Top > Nachlasse > Papierkorb-Index > Papierkorb 12

拾遺集、拾弐 Aus meinem Papierkorb, Nr. 12



戒厳状態 Belagerungszustand ― 『ラインの守り』 (9) ―

クラーラ・フィービヒ『ラインの守り』から、続き。

1848年8月、ケルンの大聖堂竣工祭に臨席した国王が、その帰途デュッセルドルフに立ち寄った際、メインストリートで馬糞を投げつけられたことで、この都市は危険な反逆者の巣窟と見なされるようになった。市民防衛隊の隊長は、5人以上で集まらないこと、旗を振って練り歩かないこと、街中で発砲しないことという命令を隊員に発した。しかしこういう処置も、不穏な空気を鎮めるには役立たなかった。

夏が過ぎ秋になって、失業者が街にあふれた。市当局はライン川やホーフガルテンの池や運河の浚渫などの事業を興して職を生みだしたが、それも冬の寒波が来ると終った。解雇された数百人の労働者が赤旗を掲げて「パンをよこせ! 仕事をよこせ!」と市役所に押しかけた。警備に駆け付けた警官隊も為すところなく引き揚げるのみ。《民衆クラブ》が勢いを伸してきて立て続けに集会を開き、また真昼間から赤旗を振り労働歌を歌って、近隣の村へとデモ行進を繰り返した。
黒・赤・金は押しやられた ―― すべてが赤、赤、赤となった。冬の太陽がライン川の上で赤く燃え、東に赤く昇り、西に赤く沈んだ ―― 血のように赤く。そして身を斬る鋭い風が通りをヒューヒューと吹き抜け、鋲や釘でしっかり留めていないものを巻き上げた。
Das Schwarz-rot-gold war verdrängt -- alles rot, rot, rot. Rot flammte die winterliche Sonne über'm Rhein, rot stieg sie auf im Osten, rot sank sie im Abend -- blutig-rot. Und ein schneidend scharfer Wind fauchte durch die Straßen und fegte auf, was nicht ganz niet- und nagelfest war.
市民の気概が盛んになった。ベルリンでの国民議会(*)でデュッセルドルフは急進的な主張を繰り広げ、認められないと納税拒否を訴える。そして大集会が開かれ、穏健な態度の隣接都市ケルンをプロイセン寄りだと嘲笑する。しかしケルン生まれの国民議会議員ローベルト・ブルームが派遣先のウィーンで処刑されて、情勢は一変、二つの都市は一つになった。
ブルームの最期の言葉が掲載されている新聞が人の手から手へと渡った。
《私は自由のために死ぬ。祖国が私のことを記憶されんことを。》
妻への別れの手紙が知られたとき、熱い涙が流された。
《尊い、善良な、愛する妻よ、さらば!》
何千ものこぶしが怒りに燃えて握り締められた。

Von Hand zu Hand wanderte das Zeitungsblatt mit Blums letzten Worten:
'Ich sterbe für die Freiheit, möge das Vaterland meiner eingedenk sein.'
Heiße Thränen flossen, als der Abschiedsbrief an seine Gattin bekannt gemacht wurde:
'Mein teures, gutes, liebes Weib, leb wohl!'
Tausend Fäuste ballten sich im Grimm.
大規模なパレードが繰り広げられ、市庁舎のバルコニーから市民防衛隊の隊長(**)が納税ボイコットを叫んだ。市民は熱に浮かされたようになった。「圧制はもうごめんだ、税金は無くせ!」との声が市中を響き渡った。騒々しい音楽(***)が奏でられ、憎悪の対象となっている人物の家の窓の前で、嘲笑的なセレナーデが歌われ、ガラスが割られ、ドアが汚された。

11月22日の朝、地区司令官が戒厳状態を宣言した。
リンケの心は、クレールモン中尉が暴徒の群れに対処する様子を目にして、すっきり軽くなった。不穏当な振る舞いで《宣言された戒厳状態の布告》を乱す連中を見事に鎮めたのである。この若い士官の眼差しときたら! 剣を抜き放ち、怒りが白い額に深いしわを刻んだ。いや、このような者がプロイセンを守るかぎりは、国は安泰だ! ――
Das Herz wurde Rinke ordentlich leicht, als er den Leutnant von Clermont einer Rotte Ruhe gebieten sah, die durch ungebürlichen Betragen die Verlesung der 'Proklamation über eingetretenen Belagerungszustand' störte. Wie dem jungen Offizier die Augen blitzen! Den Degen hatte er blank gezogen, der Zorn grub eine Falte in seine weiße Stirn. Ha, wenn so einer Preußen schützte, dann konnte das nicht verloren gehen! --
こうして1848年は暮れていった。例年のクリスマス市は禁じられ、子供のお菓子市も警察署の前で数店のレープクーヘンの屋台が許されただけであった。

* * * * * * * * * * * * * * *

年が明けて1月の末には町の戒厳状態は解除された。しかし春になると近隣の騒乱がひときわ激しくなった。工場の煙突の煙は消えた。労働者は新しい機械は打ち壊すとアッピールした。工場主は家族を大都会に避難させた。

コンラーディも新妻を実家に送り返した。昼も夜も勤務で家を空けることが多く、彼女一人きりにしておくのは心配だったのだ。
ヨゼフィーネははじめ旅行のことなど取り合おうとしなかった。とんでもないと抵抗した ―― いえ、いえ、いまここを離れることはできません、ニワトリがしっかり卵を産んでくれているいま、誰が餌をあげるんでしょう? クリスマスにはまるまると太っているだろうと、プレゼントしてくれた子豚の面倒は誰が見るの? あなたご自身の食事は誰が作るの?
しかし突然、憧れの気持ちに襲われた。目を閉じると、カエデの葉擦れの音が聞こえ、日の光がぴかぴかの窓ガラスに反射して金色に燃えるさまが見えた。ふるさとへ、ふるさとへ!

Josefine hatte anfangs nichts von der Reise wissen wollen, mit angstvoller Heftigkeit sich dagegen gesträubt -- nein, nein, sie konnte jetzt nicht fort, jetzt, wo die Hühner so brav Eier legten, wer sollte die denn füttern? Wer sollte das schöne Ferkel versorgen, das er ihr Weihnachten zum fettmachen geschenkt? Und wer sollte denn für ihn selber kochen?!
Aber dann ergriff sie doch plötzlich eine Sehnsucht. Wenn sie die Augen schloß, hörte sie die Ahornbäume rauschen, sah die Sonne rotgolden auf den blinkenden Scheiben im Hof verglühen. Heim, heim!
ヨゼフィーネは懐かしい兵営に戻ってきた。突然の帰宅に両親は驚いたが、母は喜んで迎えてくれた。父は不穏な世情のことが気がかりで、心からは喜べないという様子だった。改めて父を見ると、怒りに捕らえられ、歯を食いしばっているという感じで、以前より痩せていた。彼女は以前の部屋の以前のベッドに戻った。眠ることができず、窓から月明かりの営庭を見ていた。と、もとの将校室にヴィクトールの姿を認めた。ひと目会えたら! 涙があふれてきて、とめどなく流れた。

やがて二人は営庭やドアの前、あるいは外の道で出会う機会が増えていった。はじめはお互いにちらっと目を合わせるくらいであった。ある日の夜、始めて言葉を交わした。暗い廊下で出会った。彼女はまるで夢遊病者のように近づいて行った。
「ヨゼフィーネ」とヴィクトールは小声で言って、その両手を掴み、「フィーナ!」
彼女は一言も発しなかったが、彼のほうに身を傾けた。
自分たちのしていることを考える以前に、二人は熱いキスを交わした。
「し、しずかに、誰か来るんでは?」 彼はささやき、驚き不快になった。
「いえ ―― そう、聞こえます!」 と言うが彼女はその場を離れなかった。
二人は抱き合い、またせわしくキスを交わした、熱く、さらに熱く。

"Josefine," flüsterte Viktor und faßte sie an beiden Händen, "Fina!"
Sie sagte kein Wort, aber sie neigte sich gegen ihn.
Ehe sie bedachten, was sie thaten, küßten sie sich heiß.
"St -- still, kommt da jemand?" Er raunte es, erschrocken und unwillig zugleich.
"Nein -- ja, ja!" Und doch huschte sie nicht fort.
Sie umschlangen sich; hastig küßten sie sich wieder, heiß und heißer.
そのとき兵舎内に警報が響き渡った。ラッパと太鼓、そして、「集合!」と一声。ヴィクトールは急いで身を離し駆け出した。町中の鐘も激しく打ち鳴らされた。市民の吹き鳴らすラッパの音もやかましく響いて、ヨゼフィーネは耳をふさいだ。銃声、鬨の声、公然たる反乱である。砲声がとどろく。軍曹の住まいではトリーナが取り乱している。息子のヴィルヘルムが町の中で、老いた祖母と二人きりでいるのが心配なのだ。

ヨゼフィーネは「私が二人を連れてくる!」と、引き止める母を振り切って階段を駆け下り、外へ出た。彼女はむしろヴィクトールが心配だった。もしも彼に何かあったら、深い傷を受けて兵営に戻ってきたら。こんな騒ぎを起こす民衆に激しい怒りを覚えた。先へ進むと逆に走ってくる多くの市民がいた。そのうち、バリケードを築いているぞ! と叫ぶ者がいる。

狙撃兵の銃声、それに応えるかのような砲声。
ぴかぴか光るユニフォーム、威嚇する銃身。彼女は叫ぼうとしたとき、すでに射撃が始まった。頭上を銃弾がひゅーと掠めた。
よろめいて一軒の家の扉にもたれた;扉がすーと開いて、腕が伸びてきて、ふらつく彼女を引き込んだ。
「イエス様、マリア様、大丈夫かい?!」 泣きながら一人の市民の婦人が彼女の顔に明かりをあてた。

Blinkende Uniformen, drohende Flintenläufe. Sie will rufen, aber schon geht voreilig ein Schuß los. Dicht pfeift ihr die Kugel über den Kopf.
Taumelnd fällt sie gegen eine Hausthür; diese gibt nach, ein Arm streckt sich heraus und zieht die Wankende herein.
"Jesus Maria, is Euch wat passiert?!" Weinend leuchtete ihr eine Bürgerfrau in's Gesicht.
「いま出たら撃たれるよ」と婦人が両腕を掴んで止めるのを振り切って外へ出た。「あの人は不安でおかしくなっているんだわ、兵士が普通の市民を撃つだろうか?」 と思いながら通りへ出た。いまはすっかり静かになっていた。あちらこちらとライトがさまようように照らしていたが、兵士の姿は見えなかった。しかし、よく見ると建物のドアのくぼみ、路上の樽の陰に銃を構えた兵士が隠れていた。彼女は怖気た鹿のように飛びずさった。

「帰れ、帰れ!」という反乱者の鬨の声があがった。路地の隅に山ができていた。横倒しの手押し車、板、大きな袋、椅子、テーブルなど、手近にあるもの何もが積み上げてあった。「帰れ、プロイセン、豚野郎、人間の皮剥ぎ、帰れ!」 と叫んで、石、レンガ、舗石、砂、糞便、馬糞が投げられた。

軍隊が動く。銃剣を構えて突撃する。突破口が開き、阿鼻叫喚のなか逃走。「撃て!」「プロイセンだ、プロイセンだ、やつらは俺たちを撃つぞ!」制圧されたバリケードの上から兵士は狭い路地に発砲する。

ヨゼフィーネはみなと一緒に逃げ出した。あちらの道、こちらの通り、細い路地を逃げ惑ったが、いずこも「さがれ!」と兵士の声。そこを脱出できない。ある路地を出たところで、助けを求めて人が倒れていた。ドアが開いて一人の男性が怪我人を抱えて家に運ぼうとしたとき、「さがれ!」。男性が「味方だ」と叫んでも、「さがれ!」と怒鳴って撃鉄を起こす音。あわてて怪我人が人を下ろして家に逃げ戻る。その後を銃弾が跳ね返る。

逃げ続けるヨゼフィーネの衣服はぼろぼろに裂けて、腰に引っかかっている。髪はばらけて頭の周りに蛇のように巻きついている。マルクトの近く、静かで窓も照らされていないところを、手探りで進み、舗石がはがされる箇所でつまづいて倒れた。

どれくらい倒れていたのか、気がつくとあたりは静まり返っていた。逃げる人々の姿はなく、彼女は一人きりであった。鐘の音が聞こえ、市役所の時計の時を打つ音が聞こえた。数えるとすでに11時だった。周りの屋根越しに嗚咽する声が聞こえてきた。あちらこちらの方角からパン、パンという音が聞こえてきた。

マルクトから一人の男が歩いてきた。何も恐れる風もなく、落ち着いてこちらにやってきた。彼女は彼に駆け寄った。そして初めて薄暗い光の下で、それが白髪の老人だとわかった。胸に戦勝記念メダルをつけ、両腕に大きなパンを抱えていた。「わしはライン川から、舟からやってきたんじゃ。パンショッペン通りへ行かんとな。女房と孫が待ってるんじゃ。わしゃ何も怖くない。こちらがなにもせんかったらプロイセンもせんじゃろう。わしは昔は兵隊じゃった。わしゃ ―― 」

と、そのとき銃声。老人は少し跳ね上がって頭から落ちた。うつむけに。右に左にパンが投げ出された。あの市役所から撃ったんだ、あの薄暗い窓の奥から撃ったんだ。ヨゼフィーネの血は凍りついた。プロイセンは、プロイセンは無防備の市民を撃ったんだ! 彼女は老人のそばに倒れこんだ。その白い髪を、丸くなった背中をさすった。両手にべっとりと血がついた。死んでいる!

* * * * * * * * * * * * * * *

朝が白みかけたときには鐘の音は止んでいた。狙撃兵の銃撃は収まっていた。コムニカチオーンとフリンガー通りのバリケードは撤去され、各所で兵が見張りに立っていた。警察署の建物には護衛兵が配置され、市役所や劇場など多くの施設は軍に占拠されていた。

十字路は軍に抑えられ、道の角には兵士が立ち、物陰にも潜んでいた。いまは情け容赦なく発砲された。長い間の抑制に対する兵士たちの鬱憤が一挙に噴出したかのようだった。「止まれ、何者だ?」と言うなり、返答より早く引き金が引かれた。

大きな通りは静まり返っている。店は閉められたまま、外を窺うため隙間を開けた扉が散見されるのみ。リンケ軍曹は警備兵を率いてパトロールに当たっていた。ラーティンガー通りにまた新しくバリケードが築かれた、という知らせを受けた。行ってみると、クレールモン中尉も同じ場所に駆けつけてきた。ビール樽、ワイン樽、それらに板を渡し手押し車を倒した山がある。わらと砂と石が隙間に詰めてある。中尉と二手に分かれてバリケードに向かう。すでに数人の兵士が上へ達している。包囲されて獣のように逃げ惑う反乱者たち。リンケも上っていく。
荒々しい笑い声を上げてリンケは旗に到達する ―― 待て、そこに蹲っているのは誰だ?! 全身をバリケードの上に乗り出す。一人の男が逃げようとする。「止まれ、悪党、止まれ!」
容赦は無しだ。鉄拳で逃げる男に掴みかかった。電光石火で細身の体は逃れて走り去ろうとするが、逃げ道がなく、石をひとつ掴んで絶望的な護身をはかる。
逡巡なく軍曹はピストルを抜いて狙いをつける ―― 一対一だ ―― そのとき火箭が飛んで、火薬で黒ずみ不安でゆがんだ顔が見える ―― ヴィルヘルム!

Mit einem wilden Lachen langt Rinke nach der Fahne -- halt, wer duckt sich da?! Er schwingt sich vollends hinauf; einer will entwischen. "Steh! Halunke, steh!"
Pardon wird nicht gegeben. Mit eiserner Faust packt der Felwebel zu. Blitzschnell entwindet sich ihm eine schlanke Gestalt, will fliehen, sieht keinen Ausweg, rafft eine Stein auf und setzt sich verzweifelt zur Wehr.
Ohne Besinnen reißt der Soldat die Pistole heraus und schlägt an -- Mann gegen Mann -- da zeigt ihm ein Feuerstrom, der vorüberfährt, ein pulvergeschwärztes, angstverzerrtes Jugengesicht -- Wilhelm!
「クソ小僧め!」とリンケは歯軋りした。息子は両手に舗石を取った。銃声が響く。リンケはびくっとした。奴らは命令を待たずに撃ちやがる。すぐそばで暴徒の一人が倒れる。瀕死の苦しみでこぶしを上げている。見るとまだ若い男だ! リンケの手のピストルが揺らぐ。狙いを続けることができず、手を下ろす。父と子は見つめあう。それは数秒だが永遠に思えた。

「悪党!」と歯の間から声を出し、ゆっくりとピストルを上げた。息子は「お父さん!」と叫んで石を落とし、顔を覆った。「悪党!」 震える手がいうことを利かない。
そのとき ―― 誰の手が投げたものか、石がひとつ飛んできて ―― 命中した。軍曹はよろめいた。額に石を受けて彼はバリケードから仰け反りざまに落ちる。
息子はうつろな目をして立っている。彼が投げて、父に当たったのか ―― ?! 違う ―― そうだ ―― 違う! 自分でもわからなかった。すっかり麻痺していた。
「止まれ、そこの奴、あいつが投げたぞ! あの悪党を捕まえろ!」
抜き身の剣を下げた士官がヴィルヘルムに飛び掛っていく。すると若者はマヒ状態から目覚め ―― 逃げろ逃げろ ―― 命欲しさで、自由になりたくて、舗道へ飛び降りる。そこは、そこは《美彩鳥》だ、助けと救いがある!

Da -- ein Stein kommt angeschwirrt, von unsichtbarer Hand geschleudert -- gut gezielt. Der Feldwebel taumelt; vor die Stirn getroffen kollert er hinterrücks von der Barrikade.
Und der Sohn steht mit stierem Blick. Hat er geworfen, den Vater getroffen --?! Nein -- ja -- nein! Er weiß es selber nicht, er ist ganz betäubt.
"Halt, der da, der hat geschossen! Packt die Kanaille!"
Ein Offizier mit blanken Degen springt auf Wilhelm zu. Da rafft der Junge sich auf, die Betäubung weicht -- rette sich, wer kann -- in Lebensgier, in Freiheitsgier setzt er herab auf's Pflaster. Dort, dort ist der 'Bunde Vogel' und Hilfe, Rettung!
ヴィルヘルムが《美彩鳥》に入って、ドアにかんぬきをかけ、屋根の鳩小屋まで上った。クレールモン中尉が扉を叩き割り、銃で撃ち破って、兵士が突入する。奴はどこに隠れた? 兵士の二、三人は地下室へ、何人かは階上へ。中尉は店内から現れた老婆に訊く。「奴はどこだ! ここに逃げ込んだのを見た。奴を隠したのか?」
「お前は銃殺刑だ」、と一人の兵士がにやりと笑いながら言うなり、銃で老婆を打ち据える。不安で半死の状態で膝までくずおれ、弱々しい叫びが家中に響く。
別の声が叫ぶ:「ヴィクトール!」
酒場の一番暗い隅から人の姿が飛び出す、ザンバラ髪でぼろぼろのスカートをつけた若い女性だ。その目は大きく見開かれ、蒼白の顔から飛び出しそうだ。腕を前に伸ばし、老婆を守るようにその前に身を投げ出す。
そして再び彼女の叫び。怒りで半ば狂気のように、憤怒と苦痛に震えて:「ヴィクトール!」

”Jetzt werd't Ihr füsiliert," sagt ein Soldat mit breitem Grinsen und schläft das Gewehr auf die Alte an. Halbtot vor Angst sinkt das Mütterchen in die Kniee, sein schwacher Aufschrei zetert durch's Haus.
Ein andrer Schrei folgt: "Viktor!"
Aus dem dunkelsten Winkel der Wirtsstube ist eine Gestalt hervorgestürzt, eine junge Frauensperson mit flatternden Haaren und zersetztem Rock; ihre Augen sind überweit aufgerissen, wie irr stieren sie aus dem todblassen Gesicht. Die Arme abwehrend vorgestreckt, wirft sie sich zum Schutz vor die Alte.
Und wieder gellt ihr Schrei, halb wahnsinnig vor Zorn, Empörung und zitterndem Schmerz: "Viktor!"
* * * * * * * * * * * * * * *

5月10日の朝日が昇った。市民20名が亡くなった(****)。大勢が拘留された。死者の中には若い娘も含まれていた。その不幸な娘の死体は、携えていたミルク壷の破片とともに、市役所前に運ばれた。兵士にも犠牲者が出た。

リンケが兵営に戻ったのは10時ころであった。制服はずたずたに裂けて泥まみれ、頭部は血まみれの粗麻布が巻かれていた。彼は多量の失血と、バリケードの上で倒れて数時間の失神状態にあったにもかかわらず作戦の最後まで部隊を離れなかった。下の練兵場は無人だった、兵舎の自宅も無人だった。ケーテもヨゼフィーネも夜明けとともに《美彩鳥》に行ったのだろう、しばらくは戻るまい。彼はふらつく足を踏みしめ、壁伝いにテーブルまで行った。すべてを失った! 至高のものを失った!

頭から粗麻布を剥ぎ取った。血が流れようが、それがどうした?! 俺は名誉を失った。俺の名誉、それはどこだ、今はバリケードの下で、踏みにじられて。王に刃向かう反乱者には容赦しなかった。誰の子であれ。それが、あの悪党めが「お父さん!」と言ったとき、ピストルを下ろしてしまった。お前は王の反乱者の父親なのだ! もう王の制服を身につける栄誉を失った!

引き出しを開けた。子供たちの学習ノートがあった。文字の練習帳も。《ひとかどの者になりたければ、早くから努力せよ》、《子供を愛する者は、子供を厳しくしつける》などと、先生の手本が書いてあり、つたない子供の筆跡がそれを懸命に真似ていた。ぱらぱらと見てゆくと、最後に白紙のページがあった。注意深くそのページを破り取り、残りはまたきちんと元通り引き出しにしまった。その白紙に、

  す べ て に 勝 る 名 誉!

と書いて、テーブルの上に広げ、鉛筆を重しとして置いた。
皮の銃帯からピストルを取り出したとき、顔の筋肉はぴくりともせず、前線に立つときのように粛然としていた。ピストルには汚れがついていた。水で流して布切れでぬぐってきれいにした。ぴかぴかでなければならなかった。注意深く点検した ―― 手が震えることはなかった。そして弾を込めた。
もう一度、窓から広い練兵場を見た。日の光は射していなかった。窓台にもちらと視線をやった。そこで幼いヨゼフィーネに初歩のコマンドを教えたのだった。それから落ち着いた足取りで隣の寝室へ行った。ドアを後ろ手に閉めた。

Keine Muskel zuckte in seinem Gesicht, ehern war's wie vor der Front, als er seine Pistole aus dem Lederfutteral nahm. Die Pistole war beschmutzt. Er ging und wusch sie und rieb sie mit dem Putzlappen glänzend; blank sollte sie sein. Sorgfältig prüfte er sie -- seine Hand zitterte nicht -- und dann lud er.
Noch einen Blick warf er hinaus auf den weiten Exerzierplatz, den keine Sonne erhellte. Einen Blick auch nach dem Sitz am Fenster, wo er die kleine Josefine die ersten Kommandos gelehrt, dann ging er ruhigen Schrittes nebenan in die Schlafkammer. Die Thür klinkte er hinter sich zu.
母と娘が昼に帰宅して死んだ父を見つけたとき発した叫び声は遠くまで聞こえた。妻のトリーナは遺体に触れることが許されないので、ハンカチを顔にかぶせた。《美彩鳥》からやってきた祖母はベッドの枕元に灯明を灯し、「イエス様、マリア様、ヨゼフ様、この人の魂を捧げます!」と祈った。

夜になり、まもなくコンラーディは到着するが、ヴィルヘルムはどこに行ったのだろう。母の心臓は不安で高鳴る。トリーナは罪を負って世を去った夫の魂のために祈り、気が気でない不安に襲われながら息子のために祈った。祖母と母が夜通し祈り続ける部屋の隣で、ヨゼフィーネは窓辺の椅子の上でうずくまり、ひざを腕で抱え顔を埋めていた。隣室へ行くことはできなかった。血に染まった制服姿の父を見ることができなかった ―― あれは本人の血なのだろうか、無抵抗な市民の血なのだろうか?

クレールモン中尉が弔問に訪れた。扉の隙間から、枕元にたたずむ彼と祈っている母と祖母の姿が見えた。彼は帰り際、ヨゼフィーネに黙って手を差し出したが、彼女は激しく払いのけ、嫌悪の気持ちをむき出しにして、背を向けた。

さびしい弔いであった。早朝、まだ町が眠りから覚めないとき。葬列でオーボエが死者の行進を奏でることなく、鼓手が静かに太鼓を鳴らすことなく、栄誉章を掲げて先導する者もいなかった。棺を載せた馬車の御者の隣にコンラーディが座った。ホーフガルテンで数名の兵士が加わった。市街から遠く離れたライン川沿いの墓地。棺に砂をかけるのを手伝った兵士たちが引き上げた。

正装のコンラーディは一人で儀礼を尽くした。号令をかける者はいないが、明らみ始めた空から「脱帽、黙祷!」と聞こえたような気がした。ライン川の流れが黙祷を命じるラッパに聞こえた。朝の風が木々の梢をオルガンのように鳴らした。彼はヘルメットを脱ぎ、白手袋の手を組んで、朝日に向かって祈った。

―― この場面でもって『ラインの守り』第二巻が終わる。
* 1848年5月から翌年5月までフランクフルトで全ドイツの憲法を制定する「国民議会」が開かれたが、同時期に「プロイセン国民議会」がベルリンで開催され、プロイセン王国共通の憲法草案が審議された。急進的な傾向に対して弾圧が加えられ、それに抵抗する勢力によって納税拒否が叫ばれた。
** この時期に市民防衛隊の隊長であったカンタドール Lorenz Cantador (1810-83) であろう。後にアメリカ南北戦争でも北軍の一司令官として戦っている。
*** 騒々しい音楽 Katzenmusik (「猫音楽」)とは笛、太鼓、鐘、さらにバケツや鍋蓋で鳴らされる騒音と大声でがなり立てる調子はずれの歌による合奏。しばしば政治的なデモンストレーションとして用いられた。この種のセレナーデはベルリンでも奏でられていた。
**** 49年5月9日のバリケードを築いての市街戦の死者数は、記録によっては14名、あるいは16名とされている。翌10日も軍隊の発砲が続いた。


帰郷 Heimkehr ― 『ラインの守り』 (10) ―

クラーラ・フィービヒ『ラインの守り』から、続き。

1866年の秋、きょうはデュッセルドルフの野菜市が立つ日。寒い冬が到来する前の最後の暖かい秋の日であろう。朝早くから手押し車いっぱいに作物を積んで近郊の農家の売り手が集まってきている。ヤン・ヴィレム像を囲んで広がる市場の、ざるやら背負い籠の間を、子供の手を引いた母親、買い物籠を持って従う女中たち、初物を検分に来る年金生活者、家事で暇のない女房に代って出てきた職人たち、さらには市場の風景をスケッチする絵描きたちが列を成して通り行く。その賑わいのなかに帰還兵も混じっている。

この年の6月、普墺戦争があったのだ。2年前にはシュレースヴィヒ-ホルシュタイン公国の帰属を巡ってデンマークと開戦、プロイセンとオーストリアは共に戦って勝利したのが、戦後、その支配権をめぐり両国の対立が深まり、ついにドイツ二大国間の普墺戦争が勃発した。この戦争はわずか7週間でプロイセンが大勝した。この結果、ドイツ連邦は解体し、オーストリアはドイツ統一問題から排除されることになった。

市場では初物のスモモを籠いっぱいに盛って、「食べてみて、おいしいよ!」と女の声があがるが、ほとんど客は寄りつかない。スカートを引っ張る子供をせきたて通り過ぎる母親。これを買って口にするのは、ラインの船着場で働く若者(*)たちばかりである。いまは町に繰り出してきたのだ。
そのほとんどがこの夏の戦争に従軍していた。市役所にはなお花輪飾りが垂れていた:《66年の勝者へ!》 萎れた花飾りの下に合戦場所を記した板がなお麗々しく下がっていた。ラウゲンザルツァ、キッシンゲン、ハンメルブルク、ギッチン、ナホット、ケーニヒグレーツ。一体全体、十万のオーストリア軍を打ち負かした勝者が少々のコレラを恐れるかい?
若者たちはスモモの種をフッと円弧を描いて舗道に吐き飛ばして闊歩する。どこかの船員酒場へ向かう。コレラに効く苦酒(**)と、新鮮なキュウリや生ニシンを味わうのだ。

Sie waren fast alle diesen Sommer mit im Krieg gewesen. Da am Rathaus baumelten noch die Guirlanden: 'Den Siegern von 66!' Noch prangten unter welken Kränzen die Tafeln mit den Schlachtennamen: Laugensalza, Kissingen, Hammelburg, Gitschin, Nachod, Königgrätz. Und Sieger über hunderttausend Österreicher sollten sich vor ein bißchen Chorera fürchten?!
Die Zwetschgenkerne im Bogen auf's Pflaster spuckend, nahmen die Rheinarubeiter ihren Weg zu irgend einer Schifferkneipe, um, nebst einem Chorerabittern, noch eine neue Gurke oder eine grünen Hering zu verzehren.
そう、この年はコレラが大流行し、巷では生の果物は敬遠されていた。ああ、明日の朝もまた新聞で新しい患者の記事を読まされるのだろう。リッター通り、リーファー小路で、またラーティンガー・マウアーのすぐ近くでもコレラが巣くっているようだ。人々は、コレラ・ベルト(***)を身に着けたり、スープと肉料理で栄養をつけようとしている。

コレラに留まらない。牛ペスト(****)もあって、いたるところで警察が家畜小屋を閉鎖している。多くの市民の思いは、悪いことは何もかもみんな戦争のせいだ、兄弟戦争だよ、オーストリアもハノーファーもヘッセンもナッサウもザクセンもバイエルンもみんなドイツ人で兄弟ではないか、どうして国王はビスマルクの言いなりになっているのか、とみな憤懣やるかたない。鉄と血だって? 止してくれ!それに鉄道が四通八達してラインラントがベルリンに直結し、ここの工業製品がオランダ、ベルギー、フランスに、世界的な取引に加わることになったと言うが、それがどう? ビスマルクの戦争ですべてストップ、あれだけ隆盛だったラインの船便も麻痺してしまった。

市を巡回する警察官は並べてある籠を覘いて「コレラ・スモモ」を見つけてはライン川へ投げ捨てる。その光景を眺める人々は腹に据えかねる様子で、売り手の女に同情的だ。だいいち、この疫病は戦争がもたらしたものだろう。栄養の悪い戦場の幕営、ボヘミアの不潔な村、荒廃した野辺の戦場、患者であふれる野戦病院から来たのではないか。コレラと言う名の不気味な妖怪がとつじょ市場に立ち現れ、明るい太陽の光の中、果物籠や背負い籠の間で陰気な衣を引きずっている。

* * * * * * * * * * * * * * *

長いショールを巻いた小太りの婦人が、スモモが川へ投げられるのを目にして、手を打ち合わせ「まあ、まあ、きょうびは何の楽しみもないのね!」と嘆く。買い物籠を携えて従っていた小間使いが、「シュナーケンベルク奥様、ショールを引きずってますよ!」と教える。

この「シュナーケンベルク奥様」は、居酒屋《美彩鳥》を経営していたチルゲス夫妻の娘で、プロイセン出身のリンケ軍曹の妻だったカトリーナ・リンケに他ならない。夫のヘンドリヒ・シュナーケンベルクは娘時代のカトリーナに好意をもっていた。彼女がリンケ軍曹に嫁いだので、別の女性と結婚していたが、軍曹が亡くなった直後に彼も妻を亡くしたので、やもめ同士が結ばれたのである。シュナーケンベルクはいろいろな事業に出資、いまでは配当で悠々と暮らす資産家になっていて、夫妻はケーニヒスアレーに新居を構えた。広壮な家で、台所には水道が引かれ、女中が水を汲みに出る必要はなかった。

自分の再婚を子供たちは心から祝福という気持ちにはなっていない、それはカトリーナもわかっていた。リンケ軍曹が拳銃自殺を遂げると同時に失踪した長男ヴィルヘルムはいまだに消息不明である。娘のヨゼフィーネも夫のコンラーディを亡くして未亡人となっていた。三男フェルディナントは戦争で片足を失っていた。母チルゲスは居酒屋《美彩鳥》の店舗を売って、自分が死ぬまで面倒を見てもらう修道院に献金していた。

故郷を離れて17年、ヨゼフィーネは生まれ育った町へ戻ってきた。新しい橋を架けるとか、新しい劇場の建設などの計画は上がっているが、町並みは昔のまま、ただ並木が大きくなったのには目を見張った。夫が激しい風雨の中の任務で肺炎になり、あっけなく世を去ったのは前年3月のこと、幼くして亡くなった二人の娘の横に葬られた。娘たちはジフテリアで亡くなっていたのだ。母のカトリーナは未亡人となった娘に戻って来いと言う。エッセンのクルップ社で働いている弟フリードリヒも、戻って来るんだろ? と言う。だが父は亡くなっているし、母は別の人と再婚していると、ためらいがある。とはいえ一人寝の床で窓を打つ雨音を聞いていると、故郷の町を思わずにはいられなかった。 あの馴染みの通りを歩き、兵営を見て、むかし喜んでしたように、手でその壁を触りながら歩けたら! ラインの川音が、教会の鐘の音が呼んでいる!
そこベルギッシュ・ラントでは大きな鐘がないことを彼女はいつも物足りなく思っていた。大きな鐘の音には何か独特のものがあった。乳香が漂う薄暗い教会、鮮やかな色彩で聖人伝の描かれたガラス窓、祝福を与えてくれる聖徒、バラの花冠を戴いた殉教者、微笑む幼子イエス、そして若くて美しいマリアさま!
Nun wußte sie's, hier im Bergischen Land hatten ihr immer die großen Glocken gefehlt; es war doch etwas Eignes um deren Klang, um die weihrauchduftenden, dämmrigen Kirchen mit den farbenglühenden, legendenbedeckten Fenster, mit den segnenden Heiligen, mit den rosenumkränzten Märtyrern, mit dem lächelnden Jesuskind und mit Maria, der Gottesmutter, die so jung und schön!
ヴォーヴィンケルの質素な教会しか知らない子供たち、ペーターとフリッツはどんなに驚くだろう。特に美しいものが大好きなペーターはどんなに喜ぶだろう。こうしてヨゼフィーネは次第にデュッセルドルフに帰る気持ちになっていった。

フリードリヒが引越しを手伝ってくれた。この弟は機械工となる道を歩み、足が曲がっていて不自由な身でここまでやれるとは初めは誰も想像しなかったが、いまではクルップ社で人並み以上の俸給を得ていた。少しの貯えもできたので、姉さんが店を開くなら資金を出すと言ってくれた。5月にバスチオン通りの角、兵営の真向こうの小さな店舗に引っ越した。フリードリヒは店舗に並べる品物、兵隊が必要とする道具、パイプ、タバコ、マッチ、ハンカチ、予備役杖、石鹸、靴墨、掃除道具、ボタン磨き道具、インキ、便箋などなども手配してくれた。「朝でも夜でも衛兵所に詰める兵隊は必ずここへ来るから」と弟は言った。なかなか目端が利く実際家になっていた。
「これは何年か先でいいからね、いいかい姉さん、返してくれること。利子は払ってもらうよ、商売は商売さ! 僕はこんな風に予想している:この夏きっと間違いなく戦争になる。そうなるとクルップ社に大規模で起きることが、この店で小規模に起きる。そうだろう、軍隊が出陣するなら装備が必要になる、それが靴に塗るオイルであれ、あるいは大砲であれ、まったく同じだよ!」 ――
"Du jiebst et mir ja wieder, Fina, paß ens auf, eine paar Jaar! Zinzen kannste mir ja zahlen, Jeschäft is Jeschäft! Ich rechen' so: Krieg kriejen wir diesen Sommer sicher un jewiß, dann sollte ens sehn, dann jeht et dir im Kleinen, wie dem Krupp im Jroßen. Rückt die Armee in't Feld, braucht se auch Ausrüstung, un ob et nu Stiefelschmier' is oder en Kanon, dat bleibt sich janz jleich."--
フリードリヒの予想は的中した。この日も、秋の日がとっぷり暮れて、店を閉め勘定すると満足のゆく売り上げだった。故郷へ帰還する兵士たちはみなこの店で杖(*****)を求め、色とりどりのズック布を、戦場の光景が描かれた布を買ってゆく。共に戦った戦友たちを偲ぶ思い出になるし、故郷の人々には興味深いお土産になるのだった。勘定台の上の明かりを消すと、店の前の兵営が黒々と横たわっていて、衛兵所だけに明かりが見える。兵営の衛兵本所が以前のブルク広場に面したところから、この場所に移っていたのは、大変嬉しかった。

住居である上の階に上がってゆくと、フリッツは眠っているがペーターはまだ机に向かっていた。また絵を描いている! もう宿題はしたのかしら。ノートの余白という余白を絵で埋め尽くしているばかりなら、授業料の高い実科学校など行かせてられないから。肩越しに覗いてみると、ランベルトゥス教会の横のカルヴァリーン山が描かれている。あそこはこの通りの光景だ! こんな上手な絵を見たら叱ることもできなかった。

絵ばかり描いていないでしっかり勉強しなさいと諭されると、ペーターは学校など行きたくない、それより絵の具を買ってほしいと訴える。しかし母親として、その願いを聞き入れることはできない。この子が本当に絵描きとして生きていけるのか、見通しは立たない。普通に職人になるのが安心だ。小さい弟もいるし、自分が年取って働けなくなったらどうなる、みな路頭に迷うことになるだろう ―― だがひたむきな息子の願いに心は疼く。こんなに絵が好きになるなんて、いったい誰の血を引いたのだろう。父ではないし、母の私でもない。父のコンラーディはいまわの際に、「子供たちをまともな人間に育ててくれ」と言い残した。

その夜、ヨゼフィーネは長らく寝付けなかった。
* 原文は Rheinkadette 、文字通りには「ラインの見習士官」だが、トリーア大学のデジタル辞書によると、
Rhein-kadett Bo-Stdt, Köln-Stdt, Düss-Stdt, Rees-Wesel m.: verächtl.
 1. am Rheinwerft beschäftigter Gelegenheitsarbeiter, am Rheine oft ohne Arbeit herumlungernd. —
 2. übertr. Schimpfw.
  a. Neckn. für den Kölner u. für die von Kref-Ürding. —
  b. träger, roher Mensch.
とある。「ラインの船着場で働く若者」と訳しておく。
** Cholerabitter さまざまなレシピによって香辛料、薬草を混ぜたリキュールあるいはジュース。初期のコレラに効くと信じられていた。
*** Choleraleibbinde フランネル製の腹巻きがコレラ予防になると信じられていた。
**** Rinderpest 1857年から66年まで、ヨーロッパ中で流行した。
***** Stock 従軍記念の杖。鼓笛隊の指揮者が持つような形状のものらしい。