倭建命(日本武尊)

(一)熊襲たける

熊襲のかしら、「熊襲たける」は、力のあるにまかせて、四方をうち従え、後には朝廷の仰にも従いませんでした。「西の國で、自分より強い者はない。」と思うと、「たける」は、だんだん、増長して来ました。「一つ立派な宮殿を建て、たくさんの兵隊に守らせて、威張ってやろう。」と考えました。

いよいよ、宮殿も出来上がったので、或る日、お祝いの酒盛りを開くことになりました。其の日は、朝から、大勢の人が出入りしました。手下の者はもちろんのこと、手伝いのために、たくさんの男や女が、集まって来ました。其のうちに、一人の美しい少女がまじって、働いて居ました。酒盛りが始まると、此の少女も、座敷へ出て、酒をついで廻りました。上座にすわって、威張って居た「たける」は、此の少女を見ると、自分のそばへ呼んで、座らせました。

そうして、酒をつがせては、しきりに飲んだり、歌ったりしました。だんだんと、夜がふけて来ました。客は、次第に帰って行きました。すっかり酔って、良い機嫌になった「たける」も、もう寝ようと言うので、よろよろしながら、奥の間へ行こうとしました。此の時でした。今までやさしくお給仕をして居た少女は、すっと立ち上がって、「たける、待て。」と言うが早いか、ふところにかくして居た剣を抜いて、「たける」の胸を突きました。「あっ。」と叫んで、「たける」は倒れましたが、「お待ち下さい。これほどに強いあなたは、ただの人ではない。一体、どういうお方ですか。」と、苦しい息の下から尋ねました。

「われは女ではない。天皇の御子、「小碓命」だ。汝、恐れ多くも、朝廷の仰せに従い申さぬによって、汝を討てとの勅をこうむり、ここへ来たのだ。」「なるほど、そういうお方でいらっしゃいましたか。西の國では、私より強い者はないので、「たける」と申して居ました。日本で一番お強いあなたは「倭健命(日本武尊)と仰せられますように。」と言って、「たける」は息がたえました。景行天皇の御子、「小碓命」の皇子は、御年十六、こうして、ただお一人で、熊襲をお亡くしになりました。そうして、これから後、倭健命(日本武尊)と申し上げることになりました。


後記
熊襲 (今の熊本県球磨川上流域と言われている)

草薙の剣へつづく