拾遺集、弐拾壱 Aus meinem Papierkorb, Nr. 21校正 Die Korrektur大学に勤めていた間、折に触れ買ってあったドイツ文学関係の書物を書棚から抜き出しては、あれこれと読んでいる。そんな中から、Johannes R. Becher: Die Korrektur. Erzählende Prosa. (Insel-Verlag/Leipzig/1971)が出てきた。おやおやこんなものもあったのかとちょっと驚いた。大学でドイツ語・ドイツ文学を専攻して研究者の道に入ったものの、現代詩、ことに第二次世界大戦前後のドイツ詩には近づくことなく過ぎてきた。自分には一番遠い分野だったのではないか。 ヨハネス・R・ベッヒャー Johannes R. Becher (1891-1958) は詩人・作家でかつ政治家としても高名な存在だった。第一次世界大戦から、ワイマール共和国、そしてナチスの時代、第二次世界大戦後の50年代まで多くの詩を発表する傍ら、社会主義者として活発に活動して、ナチスの時代には10年以上の国外亡命を余儀なくされた。戦後、亡命先のソヴィエト連邦から東ドイツに帰国し、文化連盟会長、ペンクラブ会長、芸術アカデミー総裁、文化大臣となった。「ドイツ民主共和国」国歌の作詞者でもあった。 さて本棚から出現したB6判で140ページばかりの小型本『校正』だが、これは十数篇の短篇を収めた選集で、最後の一篇の表題が全体のタイトルとなっている。表題作「校正」は(小説には珍しいタイトル?)ショートショートというか掌篇というか、ごく短い物語で、いっぷう変わった書き出しだ(*)。 臨終の床に横たわり、秒きざみの思い出の中に、少しづつ自分の生涯を反芻しながら、人生との暇乞いをしているその時になって、彼は突然、最後の情熱的な興奮にとらわれたらしく両手で懇願するように闇をつかんだ。それはあたかも死を回避し、一瞬待ってくれと死を追い払おうとしているようだった。彼にはまだ一つの大事なことがあったのだ。彼はまだ一つの要件を果たさねばならなかった。彼は詩人で、多くの著書をもっていた。才能はあったが、気まぐれで移り気、多くの作品を世に問うたが、自ら満足のゆくものはなかった。彼には自分の創作活動が胡散臭いものとさえ思われた。心を占める感情は名状できない悲哀で、それを作品で表現しようとしてきた。「死は若いころから身近なもの」だった。ずっと前から死の用意をしてきた、「そもそも彼の全生涯はこの死別の時にささげられてきた」のであった。 口と手を懸命に動かして著書の一冊を持ってきて貰いたいという意図を伝えた。そしてその中の或るページを開かせた。そのページには一つの詩が載っていた。人気のない死の静けさの中で二人きりになるために廃墟の街を捨てて墓地にやってきた恋人たちを描いたものだった。死に臨む詩人は、鉛筆を渡されると詩行の一つの言葉を線で書き消した。そして長いこと苦吟したあとで思い浮かんだ言葉をその消した個所に書き込んだ。 それはよく見ると、そもそも文の意味にはなんら影響を及ぼすところのない全然些細な語句を練りなおすだけのことであった。すなわち「小石もしらじらと、道は思い出の中に消えていた。」というのが次のようになった、「道は思い出の中に失せていた。」この訂正を終えるや深く安堵したようだった。彼の気持ちの中では一つの不十分な表現を正確な表現に変えたのだ、うすれゆく意識のなかで「彼の人生に大きな訂正をした」のだとして、次の一節で物語が結ばれる。 「消えていた」の代わりに「失せていた」。それはまた他の言葉で、他の言い廻しであってもよかろう――だがそれはそれほど重要ではなかった。訂正がなされた。そしてこの死を目前にしてもう一度奮起した男、改正を意図した男――彼が、我々に残したこの姿によって、彼の全生涯と作品とは清められ深められたのであった。この詩人自身がまさに死期におよんで詩になった、彼自身の文学の詩であり、最上のそして最後の詩だった。さてさて、読み終えた読者は感動を受けただろうか。深く心に響く物語だったろうか。私には何か割り切れない読後感を残す作品のように思える。この作品集の編者ジーベルト Ilse Siebert は後書きでこの作品を「自らの人格と詩作の発展を要約したもの」と解説しているが、もっと意味深長というか、敢えて言えば思わせぶりな物語に感じられなくもない。この作品は作者の晩年に書かれたもので作者自身の、自らの詩作と自らの生涯についての感慨が込められているのは確かだろう。ただそこに、何か深い悔恨と紙一重のものが感じられないだろうか。 経歴を見ると、ベッヒャーにとって確かに「死は若いころから身近なもの」だった。1910年に、7歳年長の恋人と心中をはかったことが知られている。傾倒する劇作家のハインリヒ・フォン・クライスト(ヴァンゼー湖畔で不治の病に侵された女性と心中を遂げた)に倣うかのように、ピストルで恋人を撃ち、自分も撃ったが、彼女は重傷、ベッヒャーは3カ月の間生死を彷徨ったものの生き残った。 その翌年、クライストの没後100年にあたる1911年に、ベッヒャーは最初の詩 "Der Ringende. Kleist-Hymne" を出版した。「闘う人 クライスト讃歌」と訳すのだろうか。私は原文でも翻訳でもこの詩を読んでいないが、「内なる不安、自己否定、世界との断絶が詩による自己克服と自己規定によって止揚される。ヨハネス・R・ベッヒャーの抒情詩の初期の段階に支配的な死への憧憬が明瞭である」と、同時代人のジャーナリスト・批評家パウル・リラ(**)の評がある。 文献を調べてみると、ずいぶん昔のことになるが、彼の詩集の翻訳が一冊出版されている。その『ベッヒャー詩集』(***)を図書館から借り出してきた。膨大な量の詩から二人の訳者が精選したアンソロジーで、パラパラ読みをした中に、「ぼくらの時代の人間」"Ein Mensch unserer Zeit" (1929) という200行を超える長い詩の訳があった。その一部を抜き書きしてみよう。 ぼくらは詩を書いた 多彩な酔い痴れた詩を第一次世界大戦終了後、自らの前半生を振り返って書いた長詩だと思われる。音と光と熱に包まれた死のイメージが強烈だ。その時代の<表現主義>から出発した詩人だということが納得できる。このあとナチスの時代に10年以上の国外亡命、戦後、東ドイツに帰って、詩人政治家として華々しく活躍する。様々な役職に就き、文化大臣にまで登りつめた。彼の作詞になる「廃墟からの復活 Auferstanden aus Ruinen」は、1949年ドイツ民主共和国(東ドイツ)の国歌になった。 廃墟から立ち上がり、しかしながらドイツ統一の支持者であった彼の立場は政治情勢の変化で微妙なものとなってゆく。ベッヒャーは地位と肩書はそのままだったが、実権は奪われていった。彼の没後、東西冷戦が深まって、ベルリンに壁が建設される。当初は公の場で歌われていた国歌だが、1970年代に入って、東西分裂を固定化しようとする圧力が強まり、歌唱が禁じられ曲のみが演奏されることとなった。 そして、晩年の『詩的原理 Das poetische Prinzip』のなかに、信じられない言葉が書き残されている。社会主義は「私の人生の根本的な誤り」"Grundirrtum meines Lebens" だったと述懐(****)しているのだ。どうだろう、少し調べただけでこの経歴、この言葉に行き当たるとなると、私の専攻分野から遠く離れた作品に対する、ほとんど野次馬的な無責任な感想ながら、ベッヒャーの「校正」を読んで何か微妙な印象を受けたのも、さもありなんと思えてきますね。 * マルセル・ライヒ=ラニツキが編纂した短編集をもとに全3巻の『狂信の時代・ドイツ作品群』(學藝書林 1969年)が翻訳出版され、「校正」はその第3巻『創られた真実 1945-1957年』に内海晶訳で収録されている。以下の翻訳は内海訳をそのまま使わせていただいた。 シシリアの冒険 Sizilianisches Abenteuer今回本棚から抜き出したのは、これもまた小型の本である。日本の新書版くらいの判型で56頁の厚さ(薄さ?)。Karl Benno von Mechow: Sizilianisches Abenteuer (1949)主人公はクリストフ・カーニッツ Christoph Canitz というザクセン生まれの若者という設定、ライプチヒの書店に勤めている。本を愛して熱心に仕事に勤しんでいたが、これがある客と書物を巡っていざこざを起こし、唐突に店をやめて、なぜかイタリア旅行に出る。時は18**年、となっている。 次に読者の前に現れる主人公は、仕事を辞めてしばらくの時間がたってからの姿である。クリストフは元気にイタリアを歩いていて、粗末だが見苦しくはない身なりだ。土地の人々は親切だし、いたるところ果物が豊富だから飢えることはない。そして南へ下れば下るほど旅慣れて、脚も丈夫になり元気が増す。トスカナ、ウンブリアを経て、ローマはさっさと通り過ぎ、アッシジ、カラブリアでは疫病で前進が滞ったりしたが、幸いにもカモッラ(*) には遭遇しなかった。心の中で歓声を上げてシシリアはメッシーナに上陸、何かに憑かれたように島の中央を目指す。行き先は島のど真ん中でなければならぬ。 あたりの牧歌的な風景を眺めていると、「シシリアの人里離れた場所にいるこの時ほど、ドイツを身近に感じられたことはない」と思う。 来し方のこと、自分の身に起きたことのいろいろが思い出されるが、 しかし回想に浸りきるのではなく、いま現在のことを忘れてはならぬとまた思い直し、現在をどう呼ぶかと言えば「感謝」しかないと思う。1時間ごとに、いや心臓が生命の鼓動を打つ度に、自分がこの現在を持つこと、この現在が自分に良き機会を与えてくれたことに感謝するのであった。季節は初夏、天候に恵まれ明るい陽光のもとぐんぐん進んでゆく。日差しが強すぎるときには岩陰で数時間休息をとる。レンダッツォ Rendazzo (Randazzo) に向けて山に分け入る。群落は無くなり、ごつごつした岩場にポツリポツリと小さな農家がみえるだけ。シシリアに上陸して一週間たち、レオンフォルテ Leonforte 地方で小さな羊飼いの集落に出た。これまでとは異なり、ここの人々は彼に険しい視線を向ける。 彼が宿を求めた家では、女性が応対に出てきて、探るような眼でこちらを見て渋々ながらという風に案内されたのは、母屋から離れた家畜小屋らしきところ。彼女の話、理解できた限りでは、夫がいないし娘と二人暮らしなので他人を泊めるのは気が進まないのだ、ということらしい。その若い娘も姿を現したが、野生の美しさを湛えていて、それが彼にそこで一夜を過ごす決心をさせた。ルックザックを枕にマントを被ってうつらうつらとしかけた時、もう一度扉が開いて娘が入ってきた。彼女は無言で彼の手を探って、何か乾草のような、だがそれとはまったく異なる独特の香りのする液体の満たされた陶器の容器を持たせた。彼は夢の中の出来事のように為すがままにされていた。 硬い寝床とむっとするする熱気に寝返りを繰り返したあげく、立ち上がって外の新鮮な空気を吸おうとドアに手をかけると、外から鍵がかけられていて押しても引いてもびくともしない。閂もかけられていた。乾草に似た匂いがさらに強くなり、渇きに耐えかねて床に置かれた壺の、異様な強い香りを発するワインに口をつけようとしたが、その時、天井にわずかな隙間があるのに気付いた。石の壁をよじ登って新鮮な空気を胸いっぱいに吸い、床に飛び降りて改めて扉を押したもののやはり開かない。小屋の匂いが耐えがたいほどに強まる中、渾身の力で再び壁をよじ登ると、梁の下に少し緩んだ岩があるのに気付き、一つずつ外して、やっとのことで小屋を脱出し、少し離れた岩陰に身を寄せてぐっすりと眠った。 クリストフは新たに全身に力が漲り、心も軽やかに先へ進む。やがて雲の切れ間から雪を戴いたエトナの頂上が見えてくる。地図で確かめて、目的地に近いことを知り、その場でしばらく休むことにする。 眼下は目路の及ばぬ深い谷、その岩の縁で横になって彼は長らくサラマンダー(**)を見つめていた。そいつは急こう配の岩を慎重によじ登ろうとしていた。そのとき彼は背後から大声で呼ばれる声を聞いた。目の前の観察に夢中になっていて、邪魔だてには煩わし気にちょっと首を回すだけだったが、人影が見えたので、手でもって静かにするよう合図した。だが男はあたりに響き渡る鋭い口笛を鳴らして近寄ってきた。小鳥は舞い上がり、サラマンダーは滑り落ちた。クリストフが振り返って「どうして静かにしてくれないのか」と言うのも無視して近づいてくると、立ってポケットを裏返して中を見せろと命じる。背嚢の中身も全部地面に放り出すが、わずかな食料、継ぎだらけの着替えと数冊の本だけ。何か武器は? と問われてポケットからナイフを取り出し、柄の方を相手に向けて手渡す。男はピストルを手にして、「お前は死なねばならぬ、これは決まったことだ、何物も変えることはできないのだ」と言う。私がどんな悪いことをしたのか、なぜ死なねばならないのか、とクリストフ。いったん決まって命じられたことは最後までやり遂げねばならぬ、と男。クリストフは、それはその通り、だが誰がそう命令したのか、といったやり取りをしているとき、相手は背嚢から出てきた本に目を落とし、ピストルを手から放して本を取り上げ、ぱらぱらとめくる。 そして挿絵にある僧服の人物を見て、どんな聖人なのかと尋ねる。それは両親が持たせてくれた本で、クリストフは絵の下の説明文を読み上げ、つたないイタリア語で繰り返す。男は腹立たしそうにイタリア語の発音とアクセントを直して復唱する。そしてお前は敬虔なクリスチャンのようだから、守護聖人を呼び出して祈るならそうしていい、と言う。クリストフは行き当たりばったりのページを開いて小声で読み始める。男は意味の分からないドイツ語をしばらく聞いていて、それはどういうことを言っているのだ、と尋ねる。 こうして信仰についてやり取りするうちに、男はニコシアの裕福な家の出、ナポリとサルジニアの蜂起では自由の方について戦った、シシリアへ帰ると異邦人が支配していてあるとき怒りに駆られて一人の人間を殺してしまった、本来罪に問われるはずだったが島の解放を目指す秘密の結社に入って故郷に帰ることができた、と身の上を語った。昨夜泊まった母娘の家の亭主こそこの男であった。クリストフはナポリの手のものと見做され家畜小屋へ閉じ込められたのだった。男はいま聖人の事績を知って、自分は一つの掟からは逃れたが、もう一つの掟に服することになったこと、島の解放のためにと「自由」の召使となっていることに思い至った。 クリストフとの議論によって掟から解放されたと感じた男は、「そろそろ行け」と言った。「ここの抗争がすっかり終わったと聞くまで、二度とこの島の奥へは来るな」と言って立ち上がり、外套を拾い上げて中身をそこに空け、一足の頑丈そうな靴をクリストフの荷物の横に置いた。そんな振る舞いにも気づかずサラマンダーに夢中になっていたクリストフは、最後の難所を登り切ったのを見て叫んだ。「やったぞ! ついに登ったぞ!」――だが男は別れも告げずに去っていた。 クリストフはなお数時間その場に留まった。太陽が天を進んで、今はエトナを西側から照らしていて、その白い頂上が赤く燃える時になって、彼はその場を発った。途中何の支障もなく旅を続けて、やがてカストロジョヴァンニ(***)に着いた。ここは今はまたエンナと呼ばれていた。砦から遠くを眺め渡し、地図を手に広げ、これまでの出来事をすべて思い返した。この町が「ヘソ」と呼ばれていたことに納得がいった。まことに彼はど真ん中に来ていたのだ。それからまた歩き続け、どこにも留まることなく祖国へ向かった、再び自分の仕事に就くために。何だか読後のすっきりしない物語だ。ストーリーの展開に飛躍があって、あれこれのエピソードの関連が腑に落ちず、大自然とその中の小動物(サラマンダー)の描写も、思い入ればかりが強くて効果を上げているとは言えない。私など背景にあるらしいシシリーとナポリとの争いの歴史に通じていないので、なおさら理解が難しいと思われる。 作者のメッヒョウ Karl Benno von Mechow (1897-1960) はマイナーな作家であろう。古い士官の家系で、農業経営を学び、いくつかの土地で農園を経営した。のちに人間と自然の関りを描く作家となり、『田園の年』„Das ländliche Jahr“ (1929) と『初夏』„Vorsommer“ (1933) はいくらか注目(****)されたらしいが、30年代から躁鬱病の兆候が現れて治療を受ける。第二次大戦後、症状が悪化して新しい作品はほとんど書かれず、1960年に63歳で亡くなった。 手元の文学史を見ると次のように書かれている。この記述でメッヒョウの評価が言い尽くされているのかもしれない。 貴族の人間性、たぎる祖国愛、燃えるようなキリスト教信仰 ―― この三者が影響を及ぼし重圧をかける。彼はその重圧に結局は耐えられず克服できなかった。それは彼の著作にも感じられる。比較的短いものでも、突如、他の部分と合致するとは見えない、何か奇妙なものに突き当たる。疑いもなくメッヒョウはフォンターネとシュティフターの後を追おうとしたが、結局届かなかった。 少し気になる点があって、この本の表紙と扉を下に示す。 どうしたわけか表題が異なっている。背文字は K.B.v. Mechow, Sizilianisches Abenteuer とあって、表紙のタイトルと揃っている。調べてみると各種の著作目録では扉の Novelle auf Sizilien でリストアップされている。 この物語の背景にあるシシリアとナポリの争いは、それが18**年の出来事とすれば、両シシリア王国からイタリア統一にいたる歴史の一コマのようだが、この時期の複雑な政治・社会の力関係は門外漢たる私にはよく理解できない。ただし、Sizilianisches Abenteuer というと、英語では Sicilian affair とか Sicilian business と呼ばれ、1254年、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝との対立を背景に、イングランド王ヘンリー3世が次男のエドマンドをシチリア王に擁立しようとして、莫大な出費を強いられた揚句その試みは失敗したという史実、つまりは別の時代の出来事を指す。そのためかどうか、本作の正式なタイトルは扉にある『シシリアの物語』Novelle auf Sizilien が選ばれているようだ。 これは蛇足だが、PALERMO - Ein sizilianisches Abenteuer と呼ばれるボードゲームがある。3人から5人のプレイヤーがそれぞれ駆け出しの詐欺師になって、できるだけ良いロケーションを選んで飲み屋とかピザ屋のチェーン店を増やしてゆき、また身内の警察官を使いライヴァルを陥れて罰金を払わせ、どれだけ多く稼ぐかを競うゲームらしい。 * Kamorrist、ナポリの地下経済を取り仕切る犯罪結社カモッラ Camorra の構成員。20世紀初めにカモッラはニューヨークを舞台にシシリアのマフィアと「マフィア-カモッラ戦争」と呼ばれる激しい抗争を引き起こした。 暗闇と白昼の間で Zwischen Dunkel und Tag小型で薄い本シリーズ、続く。Heinrich Lilienfein: Zwischen Dunkel und Tag und andere Erzählungen, Berlin 1926書名 "Zwischen Dunkel und Tag" は《夜と朝の間に》《闇と日のあわい》などいろいろな訳し方があろう。本書には表題作「暗闇と白昼の間で」と「白薔薇と赤薔薇」「辿り着けない土地」「マリア・クリスティーネ」の4篇が70ページの分量に収められている。 表題作「暗闇と白昼の間で」は「メッヒェルロイト(*)のさほど大きくはなくて古色蒼然たる屋敷」が物語の舞台となっている。法律顧問官の主が熱心に見ていたときは庭園がこの屋敷の魅力となっていたが、次第に手入れがおろそかになり、いまや建物の傍のカエデが日当たりや風通しを妨げる状態。妻は二人の息子アルブレヒト Albrecht とヴァルデマール Waldemar を遺して早くに亡くなっていた。若くして結婚していたヴァルデマールは、1918年の初めに戦死し、その妻エーディット Edith との間の男子も幼くして亡くなり、そのあと義父も世を去って、今は寡婦エーディットひとりが古い屋敷に住んでいる。そこへ義兄のアルブレヒトがやってきて、滞在した二日間の出来事が描かれる。 二人が同じ部屋にいながら会話のない気づまりな場面から始まる。書類を調べながらアルブレヒトは、「少しは外に出てみたら?・・・庭かヴェランダに?・・・」と言葉をかける。エーディットは無心に編み物をしてはっと驚いたが、ひっそりと薄暗い部屋を抜け出ていった。アルブレヒトは彼女と二人でいることに「おぼろげな圧迫」を感じる。実は彼もエーディットのことを愛していた。その気持ちを行動に移す前に、弟がエーディットに近づき、結婚してしまったのだった。 彼は以前からエーディットを知っていて愛していた。ヴァルデマールより前に。しかし彼女に対する自分の気持ちをそれと自覚する前に、性格から来る引っ込み思案やなかなか決断できないところを克服して告白するに至る前に、ヴァルデマールが出てきて明るく打ち解けた態度、朗らかさと心地よい弁舌でもって結婚できる年齢になるやならずの少女を獲得してしまった。アルブレヒトの突然の訪問はエーディットを驚かせたが、義父の死にまつわる様々な法的整理があって、当然のことと納得する。夫の戦死で寡婦となり、そして子供も義父も亡くしたエーディットは、慰みようのない悲しみに凝固するような生活だった。ただぼんやりと暮らしている。 そんなエーディットに、君はこの家に住み続けることはできるし、父が君に残した遺産もある。しかしこれから何かすることを見つけなくてはならない、と義兄は語りかける。「そんな話をしなくちゃいけないの」と彼女。身体じゅうが凍えるような気持になって、「看護婦として修道院に行くと決めています」と呟く。その場を立ち去りかけていたアルブレヒトは、電気に撃たれたようになった。「君はまだ若い。前途にまだまだ長い人生がある。それを犠牲にしてはいけない。これからさき死者のことばかりにかかずらってはいけないだろう」としわがれ声で言う。 「どうして――そうできないのですか」と彼女は驚いて問い返した。「私は今あるもののほか必要なものは何もありません。思い出と、悲しみとです。人生は今後それ以上のもの与えてくれることはありませんし、何をすることもありません・・・わかっていただけませんか?」エーディットの唇に微笑みが浮かぶ。彼は、「わかってくれないかだって! そんなことはわかりたくない、わかってはいけないのだ。」抗い難い力に圧されて語り掛ける。「われわれは死者の後を追って死ぬために、生き残ったのではない、君には生きてゆく使命があるのだ」とアルブレヒト。「ヴァルデマールだってそんなことを願っていない! そんなことは不自然だから、君と君の青春を奪うことだからだ」と言う。エーディットは「ヴァルデマールの気持ちが分かるのですか」と声を震わせて言う。アルブレヒトははっと我に返ってその場を離れていった。 エーディットが再び目を上げると、一人きりになっていた。窓から見ると彼がバラの間の砂利道を建物の方に歩いていた。その姿を目で追っているあいだ、彼女は血が心臓を撃つようだった。今の話し合いは、次第に強まる違和感で半ば放心状態だったが、突然まったく新たな、心を震わせる相貌で立ち現れた・・・彼自身が、アルブレヒトが ――、どうしてそんなことがありうるのだろう? そんなことが真実では有り得ない! ――だが彼女はそれを本能的に、どんな反論も退ける確かさでもって理解したーー彼の変化、激しさ、激情・・・彼は私を愛している・・・夕食の時、お手伝いの娘がアルブレヒトの書付を持参する。硬い筆跡で短く、あす6時の汽車で発つとある。これで再び自分の孤独が取り戻せる。だが、なにか、気持ちが落ち着かず、階上の寝室に上がる。下から聞こえるゆっくりした重々しい足音はまたアルブレヒトだ。聞きたくもない未来のことなどで私の心を乱した彼の足音だ。最近の自分の気持ちにしっくりする『夜の讃歌』(**)を手にとるが、今夜は何を読んでいるのか上の空。真夜中もとっくに過ぎ、疲れ果ててベットに倒れこむ。眠るのだ、眠るのだ・・・わずかに眠ったか眠らなかったか、窓のカーテンの向こうで夜が白みかけている。階下でドアの開く音が聞こえたように思う。機械的に顔と手を洗い、部屋を出て階段を下りる。廊下に降りたとき、アルブレヒトが旅装で部屋から出てきた。彼は驚く、自分の目が信じられない様子。「さよならを言わなきゃ、と思って」とエーディット。そして、最後のシーンとなる。 彼は近づいて行った。その顔には相争う感情が動いていた。言葉が唇の上で固まった。手だけがあいまいに動いた。エーディットはためらいながら手を差し出した。彼女は震えていた。その夜のすべての闘いの影と不安が彼女の表情に刻印されていた。「さようなら」、彼女は際限ない努力で口から押し出した。そしてしばらくして、苦悩に満ち、恥辱と誇りに圧し拉がれた、弱弱しい救いのない告白をした。「私は――とても孤独――です――。」「暗闇と白昼の間」とは夜から朝に移り行く、次第に明けてゆく時間、「夜明け、あけぼの、空の白み」を表すのだろう。英語ならこの時を指す dawn という美しい語があり、比ゆ的に「物事の始まり、兆し」を意味する。この物語では夜から朝への推移と同時に、二人の心の移り行きを表しているのだろうが、そして物語は「黄金の陽光」が差してきて終わるのだが、この結末は明るい未来を暗示するのかどうか? 最後まで「どっちつかず」で「ためらい」が支配しているように感じられる。このあと何かが始まるのだろうか。 残りの3篇「白薔薇と赤薔薇」「辿り着けない土地」「マリア・クリスティーネ」も、何れも Zwischen すなわち、《間、あわい》の物語、《どっちつかず》で《ためらい》が支配する物語だ。そこから一歩踏み出したのか? 読み終わって何とも宙ぶらりんのままに捨て置かれたという気分だ。余韻・余情が残る結末と言うべきなのか? 「白薔薇と赤薔薇」はある保養地での一夜の物語。ピアニストのジルヴェスター・フレゼニウスが演奏を終えた後、ある女性から声をかけられる。それは十数年か二十年ほど前になろうか、自分をソデにしたかつての恋人だった。裕福な男と結婚するため自分を捨てた女であった。いまさら何を、と思ったが彼女が連れていた娘を見て気持ちが変わる。昔の恋人が目の前に再現したような姿。彼は他では話したことのない、自分の演奏のこと音楽のことを語って、娘も熱心に聞いてくれるので、心が高揚する。だが一夜明けて我に返る。そして赤と白の薔薇の花束を二人の部屋に届けさせて、船で保養地を去る。白薔薇には母あての、赤薔薇には娘あてのメッセージを添えて。 「辿り着けない土地」はタイトルそのものに《間、あわい》感が滲み出ているが、これも二十年ほど前に求婚した男と拒絶した女の物語、再会したとき女は離婚していて男は妻がいる。二人はいまも昔の愛が消えていないことを確認するが、男は昔の恋人と妻の間で揺れ動いて・・・という物語。最後の「マリア・クリスティーネ」は敗戦に絶望して自殺を図った大佐の娘が題名の主人公。25歳である。かつて衛戍病院で働いている折に見初められた士官に求婚されるも、父親の介護があるからと断る。庭の明るい日差しの中で相手のプロポーズを断ったとき、屋内から父親の呼ぶ声がして、「そしてマリア・クリスティーネは白昼の光から部屋の暗い影の中へと歩んで行った・・・」という結末。 作者ハインリヒ・リリエンファイン Heinrich Lilienfein (1879-1952) は シュトゥットガルト生まれの劇作家・小説家。第一次大戦に従軍、一兵士として前線に出た。フリードリヒ・シラーゆかりの町の生まれだったこともあってか、1920年に「シラー財団」Deutsche Schillerstiftung の会長に就任して、 ヴァイマルに住む。第二次大戦後もこの地位に留まった。ナチス時代に彼はヒトラーに忠誠を誓う「厳粛なる忠誠の誓」に署名していたし、「文化創造者のためのゲッベルス財団」の理事会メンバーであったし、ヒトラーとゲッベルスの作成した「神に祝福されし者のリスト」に名前が挙がっていた。そうした彼が戦後、追放されることなく、ソ連邦の支配する東ドイツで要職に留まることができたのはなぜだろう。 彼には文化史的な題材を扱った一連の作品があり、その中でもっとも重要な作品とされる、クリスティアン・ダニエル・シューバルトを描いた小説『桎梏の中で――自由に』"In Fesseln - frei" (1938) が、暗に「第三帝国への批評」を行っていると評価(***)する研究者もいる。しかし当然ながら「戦後の東ドイツで、そして統一後のドイツでも、彼は《反ナチスの戦士》となったが、これは歴史の捏造だ」(****)との見方もあって、この辺の事情はよくわからない。とにかく1949年にヴァイマルの名誉市民となり、1952年から東ドイツ政府より名誉年金を与えられ、死後、町の名誉墓地に葬られ、遺稿はヴァイマルの「ゲーテ・シラー文庫」とマールバハの「ドイツ文学文庫」に収められているとのことである。 * Mechelreut 詳細不明。ドナウ川左岸のフランケン地方に、もともとスラブ系のこの地名があったようだ。" - - Georg zu Mechelreut vnd Wolf zu Machlitz. UMertheim zu Weißelsdorff. - - Schwab. Landseßu. Lehenmann. Hans Reichert zu Guttenthaw." ---- Staatsarchiv der königl.-preuß. Fürstenthümer in Franken, (1797) 弟とぼく Mein Bruder und ich小型で薄い本シリーズが続いています。今回は Langen/Müller のその名もずばり《小型文庫叢書》 «Die Kleine Bücherei» の一冊。各巻80プフェニヒの均一価格本。表紙のタイトルはシンプルに、
マックス・メル Max Mell (1882-1971) はオーストリアの詩人・小説家・劇作家。生まれはオーストリア=ハンガリー帝国時代の Marburg an der Drau(*) だが、法律家の父親が首都の盲人施設の所長となって4歳からウィーンに住んだ。 『弟とぼく』は作者がすでに五十歳を越え、ウィーン市の文学賞やグリルパルツァー賞などを授与され、作家として成熟した時代の作だ。しかしこれはまたかなり風変わりな作品である。一歳年下の弟グストル Gustl が亡くなって、その埋葬が終わった後、ぼくトーニ Toni が家族とともに自宅に戻ってくるところから物語が始まる。母はひたすら泣いていて、ぼくを抱きしめ、「お前はまだ残っている、神さま、どうかお守りを!」ぼくも子供部屋に入って、もうこの部屋には自分一人しかいなくなるのだ、もう変えられないのだの思いに胸がいっぱいになる。弟の教科書、ノート、筆入れ、ベルト、体操靴などがそのままにある。 これは夢ではないと、いまはそれが分かっていた。でも昨日今日のような日がずっと続いてくしかないのだろうか。父が母に語った言葉がまだ耳に残っている。生き続けるしかないのだよ私たちは。うん、それはそうだよね。でも弟のいない生活なんてどんな風になるのだろう?明日また学校へ行ったら級友や先生にどんな風に振舞えばいいのか。ずっと真面目な顔で、教室の騒ぎに混じったりはできないのでは。先生たちは腫れ物に触るよう接してくるだろう。それを思うとぞっとする。自分が生き続けるのが罪であるような気がする。いやだいやだ、今まで通りに生きていきたい・・・そのとき呼ばれて祖父母を送って行くよう言いつけられる。数軒先の家に住んでいるのだ。 戻ってくると、ドアがきちんと閉まっていなかったので、中の会話が漏れ聞こえる。母が、「グストルが夢の中の話をしたことがあってね、宙を飛ぶことができた、ちゃんと部屋から部屋へと飛んだんだ、腕を翼のように振ってさ、と至福の表情で言うの。私は嬉しくはなかったわ、なんだか不気味で」と言うと、父は、グストルならそんな夢を見たって私は驚かないね。すると叔母が言う。 「だって、あの子は天使のようじゃなかった? 覚えているでしょう、あの子がまだ小さかった時のこと。いつでもどこでもみんなあの子にはうっとりとなったこと。ほら、あの列車の中でのこと覚えている? まあおとなしくて可愛かった、何ともね。隣には愛嬌のないトーニ。ほんとに、1歳年上なんだけど、そもそも可愛げない子だわ。あの子と並んで横にいると、すごく粗暴でがさつ。神様にちょっと情けがあって、こちらの方を召してくださったら、と思うわ。でもまあ天使のような子をこの世に置いておかなかったのね。」「まあ、そんな罪なことを言って!」と母がたしなめるのが聞こえた。ドアの隙間が少し開いてぼくの姿が見えると、部屋中が凍り付いたように静まった。「送ってきたよ」と告げて部屋へ戻ると、母が気遣って追いかけて来る。ぼくは明日の学校の支度にとりかかるが、まだ貼ったままの弟の時間割通りの準備をする。やり残されていた弟の宿題をする、弟の字体・書き癖をまねて作文を仕上げる。そして弟が同級生ヴラディーミル Wladimir から借りた絵本『黒い象牙』 "Schwarzes Elfenbein" があり、中を開くと Janthe von Pogusch の名前が書かれている。彼の姉ヤンテの本だった。それもカバンに詰める。 夕食時、ぼくはグストルの席に着き、そのナイフ・フォークを使う。スープにはグストルがしていたようにシナモンをたっぷりかける。ぼくがシナモンが好きでないのを知っている母は驚く。弟がしていたようにバタパンにたっぷりの塩をかけ、それを払い落して食べる。父と母は顔を見合わせる。部屋に戻ったぼくのところに母が来て「トーニ、どうしてあんなことするの? みんながどんな気持ちになるかわからないの?」「お母さん、こうした方がいいんだ。トーニのことで悲しまないで・・・叔母さんは本当のことを言ったんだ、それが分かるくらいぼくはもう大人なんだ。お母さん、大丈夫だよ!」 翌日学校へ着くと、弟のクラスに向かう。窓際2列目ベンチの真ん中だったグストルの席に着く。 ヴラディーミルはぼくの方を見た。ちょっとの間のあと、こちらに目を向けたまま完全に固まってしまった。ぼくは背にもたれ小声で言った。《あのねーーグストルが死んだことにはしたくない。ぼくはグストルとして生き続けるんだ。自分なんかもういらない。ほかの誰でもない。そう心に決めたんだ、わかったね。》 こんな調子で細かくストーリーを追ってゆくと長くなり過ぎるので、他の生徒や授業中の教師とのやり取り、校長室へ呼ばれてのお説教、『魂の食餌療法』(**)なる本を与えられ、2週間の「登校免除」となって帰宅、借りた本を返すため弟の友人ヴラディーミル宅を訪問、父親の海軍少佐フォン・ポグッシュ Korvettenkapitän von Pogusch が任務で長期間留守にしている家庭の雰囲気、外国語訛りの言葉を話す母 Zoe のコケットな振舞い、姉ヤンテとの対面・・・までの途中経過は端折る。 母親がおめかしして出かけ、ヴラディーミルがヴァイオリンの練習で別室にこもると、ヤンテと二人きりになる。「さあ、お遊びにとりかかりましょう。素敵な遊びよ」と言うなり、続き部屋との間の扉をどんどんと開け放ち、最後の部屋を開けると戻ってくると、ぼくにも手伝わせて重い机と椅子を動かし、まるでサーカスの団長のように椅子の位置・間隔を点検する。 「さあ、何のためにこんなことをするのか、こうして何が素敵なのか言ってあげるわね。しばらくこれをすると、夜にどうなると思って? 空中を飛べる夢を見るの。しっかり練習するからそうなるのよ。あなたもそうなりたいと思わない? なんだって素晴らしいんだもの。」寝室のベッドからスタートし、ヤンテは奇声を上げ両手を広げ髪をなびかせて次々と椅子を跳んでゆく。軽々と飛び移りながらあちこちで声を発し、戻ってくると息を弾ませベットに飛び込む。すぐさま立ち上がり、再びスタートする。そして「そら、あなたもおいでなさい」と声をかけてくる。ぼくは彼女の後を追うが、このジャンプは簡単でないこと、彼女は相当訓練を積んだのだと知れる。部屋ごとに難しさが異なる。「さあ、練習は終わって本番ね。今日は2ゲームだけよ。最初はそれで十分、きっと夢が訪れることよ」と、椅子の配置を検めた。 いまは呑み込めた。部屋ごとに違う跳躍が求められること、そしてそれによって段々と機敏に激しくなるのだ。スピードを上げながら先を進む姿を追うだけ、それだけで軽やかさの高揚した感覚を得ることができた。そしてまさに最後のゲームを始めた時、その時に運命がぼくを捉えた。スタートしたばかり、まだ寝室を出る前に椅子から足を踏み外して、床に仰向けに落ちたのだ。骨折したようなことはなかった、痛みは感じなかった。大丈夫、どこも痛めなかったよ、とヤンテに言おうとして、声が出ない。何かを呑み込んで背中に刺さったままになった感覚なのだ。座ってみても声は出ない、立ち上がって胸を叩き背中を叩いても、言葉が出ない。ヤンテは心配そうに「話せないの?」と尋ねる。首を横に振ると背を軽く叩いてくれたが、声は出ない。靴を履いて前の部屋に向かう。一歩ごとに背に軽い痛みを感じる。帽子をかぶって外へ出る。 道路を歩いているうちに幾分よくなった。家に帰ると、「転んでものが言えない」と紙に書いて母に見せる。母の驚き、また新しい厄災に襲われたのではないかという際限のない不安に襲われたようだった。「何てこと、なんてこと」と声を潜めて嘆く。紙に書いて説明して、ようやくそんなに深刻な問題ではないと分かったようだが、ぼくの症状を良くすることはできなかった。服を脱がせてベッドに横にならせた。「お前はトーニなんだよね?」と止めどもなく涙を流し続けた。ぼくは喉が突如それまで以上に詰まったが、それは一瞬だった。母の首に縋りついた。 母はぼくにおとなしく寝ているように言いつけて父を呼びに走った。父が来た。ぼくのことは心配ないと伝えたくてほほ笑んだ。父の澄明な視線には探るような、同時に非を許さぬ威力があって、ぼくはぼくなのだと感じさせた。父は何も言わなかったが医者を呼ぶようにと母に命じた。訪れた医師も、特に心配はない、温かくするようにとの診断。ぼくは長時間ぐっすり眠った。次の日には声が出るようになった。2週間の休みが終わって登校し、自分のクラスに行く。ヴラディーミルがぼくのところにやってきて人懐こくあいさつし、姉のヤンテもしょっちゅう様子を尋ねていると告げる。「よろしく言っておいて」とだけ答えた。彼とその姉のもとをまた尋ねるかどうか、自分でもわからなかったのだ。その後しばらくして、彼らの父親がフィウメ(***)に転任となり、その学年中に姉弟も引っ越していった。 そしてそのあと弟のことはぶり返すことなく収まったので、わが少年時代のこの時期にヴラディーミルとヤンテ・フォン・ポグッシュの名前を持ち出すものはもう誰もいなかった。この文章でもって、風変わりで不思議な味わいの物語は終わる。 この書の出版元ランゲン・ミュラー社はミュンヘンの異色の出版2社が1932年に合併して生まれた出版社だ。Georg Müller Verlag は斬新な企画で美術分野そしてドイツ内外の文学、それにまたシェークスピア、スタンダール、ポー、ハイネ、ホフマン(****)など古典の全集で有名であり、Albert Langen Verlag は北欧文学の翻訳出版からスタートし、風刺週刊誌「ジンプリチスムス」Simplicissimus で名をなした。本書『弟とぼく』は合併から3年後の出版だが、版元が Albert Langen / Georg Müller / München と、まだ並列表記になっている。なお合併前のランゲン社にも《ランゲン小文庫》 «Kleine Bibliothek Langen» という廉価本シリーズがあった。 この作品にはオーストリア=ハンガリー帝国時代の「辺境」に属するエキゾチックな人名・地名が多い。主人公は Anton Fasold 弟が Gustle Fasold 弟の友人が Wladimir その姉が Janthe 母が Zoe で、彼らの姓は von Pogusch だ。地名では Fiume など。作者 Max Mell がシュタイアーマルク地方生まれということもあるのだろう。メルは第二次大戦後、オーストリアのカトリック文学者を代表する作家とされていたが、1930年代、オーストロファシズム(*****)の支持者であったので、ナチスとの関係を問題にされ、それは今に至るもくすぶっているようだ。 * 現在の Maribor(マーリボル)。スロベニア、ドラーヴァ河畔の町。第一次世界大戦後のサン=ジェルマン条約でユーゴスラビア王国に属し、1991年にスロベニアがユーゴスラビアから分離。 アルベルト・ランゲン Albert Langen前項で取り上げた『弟とぼく』の版元ランゲン・ミュラー社の前身はミュンヘンの二つの異色の出版社であった。そのうちランゲン社は北欧文学の翻訳出版からスタート、諷刺週刊誌「ジンプリチシムス」Simplicissimus の刊行で名をなし、ドイツの文学史・文化史に一時代を画したのだったが、この創業者アルベルト・ランゲン Albert Langen (1869-1909) は奇妙に興味深い人物、確か評伝があったはずと書棚を探すと見つかりました。Ernestine Koch: Albert Langen. Ein Verleger in München. (Langen-Müller 1969)この書に拠ってランゲン社設立とジンプリチシムス創刊の経緯をスケッチしてみよう。アルベルト・ランゲンは製糖所・砂糖菓子製造所を経営する一族に生まれた。ライン河畔の町ケルンで製糖工場に勤めたアルベルトの祖父が、一介の会計係からぐんぐん出世して若くして支配人(業務代理人)となり、その会社に出資し、出資金を増やしてゆき、やがて共同経営者となった。そして自ら会社を設立して経営者となった、まさに立志伝中の人物であった。6人の息子、2人の娘を遺した。 息子たちは製糖工場を引き継ぎ、さらに他の事業に手を広げていった。銀行業、ライン川の運航事業、フォーサイクルエンジン車、植民地事業にも手を伸ばす。まことにグリュンダーツァイトの典型的な産業資本家の物語だ。ただ末の息子は、これも Albert Langen というが、ちょっと変わり者で、化学と言語を学んで実業とともに文化方面にも関心を向けた。早死にしたが2人の息子と2人の娘を遺した。 そのまた末息子がわれらのアルベルト・ランゲンとなる。この資産家三代目のお坊ちゃん、気ままに育って、少年時代はさほど目立ったところはなかったが、商人の修行をするため徒弟奉公に入るも1年で中断、ハンブルク近郊のホルンで商人としての活動を始めるが挫折、ケルンに戻って絵の勉強をするがこれもものにならず。15歳で母が亡くなって、他家の道楽息子たちと群れ遊んでいるだけののらくら者が、産業界の重鎮となっていたオイゲン伯父の愛娘、年上のいとこに求婚し、その非常識な振舞いによって出入り禁止となる。 20歳でパリに出る。かつて万国博覧会を見るため父に連れられてきたことがあったが今度は一人である。世紀末のパリ、芸術家のメッカ。美術、文学の花開くヨーロッパ文化の中心にあって、身なり、押し出し、振舞い、金回りのよさ、アルベルト・ランゲンは本物のスノッブである。蜜に集まる蜂のようにボヘミアンが寄ってきて、取り巻きができる。 彼は金持ちののらくら者だ。パリにはその類でいっぱいだ。連中はブールヴァールをぶらつき、ビストロに座り込み、大言壮語を吐き、夜を昼にする。今日はカフェ・ナポリタンで出会い、明日はシャンゼリゼの《シェ・ローラン 》、夕べはスカンジナビア・クラブ、夜はオペラ、そのあとさらにサラ・ベルナールを楽しむ。ゾラがいる、ベック、サルドゥー、ロダン、ゴーギャン、プレヴォ、スタンラン、シェレ。モーパッサンは社交界で輝いていたし、アナトール・フランスは黙々と仕事をしていたし、エドモン・ド・ゴンクールはかつての輝きを失ってはおらず、ヴェルレーヌ、ジード、ヴァレリーがまさに注目を集めつつあった。マネがようやく認められ、モネ、ルノワール、セザンヌが苦境を切り抜けつつあった。それにスカンジナビアから、またロシア、ポーランド、ドイツからも人々が集まってくる。当時有名であった、また有名になる名前のリストは無限と言ってよい。ランゲンのパリ生活の先導者となった人物が、ドイツとデンマークの国境に位置するフレンスブルク生まれのヴィリー・グレトール Willy Grétor-Petersen (1868-1923) であった。コペンハーゲンで絵の修行をした人物だが、ランゲンの資金を遠慮なく使って、パリの豪華マンションの2フロアを借り切り、高価な美術品に囲まれた生活を送る。そんな中でランゲンは自ら絵を描くことには見切りをつけ、グレトールの紹介で多くの画家、イラストレーター、作家と知り合いになり、絵画の収集に乗り出して美術商を始めようとする。 一方で何と小説にも手を染めるが、これもJ・ジクロジー(*) に言わせると「才能のかけらもない」ものだったので「もし君が世に名を揚げたいと思うなら、ほかの人の作品を出版しなさい!」と忠告したという。折しもランゲンはクヌート・ハムスン Knut Hamsun (1859-1952) と出会う。この、のちにノーベル文学賞を受賞したノルウェー作家はすでに十代から創作を始めていて、アメリカに渡り、シカゴで市電の車掌をしたり農場で働いたりしていたが病を得て一時帰国、また渡米して新聞記事などを書いた。1888年に帰国して書いた小説が "Sult" ドイツ語訳で "Hunger" であった。この『飢え』はフィッシャー書店(**)で独訳が出版されて高い評価を受けたが、売れ行きは良くなかった。それで次の作品『秘儀』は同社で出版を断られた。 『秘儀』は、すでにドイツ語訳もできていた。その原稿を見てランゲンは、これは出版すべき作品だと思った。あちらこちらの出版社をあたって仲介を試みたが引受先は見つからず、それならば自分が出版するしかないと決意するに至った。かくて1894年、パリとケルンを発行地として「書籍・美術出版社アルベルト・ランゲン」»Albert Langen. Buch- und Kunst-Verlag, Paris & Köln« が生まれた。こうしてクヌート・ハムスン『新しい土地』と『秘儀』の2作を出版したが、フィッシャーの予想した通り、売れ行き好調とはいかなかったようだ。 アルベルト・ランゲンはパリで多くの文人と交友があった。新生ランゲン社は北欧、フランス文学のドイツ語訳を中心に出版活動を繰り広げた(***)。そして1897年、ヴァッサーマン Jakob Wassermann の『お母さん、眠っているの?』で《ランゲン小文庫》 «Kleine Bibliothek Langen» を始めた。鉄道の駅構内で売り出したのである。鉄道先進国のイギリスではすでに「鉄道文庫」RAILWAY LIBRARY という廉価本シリーズが出版され、成功を収めていた。鉄道旅行の普及に伴って車中の読書が一般化し、新聞・書籍の駅売りという新しい頒布形態が発生していた。こうした仕事で装丁や挿絵を依頼する中で多くのイラストレーターにも繋がりができた。イラストで目を引く雑誌を出せないか、パリで見るような表紙だけではなく挿絵も多く使って、とランゲンは考えた。 辛辣なカリカチュアで一世を風靡した「ジンプリチシムス」の表紙デザイン、そして雑誌のエンブレムともなった《赤いブルドッグ》をはじめ数多くのイラストを提供したトーマス・テオドール・ハイネ Th. Th. Heine (1867-1948) は、後年この諷刺週刊誌の誕生の瞬間をこう回想している。 私たちが大変重要だと思えたのは、この雑誌にどんなタイトルをつけるかということで、それはまだ中身が全然わからない時だから、なおさら解決の難しい問題だった。《未来》誌の発行人マキシミリアン・ハルデンはジンプリチシムスというタイトルを提案した。私はまったく気に入らなかった、というもの発音しにくいし、響きもよくないからだ。しかしランゲンはそれが甚だ気に入ったので、私は譲歩してそのタイトル文字をデザインしたが、それは今なお使用されているものだ。夜遅くなって帰宅する途中、彼はとある街角に立って新聞売りさながらに声を挙げた。《ジンプリチシムス――ジンプリチシムス!》 通行人は多くはなかったが、驚いて立ち止まった。《どうだい、素晴らしい響きじゃないか! いまにこれがドイツのすべての通りで響き渡るのだ。》 創刊号は十万部刷る、一部10プフェニヒと決まった。政治・社会諷刺が当局に睨まれ、駅売りを禁止されるなど弾圧を受け続けた雑誌だが、最も大きな受難は「パレスティナ」特集号 (Jg. 3, Heft 31) によるものであろう。1898年の皇帝のパレスティナ旅行を揶揄した記事がイラストともども不敬罪に問われて、諷刺詩を書いたフランク・ヴェーデキント Frank Wedekind は7か月の、表紙絵を描いたハイネは6か月の禁錮刑に処せられ、発行者は2年間の禁錮になるだろうと弁護士に聞かされて、ランゲンは国外逃亡し4年半もの間、スイスやパリから出版業務を指示する次第となった。 さて「ジンプリチシムス」なる誌名の由来だが、パリでは »Gil Blas Illustré« という悪漢(****)の名を採った絵入り雑誌が1879年から刊行されていて、これに倣っての命名だろう。こちらはドイツ・バロック時代の『阿呆物語』の邦題で知られるグリンメルスハウゼンの小説 "Der abenteuerliche Simplicissimus Teutsch" (1668) から採ったもの。「ジンプリチシムス」はラテン語の形容詞「単純な」simplex の最上級(男性形)を名詞にした言葉、確かに発音しにくいと思う。これを深夜の街角で高らかに唱えて「素晴らしい響きだ」と誌名に採用するとはすごいセンスではあります。 * Josef Siklosy『自転車乗りの物語』 Radfahrergeschichten (189?) や『鉄道の物語』 Eisenbahngeschichten (1910) を書いた作家。"Simplicissimus" にも記事を寄せている。Das Lesekabinett. (20.06.1896 Jg. 1, Heft 12, Seite 6)[付記] 「ジンプリチシムス」は以下のサイトでその全容を見ることができす。 Simplicissimus 1896 bis 1944 (Online-Edition) 《赤いブルドッグ》は 1896 (jg. 1) , Heft 8 に初めて登場する。 |