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メモ帳 -- 抄録、覚え (その8)


学生の決闘

西洋の決闘といえば、名誉を傷つけられた男が相手に申し入れて行う果し合いで、剣またはピストルで行われるものを思い浮かべるであろう。中世の騎士道がその背景にある。ドイツ語では Zweikampf あるいは Duell という。

これとは異なった決闘がある。大学生が帯剣を許された16世紀以来、ドイツで(オーストリアやスイスでも)盛んに行われた学生同士の決闘行為である。18世紀半ばからは学生結社の行事として、用具や立会人や剣の扱いなど厳密な決まりの中で実施される。これはドイツ語でメンズーア Mensur という。

最近刊行された新書本『実録 ドイツで決闘した日本人』で、著者の菅野瑞治也氏はドイツのマンハイム留学中に学生結社「コーア・レノ・ニカーリア」(Corps Rheno‐Nicaria)の会員となったいきさつや入会儀式、そしてこのメンズーアを闘った生々しい体験を披露されている。

菅野氏によると、メンズーアとは真剣を用いて、顔と顔を正面から斬りつけるものである。決闘する両者の間には剣の長さの分、約1メートルほどの距離で、直立して向かい合う。下半身を動かさずに剣をふるう。5~6回づつ打ちあって15秒ほどの休憩、これを25回繰り返す。敵の攻撃をかわすために、上体と頭を前後左右に動かせば失格となる。

致命傷を防ぐため、首に金属入の襟巻きを付けて頸動脈を守る、「突き」は禁止。そして上半身には長めの胴着をつけ、目を保護する鋼鉄製の眼鏡をつける。医師が控えていて、剣が当たったとき創傷・出血を診断し、続行が可能かどうか判断する。ただし、応急治療で刀傷を縫うときには麻酔などを一切使わない。

メンズーアには勝者も敗者もいない。「男としての真価を試される一種独特の厳しい試練であり、ヨーロッパに伝統的な騎士道精神に基づいた勇気と精神の強さを証明するための一つの通過儀礼・儀式」とされる。決闘による顔や頭の刀傷をシュミス Schmiß と呼び、怯むことなく戦った勇者の証し、男の勲章とされる。

学生結社はドイツに現在約1000団体あって、合計約15万人の会員がいる。決闘する団体と決闘しない団体に大別され、決闘する団体は約400、会員数は約55000人とされる。ドイツの学生数は約200万人、男女比は50パーセントずつだから、菅野氏によれば、「したがって、ドイツの男子学生の約15パーセントが何らかの学生結社に所属していることになるが、決闘を行っている男子学生は、全体の5~6パーセント、約20人に1人という計算になる。この数字を少ないとみなすのか、あるいは逆に、意外に多いとみなすのかは、皆さんの判断にお任せしたい。」とのこと。

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ここで思い出すのは森鴎外の見聞だ。鴎外は1884年(明治17年)6月、衛生学を修めるとともにドイツ陸軍の衛生制度を調べるため、陸軍省派遣学生としてドイツ留学を命じられた。10月11日に首都ベルリンに到着、最初の1年はライプツィヒで過ごし、次の滞在地ドレスデンで5か月ほど生活した。そのあと1886年3月8日に鴎外はミュンヘンへ移る。ミュンヘン滞在中のこと、誘われて学生の決闘に立ち会う。その顛末は5月22日の日記に記されている。
鬪場には大學生數十人叢立す。中央に鬪者對立す。各一介者 Sekundant あり。鬪者の物の具附けたる様叉奇怪なり。決鬪の鎧は名づけて鬪衣 Paukwichs といふ。その剣は名づけて鬪刀 Rappier といふ。介者は大庇の帽を戴き、鬪者は其頭を露せり。腹巻は上、胸に及べり。介者は大なる領 Cravatte を纏へども、鬪者は革帯の廣きを幾重ともなく頸に巻き附けたり。腕は肩より以下一面に之を包み、手には皮の手袋を穿てり。其他大なる眼鏡を以て目を障ふ。鏡は望遠鏡の如き筒を備へ、硝子は嵌せず。逆上して面色朱の如き鬪者が此眼鏡を掛けたる様は、恰も新たに釜中より出でたる章魚の如くなり。介者は號令す。構へよ Auf die Mensur! の語にて刀を交へ、撃て Los! の語にて揮い、止めよ Halt! の語にて止む。二三度刀を打ち合わする每に、休憩 Pause し、刀の屈曲せるを撓め直す。此役は鬪者の右に在るものこれに任す。介者は左に在り。休憩を除き、十五分にて鬪止む。互いに握手して和を講ず。刀は甚だ鈍し。然れども瘡骨に及ぶこと稀なりとせず。此日十數對の鬪あり。蓋し數月間の券を折るなるべし。一對を部 Partie と名づく。一部の瘡を療する間には他部物の具を着く。是の如きこと終日なり。
  --森鴎外『独逸日記』(『鴎外全集』第35巻[岩波書店 1975])
著しい緊張のために赤く充血した闘者の顔を、ゆで蛸の様だと言うところなど鴎外らしい観測か。ともあれ決闘の次第は菅野氏による現代の決闘と驚くほど変わっていない。ただ鴎外が立ち会った決闘は、現在とは異なって屋外で行われたが、その情景はテュービンゲンの学生結社メンズーアを描いた絵からおよその想像がつくのではないか。


Mensur der vier Tübinger Corps (G. A. Closs, 1890) (aus: wikipedia.de)

ドイツの各大学はたびたび決闘禁止令を出したし、カトリック教会も禁じたが、学生の決闘熱は収まることが無かった。さらに1883年にはメンズーアを違法行為とする帝国裁判所の判決が出て、法的な処罰の対象となった。それでも人目のつかない場所を選んで行われたのである。鴎外の見聞したケースはこの判決の直後だが、見張りを立てて「鬪場」を外部の目から遮断して行っている。

では現在はどうなのか? 武器を以て人を傷つけることは法律で禁じられていないのか。ドイツで刊行される刑法学の解説書では、「同意傷害」の事例としてしばしばメンズーアが引き合いに出されるとのこと。
一九五一年から五三年に行われた「ゲッティンゲンのメンズーア訴訟」において、カールスルーエのドイツ連邦最高裁判所は、決闘によって相手を負傷させて起訴されたある学生に対し、その負傷が、お互いの合意に基づく、一定のルールに則った「指定メンズーア」で発生したとして、無罪判決を下した。「メンズーアによって、確かに、刑法上の危険な身体的傷害が生じる可能性はあるが、それが、お互いの合意のもとで生じた傷害である限りは、罪にはあたらない」ことが、この判決で確認された。
  --菅野瑞治也『実録 ドイツで決闘した日本人』(集英社新書 2013)
すなわち「学生決闘=メンズーア」は法的に認められているらしいこと、この本で初めて知りました。リングで闘うボクシングと同じ扱いでしょうか、ちょっと驚きですね。学生結社のOBには社会的エリートが多いというから、最高裁判事も頬に Schmiß のある人だったのでは? なんて思ってしまいます。


廃墟論

クリストファー・ウッドワード『廃墟論』 (2004) を読んだ。

ドイツ文学研究者にとって廃墟といえば、ロマン派の中世趣味という文脈で現れるトピックだと思われる。18世紀末から19世紀にかけてイギリスのゴシック・ロマンス、ピクチャレスク美学の影響を受け、文学作品や絵画にしばしば廃墟が描かれた。イギリス庭園の流行もその流れの中にある。

ドイツ・ロマン派は民話や伝承を発掘し収集することに力を注ぎ、さらには新たな「創作メールヒェン」を生みだした。物語の舞台として頻繁に古い城や城跡が出てくるのは、ライン川、ドナウ川に沿ってドイツには多くの古城・修道院があることに加えて、ゴシック・ピクチャレスクの影響もあってのことだろう。東洋やエキゾチックな異邦と並んで廃墟は人の空想を掻き立てる舞台装置ではある。絵画の分野では廃墟になった僧院、墓地、古代の巨石墓などを描いたカスパー・ダーヴィト・フリードリヒが第一に思い起こされる。

だが、ウッドワード『廃墟論』を読んでゆくと、廃墟は一時期の趣味や傾向という枠をはるかに超えて、ヨーロッパの文化史を貫く一本の太い軸なのだ、と説得力を以て迫ってくる。「永遠の都」ローマの、コロセウムなどの巨大な遺跡はキリスト教世界にあって、人間が地上に築いたものの儚さ、すべては滅びるということの目に見える証拠となった。廃墟はそれぞれの時代の人々に、それぞれの深い印象を与えているのだと。言われれば、確かに現代のSF映画の世界にも地球の廃墟が描かれる。

ウッドワードが挙げる古代ギリシア、ローマの廃墟に出かけた詩人・作家の名は、バイロン、キーツ、シェリー、ゲーテからベックフォード、ディケンズ、ナサニエル・ホーソン、トマス・ハーディ、ヘンリー・ジェイムズ、フローベル、シャトーブリアンなどなど。エドガー・アラン・ポーなどはイタリアを訪れることなく詩「コロセウム」を書いた!
ああ、石くれよ。この灰色の石くれのことごとくが、
腐食する時間によって、運命と私に残された、
あの偉大で巨大なもののすべてなのだろうか。
(34ページ)
廃墟は巡礼者の訪れる聖地のようになった。ロマン主義的廃墟趣味は作家や画家を現地に引き寄せたばかりでなく、植物学者が古代遺跡を版画や絵画に描いた。この情熱はついには人工の廃墟を作るまでに至る。多くの王侯貴族が模造廃墟をつくることに血道を上げる事態となったのである。

ドイツでも多くの人工廃墟が作られた。ウッドワードが「一八世紀には、さまざまな古典的な廃墟を作る試みがおこなわれたのだが、その中でももっとも大胆な実験がドイツでおこなわれた」としてシュパイアー大公シェーンボルンが建てたヴァークホイゼルの「隠れ家 Eremitage 」とかブランデンブルク辺境伯夫妻によるバイロイトの「崩れかけた円形劇場」を取り上げ、さらにヘッセン・カッセルの「レーヴェンブルク城」の例を挙げている。
ギルピン[ウィリアム・ギルピン牧師・版画家、ピクチャレスクのガイドブックを書いた]は先に、パラディオ風の古典的な形式がどのようにピクチャレスクな無秩序へと変貌するかについて述べたわけだが、一七九一年、ヘッセ・カッセルの皇太子ヴィルヘルム一世(一七九七-一八八八。のちにプロイセン王となる)が委託したデザインがそれだった。彼は新古典主義の様式で建てられた新築のヴィルヘルムスレーエ城の中心部を、ことごとくロマン主義的な廃墟に作り変えることを提案した。[中略]この計画は紙の上だけにとどまり、日の目を見ることはなかった。皇太子はその後、先の計画のときに起用した建築家に、今度は自分の所有する狩猟園の奥に廃墟と化した偽中世風な城(レーヴェンブルク城)を作ってほしいと依頼した。(222ページ)
この辺りの記述には少々混乱が見られる。「ヘッセ・カッセル」はもちろん「ヘッセン・カッセル Hessen-Kassel」で、「ヴィルヘルムスレーエ」は「ヴィルヘルムスヘーエ Wilhelmshöhe」の誤り。一七九一年に一七九七年生まれの皇太子がデザインを委託したと妙なことになっているが、ドイツには数多くの侯国、公国、王国があって同じ名前の君侯がやたらといるので取り違えたのだろう。「皇太子ヴィルヘルム一世」は「ヴィルヘルム九世 Wilhelm IX. (1743-1821) 」の誤り、のちの「プロイセン王」ではなく「選帝侯ヴィルヘルム一世」で、これがレーヴェンブルク Löwenburg を作らせた。ちなみに彼が「起用した建築家」とはユッソー Heinrich Christoph Jussow (1754-1825) である。

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しかし19世紀後半に考古学の発掘が始まって以来、コロセウムは人々をひきつけた面影を失った。アリーナは下水渠や地下道が掘り返され、すべてがむき出しのままの、放置された工事現場のようになった。
1870年からこの方、コロセウムによって芸術的な感興を与えられたという作家や画家の名を、私はひとりとして思い浮かべることができない。が、この断定にもひとりだけ例外の人物がいた。画家になりそこねた男、アドルフ・ヒトラーである。それに彼を取り巻く建築家たちも同じようにその例外だった。(50~51ページ)
アドルフ・ヒトラーは1938年ローマを訪れている。盛大な歓迎式典が用意され、到着した夜は記念の建築物がことごとく電飾で輝く中、パレードが行われた。しかしそのあと数日雨が続いて予定されていた閲兵式が取りやめになった時、ヒトラーはコロセウムへ戻り、ひとりそこで数時間を過ごした。
このとき彼がコロセウムの中で学んだとされているのが、ニュルンベルクに新設が予定されていた議会ホールのデザインである。ホールはコロセウムをまねて円形劇場の形に作られた。ヒトラーお抱えの建築家アルベルト・シュペーアはゲーテの考察を参考にし、これをホールの設計に取り入れたといわれる。ゲーテはコロセウムについて次のような考えを述べている。円形競技場に入ると、群集は催眠術をかけられたように従順になり、前へうしろへと揺れながらひとつの雰囲気に収斂されていく。ヒトラーはコロセウムの中にさらに冷え冷えとした教訓を見て取っていた。「不滅の権力の象徴」ともいうべき建造物の建設には、「文明化されていない」領土から連れてきた奴隷たちをもっぱら従事させるべきだという教えである。
ドイツに帰ったヒトラーはさっそく、「廃墟価値論」を政策の中に導入した。(52~53ページ)
  --クリストファー・ウッドワード『廃墟論』(青土社 2004)
古代ギリシア、ローマの廃墟に寄せる感性は、さまざまに変奏しながらキリスト教中世、ルネサンス、啓蒙思想家、ロマン派からついにはアドルフ・ヒトラーにまで及ぶ、ヨーロッパの精神史を流れる一本の旋律をなしているのだろうか。廃墟が繋ぐロマン派とヒトラー、これはナチズムの源流をロマン主義に見たヴィーレック『ロマン派からヒトラーへ』(*)にも無かった視点だろう。

アルベルト・シュペーアの「廃墟価値論(**)」とは第三帝国の主要な建造物には鉄やコンクリートを使用せず、大理石と石、それにレンガを用いて建てるべし、なぜなら、たとえ帝国が崩壊してもなお遺跡としてその姿が永遠に残ることが可能になるからという発想である。シュペーアの設計した壮麗な大ベルリン「世界首都ゲルマニア」建設は設計図と模型の段階から一歩踏み出したところで戦争が始まって終息した。「千年王国」の遺跡としては巨大な建造物を支える土台の試作品と一部の街灯が残るだけだ。
* ピーター・ヴィーレック/西城 信 訳『ロマン派からヒトラーへ。ナチズムの源流』(紀伊国屋書店 1973)
原著は Peter Viereck: Meta-Politics: From the Romantics to Hitler (1941)
** シュペーアは Ruinenwerttheorie というタームを1969年に初めて用いたので、これは後付の理論ではないかとも言われる。

多言語作家

母語とそれ以外の言葉で詩や小説を書く文学者は、世界を見渡せば珍しくないのかもしれないが、日本語を母語とするケースはまだ少数に留まるだろう。日本語とドイツ語で小説を書く作家としては多和田葉子以外に私は知らない。彼女は1992年下半期の芥川賞作家であり、ドイツでドイツ語を母語としない文学者に贈られるアーダルベルト・フォン・シャミッソー賞の1996年受賞者である。

私などドイツ語は読むのが専門で、これで小説を書くことなど思いもよらないが、学生時代から同人誌を作って小説を書いていた彼女は、大学を終えてハンブルクに渡り、会社務めと大学生活を送る中でドイツ語でも書き始めた。「ドイツに渡ったばかりの頃は正直言って母語以外でものを書くことなどありえないと思っていた。しかし、五年もたつと、ドイツ語でも小説が書きたくなった。これは、抑えても抑えきれない衝動で、たとえ書くなと言われても書かずにはいられない」という人である。

文学者ならだれしも言葉に敏感だろうが、二か国語作家の持つただならぬ鋭敏さについては『エクソフォニー /母語の外へ出る旅』(岩波書店 2003)で驚かされたものだ。近刊の『言葉と歩く日記』(岩波新書 2013)では、『雪の練習生』(新潮社 2011)をドイツ語に翻訳しながらの日々が記されていて、これがまた実に興味深く、かつ教えられることが多い。自作を自分でドイツ語に訳すのは初めての試みということだが、この過程では言語に対する感覚がひときわ微妙となり、両言語の間で不思議な光景が広がるようだ。

特に興味をひかれた部分を少し書き抜いてみる。
この日記をつけ始めたきっかけは、言語について毎日考えているわたしが、いざ言語について本を書こうとすると何も書けないことに気づいたことになる。[中略]日本語とドイツ語で小説を書きながらベルリンで生活し、よく旅に出る人間の頭の中を日記という鏡に映してみようと思いたった。(12ページ)

わたしは日本語を書くとき、「なぜか」という語を使いすぎる。ドイツ語に訳そうとして、初めてそのことに気づく。「自分でも理由は分からないが」という意味だが、誰も初めから理由など訊いていないのだから、そんな風に言うのは、自意識過剰で、本当は恥ずかしいことなのではないかと思う。ドイツ語でも話し言葉なら「irgendwie」を挟む人が多いが、乱発すると性格が軽薄で思考力が弱いという印象を与える。(24ページ)

今日『雪の練習生』をドイツ語にする作業を続けながら思ったのだが、わたしの日本語には、「何々すると何々だった」という構文が多すぎる。「公園に行ってみると、野良犬がいた。」この場合、「と」で結ばれた二つの部分の間にはどのような関係があるのかを文学者として納得のいく形で説明しなければいけない。「豆腐を指で押してみると意外に硬かった」と言う時には、押している時点で「豆腐だから柔らかいだろう」と考えていて、その結果、期待を裏切って硬かったとなるのだから分かりやすい。また、「カーテンの色を白に変えてみると、急に部屋が明るくなった」の場合は、あることをして、その結果こうなったというのだから、両者の関係は明白である。「公園に行ってみると、野良犬がいた」の場合、野良犬がいるだろうと期待して公園に行ったのではなく、またわたしが行かなくても野良犬は公園にいたのである。時間的には、野良犬が公園にいた時間が線なら、わたしが公園に着いた時間は点である。「わたしが公園に行った時、公園に野良犬がいた」とドイツ語で言うと変に聞こえる理由の一つはそこにあるだろう。(26ページ)

たとえば動詞の変化には法則性があるが、よく使われる動詞はすべて変化の仕方が不規則である。それがなぜなのかがずっと気になっている。あまり使わない動詞の場合はみんなが変化の仕方を覚えていられないから一定なのだという説明を読んだことがある。めったに顔を出さない会員は名前が覚えられないからみんな山田さんと呼ぶことにする、というような理屈だと思うわたしの方がおかしいのかもしれないが完全には納得できない。また別の説では、よく使われる動詞は使いすぎて乱れ、規則からはみ出してしまった、ということになっている。(35ページ)

目が覚める。しばらくして目覚まし時計が鳴る。ラジオをつける。コーヒーを沸かす。コンピュータを起こす。顔を洗う。そして、私は昨日書いた詩を読み返した。と、ここまで書いて気が付いた。初めの六つの文章を現在形で書いて、七つ目を過去形にした。七つ目の行為だけが過去に起こったからそうするのではない。時制を変えたことで、一連の動作の連なりを、七つ目の行為でいちどとめて、そこにスポットライトを当てるのだ。
目が覚めた。しばらくして目覚まし時計が鳴った。ラジオをつけた。コーヒーを沸かした。コンピュータを起こした。顔を洗った。そして、私は昨日書いた詩を読み返す。今度は時制を逆にしてみた。こう書いても内容は変わらない。七つ目でスポットライトが当たる感じも変わらない。ただ、ライトの色が違うだけだ。
ドイツ語では普通、スポットライトの代わりに時制を変えることはしない。(70ページ)

  --多和田葉子『言葉と歩く日記』(岩波新書 2013)
こんな調子で続けるときりがないので、この辺でやめておきます。

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蛇足ながら:短編『目星の花ちろめいて』の英訳(セルデン・キョーコ)で、4つの短いエピソードのうち「わたりびと」が Wayfarer と訳されている、とのこと(48ページ)。ドイツ語では Heute gehe ich früh ins Büro. 今日は早く会社に行く。/Ich fahre heute nach Berlin. 今日ベルリンに行く。 というように「行く」を2語で使い分ける。初級学習者には、英語なら go と fare だよ、 fare は今では使わないが farewell (さらば、達者で行けよ)に残っていると説明するのが常であったが、wayfarer (道行く人)などというぴったりの語があるとは知らなかった。


黙示録

新約聖書の最後に位置する「ヨハネの黙示録」は聖書の中でも最も特異な書である。現世の滅び・世界の終末と新しい天地の現れ・イエス・キリストの再臨が「幻視」として語られるなかで、飢饉・地震・幽明、血の海、太陽に焼かれる人間などなど・・・地上世界と天界のカタストロフの情景が描かれる。このおぞましいイメージはいったい何を表現しようとするのか、解釈は一通りではないが、これらが中世以来、近世、現代にいたるまで西洋の思想に影響を与え、数知れぬ文学や美術作品にモチーフを提供してきた。

岡田温司『黙示録 ―― イメージの源泉』は、黙示録なる書が西洋の歴史においていかに読まれ解釈されてきたかの筋道をたどり、各時代の絵画、挿絵、パンフレットなど多くの図像に「変奏」しつつ現れたイメージを取り上げ、そして現代において「黙示録的な思想やイメージが、それと気づかないうちにいかに身近に浸透しているかを」示すことがテーマとなっている。

この著者の本をここで取り上げさせてもらうのは、たしか、『グランドツアー。18世紀イタリアへの旅』(岩波新書 2010)(→「カリタス」)と『アダムとイヴ--語り継がれる「中心の神話」』(中公新書 2012)(→「最初の人間」)に続いて三度目になる。

例のごとく歴史的な興味深い図像が多く示されるが、本書では現在のSF映画、怪獣映画にも流れている黙示録思想に詳しく触れられているところが印象に残る。イングラム監督『黙示録の四人の騎士』(1921)、H・G・ウェルズ『来るべき世界』(1936)、ロバート・ワイズ監督『地球の静止する日』(1951)、円谷英二特撮の『ゴジラ』(1954)、キングコングを元祖とする1950年代ハリウッドの怪獣映画シリーズ、ベルイマン『第七の封印』(1957)、キューブリック『博士の異常な愛情』(1963)、コッポラ『地獄の黙示録』(1979)などなど。

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ところでこの本を読み進むなかでぎょっとさせられた箇所が二か所あります。一つ目は、アンチキリスト――世の終わりが来る前に出現するとされる――の登場を抑える「カテコン」についてです。これは「ヨハネの黙示録」ではなく、パウロの「テサロニケ人への手紙2」で描かれる存在だ。
この奇妙な黙示録的キャラクターを現代によみがえらせたのは、政治哲学者のカール・シュミット(一八八八-一九八五)であるが、あろうことか彼は、ヒトラーに「カテコン」の役割を読み取ろうとした。神学と政治のあいだに出没してくるこの執拗な黙示録の亡霊について、わたしは別の機会に論じているので、詳しくはそちらを参照願いたい(『イタリアン・セオリー』)。(52ページ)
カール・シュミットといえば、ドイツ文学の研究者には、おそらく Politische Romantik (Berlin 1925) [邦訳:大久保和郎訳『政治的ロマン主義』(みすず書房 1970)]によって名が知られる政治学者であろう。ロマン主義を「機会原因論」なるもので解釈しようとする立場らしいのだが、なかなか呑み込めなかったという記憶があります。そのカール・シュミットの名がここに黙示録のテーマで出てきたのでびっくりした。しかもヒトラーとカテコンとは!

なぜイタリアでカール・シュミットなのか不思議な気がして、同じ著者の『イタリア現代思想への招待』(講談社選書メチエ 2008)をみると第二次大戦後、「否定の思考」がイタリアにもたらされたころ、ハイデガー、ベンヤミンなどドイツ思想の再評価があり、「ニーチェ・ルネサンス」なるものまであった流れの中でカール・シュミットが好んで参照されたとのこと。ヘーッと驚くばかりです。改めて『イタリアン・セオリー』を読まねばと思った次第。

『黙示録 ―― イメージの源泉』第III章「変奏される神話」で初期キリスト教時代以降のさまざまな文学・哲学のテキストが紹介され、19世紀後半にはニーチェが登場する。「「神の死」を告げるニーチェの哲学は、それ自体がそもそも黙示録的で終末論的である、とはいえないだろうか」(132ページ)。そして20世紀に入ると第一次世界大戦。
「神の死」からほんのわずかの後、西洋はまたも黙示録にさいなまれることになる。第一次世界大戦は、それまでの戦争とは比較にならないほどの惨劇をもたらしたのだった。それから第二次世界大戦へと突入していく数十年は文字どおり「カタストロフの時代」とも呼ばれる。このときドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミン(一八九二-一九四〇)は、画家パウル・クレー(一八九二-一九四〇)描く《新しい天使》の絵から、黙示録的な廃墟と復活の光景を夢想する。
この天使は、翼を開いて顔を過去に向けたまま、「進歩」という名の強風に押し流されていく。彼が眺めているのはただ、廃墟の上に廃墟を重ねていくカタストロフだけである。(133/134ページ)
そして、次にショックを受けたのが第VI章「カタストロフ ― 怪獣、核、そして騎士」のこの箇所です。
ワールド・トレード・センターに飛行機が激突する映像を見て、「全宇宙で想像しうるもっとも偉大な芸術作品」と呼んで顰蹙をかったのは、高名な作曲家カールハインツ・シュトックハウゼンだったが、それはごく正直な印象だったのかもしれない。ある哲学者はまた、「それを実行したのは彼らだが、望んだのは私たちのほうなのだ」(ジャン・ボードリヤール)と喝破した。西洋――近代の日本も含めて――はこれまでにくりかえし、黙示録的な映像の中で、「自殺へ向かう世界」(ポール・ヴィリリオ)を好んで描きだしてきたのだ。(216ページ)
  --岡田温司『黙示録 ―― イメージの源泉』(岩波新書 2014)
あの9・11のあと、こんな反応があった(*)こと、うかつにも私は知らなかった。この文脈の中で、先に触れたような一連の映画が論じられるのである。確かに最初テレビのニュースであの光景を見たときはSF、怪獣映画の一画面としか思えないものであった。
* シュトックハウゼンの発言については wikipedia.de の彼の項目でも触れられている。日本語のウィキペディアではまた「この辺りの経緯は、中沢新一『緑の資本論』所収「シュトックハウゼン事件 ― 安全球体に包み込まれた芸術の試練」に詳しい」とある。機会があれば読んでみよう。

固有名詞のカタカナ表記

高島俊男氏が講談社の雑誌「本」で明木茂夫『中国地名カタカナ表記の研究』(東方書店 2014.3)を紹介している。学校で使う地図帳や教科書の中国地名が原音カタカナ書きだと指摘され、へえそうなの、と思ったというところから話が始まる。

そこで高島氏は帝国書院『最新基本地図2010世界・日本』の中国の所をみて、「なるほどカタカナ書きで、小さく漢字を添えてある」とのこと。これまで見なかったのか、見たけれど意識しなかったのか、といぶかる。
これは小生だけのウカツではないらしい。この本の著者の明木さんも、念のために自分が子供の頃に使っていた地図を引っ張り出してみて、「既にカタカナ表記になっていたことを知った時には吃驚した」「しかし、社会科の授業等でこのようなカタカナ地名を教わった覚えはないし」と不思議がっていらっしゃる。
明木氏は大学の先生なので、学生たちにもきいてみた。反応は似たり寄ったりである。先生に言われて子供の時の地図を見て、カタカナなので愕然とした、などと言っている。一般にはあまりゆきわたってないようである。
わたしもウカツ派で気づかなかった。愚息の使っていた(地図帳はもう無いので)地球儀を見てみると、たしかに中国の地名はカタカナ書きで、小さく漢字を添えてある。
それではなぜ明木さんがこういう本を書いたのか。それは、日本の政府および関係諸団体等がこのカタカナ書きにえらく執着していて、教科書会社や地図帳業者などに強要しているらしいことがわかってきたからである。
漢字にカタカナを添えるのはともかく、カタカナだけにすると大変だ。チンチョウ、チョンチョウ、チャンチョウ、ツァンチョウ、チャオチョウ・・・など明木氏の挙げる例をみて、中国専門家の高木氏も「参った」と言う。中国の地名はたいてい二音節で、しかもむやみに「チ」の出番が多いので、このような始末になるらしい。
外国の固有名詞はカタカナで書く。これが一般的習慣である。だから中国もそうする、と言うのはもっともである。
ただし、何語にしてもカタカナで原音を正しくあらわせるものではない。まあ近似値である。
たまたま人が見せてくれた二村晃『耳で読む読書の世界』(東方出版)という本を読んでいたら、「カタカナ人名は、所詮翻訳者が原語に似せて書いた日本語の符牒です」と書いてあった。まことにその通りですね。
ところが、中国地名カタカナはなにしろ「官制」だからうるさいことがあるらしい。昭和24年から文部省が中国地名原音カタカナ書きを繰り返しやかましく言い出したのは、当時の国語審議会のメンバーに漢字廃止・ローマ字論者が多かったから。やがては日本の地名・人名にも漢字を用いないようにするために、まずは中国地名から始めようとした。そもそもは明治以来の「列強に追い付け追い越せ」が漢字廃止ないしは制限すべしという発想を生み出した。「漢字廃止論は戦後おいおい影が薄くなったが、そこから出た中国地名カタカナ論は頑強に残った」ということらしい。
明木先生の学生たちがたいていそれまで無関心だったことは上に言った通りだが、ひとりだけ深刻な記憶を持っている人がいた。試験で遼東半島を「リャオトン半島」と書いたら X だった。正解はと聞いたら「リヤオトン半島」だったそうだ。――わかります? ヤの大小ですね。今はまた変わって「リアオトン」が正解になっているそうだ。
無論わたしも、「リャオ」より「リヤオ」がよく、「リアオ」がさらによいことは認める。しかし試験でひっかけるのはかわいそうだろう。中国地名にかぎらず、学校現場では「フィリピン」が正しく「フィリッピン」は X、「マルセイユ」が正しく「マルセーユ」は X、などといろいろあるんだそうです。カタカナは符牒、と二村さんが強調せねばならぬゆえんだ。(45/46ページ)

 --高島俊男「漢字雑談51--中国地名カタカナ書き」(講談社「本」2014.6)
そんなバカなことが本当に行われているのだろうか?

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固有名詞のカタカナ書きについては、われわれドイツ文学研究者にはおなじみのトピックがある。ドイツの文豪 Goethe のカタカナ表記だ。斎藤緑雨作とされる川柳に、
「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」
とあるが、ドイツ語の複母音 oe あるいは ö は オー と エー の間のような微妙な音なので、なかなか表記が定まらなかった。原音に似せるのは不可能と見切りをつけ「ゲーテ」に落ち着くまで、うんざりするほど多種多様のカタカナ書きが行われた。矢崎源九郎『日本の外来語』(岩波書店 1964)では29通りの書き方があったとしていて、それを 東京ゲーテ記念館 のサイトが引用紹介している。ゴエテ、ギューテ、ギェーテ、ギューテ、ギョート、ギョーツ、ゲーテ、ギュエテ、ゲォエテ、ゴアタ、グウィーテ、ゲヱテー、ゲーテー、ゲェテー、ギョウテ、ギヨーテ、ギョーテ、ギョーテー、ギヨテー、ゴエテ、ギョテ、ギヨヲテ、ギヨオテ、ゲョーテ、ゲヨーテ、ゴエテー、ゲエテ、ギヨエテ、ゲイテ、ギョエテ、と。

念のため数えてみると、30ある! どれか重複しているのでは、とエクセルに入れて確認してみると「ギューテ」と「ゴエテ」がダブっています。二つ減らすと28になるので、ひょっとしたら「ギューテ」が重複で、「ゴエテ」はもう一つが「ゴヱテ」なのかもしれませんが、原本に当たってまで確かめる気はありません。

さらにこのサイトでは、品川力『古書巡礼』(青英舎 1982)所収の「二十九人のゴッホ・四十五人のゲーテ」が紹介されていて、矢崎の挙げた29通りどころか、45通りもあるとのこと。ホンマかいなと思いますが、もう見たくもありませんね。