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メモ帳 -- 抄録、覚え (その7)

文献学

前項でオリエント/オクシデントの問題を取り上げたことで、改めてサイードを読んでみようという気持ちになった。目録を検索してみると『オリエンタリズム』(1978年)以降たくさんの著書があるが、最後の著作と思われる一冊を図書館から借りだしてきた。邦訳書名は『人文学と批評の使命 ―― デモクラシーのために』、原書タイトルは Humanism And Democratic Criticism で、刊行年は 2004年とあるから逝去翌年の出版である。

注目すべきは人文主義が真っ向から取り上げられていることだ。人間の自由、自律・独立を重んじる思想はルネサンス、宗教改革、啓蒙主義の時代を経て確立されたが、humanism はそのような西洋近代社会の基底にある信条だ。人間を中心に据えるとは個人の人格形成、個人の思考、個人の想像力が重んじられること。ところが20世紀後半になると構造主義、記号論、脱構築論などのポストモダン思想によって近代の個人主義、すなわちデカルト的なコギト中心主義は揺らぐことになる。サイードの『オリエンタリズム』も実はミシェル・フーコーの、個人の言語表現は無意識のうちに制度や権力と結びついているとする「ディスクール」を援用している。

この点は『オリエンタリズム』が出版されてすぐにも指摘されたようだ。サイードが採用した方法は人文主義を突き崩すものではないのか。現代思想の反人間主義、その理論を借りながら人文主義を擁護するのは矛盾ではないか?
わたしの『オリエンタリズム』に対して、当初もっとも綿密で好意的な書評は、本の出版から二年後、1980年に有力紙『歴史と理論』でジェイムズ・クリフォードが書いたものだった。[中略]彼のおもな批判点は、その後しばしば引用されるのだが、わたしの本の中心には深刻な矛盾があるというものだった。私自身も認めている、疑う余地のない人文学的な先入観と、取り扱う主題と方法における反人文主義とが、衝突しているというのである。

わたしは、アメリカの大学でフランスの理論に賛同し論じた最初の批評家の一人だが、クリフォードが正しく理解したように、理論の反人文主義イデオロギーにはあまり影響を受けなかった。たぶん人文主義に、クリフォードの言うような全体化し本質化する傾向だけを見ていたわけではない(しいまも見ていない)からだろう。
20世紀後半以降、アメリカの大学の人文主義研究はフランス思想の影響を受けて次のような状況だったとサイードは言う。
想像力という概念は、少なくとも十八世紀半ば以降人文主義文学の中心となってきた信条だが、それでさえコペルニクス的と言っていいほど変質した。もともとこのことばは説明原理としての力をもっていたが、それもまた、イデオロギー、無意識、感情構造、不安など、多くの見慣れぬ超個人的な概念によって修正されてきている。さらに、想像という行為はかつては無比のもので、いまだに創造と呼ばれている仕事のすべてをおこなっていたのだが、それもまた、行為遂行性、解釈、言説陳述などの用語によって、新たな公式を与えられた。
人文主義を過去の遺物のように扱う潮流にサイードは与することがなかった。彼は、専門的な脱構築論者、言説分析者が反人文主義イデオロギーを信奉すること、あるいはまた書斎にひきこもって人文主義の過去の栄光をノスタルジックに賞揚することを認めない。現代の課題に応える意義を人文研究に取りもどすために、彼は「文献学への回帰」を求めるのである。
歴史の真の意味は、読みと解釈の行為によってたえず読み解かれるのであり、こうした行為は、現実、つまり隠され、誤解され、抵抗する、困難な伝えることばという形態に基礎をおいている。言いかえれば、読みの科学は、人文科学の知にとって至高のものなのだ。

[あらゆる人文学の実践に欠かせない基盤・・・」その基盤とは根本的にはわたしの言う意味での文献学だ。言語が歴史のなかの人間によって使われるときのことばやレトリックを、詳細に辛抱強く吟味することであり、終生それに注意を払い続けることだ。だからわたしは「世間性」や「世俗的」ということばを使うのである。

・・・文学テクスト――小説、詩、随筆、など――の精読は事実上、テクストをさまざまな関係のネットワーク全体の一部として、それが生み出された時代にゆっくりと位置づけるのであり、ネットワークの輪郭と影響力は、そのテクストのなかで形成の役割をはたす。またそれゆえに人文学者にとって、読む行為は自身を作者の立場に置く行為であり、作者にとって書くこととはことばで表現された一連の決定と選択なのだと、述べておくのも重要だろう。
  --E・W・サイード『人文学と批評の使命 ― デモクラシーのために』(村山敏勝/三宅敦子訳、岩波書店 2006)
そのような文献学のお手本としてサイードは五十年以上前に出版された一冊の著作を挙げる。それはアウエルバッハの『ミメーシス』である。彼はこの書について「いまも、わたしの知る最上の人文学の姿を体現している」、「過去半世紀間で、もっとも偉大で広く影響力をもった人文的文学研究」、「人文主義の実践の最高の例」と言葉の限りを尽くして称賛するのだ。

私的な回想になるが、私たちの世代がドイツ文学研究を志したころに翻訳された大著2冊が、篠田一士・川村二郎訳『ミメーシス ― ヨーロッパ文学における現実描写』(筑摩書房 1967)と南大路振一・岸本通夫・中村善也訳のクルチウス『ヨーロッパ文学とラテン中世』(みすず書房 1971)だった。ふんだんに引用されているラテン語に苦しみながら懸命に読んだことを思い出す。読んだとはいえページを繰っただけ、咀嚼・賞味からはほど遠かった。言われてみれば、確かに『ミメーシス』はテキストの深い読みから「現実描写 dargestellte Wirklichkeit (表現された現実)」、すなわち歴史を明らかにするという方法で、テキスト解釈と人文主義が両立していたと言えるかもしれない。

サイード本人も「文献学は人文学と関連した学問分野のなかでも、もっともノリが悪くセクシーさに乏しく古臭い分野」と呼ぶが、私などは philology の文献学という日本語訳にも違和感を覚える。この訳語ではなんだか訓詁学のようだし、そうでなくとも書誌学 bibliography とか言語学 linguistics との差が明瞭でない。ではお前はどう訳すのかと問われると困るのだが。「文学・語学研究」ではまとも過ぎる。philo-sophy 「知恵を愛する」を「哲学」としたように philo-logy 「ことばを愛する」から何かいい語が作れないものか。


日普条約と村垣範正

2011年は日独交流150周年にあたり、様々な記念行事が(震災と原発事故で規模は縮小されましたが)行われました。150年前、すなわち1861年1月に日本とプロイセンの間で修好通商条約が締結されたのです。幕末の万延元年(*)のことですね。

「日普条約」のことは、日本史の授業で米・露・欧州諸国と結んだ条約の一つとして取り上げられるにしても、交渉の経緯までは教えられません。最近、鈴木楠緒子『ドイツ帝国の成立と東アジア』を読んで、このあたりについて少しは蒙をひらかれました。この書は欧米列強の圧力で「開国」を迫られるという幕末日本がテーマではなく、ドイツの統一問題に東アジア問題がどのような影響を与えたかという逆の視点で書かれています。著者は「はしがき」でこう述べています。
本書では、東アジア諸国が「開国」した時期が、ドイツ統一問題についての議論がドイツで高まりを見せていた時期と重なることが指摘されるのみで、従来ほとんど考慮されることのなかった、東アジアからドイツへのインパクトに注目する。そして、遅ればせながら、オーストリアを除く全ドイツを代表して、東アジアへの「開国」競争に参加したプロイセンが、そこでどのようにドイツ統一国家形成に活かされることになるのかを明らかにする。
ドイツからやってきたのは「オイレンブルク使節団」です。この使節団は日本、中国、シャムと外交関係を結ぶため派遣されたもので、1860年9月初旬に日本に到着しました。12月から交渉に入るのですが、初っ端から暗礁に乗り上げます。使節団はプロイセン、関税同盟、ハンザ都市、両メクレンブルクを「北ドイツ」と表現し、これらすべての国々のために一つの条約を求めるという方針で条約交渉に臨みました。これに対して日本側は、交渉相手が代表する「北ドイツ」の範囲と国制を問題にしたのです。
幕府側の全権委員の村垣範正は、この「北ドイツ」の実態を細かく問い、以下のように、当時のドイツの錯綜した国制を鋭く指摘した質問を浴びせたのである。
「なぜメクレンブルクやハンザ都市は(関税同盟)から除外されているのか、またなぜオーストリアもそうなのか?」「なぜプロイセンは全ての国々のために一つの条約の締結を欲しているのか? なぜハンザ都市はそれにもかかわらず別の代表を要求しているのか?」
こうした問いにオイレンブルクは説得力ある回答ができなかった。結局は村垣はプロイセン一国のみとの条約として押し切ったのである。そのころの日本の事情からして新たに多くの国と条約を結ぶことは攘夷派を刺激するので避けねばならなかったのだろう。この間の経緯について、ドイツ連邦共和国大使館・総領事館のWEBサイトでは次のように説明している。(**)

1860年、フリードリヒ・ツー・オイレンブルク伯爵率いるプロイセン使節団が、ドイツの諸国を代表して日本を訪れました。同伯爵は、日本と、プロイセンを含むドイツ関税同盟加盟国、ハンザ同盟加盟都市、メクレンブルク・シュヴェリン公国、メクレンブルク・シュトレーリッツ公国との間の条約を締結する、という使命を帯びていました。すでにそれまでに、相手国に一方的な特権を認める条約を米国、英国、フランス、ロシア、オランダ、ポルトガルの各国と結んでいた江戸幕府が、当然のことながら、条約相手国となるドイツ諸国の数の多さに驚いて尻込みしたため、使節団は日本とプロイセンとの条約で満足せざるをえませんでした。

そのあと使節団は中国に赴いた。
次に中国と交渉を行うに際して、日本条約失敗の轍を踏まないために使節団が第一に取り組んだ課題は、オーストリアを除く全ドイツの名での国交樹立が交渉の前提であることを共通理解とすべく、交渉相手に当時の矛盾に満ちたドイツの国制を理解させることであった。
しかしこの件についての中国側の対応は日本側と異なり、はるかに柔軟であった。中国側は、プロイセンと他のドイツ諸国間の関係を、「ちょうどシャムの国王と日本の天皇が中国の封臣であるように、他のドイツ国家はプロイセンの封臣である」と見なし、締結予定の条約をプロイセン以外のドイツ諸国にも適用することにも吝かではない姿勢を示したのである。
  --鈴木楠緒子『ドイツ帝国の成立と東アジア』(ミネルヴァ書房 2012)
日本と中国の対応の差がくっきりしています。大使館・総領事館のサイトでは「江戸幕府が、条約相手国となるドイツ諸国の数の多さに驚いて」と日本側の事情だけを言うが、そもそもは「数が多いドイツ」に問題があった。神聖ローマ帝国なきあとウィーン会議で生まれた「ドイツ連邦」なるものは40余りの連邦国家で、そのうえハンザ都市、関税同盟という経済上の組織が国家に等しい力をもっている。英仏米などが海軍力を背景に東アジアに進出し貿易を拡大している中で、諸邦分立のドイツは出遅れている。新しい「国民国家」を作らねばならないという機運は盛り上がっているものの、オーストリアを含めた「大ドイツ」にするか、プロイセン中心の「小ドイツ」にするか、統一の方法では意見が一致しない。プロイセン内部でも「保守派」と「自由派」が激しく対立している。1850・60年代はドイツも一種の幕末期にあったのだ。

オイレンブルク使節団の派遣は、急速な工業化を果たしたプロイセンの工業製品輸出先として東アジア市場を開拓するための遠征事業だった。他国に後れを取っている中で一刻の猶予もない。中国側の「他のドイツ国家はプロイセンの封臣である」というはなはだ不穏当な解釈を容認してまで、「北ドイツ」を構成する国々すべてに適用される条約としなければならなかった。結局はこの使節団の枠組みの延長上に、オーストリアを除外した「北ドイツ」連邦がつくられ、そして普仏戦争の後、「プロイセンとその封臣国家」は「幕末期」を抜け出てドイツ帝国を成立させた。1871年、明治4年のことです。

* * * * * * * * * * * * * * *

ところで徳川幕府の全権委員、村垣範正とはいかなる人物であったのか。江戸築地で旗本の次男として生まれ、海防掛・蝦夷地掛として対外交渉の経歴を積み、江戸幕府の外交を担当する「エリート外務官僚」であった。1860年、日米修好通商条約批准書交換のための派遣使節にも選ばれた。そして帰国後すぐにオイレンブルク使節団に相対する全権委員主席に任命されたのである。

だが村垣範正の人物・才能については後世あまり高く評価されていないようだ。司馬遼太郎などは「封建制によるバカ・ボンクラ高官」のなかに遣米使節の二名を入れている。使節団一行77人の正使は新見豊前守正興、副使が村垣淡路守範正、監察が小栗豊後守忠順であったが、
三人の使節のうち、二人までは封建的ボンクラでした。とくに幕府が意識してその程度の者を選んだのでしょう。正使新見も副使村垣も、幕臣としての門地がよく、[中略]適当に教養があって、そつのない人物です。副使村垣には多少の文才がありますが、その見聞録をみると、まったく創見というものがなく、ただアメリカは礼儀のない国だとばかり書いている。
  --司馬遼太郎『「明治」という国家』[上](NHKブックス 1994)
もう一人の小栗豊後守忠順については「切り札のような俊才」と持ち上げるのだが。綱淵謙錠『幕臣列伝』は村垣範正に一章を割いていて、そこでは遣米使節三人に対する福地源一郎(桜痴)の評が引用されている。
福地源一郎は『懐往事談』で、このとき使節に選ばれた三人を評して次のように言っている。――
<新見は奥の衆とて将軍家の左右に侍したる御小姓の出身、その人物は温厚の長者なれども、決して良吏の才に非ず。村垣は純乎たる俗吏にて、聊か経験を積みたる人物なれば、素より其器に非ず。独り小栗は活発にして機敏の才に富みたりしかば、三人中にて纔に此人ありしのみ。[後略]>
司馬遼太郎は福地桜痴の評をそのまま踏襲しているように見えるが、綱淵謙錠は桜痴評をちょっとだけ変える。つまり上の引用の「純乎たる俗吏にて、聊か経験を積みたる人物」を「経験を積んだ能吏」と書き変えば、村垣の経歴から読み取れる人間像とその性格に迫れると指摘する。そして『村垣淡路守公務日記』と称される膨大な文書から遣米使節の件を抜粋して紹介しているが、これがなかなかのものです。特に文中に散りばめられた和歌・狂歌には、司馬遼太郎の言う「多少の文才」以上の面白さがあるように、私などには思える。例えば、ハワイで国王・王妃に謁見したあと、村垣がホテルに戻ってつくった「され歌」は、

  ご亭主はたすき掛けなりおくさんは
     大はたぬきて珍客にあう

国王のたすき掛けとは大綬で、王妃が大肌脱ぎとはデコルテだったのだろう。村垣が「アメリカは礼儀のない国だとばかり書いている」というのは少々違うのではないか。むしろ異国の風俗を楽しんでいるところもあるように見える。綱淵謙錠は村垣の人物評を次にように締めくくる。
たしかにここには儒教文化圏の教養人としての、当時の幕臣のもっていた異文化にたいする誇りと優越感は存在し、それに立ったアイロニーはあるが、その異文化を嘲笑罵倒する<思い上がり>はない。[中略]
ただわたくしがはっきりいえることは、この村垣淡路守には白人コンプレックスともいうべき欧米への劣等感が全く感じられないことである。それがいつごろから日本知識人に芽生えだすのか。それもまた興味のある問題であろう。
  --綱淵謙錠『幕臣列伝』(中央公論社 1981、中公文庫 1984)
オイレンブルクと互角に渡り合い、相手の基本的な要求を退けて自らの立場を貫き通したところからみて、村垣範正という人物はわが国には珍しくしたたかなネゴシエーターだったのかも知れない。
* 日本の暦と西暦との対照。
1860年/ 安政6年12月9日~安政7年3月17日、万延元年3月18日~同年11月20日
1861年/ 万延元年11月21日~万延2年2月18日、文久元年2月19日~同年12月1日
** http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/04-deutschland-und-japan/042-dj150/0-geschichte.html
(文:上智大学准教授 スヴェン・サーラ 訳:ドイツ大使館 岩村偉史)

認知言語学

『言語学の教室』(中公新書)を読んだ。全編対談形式で、認知言語学という新しい言語学の領域についての議論が繰り広げられる。私にとってまったく未知の分野で、興味をひかれる話題がいろいろあったが、ここでは所有表現の問題だけをメモしておく。
西村 所有表現の問題というのもあります。日本語にもある程度はあてはまるのですが、いまは英語に事例をとって考えてみます。たとえば、"John's car" "Mary's mother" "the cat's tail" などの所有表現ですが、この中で厳密な意味で所有を表しているのは、"John's car" だけです。これは、ジョンが所有している車、と解釈されますが、"Mary's mother" はメアリがお母さんを所有しているのではなく、親族関係を表しています。"the cat's tail" になると、今度はまた意味が違って、「その猫のしっぽ」となって、その猫と言う一匹の猫全体の一部がしっぽであって、猫としっぽの全体と部分との関係が示されています。(P.29)
「どうしてこれらの異なった関係が同じ表現を持つのか」という問題を提起して、対談は文法と意味、カテゴリー化、プロトタイプ、使役構文とメタファーなどと進み、話題は「メトノミー」におよぶ。メトノミー(換喩)は従来「近接の関係に基づく比喩」と定義されてきた。「赤ずきん」が赤い頭巾をかぶっている女の子を指す、というように。西村氏は日常言語に広くメトノミーを認めて、「電球が切れる」「鍋が煮える」「部屋が散らかる」と言うとき、切れるのはフィラメントであり、煮えるのは鍋の中身であり、散らかるのは本などである等々、この比喩は一般に信じられているより広範に用いられているとする。「メトノミーの基盤には言語に特化されない人間の一般的な認知能力がある」と主張し、これをラネカー Ronald W. Langacker の「参照点理論」を援用して説明する。つまり遠くの猫を指し示すために「あそこの大きな木の下に、猫がいるでしょう」と言うとき、猫がターゲットで大きな木が参照点となる。さきの例でいえば、赤ずきんが参照点で少女がターゲット。参照点理論はメトノミーだけでなく幅広い有効性があるとする。
西村 たとえば、所有表現の分析にも有効です。
野矢 ああ。第1回で問題だけ紹介しましたね。日本語で例を挙げさせてもらえば、「太郎の車」「花子の母親」「タマのしっぽ」「漱石の小説」といった所有の表現。[中略]英語だと所有格を使うような表現で、純粋に所有を表す「太郎の車」みたいなのも、もちろんあるのだけれど、いま挙げたそれ以外の例のように、所有の意味ではない多様な意味(親族関係、全体と部分、著者と作品等々)もある。[後略]
西村 太郎を知っている人にとって、太郎は彼の所有する車よりはふつうはアクセスしやすい対象です。世界に無数にある車の中からある特定の車を取り出したいときに、その車の所有者を知っていれば、その人を参照点にするのは自然なやり方でしょう。同じように、"Hanako's mother" という表現を使ってある人を指すのは、花子の方が彼女の母親よりも親しい存在である場合です。よく知っている花子を参照点としてその花子と特定の親族関係にある人に間接的にアクセスしているわけです。猫と猫のしっぽについても同じことが言えます。ある猫については多くのことを知っているけれども、その猫のしっぽについては、ふつうはあまり知らないわけです。
野矢 鮮やかな分析ですね。[後略](P.155)
  --西村義樹・野矢茂樹『言語学の教室』(中公新書 2013)
さてどうだろう。名詞の所有格はドイツ語文法では2格ともいうが、印欧語では一般に属格(あるいは生格)と呼ぶ。もともと属格の用法は多岐にわたり、「所有」を表すのはその一部である。ドイツ語でこの格は eines Tages 「ある日」のように副詞的に用いられることもあれば、動詞、形容詞、前置詞の目的語になることもある。勿忘草 Vergissmeinicht という花の名は Vergiss meiner nicht! 「私を忘れないで!」という文だよと言うのはドイツ語学習者にとっておなじみの話題。この meiner は ich の2格で動詞の目的語である。ちなみに英語では forgetmenot という。

副詞や目的語になる用法は措いて、ここでは名詞にくっつく付加語の用法に限定しよう。これに関しても我々ドイツ語学習者は様々な用法を教えられてきた。学生時代に読んだ橋本郁雄『格の問題』(白水社 1958)の埃を払って、そこから例文を抜き出してみる。
  • 起源の2格 (起源・生産・発生・由来・原因など)
    die Verwüstungen des Unwetters  嵐の被害
    Haben Sie schon Goethes "Faust" gelesen?  ゲーテの『ファウスト』をもうお読みになりましたか。
  • 所有の2格 (所有・所属・関与など)
    Ich lebte damals auf dem Gut meines Onkels.  当時私は叔父の地所で暮らしていた。
    Sie ist eine Schwester meiner ersten Frau.  彼女は私の先妻の姉(妹)だ。
  • 説明の2格(同格的2格)
    die Tugend der Bescheidenheit  謙譲の美徳
  • 性質の2格
    Er ist ein Mann der Tat.  彼は行為の人だ。
  • 主語的/目的語的2格
    die Urteil der Nachwelt  後世の裁き / die Verteidigung der Freiheit  自由の擁護
  • 部分の2格/強調の2格
    Einer der Männer trat vor.  男たちの一人が進み出た。 / das Buch der Bücher  本の中の本
  • 省略の2格
    Im Nebenhaus wohnten die Rotmayrs.  隣の家にはロートマイル一家 [die Familie Rotmayr] が住んでいた。
上の例で見るようにドイツ語では、人名を除いて、一般に2格名詞を修飾される語の後ろに置く。英語のように前に置く場合もあるが、それは「ザクセン2格」 sächsischer Genitiv つまり「アングロ・サクソンの属格」と呼んで例外扱いだ。また英語で用いるアポストロフィーは使われないが、昔は、例えば「グリムの童話」は Grimms Märchen, Grimm's Märchen の両表記が行われた。

こんなのは用例を単に羅列しただけで、属格を統一的に説明していないではないか、と言われればそれまでだが、ともあれ実に多様な姿を示すのである(*)。英語でもほぼ平行した言い回しがあるだろう。また多くの場合 von ... / of ... で言い換えられるという点も共通している。これらを統一して「参照点理論」で説明すれば、問題が解明されたと納得できるだろうか。属格名詞が参照点で修飾される名詞がターゲット。「それで?」となるのではないか。英文法では genitive より possessive を用いることが多いようなので、この分析は「所有格」という名称に引きずられた発想ではないか、とすら疑ってしまう。

さきに「行為者の属格」で所有格に関連する問題を取り上げたことがある。「神の義」や「父の贈り物」について「ここでの「の」は、行為する主体を指すと同時に、行為の後にはそれが行為を向けられた相手に及ぶという意味合いをもっているのである」と説明され、そのとき「さてどうだろう、私には残念ながらすっきり腑に落ちることなくモヤモヤが残った」と書いたが、今回の所有格の説明でも同じ感想を抱いたのである。
* 「属格は名詞に添えられて,所有,所属等々の関係を示し,その名詞を何らかの意味において限定するという場合が最も多いが,また特定の動詞,形容詞,副詞および前置詞に支配されて現れる場合も少なくない。しかし名詞に添えられる場合の意義は大抵の場合容易に判断できるものであり,動詞その他に支配せられる場合は,それらの支配する語を覚える際に随伴して学べばよいわけだから・・・」 田中美知太郎/松平千秋『ギリシア語入門 改訂版』(岩波書店 1962, 1971、169頁)
「大抵の場合容易に判断できる」、こういう実用主義でわれわれは学んできました。

統一グセ

「五十人あまりの文筆家・編集者・校正者等の、校正に関する文を集めた」高橋暉次編著『増補版 誤植読本』(ちくま文庫)という本があるそうで、これを高島俊男氏が講談社の雑誌「本」で紹介している。校正といえばまずは誤植が話題となろうが、高島氏はそうではなく、近頃の校正者がやたらと表記の統一にこだわることに関する文筆家の不服を取り上げている。そこが大変面白いので何か所か引用してみる。

高橋英夫は、原稿に「興味ふかい」と書いて「興味ぶかい」と直される。その時の対応は三通りあるそうで、編集者が頑固そうなときは従うが、物分かりのよさそうな人であれば「興味ふかい」で通し、面倒になりそうなときは「興味深い」と漢字にして逃げる、とのこと。

澁澤龍彦は〈近ごろの校正者の通弊として、私がもっとも困ったものだと思うのは、やたらに字句の統一ということを気にする点である。これは画一的な学校教育や受験勉強の影響ではないか、などと考えてしまうほどだ。「生む」と書こうが「産む」と書こうがどっちでもいいのである。〉と言い切っている。

山田宗睦は、〈きょう日の校正者は根本的にまちがっている、言葉・文章というものは生き物である。その言葉を、きょう日の校正者は、「統一」しようと志す。「・・・をミてみよう」「・・・をミた」のミはすべて「み」か「見」のどちらかに統一すべきものであって、双方を混用していると、じつに懇切丁寧、岡っ引のようにすべてをチェックして、全巻ことごとく、洗い上げる。〉と怒り心頭の様子。

紀田順一郎は〈著者の苦心を知らずして、機械的に用字の不統一を問題にしてくる例があり、これが最も困る。〉〈どうも近ごろは、機械的な統一を問題にする傾向が強くなっていて、著者をいらいらさせる。〉と苦言を呈している。どんな「著者の苦心」なのかと思えば、次のような悪戦苦闘が語られているので、微苦笑を禁じ得ない。
紀田さんはこまかい人である。日本語の文では行末に始まり括弧(「 、『 など)が来ないようにするのがふつうである。その際は字間を少しづつつめて次行の頭の字を行末に持ってくるか、逆に字間を少しづつあけて始まり括弧を次行頭に送るかする。紀田さんはこの微妙なつめすぎ・あきすぎが嫌いなのだそうだ。そういうばあいは漢字をかなに開いて始まり括弧を次行頭に送ったり、かなを漢字にして次行頭の字を前行末に吸収したりする。必然的に他の所との同語の表記不統一が生ずることもあり得るわけである。
  --高島俊男「漢字雑談45--『統一』のはなし」(講談社「本」2013.12)
実は私も同じような「苦心」をする。印刷・出版される文章でなく、MS-WORD で文書を作成するときがそうだ。このワープロソフトは校正機能を内蔵していて、字間調整などは自動的にやる。それで欧米の人名を原語で記すときなど、その部分は改行できないので、やたらと字間が開いたり、行末に空白が出来たりする。私はそういう場合は、語順を替えたり語句を足したり削ったりして見栄えを整えてしまう。このソフトは字間調整だけでなく用字の統一も監視している。さきの例のように「興味ふかい」と「興味ぶかい」が同じ文章中にあればおそらく、これでいいのかとチェックしてくるだろう。

ウェブページの html テキストも字間の調整が自動的に行われるので、私の場合、これを書くときも同じように見栄えを整えようとする性癖がでて、自分で笑ってしまう。ウェブでは、読む人のブラウザーによって1行の語数が異なるので苦心する意味はないのだが、自分の画面だけでも「つめすぎ・あきすぎ」が生じてほしくない。紀田さん以上に「こまかい人」なのかな。