平城宮跡の保存に人生を賭けた棚田嘉十郎物語


大君は 神にし坐せば 赤駒の 匍匐ふ田井を 都となしつ 
「天皇は神でいらしゃる。だから赤毛の馬が腹まで浸かってしまうような田んぼでさえ、立派な都にされた」万葉集の意で、天皇を中心として新しい国家をつくっていこうとした古代人の心は、今から100余年前一人の人物を動かしたのだ。

〜保存の決意〜

「関野博士に会いに行く」嘉十郎は大切にとっておいた「奈良新聞」を手に家を出た。明治三十三年(1900年)の奈良新聞の新年号に「平城宮大極殿史跡考」と題する関野貞博士の論文が掲載されていたのだ。関野博士は東京帝国大学を卒業した工学博士で、主な寺院を解体修理するための責任者として奈良に着任されていた。

嘉十郎が奈良七朝七十余年の宮跡に興味を抱くようになったのは奈良公園の植木御用を勤めてからである。大阪と奈良を結ぶ鉄道が開通すると奈良に観光客が増えるようになり、公園で仕事をしていると、奈良七朝の宮跡はどこにあるのですか、都の跡は残っていますか、と問いかけられるようになったからである。

「これは恥ずかしい!」大極殿の跡だとおもわれる「大極の芝」の土壇の上に立ったとき、荒廃した光景に、思わず嘉十郎は呟いた。その土壌は枯草で覆われ、牛が繋がれたまま放置され、悪臭を漂わせていたのである。恥ずかしいというのは、平城宮跡のみすぼらしさと、宮跡の存在を教えることにより期待を抱く人たちに失望を与えることになるのではと思われ、奈良に住む人間として自分も恥ずかしを受けているような気がして心が咎めるのだ。

「たしかに保存しなければならないし私も保存できることを願って論文を発表したのだが・・・どう実現させていくのかとなると、大変なことだよ」関野先生、私は、奈良とそれほど遠くない「京都の笠置」に出かけました。そこで後醍醐天皇の行在所跡に立派な顕彰碑が建てられ、遺跡が綺麗に整備されているのを見て驚きました。平城京は後醍醐天皇よりももっと古く、価値ある宮跡があるところです。それがどうして保存されないのか、なんとも悔しいおもいです。保存は「調査されて宮跡をよくご存知の先生に動いていただくのが最適ではないでしょうか」だが、関野は努めて穏便に断った「宮跡の保存は、まず、そこに生活している村民が宮跡の価値を理解することが必要」しかも、宮跡が個人の所有地であればなおさらで、たとえ、政治の力でもって保存を推し進めても、奈良の市民や地元の人たちから反対でもされると政争の具にされます。

あなた達、奈良市民が、地道に根気よく宮跡の価値を訴え、保存運動を盛り上げて行くことが肝心です」と、話は続けて、後醍醐天皇の行在所跡は、笠置に住む人達が郷土を愛し、郷土を誇りたいがために整備され、顕彰碑が建てられたのです。

この言葉で嘉十郎は「先生、私はやります、このままでは奈良の恥でもあり、他の国より日本を訪れた人たちにも国の恥を見せているようなものです」棚田嘉十郎は平城宮跡の保存を固く決意するのであった。

次に続く