古事記の話し
元明天皇の勅命によって、太安萬侶は稗田阿禮がそらんずる我が國の古伝を、文字に書き表すことになった。阿禮は記憶力の非凡な人であった。彼が天武天皇の仰のままに、我が國の正しい古事録を読み、古い言伝へをそらんじ始めたのは、三十年余り前のことである。当時二十八歳の若盛りであった彼が、今ではもう六十近い老人になった。此の人が亡くなったら、我が國の正しい古伝、つまり神代以来の尊い歴史も文学も、彼の死と共に滅びてしまうかも知れないのであった。勅命の下ったことを承った阿禮は、今や天にも上る心地であったろう。そうして、長い物語を讀み上げるのに、殆ど心魂を捧がつくしたことであろう。ところで、これを文字に書き表す安萬侶の苦心は、それにも増して大きいものがあった。その頃は、まだ片仮名も平仮名もなかった。
文字といえば漢字ばかりで、文書といえば漢文が普通であった。しかるに阿禮の語る物語は、すべて我が國の古い言葉である。我が國の古語を、漢字ばかりで其のままに書き表すことが、安萬侶に取っての大きな苦心であった。試みに、今日若し片仮名も平仮名もないとして、漢字ばかりで、我々の日常使う言葉を書き表すとしたら、どうなるのであろう。「クサキハアヲイ」というのを漢字だけで書けば、差し当たり「草木青」と書いて満足せねばなるまい。しかし、これでは、漢文流に「ソウモクアヲイ」と讀むことも出来る。そこで本当に間違いなく讀ませるためには「久佐幾波阿遠以」とでも書かねばならなくなる。だが、これでは又あまりに長過ぎて、讀むのにかえって不便である。
安萬侶は、色々の方法を用いた。例えば、「アメツチ」というのを「天地」と書き、「クラゲ」というのを「久羅下」と書いた。前者は「クサキ」を「草木」と書くのと同じである。「ハヤスサノヲノミコト」というのを「速須佐之男命」としたのは、「草木」と「久佐幾」と二つの方法を一緒にしたのである。これらは簡単な名前に過ぎないが、長い文書になると、其の苦心はとても一通りのことではなかった。しかし、安萬侶のこうした苦心はやがて報いられて、阿禮の語る所を言葉其のままに文字に書き表すことが出来た。
そうして三巻の書物にまとめて天皇に奉った。これが古事記といって、今は我が國で最も古い書物である。和銅五年正月二十八日、今から千三百年余りの昔のことである。それは、要するに我が國初以来の尊い歴史であり、文学である。殊に大切なことは、こうして我が國の古伝が、古語のままに残ったことである。古語には、我が古代國民の精神がとけ込んでいる。我々は今日、古事記を讀んで、國初以来の歴史を知ると共に、其の言葉を通じて、古代日本人の精神をありありと讀むことが出来るのである。
後記
☆多神社(奈良県磯城郡田原本町)
古事記編纂した太安麻侶、多氏一族の氏神社
別宮の小杜(こもり)神社には太安麻侶が祭神
として祀られている。
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