〜家族の絆〜〜
「あなたがそうせよと言われるのであれば、乳母の働き口もあり、親類が子供達を預かってくれますから」すまない!保存運動の資金で多額の借金をしていた為、貧窮の生活をしており、嘉十郎は妻の従順さに感謝すると、大極殿狂人だとの汚名は、なんとしても晴らしたいとの思いが強まり、上京への希望が脹らんだ。
「しばらく・・・。しばらく・・・」と、まろみのある、やさしい声が何回となく嘉十郎を呼び起こした。小松宮殿下の姿が枕元に見えたのだ・・夢・・なんの夢だったのだろうか?
明治三十四年(1901年)5月に奈良県の赤十字社大会が東大寺の大仏殿で開催され、日本赤十字社総裁の小松宮彰仁殿下が来県されたのだ。
「どうだろう、小松宮殿下に歴史参考品として古瓦を献上されては・・・」町の有力者で嘉十郎の運動に好意を寄せている臼井憲徳の言葉に、えっ!「私のようなものが、宮殿下に近寄れる身分ではありません」「ものは試しだよ、宮殿下にとって平城宮は遠い祖先の遺跡であり、大極殿から出土した古瓦ともなれば祖先の遺品にあたるだけに、きっと喜ばれるにちがいない」。
古瓦は、いつ、誰から所望されてもいいように、きれいに押入れに仕まわれていた幾種類もある軒丸瓦の中から、単弁の菊花に似た文様を選んで桐箱に収めた。臼井は大事そうに桐箱を抱え、すぐ近くの菊水楼に嘉十郎を伴った。菊水楼は興福寺の境内で料理旅館として、署名人の宿泊所として利用されていた。
菊水楼にいたる周辺はものものしい警備で固められていた。到着するとまちわびたように笠原光男が迎えに出ていた。「笠原さん、こうして、のこのこと出かけてはきましたが、私は無学で、なんの礼儀もわきまえぬ人間です」棚田さん「礼儀より大切なのは人の心ですよ、宮殿下はあなたをお待ちになっておられます、お待たせしては、かえって失礼でしょう」笠原は優しく悟した。
「棚田嘉十郎、感謝をしておるぞ」小松宮殿下のまろみのある声が耳底に染みついた。「わが皇祖である平城の宮跡、穢れのないように、保存を頼むぞ」嘉十郎は平伏し、「はあっ!この棚田嘉十郎、身命を賭け、宮跡の保存に努力致します」嘉十郎はあまりの光栄に感謝すると、無意識の内に誓いの言葉を口にした」拝謁は瞬時でおわったが、ずっしりと、疲労感がのしかかっていた。
自宅にもどり、宮殿下から拝領した額を床の間に飾った。小松宮殿下が夢枕に立たれたのは、何かのお告げなのか、嘉十郎は裏庭にある井戸端へ出た。夜気はしんしんと冷え込んでいたが、嘉十郎は裸になると、井戸端にしゃがみこみ、井戸水を浴びた。水は凍りついたように膚を刺した。だが、冷水を浴びていると、不思議なことに、冷たいという感触が消えた時、「しばらく・・・しばらく待て!と宮殿下は申されたにちがいない」と、自分で納得し、上京を断念する決心が出来た。
「お客さんが見えていますが、」と妻のイエが「なんだか、珍しい石があるとか、私にはよく分からないのです」見慣れない石工が玄関のあがり口に座っていた。「スカンポ石で造ったという石燈籠があるのだが、誰か買ってくれる人はないだろうか」「スカンポ石とは・・・?」植木を扱っておれば造園にも関係し、石燈籠を世話することもあるが、スカンポ石ははじめて聞く名であった。
「とにかく変わった石で、砕いて舐めてみると酸っぱい味がする」「石が酸っぱい・・」嘉十郎は酸っぱい石に興味を抱くと、その石の出所をたずねた。「高円山の麓に近い鹿野園から切り出した石が、酸っぱいというのだ」自分で確かめてみたいと石工に案内を頼んだ。
高畑町から新薬師寺の前を通り、白毫寺の近くから畦道を南に向かうと、やがて、岩井川に添って穏やか勾配を登ると、「このあたりですよ」石工はひとつの石を取り上げて砕いた。嘉十郎は差し出された石を手にして舐めてみた「酸っぱい」嘉十郎はとっさの勘で湧き水を捜した。すぐに見つかった湧き水を飲んでみると、石と同じ味がした。「これは鉱泉だ!」小松宮殿下が、しばらく・・・と夢枕に立たれたのは、この湧き水を教えることにあったのか、この鉱泉を利用して宮跡保存の資金にせよとの啓示であったにちがいないと信じた。
「これは、すばらしい発見ですよ」大阪衛生試験所にて鉱泉に含まれる成分を分析してもらうと、浴用に利用すると、皮膚病や婦人病に効用があり、また三倍から三十倍に薄めて飲用すると、貧血、慢性神経痛、神経衰弱症、慢性下痢に効果があるというのだ。
ある日、大阪の資産家が、鹿野園で発見された鉱泉の出る土地を買い取りたいと棚田を訪ねてきたのだ。