−二上山を−

〜ムササビは木末(こぬれ)求むとあしひきの山の猟夫(さつお)にあひにけるかも」〜

奈良市の白毫寺から高円山山頂への延長線上に田原西陵(春日宮天皇陵)があります。六男の白壁王が光仁天皇に即位された事で「春日宮御宇天皇」の追尊を受けた志貴皇子の御陵です。天智天皇子の七番目の皇子として生まれながら「壬申の乱」以降、天武天皇の系統に政治が移ったため、この歌の様に皇位には一切執着せず、和歌等の文化の道に生きた人生だったが、志貴皇子の系統が現在まで続く事になる。

〜うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟(いろせ)と我が見む〜 

唯一の肉親である弟を亡くした大伯皇女の悲しみは計り知れない。又、みずからの青春を持てなかった大伯皇女は、弟の存在が生きがいでもあったのだろう、二上山に葬られた大津皇子を想い、挽歌を残している。大伯皇女は、大和に召還されてから15年間、謀反人の姉という耐え難い立場を背負い、幸薄い皇女は大宝元年12月に41歳で亡くなった。

弟の悲劇を姉の立場から嘆くためにのみ「万葉集」に登場している。一方、大津皇子の死から2年余りの689年に草壁皇子は天皇に就くことがなく死去。鵜野皇后は持統天皇となり、694年に都を飛鳥浄御原宮から藤原京に遷都する。

「吉野公盟」に同行した六人の皇子はこちらから

<お詫び>

この記述は、独自で入手した数冊の文献を元にしていますが、私的な思いが入っておりますので、事実と違う場合があります。乱文乱筆文字の誤り等も合わせてお許し下さい。