古事記編纂1300年 古事記豆知識 其の一  其の二

昼と夜の時間が同じで、太陽が真東から登り真西へ沈む春・秋分の日に、三輪山の頂上から登る朝日は二上山の雄岳と雌岳の間に沈む事から、三輪山から二上山への一直線上は、太陽の道と言われています。この一直線上の中央には(おお)神社が所在する。「古事記」を編纂した太安萬侶は多臣菰敷(こもしき)孫になり、現在、多神社の多宮司は太安萬侶から数えて51代目となる。76日の命日に境内摂社小杜(こもり)神社で太安萬侶祭が行われる。主神は神武天皇の第二皇子神八井耳命(かむやみみのみこと)であり、祖先は神武天皇へと繋がる。
天武元年(672年)6月、近江帝(大友皇子)と天智天皇の弟大海人皇子との戦いが古代最大の争い「壬申(じんしん)の乱」です。8月に戦いは終息し、勝利した大海人皇子は翌年の673年に飛鳥浄御原宮で即位され、天武天皇となられました。天武天皇は諸家に伝わる旧辞がすでに真実と違い、数多くの虚偽のあることをいて、偽定(偽りを削って實を定める)を行われた。天武天皇の語るところを誦習したのは、稗田環濠集落神社が出身地であり天宇受賣末裔に当たる当時二十八歳の舎人稗田阿礼しかし、これは文書化されることはなくやがて年月が経過し、皇紀1371年(和銅四年711年)九月十八日に至って、元明天皇は太朝臣安萬侶に、し、稗田阿礼が誦習するところを撰録するように命じた。太安萬侶は撰録作業を行って上巻・中巻・下巻の三巻にまとめ、翌年の和銅5年(712年)正月二十八日に元明天皇に献上した。これが「古事記(ふることぶみ)」である。太安萬侶はわずか4ヶ月で撰録を終えて完成したこの書は、我が國最初の歴史書と言える。

臣安萬侶」で始まる序文は、次のように述べています。「元明天皇の臣下である安萬侶がここに参上いたします。遠い昔、すべてのものの形が定かではなかった宇宙の初めのこと。ある時、天と地が二つに分かれ、天之御中主御産神産の三柱の神様が出現されました。次いで、陰と陽とが別になり、伊邪那伊邪那の男女二神が現れ、國生みの神として、万物の生みの親となられたのです。これを天地開闢(てんちかいびゃく)と言われています。

「古事記」の上巻(かみつまき)は、この日本の國が生まれた頃の話で、数々の神話が登場します。中巻(なかつまき)は、初代天皇の神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれびこのみこと)(神武天皇)から第15代の応神天皇、下巻(しもつまき)は、第16代の仁徳天皇から第33代の推古天皇までのことが、伝説的な内容も織り交ぜながら書かれています。太安萬侶が完成した当初の原本はいつの時代かに失われましたが、そこから写された複数の写本が貴族、神社や寺院などに保管されていました。鎌倉時代には伊勢の大中臣家に上二冊本があり、京都のト部家(うらべ)三冊揃いの本の中から中巻を加え・中・下三巻に揃え、それを南北朝時代、真福寺の僧侶信瑜(しんゆ)が弟子の賢瑜(けんゆ)写させて真福寺に伝えた。大中臣家で揃った上・中・下の三巻は現存しない為に、約650年前の(綴じ糸を使わず糊のみで冊子)の「真福寺本(しんぷくじぼん)」は最古の写本となり国宝に指定されています。中巻の序文からの29枚目に、東国から大和へ帰路の途中、能煩野(のぼの)で倒れ30歳の短い人生を終えた建命(やまとたけるのみこと)を偲ぶ歌がこのように書かれています。
登波 久尓麻本婆 多々那阿衰加岐 夜碁母礼流夜麻登志宇流波斯

父、景行天皇の愛を渇望する哀しき勇者は、望郷の念に駆られながらも、異国の地にて果てた倭建命の魂は大きな白鳥となって空を駆け上がり、白鳥は一度、琴弾原(ことひきはら)に降り立った後、再び大空へと飛び去り、旧市邑(ふるいちむら)に舞い降り、その後、天の方へ飛び去ったとされる。(日本書紀から)

白鳥が「くが如く飛び去った」との由来から、この地名を羽曳野(はびきの)とされました。白鳥伝説には、諸説があります。古事記では、能褒野から白鳥はいったん、河内郡の志畿に降り立った後、再び大空へ飛び去った、と記されています。「日本書紀」の記述から、白鳥伝承の地、能褒野(亀山市)、琴弾原(御所市)、旧市邑(羽曳野)は「白鳥三陵」と呼ばれています。

この記述は、講演会でのメモ、独自で調べた書籍を元に書いたものです。又、乱文誤字等はお許し下さい。

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