−磐余の池−
「ももづたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 曇隠りなむ」。 十月二日 大津皇子は謀反の罪で捕らえられ 翌日の三日、訳語田(おさだ)(桜井の春日神社)の居舎で死を賜った時、処刑前に居地の磐余の池(稚桜(わかざくら)神社)にて詠った辞世の句とされている。
時に大津皇子は二十四歳、正妃の山辺皇女は髪をふり乱し、素足のまま駆けつけて殉死し、見る者はすすり泣いたと、懐風藻は記している。大津皇子は天武天皇の崩御から僅か20日余りの命であった。
同年十月の末、大津皇子に連座した三十余人は、大津皇子に仕えていた帳内(とねり)一人と新羅の僧行心を伊豆と飛騨に流した他は、すべて赦免している事から、大津皇子謀反の一件は追い詰められた大津の軽率な行動をネタにして作り上げられた事件ではないかと疑われている。
謀反を密告したとされる川島皇子の妃である泊瀬部皇女は忍壁皇子と同母兄妹で、川島と忍壁とは義兄弟となる。もし謀反の一味ともなれば、忍壁皇子にも疑いがかかる、川島皇子は鵜野皇后の誘いに逆らうことが出来ない状態に陥っていた。