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メモ帳 -- 抄録、覚え (その6)



グローバル社会の初期設定

前項でとり上げた徳善義和『マルティン・ルター』を図書館に返却して、新書版コーナーの棚を眺めると、竹下節子『キリスト教の真実』があったのでこれを借り出してきた。

「まえがき」で「グローバル化した現代がキリスト教に根をもつこと」がなぜ日本人にわかりにくりのか、と問いかける。そしてその理由を「日本人はキリスト教になじみがないからその本質がわからない」のではなく、「反キリスト教」のバイアスのかかった「西洋史」を学んできたからわからないのだ、と断じる。

明治以来の日本が、「和魂洋才」と称して西洋先進国の「ソフトウェア」のみを表層的に吸収してきたから、西洋近代のスタンダードの基底にある「ハードウェアには組み込まれているが、スペックには絶対に記載されることのない巨大な宗教装置」に気付かなかったのだ、と著者は言う。それゆえ西洋史を正しく読みなおし、私たちが世界史で習った常識を捨てなければ「キリスト教なしには<西洋近代>がスタートし得なかった」こと、そこの経緯を理解できないという。

「グローバルな社会」とは多様で相対的なばらばらの集まりではなく、ある方向性を持った誰かに初期設定をされ、巧妙な利用規約を用意されている社会なのだ、としてその設定を理解することが「本書のねらい」だと謳われている。

本文を読み進めると、確かに新しい視点からの西洋史の風景が示されていて、また現代フランスの宗教事情のことなど教えられるところもあるが、一方で西洋史の「常識を打破」しようと力を込めるあまりか、いささか強引と感じられ、これでは護教的との印象になるのではと思われるところが散見された。そのいくつかの箇所を引用しておく。
通説的な世界史の記述では、「ユマニスム」に到達する人間中心主義は、ルネサンス期において古代ギリシャを再発見したことで得られたと考えられている。だが、そうした歴史理解は断じて間違っている。(46頁)

「神の名」のもとに先住民族を抹殺する時代や、言論や信教の自由が奪われる時代の方が、そうでない時代よりもずっと長かった。後世の世俗主義歴史家は、それらすべての逸脱を、「カトリック教会」の無知蒙昧が引き起こした罪状リストにくわえた。けれども、近代における言論の自由や、信教の自由や、良心的兵役拒否のような国家のために死んだり殺したりすることを拒否する自由も、キリスト教世界でこそ、少しずつ醸成されていったのだ。(50頁)

ただ、偏向した近代西洋史が広く通用しているがゆえに、キリスト教徒の愚かさや頑迷さや残酷さの例はあちこちで何度も強調されているのにたいして、イスラムの「寛容神話」の方は無批判に受け入れられている不均衡があることは明らかだ。(102頁)

考えてみると、何かと批判の種になるカトリック司祭の独身制度にしても、今は非常に合理的に機能している。カトリックは司祭に、プロテスタントは聖書に、正教は伝統に、それぞれ宣教戦略の中心を置くと言われるが、その「司祭」が独身であることは、妻子を扶養する必要がないということだから、経費が抑えられ、比較的安上がりに中央集権が維持できる。宣教師を世界中に派遣するのも簡単だ。身軽で動きやすいし、いざとなればリスクを背負うこともできる。効率のいいグローバル企業のようなものである。(111-112頁)

そもそもキリスト教には合理性が内在しているという点である。キリスト教はもともと古代の呪術的な社会を否定するところから出発している。偶像崇拝を拒否し、迷信や呪術や動物の犠牲の習慣も廃した。イエス・キリストの奇跡や死と復活という根源の事項については、信じるか信じないかという「信仰」の選択でしかないが、教義の他の部分では合理性を排斥するものではなかった。カトリック教会の高位聖職者たちは長い間、要するに「知識人集団」と同意であった。他宗教が混在するローマ帝国時代には、キリスト教徒たちが「無神論者」と非難されていたのだ。(188-189頁)

フランスのような国では[中略]「聖書」や「典礼」については冠婚葬祭と共同体の潤滑油と婦女子の教育のために従来の伝統を守りながら、思想的には「聖書」を離れて世界の創造主としての神のみを残し、神の被造物である世界の解明、神の似姿である人間の洞察へと興味をシフトさせていったのである。
プロテスタント国型の思想家が、聖書やキリスト教の中にある「不合理」な部分を人間の持つ実存的な恐怖や無知によって心理学的に説明しようとしたのと違って、カトリック国型の思想家は、キリスト教のメッセージの中から、「普遍主義」につながるものを抽出して、合理主義に耐える寛容な新宗教たる「理神論」を展開していった。思想が「神学」から「哲学」へと舵を切ったのだ。(196頁)

カントが「神の正義」という権威を否定して、「しなければならないことはできるはず」であるという、人間理性にのみ道徳の実現を託したことが実際にどれだけ有効だったかというと、個々の戦争の暴力軽減に中世の「神の平和」や「神の休戦」ほどにも役立たなかっただろう。(262頁)
  --竹下節子『キリスト教の真実--西洋近代をもたらした宗教思想』(ちくま新書 2012)
どうだろう。「ちょっと待って!」と口を挟みたくなる解説になってはいまいか。
竹下節子氏の著書としては以前、『からくり人形の夢―人間・機械・近代ヨーロッパ』(岩波書店 2001)を面白く読んだ記憶があるが。


最初の人間

神は天地をつくり、混沌に光を与えて昼夜とし海陸を分け植物と動物をつくり季節をこしらえて最後にアダムを、そのあばら骨からイヴをつくった、という聖書の天地創造のストーリーはよく知られている。だから最初の人間は男性で、女性は二番目というのが西欧社会が成立した当初から今に至る一般の理解だろうと思われる。キリスト教の教義でも、「神によって男が先につくられ、男のために女がつくられた」(パウロ)のだから、男の方が神に近い存在と見なされ、ここから女性は男性に従属するものと位置付けられることになるのだろう。

ところが岡田温司『アダムとイヴ』によると、布教初期にはイヴを下位に置かない教義もさまざまに行われていたとのこと。最初の人間は「男でも女でもなく人間のイデア」とするアレクサンドリアのフィロンの考え方とか、グノーシス派の「一人の男女なる人間が生まれた」とする見方が広く受け入れられていて、それゆえにこそ西方教会の最も重要な教父とされるアウグスティヌスが「アンドロギュヌスと呼ばれるような両性をひとりで具有した人間が創られたのだと解する人がないように」と警告しなければならなかったのだという。

そもそも創世記の第一章には、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(1,27)とある。アダムとイヴ創造の詳しい手順が述べられるのは第二章なのである。「主なる神は、土の塵で人を形つくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(2,7)「主なる神はそこで、人を深い眠りに落と」して、「人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り」、そのあばら骨で「女を造り上げられた」(2,18-22) と、よく知られる記述がくる。

この一見矛盾するような二か所の記述をどう解釈するかで、フィロンの説やグノーシス的な考えが生じてきたらしい。もし最初の人間が人間のイデア、あるいはまた男女具有とすれば、男女の性が生じたのはアダムからイヴが分かれたとき、となる。正統の教義で否定されてきたこの解釈が最近また脚光を浴びているようだ。
今日、とりわけフェミニズムの研究者たちのあいだで、アダム=両性具有説がもてはやされる傾向がみられるが、その理由もこの性差をめぐる問題にある。つまり、もしも最初の人間が性差のない存在だったとするなら、男が先で女が後につくられた、それゆえ男のほうがより神に近い存在であるという、性差の伝統的な序列関係は、覆るとまでは言わないとしても、ほとんど意味をなさないものになるからである。この序列こそ、西洋の社会や文化を長らく支配してきたものにほかならないのだ。(18頁)
  --岡田温司『アダムとイヴ--語り継がれる「中心の神話」』(中公新書 2012)
西洋美術史の専門家による新書本だが、博学的な知識をバックに、「神による最初の男と女の創造」「楽園としてのエデンの園」「二人が犯した最初の罪と楽園追放」「追放後の二人の運命」という四つのエピソードに沿ってアダムとイヴをめぐる物語が辿られる。その道筋で聖書、外典、注釈書だけでなく、広く文学・美術作品が参照される。そうして古代から中世、現代に至る西洋の文化、思想のパノラマが眼前に広がるので、巻措くあたわず、最後まで一気に読んでしまった。

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ここで思い出すのは昨年暮れのドイツで起きた、最初の人間どころか「神」の性別をめぐるちょっとした騒動のこと。ちょうどクリスマスの時期にドイツの家族相クリスティーナ・シュレーダーが週刊新聞のインタヴューで、「神さま」は der liebe Gott でなくても構わないだろう、das liebe Gott と言ってもいいではないかと語って物議をかもしたのだ。ヨーロッパの言語(英語を除いて)には名詞に性別があり、それはまずは冠詞で示される。Gott という名詞は男性だから定冠詞は der となる。女性なら die で、das は男女いずれでもない中性だ。

この1977年生まれの若い政治家はメルケル首相のもと大臣に就任してから子供をもうけ、現役大臣で初の出産と話題になった。彼女は問題のインタヴューで児童文学の古典作品における古い男女の役割分担を取り上げ、たとえば因習を打ち破る主張を持った読みものとされる『長くつ下のピッピ』にも差別的な表現が残っているので、生後18ヶ月の娘に読み聞かせるときには別の言葉に変えているとか、グリム兄弟のメルヘンでも女性が能動的に描かれることが少ないと指摘していて、そして件の発言となったのである。

当然ながらこの発言は、連立を組むキリスト教社会同盟(CSU)はもとより所属するキリスト教民主同盟(CDU)内からも激しい反発と非難を招くことになったが、家族相は「たぶん自分の娘のことばかりを思って質問に答え、私の言葉でつまづく多くの大人のことは考えなかった」と反省(?)していて、この問題で闘うつもりはないようだ。


子供はなぜ自殺するか

たまたま書棚から林達夫『思想の運命』を取り出して目次をパラパラめくっていると、「子供はなぜ自殺するか」という一文があったので読み返してみた。シャルル=ルイ・フィリップの『小さき町にて』に収められた『アリス』という幼い女の子が自殺する短篇から話を始めて、ルナール『にんじん』の例で不幸な家庭における子供の自殺、離婚した両親、継母をもつ子供、私生児などの問題が取り上げられる。

そして、「しかし子供の生活環境は家庭だけには限られていない。子供は早くから社会に触れ、特に学校社会は最も重大な生活場面、従ってまた不幸な悲劇の舞台でもある」として、処罰による学童の自殺にテーマを拡げる。
オットー・リューレの『プロレタリアの子供』は、例えば一八八三年のプロシアの官庁統計に拠りながら、その年の八十八人の子供の自殺者のうち、二人が打擲のない上流学校の通学生で、六十八人が体刑の恐怖のあまりに死に奔った普通小学校の児童であることを指摘し、なお学校を「怠けた」ために窓から飛び降りて死んだ児童の例を七件挙げている或る学者や、三十五件の学校児童の自殺のうちその十二件が打擲やその恐怖を原因としていることを確かめた他の学者を援用している。そしてリューレは、ここからして貧困な無産者の家庭がその子供の教育にとって、いかにあらゆる点で不利な敵対的な状態にあるかを論じ、かかる冷酷な「愛無き」社会環境がどのような社会組織の産物であるかに人々の注意を喚起しているのだ。
オットー・リューレ(Otto Rühle, 1874-1943)は教育政策を専門とする研究者で、社民党、後に「レーテ・コムニスムス」(評議会共産主義)の政治家。数多くの著述を残しているがその中に『プロレタリアの子供』(*)がある。

西洋では修道院・教会での教育が学校の始まりである。そして初めから学校には処罰がともなう。当時の図版を見ると教師は必ず棒あるいは鞭(木の枝を束ねた Rute と呼ばれるもの)を手にしている。子供は容易に罪に堕ちるので矯正が必要、というわけで一定の体罰は当然とされていたが、しばしば「野蛮な」あるいは「サディスティックな」お仕置き(**)が行われた。

Körperstrafe
唱歌・読み方・計算の授業
Aus: M. Bauer: Sittengeschichte des deutschen Studententums, 1991

学校と処罰は切り離せないものだったが、そのために自殺者が出ていたことは余り知られていない。19世紀には処罰による自殺児童の統計まで出ていたとは驚きだ。ドイツで1970年代まで認められていた子供のしつけ・教育における体罰は、現在では法律で禁じられている。家庭においても学校においても「愛のない」プロレタリアの子供の環境を生みだす社会の仕組みをリューレは問題とするのだが、
だが、私の考えではここでは愛とともに子供の自由についても語らねばならぬのではなかろうか。子供ほど自由を欲し、そして拘束を嫌がるものはない。然るに社会は一つの拘束と制圧との体系である。そして広義の教育というものも元来社会に適した一定の情感的、知的、道徳的状態を、まだ社会生活に未熟な若い世代に植え付けることをその任務としているから、それはある程度まで拘束的組織とならざるを得ない。
子供における自由と抑圧、自然に与えられている「人間性」と教育から形成される「良心」との争闘に一定の平衡を得ることのなかった者が早くも生活敗残者となってその一部が自殺に向かうのだ、自由と拘束の配分問題はむずかしいが現代の社会と教育とが「余りに多くの無益にして有害な禁止と抑圧」を子供に課していると指摘する。
子供はなぜ自殺するか。――という問いに対して、愛と自由とのない世界をこんな風に指示しただけでは少しも答えになっていないと咎められそうだ。だが、人がなぜ自殺するかは、あの聡明な自殺者である芥川龍之介にさえよくわかっていなかったのである。彼はまた自殺の動機と呼ばれているものは大抵はその動機に至る道程を示しているにすぎないともその『遺書』のなかに書いている。子供の世界は本当を言えばまだ我々には十分にわかっていない。況や子供の自殺をや。――私の書いたことが、ただそのいわゆる道程のありそうな場所のごく粗末な地図にすぎなかったことは、私自身が一番よく承知している。
  --林達夫『思想の運命』(岩波書店 昭和14年/中公文庫 昭和54年)
中公文庫判の解説で大江健三郎がこの文章について「子供の自殺の〈流行〉がいわれる今日の風潮のなかで、もし人がよく読めば、この課題についての答えがいかにも早く、しかも原理的に提示されたいたことに、驚かないでいられるだろううか?」と書いている。うーむ、昭和54年ころも子供の自殺が問題になっていたのだったか。だがここに「答えが提示されている」だろうか。答えはやはり分からない、が正しいのではないか。

* 『プロレタリアの子供』は The Internet Archive で原著の複写版が閲覧できる。
  Otto Rühle: Das proletarische Kind. Eine Monographie. 1911, 1922
引用された箇所は原書の368~369頁にある。訳で気になったところ。「一八八三年のプロシアの官庁統計」の部分、原文では "in einer offiziellen Statistik Preußens von 1883/88" なので、「八十八人の子供の自殺者」というのは、1年ではなく5年間の累計かもしれない。
** M. Bauer: Sittengeschichte des deutschen Studententums, 1991 に詳しい事例が数多く紹介されている。

ウェストファリア条約

ドイツの歴史を概観するのに何かいい本はありませんかと学生から尋ねられることがあれば、最近は坂井榮八郎『ドイツ史10講』を勧めることにしていた。新書版でコンパクトながらしっかり歴史の筋道は抑えてあり、しかもあえて通説に従わない見方も提示されている。

その一つがウェストファリア(ヴェストファーレン)の条約の評価だ。宗教改革による新旧キリスト教の対立から、その後の神聖ローマ皇帝と諸侯と各国君主入り乱れての世俗の権力争いが三十年戦争に発展した。その主戦場となったドイツでは酸鼻を極める状況、まさに生き地獄が現出して国土は荒廃、人口は激減した。歴史においてもっとも悲惨な出来事の一つであった。1648年、ヴェストファーレン地方のミュンスターとオスナブリュックで結ばれた条約でようやく終結した。

この条約でヨーロッパの新しい秩序が定められた。信仰の問題では、1555年の「アウクスブルクの宗教和議」で cuius regio, eius religio 「領主の信仰が領民の信仰」としてルター派が認められたのを再確認し、加えてカルヴァン派も容認された。領土を巡っては新たな線引きがなされたが、帝国諸邦が分立した状況は現状のまま承認された。この点について坂井氏は書く。
神聖ローマ帝国の帝国等族=諸侯と諸帝国都市は、領邦国家としての君主的・国家的諸特権を確認され、若干の留保つきながら外国との条約締結権さえ認められた。神聖ローマ帝国は三百余の大中小諸国の連合体であることが確認された。中世以来積み重ねられた既成事実の確認といえばそれまでだが、ともあれドイツの領邦的分裂がここに国際法的にも承認されたわけで、分裂を常態化したこの条約を前提にする限り、ドイツの「国民的統一国家」への発展ははなはだしく阻害されることになる。だから十九世紀以来の「国民主義的」歴史記述においては、この条約は一般に否定的に評価されることが多い。反面、諸邦の連邦制をドイツの国制の独自性ととらえる立場からすれば、これをドイツの連邦制的統合への新たな出発点と見ることもできる。私自身、こういう見方をするものの一人である。
  --坂井榮八郎『ドイツ史10講』(岩波新書 2003 )
われわれが世界史で習わなかった観点であろう。この見方の拠ってきたるところを、最近読んだ同じ著者の『ドイツの歴史百話』によって伺い知ることができた。アルトドルファーの絵画『イッソスの戦い』(1529)を論じたラインハルト・コゼレックの論文「初期近代における過ぎ去った未来」を手掛かりに中世的な終末論が変化してゆく「時代意識」に着目、ウェストファリア条約は「政治が宗教から自立し平和をどう持続させるかが政治の課題」となった潮流を示すもの、宗教戦争、三十年戦争の結果は「荒廃とか人口減少とか、そういう次元の問題にとどまらない大きな意味」をもっていたとする。

そして、現代ドイツの歴史家ヨハネス・ブルクハルトの所説を紹介し、神聖ローマ帝国のハプスブルク家とフランス王国と新興大国スウェーデンがヨーロッパの覇権争いを演じるなかで周辺の諸邦が地域連邦を形成する動きがあって、この両者が対等の主権者として認め合ったのがこの条約だとする評価である。
日本の歴史教育においてウェストファリア条約は、そこでドイツの領邦各邦に事実上の国家主権が認められたことがマイナスの意味で強調され、それがドイツ全体の統一を大きく阻害し、ひいてはドイツの「後進性」のもとになった、という風に教えられるのが普通だった(と思う)ので、ブルクハルトのような神聖ローマ帝国観は、あるいは意外の感を与えるかもしれない。しかしそうではない。ブルクハルトに先立って三十年戦争とウェストファリア条約の歴史の見直しを推し進めたコンラート・レプゲンも、(中略)より慎重な表現ながら、帝国は――少なくともフリードリヒ二世によって乱されるまで――「対内的には多かれ少なかれ機能している法・平和連盟」であり、戦乱のヨーロッパの中に浮かぶ「比較的平和な孤島」だったと言っている。これがむしろ現代の歴史家の共有する認識だと言っていいだろう。
  --坂井榮八郎『ドイツの歴史百話』(刀水書房 2012 )
神聖ローマ帝国の小国分立状態をこのように捉えるのは18世紀からのドイツ統一・国民国家成立の流れを必ずしも肯定的には見ない立場であろう。ドイツのナショナルな国家は結果的にプロイセンが中心となって成立したので、この見解にはビスマルクによるドイツ(第二)帝国の成立から20世紀の第三帝国に至る歴史への評価・反省が関わっているに違いない。辺境の新興国からのし上がったプロイセンに対する微妙な構えも感じられる。現在のドイツも連邦国家で各州の独立性が強い。第二次大戦後、連合国によって「プロイセン」は解消させられたが、プロイセンの王都であったベルリンはいまもドイツの首都である。

中心のないドイツ、小邦の集まりであるドイツ。『ドイツの歴史百話』の第55話でワイマル公国が取り上げられる。この公国は人口六千余り、まさに群小諸邦の一つであった。詩人ゲーテが顧問に迎えられ宰相になったことで知られるが、これは公の母、アンナ・アマーリアが優れた人物で芸術のパトロンでもあったことによる。彼女はプロイセンのフリードリヒ大王の姪にあたるが、結婚後わずか2年余りで夫が病没、幼い公子カール・アウグストの摂政として国を立派に治めてきた。公子が成人すると政務から身を引き、太后宮殿をヴィーラント、ヘルダー、シラーなどそうそうたる文人があつまる「ミューズの宮殿」Musenhof としたことが紹介される。

本書の「はじめに」で著者は「自分のことをドイツ史の研究者というよりも語り部と心得ている人間」と述懐する。フリードリヒ二世はドイツ史上最も傑出した君主というのが大方の評価だろうが、みなが皆そう認めているわけではない。それにしても坂井氏が、大王がヴォルテールなどと円卓を囲む情景を載せて、その数ページあとにゲーテ、ヘルダーが姿を見せるアンナ・アマーリアのサロンの絵を示して、「・・・女性も多く、とても和やかである。サンスーシの伯父さんの円卓より、よほど和やかである」と言い募るところにも「語り部」の気持ちが滲み出ているようで(失礼ながら)微笑ましく思える。

Friedrich II
Die Tafelrunde (A.v.Menzel, 1850)

Anna Amalia
Abendgesellschaft (G.M.Kraus, 1795)


オクシデンタリズム

イアン・ブルマ/アヴィシャイ・マルガリート『反西洋思想』(堀田江理訳 新潮新書 2006)を読んだ。原著は OCCIDENTALISM: the West in the eyes of its enemies で、2004年に出版されている。

原著タイトルの「オクシデンタリズム」が「オリエンタリズム」の対になるのは明らかで、これからはすぐさまエドワード・W・サイードの『オリエンタリズム』(1978年)が思い起こされる。サイードのオリエンタリズムとはシノワズリーやジャポニスムのことではない。古代のエジプト、メソポタミア、ペルシア地域、すなわち現代の中東、ほぼアラブ世界と重なる地域への視線である。西洋から見た東洋へのエキゾチックでありまた歪んだイメージの長い伝統が、その語彙、形象、修辞法、表象がイギリス・フランスやアメリカの植民地主義的・帝国主義的な侵略、支配を準備してきたという主張である。従って必然的に現在のイスラエル・アメリカのパレスチナ政策批判につながる。

それとは逆に、本書は非西洋から見た歪んだ西洋のイメージを問題にしようというものらしい。序章で日本の国粋主義(1942年に十数名の学者・知識人が京都に集まって行われた座談会「近代の超克」から書き起こされる)や毛沢東思想、そしてもちろんイスラム原理主義など、さまざまな反西洋思想を取り上げ、資本主義やマルクス主義と同じく「ヨーロッパのなかで生まれ、その後に非西洋世界へと移動していった」反西洋主義、という捉え方がされる。だからその中にはナチズムもロシア思想も含められるのだ。
「敵」によって描かれる非人間的な西洋像のことを、私たちは本書で「オクシデンタリズム」と呼んでいる。こうした偏見の数々を検討し、その歴史的ルーツをたどろうというのが、この本の試みである。
「歴史的ルーツ」をたどる試み。そこにサイードの著書と大きな違いがあると訳者も「あとがき」で強調する。「オリエンタリズムは東洋蔑視や偏見を西洋――つまりオリエントの外側――から発生したものと定義し、それが西洋優越主義や帝国主義の礎となった点を指摘しているが、オクシデンタリズムは、東洋と西洋の区別において、歴史的にも感情的にも、「曖昧さ」が必然的に生じていることを認めているからだ。西洋憎悪の表象は、東洋でなく西洋自身に端を発して」いると主張しているのだ、と。

通読してみて、反近代、反米・反西洋文明の「歴史的ルーツ」についてはもう少し精緻な論証が必要ではないかと思われるのだが、ドイツの文学、歴史・文化に関心のある者としていくつか気になる箇所、検討が必要と思える記述があるので、以下に引用しておく。

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ナチスに迫害される以前、ドイツに住むユダヤ人の多くは裕福かつ世俗的で、東欧のユダヤ人と比べるとより現地社会に溶け込んでいた。故に彼らは、多少ドイツ文化を誇りにし過ぎており、その優越感のためにほかの地域のユダヤ人から煙たがられるところがあった。彼らは自分たちを「啓蒙主義の継承者」と自負していたのだ。[23ページ]

ロンドンはヴォルテールを感心させたが、必ずしも他のヨーロッパ人も同じだったというわけではない。1826年にドイツから来た旅行者は「すべての目が利己心と貪欲で光っている」という感想を残している。
その20年後、偉大なプロシアの作家テオドール・フォンターネは、旧約聖書の十戒に登場する世俗的な偶像崇拝のシンボルとしての黄金の子牛にちなみ、「黄金の子牛の崇拝はイギリス人の病気だ」と記した。この巨大都市には、精神性もなければ詩もない。皆が絶えず「金のために走り回って」いるからだ。フォンターネは「金という黄熱病におかされ、蓄財の悪魔に魂を売った」イギリス社会が、やがて崩壊すると確信していた(*)。[49ページ]

1933年以前のベルリンは、ナチスだけでなく、かなり多くのロマン派土着主義者にとっても退廃の象徴だった。1890年代のドイツでは、自然主義者、民俗愛好家、ヌーディスト、より純粋かつ有機的な祖国を求める運動の活動家などが、当時のスローガンにのっとれば「ベルリンから離れよう」とうったえた。あるいは工場、スラム街、ナイトクラブ、左翼、民主主義者、ユダヤ人、外国人のあふれる「ベルリンの煉瓦から離れよう」と提唱した。偉大なるプロシアの首都ベルリンは、フランス、イギリス、オーストリア、アメリカの都市をごった煮にした模倣品で、ベルリンの現代性は「ドイツらしくない」と攻撃された。[53-54ページ]

ヨハン・ゴットフリート・フォン・ヘルダー(1744~1803)の著作は、そのようなフランスとドイツのコントラストを明白に伝えている。民俗学にも熱心だったヘルダーは、国家とは有機的な共同体であり、生まれながらの土地に根付き、木のように成長していくものだと主張した。その共同体、言語、並びにその言語に生命を与える民族精神(Volksgeist)に組み込まれていたものは、古代の英知や暖かい人間の美徳だった。しかし不運にも「冷たいヨーロッパ世界」は「哲学」によって凍てついてしまった。ここで言う「哲学」が、普遍的理性を主張するフランス哲学を指しているのは言うまでもない。[67ページ]

ヒットラーはベルリンが大嫌いだった。しかし彼は首都を放棄したり、略奪したりする代わりに、大規模な改造計画を発表した。スピード、産業、技術はナチスの金看板である。すべてはより大きく、より早くなければならない。しかもナチス国家の完全統制下で、だ。ばらばらの群集は組織化されて、一つの大きな崇拝者集団になる。そしてベルリンは巨大なメトロポリスに変身し、「ゲルマニア」と改名されるはずだった。街のドームは、雲の合間に届くまでそびえたち、広範な居住区や産業地区は引き払われ、軍事パレードや大集会にしか適さない巨大な通りに変身することになっていた。
(中略)しかし、ゲルマニアの建設は未完に終わり、一大プロジェクトはその形跡をほとんど残さなかった。現在では街灯ランプの一列と、イタリアや日本などのいくつかの大使館が、大計画の爪あととして残るのみだ。[81-82ページ]

フランス国境に近いラインラント出身の政治家コンラート・アデナウアーは、プロシア嫌いで知られた。ナチス時代には獄に繋がれ、保守的だがロマン派からは程遠いこの初代西ドイツ首相は、列車がエルベ川を越えてプロシアに入る度に、いつも「アジアだ」と呟いていたという。[90ページ]

[ヴェルナー・ゾンバルトの著書『商人と英雄』に触れて]戦争とは「実存的な戦い」であり、国家の間だけでなく異なる文化や世界観(Weltanschauungen)の間でもおこなわれる、と記している。そして「店主と商人の国」イギリスや共和主義のフランスは、「西ヨーロッパ文明」「1789年の理念」「商業的価値観」を体現している、とした。反対にドイツは、より高い理想のために自らを犠牲にすることをいとわない「英雄たちの国」だとした。
(中略)フランス革命と商人意識は相容れないもののように思える。ところがゾンバルトに言わせれば「『自由、平等、友愛』のモットーは、まさに商人的理想」である。それは個人を優位に立たせる目的しか持たないからだ」。[91-92ページ]

ランゲマルクの戦いに参加し、戦場での英雄的行為を讃える作品を書いたエルンスト・ユンガーは、こう述べた。「すべての喜びは心の中で生きられる。すべての冒険は冒険につきまとう死の間際で生きられる」。死は、劇的かつ精神的な刃となって、「喜び」を「快適主義」から切り離す。
ユンガーは、20世紀初頭に活躍したその他のドイツの知識人同様、イスラム世界に深い影響を与えた。彼の作品『線を越えて』は1960年代に、イランの著名な知識人アレ・アフマッドによって翻訳された。アレ・アフマッドは西洋思想の有害な影響に対して、「ウェストクシフィケーション(**)」という言葉を造った人物で、ユンガーを崇拝していた。[92-93ページ]

ドイツの知識人の中には、第一次世界大戦の敗北を「西洋化」が社会を腐食した結果だとする意見があった。エルンスト・ユンガーの弟、フリードリヒ・ゲオルク・ユンガーは、いみじくも『戦争と戦士』と題されたエッセイの中で、ドイツが大戦に負けたのは「文明、自由、平和」などの西洋的価値観を受け入れて、あまりにも「西洋の一部」になってしまったからだと主張した。[99ページ]

スラブ派はロシア魂のユニークな精神性を強調したものの、彼らにもまた手本があった。ちょうどロシアのリベラリズムがドイツの自由主義思想から倣ったのと同様、ロシアのスラブ思想もドイツのロマン主義にルーツを持っていたのだ。[127ページ]

ドイツロマン主義は、他の西ヨーロッパのロマン主義と異なり、単なる文学・芸術運動ではない。非常に強い政治的、社会的意味合いを帯びていた。シェリングは著書『自然哲学』で、宇宙を有機体として描き、一定のゴールを目指して動いていくものとした。これはニュートンが提唱した「力と原因によって動くメカニズムとしての自然」、つまりゴールを持たない自然という考え方とは正反対だった。シェリングの「有機体」という概念は、西洋の利己的な心を避ける方法を示唆しており、共同体のゴールを目指して動く生きた有機体としての社会という考えをも提供するものだった。[145ページ]
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いまは盛んに「グローバリズム」が言われ経済の世界化が進んでいるが、それはまた、強者による弱者の支配につながる、あるいは地球環境を破壊するという、激しい反グローバリズムの運動を呼び起こしている。この対立もあるいは「オリエント/オクシデント」のヴァリエーションと見做せるのかも知れない。
* [原注] Theodor Fontane, Wanderungen durch England und Schottland (Berlin: Verlag der Nation, 1998, p.332.
** [引用者注] Westoxification なる造語は dioxin を連想させる。世界を「西洋毒化」すること、という意味になろうか。