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「三権分立」、「議員の無責任」、「時効」、間違いだらけの「ハンセン病家族訴訟 熊本地裁判決」

 6月29日の読売新聞は、「ハンセン病家族訴訟 熊本地裁判決要旨」と言う見出しで、次のように報じていました。
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ハンセン病家族訴訟 熊本地裁判決要旨
2019.06.29 読売

 ハンセン病の「家族訴訟」で、国の賠償責任を認め、計3億7675万円を支払うよう命じた熊本地裁判決の要旨は次の通り。

 【厚相らの責任】

 ハンセン病隔離政策により、患者家族が大多数の国民らの偏見差別を受ける社会構造を形成し、差別被害を発生させた。

 実際には、〈1〉学校側の就学拒否や村八分により、人格形成に必要な最低限度の社会生活を喪失〈2〉就学拒否で学習の機会を喪失〈3〉結婚差別により、幸福追求の基盤として重要な婚姻関係を喪失〈4〉就労拒否によって自己実現の機会の喪失や経済的損失〈5〉差別を避けるために両親が死亡したと嘘(うそ)をつくなど重大な秘密を抱えたり、進路や交友関係など人生の選択肢が制限されたりしたため、人格形成や自己実現の機会を喪失〈6〉家族と生活できず家族関係の形成が阻害された――といったものが含まれる。

 これらの差別は、人格形成にとって重大であり、個人の尊厳にかかわる人生被害である。被害は生涯にわたって継続し得るもので、不利益は重大だ。

(中略)

 医学の進歩や当時の知見からすると、厚相は遅くとも1960年の時点で隔離政策の廃止義務があったといえる。

 また、被告は
隔離政策で患者の家族に差別被害が生じたことから、人権侵害を除去する作為義務を負う。60年以降、隔離政策を廃止すべきであることが明確となり、十分な機会と時間があったにもかかわらず、96年のらい予防法廃止まで長年にわたって放置してきたことなどから、96年以降は、より高い偏見や差別を除く義務が課せられる。

 被告は、こうした
義務を尽くしておらず、国家賠償法上の違法性があり、少なくとも過失があった。

 2002年以降は、
01年の療養所の入所者らに対して国家賠償を認めた熊本地裁の判決の報道などによって、隔離政策の影響が一定程度遮断されたといえ、違法性を認めることはできない。

(中略)

 【国会議員の責任】

 
国会議員にとって65年には、らい予防法の隔離規定の違憲が明白であった。96年までの30年以上もの長期間にわたって廃止しなかったことは、立法措置を怠ったと認められる。立法不作為には過失がある。

 【消滅時効】

 原告らは
15年9月9日の鳥取地裁判決をきっかけに、被告が加害者であることなどを弁護士から指摘され、本訴に至ったことがうかがえる。指摘までは、被告が加害者であることや、被告の加害行為が不法行為を構成すると認識することは困難だった。

 指摘を受けた15年9月9日以降が、
消滅時効の起算点であると解するのが相当で、原告らのいずれも消滅時効は完成していない。
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 このハンセン病の訴訟については、「判決要旨」の記事でも触れているように、同種の裁判が
2001年に今回と同じ熊本地裁で起こされて、国に賠償を命じる判決が出されています。

 その時に、判決が国会議員の「不作為責任」を認めた部分があったので、「C31裁判所は国会議員を裁くことができるのか −ハンセン病西日本訴訟−」で、産経新聞に投稿したことがあります。

 今回の判決も基本は当時と同じで、なぜ18年後の今になって、訴訟になったのか疑問を感じました。単に
「不当な隔離」だけを問題にしたのでは無く、「差別と偏見」についても、国に対する賠償請求を追加した点が前回との相違点でしょうか。

1 三権分立
 判決は「
隔離政策で患者の家族に差別被害が生じたことから、人権侵害を除去する作為義務を負う」、「96年のらい予防法廃止まで長年にわたって放置してきた」としていますが、裁判所が「行政府」、「立法府」に対して。何らかの作為を求めるのは、三権分立の原則を侵害する、司法の越権行為であると思います。国は単なる一被告ではありません。裁判所に出来ることは、現行の法令の下での原告・被告の責任の有無と損害額を算定して、賠償額を認定するところまでだと思います。

 国(立法や行政)が「伝染病の問題」として向き合わなければならないのは、今回の原告・被告だけではありません。世間には裁判所が知り得ない多くの利害関係者が居ます。立法・行政はそれらの利害関係を慎重に検討・審議した結果で行動しなければなりません。少数の特定の利害関係者だけの利害しか知り得ない法廷の判事が、行政・立法に作為を命じるのは三権分立を無視した身の程知らずの暴挙と言うべきです。法的義務の存在しないところに、的義務を新設するのは立法行為と同じです。裁判所のする事ではありません。

 憲法第81条を見れば分かるとおり、裁判所が立法府・行政府に対して出来ることは、「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する」事だけです。司法に認められているのは、「作為」に対する審査権限だけで、「不作為」を咎めることは憲法から逸脱した、違憲行為です。拡大解釈は許されません。
 司法は行政・立法の
上に立つものでは決してありません。敢えて言えば、国権の最高機関とされているのは「国会」であって、最高裁ではありません。

 被告(国)が単なる一被告の地位にとどまらない
国家賠償法事件の審理に当たっては、裁判所は単なる民事事件では無いことを肝に銘じて、三権分立の侵害にならないように、細心の注意を払わなければなりません。

2.議員の無責任
 次に、これは01年の熊本の判決と同様ですが、
判決は国会議員にとって65年には、らい予防法の隔離規定の違憲が明白であった。96年までの30年以上もの長期間にわたって廃止しなかったことは、立法措置を怠ったと認められる。立法不作為には過失がある」として、「国会議員の責任」を認定していますが、憲法は第51条で、「両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない」としています。

 そもそも議院内の
「作為行為」ついて、一切院外で責任を問われないとされている議員が、「不作為」について院外(法廷)責任を問われるなどと言うことは理論的にあり得るのでしょうか。
 もし、判事が指摘(希望)するような「法案」が議会に提出されたが、議会で採決の結果反対多数で否決されたとしたら、反対投票した議員だけが責任を問われるのでしょうか、それとも全議員の連帯責任となるのでしょうか。判事の知能程度が疑われます。

3.時 効
 それから
記事の最後で、時効に触れた部分がありますが、時効の起算点を15年9月9日の鳥取地裁判決としているのは、おかしいと思います。

 なぜなら、記事の中の判決文で「違法性」について述べている部分で、「2002年以降は、
01年の療養所の入所者らに対して国家賠償を認めた熊本地裁の判決の報道などによって、隔離政策の影響が一定程度遮断されたといえ、違法性を認めることはできない」と言う部分がありますが、「01年の判決報道に依って、国の違法性が無くなる程度に隔離政策の悪影響が遮断された(改善した)」程度に判決の趣旨が世間に知られたのであれば、その時点を時効の起算点にする事が妥当だと思います。

 今回の
原告特有の事情でその時に知ることが出来なかったとしても、その時まで時効の起算点を引き延ばすのは妥当ではないと思います。

令和元年6月30日   ご意見・ご感想は こちらへ   トップへ戻る   目次へ