−皇位継承−

聖約の行事は何の波瀾もなく、皇后の思惑通りに進行し、草壁皇子の地位(皇位継承)は五人の皇子によっても認められたことになり、皇親政治も確立する。

天智天皇の継承争いで、甥でもあり、額田王との間に生まれた十市皇女の夫でもある大友皇子との戦いで、心身共に疲れきっていた天皇も安堵の思いを深くしたのであろう、万葉集に次の歌ようなが詠まれている「良き人の 良しとよく見て 良しと言ひし 吉野よく見よ 良き人よく見」。

大海人皇子(天武天皇)は身を守るために、吉野の宮滝に隠れ住み、ひそかに反乱の計画を練った地で、懸案であった皇位継承の問題も解決のめどがつき、リラックスした天皇の心境がうかがえる歌である。

しかし事はからなずしも安易に運ばなかった。それは草壁皇子を一番の後継者とする六人の皇子の順序は年齢順ではなく、生母の地位や身分の高低などを考慮に入れたもので、宮廷における皇子たちの序列にほかならない。

大津皇子の母は天智天皇の皇女で、鵜野皇女の姉である大田皇女。最年長の高市皇子は壬申の乱の戦いでの活躍もあったが、母は地方の豪族の出身であり、4番目の川島皇子と6番目の志貴皇子の父は天智天皇である。

天武天皇のお妃であった大田皇女は大津皇子が5歳の時に亡くなっており、皇位後継者となる皇太子に草壁皇子が指名された事を、鵜野皇后の強い望みにより異腹の皇子達、事実上は大津皇子にその事を確認させるものであったとも言える。

続く