・ Japan Tour Report vol.2・


by Natsumu


 マシュー作品においてダンサーが求められる事。それは、演じる事。彼の作品を見ていて強く感じるのは「ダンス作品」ではなく、「ダンサーが演じる言葉の無い物語 」であるという事ではないでしょうか。そして、その音無き言語にはある一定の、マシュー語とも言える言葉、文法があるような気がします。

 マシュー作品に登場する人物は、皆何か自分は「欠けている」と思っている事が多く、全員といっていいほど「孤独」をどこかに抱えています。だからといって他者と自分を隔絶するのではなく、人懐っこいと思えるほど前向きに人と触れ合おうとするのです。しかしそれが報われるとは限らない。というより、報われ無い、もしくは報われても第三者から見ればハッピーエンドではない事が多い。
 そんな彼らは常に心が揺らいでいて、その揺らぎがマシュー作品の魅力の一つになっています。その心の細かな機微を体の動きだけで伝えつつ、複雑かつ、ある時には抽象的な物語を観客に伝えていかなければならない。
 その中で必要とされるのは、クラッシックバレエでは基本であり、重要視されているポワントを履くことでも、高く跳ぶ事といった事でもなく、また、踊りを通して高い身体能力、テクニックを見せる事でもなく、それぞれのキャラクターが確立されていて、それがしっかりと観客に伝わるという事です。今、舞台で演じられている目に見える部分だけでなく、そのキャラクターの日常までもを想像できるような確固としたキャラクターといいましょうか。
 マシュー作品に出演しているひとたちも、もちろんダンサーとしてのスキルはかなり求められていると思いますが、アクターとしてのスキルも同等、もしくはそれ以上に求められています。
 彼らはそれぞれ自分で考え、作り上げた、自分なりの役を演じていますが、そこにはある一定のマシューカラーが存在しています。それは笑いのテイストだったり、心の動き方の同一性だったりする訳ですが、それはその役への入り方、飛びこんで行き方の潔さ、のようなものの上に成り立っているのではないでしょうか。つまり、舞台に居る時、彼らはその役と一体化していて、その世界に住んでいる。その時彼らはその世界の住民になっているのです。
 非常に自然な役柄との一体感。それ故、いい意味で力が抜け、その体は動きに満ちています。そして、彼らの動きは「饒舌」なのです。マシュー作品の登場人物達は実におしゃべり。そう思いませんか?英国人らしいおしゃべりな人が実に多く登場しています。

 さて、そんな舞台にウィル・ケンプは今立っていて、彼は演じています。マシューのそれとはちょっと違う表現方法で。
 その表情を見れば、ジェームズが今どういう心理状態にあるのかは見て取れますが、その動き、その眼差しに、どこか「演じている自分」を見つめているもう一人のウィルが居るような気がします。役と自分の間に薄い壁があるように見えてしまう。踊れていないというのではなく、キャラクターの確立が出来ていないというのともまたちょっと違うのですが、彼の体は饒舌ではなく、動きに満ちているという風には見えないのです。

 踊り続けていた人と、ブランクがある人の越えられない壁がそこには確かに存在しているように私には思えました。恐らくそこには、ギフトやテクニックではどうしても越えられない、時間という壁が存在しているのです。そして、ある種異分子である彼が物語りの中心になっている事により、物語のキャッチボールが非常に小さくですが微妙に反れる所も出てきているのでしょう。それが、物語がごちゃごちゃしている、という印象を生み出しているのではないでしょうか。
 事実、翌日のジェームズによるジェームズの同作品では、私自身が2回目だった事も大きく作用していると思いますが、物語は実にスムーズに頭の中に入りこみ、こんな話しだったのか!と思うほど受ける印象が違っていました。

 さて、そんな事を感じながら2幕へ。1幕目でシルフと思われる白い蝶を追いかけて窓から落ちて亡くなったジェームズはシルフの森に辿りつきます。
 1幕とは違い、私がウィルに慣れたのか。それとも物語の進むスピードが2幕では少し違ってきているからなのか。1幕で感じた混乱は感じなくなっていました。


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