G60
歯止めが掛からない“長時間労働”を訴える「教師の劣化」と「学校教育の劣化」、それを追認していく文科省の「教師の負担軽減策」 -目前に迫る「学校教育の破綻」-

 12月26日の読売新聞は、「[スキャナー]情報リテラシー重点 学習指導要領 諮問 生成AI時代の学び探る」と言う見出しで、次の様に報じていました。
茶色字は記事,黒字は安藤の意見)
-------------------------------------------------------------------------------------
[スキャナー]情報リテラシー重点 学習指導要領 諮問 生成AI時代の学び探る
2024/12/26 05:00 読売

 阿部文部科学相は25日、小中高校の教育内容の基準となる学習指導要領の改定を中央教育審議会に諮問した。10年ぶりとなる改定では、次期要領が導入される2030年代以降のデジタル化社会を見据えた情報リテラシー(読み解く力)の向上や、学校の裁量拡大、教員の負担軽減策をどう打ち出すかが議論の柱となる。いずれも今の学校現場が直面する課題だ。(教育部 岡本裕輔、渡辺光彦)

■時間割柔軟に

東京都目黒区立月光原小では、午前中に40分授業
5コマ
行い、午後の「余白」を生み出す

 諮問ではまず、生成AI(人工知能)などのデジタル技術が発展する一方、デジタル化の負の側面が顕在化していることを指摘。中教審では、自分と似た意見や情報にばかり触れる「フィルターバブル」や「エコーチェンバー」といった現象を踏まえ、情報教育をどう充実させるかを検討する。

 学校の裁量拡大も検討課題に位置付けた。教員が創意工夫して授業を行えるよう、時間割や授業時間などの教育課程の編成を柔軟にする。小中学校の1コマあたりの授業時間を5分ずつ短縮するなどし、生じた余白の時間を活用して個々の児童生徒に合った教育をしやすくする。

 「学校により実情が著しく異なる」と言う現実があるならば、「学校の裁量拡大」は意味がありますが、現実がそうであるとは思えません。有るとすればそれは単に学校で上に立つ者(校長・教頭など)の能力・考え方にばらつきがあると言うだけです。しかしそのようなばらつきを応援し、制度上容認することは好ましくありません

 それにもかかわらず「学校の裁量拡大」が実施されるとすれば、それは文科省の無責任・責任転嫁以外の何ものでもありません。

 “創意工夫”を重視すると言いますが、それが授業時間の短縮に結びつくとは限りません。短縮では無く“5分”延長した方が良い場合も当然考えられます。そうであれば“5分以内の延長、短縮”とすべきであり、一律1コマ5分短縮して、余った1コマ5分(1日5コマで25分)を「余白」とするのは真意が不明です。本当の目的は単に授業時間を短縮することが目的であるが、それでは説明が付かず、理解を得られないので、「創意工夫」、「余白」といい加減なことを言っているだけだと思います。

 一方、総授業時間数については、「現在以上に増やさない」ことを前提とし、教科書の内容や分量のあり方を検討するとした。

 “現在”は時代と共に変わるもので、現状(総授業時間数)を増やさない(変えない?減らすことは可?)ことを前提とすれば、変化に対し前向きに手を打たないことを意味します。
 そもそも「総授業時間数」とは、一人の児童・生徒当たりの時間数を言うのか、教師一人当たりの時間を指すのかどちらなのでしょうか。クラスの生徒達に対して、一人の担任教師が総ての授業を行う従来の担任制度であれば、両者の総授業時間数は一致しますが、そうでなく教科別の担任制度が混在すれば、何を言っているのか意味不明です。

 なぜそんな事を言い出すのでしょうか。そこからは教育の対象・目的である児童・生徒のことでは無く、教師のことを最優先に考えて居ることが窺われます。

 中教審は2年かけて審議し、26年度に答申する予定だ。

 そんな事に2年も掛かるのでしょうか。
 そもそもこのような議題に対して、「審議会」が必要なのでしょうか。また、審議会の構成員は誰がどういう基準で選出するのでしょうか。
 行政府は法律に基づいて政令以下行政の決定権があるのですから、省内で自らの権限と責任の下で決定することが出来るはずです。“審議会”の必要はありません。

 もし、行政官僚だけでは決定する能力がなく、少数意見を含め、多様な意見を政策に反映される必要があるのなら、審議会の構成員は民主主義のルールに従って選出される必要があります(例えば議員の推薦に基づいて選任)。
 さらに審議の内容は議事録として記録、公開されるべきです。

 あるいは、審議会がそういう位置づけでは無く、構成員は役所の意に沿う人物を選任し、審議会の意見は役所内部の参考意見に過ぎないのであれば、審議会の意見がどうであったかは、省内の問題に過ぎず行政の判断を正当化するものではなく、余り意味はないし意味を持たせるべきではありません。単に行政の判断・決定を正当化する装飾品の役割を果たしているだけです。

教員に意識差

(中略)

学校の裁量拡大

 教員の創意工夫を促すため、学校の裁量拡大も議論する。

 中教審は、東京都目黒区などの先行例を参考に、柔軟に教育課程を編成しやすくする方法を検討する。

 目黒区の小学校19校では今年度、通常の45分授業5分短縮し、午前中に40分授業を5コマ行う。短縮によって生み出された時間は各校が工夫して活用する。月光原小では、探究活動や個々の児童に必要な学習、教員の教材研究などに充てている。区教育委員会の担当者は「子どもたちの意欲を引き出せるカリキュラムが作りやすくなった」と説明する。

 5分間(1日5コマで25分間)短縮の目的・目標が何も無い中で、「各校が工夫して活用する」というのは、全く理解に苦しみます。単なる時間の短縮、授業の軽量化に過ぎません。学年にも拠りますが高学年生徒にとっては、40分は始まったと思ったらもう終わりというレベルで、児童・生徒にとっては百害あって一利も無いと思います。
 中教審とは一体何の為に存在しているのでしょうか。

 学校の裁量拡大を進める背景には、不登校や、外国籍で日本語の指導が必要、発達障害の可能性がある児童生徒の増加などがある。文科省は、「余白」を作ることで教員の負担感軽減にもつなげたい考えだ。

 「短縮によって生み出された時間は各校が工夫して活用する」と言っている舌の根も乾かぬうちに「『余白』を作ることで教員の負担感軽減にもつなげたい」とはあきれてものが言えません。

 その余白とは結局教師の負担軽減の為に、教師の本業である授業時間を1コマにつき5分間(1日につき25分)短縮しようというもので、「教員が創意工夫して授業を行えるよう」はどこへ行ったのでしょうか。言っていることがいい加減すぎます。

 「余白」を作ることが中央官庁(文科省と中教審)のする事でしょうか。とても信じられません。これは教師の仕事を5分間(1日当たり25分)軽くする為の口実・言い訳造りの結果でしかないと思います。児童・生徒にとっては授業(教育)の「軽量化」でしか有りません。

 元中教審副会長の天笠茂・千葉大学名誉教授は「学校は画一的な意識が強く、改革には積極的でなかった学力低下への懸念もあるだろうが、いかに地域や保護者の理解を得て進められるかが重要となる」と話す。

 学校を取り巻く環境が地域によって特別な違いが無ければ、十分意見交換の上より良い(最良の)方法に統一されるべきです。学校の裁量拡大は劣等教師による手抜き授業見逃される恐れがあります。保護者の「学力低下への懸念」は当然です。これらは「改革」の名に値するものでは無く、改悪(劣化)」に過ぎません。
 学校教育の総てに於いて、「保護者の理解を得て進められることが必要」です。学校は「児童・生徒」の為にあるのであり、「教師の為に有るのでは無い」ことを片時も忘れてはなりません。理解を得ようとする方が間違っているのです。

学習指導要領 小中高校で教える内容について、国が定めた基準。法的拘束力を持ち、国公私立を問わず全ての学校に適用される。新指導要領に基づく授業は、小学校は2030年度、中学校は31年度、高校は32年度から順次始まる見通し。

足りぬ教員深刻 多様な人材確保検討 
 今回の諮問は、学習指導要領の改定とともに教員の質向上や人材確保策の検討を求める2本立てとなった。情報リテラシーなど次期指導要領に反映される子どもたちの新たな学びと、それを支える教員の養成、採用について議論を進める。

 諮問では、社会の変化や新たな学習に対応する教員の養成に向け、教員を目指す学生が大学で学ぶ教職課程の内容の検討を求めた。多くの学生が教員免許を取得したくなるような制度の改革案も示すよう求めた。

 背景には、深刻な教員のなり手不足がある。長時間労働が常態化している学校現場は「ブラック職場」とも呼ばれ、2000年度12.5倍あった公立小学校の採用倍率は、23年度には過去最低の2.3倍に下がった。

 2000年から2023年の23年間に何が起きたのでしょうか。長時間労働の原因は何なのでしょうか。原因を突き止めないで適切で効果的な対策を取ることは出来ません。
 長時間労働を教員のなり手不足の「背景」にしていますが、長時間労働の実態は確認したのでしょうか。

 2000年から2023年の間に教師の仕事が増えたのか、具体的な指摘が何もありません。この時代は負担が減った業務も少なくないはずです。

 例えば1クラス人数50人から30~40人に減り運動会学芸会プールクラブ活動父兄会PTA家庭訪問給食費その他の集金登・下校時の見守りいじめ不登校対応など各種の業務が、近年縮小外部に丸投げされ、一部では1人の教師が担当する学科の科目数を減少する動きも始まっています。
 これらの点に注目すれば、「仕事は増えていない。むしろ減っている」と言うのが正しい認識です。これに対する否定的な実態は全く報じられていません。  
 (参照)(G59 教師の長時間労働の原因(教師の劣化)に触れずに進められる「待遇改善」 -学校は教師の生活ために有るのでは無い 児童・生徒の為にあることを忘れるな )

仕事が増えていない、逆に減った中で「長時間労働」が発生したのはなぜか。その原因は「教師となる人材の劣化」では無いのでしょうか。

 「長時間労働」を「なり手不足」の「原因では無い)」であるとし、さらに「ブラック職場」と罵倒していますが、具体的な“ブラック職場”の実態説明一切有りません

 諮問は、こうした状況を改善するには、様々な知識や経験を持つ多様な人材を呼び込むことが重要だと指摘。大学で教職課程取らなかった人が大学院で教員免許を取得できるようにする仕組みや、教員免許を持たない人を教員に登用する際に授与する「特別免許状」制度の活用促進策を検討する。大学で教職課程取っていない人を対象とした「教員資格認定試験」の実施方法の改善策も探る。

 こう言う提案が出ること自体、今の教職課程を修了した“なり手”候補者の採用を増やそうという意欲は見られず、その受験者を増やそうという意欲は乏しいことが窺えます。教職課程修了者はかなりレベルが低いと認識されているようです。
 もし、“ブラック〇〇”と非難すべき対象があるとしたら、それは“ブラック職場”では無く、“ブラック教師”ではないのでしょうか。
 大学の教育学部人気はどうなのでしょうか。

 上記の事実は現在の人材(教師)の資質に問題があると言うことでは無いのでしょうか。
 そうであれば、資質の劣る教師そのまま存在させて良いのでしょうか。児童・生徒の不利益は見過ごせません。

 文科省は「子ども一人ひとりの能力を伸ばす教育がより重要性を増している。教員の質向上量的な確保同時に検討していく必要がある」としている。

 「教員の質向上を検討する」と言っていますが、これは明らかに「現状の教員は質が低い」と言う事を意味しています。
これらの指摘は“長時間労働”があるとすれば、その原因は職場環境の問題では無く、
教師の資質に問題があることを明示していると言えます。そうであれば現代の資質の劣る教師待遇改善をしても問題解決には結びつきません。
 教職をレベルの高い人達の職場とする事が、“なり手不足”の解消に必要不可欠です。

 このような記事を見ると「教師の劣化」、「学校の劣化」が問題の根本であると改めて認識しますが、今やそれだけではありません。文科省の劣化、中教審マスコミ劣化もまた深刻であることを改めて知らされます。

 この記事は「2030年代以降のデジタル化社会を見据えた情報リテラシー(読み解く力)の向上や、学校の裁量拡大、教員の負担軽減策をどう打ち出すかが議論の柱となる。いずれも今の学校現場が直面する課題だ。」と言って、デジタル化社会で話を始めていますが、具体的指摘提案は無く、単に「デジタル化云々」を“教師の負担軽減”口実に使って便乗し、主張を正当化しようとしているだけです。

 これは「少子化対策」を口実にしてそれに便乗し、共働き女性の子育て支援拡大と“専業主婦禁止”を実施して、何の成果も無く今日の“破綻”に至ったのと同じパターンです。

 今に始まったことではありませんが、この種の報道・議論でものを言うのは、文科省の官僚教育業界の関係者教授評論家)、マスコミ関係者ばかりであり、当事者である児童生徒卒業者保護者教員OBの年配者等の意見は完全に封じられています。そんな事でまともな結論が出るはずがありません。

 このまま行けば学校教育の“破綻”も目前と言って良い段階です。


令和7年1月7日   ご意見・ご感想は こちらへ   トップへ戻る   目次へ