メモ帳 -- 抄録、覚え (その19)大坂新町この暮れから正月にかけては、年越しの片付け・諸行事の合間に高田郁『みおつくし料理帖』シリーズを読み継いで、ゆったりと心地よい(そして涙ぼろぼろの)時間を過ごした。大坂生まれの娘が江戸で、味付けも客の気風も異なる土地で、料理人として懸命に生きて行く物語だ。文庫本10巻。塗師の娘の澪(みお)とその幼馴染である大店の高麗橋淡路屋のこいさん(末娘)野江(のえ)は大坂の町を襲った大洪水で両親を失い天涯孤独の身となった。大雨で淀川の堤防が切れ、天神橋、天満橋、葭屋橋まで落ちたのである。泥まみれの澪は天満一兆庵のご寮さん(女将)に救われ、その店の奉公人となるが、5年後料理店が貰い火で焼失。一方、美しい野江は御救い小屋(避難所)から騙されて吉原に売られる。幼い二人は過酷な運命を背負う。 澪は江戸に下るご寮さんに同行する。天満一兆庵の跡取り息子が一兆庵江戸店の主となっていたのである。だが江戸についてみると、店は人手に渡り、息子は行方知れず。こうして始まる物語の舞台は江戸に据えられるが、ところどころ回想場面などで大坂がでてくる。澪と野江の遊びの情景、そして洪水。 やがて澪は知ることになる。吉原・翁屋の「あさひ太夫」という、ただならぬ美しさで牡丹の花も自ら恥じて萎れるほどとの評判ながら、誰も見たことがなく、廓ぐるみで作り上げた幻の花魁ではないかと噂されている遊女、それこそが幼馴染の野江だと。会いたいと願って澪は胸を焦がすが、廓外はもとより廓の中でも対面することはかなわなない。 吉原の八朔の日。上方から生きたまま船で運ばれた鱧(はも)の料理を頼まれて澪は翁屋へ行くことになった。料理を終えて店を出ると通りは人であふれている。その日の翁屋の『俄』(にわか、俄狂言)は遊女が白狐に化ける趣向。白装束に白狐の面を被り三味線や鼓を手にした三十人近くの行列。見物客に混じっていた幇間が「お狐さあん」と呼ぶと白狐が一斉に「こおん、こおん」と答えて踊ってみせる。先頭で踊っていた白狐がおどけたしぐさで澪に近づき、その手を取ると群れの中へと導いてゆく。白狐の群れに取り巻かれ、見物人の視線から守られた中、野江が近づいてくる。 ああ、やっぱり野江ちゃんや。そう言ったつもりが声にならない。涙が双眸から噴き出して、澪は堪らず野江に縋った。澪と野江が家族を失った洪水は、享和2年(1802)の「享和の大水」だから、物語の時代は寛政から文化・文政年間にあたる。 その時代の大坂の様子を知るために古地図を見てみよう。国際日本文化研究センター(日文研)が閲覧に供している《所蔵地図データベース》に「攝州大阪全圖 : 天保新改」がある。これは文化・文政に次ぐ天保年間、天保8年 (1837) のものだが、地形や町並みはほぼ物語の時代と変わりないと思われる。下に、天地を逆にして写させていただく。 攝州大阪全圖 : 天保新改 1837年 [北を上にした] 同 船場部分 上の部分図の中央、北の大川から時計回りに東横堀、西長堀、西横堀に囲まれた長方形の地区が商都大坂の中心部「船場」で、かつ澪と野江の大坂での行動範囲でもある。右上の大川から天神橋のたもとで東横堀が分流するところ、東横堀の最上流に葭屋橋(よしやばし)、それとV字型に架かる今橋があり、次の橋が高麗橋で、橋から西へ延びる通りに野江の生家、淡路屋があった。澪はその対角線上に位置する四ツ橋近くの平右衛門町の小さな貸家で生まれ育った。夜になると新町廓の「三味線の音や地歌」が聞こえてくる(第1巻『八朔の雪』88頁)という場所。 同 新町廓の区域 西横堀川の四ツ橋から一つ北の橋が、寛文12年(1672)に架けられた、町の中心部と廓をつなぐ「新町橋」。この橋を渡ると掘割を巡らした廓の東門である。門近くに井戸がある。これは廓を引く遊女が「門出(もんで)」と呼ばれる足洗の儀式をする「足洗いの井戸」とも「花の井」とも呼ばれる大切な井戸である。洪水の前のことになるが、この井戸に二人の娘は下駄を落としてしまう。釣瓶を揺すぶって下駄を引き上げようとするが、果たせない。事の次第を見ていた一人の引舟(太夫や新造の世話をする遊女)に咎められ、手を引っ張って廓内に連れて行かれる。実はこの場面で物語の重要なキーが与えられる。ここで、二人の運命を占う二つの言葉がもたらされるのだ。 二人は無理に手を引かれ、遊郭に入ってゆく。「東の大門から西の大門までを貫く、瓢箪町。格子越しに遊女が並んでいるのが見えた。引舟は、その二つ目の辻を右に折れ、少し行くと今度は左に折れる。いきなり、両側に間口十五間(約二七メートル)を超える堂々たる揚屋が立ち並ぶ、幅の広い通りに出た。二人の手を引っ張りながら、女はそのうちの一軒に入って行った」。この描写によると、そこは「模式図」の6番、九軒町(くけんまち)の揚屋になるだろう、あるいは有名な吉田屋(**)か。 引舟は濯ぎの水で二人の足を洗ってくれ、「新町のおんなが命の水みたいに思てる」井戸を汚してはいけないと懇々と言い聞かせ、「裸足で帰るわけにいかんやろ」と優しい言葉をかけて、どこからかちびた下駄を持ってきてくれた。そのときたまたまその揚屋に居合わせた高名な易者、水原東西が野江を目にして顔色を変える。じっくり顔を見、手を見、「稀に見る吉祥。この道に入って久しいが、ここまでの強運の相を見るのは初めてや……太閤はんにも勝る『旭日昇天』の相や」と低い声で洩らす。易者はそばにいた澪の顔もじっと見て、左右の掌を覗き、「ほほう、お前はんは『雲外蒼天』の相やな」と占う(第1巻『八朔の雪』96-99頁)。この占いは二人の将来を予言する。ことに『旭日昇天』は野江の運命を操る言葉となる。 江戸時代を通して繁栄をつづけてきた新町遊郭も明治になると、新町よりもっと西の地域に松島遊郭が開設され、また 明治23年 (1890) には「新町焼け」(***)と呼ばれる大火で町の大半が焼失し、衰退の一途をたどることになる。それでも大正11年(1922)に芸妓たちが踊りを披露する新町演舞場が建てられ、「浪花踊」は大阪の春の風物詩だった。だが廓の中に商店が作られるなど、次第に商工業の町となってゆく。昭和20年(1945)の大阪大空襲によって新町は焼け野原となり、わずかに残っていた揚屋も、なかには九軒町の吉田屋もあったが、焼失した。 大阪の新町にことさら関心をいだくのは、ここが少年時代の私の生活空間だったからだ。小学校2年生の途中から新町の西のはずれ、当時の住所で新町南通5丁目で暮らすことになった。いま思えば歓楽街の名残か、新町には料理屋が多かったような記憶がある。通ったのは堀江小学校。阿弥陀池・和光寺の東にあって、埋め立て前の西長堀のほとりを歩いて通学した。 江戸初期から諸国の材木が大量に大坂に集まるようになり、土佐藩が幕府に願い出て、立売堀や西長堀に材木市場を開く許可を得た。とくに長堀の南には土佐藩が大きな藩邸・蔵邸を立て、土佐稲荷神社も祀られている。橋の名前からも土佐とのつながりが明瞭だ。鰹座橋は説明の必要もない。白髪橋はヒノキの産地の土佐・白髪山に由来する。 私が小学生の頃には、川の北側は市電の走る道路で、南側は材木市場は無かったものの、西の方の玉造橋、鰹座橋辺りまではなお貯木場として使われていたし、材木の置かれていないところは瓦礫の中にポツリと掘建て小屋があり人が住んでいた。まさしく戦後の風景だった。 日文研の《所蔵地図データベース》に、天保期の地図と同じく昭和の大阪の地図も収められている。下に終戦をはさんで2枚の、新町付近をコピーした。1941年版の新町には九軒、芳(吉)原、越後町(佐渡島町の西)という地名があって、江戸時代の新町廓の歴史の痕跡を留めている。新町通3丁目には、ちゃっかり版元の「わらぢや」(和楽路屋)(****)の名が書き込まれている。1955年版には戦後の復興道路「なにわ筋」「新なにわ筋」がすでにある。 大阪市街地圖 (1941) 、部分 大阪市街地図 (1955) 、 部分 私が堀江小学校に通学したのは昭和27年(1952)の秋から昭和32年(1957)3月まで。上の1955年版の頃にあたるのだが、記憶の中の風景では、新町を縦断する戦災復興計画による二つのなにわ筋はまだ形を成していないので、1941年版の方がぴったりくる。 あみだ池隣の学校へ行くには長堀を渡ることになる。洲崎橋、玉造橋、鰹座橋、白髪橋のどの橋を渡るか、気ままに選んだような気がする。玉造橋を渡って土佐稲荷神社を抜けて行くことが多かったか。その先の問屋橋、富田屋橋は遠回りになるのでそれほど使わなかった。帰りに寄り道をするときくらいだったろう。級友はほとんどが薩摩堀、立売堀、新町、堀江に住んでいた。薩摩堀は昭和26年(1951)に、立売堀は昭和31年(1956)に埋め立てられた。 プラネタリウムのある電気科学館へはちょいちょい出かけたので四ツ橋はよく覚えている。その東の御堂筋に並んで建っているそごうと大丸の百貨店、これは教室の窓から遮るものなくよく見えたし、確か先生にいいつかって教室の水槽で飼っていた金魚の餌を買いに、級友数人で大丸の屋上まで行ったこともある。 澪と野江が下駄を落とした「足洗いの井戸」が「花の井」とされているところを読んだとき、おや、と思ったが中学校のとは別の井戸である。学校の「花乃井」は津和野藩の蔵屋敷内にあった井戸で、1868年の明治天皇大阪行幸の折、この附近で休息をとり、この井戸水で茶を点てた。天皇はこの水を褒め「此花乃井」の名を与えたので、名水として広く知られるようになった、との伝承がある。 * 「江戸期における大坂新町の空間構成に関する研究」、下の[付記]参照[付記] 本項を執筆するに当たってネット上の多くの記事・資料を参考にさせていただきました。主なものを下に掲載しておきます。
静かな奈良このごろ花粉症のため、そして疫病のこともあり、出歩くことが少なくて、運動不足になっていたが、ようやく花粉の飛散が収まってきたので、久し振りに奈良公園の散歩にと思い立った。時節柄、電車もバスも敬遠し、家人の運転に頼って出かけた。猿沢池南の駐車場に車を置いて歩きはじめる。猿沢池のほとりはポツリポツリと鹿がいるだけで、ほとんど無人。一昨年の暮れにオープンした話題のホテル「セトレならまち」も静まり返っている。池のほとりから「五十二段」の石段を上って五重塔の下に出る。まあ、閑散としています。興福寺のすべての堂塔も拝観停止となっている。前方に見える、毎年年始に訪れる南円堂はお参りはできそうだ。 鹿は三々五々連れ立って草を食んでいる。 あちこちに散らばって、のんびり過ごしているように見える。 普段、鹿せんべいを売っているところ、 やはり多くの鹿が集まっている。 大仏殿への道、左手のお店もちらほら開いている。 この場所でこれほど鹿と人の少ない光景は見たことが無い。 通りの右手は、人と鹿の平和なひととき。 餅飯殿通り、人も少ない。 [付記] 花粉症が収まってきて例年ならそろそろマスク無しで過ごせるのだが、今年はそうはいかなさそうだ。言うまでもなく疫病まん延のためである。マスクでウィルスが防げるわけではないが、各人の口から飛沫を振りまかないために着用ということで、どうやらここしばらくはマスク無しの外出は難しいようだ。 二月以来のマスク不足に対処するため、我ら花粉症夫婦はそれぞれが紙マスクの自作に取り組んできた。さまざまな試行錯誤を経てそれぞれ別方法でかなりの水準に達したと自慢しあっている。私は百円ショップで一箱150枚入りのキッチンペーパーあるいはペーパータオルというのか、買ってきた。サイズは 200mmx230mm で、これ2枚を重ねてマスク一つを作る。あとはマスキングテープとゴムひも、材料はそれだけである。ゴムは繰り返し使えるので、マスク一つの原価は2円以下ということになり、日に一つや二つ使い捨てても苦にならない。 折り目は片流れと両流れの2パターンで、気分によって(!?)作り分ける。内側の両端は薬箱に余っていたサージカルテープを使っている。外に見える部分のマスキングテープをさまざまな色と模様に取り換えてヴァリエーションを楽しむ(!?)ことができる。 最近は欧米でも、一般の人はこれまで敬遠してきたマスク着用が一挙に普及したようだ。ドイツのラジオ放送とか、新聞・雑誌のウェブサイトでは、Ausgangsbeschränkung(外出規制)や soziale Distanzierung(社会的距離)(*)と並んで、Masken-Schutz(マスク防御)という言葉が飛び交っている。初めは「マスクは感染を防ぐのに役立たない」という論調だったが、 みるみるうちに「マスクはコロナウィルスの感染を防ぐものではなく、他人に感染させるのを防ぐ助けになる」との意見が優勢になって Masken-Empfehlung(マスク推奨)するようになり、いまはバスや電車に乗るときやショップで買い物をする場合、マスクを着用しないといけない Masken-pflicht(マスク義務)とする州も出てきている。 そんな次第で、あちらでもマスクの入手が困難になっていて、多くのサイトで自作マスクの型紙や作成法の動画を提供している。ほとんどが布を使うものだ。 数年前のことになるが、19世紀のヨーロッパの社会史のようなものを調べていて、コレラ・パンデミーについて本サイト(「ベルリンのコレラ」参照)に書いた。さまざまな香辛料、薬草を混ぜて作られた「コレラ苦酒」Cholerabitter が飲まれたり、コレラ予防になるとフランネル製の「コレラ腹巻き」Leibbinde が売られたり、人々の苦し紛れの愚行は今と変わらない。カール・グツコウという作家はベルリン社会の状況を記して、「コレラ感染の顛末は最初は悲喜劇で、結末はバラッドである」と言う。何か所か抜書きしてみる。 8月にシャルロッテンブルクで最初のコレラ死者が出た[中略]最初、市民は恐ろしい危険に気付きたくなかったようだ。劇場も祭りも社交も普段通り[中略]やがて、町中に予防薬とされる薬品の臭いが漂った。至る所で衛生警察、黒光りする皮服で患者・死者を運ぶ人員の姿が見られた[中略]市中では一般にはそれほどパニックにはなっていなかったが、現在は娯楽施設のある場所は人出は減り、予防に良いと言われることには誰もが手を出した。腹巻や膏薬は奪い合いになった。使用人は解雇され、食料品の供給が途絶えた。この先に来る本当の悲劇はまだ見えていなかった。(「ベルリンのコレラ」より)今年のコロナ・パンデミーでも同じような悲喜劇が演じられていますね。さて、どのような結末を迎えることになるか。 トイレットペーパー Klopapier などの買いだめは、あちらでもあります。最近ドイツのラジオから不思議なことにハムスターという言葉が繰り返し聞こえてきた。コロナのニュースで「ハムスター」とは一体何のこと、と不思議に思ったが、よく聞いてみると「ハムスター買い」Hamsterkauf とも言っている。要するに買いだめのことであった。使うためより貯えるために買うことをドイツ語で「ハムスターする」Hamstern と言うらしい。頬に食べ物を貯える習性から来ているのだろう。一般のドイツ語辞書には載っていない用法で、必要以上に買うことを、従来は (Hort ->) horten / Hortung という語を使った。 買い物に行けない時の簡単レシピとか、外出せずとも太らない trotz Corona fit halten とか、自宅でできる体操 Fitness-Übungen für Zuhause などの記事も多い。Home-Office や Home-Schooling は英語のまま使われている。学校が休校になり、デジタル授業 digitaler Unterricht とか自宅学習 Hausarbeit のことも話題に。保育所(託児所)Kita, Kindertagesstätte が閉まって親が困っている、特に片親 Alleinerziehende の場合は大変という訴え。これも彼我おなじです。 ここ1、2カ月で色々なドイツ語表現を勉強させてもらいました。いまでは「終息後の消費回復」Nachholbedarf der Konsumenten などということも話題になり始めている。かと思うと「流行の第二波」zweite Infektionswelle を警戒する声も聞こえるようになってきました。(2020/04/21 記) * あるいは Räumliche Distanzierung という(英:social distancing / physical distancing)。ドイツでは公園やら商店入口の掲示に "Abstand von mindestens 1,50 Meter" とか "Bitte halten Sie 2 m Abstand" と具体的に示しているところが多いようだ。 静かな奈良(続)三密を避けよとかステイホームとか呼びかけられる日々が続いていますが、退職して何年にもなる私などのような者は、もともと本を読むかパソコンのキーボードを叩くかの毎日だから、つまるところ普段と変わらぬ生活を送れということになります。日課の早朝散歩と、ときどきのショッピングモール回遊(カフェ、フードコート、百円ショップ、書店など)は変わらず続けていて、いささか変化があったのは交通機関を使う外出ですね。バスは週に1~2度だけの利用、電車はこの数カ月一度も乗っていないかな。もともと遠出することは余りないとは言え、これは確実に減っています。前項で、花粉症が収まってきたのでと、奈良公園・奈良町の散歩に出た顛末を記しました。歩いたのは四月十六日のこと。五月にも六月にもそれぞれ一度乗用車で出かけました。観光客とシカの姿もポツリポツリと見かけるだけ。やはり鹿せんべいが欲しいのだろうか。すぐ近くまで寄ってくる。 これは六月二十九日の興福寺境内。 この日は興福寺だけ参拝して、あとは奈良町を歩いたのでした。今回、久し振りに一人でバスに乗って出かけた。以下は七月十六日の公園の様子です。「近鉄奈良」でバスを降りて歩きはじめましたが、やはり人出は少ないですね。 登大路に沿った南側歩道。煎餅売りの側にシカがいる。 あちこちに散らばって、のんびり過ごしているように見える。 そういえば、最近の観光客の減少で、鹿の健康がよくなり、コロコロと丸い、いいウンチをするようになったと、ラジオのある番組で保護の会の方が話していらっしゃった。せんべいを多く食べると喉が渇くので水を多く飲む、それでウンチが柔らかくなる…とか。因果関係はともかく、実物を観察してみましょう。 きれいなウンチだ。 これは少し柔らかい? 確かにべたべたのウンチは見当たらない。 [註]奈良の鹿は何を食べているのか鹿のウンチといえば、いつごろからか土産物屋で「鹿のふん」なるものを売っている。鹿せんべいがシカのおやつならば、こちらは人間のおやつだ。 「炎の探偵社」サイトから。 吉永小百合が歌った「奈良の春日野」(奈良の春日野 青芝に/腰をおろせば 鹿のフン……)を、奈良出身のお笑い芸人が1980年代末のバラエティー番組で取り上げ、話題になったことから生まれた(炎の探偵社、調査ファイル6 参照)とのこと。チョコレート味で見た目は本物の「ふん」そっくり。このごろは醤油味のものとか、さまざまなヴァリエーションも作られているらしい。 大仏殿への参道、四月より鹿と人の数は多くなっている。 左手の土産物店もほとんど営業している。 春から初夏はシカの出産・育児の季節、近づきすぎないこと。 奈良公園の人出は、寂しかった四月よりは増えているが、ここ数年の賑わいからは程遠い状況だ。目に余る雑踏・観光公害が無くなり、シカも健康になって、私などは、今のこれくらいの人出がちょうどではないか、と思ってしまう。観光関連の仕事で働いている方々の窮状はお察しいたしますが、ここ2、3年が異常だったので、雲霞のごとく押し寄せる外国人客を当てにしない、落ち着いた観光戦略に切り替えられるよう、心から願っています。 最近NHKテレビのニュースで奈良の鹿の話題が二度続けて放映された。 最初は7月9日の夕方のニュース。その内容は「NHK NEWS WEB 奈良」にも「観光客減 奈良のシカ野生化か」のタイトルで掲載されている。(07月09日 19時19分)この記事をも借用して、要約すると、 ある人物が公園のシカを観察し記録を取っている画面が映し出された。字幕で北海道大学の立澤史郎という研究者だと分かる。解説によると、「奈良公園の鹿が、新型コロナウイルスによる観光客の減少で、餌を与えられる機会が減り、周辺の山で草を探すようになるなど野生の状態に近づいている」とのこと。調査を行ったのは、北海道大学と奈良の鹿愛護会のグループ。このごろは、草をしっかり食べるようになって栄養状態がよくなったとしている。二つ目のニュースは、奈良公園の鹿の頭数の話題。同じく「NHK NEWS WEB 奈良」(07月17日 17時22分)の記事を参考に要約する。 毎年7月に鹿の数を調査している「奈良の鹿愛護会」によると、今年の調査の結果、「奈良公園に生息する鹿の数は1286頭と、調査を始めた昭和30年以降、最も多かった去年より102頭減った」とのこと。毎年きちっと頭数を数えているのですね。 [追記] 7月26日付毎日新聞朝刊(奈良版)によると、「奈良の鹿愛護会」が奈良公園に生息する鹿の頭数調査を15、16日に実施した結果は、総数1670頭(雄445、雌971、小鹿254)で昨年より11頭減。昨年7月から死亡した鹿は308頭(病気102、交通事故49など)で昨年より129頭増、とのこと。 7月17日「NHK NEWS WEB 奈良」の記事と比べると、死亡数は一致していますが、総数がかなり違います。実施日が2日に渡ったのはなぜか、調査範囲が異なるのでしょうか? [追記2] 奈良テレビ放送(7月29日、WEB ニュース)によると、 * 奈良公園内のシカの総数は1286頭 * シカを保護する鹿苑内では384頭 * 公園内と鹿苑内を合わせた全体の頭数は1670頭 とのこと。NHKと毎日新聞の数字が異なる謎は解消しました! この秋の奈良この秋になって、残暑が厳しかった九月、そして急に涼しくなった十月、それぞれ一度、奈良公園に出かけた。いずれも平日だったが、人の数は少しずつ多くなった気がする、そして小さな子鹿が、こちらは目立って増えた。登大路の中央分離帯で草を食む鹿。 鹿せんべい売り近辺に集まる鹿。 小学生の遠足か、久し振りに見る団体。 大仏殿の前、往路・復路が分けられているが人はまばら。 この日、10月15日は毎年「盧舎那仏造顕発願慶讃法要」、市民は親しく「大仏さまの秋の祭り」と呼ぶ祭礼が行われる。今年は「孝謙天皇千二百五十年御遠忌」ということで、特別の法要が行われた。――私が出かけたのは昼前、とっくに法要は終わっていた。 孝謙天皇(718年-770年)は聖武天皇の第一皇女。母は光明皇后。重祚して称徳天皇。天平17年(745年)に大仏造立が開始されたが、発願した聖武天皇は749年8月、阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位したので、天平勝宝4年(752年)の開眼供養会は孝謙天皇が催した。また天平勝宝6年には大仏殿前の戒壇で父母とともに鑑真和上から戒を授けられたことが『東大寺要録』(*)に記されているとのこと。 今年は疫病まん延のため、法要に伴う行事は縮小され、表千家による献茶の儀、華厳茶会、慶讃能は取りやめになった。 奈良県合唱連盟の女性コーラスグループが「大仏讃歌」(堀口大学作詞、團伊玖磨作曲)を奏唱する中で法要が始まる。うちの女房殿が所属する団も、ほとんど毎年のように参加している。例年なら百名ほどのコーラスだが、今年は密を避けて二十名に縮小されたとのこと。 大仏さんの真下から。 縮小されたコーラス団の配置は例年より大仏像に近く、台座にくっつくほどの場所が指定された。式が始まる前の待機中に、女房殿が許可を得てそこから写真を撮ったとのこと。この角度の大仏像は珍しいかも知れない。さっそく携帯電話の待ち受け画面にしていた――褒むべきか。 * 東大寺要録は奈良時代から平安時代までの東大寺の寺誌。巻第一の本願章には大仏造立を発願した聖武天皇の他、開眼時に天皇の位にあった孝謙天皇のことも書かれている。孝謙天皇は749年7月2日に32歳で即位、即日元号を天平勝宝と改元したこと、天平勝宝4年4月9日には天皇として大仏開眼の大会を催したことが記されている。 この秋の奈良(続)前項で、残暑が厳しかった九月、そして急に涼しくなった十月、それぞれ一度、奈良公園に出かけたことを報告した。いずれも平日だったが、「人の数は少しずつ多くなったという気がする、そして小さな小鹿が、こちらは目立って増えた」と書いた。十一月になり、五日に奈良公園へ出かけた。この日はまだ国立博物館の正倉院展の会期中、今年の観覧は人数制限がある完全予約制で入館待ちの列は短く、それでも人気の展覧会なので大勢の人々が詰めかけていた。例年、正倉院展になると設けられる、館西側のテント張り飲食コーナーは空席ばかりが目立っていたが。 大仏殿への参道も、十月より賑わいが増していた。 十四日の土曜日には奈良町に出かけた。土・日に外出することはめったにないのだが、今回は「ならまち糞虫館」へ行くのが目的、ここの開館日は土・日の午後なので、平日では用を足せないのだ。 市中の人出はやはり多かった。近頃では目にしたことのない賑わいだった。多くのレストランやカフェの前で行列ができていた。 こうした人込みを抜けて南へ歩いて行く。三条通り、ならまち大通りを越えてなおも南下、やがて南城戸町に差し掛かると、目指す糞虫館はもうすぐだ。 [付記]城戸町は「じょうどちょう」と読む。東、西、南があるが、北城戸町は無い。町名の由来は諸説あり、『奈良晒』には「いにしへ筒井左馬助、椿井町にオハシける時、此所ニ城戸をかまへしゆえ町名となす」とあり、『奈良坊目拙解』には「春日の神鹿が田圃の植物を食い荒らすので、古くから柵を造り鹿害を防いだ。この柵の門を城戸門という」とあるとのこと。(山田熊夫『奈良町風土記』(昭和51年、昭和53年再版 豊住書店 )糞虫館のサイトによると、訪れる人の多くが「わからんかった。まさかこんなところにあるとは…と言いながら入ってこられる」と、所在の分かりにくさがクローズアップされているので、地図でしっかり場所を確認して出かけた。「営業時間中は、表通りに面したところに立て看板を出しているのですが、上品すぎて目立たないのかもしれませぬ。仏具屋さんの水本生長堂を見つければ、もう大丈夫。その南側の壁に沿って幅1.5mの未舗装の路地を15mほど進んでください」との説明通り、路地入口に三角コーンを使った小さな標識が立っている。 三角コーンの横から路地を覗き込むと、こんな眺めだ。 奥へ進むと右側に館が見えてくるが、幅狭の路地ゆえ、建物正面の写真が撮れない。前方がすこし広がっているので、先へ進んで振り返って写した。 路地入り口の三角コーン標識がここにもある。左の建物が糞虫館である。 さて糞虫とは何か。あの古代エジプトの神話に現れるスカラベ、また「ファーブル昆虫記」で多くの虫捕り少年の心に刻み込まれたスカラベ・サクレ、要するにフンコロガシ(糞転がし)である。この虫には多くの種類があり、獣のフンのある所には必ず生息、日本国内にも数十種類いるのだ。ということで神聖な神の使いの鹿が棲む奈良公園にも糞虫はいる。糞虫館のサイトに、 日本には約160種類の糞虫がいますが、本州で見ることができるのはそのうち100種類程度。さらに希種と呼ばれるめったに見ることができないものを除いた約70種類が、我々のような一般の糞虫好きが目にすることのできる糞虫なのではないでしょうか。糞虫館から徒歩15分の奈良公園で1年を通じて観察すると、運が良ければ35種類以上の糞虫を見ることができます。この私設博物館の館主は中村圭一氏。2016年に26年間務めた金融機関を早期退職し、奈良にUターン。2017年7月には奈良市役所ギャラリーにて「奈良の糞虫・世界の糞虫」展を開催、そして2018年7月、ついに「ならまち糞虫館」をオープンした。 大仏様より古くから、鹿とともに奈良公園に住み続けている糞虫という虫たちの存在を皆様に知っていただきたい、延々と繰り返されてきた彼らの営みの尊さを感じていただきたい、との思いで、この「ならまち糞虫館」を作りました。昆虫少年のスカラベはフンコロガシだが、実は糞虫のなかで「糞を転がし」て運ぶ種は多くない。奈良公園の糞虫も大半が「糞を転がさない」ものだ。中村圭一氏の「むしむしブログ」によると、 日本人はファーブル昆虫記を読んだ方が多いせいか「糞虫」=「フンコロガシ」、つまり糞を丸めて転がす虫と思っている方が多いようです。なので、私が「日本の糞虫の99%は糞を丸めて転がすことはしません」と説明すると、「えーっ!!」と驚かれると同時に、残り1%の糞玉を作って転がす糞虫に関心を示されます。で、全長2mmほどのマメダルマコガネというチビコエンマコガネよりまだ小さい糞虫が森の中で密かに糞の玉を転がしている、とお話しています。ところで、この糞虫は奈良市民に毎年並々ならぬ金額をプレゼントしてくれているという。奈良県の「県土マネジメント部まちづくり推進局奈良公園室」という長くて堅苦しい名前の部署のサイトによると(2017-06-21 の記事)、 奈良公園には約1,200頭の鹿がいると言われています。鹿の主食は公園に生える芝である。鹿が一所懸命に食べてくれるので、芝刈りしなくてすんでいる。あの面積を人間が芝刈りし糞の清掃をしようとするとその経費は年間100億円になるとか、鹿と糞虫の共存関係に市民は感謝しなければならないようだ。 |