医師としての22

医学部の6回生の頃、道で倒れている人間を処置したり、列車や飛行機の中で医師として呼ばれれば適切な初期治療ができるような医師になりたいと思っていました。

1978年に大阪医大を卒業し、初期2年間の研修を大学病院で行った後、幅広い内科医を目指して、1980年よりシニアレジデントとして天理よろづ相談所病院内科ローテートコースを選択しました。アメリカでのレジデント生活にあこがれましたが、30日間の海外生活後でもECFMGのEnglish portionを合格することができずあきらめました。

学生時代および研修医時代に出会った3人の医師の教育方法は、私に強いインパクトを与えました。

3年間の専門内科ローテート期間中に、癌の患者がほとんどである診療科(消化器内科および呼吸器内科)で経験したことが、いまの私の医療哲学に大いに影響を与えています。癌患者に対しては、「いかに我々は無力であるか」を自覚せざるをえなかったですし、医師の役割として「家族を納得させて患者を見送る」ことの重要性を認識しました。当時では、告知例はほとんどなく、あとの責任をとれない後期研修医の立場ではなかなか告知することができず、「悪い知らせの伝達方法」を知らなかった私は、癌を扱う内科医にはなれないと思いました。

シニアレジデントとしての3年間の研修後、循環器内科をsubspeciality(循環器内科医である前に医師であり、かつ一般内科医であるという意味)とし、現在に至っています。臓器別専門医にありがちな、臓器のみをみるのではなく、患者背景もふくめた患者の全体像をみられる医者になりたいと考えています。また、生涯研修として、自分の専門分野以外のことについても、できるだけ勉強会に参加、情報を収集し患者に利益になりそうなことは知識として知るように努力しています。

1986年に、3カ月の短期ではありますが英国に留学する機会がありました。そこで科学的に考えるということはどういうこと、つまり、患者の観察から感じたりすることは研修医でも教授でも同じ条件であるということを教わりました。また、論文を書く目的を理解できるようになりました。帰国後に、経験した症例は出来るだけ英文で、臨床の疑問から簡単に出来る検査のみを用いて臨床研究を行い、英文で投稿してきました。「症例報告は論文ではない」という大学の人がいますが、個々の症例を深く観察し、有用な情報を報告、論文にし、患者さんから勉強させていただく姿勢が臨床医としての基本的態度であると考えています。

学会におけるトピックである分子生物学の話は、自然科学としては興味深いがまったくついていけません。しかし、ひとつのひとつの症例についての臨床判断力、洞察力は人に負けないように訓練しているつもりです。