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メモ帳 -- 抄録、覚え (その2)



お茶漬け

落語の中で、夜によく茶漬けを食べてるシーンがあるのだが、それは夜のご飯が冷や飯だからだ。そのままでは冷たいので、あったかいお湯かお茶をかける。少しはあったまる。茶漬けはそういう存在だった。最後にさらさらっと掻き込むためのあっさりしたものではなく、「冷や飯をあたたかく食べるための方便」だったのである。
--堀井憲一郎『落語の向こうのニッポン 45』(「本」2010.5 講談社) 48ページ
朝と昼はあたたかいご飯で晩は冷や飯、これが江戸から昭和初期までの日常食であったとのこと。そうか、と感心。



姓にまつわる俗説…?

武家・貴族以外の平民は明治維新まで姓はなかったとする俗説がいまだに大手を振って歩いているが、実際には七世紀の昔から大半の日本人は姓をもっていた。
--辻原康夫『人名の世界史』(平凡社新書) 139ページ
すなわち、670年の庚午年籍でほぼ全国的に戸籍が作成され、一部の被差別民を除く民のすべてに姓が与えられた、とのこと。うーむ、そうか・・・

とはいえ、俗説がまかり通るにはそれなりの事情もあった。
平安中期以降代々姓をうけつぐ習わしが次第に崩れ、通り名だけで事足りる庶民たちにはやがて自らの姓を忘れていく者も少なくなく、かつ、江戸時代には苗字帯刀を許された一部を除き、平民が家名を公称することが禁じられた。明治になって平民の姓の名乗りが許可され、壬申戸籍の制定で国民すべてが姓を持つよう義務づけた。これで休眠状態にあった姓が復権し、「明治新姓」と呼ばれる約十万種の家名が作られたとのこと。

やはり大半の平民は明治になって姓を名乗るようになった、というのが実態であろう。



篇と編

「篇」と「編」とは、日本語で読むとどちらも「ヘン」だが、意味・用法がちがう。
「篇」は作品一つ一つをかぞえることばである・・・「編」は糸へんがついていることでわかるように「あむ」という動詞である・・・編輯(編集)、編纂、共編など・・・

--高島俊男『篇と編その他』「本 July 2010」(講談社) 35ページ
これは当用漢字(常用漢字)で「篇」はすべて「編」にされたからで、昭和三十一年の政府(当時の文部省)の「同音の漢字による書きかえ」という文書に、「篇→編」「長篇→長編」「短篇→短編」と指示してあるそうだ。

「文部省指示は国民が使用してよい漢字を千八百五十字以内とする目的のもので、文字の意義などは顧慮していない。当用漢字政策がすでに破綻した今、長篇、短篇、一篇などは正しく「篇」を書いた方がよい」と主張される高島氏。

私などもあいまいに使っていたが、こう教えられると今後はきちんと区別しなくては、と思いますね。



一九五〇年の欧州旅行

最近、調べることがあって坂口謹一郎『世界の酒』を再読したのだが、いまさらながら名著だなと感心しきりです。
この高名な醗酵学者が「一九五〇年の秋から五一年の春にかけて、戦後の欧米諸国を一回りした時の旅行記のようなもの」(はしがき)が骨子となった読み物だが、ワインやビール、シャンパン、コニャック、シェリー、ジン、ウィスキーなどさまざまな酒類の製法や特性が素人にもわかる範囲で説明されている。
そして全体に、戦争が終わってまだ五年の敗戦国の一研究者の旅行ながら臆することなく恬然と振舞うさまに感服。またユーモアのセンスが見事で、そのうち一ヶ所だけここに引用しておきます。

イタリ―、スイス、フランス、デンマーク、オランダと回ってドイツに入る。ラインガウの葡萄酒試験場や醸造所を訪ねた後、ビールの本場ミュンヘンへ。醸造試験場長のクレーベル博士が親切な人で研究所の案内はもとより、レーベンブロイやらホーフブロイのビアハウス飲み歩きにも付き合うだけでなく、さらに町から一時間ばかり離れた田舎の老教授宅を訪問するときも、降りしきる雪の中、愛車を駆って送ってくれた。二人は教授宅ですばらしいディナー、それも食器はすべてマイセンという贅沢なもてなしを受けたあと辞去したのだが、さて、
 帰途はもはや薄暮である。幸い雪は止んだが、道が凍りだした。途中の坂で、自動車がすべってどうしても動かない。日は暮れかかるので困っていると、坂の上の方から、子供をまじえた大ぜいの村人がやってきて、われわれの車に太い綱をつけてかけ声勇ましく引き上げてくれたのは、まことに地獄で仏の思いであった。見ると、大ぜいが道に並んで、鳥の羽根のついたバヴァリヤの帽子なぞをゆかいそうに振って見送ってくれている。どうも、同じく負けても日本人ほど世知辛くないようである。
 クレーベル場長は、往きにはドイツ車オペールの自慢をしていたが、これ以後は、車については何も語らなくなってしまった。

--坂口謹一郎『世界の酒』(岩波新書 1957)117-118ページ


日本の洒落、西洋の洒落

鶯亭金升『明治のおもかげ』は最初から最後まで面白く興味深い話が満載だ。雑俳にまつわるいろいろ、縁日や、芝居小屋や、遊郭、太鼓持ちなど江戸情緒の残る明治のおもかげの中に、一ヶ所だけ珍しく西洋人が登場するので、その部分を引用しておく。

横浜居留地の聖書館長ヴレスウェートという英国人が日本の義民伝として『佐倉宗五郎物語』を英訳したのだが、問題はその序文。「それはサクラの縁で桜尽くしに書いた洒落のような鶯亭の若盛りの」序文であったのだが、江戸の老作家の著述と思って丁寧に訳したので意味不明の文とはなったそうだ。
そのころ内村鑑三がたまたまヴレスウェートと逢って「オウテイ」という作者を尋ねられ、「その人なら新聞社で日々逢います」ということで、ふたりして英国人宅に招かれる次第となった。
 それから晩餐の御馳走になって、氏は書斎に案内し、年来秘蔵の品だと言って各国の郵便切手を入れた箱を見せてくれた。実に珍奇な切手が沢山あるのに驚いている中うち、目についたのは二寸以上もあろうかと言う大形の切手であった。これにまた驚いて、
 「大きな郵便切手ですネ」と言ったらヴ氏は笑いながら、
 「昔の人は舌が大きかったものと見えます」と言った。内村氏の通訳したこの一言を聞いて僕は、西洋の洒落の味は此処だナ、と悟り感心した。
 日本の洒落は似口じぐちが多い、西洋の洒落は理詰めである。これからの洒落は理詰めになるだろうと思って帰った。

  --鶯亭金升『明治のおもかげ』(岩波文庫 2000)255-256ページ


平均年齢は百何十歳か?

クルト・ホノルカという名前は「『魔笛』とウィーン ― 興行師シカネーダーの時代」の著者として記憶にあったが、いま調べてみるとドヴォルザークやヤナーチェクなどのチェコ語オペラ台本をドイツ語に訳すという仕事もしている。この人は現在上演されるオペラが定番の古典ばかりで新しい作品が舞台にのぼらないことを取り上げて、次のような皮肉な計算を公表したことがあるそうな。
オペラ公演の半数以上は<不動の六人組>、つまりヴェルディ、モーツァルト、プッチーニ、ヴァーグナー、ロルツィング、リヒャルト・シュトラウスの作品によって賄われている。ビゼー、ヴェーバー、スメタナ、ロッシーニ、それにベートーヴェンの『フィデ-リオ』といったスタンダード作品と併せると、それは全演奏の八十五パーセントに及んでいる。カイゼル時代(*)ではレパートリー・オペラの平均年齢は四十歳強であったが、オペラ批評家で台本作者のクルト・ホノルカがこの調査を公表した一九八六年には、それは一〇〇歳を越えていた。
--フリードリヒ・ミヒャエル/吉安光徳訳『ドイツ演劇史』(白水社 1993)
* Kaiser を「カイザー」ではなく「カイゼル」と読むと、あの独特の「カイゼル髭」が有名になった最後のプロイセン王・ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世 (在位 1888-1918) を指すのが通例。
今では百何十歳になっているのでしょうか? これはオペラだけでなく声楽、器楽の独奏・合奏を含めた西洋音楽全体で言えることだろうが、「クラシック」の隆盛は19世紀までで終わって、そのあと「新しいクラシック」はなかなか生まれにくい状況で、日本の能・歌舞伎などと共通して、「伝統芸能」と化す宿命なのでしょうか。

ただし「ミュージカル」をオペラ、オペレッタの後継と見れば『マイ・フェア・レディ』を嚆矢に80年代以降ドイツ語圏の劇場でも『キャッツ』『オペラ座の殺人』などが上演リストの上位を占めるようになってきたので、平均年齢上昇速度は少し緩やかになったのでは!



アラブ人の回廊

スイス・アルプスの切り立った山の頂上に古代イスラム教徒の集落があるとのこと、地中海沿岸のモロッコ、アルジェリアなどのに住む人々がローヌ川を遡ってこのあたり一帯に移り住んだらしい。しかし、
カエサル率いるローマ軍に追われて山へ逃げ、やがてカトリックに改宗したが、村人の名前やかごを頭に載せて運ぶ風習などに、祖先の名残は今もたくさん残っているという。
伊藤智永という署名入りの毎日新聞コラムで教えられた。スイス・アルプスのふもとを走る汽車のなかで記者の向かい席に座った白人男性が話しかけてきて、そう教えてくれたとのこと。アルプスは古来、「地中海を挟んでアラブ人がダイナミックに往来する回廊」であったらしい。これは私も初めて知った。

しかしこの短いコラムにことさら関心を持たされたのは、それよりも記者に話しかけて来た男性の境遇のためだ。「私もシリア生まれのアラブ人です。12歳でスイスにきました」と自己紹介して、次のように身の上を語ったという。彼は、
ドイツ文学の大学教師で、ドイツ人の妻と離婚し、70歳を超えてスペイン語を学び始めた。バルセロナに買い求めたアパートで、一人余生を送る準備だと言う。
--毎日新聞12月26日朝刊 「街角」スイス
ドイツ文学研究者にはこういう余生もあるのかと、ドイツ文学研究者の端くれとして感慨がありますね。たまたま私も昨年からスペイン語を独学で学び始めたのですが、もちろんバルセロナへ移住する準備ではありません・・・



貴族身分の証明

ナポレオン支配下のヨーロッパで、すでに実態を失って有名無実と言われて久しい「神聖ローマ帝国」が一八〇六年に名実ともに崩壊したとき、バイエルンは選帝侯国から王国へと格上げされた。このとき成立した王国政権は新しい統一国家の体制を整えるためのさまざまな課題に取り組んだ。

その一つに貴族制度の改革があった。神聖ローマ帝国の貴族には大きな領地を有して裁判権など公権力を行使する領邦君主、その領邦君主に臣属する領邦貴族、さらに皇帝直属の帝国貴族と、大きく三つに分かれていた。それに修道院、都市も公権力を有し、そして地域によってそのあり方がいろいろに異なるという複雑な状況であった。

王国へと昇格したバイエルンは領地も拡大して、従来とは異なった貴族を新たに抱えることになり統一的な貴族制度を定める必要に迫られた。一八〇八年、「貴族身分は国王の許可によってのみ得ることができる」とする貴族勅令を制定し、すべての貴族があらためて貴族身分を証明する書類を「王国紋章局」に提出して、貴族台帳への登録を受けるよう求め、台帳に記載のない者は貴族と認められないとした。

これは古い家柄を誇る貴族などは大いに自尊心を傷つけられることで、積極的な申請は得られず、期限を何度も延長して十五年あまりの期間に審査を通って登録されたのは1845件とのこと。逆に拒否されたのが144件で、なかにはこの機会にあわよくば貴族にのし上がろうとした連中もいたようだ。
一八一二年四月から一五年九月まで「王国紋章局」長官を務めたラングは、その『回想録』のなかで、ほかに貴族身分を証明する書類がないので、宛名に何々男爵様と書いてある仕立屋の、しかも未払いの請求書を提出した輩がいたと揶揄している。
--谷口健治『バイエルン王国の誕生――ドイツにおける近代国家の形成』(山川出版社 2003)
本書『バイエルン王国の誕生』は中世の封建制から近代国家へと変貌するドイツ諸国の、これまであまり知ることのなかった制度史を詳しく説いていて、長子相続制、司教座聖堂参事会などについて蒙を啓かれるところが多かった。



国際語

「国際語」とは何か。中世のヨーロッパではラテン語であり、東南アジアでは「漢文」だったかもしれない。話し言葉より書き言葉が重要であったと思われる。現在はやはり英語がデ・ファクト・スタンダードの地位にあるだろう。

英語を国際語と認めることにはさまざまな意見がある。どうしても英語圏の人々が有利だし、あるいはアメリカの覇権に対する警戒感と連動する反発もある。とはいえ既存の言語とは一線を画するエスペラントなどの新言語が英語の代わりになるかと言うと、なかなか難しい。老練な言語学者の田中克彦は次のような指摘をしている。
日本の公用語に英語を採用した方がいいのではないかと思いついた、森有礼のような先駆的な人がいた。日本が近代国家としてやっていくにはその方が便利だと考えたのは、当時の状況を考えればむしろ自然なことであった。かれはまだ若く、二八歳だったから進歩の精神にあふれていた。こうした考えを笑ってはならない。(中略) 今日ふたたび、人々が大まじめに英語公用語化を論じるようになった日本では、森の意見はいまだに説得的な迫力をもっている。
最近はわが国でも幼児対象の英語教室が大流行だし、国としても小学校から英語教育を導入することになっているが、こういう時流に対する反発もまたある。何しろ、なかには英語を話せるだけで一廉のものになったと錯覚する輩がいて、英語公用語化に理解を示す同じ人から揶揄されるのである。
今でも国際学術会議などでは、その内容はとりたてて大したものでもないのに、英語が話せるだけで、学芸会の舞台に登ったようなぐあいにはしゃいでいる人たちはよく見かける光景である。日本で行われる国際会議がしばしば英語スピーチコンテスト、あるいは英語学芸会まがいになっていることをいやというほど見てきたのは私だけではないはずだ。
--田中克彦『エスペラント』(岩波新書 2007)
私は国際会議の経験は多くはないが、ある e-learning 関係の学会でのこと、研究発表はすべて英語で行われたのだが、最後で「質疑は日本語でお願いします」と締めくくられる発表がいくつか続くのに出くわしたことがある。要するに原稿は何とか英語で準備できたが、即興のやり取りはムリということであろう。これも「学芸会」ならではの光景か。

しかし次のようなこともある。ある国際学会のある分科会。この分野の重鎮が基調講演を行うため壇上に上がって、開口一番、こう言った。
「科学の世界の公用語は、皆さん、英語であると当然のようにお考えになっていると思いますが、実は違います」
 一体、何を言い出すのか。会場に集まった人々は驚いて彼の顔を注視した。(中略) まさか、彼の母語であるドイツ語だ、などというのではないだろうな。かつてドイツはすべての科学分野で世界をリードしていた黄金の一時期があったことは確かだが、いまさらそれは。
 果たして、彼はこう言った。
「科学の世界の公用語は、へたな英語プア・イングリッシュです。どうかこの会期中、あらゆる人が進んで議論に参加されることを望みます」

--福岡伸一『できそこないの男たち』(光文社新書 2008)
会場からは大きな笑いと拍手が沸き起こり、この学会では「どのセッションでも、アジアから参加した非英語民の活発な発言が目立った」とのこと。

だが言語には、人々のコミュニケーションに役立つという効用以外に、人間の「こころ」にからまる微妙な何かがある。田中克彦も上の著書で、エスペランティストであった宮沢賢治や山田耕筰の詩と歌、竹久夢二の画風を例にとって「エスペラントは、さまざまな表現の可能性へと、人々の衝動を解放する魅力をそなえている」という。この問題は難しいですね。



形容詞とAKB48

大学に入って第二外語としてドイツ語を学ぶ学生にとって、ドイツ語は語形変化、語尾変化が激しくて面食らうことになります。まず動詞の語尾変化。「ドイツ語を学ぶ」が、
Ich lerne Deutsch.Wir lernen Deutsch.
Du lernst Deutsch.Ihr lernt Deutsch.
Er/Sie/Es lernt Deutsch.Sie lernen Deutsch.
という具合で、英語のように《三単現の s 》に気をつける、だけでは済まないのです。

名詞になるともっと激しくて、《数》(単数と複数)で変化するだけでなく、ドイツ語は《性・数・格》すべてに留意が必要。名詞には男性、女性、中性と三つの《性》があり、主格、属格、与格、対格という文中で果たす機能によって四つの《格》変化があるという次第。名詞とともに使われる冠詞類も道連れになるので、たとえば英語なら the ひとつで済んでいた定冠詞が、

m. 男性f. 女性n. 中性pl. 複数
1 主格derdiedasdie
2 属格desderdesder
3 与格demderdemden
4 対格dendiedasdie

と16通りに変化します。(複数は性別なし)

極めつけは形容詞です。形容詞も名詞の前に置かれる場合は同じく語尾変化し、しかも 1) 無冠詞で、2) 定冠詞を伴って、3) 不定冠詞を伴って名詞を修飾する場合と、三種類の語尾変化、つまり16X3で、合計48通りの変化があるということになります。(あくまで見かけの上でのこと。冠詞と名詞の変化をきちんと理解していれば、形容詞の変化は簡単です)

そこまでなんとかついてきた学生たちも形容詞に至って脱落、というケースが少なくありません。ドイツ語教師はさまざまな方策を講じてこの難所を乗り越えさせようとするのですが、昔はこんなユニークなやり方もありました。
私の親しいドイツ語の先生は、形容詞のところにくると、やおら学生に「赤穂浪士の四十七士の名が全部言えるか」と言ってやるそうです。むろん、そんなことできるはずもありません。首をすくめる学生をぐっとにらみつけてから、おもむろにとどめをさします。「四十七士の名が言えなくて、ドイツ語の形容詞の変化が覚えられるか」。
--福本義憲『はじめてのドイツ語』(講談社現代新書、講談社 1991)
最近は「忠臣蔵」と言っても通じない学生が出現しつつあります。いまならさしずめ「AKB48 の名が全部言えるか」と脅すところか。聞けばこの人気グループは「チームA」「チームK」「チームB」と3つに分かれているとのこと。ならば形容詞の変化グループと同じで好都合だ。しかし、クラスみんなで協力すれば全部の名前がリストアップされるかも知れない。もう盛り上がってドイツ語の授業は吹っ飛んでしまうかな。