〜支援者達集う〜

「この暑いのに、ご苦労様でございます」履物を差し出した市の職員に、「暑いのに、ご苦労だと・・・?」岡部長職子爵の顔色が変わり、すぐさま、知事を呼べ!と命じた。

明治四十二年(1909年)の五月、嘉十郎は奈良地方裁判所から一通の書状を受け取った。岡部長職司法大臣が来県されるのだ。しかも、大極殿跡の視察日程が組まれており、その案内役に棚田嘉十郎を指名されていたのだ。

「青木君、私はもの好きで大極殿跡の視察に来たのではない。このまま大極殿跡を放棄しておいていいものなのか、私はこの問題を解決するために出かけてきたのだ。それを、ご苦労だとはなんだね、ご苦労でもなんでもない。宮跡は、奈良で行政を執る君がしっかりと保存しなければどうするんだ」知事は神妙にかしこまっていた。

用意された人力車15輌は警備のなかを、ひたすら走り続けた。大極殿跡は雲ひとつない太陽に照りつけられ、荒れきったなかに陽炎が立っていた。汗が衣類を濡らし、咽喉が乾いても、嘉十郎は満足感にしたたりながら、岡部子爵のあとをついて歩いた。ひとわたり宮跡をまわり終えると、再び、岡部子爵は大極殿の芝生に戻り知事と県を代表するものを集めた。

「大臣が視察にくるからといって、にわかの草刈りは不愉快だね」と皮肉を述べ、そして知事らに向かって「奈良七朝の遺跡は国家の文化遺産であり、奈良県が誇りえる最高の遺産である。早くから、棚田嘉十郎君が保存の必要性を訴え、私財を投げ売って奔走しながら、いまだに実を結ばないでいるのは残念でならない。このたび、この宮跡を訪ねたのは、国家のため、奈良県民の誇りのためにも保存の意義を痛切に感じてのことである。現在の皇居を大切にし、昔の皇居をおろそかにしているのは、日本人の心として、これほど恥ずかしいことはない。この岡部長職、国家の為、奈良県民の誇りのために宮跡保存に協力する所存である。」みなのものも、力を合わせて国家の遺産を顕彰するために努力してほしい・・・」岡部子爵は熱弁をふるって激を飛ばしたのだ。

嘉十郎は直立不動の姿で一言も聞き漏らすまいと耳を傾け、いつしか、三年前の、飲まず食わずで東京から歩いて帰ってきた時の事を想い起こした。苦労は生かされてこそ苦労をした甲斐があるものだ。

これを機に県の対応も変わり、その三ヶ月後には、青木知事より来年の明治四十三年(1910年)は平城遷都千二百年にあたるので、平城宮跡を中心に盛大な記念式典を開催したいとの発表があり、一同を驚かせたのだ。

次に続く