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教区教会と領主館  ベルリン物語 -5-

アスカニア家が代々ブランデンブルク辺境伯の地位を保持していた 1157年から1319年の間に、ベルリン=ケルンの主要な教会が生まれています。

ペトリ教会 Petrikirche
ケルンの都市名が初めて記録された1237年の公文書で、すでに教区教会の存在が確認されます。初めは後期ロマネスク様式のバジリカ風教会堂であったと想像されますが、13世紀中に初期ゴシック様式の教会堂に建て替えられ、やがて「ペトリ教会」という名で記録に現れます。魚市場を中心に成長した町であるため、漁民の守護聖人である聖ペトロに捧げる教会堂になったと考えられています。
何度か建て替えられて15世紀後半には後期ゴシック式の大聖堂になりました。その後も落雷や火事に見舞われ、1809年以降は長らく廃墟の状態で置かれていたのですが、ようやく1853年に再建されました。しかしこれも第二次大戦で大きな被害を受け、その廃墟も撤去されて現在は跡形もありません。

ニコライ教会 Nikolaikirche
ベルリンの教区教会であり、またベルリン発祥の地に建った最古の建造物です。礎石が置かれたのは1230年と推測されています。交易市場として発展した町であるため、多くのハンザ都市の教会と同じく、商人と船乗りの守護聖人であるニコライ Nikolaus von Myra に献堂されたものと考えられます。
13世紀後半に古いバジリカ建築の教会が煉瓦作りのゴシック様式に建て替えられました。さらに14世紀に大掛かりに改築に着手しましたが、途中、町が大火(*)に見舞われたりして、1470年になってようやく今も残る後期ゴシック様式のホール式教会が完成しました。

ゲルハルトの讃美歌集

宗教改革をめぐる動乱の中、北ドイツの諸侯は多くルター派に改宗(**)しますが、ブランデンブルク選帝侯も市民の新教による礼拝を容認します。選帝侯が公式に改宗するのは1563年になりますが、市民の新教式礼拝が初めてこの教会で行われた1539年がベルリンの改宗の年とされています。

讃美歌の作詞家として有名なパウル・ゲルハルト Paul Gerhardt が2度、この教会の牧師になっています。彼の讃美歌のいくつかは、同教会のカントール、ヨーハン・クリューガー Johann Krüger が曲をつけたものです。

ゲーテもベルリンに滞在した折、この教会の礼拝に参列しています。


聖マリア教会 Marienkirche
ベルリンが発展拡大し新しい市場が作られたとき、新市域に教会の建築用地も用意され、まもなく建築がはじまったと推測されています。
市場を中心とする家屋群のただ中に建っていたのですが、第二次大戦後は周囲の古い建物が取り壊され、テレビ塔を中心とした広い敷地にポツンと立っています。

この教会は「死の舞踏」の壁画でも有名です。1484年のペスト大流行の後に描かれたものと推測されるこの壁画は、宗教改革期に漆喰で上塗りされていたのが、19世紀後半にいたって再発見されるという、数奇な運命を辿りました。


Berliner Totentanz. Unfertige 3D Rekonstruktion

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1319年にアスカニア家の世継ぎが途絶えて、お定まりの継承争い勃発。ベルリンは当時勢力を張っていた盗賊騎士 Quitzow 兄弟(***)の圧迫にも苦しめられます。ヴィッテルスバッハ家、ルクセンブルク家の短い支配の後、時の皇帝の覚えめでたいホーエンツォレルン家のフリードリヒ4世に封ぜられました。彼ははるばるニュルンベルクからベルリンにやってきます。そして Quitzow 兄弟を攻めて屈服させました。

その間、1257年以来選帝侯会のメンバーになっていたブランデンブルク辺境伯はドイツ最初の憲法とも見なされる「金印勅書」によって、聖俗7選帝侯の一員として法的に承認されました。

"Hohes Haus"

1414年の「コンスタンツ公会議」(3人の教皇が鼎立するという異常事態を収拾するために開かれたのですが、ボヘミアの宗教改革者ヤン・フスが異端として火刑に処せられたことでも記憶される会議)のあと、ホーエンツォレルン家のフリードリヒ4世はブランデンブルク選帝侯フリードリヒ1世に封ぜらます。ベルリンには東のはずれ(後の「灰色修道院」の場所)に領主館「ホーエス・ハウス」 Hohes Haus があって、それまでは時たま領主が滞在するだけの館でしたが、フリードリヒ1世はそこを本拠としたので、ベルリンはブランデンブルク選帝侯国の首都になりました。

    das älteste Schloss in Cölln

次のフリードリヒ2世は封建領主としての権限を強めることに力を注ぎ、市内、ケルンの北側に新領主館建造を計画し、市民の激しい抵抗――市民は選帝侯の役人を町から追放し、水門を操作して建設途中の建物を水浸しにするなどの妨害――を押し切り、等族会議でベルリンに対する支配権を認めさせ、選帝侯居城を完成させて入城しました。

Dom
ベルリン最初のドームとなる教会堂は、もとはドミニコ会修道院の礼拝堂として建てられました。修道院はケルンの Hohenzollern-Burgschloss のすぐ南、Brüderstraße と Breiter Straße の間にありました。選帝侯ヨアヒム2世がルター派改宗に際してドミニコ会を解散させ、この教会をベルリンのドーム(司教座教会)とし、選帝侯家の墓所と定めました。
* 1380年の大火は3日間燃え続け、市役所、教会も含め、Berlin はほとんど全焼した。
** ルター派の諸侯は領内の教会の首長として教会の支配権を握り、修道院の解散などを進めた。本稿のイラスト、上の3枚は Wikipedia から (ペトリ教会は E. Gaertner: Brüderstraße の部分)、下の2枚は Bernhard, Marianne: "Es gibt nur ein Berlin..." から
*** Hans und Dietrich von Quitzow 兄弟。盗賊騎士 Raubritter という呼称には異論もあるようだ。

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