16世紀のヨーロッパは宗教改革の激動に揺れ動きました。前世紀から活発となった東方航路の開拓は、ヴァスコ・ダ・ガマやコロンブスが地球の裏側まで航路を開き、ついに「新世界」が知られるに至ります。またグーテンベルクの活版印刷術により書物の文化が革新され、人文主義者の運動が旧い「スコラ学」を乗り越え、新しい信仰の運動が広がりつつありました。
新しい世界、新しい知見が人々の前に開かれてきたこの時期に、ドイツでローマ・カトリックの贖宥状(免罪符)販売が始まりました。ドミニコ会士テーツェル
Johannes Tetzel (1465-1519) がマグデブルク司教区の贖宥状(免罪符)責任者に任命され、各地で精力的に贖宥状を販売して歩きました。
"Sobald das Geld im Kasten klingt, die Seele (aus dem Fegefeuer) in den Himmel springt!" 「賽銭が箱でチャリンといえば、魂が天国へジャンプする」とは街頭での口上だったとされています。
これにヴィッテンベルクのマルティン・ルター
Martin Luther (1483-1546) が憤激し、ローマへの反逆ののろしを上げたのです。ルターは若年より敬虔な修道士として魂の救済について、意志と理性によってか善行によってか思い悩み、「神の義」によって救われるのだという理解に達して漸く心の平安を得たのです。このような司祭にとって贖宥状の問題を見過ごすことはできないのでした。
テーツェルによる説教と贖宥状販売はベルリン・ケルンでも繰り返し行われました。これに対してルターの改革に呼応した動きも広がることになります。この世紀のベルリンの出来事を年代記風にまとめてみました。
十六世紀ベルリン年代記
- 1501年、この年もベルリン・ケルンにペストが流行、1504年まで続く。
- 1510年、ユダヤ人排斥が広がる。裁判により国外追放。
- 1513年、この年からブランデンブルクの等族会議開催地がベルリンとなる。地方等族は屋敷をベルリンに移し始める。関係の役人だけでなく商人や職人も移住することが多く、市門の外に居住地が形成されていく。
- 1514年、選帝侯ヨアヒム1世の命でランゲ・ブリュッケの市役所が撤去される。
【1517年、ルター、95箇条の提題】
- 1517年、テーツェルがベルリン・ケルンの教会で説教し、贖宥状を販売した。
- 1521年、宗教改革の波がベルリン・ケルンにも波及してくる。教会の収入が減るだけでなく、市民の教会行事の不参加という形で表れる。この年の聖体拝受行列に多くの市民は娘を参加させなかった。
- 1524年、2月27日、選帝侯ヨアヒム1世はルター訳聖書を禁止した。
【1524-25年、農民戦争、トーマス・ミュンツァーの処刑】
- 1526年、選帝侯ヨアヒム1世はルターの讃美歌を禁止した。
【1529年、ウィーン、オスマン・トルコ軍に包囲される】
- 1535年、選帝侯ヨアヒム1世死去。ヨアヒム2世就位。
- 1536年、ドミニコ会がベルリンを去り、ヨアヒム2世は残された教会堂を司教座聖堂(Domkirche)と定めた。
【1536年、カルヴァン『キリスト教綱要』出版】
- 1538年、Caspar Theyß の施工で新宮殿建設が始まる。1540年に完成。
- 1539年、2月13日、ベルリン・ケルンの市参事会が福音派の聖餐式の採用を選帝侯に請願。選帝侯は宗教会議を招集し、新しい礼拝の形式と領内教会の組織について協議させた。夏には福音派の牧師がベルリンに招へいされ、9月14日、Domkirche において選帝侯臨席の下、ベルリンで新教による最初の公式礼拝が行われた。10月5日には同じく Domkirche において新旧両形式で聖餐式が行われた。
11月2日、ニコライ教会でベルリン・ケルンの市参事、市民が参列して新教による最初の聖餐式が行われるが、宗教会議の決定に従って、説教は新教牧師、聖餐式はカトリックの司祭が執り行った。
この後、領内各地の改宗が進み、これまでにアスカニア家、ヴィッテルスバッハ家に寄進された教会領地が選帝侯に接収されていく。
- 1540年、ケルンの商人ハンス・コールハーゼ Hans Kohlhase が車裂きによる処刑。貴族に馬を奪われ裁判に訴えて取り返せず武力闘争に立ちあがったコールハーゼの事跡は、クライストの小説『ミヒァエル・コールハース』(*)の題材となった。
- 1541年、1月6日ケルン・ギムナジウム校長 Heinrich Knaust 作の "Dreikönigsspiel" が上演された。記録で確認できるベルリン最初の芝居上演とされる。
【1540年、イエズス会発足】
【1546-47年、反皇帝・反カトリック諸侯によるシュマルカルデン戦争】
【1555年、アウクスブルクの宗教和議】(**)
- 1557年、財政難が昂じる中、ヨアヒム2世シュパンダウ城塞の建設を決める。59年に等族会議で承認され、60年に工事が開始。
- 1558年、 Caspar Theyß の施工によるケペニック狩猟館の工事が始まる。
- 1569年、ヨアヒム2世はプロイセン公国の共同統治者としてポーランド王から承認される。
- 1571年、選帝侯ヨアヒム2世死去。ヨーハン・ゲオルク就位。
再びのユダヤ人追放。先代に重んじられていたユダヤ人リポルトが裁判にかけられ、翌年四つ裂きの刑に処せられる。
レオンハルト・トゥルンアイサー(***)が宮廷医に召し抱えられ「灰色修道院」に実験室、住居を与えられる。
- 1572年、ベルリン最初の水道施設。水源をシュプレー川から引いたので飲用にはならなかった。
- 1573年、宮殿北側「ルスト・ガルテン」の整備が決まる。
- 1574年、ニコライ教会とマリア教会の学校が灰色修道院ギムナジウムに統合された。
- 1576年、ペスト流行。ベルリン・ケルンで4000人の死者。
- 1581年、ベルリン市庁舎、火災で焼けおちる。84年に再建。
【1582年、グレゴリオ暦制定】(****)
- 1598年、選帝侯ヨーハン・ゲオルク死去。ヨアヒム・フリードリヒ就位。
ベルリンではこの世紀の半ばにカトリックとプロテスタントの争いはひとまず決着がついたように見えるのですが、次の世紀には選帝侯がカルヴァン派に改宗して、これがまた教会と市民を巻き込んだ大騒動になります。「カルヴァン派ならトルコの方がまだ良い」というパンフレットが出回るし、ルター派の牧師が毎日曜の礼拝で「主よ、われらをカルヴァン派の害毒からお守りくださいますよう」と祈るような激しさです。
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Heinrich von Kleist: Michael Kohlhaas, 1810
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領邦君主にカトリック、ルター派の宗教選択権を認めるかたちで、ルター派が容認された。 cujus regio, ejus religio 「領主の宗教がその地の宗教」
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次項参照
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ユリウス暦と実際の季節とのズレが10日ほどに広がって、教会行事や農作業などに影響が出ていたのでこの年の10月4日の翌日を15日にし、暦法を手直しして誤差を少なくした新しい暦の制定。合理的な改革だが、ローマ法王の権威のアピールでもあったので、新教各国はなかなか受け入れず、ブランデンブルクがこれを採用したのは1700年のことである