「先輩?」
不意に後ろから声をかけられて、和海は少しギクッとした。
振り返ると、一人の少女がわずかに笑を浮かべながら、
しかし不安なまなざしで和海の方をみていた。
「何?」
うっとしそうに和海は答えた。
この時、和海はひじの痛み(いわゆるテニスひじ)のために練習から離れていた。
今年の初め、県内新人戦でなみいる上級生を相手に和海は、
準優勝を勝ち取っていた。だが、その数カ月後、サーブの練習のときに
ひじにものすごい痛みが走った。病院へ行った和海に医者は、
「3年でもテニスをやりたいなら、最低でも2カ月の休養が必要だ」
と、痛烈な言葉を口にした。
・・・練習ができない。試合に出られない。
それより大好きなテニスができない。2カ月も・・・・
そんな思いが和海の頭の中を駆けめぐった。そして、
そういう思いを抱き続けるうちに和海は、無関係な友達に八つ当たり
するようになっていった。当然、八つ当たりされて喜ぶ者はいない。
少しづつ同級生や後輩達が、和海の所から離れていった。
友達もいない。先生なんか頼れない。いらだちは、つのる一方だった。
「いえ、先輩はどうしていつも一人なのかなって思って、
それで・・・」
和海の反応に少女は少し驚いたようだったが、その表情から笑顔はきえていなかった。
「別に。ただ人との付き合いがうっとうしいだけ」
相変わらず、不機嫌そうな口調で答える。
「それが、どうしたの?」
「だって・・、先輩ときどき寂しそうな表情(かお)するから・・・」
その一言は、和海にとって意外な一言だった。なぜなら不機嫌な顔こそすれ、
寂しそうな表情などした記憶は全くなかったからだ。
「寂しい顔?」
「はい。時々ですけど、休憩の時に先輩、よく寝転がるでしょ。
あの時、空見上げながら一瞬、ふっと・・だけ・・・」
確かに、寝っ転がりながら空を見ていたこともあった。それでも、
寂しい顔なんかした覚えはない。
「ところで、練習は?」
話題をそらそうと、和海は奈美に尋ねた。
「えっと・・、風邪ひいちゃって」
少女の笑顔につられて、和海もクスッと口元で笑った。
「ひどくなる前に帰れよ」
「は〜い!」
初めて話したとは思えないくらいの、無邪気な笑顔と返事を残して
少女は帰っていった。
和海はしばらくその少女の後ろ姿を眺めていたが、その娘が見えなくなると
自分も家に向かって自転車を走らせた。何だかへんにくすぐったい気持ちを
抱えながら、さっきの光景を思い出していた。
「なんで俺なんかに話しかけるんだろ・・・?」
その頃の和海はさらに孤立化していた。学校で誰とも話すこともなく、
いつも一人で行動していた。そんな日々を過ごしている中で、
その少女―吹田奈美―に突然話しかけられたのだ。
確かに和海は「少し、かわいいかな」とは思っていたが、それ以上の
特別な感情などは持たなかった。人との接触をさけていたせいで、
新入部員の性格をあまり知らなかったからだった。
それから数日後、和海は練習に参加していた。筋トレからという
簡単なことからだけれども、今までの和海からはあまり考えられない行為だった。
普段なら和海は、ボーッとしているかすぐに帰るかだった。
しかし和海は今日に限って何となく練習に参加してみたくなった。
――何となくと言いながらも和海の視線は、
奈美と澄み渡った空の間を行ったり来たりしていた――
故障してから2ヶ月が経った。すっかり腕の痛みも消え、
和海は本格的に練習に戻っていた。
久しぶりにラケットを握り、そしてボールを打つ。
無理がないように壁打ちをする。それでもその目は、
喜びやうれしさがあふれていた。
「あれっ先輩、もう大丈夫なんですか?」
これまた唐突に背後からの声。もちろん奈美である。
「あぁ、だいぶよくなった」
つとめて明るく返事をする。
「学校でこんないい気分になったのは久しぶりだなぁ」そう心の中で
和海は呟いた。その心を見透かしてか、
「先輩、今日はなんか明るいですね」
と、奈美につっこまれた。和海は表には現さなかったが、内心ギクッとした。
「ま、まぁ・・・やっとテニスが出来るからね・・・」
と、和海は目をそらして答えた。奈美は相変わらず笑顔だった。
「とりあえず、今日は無理しない程度にやるよ」
奈美の笑顔に答えるように和海も微笑んだ。
それから和海は元の明るさを取り戻していった。最初は敬遠していた友達も
その様子を見て、一人また一人と仲直りをしていった。
冬休みに入り、スキー教室の希望者の募集があった。今年は希望者も多く、
また二年生が優先と言うこともあり、一年生の間で「抽選」が行われることになった。
その中には、奈美の姿もあった。奈美の手がクジを引く。直後、和海の目には
無理に悔しさを押し殺して走るように部屋から出ている奈美の姿が映っていた。
「・・・だめか」
残念そうに和海は呟いた。
スキー学習は思ったより楽しく終わったが、奈美と行きたかった和海は
あまりはしゃぐ気にはなれなかった。
その最終日、土産物屋を無言で見て回りながら一つのキーホルダーを
手に取った。クラブの友達や他の後輩達には先に適当なものを買ったが、
最後の一つは鈴のついた少し鮮やかな物を選んだ。
スキー学習も終わり、クラブの練習で和海はみんなにお土産を配った。
金額に大差は名井にしても、後輩達は我先にと取り合う。しかし
和海のポケットには、まだ例の鈴のついたキーホルダーが入っていた。
練習が終わり、和海は自転車置き場で荷物をまとめているふりをしていた。そのわけは・・・
「あっ、先輩」
突然声とともに和海の横に奈美が現れた。
「先輩、帰ったんじゃなかったんですか?」
和海はその一言にドキッとする。まさかこんな所で「君を待っていた」なんて
とてもじゃないけど言えやしない。
「いや・・・その、忘れ物しちゃって・・・」
苦しいセリフでごまかす。
「あ、そうだ先輩。スキー教室どうでした?」
いきなりその話しから入られて、少し戸惑う和海だったが
「うん、けっこうよかった。パラレルに近いことも出来るようになったし」
「ふ〜ん」
と言いながらも彼女の顔には「私も行きたかったな」という色が浮かんでいる。
「あ、これ。忘れないうちに渡しとく」
和海はポケットからあのキーホルダーを取り出した。
「クジ引きの時、ものすごく悔しそうな表情(かお)してただろ・・・」
少し舌をもつれさせながら言い、キーホルダーを奈美に渡した。
「・・・え、見てたんですか?」
「うっま、まぁ」
「ありがとうございます」
そう言ったとき奈美の明るい笑顔が、さらにまぶしく輝いた。
「・・・それじゃ」
少しテレ臭さを隠して和海を逃げるように帰った。
―――「・・・そんなこともあったなぁ」
和海はふっと目を開けて、呟いた。そして窓を全開にした。
足首に湿布をはり、テーピングで固定する。和海の目には涙が消え、
代わりに夜空の星とともに、強い決意が浮かんでいた。
冷蔵庫から氷を取り出し、テーピングをした上から足首にあてた。
火照った身体が一気に冷める感じがした。
和海は「意地でも県大会は勝ち残ってやる」と、密かに呟いた。
そう、もうあの頃の弱い自分ではないのだから・・・。