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メモ帳 -- 抄録、覚え (その3)



モヤシ

今月 (2011.6) になってドイツでの食中毒のニュースが大きく伝えられた。ドイツ北部ニーダーザクセン州を中心に大腸菌による中毒で死者が30名を越えているとのこと。感染源について当初はスペイン産キュウリとされ、いやドイツ産のモヤシだとなり、やはりキュウリも危険だとか、いまだ明確に特定されるには至っていないようです。

不確かな情報を流して大きな風評被害をもたらしたり、州当局と国レベルの連携が不足したりと、なんだか右往左往している様は、農・水産物について似たような騒動の渦中にある東方の国の一市民として身につまされもしますが、今回私がショックを受けたのは別のところにあります。

ドイツ人もモヤシを食べるのか、知らなかったなあ・・・あれっ、モヤシってドイツ語でどう言うの? おいおい、何十年もドイツ語勉強してきて、こんなありふれたモノのドイツ語を知らないのか?! ということに愕然とさせられたのです。

慌ててドイツのニュースサイトを覗いてみると、Spross という語が用いられている。なにっ、これがモヤシなの? この単語は、長い冬が終わりようやく春が来て木々が芽吹く、そのときの「新芽」を指す言葉として受け取っていたので、私はまさかモヤシが Spross だとは思ってもみませんでした。言われてみれば確かに「新芽」を「モヤシ」に使用しておかしくはありませんが。

ちなみに手元の数種類の独和辞書をあたってみましたが、
Spross [m] -es, -e
  (1) 新芽、若枝
  (2) (雅語) 貴族の子息、子孫
などとあるだけで、「モヤシ」の訳語を採用している辞書は見つかりません(*)。やはりドイツ人がモヤシを食べるようになったのは最近だからか。いまごろ独和辞書の編者たちは慌てて改訂版の原稿に手を入れているかも。
* 英語ニュースでは語源を同じくする sprout が用いられているが、英和辞書にはこの単語に「モヤシ」の訳語があるのだろうか?


私講師

ドイツの大学に「私講師」 Privatdozent という制度がある。「博士号」 Doktor を獲得し、さらに「教授資格試験」 Habilitation に合格した研究者に与えられる称号である。要するに大学の正式の教授・助教授(官吏として俸給を得ている)を目指す若い研究者であり、国から俸給を得ることなく講義を行う大学教員である。

俸給が無ければ無償で働いているのかと言うとそうではない。かつてドイツの大学には受講するそれぞれの講義について学生が聴講料 Hörergeld を支払うという制度があった。だから俸給こそないが無給という訳ではなかった・・・というあたりまでは分かっていたものの、聴講料の額は一体どの程度だったのか、その収入だけで生活していたのか等々については不明のままだったが、潮木守一『ドイツの大学』によって私講師の生態の一斑をうかがい知ることができた。

1834年のベルリン大学のデータが K. F. W. Dieterici の著書に拠って紹介されている。それによると当時ベルリン大学には正教授 51名、助教授 43名、語学講師 7名、私講師 48名が在籍していて、
  教員の平均年俸は、教授 1203ターラー 助教授 368ターラー
  聴講料は、全教員平均で 554ターラー
であったとのこと。上は平均であって、同じ教授でも年俸の最高は 2500ターラー、最低 100ターラーという大きな開きがあった。

聴講料は学生の集まり次第だから人気教師とそうでない教師とで差はもっと大きくて、いずれも1ゼメスター(半年)の金額であるが、最高 1840ターラー、最低 5ターラーだったという。教授・助教授は俸給にプラスして聴講料を得るが、私講師は聴講料が唯一の収入となる。当時、学生の年間の生活費は300ターラー程度だと言うから、私講師の生活はおおむね厳しかったであろう。

さて、1840年にプロイセンの文部大臣に就任したアイヒホルンが大学の拡充を図り、大学側と相談することなく教授の増員を進めたために、大学の反発を招くという事件が起きた。大臣の独断専行に対する反発というより、むしろ増員に対して教授たちが抗議の声をあげたのである。定員減に反対するなら分かるが増員に抗議するのは何故かと不思議に思われるが、それは、ひとつは聴講料という制度のためで、学生数が一定なら教員が増えれば教員一人当たりの収入が減るのである。さらには助教授、私講師にとって、自分の昇進の枠が狭まることを意味したからだ。
潮木氏は、当時の大学を「お祭りの夜店」に譬えている。
夜店の主人からみれば一軒でも夜店が増えれば商売敵が増えるというわけである。[中略]たとえ普段は仲が悪くとも、これ以上夜店を増やすまいという話になれば、全員の意見が一致する。このように万事が商売の論理で動くならば、それなりにすっきりする。ところがそこに理屈がからんでくるので、話がややこしくなる。その理屈の最たるものが「学問の自由」という理屈である。
やがて1848年の三月革命が勃発する。ナポレオン帝国崩壊後ヨーロッパを支配していた「ウィーン体制」に対する自由主義、民族主義の反乱である。ウィーンでは大学生、私講師が運動の中心になるが、ベルリン大学の私講師たちも急進的な改革案を立てて政府・大学当局と激しく対立してゆく。みじめな立場に置かれていた若い研究者たちが「教授会の専制を打倒せよ!」と、立ちあがったのである。

当時はある意味で、私講師と教授とは対等の関係にあった。かけだしの私講師であっても、正教授と同じ時間帯に講義を設け、どちらが学生を引きつけられるか、競争をこころみることは充分に可能であった(*)。しかし完全な対等関係にあったとは言い切れない。学位試験、資格試験の担当者は教授に限られる。学生の立場からすれば試験官の講義を聞いておく方が何かと有利なことは言うまでもあるまい。
それに・・・講義室を選ぶ場合には教授の方に優先権があった。つまり教授の方は、大教室を選び、多くの学生を集め、聴講料を稼ぐことができる。ところが私講師の場合は、余った小さな講義室で、ごく少人数の学生を相手に細ぼそと講義をするほかない。今であれば大教室でのマス講義よりも、少人数を相手にするこじんまりした講義の方がいいではないか、ということになるのであろうが、すでに述べたように、それは教師の収入にかかわる大問題である。それに当時のベルリン大学では講義室の不足が目だっていた。これは前に述べた教師数の増加に原因がある。ベルリン大学での紛争は、この講義室の取りっこから始まったという説もある。
--潮木守一『ドイツの大学――文化史的考察』(講談社学術文庫 1992)
この本はドイツの大学生の乱暴、狼藉、飲酒、決闘、学生組合などについて生き生きと伝え、またドイツの大学が「レジャーランド化」する中で「19世紀科学革命」の拠点となり得た経緯についてつぶさに語っているが、上の短い引用からも感じられるとおり記述全体にアイロニーとペーソスが通奏低音のように流れている。不思議な後味を残す一冊であった。
* 若い私講師ショーペンハウアーが大御所ヘーゲル教授の講義時間帯に自分の講義をぶつけ、あえなく敗北したエピソードが紹介されている。


香辛料の用途

コショウ、ジンジャー、ナツメグ、クローブ、シナモンなどは料理の味を引き立てる香辛料として、また医薬品としても古来から珍重されてきたが、これらはほとんどが東洋で産出したので、ヨーロッパではギリシャ・ローマ時代から中世に至るも貴重で高価な輸入品であり続けた。

11世紀末の十字軍遠征をきっかけにして、さらに大航海時代にはいってヨーロッパとオリエントの交易が盛んとなり香辛料が大量にヨーロッパにもたらされることになった。ヴェネツィア共和国は香辛料貿易で莫大な富を築き、ポルトガルが東洋進出を図りアフリカ迂回航路を開拓したのもヴェネツィアの貿易独占を打ち破るためだったといわれる。

「スパイス戦争」と呼ばれるまでに15、16世紀のヨーロッパ諸国が争ってオリエントの香辛料を求めたのはなぜか。中世イタリア食生活史の研究家でボローニャ大学教授のマッシモ・モンタナーリが「ともあれまず、まったくの的外れな通説として一掃する必要がある」と言うのは、これほどにも多量に香辛料が求められた理由を、食用肉の防腐剤、匂い消しに用いたのだとする説明である。
香辛料のようなエキゾチックで高価な品物は富裕層にしか手が届かないが、裕福な人々は新鮮そのものの肉を食べていたのである。[中略]市場で買う肉も、新鮮なものだった。というのも、客の求めに応じてその場で動物を屠殺するのが、日常的な習慣であったからである。[中略]保存を良くするためにという説明も、同じ理由からあてはまらない。肉や魚を長持ちさせるためには、干物、燻製、とりわけ塩漬けという他の方法が用いられていて、貧しい人々はこの塩漬け肉を消費していた。
香辛料を過剰なほどに使う別の理由には、それが当時の人々には食滋療法になるという思い込みがあったからだと言う。
当時医者たちは皆、香辛料の「熱量」が胃の中で「燃えて」食物の消化に効能があると考えていた。香辛料を食物に加えるばかりでなく、食事の最後につまむ菓子としても使い始めていた。また、食卓ばかりでなく眠る前に寝室でも口にされた。[中略]人間が食物を選ぶのに、健康にいいという理由が常に大事なのも周知の通りである。しかしその逆もまた、真実なのである。今も昔も同じで、新しい食物を食べたい、新しい味を試したいという新奇なものへの渇望がまずあって、人は、科学によるお墨付きをこのみ、それを欲しがるのである。この科学というのが、度はずれた欲望を正当化できる合理的な動機というわけである。
--マッシモ・モンタナーリ『ヨーロッパの食文化』(平凡社 1999)
香辛料の用途は、何よりも料理の味を引き立てるものであり、また高価な品物を惜しみなく使うことが「贅沢と虚飾」につながったことは確かだとしても、肉の臭みを消すため、そして肉や魚を長持ちさせるために用いたとするのは、モンタナーリの力説するように「まったくの的外れ」なのだろうか。

ともあれ16世紀になると香辛料も相当量出回ってきて、行商人が市場で売り捌く商品になる。ハンス・ザックス(Hans Sachs, 1494-1576)の謝肉祭劇にも香辛料を商う行商人が登場する。彼らは縫い針、ブラシ、櫛、ヘアリボン、玩具、胡椒入り菓子、ベルト、パイプなどの日用品を売り歩いたが、スパイス専門の売り手も現れたのである。この方面の研究の第一人者藤代幸一氏が紹介するところを見てみよう。呼び込みの言葉はこうである。
ええ、生姜ににくずく
胡椒に、サフラン、在庫はたっぷり
風鳥木に、肉桂と
歳の市に入用な薬草でござい・・・
欲しい方は ええいらっしゃい、いらっしゃい。
らっしゃい、らっしゃい、安いよ、安いよ。
サフランと風鳥木(ケーパー)は地中海原産だが、生姜(ジンジャー)、にくずく(ナツメグ)、コショウ、肉桂(シナモン)は東洋の産品だ。もちろん行商人の売る品物だから品質には問題がある。紛いものを混ぜて量を増やすことはインド・アラブ商人の手を経て輸入された時代から行われてきたので、行商人がそれをしないわけがない。「サフランの中には黄色ということで煉瓦の粉が混じっている、胡椒の中にはネズミの糞を入れる、精のつく蘭といってパセリを売りつける・・・のである。
上流階級は肉を、ことに獣肉を好んだが、肉の調理に必要なのは香辛料である。古来の塩、にんにく、辛子はさておき、胡椒をはじめとする外国からの輸入品が問題となる。香辛料を使って野兎や猪などの一種独特な臭みを消し、美味の料理に仕上げるのが料理人の腕の振るいどころであった。胡椒などは十字軍以来東方のものが輸入されたとはいえ、高価な貴重品であり、従って香辛料をたくさん集めるのは、富を誇示することに通じていた。
--藤代幸一『謝肉祭劇の世界』(高科書店 1995)
料理の味を引き立てるという用途、食材の臭みを消し長持ちさせるという用途、両者の間に明確な線を引くのは難しいと言うしかないのではないか。



ラテン語を殺したのは?

ラテン語はローマ帝国の公用語として、ヨーロッパの広大な版図で読み書き話す言葉として使用されていたが、帝国滅亡後は各地でイタリア語、スペイン語、フランス語などロマンス諸語として変貌を遂げ、人々の話し言葉はそれぞれの地域の「俗語」に委ねられる。旧来のラテン語は読み書きする言葉として残ったが、話し言葉としてはカトリック教会の公用語として以外はあまり使われなくなった。

とはいえ教会の用語であるとはすなわち学問の用語でもあり、学術関係の書物もラテン語で書かれた。中世ヨーロッパは各地域語とラテン語の並立するなかで、精神界ならびに行政司法の場はラテン語の支配する世界であった。学者の交流はイギリス人であれ、フランス人であれ、ドイツ人であれ、ラテン語でコミュニケーションがなされた。欧州知識人の公用語として用いられた。

ローマ帝国末期から中世になって、ラテン語学校、修辞学校などが作られていった。それらは何よりも教会が聖職者の後継育成に必要としたシステムであった。従って学校の教育はラテン語で行われた。ヨーロッパの大学は11世紀から12世紀に始まるが、既存のラテン語学校が大学で学ぶための準備教育機関になる場合もあった。このようにしてラテン語は教育の中心になって、それが数世紀にわたって続くのである。こうした教育機関のラテン語支配に首を傾げる人に対して、フランスの歴史家フィリップ・アリエスは言う。
十六・十七世紀のコレージュには、教会人や法官だけでなく、軍人や職人、農民も通っていたにもかかわらず、そこでの教育が、常にラテン語で行われていたというのに、読者は驚かれるかもしれない。しかし、その驚きは過去の中に現在への必然的な準備を見ようとする、二十世紀の人間にとっての驚きであって、じつのところ時代錯誤からくる驚きなのである。わたくしたちは逆に、八世紀ないし九世紀も続いた後で、なぜ学校がラテン語で教えるのをやめるようになったのか、と問うべきであろう。こちらの方が驚くべきことなのだ。
中世をとおして通用語としてのラテン語は理屈っぽくなったり、気取った表現が増えたりして、それを本来のラテン語に戻す動きが周期的に生じたとアリエスは言う。「カロリンガ朝のルネッサンス、十二世紀のルネッサンス、十五世紀のルネッサンス」がこの古典ラテン語への周期的な回帰だというわけである。これらの古典回帰の動きは「半分しか成功しなかった」のだが、それはむしろ通用語としてのラテン語には幸いであった。崩れすぎることもなく、かつ「キケロ風のラテン語を話したり書いたりするようにもならずにすんだ」からである。ところが宗教改革の時期に、
人文主義者たちの方は逆に、成功したためにかえって、ラテン語を古典という石棺の中でミイラのように干からびさせ生命を失わせてしまったのである。彼らは、先駆者たちよりもいっそうよく古典ラテン語を知ってもいたし、それによく通じてもいたばかりでなく、いっそう完成した実行手段を持っていた。それは、階層的で組織だったコレージュである。彼らは学校から、聖書のラテン語、詩や讃美歌や聖人伝のラテン語を追放した。これ以降、学校では新しいエラスムス風の発音で、もうひとつのラテン語、現在わたくしたちに知られているラテン語、キケロ文学によって学ばれた正しい「適切な」ラテン語と呼ばれることばを話すようになるだろう。それは学校で練習することば--死語--となる。
--Ph・アリエス(中内・森田編訳)『「教育」の誕生』(藤原書店 1992)
だからアリエスは「古典ラテン語の完成された学習が、生きたラテン語を殺したのである」と言う。つまり学校がラテン語を殺したという理屈になる。うーむ、そうだろうか。

近代になって学校が世俗化された後も、ドイツのギムナジウムでは19世紀の後半まで古典語中心の教育が続いたが、それには人文主義の延長上の、リベラル・アーツによる人格陶冶を理想とする「教養主義」が背景にあった。やがて学校においても教養は実学に、ラテン語は実用語としてのフランス語、英語にとって代わられる。教養語として幅を利かせたラテン語も「教養」の没落とともに権勢を失ったのである。



ゴシック体とローマン体

活版印刷は羅針盤、火薬とともに「ルネサンス三大発明」の一つとされる。それまで書物とは一冊ずつ筆写された貴重で高価な、ごく一部の階層にしか触れる機会がなかったものだが、グーテンベルクによる印刷技術の革新により書物やパンフレットの製作が比較的安価・容易になり、さまざまな分野の知識の普及が促進され、これがヨーロッパの思想・文化に与えた影響は計り知れないものがあった、とここまでは誰しも認めるところである。

だがこの印刷術の革新に関して、活字のデザインにこそ人文主義思想普及の大きな契機があることを示そうとした人がいる。それは古書店の経営にも携わった市井の書誌学者、ゴールドシュミット E.P. Goldschmidt であった。

詩人・学者のペトラルカ、当時最大の蔵書家ニッコロ・ニッコリなど最初期の人文主義思想を担った人々が同時に傑出したカリグラファー(能書家)であって、彼らはローマ詩人、歴史家の文章を筆写するとき、中世の修道士が用いる釘のように先端の尖ったゴシック書体とは異なる書体を生み出そうとしていた。いわば「人文主義書体」ともいうべき、優雅な曲線による「ローマン書体」が十五世紀初頭に誕生していた、という訳である。

グーテンベルクが印刷した聖書(「四十二行聖書」)は荘重重厚なゴシック体であった。それに対して、ローマとストラースブルクでは新しいローマン書体活字が鋳造され、キケロ、カエサル、アプレイウス、ルカヌス、ウェルギリウスなどの刊本が新しい写本を基にして印刷されたという。この書誌学なる、一見周辺的な領域から提起された、「清新なルネサンス様式の活字体による書物が古典復興と新しい芸術形態を担っていった」との考証は、はっとさせられる議論であろう。
当時のヨーロッパでは、優雅なローマン書体を使って、古典古代の著作から精選された引用文と歴史的引喩で適度に飾られたラテン語の文章を書くという能力が、上流社会にとって必須の教養だとみなされていた。そのため、たとえば『キケロ書簡』を読み、所有したいと思う人々の集団が生まれてきたのだ。こうした需要に応じて、一四六七年初めてローマン体活字の刊本が印刷されたが、それ以降一五〇〇年にいたるまで、『キケロ書簡』は八十四種類の刊本が印刷されたことが知られている。(中略)
十五世紀後半を通じて、フランス、英国、ドイツ、スペイン、ポーランド等の学者、外交官、法律家、高位聖職者はいかなるイタリア人よりも、キケロ張りの美文の手紙を書き、実際互いに書簡をやり取りしたし、少なくとも書こうと努めた。

ローマが、次いでヴェネツィアが初期印刷本制作の拠点となり、「ローマン体活字」を用いてラテン語の古典、人文主義者の著作を次々と刊行した。ヴェネツィアに定住したドイツ人印刷技術者が貿易商館「フォンダコ・デイ・テデスキ」Fondaco dei Tedeschi に住むドイツ商人の財政的援助を受け、ラテン語書物を印刷し、「印刷本を満載した運搬用の樽(*) 」がヨーロッパ全体を取引先として、全ヨーロッパに向けて搬送されていった。

十五世紀、十六世紀初頭では、ラテン語はいまだ学者にしか通用しない死語にはなっておらず、一般市民はラテン語を話すことはなかったが、彼らの読み・書きできる「唯一」の言語がラテン語だったのだ。当時の「あらゆる」教育が、ラテン語で行われたことは重要な点である。しかし、学問のあらゆる分野の歴史家はこの事実を見過ごすことが多かった。当時の学童たちは、「ラテン語を教わる」のではなく、ラテン語「で」教育されたのだ。
ゴールドシュミットは、そこは英国人らしく、「ラテン語を殆ど知らず、ギリシャ語はそれ以下」 Little Latin, less Greek と評される劇作家について付け加える。
ストラトフォード・オン・エイヴォン出身で役者上がりのシェイクスピアがラテン語を読めたというのに、自分たちの扱う詩人、画家がはたしてラテン語を知っていたのかどうかと、文学・美術史家が疑問に思うのはまったく馬鹿げている。もしシェイクスピアが嫌々学校に通ったのだとしたら、その理由は、相手の教師がラテン語しか話さず、シェイクスピアが別の生徒に英語で一語でも話しかけたりしたら、鞭で打たれたからだ。
--E・P・ゴールドシュミット(高橋誠訳)『ルネサンスの活字本』(国文社 2007)
原著は1950年に刊行されている。
先項でアリエスの「古典ラテン語の完成された学習が、つまり学校が生きたラテン語を殺した」との見立てを紹介したが、この理屈を延長すれば、活版印刷が生きたラテン語を殺したということになるのだろうか。

ちなみに、金属活字により印刷され、印刷年が1500年以前の書物をインキュナブラと呼ぶ。これについて、国立国会図書館のHPで「インキュナブラ 西洋印刷術の黎明」という解説・資料の美しいページが作成されている。
   → インキュナブラ 西洋印刷術の黎明

* 「当時の書籍は一般的に装丁する以前の綴じられていないバラバラな状態の紙を折丁の形で樽詰めし、発送していた(中略)これらの折丁を集め、完全な書物を作るのは、委託発送された品物を受け取った側の仕事だった」(同書30~31ページ)


塩の世界史

ヨーロッパでは香辛料交易を巡る主導権争いが、近世には「スパイス戦争」と呼ばれる国家間の紛争にまでなったことはよく知られている。だが、この陰で実は「塩」を巡っても覇権争いが繰り広げられていたことは余り注目されていないように思われる。香辛料は遥かな東洋から陸路・海路を運ばれてくるので、そこにいやがおうにも人を引きつけるロマンが生まれるが、塩はもう少し小さな範囲で、しかしながら激烈な争奪戦が行われていたのである。

塩はそもそも人間の生命活動に不可欠なものであり、これが無ければ地球上の生物は生命を維持することができない。「文明の起源から、つい百年前までは、人類史上もっとも渇望されていたものの一つだということを、皆忘れがちなのである」として『「塩」の世界史』が書かれた。古代から現代、東洋から西洋、その製法から運搬・利用、塩が大切な役割を果たす料理のレシピに至るまで膨大な資料を駆使して万般の話題を提供する書物だ。

  マーク・カーランスキー(山本光伸訳)『「塩」の世界史 ― 歴史を動かした、小さな粒』(扶桑社 2005)

その中から目につくまま、何箇所か引用してみよう。
塩には防腐作用がある。近代に入るまでは、塩を使うのが食糧保存のおもな方法だった。エジプト人はミイラを作るのに塩を使った。保存する性質、生命を維持すると同時に腐敗を防ぐ性質が、塩に幅広い比喩的な重要性を与えている。

古代ヘブライ人にとっても現代ユダヤ人にとっても、塩とは神とイスラエルとの契約の永遠性の象徴である。

キリスト教において、塩は不滅、永遠性だけではなく、真実や智恵とも結びついている。カトリック教会は、聖水にくわえて聖なる塩「智恵の塩」も施すのだ。

塩は腐敗を防ぐ、つまりものが傷むのを防ぐことができる。中世初期には北方ヨーロッパの農婦は、人間にも家畜にも有害な麦角による菌性伝染病を防ぐために、穀物を塩水にひたしていた。

悪霊は塩を忌み嫌う。日本の伝統芸能では、役者を悪霊からまもるために演技の始まる前に舞台に塩をまく習慣があった。(P.14~16)
E・T・A・ホフマンの『ファールン鉱山』と同じような奇しき事件にも触れられている。ホフマンの場合はスウェーデンのイエーテボリにある鉱山で落盤事故にあった鉱夫が50年後に発見された史実に基づく物語で、Vitriolwasser (硫酸塩?)に浸されていたため生前の姿を留めたとされているが、こちらは塩漬けになった鉱夫の話である。
一六六六年、『ザルツブルク・クロニクル』紙に次のような記事が載った。
一五七三年、冬の月の十三日、空に衝撃的な彗星が流れた。そして同月二十六日、デュルンベルク山に入って六千三百足分のところから、身長が手の幅九つ分の男が掘り出された。肉、足、頭髪、髭、衣服はいずれも平たくなったようだが傷んではいなかった。皮膚はタラのように、すすけた茶色と黄色が混じり、固い。教会の前に、皆に見えるように横たえられた。しばらくすると体は腐りはじめ、今度こそ永遠の眠りについた。(P.55)
デュルンベルクはザルツブルク南の都市ハライン Hallein 近くにある。遺体のすぐそばでつるはしが発見されており、明らかに鉱夫である。ズボン、ウールのジャケット、革靴、円錐形のフェルト帽を身につけ、綾織りで深紅の格子縞が入った衣服があざやかに残っていたという。
ちなみに、ハラインはあの「きよしこの夜」を作曲したグル―バー Franz Xaver Gruber (1787-1863) が晩年を過ごして没した町である。

中世から近世にかけて、塩の交易で活躍したのはやはりヴェネツィアだ。
ヴェネツィアは、アドリア海沿岸の細長い土地で熾烈な競争に直面していた。(中略)十三世紀、度重なる洪水と嵐でキオッジアの池の三分の一が打撃をこうむると、さらに塩を輸入することになった。
そしてこのとき、ヴェネツィアは大発見をしたのである。塩を作るよりも、塩を売り買いする方が金になる、ということだ。一二八一年から、政府はほかの地域から塩を持ち込んだ商人に補助金を出すようになった。塩への補助金で豊かになったヴェネツィア商人は、地中海東部に船を出せるようになり、そこでインドの香辛料を買い入れ、それを地中海西部でほかの誰よりも安値で売ったのである。
これは、とりもなおさずヴェネツィア市民がひじょうに高い塩を買っていたことを意味するが、香辛料の貿易を独占し、穀物貿易の主導権をにぎっていられるかぎり、市民は気にかけなかった。(P.86~87)
インド航路の発見が起因となってヴェネツィアが衰運に向かい、塩交易の主舞台も次第にヨーロッパの北に移る。このころ塩漬けという保存・調理法が以前に増して大きな意味を持つようになってくる。肉の保存にも不可欠の塩だが、近世になって比重を増したのは魚の塩漬けであろう。
中世カトリック教会は、宗教日の肉食を禁止したが、七世紀にはそのような日が劇的にふえた。四世紀に始まった四旬節の肉抜きの習慣が四十日間になったのに加え、毎週金曜日、すなわちキリストがはりつけにされた日にも、肉食が禁止されることになった。結局年の半分が「肉抜き」の日になってしまい、食事に関する禁止事項は厳格に守られた。イギリスの法律では、金曜日に肉を食べたものはつるし首の刑に処せられた。(P.109~110)
そう言えば、いずれの国かの君主が、金曜日に肉を食べるために贖宥状(免罪符)を買った、という話をどこかで読んだ気がする。

水棲動物は宗教日でも許されるので、ビーバー、ラッコ、イルカ、クジラなどが食卓に上るようになった。そして、バスク人が北の海でクジラより利益をもたらすタラを発見、十六世紀にタラ漁は最盛期を迎えた。北方ヨーロッパ人は魚は捕れても塩を持たず、南方ヨーロッパ人は塩があってもタラを採っていなかった。こうして塩がヨーロッパの第一の戦略品の地位を占め、世界史の主舞台も地中海から大西洋・北海・バルト海に移ることになる。
イギリス人にとって、塩は戦略上重要なものだった。塩ダラとコーンビーフが海軍の糧食になったためであり、これはフランスでも同様だった。十四世紀には、北方ヨーロッパが戦争の準備をするときは、まず塩を大量に入手して魚と肉を塩漬けにしたものだった。(P.127)

十四世紀にニシンが人気商品となったのは、ニシンを産する大西洋岸諸国が力を持ち、かつてない規模で市場と商業を支配したからにほかならない。ヨーロッパを代表する港はアントワープとアムステルダムになり、ジェノヴァやヴェネツィアを凌駕した。イギリスとフランスの海軍で塩ダラが必需品になったように、オランダの船は戦艦・商艦の別を問わず塩漬けニシンを積んだのだ。(P.130)

十六~十八世紀にかけては、ヨーロッパ人が食べた魚の六十パーセントはタラで、残りの大半はニシンだった。(P.132)

北方の漁業における塩不足を解決したのがあのハンザ同盟である。中央ヨーロッパの河口すべてを支配していたハンザ商人は各地から塩を集めて北方諸国に供給した。それ以前は灰が混ざった塩で浸けられたり、腐ったニシンが出回っていたのを、彼らは貿易品目の品質管理につとめたので、15世紀にはハンザ同盟が北方のニシン貿易の覇権をにぎり、「全盛期には四万隻の船を所有し」(P.140) ていたとのこと。―― 四万隻! この数字はすごい。

以上、中世・近世あたりまでの抜き書きでした。



写本とコピペ

ちかごろ大学の先生を悩ませている問題にコピペがある。講義の節目や期末に際して、一冊の本、あるいはドラマ、映画などについて「これこれの観点からこの作品を分析せよ」という課題を出すと、雑誌記事や、他人の著書、論文などからの引用ばかりのレポートが提出される。昔から出典を明示せずに書物を引用するケースは無くはなかったが、ネット時代の昨今、コピー&ペーストが全盛となっている。いまや小学生の読書感想文にもコピペ文化は広がっているらしい。

まるまる引き写しという極端なものもあるが、複数の資料を継ぎ接ぎして自分の文章であるかのようにしているのが多数派である。私の経験では、この手のレポートは読めばすぐにそれと分かり、いくつかのキーワードでグーグル検索すると出典が突き止められる。すでに絶版となった書籍とかマイナーな文献をつかって、簡単な検索では突き止められない巧妙なコピペをしてくる学生もいるが、そういうケースでは、それが本人の文章にきちんと納まっているなら、ひたむきな努力を多として私は合格点をつけましたね。

教師によっては、パソコンの使用を禁止して四百字詰め原稿用紙に手書きさせるなどの対策を取ったりしているが、それでもコピーしたものをペンで筆写してレポートを提出する者が後を絶たず、学生とのイタチごっこが続くことになる。最近ではついに専門の対策ソフトまでが作られ、大学に導入が始まっている。怪しいなと思われるレポートをそのプログラムにかけると「何パーセント以上コピペ」と判定してくれるのだ。

さて最近、このコピペ問題に珍しい切り口から言及する本を読みました。それは霊長類学・比較行動学者正高信男と認知科学・言語心理学を専門とする辻幸夫の対談で作られた『ヒトはいかにしてことばを獲得したか』という新刊書です。

生物の進化から言語と遺伝子の関係、脳と言語、そしてヒトの言語能力の問題へと進み、社会生活とことばの話題に差し掛かったところで、マクルーハンの『グーテンベルク銀河系』によれば活版印刷ができる前の写本時代では、本のあるところへ読みに行ってそこで筆写する、それがまた別の場所で筆写されるというようになると、「後世になって本が発見されても、しかも著者が誰かがわかってもそこに書いてあることのどれだけがその著者のオリジナルなものかが最終的に判断がつかない」という事態が生じるとされている。その点に関して正高氏はこう語ります。
結局、今またそこに戻っているわけです。よくコピペといわれる、今時の学生はよくコピペするといわれていますが、コピーをしてペーストをするというのはよくないという話があって、一体コピーライトはどうなるんだということが問題となるわけですが、要するにそれはグーテンベルク以前の段階に先祖返りしたものと考えればそれほど驚くべきことでもないと思います。(P.145)
学生のレポートという次元を越えて、ある人間の言明のオリジナリティは一体どこまでか、ある人間の思想表現はどこまで個人に帰属するのかという問いかけがなされます。そして、これからのコミュニケーションの場では、言語の公共性や個別性が崩れてゆくのではないか、そのときに「今までの言語学」が対応できるのか、と言語学者に対するあからさまな批判が展開されてゆきます。そのところを何箇所か抜き書きしてみましょう。
昔、人工知能研究の大御所の話を聞いたことがあって、言語学は大事な学問だけど言語学者は業界に一人だけおったらいいといったことがあって、その時はずいぶんひどいなと思ったのですが、今考えると私も同感でして、言語学者は結局のところアームチェアディテクティヴでいろいろなことを整理してくれるのですが、新しいものは彼らから何も生まれない気がするのです。(P.149)

私がみた言語学の研究もやはり全然言語を研究する上で生産的な意味では役に立たない。結局のところフィールドをみない。[中略]記録として言語化されたデータをみることがほとんどで、[中略]論理的な整理をするだけで、結局言語行動を全くみない、つまりテキストを見ただけでの言語のロジカルな整理をしているだけという印象が非常に強かった。(P.152)

人間は最終的にはことばがなくても、思考はできると思いますね。だから今の子どもはことばなしで思考しているんじゃないかという気がしますよね。(P.157)

映像がことばの代わりをすることも考えられますよね。つまり頭の中に映像が蓄積される。(P.158)

だから人間はことばで考えるという認識は、ある意味で近代主義の幻想なんじゃないですか。(P.159)

言語はただのコミュニケーションのツールであって、(P.172)

なんだかんだといっても言語学というのは人文科学なわけで、人文科学の人間の考える言語と言うのは文法中心になるんでしょうね。それは悪い意味で教養主義の枠内で言語というものを捉えている結果なのではないでしょうか。(P.172)

--正高信男/辻幸夫『ヒトはいかにしてことばを獲得したか』(大修館書店 2011)
さて、言語学者はこれにどう応えるのでしょうか。正高氏の言語学批判はおもにチョムスキー理論をターゲットにしているようですが、しかし「人文科学の人間の考える言語」と括られるからには、別の流派の言語学者からも反論があるのでは? 何しろ言語学者は、ソシュールから構造主義へと、二十世紀以降の現代思想はわれわれが牽引してきたのだと自負している筈ですから。

ところで、わがHPの文章も、書物やネットからのコピペだらけです (^_^;)



百姓よみ

1858年、清朝とロシア帝国の間で「璦琿条約・アイグン条約」が結ばれたと高校の世界史で習ったが、この条約の日本語読みは「アイキジョウヤク」が本来とのこと。光輝、発揮をコウキ、ハッキというように璦琿はアイキなのだが、これを漢字のツクリ「軍」につられて「アイグン」と誤って読むのを「百姓よみ」と呼ぶこと、私は高島俊男氏の『漢字雑談』によって初めて知りました。
「百姓よみ」は、漢字をその一部分や、他の似た字の類推によってよむことである。この言いかたは「百姓」を「無知な者」の意に用いたもので、江戸時代からある。あまり穏当でないから「ツクリよみ」とか「部分よみ」とか言ってはどうでしょうかとわたしは昔から言っているのだが、衆寡敵せず、国語学者も使うから、さしあたり慣用に従っておきます。
漢字の成り立ちは意味領域と音の組み合わせによる「形声字」が八割方なので、青はセイで、清、晴、請、精などもセイであり、狙、阻、祖、租、粗、組はみなソであるが、しかし「こんなふうにきれいにゆくことはむしろ多くない」と言う。
たとえば羊はヨウ。洋もヨウでよいが、詳や祥はそうはゆかない。詳や祥をヨウとよんだら百姓よみである。つまりまちがったばあいのみ百姓よみと言うわけである。
その他、非はヒだが排や俳はハイである。毎はマイだが海や悔はカイである。舌はゼツだが活はカツ、話はワ、恬はテンである、等々。だから百姓よみの危険はいたるところにあるわけだ。

--高島俊男『漢字雑談 21』「本 December 2011」(講談社) 32-33ページ
ただ、ことばには「多くの人がそう言えばそれが正しい」という原則があって、このことは例えば「耗」についてはよく知られている。正しい読みは「コウ」で、心神耗弱は「コウジャク」と誰もが読むが、消耗の場合は「モウ」と読む者がだんだん優勢となったので「ショウモウは今では百姓よみとは言えない」、とのこと。

そう言えばドイツ語でも「百姓よみ」に似たケースがある。
hoch [ho:x ホーホ] は英語の high に相当する語で、Hochbahn 高架鉄道 Hochachtung 尊敬 Hochmut 高慢 Hochschule 上級学校(大学)Hochwasser 高潮 Hochzahl 指数などの複合語をつくるが、これらの場合、Hoch の "o" は「ホーホ」とすべて長音である。しかし、その伝で結婚式 Hochzeit を「ホーホツァイト」と読むとそれは「百姓よみ」になる。なぜかこの一語だけは Hoch の "o" は短音で「ホホツァイト」と読むのだ。

私がこのことを習ったドイツ語の先生は「結婚式の時だけ短いのは、結婚してハイな時は長く続かないからだ」と(なぜかしみじみと)仰っていました。



クリスマスの歌

12月になると、ドイツ語授業でも普段のテキストを離れてクリスマスにまつわる話題を取り上げる。アドヴェントのこと、クリスマス市、グリューワイン(*)のこと、クリスマスツリーの由来だとか、サンタクロースのモデルとなった聖ニコラウスのこととか、うんちくを傾けるわけである。その際、同時にクリスマス・ソングを鑑賞し、興が乗れば「モミの木 O Tannenbaum」などはクラスで歌う練習もする。
そのような「うんちく」のいくつかをここに採録(?)しておく。

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ドイツではほとんどすべての家庭でクリスマスツリーを飾る。「モミの木」が求められるが、いまではドイツの森ではモミは絶滅に瀕していて、モミのツリーは輸入物で高価になっている。安価な国内産は実は「トウヒ Fichte」である。もともと常緑樹に対する古いゲルマンの信仰に発する風習なので別にどちらでも構わないのだが、樹皮の色の違いで本物が「白モミ Weißtanne」と呼ばれるのに対して、トウヒは「赤モミ Rottanne」とも呼ばれるので、混乱させられる。なんだかサケとマスの違いのような、鮭にシロザケ(白鮭)とベニザケ(紅鮭)という名称があったりするのと同じような、ややこしい話ですね。

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ドイツの子供たちがサンタからプレゼントを貰えるのは12月6日の聖ニコラウスの祭日だ。サンタクロースはドイツ語では Weihnachtsmann というが、「あしたサンタがやって来る」という歌がある。作詞者は、わが国でもよく歌われる「ブンブンブン、ハチがとぶ Summ, summ, summ!」や「霞か雲か Alle Vögel sind schon da」を作ったホフマン・フォン・ファラースレーベン Hoffmann von Fallersleben (1798-1874) である。その歌詞は、
Morgen kommt der Weihnachtsmann,
Kommt mit seinen Gaben.
Trommel, Pfeife und Gewehr,
Fahn und Säbel und noch mehr,
Ja ein ganzes Kriegesheer,
Möcht' ich gerne haben.
このサンタが持参するプレゼントは「太鼓に笛に武器、軍旗と軍刀など」と、いささか軍国調の歌詞で、さすが後のドイツ国歌「世界に冠たるドイツ」の作詞家でもあると感心させられるが、この歌は「きらきら星」のメロディーで可愛く(?)歌われます。

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クリスマス・ソングの代表は讃美歌109番「きよしこのよる」でしょう。この歌が生まれた経緯を巡っては、1818年クリスマスの前日のこと、オーストリアの小さな村の教会のオルガンが鼠にかじられて音がでなくなったので、若い助祭があわてて詞を書き、これも若い村の音楽教師が急いでギター伴奏の曲を作り、できあがったのはミサが始まるわずか数時間前のことであった・・・という伝説が流布しているが、二人の作詞家・作曲家についてはポール・ギャリコの "The Story of Silent Night" を紹介することにしている。
オーストリアの貧しい織物師の息子だの、ザルツブルクの部隊所属の一兵卒の落し胤だのの生涯・・・若い田舎司祭と朴訥な学校教師兼オルガン奏者・・・[中略]
百五十年の歳月は、クリスマスの讃美歌「きよしこの夜」の偉大な詩人と作曲家ヨゼフ・モールとフランツ・グルーバーの思い出をすっかり消し去ったわけではありません。二人の出身や生涯については幾多の事実が明らかになってきています。(はじめに)
この歌が次第に多くの人に知られ歌われるようになってゆくが、チロル民謡として広まって原作者のことが忘れ去られようとしていたところ、偶然の成り行きからグル―バーとモールの存在が明らかになる。「きよしこの夜」は世界で一番のクリスマス愛唱歌となったが、モールはそれを知らずに世を去っていた。
生まれた時とおなじく、モールは貧乏人として世を去りました。あとには着古したつぎだらけの礼服と祈祷書しか遺さなかった、と記録にあります。埋葬の費用だって事欠くほどで、教区の出費で墓におさまったのです。(70ページ)
--ポール・ギャリコ『「きよしこの夜」が生まれた日』(矢川澄子訳、大和書房 1994)
讃美歌・聖歌にまつわる多くのエッセイを書いている大塚野百合さんが「きよしこのよる」については、「聞いていると胸が痛くなるほど美しい歌」なのにどうも書く気がせずにいたところ、ポール・ギャリコの本で、作詞者ヨゼフ・モールが私生児であったこと、生涯を助祭の身分のまま終え、容姿や人柄はほとんど不明、肖像画も無いことなどを知って、ようやくこの歌について筆をとる気持ちになったそうだ。
また第三節にえがかれているみ子のほほ笑みの、なんと美しいことでしょうか。モールは、きっといつも幼子のほほ笑みを愛して、揺り篭に眠る赤ん坊の顔に見入っていたのでしょう。ところが、み子のほほ笑みは、かわいらしいだけではありません。それは、私たちに「救いの時が襲来したことを告げ知らせ」ているからです。(9ページ)
そして、こう続けます。
「襲来」と訳した理由は、普通、神の罰などが人間にくだるときに使う「シュラーゲン schlagen」というドイツ語が使われているからで、直訳すれば「私たちを救いの時が撃つ、または襲う」という意味になっているからです。み子の誕生によって、罰ではなく救いが人間を襲う、という強烈な言葉が用いられています。邦訳では、原歌の真意を伝えることはできません。モールは、み子が誕生することによって、救いが人類に「襲来」することをほんとうに信じていたのです。み子の笑みの愛らしさを、ただ感傷的に描いているのではありません。(9~10ページ)
--大塚野百合『賛美歌と大作曲家たち--心を癒す調べの秘密』(創元社 1998)
これはどうでしょうね。原詩は Da uns schlägt die rettende Stund'. ですが、ここは普通に「時を打つ」の schlagen で、救いの時を告げ知らせる鐘が鳴り響くと受け取っていいのではあるまいか。曲はオリジナル楽譜(**)によるウィーン少年合唱団の "Stille Nacht, heilige Nacht" を流すことにしています。

* もう数年前のことになるが、安い赤ワインにオレンジピールやシナモン、クローブなどの香辛料、それに砂糖を加えて作るのだと説明すると、次の週に自分で作ったグリューワインを魔法瓶で持参してくれた学生がいた。教室でこっそり酒盛りしたこと、懐かしく思い出しました・・・
** 以下のサイトで入手できる。
http://www.stillenacht.at/de/text_und_musik.asp