石像については「長慶さんの橋」の中で紹介した。 寮さんは「この寺の境内には、キリストが刻まれた石碑がある」と述べて、釈迦とキリストを「トンビを羽織った人物」が揺り起こしている絵柄の碑を写真入りで取り上げ、「軍馬のいななきは国を亡ぼす 弦歌を聞けば家を亡ぼす 箏の音や鐘の音は身を亡ぼす」と刻まれた碑文、「戦時中、こんなものが憲兵に見つかったら大変ですから、長らくブリキ板で覆っていました」という阿波谷俊宏師の証言も紹介されている。石碑右上の、煙を吐いて進む汽船の下に、「普門来た/来た 起きよ/今日 日本の昭和/長慶 戯刻」とあるので、釈迦とキリストを揺り起こしているのは普門・長慶である。 コラムの最後で寮さんはいう。 その2年後、長慶は喜寿の記念として、自らの彫像を制作し、徳融寺に寄進した。右手には帝国憲法、左手には如来道と刻まれた巻物を持っている。[中略]さて、そうだろうか。筆者の願いはそうであっても、長慶の生涯の信条は「不自由不平等」である。下長慶橋の《宇宙教典》石碑に「夫天地萬有者悉以/不平等為原則……」、宇陀市榛原赤埴佛隆寺の裏山に「不自由不平等是/人道之天則有元/首有階級是人世/之理法 宇宙菴」、宇陀市榛原大野弥勒磨崖仏の向かいの岩壁に作られた磨崖大黒天に「不自由不平等/是人道之天則/有元首有階級/是人世之理法」と繰り返し彫らせている。(磨崖大黒天下部の碑文は、昭和48年の観光ブームのなかで、人権思想に反する文言が人々の目に触れるのはよくないと、これは削り消された。「不平等が天則」参照)。若き日に長慶は慶應義塾で学んだが「人の上に人をつくらず 人の下に人をつくらず」との考え方には従わなかった。 それに「軍備に傾く経済は国を亡ぼす」という彼の主張は、第二次大戦後の平和思想と必ずしも一致しない。それゆえ筋金入りの不平等主義者、吉村長慶が、如来道の巻物と日本国憲法を対にして持つ像は、小生には想像できない。 * 阿波谷俊宏[あわたに・しゅんこう]師は数年前まで徳融寺の住職でいらっしゃった。昨年『絵解き 融通念仏縁起』(2018/04 奈良新聞社)を上梓されている。同書の帯に佐江衆一が「平安末期に開祖良忍上人の絵巻物を、日々衆生に親しく接する同宗の奈良・徳融寺の老院が解説し、絵解きした本書は学者や作家には及ばない仏教への親しみと深さで、中世の貴重な絵巻物を今日の私たちの暮らしに甦らせたといえる」と推薦の辞を寄せている。巻末の「著者紹介」欄にも「融通念仏宗 徳融寺 老院」とあって、「老院」とは聞き慣れない称号だが、隠居した住職ということらしい。 天川・洞川かねてより天川村はぜひ訪ねたいと思っていた。とにかく山深い土地で、近辺に鉄道駅がないのはもとより、近鉄吉野線の駅「下市口」から1時間20分ほど乗って到着する天川神社あるいは洞川温泉へのバス路線もそれぞれ日に2~3便、夏季と土日祝日はもう1~2便増える程度。マイカーで行くにも狭小な山道が多くて相当な覚悟がいる。この度の長い連休を機に、せがれの運転する車でようやく宿願をかなえることができた。1300年前にひらかれた吉野から熊野までを結ぶ修行の道、この「大峯奥駈道」を歩ききる気力体力はすでにないが、そのスタート地点であり、役小角に従っていた前鬼・後鬼の、その後鬼の出身地であるとされる洞川までは行きたいと願っていた。 曇りがちの空の下、早朝に出発した。車は思いのほか順調に走って天川村に入り、「村内唯一の信号」のある川合で右に折れて、時折雨が降る中を、まずは天川神社(天河大辨財天社)に参る。飛鳥時代、役行者によって大峯連峰に修験道場の開山がなされ、そのおり最高峰である弥山(1895m)に大峯の鎮守として祀られたのが天河大辨財天の始まりとされる。また大友皇子と皇位継承を争って吉野に下っていた大海人皇子(天武天皇)が祈願して壬申の乱に勝利を収めることができた、その加護に報いるため弥山の麓に神殿「天之安河之宮 あまのやすかわのみや」を造営したとする伝承がある。深山幽谷の地であるが、狭い道路の奥の駐車場には相当数の車が停まっている。最近は朱印収集が流行りだそうで、新元号初日の朱印を求めて来た人が多いようだ。 そのあと川合まで戻り、今度は洞川に向かう。着いたのがちょうどお昼時、温泉街入り口の食堂で昼食にする。そして予約してあった宿に(決まりの時刻より早いが快くチェックインさせてくれた)荷物を置いて、宿の傘を借りて散歩に出かける。まずは「銭谷小角堂」で陀羅尼助丸を買う。いくつもある陀羅尼助の店の中で、ここを選んだのは、銭谷武平(*)の著書を数冊読んでいたから。この店は著者の生家である。 『陀羅尼助--伝承から科学まで』(薬日新聞社1986) 『役行者ものがたり』(人文書院 1991) 『大峯こぼれ話』(東方出版 1997) 『大峯縁起』(東方出版 2008) 川を渡って龍泉寺に行く。お寺の(寄進によって開設された)サイトには、「白鳳年間(645〜710)役行者が大峯を開山し、修行していた頃、山麓の洞川に下りられ、岩場の中からこうこうと水が湧き出る泉を発見されました。役行者がその泉のほとりに八大龍王尊をお祀りし、行をしたのが始まりであると伝えられています」とある真言宗大本山である。宿に戻って〈後鬼の湯〉に入浴、しし鍋の夕食。雨がほぼ止んだ夜の温泉街を散歩する。5月3日の「戸開け式」(山開き)を控えて、ぼちぼち信徒が集まってきている様子だ。 天川とか洞川とか、この地名の由来については様々な説があるようだ。水の豊富な土地柄から、水を司る水神としての龍、そして水の分配をつかさどる水分神の信仰がもともとにあるだろう。熊野川と吉野川は大峯山系を源流とする。さらには高天原の河の名「天安河 アメノヤスカワ」から「天ノ川」という名称がこの地方の河谷に名づけられたという伝承もある。 岸田定雄『大和修験道大峯山麓 洞川の民俗』 (豊住書店 1993) の「地名テンカワ・ドロガワについて」の章では、「天川」が文献に見えた古い例として、『太平記』の「吉野城軍ノ事」(**)にあり、そこでは「天の河」となっていることを紹介している。神社名は「天河」大辨財天社である。そして「洞川地区の人達がテンカワと呼ぶのは中越、川合以西の民家が接近して立ち並んでいるあたりの地域を指す語でもあって、自ら住むところはドロガワ、上記の地域はテンカワと唱えている。したがって洞川の人にとってテンカワは川の名でもあり、地域名でもある」としてこう述べている。 ドロガワは天川村の一部であるが、もとはテンカワと対する呼称ではなかったかということは先に述べたが、さてドロガワの語源は何であろう。元禄九年(一六九六)、日本各地を旅行した貝原益軒によって書かれた『和州巡覧記』には「吉野より天の川へ四里、泥川へ四里」とある。これによっても「天の川」と「洞川」とが対比されていることは分かるが、洞川は現在の洞ではなく、泥の字が用いられている。同書の中でどこにあるか、その所在について記載はないが「蟷螂が窟」のことは記述があって「とうろうがいはや」と読み仮名が施されている。これは洞川にある蟷螂の窟に相違あるまい。蟷螂はカマキリの漢語であるが、カマキリがこの岩屋と関係あるのではなくただトウロウという音を借用したものと考える。この考証を評価する素養は私にはないが、そのあとに続けて〈この洞川を、洞の訓でホラと読みホラガワと称することがある。洞川区下寺山町の福田屋敷と呼ばれるあたりの上の方の杉林の中にある古い墓地の石碑に刻まれた和歌に「ほら川や、そのみなかみは金峯山云々」と詠まれている〉と、その写真も添えて書き加えられている。トロがホラにまで至るとは、おもしろい。そう言えば天川神社のすぐそばに、ちょっと場違いな感じもするペンションが建っていて、その名が「ミルキーウェイ」だった。おもしろい……? * ぜにたに・ぶへい(1920-2013)、岐阜薬専卒業、九州大学農学部卒業、長崎大学名誉教授、農学博士。[著書の奥付および国会図書館のデータによる] 諫鼓鶏石灯2~3年に一度は会っている大学時代の友人たちと、今回は長い連休が終わって世間が落ち着いた五月下旬にと日程を設定して、メンバーひとりの居所近くの石清水八幡宮へ出かけた。ケーブルカーなど使わないのだと空元気、えっちらおっちら歩いて登る。頓宮、高良神社、松花堂跡などを見て、休み休みを重ねて男山展望台へ着く。ひとまず清峯殿で昼食。そのあと八幡宮社殿に神職の案内で昇殿。拝観を終えて社殿東に出ると、そこには築地塀きわに灯籠が列をなしている。ふと、その一つに目を奪われた。あの独特の形、あれは長慶さんの石灯籠ではないか! 近づいてみると、 まさにそうであった。私はここ数年近隣の長慶石像作品を見て歩いている。彼の石像には妙な形のものが多いのだ。それらは「長慶寺」「石人長慶」以下、本サイトのいくつかで紹介した。ここにもあったのか、と写真に収め、下山してこれも八幡名所の流れ橋(上津屋橋)まで足を延ばしたあと、散会となった。帰宅して安達正興『宇宙菴 吉村長慶』(*)(奈良新聞社 2011)で確認してみると、きちんと解説されていた。 左が樫原神宮、左中間の小写真は平安神宮、中が石清水八幡宮、右が春日若宮 安達正興『宇宙菴 吉村長慶』(98・99頁) あれ、この石清水八幡宮の灯籠にはなんと、上に鶏が乗っているぞ。ということは安達氏の著書出版以降に無くなったのだ。そういえば灯籠の台座付近に小さな石塊が転がっていた。あれが鶏だったのかも知れない。最近になって落下したのか。どうにも気になる。写真を撮るとき、台座付近もきちんと写しておくべきだったと、ほぞを噛むも後の祭り。 一夜明けて、居ても立っても居られない気持ち、えいと発起・発願・発心、再び石清水八幡宮へもうでた。ただひとりで確認のためだけ。もちろんケーブルカーで登り、上院参道の石灯籠群を抜けて、社殿東の築地塀に向かう。 行ってみると、やはりそうだった。「鼓に龍紋をあしらう。鶏の頭部は欠けているが、他の同似品より鼓の火袋が小さく三巴の透かしが無傷のまま残った」(安達書巻末の「XII 石造物総合目録」参照)とある、頭部の欠けたその鶏が転がっているのである。昨日は、かばかりと心得て帰ったが……すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり。 この、奉納明治三十一年九月、とある石造物については安達正興『宇宙菴 吉村長慶』「VII 長慶石造物の時代と傾向」の章に【石灯】の分類が立てられ、「諫鼓鶏石灯と天壌無窮」という見出しで以下のように説明されている。 「諫鼓鶏」とは中国の故事――、三つ巴については神職さんの説明を受けた時、石清水八幡宮の神紋は《流れ左三つ巴紋》であるが、幣殿の梁には一つだけ右巴があることも教わった。鼓の石像にも右巴、左巴の両方があるようだが、この八幡宮の長慶奉納の鼓ではさすがに左巴になっている。また、天壌無窮の銘については、 幕末から明治新政府の国体神学者が持ち出したこのキャッチフレーズと諫鼓鶏の組み合わせは何を意図するのか、単に祭政一致による天下泰平永久平和だけではない。長慶は日本古来の伝統と万世一系の天皇を尊び、これを根拠の一理由として「畿内遷都論」を上奏したことがある。神武天皇の東征はこの神勅を承けたものであり、皇室を崇拝して止まない長慶ではあるが、あくまで立憲君主制を支持し、天皇崇拝に軍部が利用した神勅・天壌無窮の思想ではさらさらない、難しい謎解きである。(99頁)吉村長慶さんの反戦・平和主義は第二次世界大戦後のそれとは違う(「徳融寺の石像」参照)ものだ。彼の思想・信条を理解するのはなかなか困難なのである。さらに続けて、 「鼓」を別にすれば神社と「鶏」の関係は、天照大神を誘い出すために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に由来する。神社に放し飼いの鶏がいたり、止まり木があったりするのはそういうわけで、鳥居というのは止まり木が語源との説がある。諫鼓鶏を乗せた祭の山車や置物、鶏を傘頂に乗せた石灯は珍しくない。しかし諫鼓鶏の石灯は長慶寄進物以外、筆者はまだ聞いたことがなく、見たこともない。(99・100頁)とのこと、東京都千代田区・日枝神社の山王祭(神幸祭)山車には翼を開いた鶏が乗っていて、その大鼓に三つ巴の絵がある。そう言えば、2017年が酉年で、鶏にまつわる多くの縁起が話題になり、京都・天寧寺の鶏の石像も取り上げられたようだ。改めて調べてみると、この京都市北区鞍馬口にある曹洞宗寺院の石像横の案内板には、「この天寧寺の諫鼓鶏は石灯篭で、作られた年代等は不明」とある。 安達氏は灯籠と言わず石灯と呼んでいますが、灯籠・灯篭、石灯、石像などの用語にも気配りが要りそうです。 * 「吉村」の字は本来「𠮷村」だが、ブラウザーによっては表示できないことがあるので、このようにしておく。 率川社奈良町を散歩していると、ときどき、おやと思うことに出会う。今回はその一つ、率川神社について。率川の名がつく神社といえば、普通はやすらぎの道沿い、三条通りを下ったところ(本子守町)にあるのがそれであろう。飛鳥時代から始まったという三枝祭はここで行われ、七媛女(ななおとめ)・ゆり姫・稚児と花車の華やかな行列もここから出発する。しかし、少し前に気付いたことだが、西新屋町にも率川社がある(「西新屋町」参照)。なぜここに同名の神社があるのか。この二つはどんな関係なのだろうか。 この疑問に答えてくれそうな文献を図書館で見つけた。それは昭和40年代後半に奈良市「企劃部」の委嘱により行われた研究の報告書『古奈良――研究調査』である。この書の前書きに当時の市長鍵田忠三郎が、「先祖から受けつがれ、奈良のまちに残された古い神社には、日本民族の伝統を再発見させるものがある。それらについて専門の研究者に依頼して調べてもらうことにした」と書いている。報告書は正編・続編と2分冊で刊行されたようだが、その後合冊されて、 『古奈良――正続――研究調査』(著者代表 池田源太 昭和51年12月発行 共同精版印刷株式会社)となっている。 その正編第三章に、「式内社率川坐大神御子神社と人」という神社の由来、伝承、歴史についての松田智弘氏(*)による報告がある。現在の景観、江戸時代の『率川御子守神社本録』付図に描かれた様子、率川という地について解説したあと、神社の説明になる。 率川の地には、『文徳天皇実録』『延喜式』が、率川坐大神御子神社三座と率川阿波神社の二社のあったことを記している。この率川の地に神社が奈良朝以来あったことは、『続日本紀』天平神護元年(七六五)八月朔(一日)条に和気王が謀反に坐せられた時、逃げ込んだ所として記されていることからわかる。しかしながら、率川社と呼んだ場合、二社のどちらを正確には呼んでいるのか不明瞭なところがある。(40ページ)いくつかの記録により、率川社は右大臣藤原是公の建立とされているが、それが大神御子神社三座なのか阿波社どちらにあたるか不明という。下に、神社のWEBサイトにある境内図をコピーしておく。本殿三棟の左側に父神の狭井大神、右側に母神の玉櫛姫命、中央が祭神の媛蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)である。父神母神が姫神に寄り添っている形から「子守明神」の名がある。これが大神御子神社で、その東側に(マップには描いてない)築地塀を隔てて、阿波社がある。 このようにやすらぎの道沿いの率川神社は実は別々の2社の併存であった。神社のサイトでは大神御子神社の説明とは別ページに、「末社住吉社」「末社春日社」と並べて「摂社率川阿波神社」について説明があり、「当初は奈良市西城戸町に鎮座していましたが時代と共に衰微し、明治期には小祠を残すのみとなりました。その後、大正9年に率川神社の境内に社殿を建立し、昭和34年の率川神社境内整備に伴い末社の春日社・住吉社と共に現在の位置に遷座となりました」としている。そうした経緯でメインの大神御子神社と、築地塀を隔てたその2末社の間に阿波神社があるという複雑な境内配置になったのである。 阿波神社は恵比須社なので毎年一月には初えびすでにぎわう。そういえば今年の正月に市内各所の戎神社(「奈良の五日えびす」参照)を巡る中でここも立ち寄ったのだった。これが「当初は奈良市西城戸町に」あったとのこと、『奈良県史』第5巻「神社」にも、「旧鎮座地は西城戸町、今 子守率川社境内に奉祀」とある。その痕跡が残っていないものかと、ある日この町をくまなく歩いたが、それらしきものは一切見つからなかった。 この2社に西新屋町のを加えると率川社は3社あることになる。 率川の地名に関してはすでに記紀に見える。松田氏の報告「式内社率川坐大神御子神社と人」に、開化天皇(**)が春日率川宮に遷都したこと、また崩御して春日率川阪本(坂上)稜に葬られたとある『日本書紀』『古事記』それぞれの記述を紹介している。やすらぎの道との交差点から三条通りを少し西に行くと通りの北側(油阪町)に開化天皇春日率川陵がある。考古学的には念仏寺山古墳とされる。形状は前方後円墳。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により第9代開化天皇の陵に治定されている。 さてこの陵の所在地の春日率川という地名には、ちょっとした違和感を覚える。ここって春日なの、と思う。そもそも春日と言えば春日大社や春日山のある市の東部を思い浮かべ、事実、その辺りは「春日野町」と呼ばれている。現在の奈良市内の町名で春日が付くのはそこだけだ。 ここで、奈良の歴史について調べるとき私がいつも第一に参照する、永島福太郎『奈良』を覗いてみる。そこには次のようにある。 春日は、まず開化天皇が都を春日の地に遷し、これを率川宮といったという伝承にはじまる。率川の河流も、率川神社も、また開化天皇の春日率川坂上稜も奈良に存在する。そのうえ春日山や春日野が万葉歌人に歌われ、やがて春日山(五峯から成る)の一峯である御蓋山麓に春日神社が創建されたのであるから、おのずから春日あるいは春日野の地は、春日山麓の西面丘陵地帯と了解されている。(11ページ)やはり「春日」という地名についての私の感覚は、まずまず現代における一般の了解の内にあるようだ。 研究報告書『古奈良――研究調査』の池田源太も「春日」について同趣旨の説明を与えている。すなわち、もともとは春日は広い地域を指していた、そして土師氏の一族が秋篠、佐紀から山背の相楽あたりまで来ていて、その位置の意味するところは、「奈良の春日は、このような、西海や、北海にも通ずる、水陸相関の先進地域に隣接した、いわば大和の北の門戸というべきところに位置していると考えてよいのではあるまいか」(第一章「総説」7ページ)としている。 もう一つの地名「率川」。開化天皇が春日率川宮に遷都したという記紀の記述で率川という地名が記録に現れる。春日郷の中がいくつかの小さな地域に分かれていたと考えられるが、「現在、率川と直接呼ばれる字名としては無いが、率川という川の名がある」とし、万葉集巻七にも、 葉根かづら今する妹をうら若みいざ率川の音のさやけさ と見えていることを指摘している(松田、39ページ)。 恐らくはこの川の名前が地名の由来なのだろう。松田氏は続けて、江戸時代の文献『大和志』(***)に、「源自春日山紀伊社、遶猿沢池南、過率川社前、至奈良西、入奈良川」と記されていることを紹介している。紀伊神社は春日大社南側の摂末社のうち最南端、原始林の中にある。そこから猿沢池南をめぐって率川社前を過ぎ、奈良の西に流れ、奈良川に流入する、としている。奈良川とは佐保川のことか、ひょっとして大和川か。 松田氏はまた同じく江戸時代の『奈良坊目拙解』の記述も引用している。こちらはさらに詳しく「率川、俗云子守川、此川源出自於春日山南谷丹坂北、歴鷺原[狭井原乎]荒池菩提谷廻猿沢池、過於樽井橋本椿井北側而流丨来于子守町南辺、仍称子守川下流至小川町柳町椙町及、内野落合於大安寺西佐保川也」とある。『坊目拙解』はさすがに奈良各町の地誌らしく、川が流れる市内各町名を列挙し、最後に佐保川に合流するとしている。 [付記]『拙解』西城戸町の項では「率河阿波神社旧跡」について数多くの文献を引用して論じている。最後に、文明明応に至って阿波社が現存した、「そして後の何れの世絶滅したか詳らかでない。疑えば天文元年七月土一揆に兵火悉く廃亡地とした。惜しく悲し。終に人家の後園に変った。故にその遺蹟を知る人も亦稀で今世漸く古松一株が園中に存して神跡と号え奉るのみ」(124ページ)と慨嘆している。 江戸時代の奈良の絵図が残っているので見てみよう。 和州奈良之図(天保15年、東が上) [国土地理院 古地図コレクション から] 同図、部分(北を上に変更) 率川は春日大社の禰宜道あたりの森から発して猿沢池の南を回り、町を西に流れ、率川神社近くからクランク状に曲がって佐保川(地図では「さくら川」となっている)に合流する。現在は猿沢池の南では水流が見える普通の小川だが、市内では大半が暗渠になっている。 そこで西新屋町の率川社について。こちらはごく小規模の神社である。 仁丹歯磨の町名表示板があって、正面に回ると、 格子戸にしっかっりと錠がかけられているが、 格子の隙間から中を覗くと灯篭に率川社とある。 松田氏の報告「式内社率川坐大神御子神社と人」には以下のように記されている。 ……明治二十四年の『神社明細帳』には、率川阿波神社を西城戸町に、率川神社を西新屋町にそれぞれ求めて記載している。現在の本子守町の神社については、何等触れるところがない。しかし、『大和志』、『大和名所図会』、『奈良坊目拙解』、『広大和名勝志』などいずれをとってみても、『率川御子守神社本録』付図同様、本子守町に神社があったことは一様に記している。そして、その神社を率川坐大神御子神社三座とみなしている。従って、江戸期には本子守町に率川坐大神御子神社とみられた神社があったわけであるが、明治二十四年の神社調査の時にはこの神社について調べられるところがなかったのである。松田氏によると、江戸時代の文献では率川阿波神社の位置があいまいになっている。『大和志』は阿波神社が西新屋町ににあるとしていて、伴信友はこの説をとっているし、契沖は『大和国地名類字』の中で、「仁寿二年(八五二)十一月、大和国率川阿波神に従五位を授たまひし由、文徳実録に見えたり。所しれず」と記しているが、異見もありはっきりしない。結局「江戸時代には阿波社の所在地が不明瞭になっている」というしかない。そして「明治の神社調査の時に、それまで明瞭であった本子守町の神社が調査対象とならなかったのは、信徒数の多い西新屋町の神社が率川神社と称したことと、西城戸町に式内阿波社が求められたことから信徒のいない本子守町の神社が調査対象とならなかったと考えられる」云々という。 かくもあいまいな状態となった訳は、大神御子神社と阿波社が、それぞれどちらが大神神社と春日神社との別宮あるいは摂社なのかという、肝心なところが不明瞭だったことによる。 西新屋町の率川社の祭りを一説の如く事代主神と見れば、西城戸町の阿波社と祭神を同一にして来るのであり、或いは『大和志』が阿波社を西新屋町にあてたことと無関係でないことが考えられる。結局、契沖が阿波社を「所知れず」として、子守町に「率川の社有。俗に子守の宮といふ。此ほとりに、率川のなかれ有」とした説をとるのが穏当なようである。(42ページ)三枝祭についてもいずれの神社の祭かあいまいになっていた。 三輪勢力が春日勢力の進出して来るとき、自らの本拠であった大神御子社を明け渡さざるを得なくなる要因があったといえよう。それに伴い、祭礼も移動し三輪明神三座(大神御子社三座)を率川明神(阿波社)とよび、率川明神(阿波社)を三枝明神とよぶようになったことを考えることができる。[中略]明治に入ると大神御子神社も荒廃しているのである。西新屋町の率川社について、『奈良市史・社寺編』(昭和60年)にこうある。「元興寺鎮守の寺社と伝えるが明らかでない。祭神は事代主神、例祭九月一日、御霊神社宮司が兼務している。/割拝殿のような門を入ると両側は板間になっていて祭礼に使われる。白木鳥居はその中にある。本殿は南向き、大きい覆屋がついていて、雨覆いと拝殿を兼ねている。/明治三十八年、西新屋町中が寄進造営した。率川神社は率川阿波神社の伝承もある。(『神社覈録』)」 西新屋町の率川社について、もう一つ付け加えると、ウイキペディアでは『元興寺由来』『平城坊目遺考』『奈良坊目拙解』などの史料を根拠に、「飛鳥神並神社、率川阿波神社との呼称で記録されたこともある」としている。飛鳥神並神社とは飛鳥京の鎮守であった飛鳥神南備を、平城遷都に際しこの地に移したというもの。奈良の寺社の歴史に詳しい元興寺編年史料に当たってみると、確かに飛鳥神並神社との関連について記されている。 神仏の習合、本地垂迹説は奈良時代にめばえ平安時代を通じて成長した。七大寺のうち神仏の結合の明らかなのは、東大寺・大安寺・薬師寺の八幡大菩薩と興福寺の春日明神とであって、元興寺の場合は明らかではない。中世においては普通元興寺の鎮守として御霊社があげられているが、最初から鎮守社として御霊社が勧請されたとは思えない。御霊社の鎮座はもちろん早くて平安初期であるし、「璉城寺記」には上津道に崇道天皇社、中津道に井上御霊社、下津道に他戸御霊社があったという。南都の南方の三つの入口に御霊系の三社がまつられて、疫病の侵入に備えたという伝承は必ずしも否定すべきではなかろう。とすれば、近世の史料ではあるが、元興寺の移転に際し、飛鳥神並社が同じく迎えられて鎮守とされたという所伝が或いは実情であったかもわからない。飛鳥神並社は、近世には西新屋町の小塔院に近く所在し、この頃は率川明神として伝えていたという社である。しかし中世にはすでに御霊社が大きくなって元興寺の鎮守となっていたことは疑いないようで、そうなった時期としてはやはり官の大寺たるの実質を失ってきた平安時代の中末期かと考えられる。飛鳥神並神社は現在は瑜伽神社の摂社となっている。紅葉の名所として知られる瑜伽神社の長い石段の途中にある。 率川社にまつわるあれこれは、とにかくややこしい話で、『古奈良――研究調査』、『奈良坊目拙解』、『元興寺編年史料』その他の文献で詳しい経緯を教えられても、すっきり疑問が解消したという爽快感はありませんね。寺社の場所替え、宗派祭神の変更は珍しいことではない、ということでしょうけれど。 最近たまたま折口信夫『死者の書』を読んでいるとこんな場面に出会った。美しい姫(南家の郎女)がいると知って男たちが付文をするが、女部屋の老女たちがそれを遮った。そうした文の取次ぎをする若女房を叱ることも度々見られた。 そんな文とりついだ手を、率川の一の瀬で浄めて來くさろう。罰知らずが……。こんな文脈で率川が出てくるのにはびっくり、平城京の川と言えば(佐保川や秋篠川ではなく)率川になるのかと、こちらは少しばかり爽快な気分(?)になりました。 * 松田智弘氏は執筆項目の末尾によると桜井女子短期大学(現:畿央大学)の教員。同じ著者名で『古代日本の道教受容と仙人』(岩田書院 1999) があり、岩田書院のWEBサイトでは著者肩書が「奈良市立二名中学校教諭」とあるが、『古奈良――研究調査』の編者池田源太氏が序文を寄せているので同一人の可能性が高いと思われる。同書の執筆後、桜井女子短大に移ったのではないか。 平野大念仏寺師走の一日、穏やかな天気に誘われて久しぶりに長慶の石像探訪に出かけた。今回は大阪平野の大念仏寺に行く。毎年5月に行われる「万部おねり」で知られた融通念仏宗の総本山。JR関西線の平野駅で下車、南へ数分歩くと山門に至る。このたびも例の如く安達正興『宇宙菴 𠮷村長慶』(奈良新聞社 2011)をガイドにして歩いた。融通念仏宗の寺院は奈良に多いが、𠮷村家の菩提寺、ならまち鳴川町の徳融寺(「徳融寺の石像」参照)もその一つであった。その縁で大正11年、長慶還暦にあたって大念仏寺に碑文とトンビ姿の立像を刻んだ寿碑を建て、先立つ大正4年には「円窓の座像」を置き、同じころ「長慶師之墓永鎮在嵯峨二尊院小倉山/長慶寺」の標石も建てていたようだ。 [付記] 江戸時代初期建造の山門 昭和13年に再建の本堂、総欅造り銅板葺き 本殿の右から墓地に入ってゆくとすぐ左の一角に長慶石造物が三つかたまって置かれている。「石の巣箱のようなものは「円窓の座像」と呼ばれる石棺で、一度拝見すると滅多に忘れられない奇想天外な趣向」(安達 70頁)である。 石棺の丸窓から中を覗くと座像が見える。和服姿で正座した像は「家紋九枚笹の紋付を羽織り、左手に帝国憲法、右手を膝に置き如来道の巻き軸を持つ」(安達 297頁)とのこと。 石柱の裏側にはおなじみのトンビ姿、笏を持つ 碑文とトンビ姿の立像を刻んだ寿碑は、大正11年、念願の長慶寺建立が緒についた記念に本山大念仏寺に建てたものらしい。長慶寺は翌大正12年7月17日、正式に開山。刻文によると(この写真では見えない位置に刻まれているが)長慶は「年歯六十」の還暦にあたり本寺に寿碑を建てるのは、吉村家が代々この融通念仏宗の門徒であるだけでなく、「現住第五十九世法主と結道の契り厚き故」とある。大正壬戍(11年)と年号が記され、また、碑文の初めの題号に「宇宙庵𠮷村紀長慶壽像碑」と紀の一字が加わっている。父方が紀氏一門の系であることに由来する(安達 296頁)。 長慶の座像を収め円窓をくりぬいた石棺は、「一度拝見すると滅多に忘れられない奇想天外な趣向」と安達氏の言うとおり、たしかに他所で目にしたことのない不思議な石造物である。これについて安達氏は徳融寺住職の阿波谷俊宏師(*) から聞き取った解説を加えて、以下のように述べている。 一メートル四方の石室正面にある穴を、腰をかがめて覗き込むと、羽織袴で正座した長慶さんと目が合った。一瞬たじろぐ。トンビの寿像と同年の作だが、羽織和装の長慶像はこれよりほかには見られない。(中略)帝国憲法と如来道の巻き軸は長慶自像のアトリビュートである。昭和14年、喜寿の記念に菩提寺の徳融寺に建てた等身像も右手に帝国憲法、左手に如来道の巻軸を持っているし、昭和16年の長慶最後の自像となった長慶寺門前の石碑も同じ姿である。(「長慶さんの橋」参照)。 長慶自像の服装には、「大雑把に分類すると、制作された時代によって外套のトンビを着て笏を持つ姿と、背広にネクタイで憲法と如来道を持つ姿の二通り」(安達 24頁)があるとのことだが、この大念仏寺のは前者、徳融寺のは後者である。そして「円窓の座像」は唯一の和装である。”入定” には和装が相応しいからか。 ところでトンビというコート、いまはもう見ないし、昭和20~30年代に幼年・少年期を過ごした私も、そのころこれを着用している人の姿を見たのかどうか、あいまいだ。映画の中でときどき見かけたくらいではないか。この言葉はすでに死語かも知れない……と思いきや、ネットで検索するとトンビコートは今でも売っていました! アマゾンや楽天市場でずいぶん多くの商品が販売され、メルカリやヤフオクでもけっこう取引されている。生地や寸法を指定してオーダーできるところもある。びっくりです。 トンビについて、安達氏は「五十年前くらいまでは」[著書刊行が2011年だから1960年ころ]よく見かけたと言う。 長慶のレリーフ自像は、大きく分けて洋服像とトンビを着用しているものがある。トンビはコートの上からマントを付け外しできるようになっているが、揃えで売られていた。明治二十年頃日本に入ったスタイルは黒がほとんどで、トンビ、すなわちインヴァネス・コートの由来にも触れ、かの探偵シャーロック・ホームズの装束に話しが及ぶ。 (トンビは)英国ヴィクトリア女王の頃、燕尾服シルクハットに白の蝶ネクタイという夜の正装用外套として広がった。ツヤのある黒いウール製。これがスコットランド高地の湿っぽい気候によく、日常に使われるようになって一つのスタイルが確立した。土地の名を冠してインヴァネス・コートと呼ばれ、生地はツヤ地の黒からスコットランド・ウールのチェック模様に変わり、お揃いの鹿撃ち帽が定番になった。(中略)ちなみにシャーロック・ホームズのインヴァネス・コートに鹿撃ち帽というコスチュームは作中になく、刊本の挿絵によって作られたイメージらしい。そこで英語版ウィキペディアを見ると Inverness cape の項目に、In the Holmes novels, Holmes is described as wearing an Ulster. Holmes's distinctive look, which was usually complemented with a deerstalker cap and a calabash pipe, is a composite of images, originally credited to illustrator Sidney Paget. とある。ドイルの作中では粗織りのアルスター・コートを着ていたのですね。 「鹿撃ち帽」は、同じく英語版ウィキペディア Deerstalker の項目に、シャーロック・ホームズはこのタイプの帽子を着用している姿で一般にイメージされているが、Holmes is never actually described as wearing a deerstalker by name in Arthur Conan Doyle's stories, though. とある。これもドイルの作中にはなく、英国版の Sidney Paget や米国版の Frederic Dorr Steele の挿絵で広まって定着したようだ。 ネットで「インヴァネス」を検索していると、ところどころで伊丹十三が「着物にインヴァネスは和洋折衷の大成功の一例」と語っているとする記述に行きあたる。調べてみると、その表現は初期のエッセー集『再び女たちよ!』(1972年 文藝春秋社 → 新潮文庫)の《インヴァネス》という項目中にある。いわく「二重回しとかトンビとかインヴァネスとか」が昔の小説を読んでいると出てくるが、この三つは同じ物だ、 […]結局これはアレなんだヨ、ホラ、シャーロック・ホームズが着ているでしょう、こういうの、ネ? アレをつまり、そのまま着物の上に着ちゃったわけでねえ、まァ、つまり、大胆っていうかなんていうか、で、おもしろいのはサ、これが実にピッタリ合っているんだヨネ、和洋折衷っていうのかサ。「うちの親父」が伊丹十三の現実の父・伊丹万作を指しているのか、その書き物にこのような個所があるのかどうか、については未調査です。 * 阿波谷俊宏[あわたに・しゅんこう]師は数年前まで徳融寺の住職。奈良新聞の昭和54年9月10日に掲載された「生き葬式」というエッセーが『宇宙菴 𠮷村長慶』に転載(126-127頁)されている。昨年『絵解き 融通念仏縁起』(2018/04 奈良新聞社)を上梓されている。(「徳融寺の石像」)参照。 |