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拾遺集、弐拾弐 Aus meinem Papierkorb, Nr. 22


痛風 Gicht
   ーー 1) ホフマンの場合

ドイツの小説や評伝などを読んでいてしばしば Gicht あるいは Podagra(*) という語に出くわす。日本語で「痛風」にあたる病名で、私たちの身近にもこの病気を患っている人がいないわけではないが、聞くのは関節が痛むとかビールを控えているとかの話で、「それはお気の毒に」との挨拶で済ましてしまう。重症になると痛みは激烈で患部が腫れたり変形したりすることもあるようだが、癌や心臓病と異なって生命に関わることは稀なので、あまり深刻な病気とは受け取られてはいないのではあるまいか。

公益財団法人痛風財団の《痛風の歴史》には、「西洋史上の人物で痛風に苦しめられてきた人は多く、マケドニアのアレクサンダ-大王、神聖ロ-マ帝国皇帝のカルロス五世、プロシア国王フリ-ドリヒ大王、フランスのルイ十四世、宗教改革のルター、清教徒革命のクロムウェル、芸術家ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ビンチ、詩人ダンテ、ミルトン、文豪ゲ-テ、スタンダ-ルやモ-パッサン、天才物理学者ニュ-トン、生物学者ダ-ウィンと、全く枚挙に暇がありません」と記されている。

そもそもこの病気は西洋のもので、日本では明治以前にはなかったらしい。同サイトには続けて、「安土桃山時代に日本を訪れたポルトガル人宣教師のルイス・フロイスは日本人には痛風がないと記録し、明治のはじめにもドイツ人医師ベルツが《日本には痛風がいない》と記録しています。 痛風が日本史に忽然と現れるのは明治になってからで、実際に増えたのは戦後、それも1960年代になってから」とある。

西洋では痛風は非常にポピュラーな病で、昔はまともな治療法も治療薬も無くて重症になることが多く、そうとう深刻な疾病だったようだ。ドイツ語の書物あるいはその翻訳を読んでいてしょっちゅう出くわすので、しばらく前から、そういった箇所を見つけるとノートにとってきた。きちんとまとめるところまでは行かないが、あれこれアットランダムに紹介してみる。

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痛風財団のリストでドイツ関連ではフリ-ドリヒ大王、ルター、ゲ-テが挙げられているが、私が親しんでいるドイツ・ロマン派の作家、例えばティークやホフマンもこの患者だったようだ。ホフマン E.T.A.Hoffmann (1776-1822) の場合を見てみようか。彼はもともと健康に恵まれず、心身ともに問題を抱えて生きていた。1806年、フランス軍に占領されたプロイセン王国の官僚は、ナポレオンへの服従を誓うか職を離れるかを迫られ、ホフマンは官を辞して各地を転々とする遍歴時代が始まった。そのころから嘔吐やめまい、神経性熱病などを訴えることが頻繁になっている。ところが、そんな13年から14年にかけて名作童話『黄金宝壺』が書き上げられ、『悪魔の霊液』に着手している。完成した『黄金宝壺』をクンツ宛てに送った折の手紙(ライプチヒ、1814年3月4日)にはこうある。
[前略]ワイマールのバレエ教師ウーリッヒはこの厳寒のなか暖房のない劇場で9時から1時までリハーサルをして私にリューマチの苦しみを呼び寄せた。この苦しみは胸部にこらえ切れない痛苦の試練をもたらし、急いで施した(我が人生で初めての)瀉血と七千と八百と四〇種類の薬剤が、本物の肺炎から、そしてひょっとすると死から、辛うじて救ってくれました ―
[...] der Weimarsche Ballettmeister Uhlig giebt in dieser strengen Kälte im ungeheizten Theater von 9 bis 1 Uhr zogen mir rheumatisch Beschwerden zu, die sich zu meiner Pein und Quaal auf die Brust warfen, so daß ich durch eine schnellen Aderlaß (der erste in meinem Leben) und durch siebentausend achthundert und vierzig andere Mittel nur der wirklichen Brustentzündung und vielleicht dem Tode entging --
--E.T.A.Hoffmann, "Briefwechsel" 1. Band, S.446
祖国プロイセンの敗戦により失職し、ホフマンは生活には困窮するが、役所勤めから自由になり一種の解放感を味わっていた。もともとプロイセンの官僚になった当初から「私は果たして画家になるために、それとも音楽家になるために生まれたのか?」(1803年10月16日の日記)というほどで、職務の合間に作曲や絵画に精出していたのだ。今後は天職と自覚していた芸術に一身を捧げようと、単身ベルリンに赴き、必死に就職運動を始めたが、思わしい口とてなかった。音楽作品も売れず、肖像画家としても注文をとれずで、戦乱の続くなかで「パンと水のみで五日間をしのぐ」ような有様。そんな境遇で作曲を続け音楽批評を発表し、「放浪の芸術家」として生きながら、ようやく1808年9月、南ドイツの小さな町バンベルクに交響楽団の楽長職を見つけることができた。そして各種の音楽批評を書く中から『騎士グルック』や『ドン・ジュアン』などの幻想物語が生まれ、そして畢生の名作『黄金宝壺』が生みだされたのである。

『黄金宝壺』をクンツに送った前後の日記(日付・曜日が少し混乱している)には次のようにある。
(1814年3月2日水曜)午前、うんざりするリハーサル。午後、体調すこぶる悪化。体の節々に激痛 ― 胸の痛み ― ベッドに倒れこむ ― クルーゲ医師の来診
(3日木曜あるいは4日金曜)ベッドで病臥 ― はなはだしい痛み
4日木曜 メールヒェンついに清書完了、クンツ宛て手紙書き終える ― 痛みのさ中にあってもすこぶる上機嫌 ― 将来に対する勇気が湧く ―
『悪魔の霊液』のアイデア

(2. März 1814 Mi] ) V.M. verdrießliche Probe - N.M. sehr krank geworden | Gliederreißen - Brustschmerzen - sich ins Bette gelegt - Doktor Kluge
(Do oder 4 Fr] ) Krank im Bette - große Schmerzen
Do 4 das Mährchen endlich fertig abgeschrieben und den Brief an Kunz fertig gemacht - Recht gute Laune der Schmerzen unerachtet - sich ganz der Zukunft wegen ermuthigt -
Idee zu dem Buch 'Die Elixiere des Teufels'
--E.T.A.Hoffmann, "Tagebücher" S.248
ホフマンの遍歴時代が始まったのは30歳のとき、そのころから始終病に襲われていた。残された日記で、1809年から1814年3月まで追ってみると、以下のように心身の不調を書きつけている。
1807年3~4月 たちの良くない神経熱
1809.1.15 めまいと吐き気
1809.9.13-17 病む
1811.1.10 病気
1812.3.17 烈しいカタル熱
1812.7.5ここ数週の強烈な頭痛が激化した
1813.1.24 猛烈な頭痛にもかかわらずクンツ宅でミーシャと食事
1814.3.2 ひどく惨め。胸痛、四肢の激痛
1814.3.3 強い痛みに臥せる
一方で病苦は芸術家としての彼の幻想を高めてくれるものだった。マーセン版の "Die Elixiere des Teufels"『悪魔の霊液』の編者序文にも引用されているが、改めて『悪魔の霊液』の内容を紹介するため1814年3月24日にライプチヒからクンツに送った手紙にこうある。
病気には痛めつけられました。リューマチは本物の痛風に悪化し、周期的に、特に少しでも天気が変化すると痛みます ― だから私は生きた温度計なのです。医師は絶対に劇場に行ってはいけない、ドレースデンに旅行してはいけないと言うのです[後略]
この小説『悪魔の霊液』は私にとって生の霊液となるはずだった! 痛風患者はたいてい特別な諧謔、――輝かしい気分――、を持っというが、このことが私を慰めてくれた。これは真実だと思えた。というのも激烈な突き刺す痛みの中でグングン con amore 執筆が進んだからです;

Meine Krankheit hat mir hart zugesetzt. Das Rheuma ist in wirkliche Gichtschmerzen ausgeartet, an denen ich periodisch und vorzüglich bey der geringsten Wetterveränderung leide - also ein lebendiger Thermometer. Der Arzt untersagte mir gänzlich das Theater, so wie die Reise nach Dresden [...]
Der Roman: Die Elixiere des Teufels, muß für mich ein Lebenselixir werden! -- Podagristen haben gewöhnlich einen besonderen Humor, -- brillante Laune, -- dies tröstet mich, ich empfinde die Wahrheit, denn oft mit den heftigsten Stichen schreibe ich con amore; (1. Band, S.456)
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さて、ここで気になること、それはホフマンが1814年3月に――折しも戦火をくぐってライプチヒとドレースデンを行き来していたときだ――味わった痛苦を「リューマチ」と言ったり「痛風」と呼んだりしていることである。自分の体調不良を発熱とか、吐き気とか、頭痛とか、めまいと呼ぶのは当人の自然な表現であるとして、「神経熱」「カタル熱」「リューマチ」「痛風」と表現しているのは医師の診断によるのだろうか。「リューマチ」が「痛風」に悪化するとは?

ホフマンが病状について自ら語ったのは、残された日記・書簡をざっと眺めた限り、ポツダムのイッチヒ宛にオペラ『愛と妬み』の五重唱のテキストを送った、1807年の手紙が初めてではないか。
[1807年4月20日]
あなたが旅立ってすぐに体調がまた悪くなって部屋から出られなくなった。ついには病気の素が全身から放出されて、夜には燐光めいた光が身の周りに広がり、それゆえ医師があらゆる薬剤を投与して私の血を清め始め、いまもその治療が続いている。でもって我が金庫はほとんど空になり、旅行なんぞ思いもよらないありさま、当地で資金を調達するのは望み無しなだけに、なおなお蟄居を強いられている・・・

[20. April 1807.]
Bald nachdem Sie abgereiset waren wurde ich wieder kränker und mußte die Stube hüten; am Ende fuhr mit der KrankheitsStoff überall heraus so daß ich Abends eine phosphorischen Glanz um mich verbreitete weshalb der Doktor anfing mit allerley Mitteln mein Blut zu reinigen, womit er noch jezt beschäfftigt ist. Darüber hat sich der Bestand meiner Casse so verringert, daß ich an eine Reise nicht denken kann, und um so mehr sitzen bleiben muß, als ich außer Stande bin hier Geld aufzutreiben unerachtet der ... (1. Band, S.203)
語り口はユーモラスだが、大変な病状ではある。しかしこういった日記や手紙の、本人の記述では病態が正確には把握できない。ベルゲングリューン『E.T.A.ホフマン』(大森五郎訳)によると、この時の「ホフマンはゼコンダと衝突し、リューマチ、痛風、肺炎に苦しんだ」(120ページ)と、「リューマチ」「痛風」を併記している。

中世まで、リューマチと痛風の区別はあいまいだった。ヒポクラテス以来の四体液説でもって、「ロイマ」Rheuma (Fluss 流れ) や 「カタル」Katarrh (Herabfluss 流下) は、脳から冷たい「フレグマ」Phlegma (Schleim 粘液) が身体に下ってきて体液の組成が変化し、様々な疾病を引き起こすと考えられてきた。リューマチという語を全身の筋・骨格の症候として扱ったのは、ルネッサンス期のフランス人医師ギヨーム・ド・バイヨー(Guillaume de Baillou, 1558-1616)が初めてだと言われる。

痛風は古来他の関節炎と分けて語られることはなかったが、トーマス・シデナム (Thomas Sydenham, 1624-1689) がはじめて痛風とリューマチ熱とを区別したとされている。現在では痛風は尿酸の結晶によるもの、リューマチは免疫異常(自己免疫疾患)による疼痛であるとして区別されるが、症状から言えば両者は、関節の痛み腫れという点で類似しており、今でもよく取り違えられるとのこと。急激に痛むのは痛風、痛みがゆっくり強くなってゆくのがリューマチ、痛む関節が一か所なら痛風、多数ならリューマチ、関節が赤く腫れる症状が出れば痛風と、およその判断が付くとされている。

専門的な医学上の診断法は私にはわからないが、専門家が見れば本人の記述で両者が判別できるのだろうか。飲酒と美食が痛風に結びつくとは昔からの通説であり、ホフマンが酒飲みで美食家であったことは有名。ワイン、或いはポンスを好んで飲んだ。1815年以降、大審院判事として官に返り咲いたベルリンの生活では、イタリア料理店でカキやキャビアを当てにラム酒を飲んだり、毎夜の如く酒房《ルッター・ウント・ヴェークナー》で俳優デーフリントと痛飲して長夜の宴をはり、この店がベルリンの夜の名所になったほどだが、それ以前のバンベルク時代にも劇場付属の《薔薇亭》やその中庭で深夜まで酒に沈湎していた。そして飲酒の上での失敗も多かったのだ。

1818年に書かれた書簡の記述を見ると、五月~六月、ホフマンの健康が次第に悪化し、腰に潰瘍ができる。クンツ宛て手紙を見ると、
ベルリン、18年6月10日
[前略]しかしこのためじっと仰臥したまま三週間暮らした ― 姿勢を変えることはできなかった ― 下半身が不随になり ― 最も大切なところも侵されたのに尿意があるのはたまらない ― 仕事のやり過ぎか ― 座り過ぎか ― [後略]
神よ、筆舌に尽くせない痛みの中でも去ることのなかった陽気な精神が失われませんよう ― 瀉血そして血吸蛭でもって、私は処女も失いました。

Berlin den 10 Junius 18
[...] aber seit 3 Wochen liegt er hart darnieder auf dem Rücken - andere Stellung ist nicht möglich - Verhärtung im Unterleibe - edelste Theile angegriffen - Harndrang - überarbeitet - zu viel gesessen - [...]
Gott erhalte mir den heitern Geist der mich bey den unsäglichsten Schmerzen nicht verlassen hat - Rücksichts des Aderlassens und Blutigelansetzens hab ich auch meine Jungfernschaft verlohren. (Band 2, S.168)
痛風の治療法として昔から瀉血が行われていたが、瀉血あるいは蛭に血を吸わせる療法がいまだに行われていたのだ。また、
[1818年12月21日]
絶妙のタイミングでお送りいただいた50ターラーに感謝申し上げます。この一週間近くは大変激しいカタル熱で臥床して、このために仕事が進みませんでした。しかし今週中にも第一巻の結末部分、うまくいけば第二巻の序文までをお届けできるでしょう。

[21.Dezember 1818.]
Herzlichen Dank für die gültigst übersandten 50 rth. - Beinahe acht Tage habe ich an einem sehr heftigen KatharalFieber krank gelegen und nuir dies hat mich an der Arbeit verhindert. Aber noch in dieser Woche erhalten Sie den Schluß des ersten Bandes und wo möglich die Einleitung des zweiten. [...] (Band 2, S.184)
とライマー宛に書いている。第一巻、第二巻とは作品集『ゼラピオン同人集』を指している。翌1819年の2月からまた体調を崩して3月初めに重症化した。その月の終わりには回復したように見えたが病気は確実に進行していた。以下、友人・知人・出版者に宛てた書簡の中で病状に触れた部分を抜粋する。
[1819年4月16日付リヒター宛]
ほとんど6週間というもの神経性の熱で部屋を出ることができませんでした。
[1819年4月25日付シャミッソー宛]
一昨日から、いやすでに木曜日からまた体調が悪くなり、マイヤー(**)から夜遅くの外出は厳禁とされた。それゆえに、敬愛する友よ、きょうはシュルトハイス(***)には行けません。本当に残念です。快適な一夜を失うのですから!
[1819年7月10日エンゲルマン宛]
「依頼された仕事は約束通りやります、もし長引く病気が文学の仕事を中断させていなければもう出来上がっていたのだが」と書いている。
ホフマン夫妻は9月初めまで休暇をとって、1819年7月15日に下シュレージエンのヴァルムブルン市へ出発する。この休暇で健康を取り戻したようにも見えたが、翌年の、バンベルクで親しくしていた医師シュパイアー宛ての手紙には、
[1820年7月15日シュパイアー宛]
昨年の春には風邪で死にかけたし、根を詰めて仕事をし、また冬には宮廷行事でコートもなしに凍てつく宮殿の回廊に半時間も立っていたので、「下半身の硬直、痛風の症状などなど」に苦しめられた、とある。
[1821年11月6日ヴィルマンス宛]
この年の暮れからベットに着くことが多くなり、翌21年にはいよいよ状態が悪くなり、「肝硬変(部屋に閉じこもって運動不足のせい)が私を墓場まの一歩手前まで連れて行きました」 という状態。
[1822年1月18日ヒッチヒ宛]
近頃はずっと在宅しています、「リューマチに苦しめられて、部屋を出ることができないからだ」と書いている。
2月になると、もうほとんどベッドを離れられなくなり、3月には病状が刻一刻と悪化し、多くの医師の治療を受けた。4月15日にはヴィルマンス宛ての手紙を口述で認めたが、その追伸部分に「病気のせいで両足が完全に麻痺しています。しかし精神はまったくフレッシュで活動的、楽々と口述できます」と書いている。事実この年に『蚤の親方』の結末部分から、『従兄の隅窓』『無邪気』そして『敵』の途中まで、口述で完成させたのである。

5月末には、医師たちは範囲の広がる麻痺から回復させる最後の手段として、真っ赤に焼けた鉄片で脊椎の両端を焼く治療を施した(****)。6月24日には麻痺が首まで進行して、もはや痛みさえ感じなくなった。6月26日の早朝、破れた背中の肉から激しく出血しながら、『敵』の口述を続けようとして、やがて息を引き取った。46年の生涯であった。
* Gicht は痛風一般、Podagra は足指の痛風に用いられることが多い。これらの語の語源については後にまた話題にするつもりだ。
** Heinrich Albrecht Meyer はホフマンが「親友」と呼ぶ医師。
*** Johann August Schultheis はワイン商で、ベルリンのモーレン通り19番 (Mohrenstr. 19) でレストランを開いていた。
**** 「死の四週間前くらいだったが、焼けた鉄片で脊椎の両端を焼くことで生命力を再び蘇らせることはできないか、という恐ろしい試みがなされた。」(ヒッチヒ『ホフマンの生涯と遺稿』)
"Etwa vier Wochen vor seinem Tode wurde der entsetzliche Versuch gemacht, ob die Lebenskraft wieder zu erwecken wäre." (Hitzig: Aus Hoffmanns Leben und Nachlaß, Berlin 1823, Stuttgart 1839)

痛風 Gicht
   ーー 2) ティークの場合

今回はもう一人のドイツ・ロマン派詩人ティーク Ludwig Tieck (1773-1853) を取り上げよう。ティークの場合、痛風はイェーナ時代に始まった、というからまだ30歳前である。ベルリン生まれのティークは9歳でギムナジウムの生徒となり、15歳で最上級に進学したころから詩や短篇小説や戯曲を書き始める。ギムナジウムを終えるとハレ、ゲッティンゲンの大学で学び、ギムナジウム以来の親友ヴァッケンローダーと南ドイツを旅して歩いた。1794年、大学生活を終えてベルリンに戻ったティークはラーエル・レーヴィンやヘンリエッテ・ヘルツなどのユダヤ人女性のサロンに迎えられ、新しい知己を得た。

1799年、ティークはイェーナに移った。ゲーテとシラーが君臨するワイマールから20キロのこの古い大学都市には、新しい学問・思想を先導する人々が続々と集まっていた。フィヒテ、シェリングが哲学を講じ、シュレーゲル兄弟やブレンターノ、ノヴァーリス、若き物理学徒リッター、そしてノルウェー生まれで自然科学・医学を学んだシュテッフェンスが移り住み、さらにティークが加わるにおよんで古都イェーナはドイツ・ロマン派のメトロポリスと化したのだ。

下は、ティークのイェーナ時代について以前に書いた文章の一節です。
フランス革命の生んだ鬼子ナポレオンがヨーロッパ制覇の野望をもって進攻を開始し、各地で戦乱が渦巻いていたとき、イェーナの町では若い詩人や哲学者たちが人生と芸術と精神の問題を論じあっていました。この精神の交流がそれぞれの詩人・哲学者にどれほど貴重な体験となったことか、それは測り知れないものがあります。ノヴァーリスはティークに宛てて「君と知り合ってぼくの人生の新しい巻が始まりました。ぼくはいままで君以外の誰によってもこれほど穏やかに、しかし全面的に鼓舞されたことはありません」と書いています。ティークによればイェーナに集まった若者たちの「精神とさまざまな計画、人生と詩と哲学によせるぼくらの希望は、いわば機知と気まぐれと哲学の不断の祝祭」なのでした。
--『ドイツ・ロマン派全集第一巻・ティーク』解説 (国書刊行会 1983)
この《祝祭》の中へ痛風が忍び寄ってきたのである。『ロマン派の王』というタイトルでティークの評伝を書いたギュンツェルは、イェーナ時代は、その初めドイツの若者たちを熱狂させたフランス革命が、ジャコバン主義の台頭から恐怖政治に遷移し、そしてナポレオン戦争に至り、プロイセン全土が騒乱に巻き込まれるに及んで、イェーナの《詩文のジャコバンたち》の士気を挫く混乱の時となったことを指摘し、こう述べている:
この混乱と並んでティークはもう一つ、重い病気を克服しなければならなかった。馬から落ちた事故の結果、痛風に由来する激しい痛みに襲われたのだ。1800年の夏に彼は憔悴し衰弱した姿でイェーナを去った。
Neben diesen Wirrnissen mußte Tieck noch eine schwere Krankheit bestehen. Zu den Folgen eines Sturzes vom Pferde kamen starke Schmerzen, die von der Gicht herühren. Im Sommer des Jahres 1800 verließ er Jena als ein angegriffener, ja ermatteter Mann. (Günzel S.191)
--Klaus Günzel: König der Romantik (1981)
イェーナを離れたティークは友人のブルクスドルフに招かれ《亡命の都会人として》(M・タールマン)1802年から1819年までチービンゲン Ziebingen(*) で過ごした。その間、それまで発表した作品からこれと思うものに手を入れ、数編の新作を加えて、枠物語の『ファンタズス』(1812-16) 3巻に編んで出版した。牧歌的な自然を背景に朗読の夕べが開かれ、幾人かの人物がそれぞれメールヘン、ノヴェレ、ドラマを朗読し、感想を述べたり論じ合ったりする、つまり作品と作品を会話でつないでゆく設定で、これによってティークは自己の文学を眺めなおしたと言える。後に出版された全28巻の『ティーク著作集』Ludwig Tieck's Schriften (1828-46)では、編成を変えてその第4・5巻に『ファンタズス』第1部、第2部として収められた。その際第1部にはシュライアーマッハーに、第2部はW.v.シュレーゲルに宛てた献辞を添えている。シュレーゲルへの献辞にはこうある。
W.v.シュレーゲルへ
1802年以来お会いすることなく今に至っています。しかし思い出と愛情は私の心から消えることはありませんでした。この書を君に捧げます。なぜなら君が曇りない目でもって初めて注目してくれた作品を収録しているからです。君の繊細で多彩な精神が初めてこの作品群に注目し、誤った不当な扱いから守ってくれたのです。やがて私たちは直接知り合いました。イェーナでのあの素晴らしい時間、やがて痛風が初めて私を苦しめることになったのですが、あの時はわが生涯で最も輝かしく最も晴れやかな時期の一つです。

An W.v. Schlegel in Bonn.
Seit dem Jahre 1802 haben wir uns nicht wieder gesehn. Andenken und Liebe sind aber bei mir niemals erloschen. Ich widme Dir dieses Buch, weil es jene Dichtungen enthält, die Du zuerst mit hellem Auge bemerktest. Dein feiner, vielseitig gebildeter Geist macht zuerst auf diese Kompositionen aufmerksam, Du nahmst sie gegen Unbill und Verkehrtheit in Schutz. Bald nachher lernten wir uns persönlich kennen. Jene schöne Zeit in Jena ist, obgleich mich bald die Gicht zum ersten mal dort schmerzhaft heimsuchte, eine der glänzendsten und heitersten Perioden meines Lebens.
--Ludwig Tieck's Schriften. Fünfster Band. Phantasus. Zweiter Theil. Berlin, bei G.Reimer, 1828 (Nachdruck 1966)
献呈の辞に「初めて私を苦しめた」とわざわざ書くくらいだから、ティークの痛風はそのあと友人たちの間で話題になっていたのだろう。イェーナを去る前のティークにノヴァーリスは見舞いの言葉を書いている:
1800年2月23日・・・今なお君が膝の怪我から回復していないのは、本当にお気の毒です。このようなケースで試みられるすべて試してみたのならいいのだが — 温浴、蝋引きタフタの包帯、電気治療、癒瘡木と糖蜜蒸留酒、酸と水銀です。
23. Februar 1800 ... Es tut mir herzlich leid, daß Du noch immer Dein Kniereißen nicht los bist. Hoffentlich hast Du alles gebraucht, was in solchen Fällen versucht wird - als warme Bäder, Bandagen von Wachstaffent, Elektrizität, Guajak und Taffia, Säuren und Merkurialmittel. (Günzel S.203)
ここには当時の様々な治療法が列記されていて、興味深い。それぞれについて私の知る範囲で簡略に解説しておくと、温浴は保健・療治の目的で古くから行われた(「湯屋 Bader」参照)ごく一般的な健康法、近世にはその効用が医学的に研究されるようになってきた。患部に布を巻いて発汗を促す療法にはフランネルが多く用いられたが、気密性に優れた蝋引きタフタは更に効果的とされた。電気治療はガルヴァーニやボルタの研究でいわゆる「動物電気」が筋肉や神経システムに及ぼす影響とその治療への応用が話題になっていた。癒瘡木(ユソウボク)は西インド諸島や中南米に自生する常緑樹、その樹脂が梅毒や多くの病気に効く(**)とされていた。糖蜜蒸留酒はラム酒やアラック酒、これに癒瘡木樹脂を溶かして飲用したようで、痛風の治療によく用いられた。酸と水銀(***)はかつては殺菌、消毒薬として用いられた。

ノヴァーリス(フリードリヒ・フォン・ハルデンベルク )は詩人であると同時に、大学で法学を修めた後フライベルクの鉱山学校で鉱山学・数学・化学を学んだ鉱山技師でもあって、自然科学全般について広い知識の持ち主であった。「自然とはなにか。われわれの精神の百科辞典的、体系的な索引、または見取図である」と語るように、彼の思索は芸術・自然科学を含む包括的なエンサイクロペディアを目指すものであった。ノヴァーリスのみならずイェーナの若い詩人や哲学者たちは誰もかれも、新しい自然科学の動向に無関心ではなかった。なかに当時の関心の中心、動物電気研究の第一人者リッターもいたのだ。

ここでもう一度、以前に書いた文章を使わせていただく。
イェーナではこういう光景もあった。「しばらくの間、蛙狩りが広まった。リッターが検電器として蛙の脚を必要としたからだった。そういうことには皆強い関心を持っていた。自然科学は当時、多くの重要な発見がまったく新しいものの見方への眺望を開いたので、ほとんどすべての教養人の嗜みだった」(リカルダ・フーフ)。十八世紀末にイタリアからもたらされた「動物電気」発見の報は世紀転換期のヨーロッパに大反響を呼び起こしていた。なぜなら、これこそ従来別々に進んできた自然現象の力学的解明と、化学・生理学分野の諸発見を結び付ける発見だと思われたからだ。多くの自然科学者、またニュートン以来の機械論的世界観に満足できない、新しい世界像を探求する人々の関心を引くことになった。シュレージエンの田舎町から一七九六年、イェーナにやってきた物理学徒J・W・リッターは、まだ学生でありながら当時の物理学の中心問題であったガルヴァーニ電気研究の第一人者となっていた。
当時はまだ、科学実験に巨大な装置は必要ではなかったので、誰でも最先端の実験を行うことができた。シュテフェンスはあるとき自宅からの仕送りのターラー銀貨を使ってヴォルタ電池を作ったが、その日は終日、実験を見せてほしいという訪問者が絶えなかった。それにしても、日曜日の午後などシュレーゲル兄弟やカロリーネ、ドロテーア、シェリング、シュテフェンスなどが連れだって、町はずれの小川や池などで蛙を捕らえている姿を想像するとなんともほほえましいではないか。

--『ドイツ・ロマン派全集第一九巻・詩人たちの回廊』解説 (国書刊行会 1991)
この時期の病状について、また最初の発病について、ティークの伝記作家ルードルフ・ケプケ(****)は事の次第をもう少し詳しく書いている。
まだ妹の病が癒えないうちに、彼自身が生命の危ぶまれる病にかかった。イェーナ以来苦しめられていた痛風が、今までにない激しさで現れたのだ。おそらく、以前すでに外的な誘因がこの病を進行させていたのだった。狩猟愛好家でもないのに、かつて一度カモ猟に参加したことがあった。びしょびしょに濡れた衣服のまま風にさらされた。身に着けたまま衣服は乾いた。いまや極めて多様な形で病が現れた。ときに激しい四肢の痛みとして、ときに痛みは体内に及んだ。
Noch war Tieck's Schwester nicht hergestellt, als er selbst lebensgefährlich erkrankte. Die Gicht, die ihn seit Jena heimsuchte, trat mit nicht gekannter Heftigkeit auf. Wahrscheinlich hatte schon früher eine äußere Veranlassung die Krankheit vollständig entwickelt. Ohne ein Jagdliebhaber zu sein, hatte er einmal an einer Entenjagd Theil genommen. Mit durchnäßten Kleidern mußte er sich dem Zugwinde aussetzen; auf dem Leibe waren sie ihm getrocknet. In den verschiedensten Gestalten erschien jetzt die Krankheit, bald als reißender Gliederschmerz, bald warf sie sich auf die innern Theile. (Köpke, Erstes Buch S.313f.)
ケプケは治療についても面白い報告をしている。ティークはその当時はやりのブラウニズムによる治療を受けたというのだ。しかし治療に当たった医師の療法は「それまでの、経験に頼るだけの食餌療法、施薬、沐浴や刺絡を行う杜撰な医療に対して、整然と首尾一貫した理論であった」(「ブラウン主義 Brownismus」参照)とされるブラウニズムとは、とても結びつかないが。
彼の医師はブラウン主義者で、強力な薬品を処方した。患者がどうにも治まらないのどの渇きで苦しんでいても、どんな飲み物もきびしく禁ずるのであった。いくら声高に訴えても、忍耐が大切だ、もうすぐ良くなるからと、言うだけ。水の一滴でも欲しくて欲しくて、冷たい飲み物、レモンやオレンジが目に浮かび夢見るのだった。ついには事態を自らの手で解決しようと決心した。ある朝、コップ一杯の水を持ってこさせ、レモネードを作った。激しい渇きに駆られて二、三口ですっかり全部飲み干した。こうした飲みっぷりは影響なしでは済まなかった; 体が楽になり症状は治まってきたのだ。医者が姿を見せ、彼の容態を見た時、勝ち誇った様子で、自分の治療法の効果が出たと告げた。病人にはあまりのことだった。内心の憤怒を抑えきれず、こうして快癒したこと、先生の治療法ではなく、レモネードに感謝する、とその次第を語った。医師は大いに驚いて、それだけの水を飲んだら死に至ったはずだ、という。それに対して、ティークはこんなことがあったからには今後は安んじて先生のご指示には従いませんから、とやんわり告げた。
Sein Arzt war ein Brownianer, und behandelte ihn mit den stärksten Mitteln. Während den Kranken ein unauslöschlicher Durst quälte, war ihm jedes Getränk auf das strengste untersagt. Seinen lauten Klagen setzte der Arzt die Forderung der Geduld und die Vertröstung auf einen baldigen bessern Erfolg entgegen. Aber er lechzte nach einem Tropfen Wasser, er sah und träumte sich's als kühlende Getränke, Citronen und Orangen. Endlich beschloß er, der Sache auf eigene Hand ein Ende zu machen. Eines Morgens ließ er sich ein großes Glas frischen Wassers bringen, eine Limonade mußte bereitet werden. Mit unersättlicher Gier trank er in wenigen Zügen die ganze Masse aus. Ein solcher Trank konnte nicht ohne Wirkung bleiben; er fing an sich leichter, ruhiger zu fühlen. Als der Arzt erschien und seinen Zustand sah, verkündete er mit triumphirender Miene, das sei der verheißene Erfolg seines Systems. Das war dem Kranken zu viel. Nicht ohne Ingrimm erzählte er, nicht seinem Systeme, sondern der Limonade verdanke er die Erleichterung. Voll Verwunderung meinte der Arzt jetzt, in Folge der Menge genossenen Wassers hätte er eigentlich den Tod haben müssen, worauf ihm Tieck andeutete, daß er nach solchen Erfahrungen auf seinen fernern Rath mit Vergnügen verzichte. (Köpke, Erstes Buch S.314f.)
ティーク研究の第一人者、マリアンネ・タールマンは著書『ルートヴィヒ・ティーク』で詩人の生涯の病気に触れている。
その病がある意味で彼を着座の巨人にした。それからは遍歴する人間ではなくなり、カオスにより作られたもののまたカオスを振り返る表情をした用心深い旅行者で、生の記録者にすぎなくなった。
危険な落馬と戸外の軽率なキャンプが最初のリューマチの発作を招来した。そして1800年の夏に彼は憔悴した姿でイェーナを去った。

Die Krankheit hat ihn gewissermaßen zum Sitzriesen gemacht. Er ist kein Wanderer mehr, nur noch ein behutsam Reisender und Chronist des Lebens, mit einem vom Chaos gestalteten, aber auch wieder ins Chaos zurückblinkenden Gesicht. (S.27)
Nach einem gefährlichen Sturz vom Pferd und sorglosem Kampieren im Freien hatte sich der erste rheumatisceh Anfall eingestellt, und er hat Jena im Sommer 1800 als erschöpfter Mann verlassen. (S.28)
タールマンはティークの病を「リューマチ」と表現しているが、これには先達がいる。1937年にフランス語で書かれたロベール・マンデ(ローベルト・ミンダー)『ドイツのロマン派』である。本人のドイツ語訳で見てみよう。
30歳の年にすでにティークは重い周期的な関節リューマチの痛みによって室内に、肘掛椅子に縛り付けられた。旅行はごくまれにしかできず、出かけるところと言えばおおむね劇場か、図書館であった。
Schon mit 30 Jahren aber wird Tieck durch eine schweren chronischen Gelenkrheumatismus an Zimmer und Lehnstuhl gefesselt; reisen kann er nur noch äußerst selten; seine Besuche gelten dann vorwiegend Theater und Bibliotheken. (S.267)
--Robert Minder: Ludwig Tieck, ein Porträt [Wege der Forschung "Ludwig Tieck"]
タールマンも、やはり食物と痛風が結びつくと考えるのか、ティークがなかなかの美食家だったことを指摘している。彼がイタリア旅行に出かけた時も、
私たちはその時の書簡から銀の食器が、ラヴェンダー水が、アスパラ料理、カキが、あるいはグラス一杯のワインが彼にとってどんなに大事だったか、知っている。
Wir wissen aus Briefen, wie viel ein silbernes Besteck, eine Flasche Eau de Lavande, ein Spargelgericht, Austern oder ein Glas Wein bedeuten konnten. (S.29)
メルツの『痛風の歴史』Dieter Paul Mertz: Geschichte der Gicht. (1990) によると、ティークは1818年にはこう書いているとのこと。「痛風はたいそう私を苦しめる。右手にも上ってきて、ものを書くのに大変な妨げになっている。」

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1819年、チービンゲンを後にしてドレースデンに移った。ティークは再び都会の人となり、創作その他多彩な活動が再開される。宮廷劇場の演劇顧問として活躍するかたわら、シュレーゲル兄の着手したシェイクスピアのドイツ語訳という大事業を推進した。二十数年に及ぶドレースデン時代で何より特筆すべきは名高い《朗読の夕べ》で、詩人の客間にヨーロッパ各地から数多くの人々を引き寄せたことだが、その様子を描いたスケッチがある。椅子に腰かけた様子はまさしく痛風患者、マリアンネ・タールマンの言う《着座の巨人》の姿だ。


Bleistiftzeichnung von Ludwig Pietsch
(aus: Klaus Günzel: König der Romantik)


ティークは1842年ベルリンに戻った。1840年に即位した《玉座のロマン主義者》プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の熱心な招聘を受けたのだった。サン・スーシー宮に建造された新劇場の演出というのが王の命じた仕事であった。1843年には、国王の誕生日を祝ってシェイクスピア『真夏の夜の夢』をメンデルスゾーンの付随音楽を得て舞台に乗せた。この上演をヴィルヘルム・グリムも観ていて、その模様を友人に書き送っているが、書信の一節に「宮廷の一行が入場する前にティークが入ってきた。彼も半円形の宮廷の区画に席を与えられていた。その後ろに他の観客用の席が、やはり古代の円形劇場風に盛り上げて設置されていた。ティークはすっかり前屈みで歩き、数段のステップを登るのも苦労していた。数名の士官が腕を取って、そして文字通り押し挙げなければ、席に辿りつくことも難しかっただろう」(夢幻境へ ins Traumland 参照)とある。

ベルリンでは自作の『長靴をはいた猫』や『青ひげ』を上演するなど、ティークは病に苦しみながらも、栄光に包まれた晩年を送った。タールマンはこう語る。
彼がもはや痛風、勲章、宮廷顧問官の年月から逃れられない時、60歳の誕生日がきて、老齢の枢密顧問官たち、またベルリンの若い著作家たちに祝福された。祝詞とシャンパンと、それに《こだわりソースの》子牛のフリカンドー、そしてバウムクーヘンの振舞いを受けて、とカール・フォン・ホルタイが報告している。
Die Zeit ist gekommen, in der er der Gicht, den Orden und den Hofratsjahren nicht mehr entgehen kann, wo sein 60. Geburtstag von alten Geheimräten und jungen Schriftstellern in Berlin gefeiert wird - mit Reden, Champagner, Frikandeau von Kalbfleisch «mit einer spitzfündigen Sauce» und Baumkuchen, wie Karl von Holtei berichtet. (S.34)
--Marianne Thalmann: Ludwig Tieck. Der romantische Weltmann aus Berlin (1955)
アレクサンダー・フォン・シュテルンベルク(*****)という歴史小説や諷刺を効かせたメールヘンを書き、素描にも非凡な才を発揮した作家がいる。ドレースデンでティークとも知り合っていた。『茶色のメールヘン』の序文で次のような言い回しをしている。「メールヘンは並外れてしなやかな文学形式だ。子供の素朴な感覚を呼び覚ますのに役立つが、また文明の産物を巧みに溶解させるにも役立てることができる」

1836年に執筆され46年に出版された『トゥトゥ』は地上に派遣された天使が人間社会の新しい発明や上流社会をたっぷり風刺を効かせて戯画化するものだが、彼の素描家としての才能が世に知られた作品でもある。この書に収められた数多くのカリカチュアには、その見事な出来栄えに感嘆させられるが、この挿絵は『トゥトゥ』第8章にあるもの。宮中でティークの姿を目にした天使トゥトゥの感想はこうである:
お辞儀をしつつ親しみある微笑みを窺い見ながらそこに立っているこの男を目にして、美と偉大さで燃え上がる魂がほとばしる、そんな燃え滾る炎を探したが何もなく、そこには長い生涯を自分のためにだけ尽くした、自分もその一員である民衆には一言もなく目もくれず、自分が愛情と賛美に包まれて現れる姿が見えただけだった。
Er hatte in dem Auge dieses Mannes, den er, gebückt und auf ein gütiges Lächeln lauschend, dastehen sah, nach jenem Feuer gesucht, das eine durch die Größe und Schönheit entzündete Seele ausströmt, und er hatte nichts gefunden als die Selbstgenügsamkeit eines Mannes, der während eines langen Lebens sich selbst gedient und kein Wort, keinen Blick für das Volk gehabt, dem er angehörte, und das seine Erscheinung mit Liebe und Bewunderung hatte auftauchen sehen.
--Alexander von Ungern-Sternberg: Tutu. Phantastische Episoden und poetische Excursionen (Leipzig 1846)
これは栄光に包まれたロマン派の詩人を、痛風病みの恭謙な廷臣の姿に《溶解》させたのだろうが、いささか厳しすぎる処遇ではあろう。ロマン派詩人はヴァッケンローダー、ノヴァーリス、クライストのように夭折しないと高い評価を維持するのが難しいと言うべきか。ううむ。
* 現ポーランド領 Cybinka である。1751年にチービンゲンの宮殿はブルクスドルフ家の所有となった。ブルクスドルフ Wilhelm von Burgsdorff (1772-1822) はギムナジウム以来のティークの友人。その父が1767年にフィンケンシュタイン伯爵家の娘と結婚したという縁もあり、1802年にチービンゲンの宮殿は伯爵家が購入した。当主 Graf Friedrich Ludwig Karl Finck von Finkenstein (1745-1818) は学問・芸術愛好家でW・v・フンボルト夫妻、アヒム・フォン・アルニム、クレメンス・ブレンターノ、フィリップ・オットー・ルンゲ、カール・ゾルガー、シュライアーマッハーなど多くの学者、文人、画家 がここを訪れ、ブルクスドルフが招いたティークが家族とともに滞在することを喜んで迎え入れた。
** パラケルススは癒瘡木が梅毒に効果がないことを示し、これの輸入により莫大な富を得ていたフッガー家と敵対した。(ウィキペディア「パラケルスス」の項)
*** 塩化水銀のことか。これには塩化水銀(I)と塩化水銀(II) があり、前者は「甘汞」「カロメル」ともいい、下剤・利尿剤として、後者は「昇汞」とよばれ、消毒液、防腐剤として用いられた。なお金属化合物を医薬品に用いたのはパラケルススからと言われる。
**** ケプケ Rudolf Anastasius Köpke (1813-1870) はベルリン大学で哲学・歴史学を修め、1838年から42年までヨハヒムスターラー・ギムナジウムの教師、1856年からベルリン大学の員外教授。晩年のティークに親しく接して、詩人の口から直接に貴重な文学観、伝記的事実を引き出した。ティークにとってケプケはゲーテにとってエッカーマンに当たると言えよう。
***** Alexander von Ungern-Sternberg (1806 -1868) はドイツ、ハンガリー、スウェーデン、ロシアの血を引く貴族。"Braune Märchen" (Bremen 1850) も "Tutu" も Projekt Gutenberg で電子化されたテキストと挿絵が提供されている。

痛風 Gicht
   ーー 3) 「痛風」の語源

これまで目にした痛風に関する文献で最も興味深く、教えられるところの多かったのは、100ページほどの分量ながら、手際よく明快に、私のような文系人間にも理解しやすいアプローチによって叙述されているメルツ『痛風の歴史/文化史・医学史の観点』である。
Mertz, Dieter Paul: Geschichte der Gicht. Kultur- und medizinhistorische Betrachtungen. (Stuttgart / New York 1990)
この書は序文に、「痛風はその特徴的な病状によって」早い時代から注目され、「最も古くから知られた疾病の一つ」でこれに対する観方が「時代精神と時代の状況によってごく最近まで変化してきた」ので、変化を辿ればそれぞれの時代の医学一般の考えかたが反映されていて、ここには他の如何なる疾病よりも医学の「進歩と同時にまた錯誤と混乱」が伺える、とあり、副題に示されるように「文化史・医学史の観点」から痛風の歴史を解き明かそうとする研究書である。

以下、おおむね本書に基づいて痛風の歴史を見てゆく。冒頭の章で「語 Gicht の定義と語源」が解説されている。
12世紀頃に民間療法の中で現れた Gicht の概念が何なのかについては諸説紛々である。例えばエープシュタイン (1882) は Gicht の概念を体の痛みを意味する古アングロサクソン語 »ghida« に求めている。しかしながらローマ諸国とアングロサクソン諸国の Arthritis urica に対する名称はラテン語の »gutta« (= 滴) に由来するとしている:goutte (フランス語) , gotta (イタリア語) , gute (アルバニア語) , guta (スロヴェニア語) , gota (スペイン/ポルトガル語) , gout (英語) である。
Über den Ursprung des Begriffes Gicht, der etwa im 12. Jahrhundert in der Volksmedizin entstand, gehen die Meinungen auseinander. Beispielweise führte Ebstein (1882) den Gichtbegriff auf das altangelsächsische »ghida« zurück, das Körperschmerz bedeutet. In den romanischen und angelsächsischen Ländern läßt sich jedoch die Bezeichnung für Arthritis urica vom lateinische Wort »gutta« (= Tropfen) ableiten: goutte (franz.) , gotta (ital.) , gute (alban.) , guta (sloven.) , gota (span., portug.) , gout (engl.) .
引用文中 Arthritis urica は痛風のラテン語名。Urikopathie と表記されることもある。続けて見てゆこう。
ここにはこの病についての体液病理説の解釈が反映している。それは体内を流れる主たる四体液 ― 血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁 ― のいずれか一つが骨や関節で孤立分離してその分離個所に痛みを呼び起こすのだ、とする解釈である。
Damit spiegelt sich die humoral-pathologische Auffassung über diese Krankheit wider, wonach einer der im Körper kreischenden vier Kardinalsäfte - Blut, Schleim, gelbe oder schwarze Galle - in einen Knochen oder in die Gelenke abgesondert wird und an der Stelle der Absonderung Schmerz vervorruft.
中世まで、Gicht と Podagra はほぼ区別なく使用されていたようだ。ドイツ語 »Gicht« はロマン語系やアングロサクソン系とは別の語源で、かつては »Gegicht« とも表記され、 »jehen« (sagen) に由来する。えっと驚きました、jehen は gehen(歩く、行く)ではなくて、sagen(言う、話す)なのか … 今更ながら古いドイツ語に関する知識の欠如を思い知らされて長嘆息。
古高ドイツ語では »das gichte« とか »gegihte« と言い、中高ドイツ語では »giht« と言った。低ライン地域では »gichte« は男性形で (gihda) と、女性形で (gehdu, gihdu) と言ったが、それは身体の痛みを指すのか、重苦しさ・苦悩・心痛を指すのかで使い分けられた。だから低地ドイツ語では魔力で引き起こされたという意味に »gichten« と言った。痛風はうっかり唱えて呼び出される病気の一つと見られていた。
古デンマーク語と古スウェーデン語の形態 »ikt« から後に »gigt« ないし »gikt« が発生した。
ドイツ語圏とスカンジナビア圏で »Gicht« は申し立てる、告白する、呪文をとなえる、魔法をかける、の意味だった。

Althochdeutsch sprach man von »das gichte« oder »gegihte«, mittelhochdeutsch von »giht«. Im Niederrheingebiet erschien »gichte« mit männlichem (gihda) oder weiblichem Geschlecht (gehdu, gihdu), abhängig davon, ob der Bezeichnung von körperlichem Schmerz oder von Gedrücktheit, Kummer, Seelenschmerz beigemessen wurde. So sprach man niederdeutsch von »gichten«, was soviel bedeutete, wie durch Zauber eingeben. Gicht wurde als eine durch Beschreien angezauberte Krankheit angesehen.
Aus den ältdänischen und altschwedischen Formen »ikt« entwickelten sich später »gigt« bzw. »gikt«.
Im deutschsprachigen und skandinavischen Raum bedeutete »Gicht« etwa aussagen, bekennen, besprechen, anzaubern.
そしてホメオパティー「同種療法」の、すなわち「類似したものは類似したものを治す」 »similia similibus curantur« とする、ドイツの医師ハーネマン創始による療法(「ホメオパティー Homöopathie」また「義務としての健康」参照)の影響があって、»Vergicht« は »verjehen« (besprechen) によって、すなわち呪文を唱えて治るはずと考えられた。今から見ればこじつけとしか思えませんが …

Podagra はギリシャ語 πους αγρα = Fußschlinge(*) に由来するが、昔は Gicht と同じ意味であった。中世末期には Zipperlein という言い回しも行われた。メルツはパラケルスス Paracelsus, Theophrastus von Hohenheim (1493/94-1451) がこの語を用いたことを指摘している。古代・中世には Rheuma と Katarrh (καταρρειν = herabfließen) はかわるがわるこの病に用いられた。
[付記]
Zipperlein は Duden 辞書によると、後期中高ドイツ語 (spätmittelhochdeutsch) で zipperlīn 、中高ドイツ語 (mittelhochdeutsch) で zipfen と言い、これは trippeln すなわち「ひょこひょこ歩く」という意味で、もとはこの病者の歩き方をからかう言い回しだった。
この章の最後にルター Martin Luther (1483-1546) の聖書訳について触れている。
たいていの痛風患者が昔は心臓麻痺か脳卒中で死亡したという経験から、聖書にしばしば現れる παραλυτικος という語をルターが、本人も痛風患者であったが、»gichtbrüchig«《痛風で脆い》をその決定訳としたのは了解できよう。この語は本来は《発作で萎えた》というほどの意味で、すなわち、卒中のような、とか、卒中性の、という意味なのだ。
Die Erfahrung, daß die meisten Gichtkranken früher an Herz- oder Gehirnschlag gestorben sind, dürfte für die Übersetzung des in der Bibel häufig vorkommenden Wortes παραλυτικος durch Luther, der selbst gicht krank war, mit »gichtbrüchig« ausschlaggebend gewesen sein. Ursprünglich bedeutet dieses Wort nämlich so viel wie »vom Schlag gelähmt«, also schlagflüssig oder apoplektisch.
痛風財団の《痛風の歴史》の「西洋史上の人物」リストにも「宗教改革のルター」の名が挙げられているように、ルターが痛風病みだったことは有名だ。それが聖書翻訳に痕跡を残していた …

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ルター訳の聖書に当たってみると、確かに »gichtbrüchig« という語が頻出する。同じ個所は日本聖書協会発行の『聖書』ではすべて《中風》と訳されている。いくつか例を拾ってみよう。
(Matth.4,24) Und sein Gerücht erscholl in das ganze Syrienland. Und sie brachten zu ihm allerlei Kranke, mit mancherei Seuchen und Qual behaftet, die Besessenen, die Mondsüchtigen und die Gichtbrüchtigen; Und er machte sie alle gesund.
[マタイ4・24]そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。

(Matth.8.6) und sprach: HERR, mein Knecht liegt zu Hause und ist gichtbrüchig und hat große Qual.
[マタイ8・6]主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ております。

(Matth.9.2) Und siehe, da brachten sie zu ihm einen Gichtbrüchigen, der lag auf einem Bette.
[マタイ9・2]すると、人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。

(Luk.5,18) Und, siehe, etliche Männer brachten einen Menschen auf seinem Bette, der war gichtbrüchig; und sie suchten, wie sie ihn hineinbrächten und vor ihn legten.
[ルカ5・18]その時、ある人々が、ひとりの中風をわずらっている人を床にのせたまま連れてきて、家の中に運び入れ、イエスの前に置こうとした。

(Apg.8,7) Denn die unsaubern Geister fuhren aus vielen Besessenen mit großem Geschrei; auch Gichtbrüchige und Lahme wurden gesund gemacht.
[使徒行伝8・7]汚れた霊につかれた多くの人々からは、その霊が大声でわめきながら出て行くし、また、多くの中風をわずらっている者や、足のきかない者がいやされたからである。

(Apg.9,33) Daselbst fand er einen Mann mit Namen Äneas, acht Jahre lang auf dem Bette gelegen, der war gichtbrüchig.
[使徒行伝9・33]そして、そこで、八年間も床についているアイネヤという人に会った。この人は中風であった。
英語版聖書でも「痛風」を指す gout ではなく、palsy, palsied と訳されているようだ。研究社英和中辞典で pal・sy は「━《名》[U] まひ, 中風:cerebral ~ 脳性(小児)まひ.paralysis と同語源」とあり、新英和辞典では「手足のしびれ、(局部の軽い)中風、(軽症の)麻痺(状態)」とある。1517年に《95箇条の論題》を提起して宗教改革という戦闘に打って出た青年ルターも、中年以降さまざまな病に冒されていたようだが、「しびれ、麻痺」をすべて Gicht にするとは、マルティン・ルターさん、よほど「痛風」に苦しめられていたのですか、と同情したくなります。
[付記]
ドイツ語聖書も近年では »gichtbrüchig« という語は使われていない。[マタイによる福音書]第4章24節を比べてみると、1855年に出版された「エルバーフェルト版」 Elberfelder Bibel では、
[Unrevidierte Elberfelder Übersetzung 1932]
4,24 Und sein Ruf ging aus in das ganze Syrien; und sie brachten zu ihm alle Leidenden, die mit unterschiedlichsten Krankheiten und Qualen behaftet waren, und Besessene und Mondsüchtige und Gelähmte; und er heilte sie.
[Revidierte Elberfelder Übersetzung 1985]
4,24 Und sein Ruf ging aus in das ganze Syrien; und sie brachten zu ihm alle Leidenden, die mit mancherlei Krankheiten und Qualen behaftet waren, und Besessene und Mondsüchtige und Gelähmte; und er heilte sie.
また1926年出版の「メンゲ版」 Menge-Bibel では、
4,24 und der Ruf von ihm verbreitete sich durch ganz Syrien, und man brachte alle, die an den verschiedenartigsten Krankheiten litten und mit schmerzhaften Übeln behaftet waren, Besessene, Fallsüchtige und Gelähmte, und er heilte sie.
いずれも "gelähmt, Gelähmte" 「麻痺した、不随の者」と訳されている。
《中風》という言葉、最近はあまり耳にしなくなったが、大辞林によると「脳出血・脳梗塞により、運動機能障害ことに痙性けいせい片麻痺や言語機能障害をきたした状態。中気。風疾。」とあり、広辞苑では「半身の不随、腕または脚の麻痺する病気。脳または脊髄の出血・軟化・炎症などの器質的変化によって起るが、一般には脳出血後に残る麻痺状態。古くは風気に傷つけられたものの意で、風邪の一症。中気。風疾。」とある。確かにこちらの方が παραλυτικος の訳語として適しているかな。というか明治以降聖書が翻訳されたころ、わが国ではまだ《痛風》が一般的ではなかったから《中風》に落ち着いたのかも知れない。

日本語の《痛風》はどうやら中国からの輸入語のようだが、ここにも込み入った問題がありそうな気配がする。医学専門書や医学事典、さらには漢語辞典、国語辞典に分け入ることを強いられそうなので、日本語《痛風》の語源には立ち入らないことにします。
* Fußschlinge とは、ひもを結んで(編んで)作った足用装具で、現在では美容・健康のために用いたり、あるいはロープを使って登山や洞窟の竪穴を探検する際に足に取り付けたりするものを言う。痛風の足の、締め付けられるような症状からこう名付けたのか、詳細は不明。

痛風 Gicht
   ーー 4) 古典古代と痛風

前回に続いて『痛風の歴史/文化史・医学史の観点』から。
Mertz, Dieter Paul: Geschichte der Gicht. Kultur- und medizinhistorische Betrachtungen. (Stuttgart / New York 1990)
語源を扱った章に続いて「有史以前と古典古代の思想界」Prähistorie und antike Gedankenwelt がある。「有史以前」とあるように、太古の人類に、それどころか古くは中世代恐竜からすでに痛風の痕跡が見つかったという、ちょっと驚く話題から始まる。
リューマチ系疾病の歴史、殊に痛風の歴史は人類の歴史それ自体と同じほどに古い。信頼に足る古生物学の文献によると炎症性ないしは変形性(*)を思わせる関節の病は遥か遠い昔からあった。中世代恐竜の骨格出土品には、20~30メーターある脊柱に脊椎症の変形を見せているものがある。これは明らかに氷河時代の生存条件の変化とそれと結びつく一つの家畜化の結果として、炎症性そして伝染性の骨及び関節の疾病が次第に増えてきたのだ。
Die Geschichte der Rheumaerkrankungen und speziell der Gicht ist so alt wie die Menschheitsgeschichte selbst. Nach zuverlässigen paläontologischen Quellenangaben gibt es Erkrankungen der Gelenke im Sinne einer Arthritis bzw. Arthrose seit undenklichen Zeiten. So weisen Skelettfunde von Dinosauriern aus dem Mesozoikum spondylotische Veränderungen an ihrer 20 bis 30 m langen Wirbelsäule auf. Offenbar entwikelten sich infolge biologisch veränderter Lebensbedingungen durch die Eiszeit und einer damit verbundenen Domestikation zunehmend entzündliche und infektiöse Knochen- und Gelenkerkrankungen.
著者メルツは指摘する。有史以前の原始的な民間医術といえば魔術や迷信ばかりと考えがちだが、実際的、経験的な治療法という面もしっかり刻印されていると。なぜなら、悪霊、腐敗した体液、その他有害な物質が身体に異質な要素として発病を引き起こしていると見て、《異物》を取り除くことを治療の第一歩としたのは、それなりに理にかなっているからだ。

さて古典古代の時代になって「リューマチ」Rheumatismus という名称が生まれたが、それは恐らくはガレノス Galenus (129-199) に遡るであろうと言う。
ガレノスはすでに炎症性の関節病に及ぼす気候による影響を知っていただけではなく、天候の変化と四肢に走る痛みとの関連、さらには慢性の関節炎(Morbus arthriticus)と痛風 Podagra との違いを知っていた。古典古代の時代には痛風はすでに当時妥当とされていた体液説の解釈に組み入れられた。
Er (= Galenus) kannte bereits den klimatischen Einfluß auf entzündliche Gelenkerkrankungen, aber auch den Zusammenhang zwischen Wetterwechsel und ziehenden Gliederschmerzen, ferner den Unterschied zwischen einer chronischen Gelenkentzündung (Morbus arthriticus) und der Gicht. Schon im klassischen Altertum wurde die Gicht in die damals gültige humoral-pathologische Auffassung einbezogen.
関節の病の中で初めて「痛風」を区別して記述したのは、さらに遡って「医学の父」ヒポクラテス Hippokrates (460 BC-377 BC) である。
ヒポクラテスは、最初から多くの関節に発症する慢性的な炎症と、際立って足親指の付け根に出ることの多い――痛風のような――炎症とを区別することをすでに知っていた。「関節の病気」»Arthritis nousos« の病状についてはヒポクラテスの著書には「関節病 Arthritis にあっては熱が続き、刺すような痛みが――時に激しく時にそれほど強くなく――身体の関節を襲い、時にはこの関節を時に別の関節をと攻め立てる」と記述されている。
Er (= Hippokrates) wußte bereits zwischen chronischen Entzündungen, die von Anfang an mehrere Gelenke betreffen, und solchen mit primärer Bevorzugung des Großzehengrundgelenkes -- wie bei Gicht -- zu unterscheiden. So wird in den hippokratischen Schriften das Krankenbild der »Arthritis nousos« folgendermaßen beschrieben: »Bei der Arthritis dauert das Fieber an, ein stechender Schmerz ergreift die Gelenke des Körpers, und die Schmerzen -- bald heftiger, bald weniger stark -- befallen bald das eine Gelenk, bald das andere.«
また一方で αβατοςπονος という病、すなわち「歩行できない病」という病気が知られていた。ヒポクラテスと同時代人であるシラクサのヒエロン Hieron von Syrakus は、痛風患者にしばしば現れる膀胱結石と結びつけて記述しているところから見て、おそらくこの特別な関節病を知っていたことになる。

さて古典古代にこれほどにまで痛風が注目されたことについては我々の関心を引かずにはおかないし、文化史的な角度からも検討に値しよう。
疾病史において、古代の各時代各地域のさまざまな文化圏で現れたことで痛風はその重要性が認められる。ギリシャ文化では痛風の根源はこの世を越えた諸力によるとされた。酒の神ディオニュソスがアフロディーテを誘惑し、この結びつきからポダグラが生じたのだと。ガレノスは後にこの想像から《関節を弱めるポダグラ》をバッカスとアフロディーテの結合から生まれたとした。彼はさらに遺伝的なファクターも指摘した。「痛風病みの父や祖父を持った人たちは …」それと並んでピンダロスはオードの一つに、痛風はコキュトス(冥界を流れる川)と嫉妬深く意地悪な復讐の女神メガイラ(復讐の3女神エリニュスの1神)の共同作業によって生じると歌った。
Ihre Bedeutung in der Geschichte der Krankheiten verdankt die Gicht ihrem frühzeitigen Auftreten und Bekanntwerden in verschiedenen, räumlich und zeitlich vollkommen getrennten Kulturkreisen. In der griechischen Kultur wurden überirdische Kräfte für den Ursprung der Gicht verantwortlich gemacht. Dionysos, der Gott des Weins, verführte Aphrodite, und aus dieser Verbindung ging die Podagra hervor. Galenus übernahm später diese Vorstellung und beschrieb die Geburt des »gliederschwächende Podagra« aus der Verbindung von Bacchus und Aphrodite. Als weiteren Faktor führte er erbliche Belastung an: »Qui patres et avos habuere podagricos …« Daneben ließ Pindar in einer seiner Oden die Gicht aus dem Zusammenwirken von Kokyutos (ein Höllenfluß) und der neidischen und boshaften Megäre (eine der drei Erinnyen) entstehen.
植物性食物を摂取していたエジプト人やヒンズーの人々には痛風が極めてまれであると、古代から正しく捉えられていた。だが逆説的ながら今日知られる最古の腎臓結石、しかも尿酸を含むものは、およそ7千年前のエジプトのミイラから見つかっている。同様にアフリカのヌビアで男性のスケルトンから尿酸塩の沈着が発見されている。ゲオルク・エーベルス Georg Ebers が1872年の冬、テーベの近くで発見したパピルスの中に、痛風と病名は記されていないが、クロッカスやサフランからコルヒチン(**)含有薬の作り方を扱うさまざまな処方があるのは注目される。ディオスクリデス Dioskulides は1世紀にすでにヤナギの樹皮の形でサルチル酸でもって痛風を治療している。

肉を多く食べる民族グループあるいは文化爛熟時代、例えばペルシャ人や裕福なギリシャ人ローマ人にあっては比較的多く痛風が見られるのは明らか。痛風はすでにインドのヴェーダに登場し、インカ時代に痛風がありありと描かれている。

しかしこれらのデータは多かれ少なかれ神秘的な暗闇の中から偶然に発見されたもので、医学史的に痛風を考察する根拠にはならない。それは医師たちの発言に求められる。
古代に痛風はどう見られていたか、その表象は誰よりもヒポクラテスによって形成された。彼の性別による発症の考察は本質的なところは現在も通用する。「去勢男子は痛風にかからない」「子供は性交するまでは痛風にかからない」「女性は痛風にかからない、月経がなくなってしまわない限りは」
また発作の起きる季節的な変動にも注目している。「痛風は春と秋に活動的になる」

Die Vorstellungen der Antike über die Gicht wurden vor allem durch Hippokrates geprägt. Seine Betrachtungen über die Bedeutung geschlechtlicher Faktoren für die Entstehung der Gicht haben im wesentlichen bis heute ihre Gültigkeit: »Eunuchi non laborant podagra«, »Puer non laborat podagra ante veneris usum«, »Mulier non laborat podagra, nisi ipsi menstrua defecerit«.
Ferner machte er auf jahreszeitliche Schwankungen der Gicht aufmerksam: »Podagrici affectus vere et autumno plerumque moventur« (Häufung der Anfälle im Frühjahr und im Herbst).
去勢男子の件に関してはガレノスの反論がある。「しかして、この原因のゆえに去勢男子でさえ痛風になる、たとえまったく色事をしなかったとしても」 »Ob hanc igitur causam etiam eunuchi podagra accipiunter, quamvis nullum habeant usum venerorum«

ヒポクラテスの徒は体液説の見方で痛風は血液と胆汁あるいは粘液との混ざりが関節内に固着して過度な停滞が痛みに通ずると考えていた。「痛風はあらゆる関節痛のなかでもっとも激しいもの、最も治療が困難なもの、しかし死の恐れはない」とする。痛風の発作は温暖に恵まれた土地で抑えられる。「暖かい地域で暮らす人たちは、風の害を受けない・・・」»Qui in locis calidis degunt, a ventorum flatu tuti sunt …« 続く5世紀の間、この知は次第に忘却されていったようだ。紀元後、ローマで痛風はよく知られた病であった。ケルスス A.C.Celsus は、ローマの支配者は自身の所為で、あるいは先祖の所為でポダグラにかかっている、と書いている。セネカはローマの人々に痛風が増加したのは贅沢な生活によるモラルの喪失のため、と見ていた。

古代からすでに痛風は公衆の目には不摂生と無節度を示す恥辱と映っていた。カッパドキアのアレタエウス Aretaeus von Kappadokien (81-133) は痛風患者の責任転嫁のメカニズムについて、「ある者は新しい靴のため、遠くまで散歩したため、ぶつけたため踏まれたため、という。だれも自分自身に責任のある事、正しい原因を聞く耳を持たない」と言っている。

遺伝、食餌、生活習慣が痛風の促進に影響を及ぼすと当時から知られていた。
これに関連してセネカ Seneca がルキリウス Lucilius に宛てた書簡に書いていることは興味深く思われる。女性でも男性と競うように不摂生をしているので、もはや痛風から免れることなく、男性と同じように苦しむ破目に陥っている、と。そして「いやはや最も偉大な医師、最も徹底的な自然の専門家でも偽りを為していることに驚くほかない、これだけ多くの痛風の、禿げの女性がいるのだから」と。それにまたガレノスは紀元2世紀には食事がこれ以上はないというほど贅沢になって、禁欲的で少数の痛風患者しかいなかったヒポクラテスの時代と比べて無限に多くの痛風に苦しむ者が生じた、と言っている。
Interessant erscheinen in diesem Zusammenhang die beklagenswerten Betrachtungen von Seneca in seinen Brief an Lucilius, daß selbst die Frauen, da sie in ihrer Unmäßigkeit mit den Männern wetteiferten, von der Gicht nicht mehr verschont bleiben und zu den gleichen Leiden wie Männer verdammt seien: »Wie kann man sich wundern, daß selbst der Größte der Ärzte und gründliichste Kenner der Natur auf einer Lüge ertappt wird, da es so viele podagrische und kahlköpfige Weiber gibt?« Daneben bemerkte Galenus, daß der Luxus der Speisen im 2. nachchristlichen Jahrhunder in einem solchen Maße zugenommen habe, daß er nicht mehr überboten werden könne und die Zahl der Gichtleidenden unendlich (infinita) sei im Vergleich zu den Zeiten Hippokrates, in denen es wegen der enthaltsamen Lebensweise nur wenig Gichtkranke gegeben habe.
セネカとカッパドキアのアレタエウスとガレノスは痛風のよく出る家系があること、男性に多いことを指摘している。アレタエウスは痛風にはインターヴァルがあること、「痛風患者もそのような痛みのない時期にはオリンピックで勝利することもあった」と書いている。「病が治り死を免れるとまた贅沢に節度なく過ごしてその時々だけを刹那的に楽しむ」と痛烈に批判している。エフェソスのソラヌス Soranus von Ephesos (98-133) はあらためて、痛風は炎症性の特別なケースで、ポダグラ、オマグラ、キラグラ、コナグラ(***)のような単関節の病も含まれると言ったが、リューマチとの明瞭な区別はさらに一世紀半待たねばならなかった。
紀元前5世紀のシラクサのヒエロンの書いたものを除くとすれば、痛風に腎臓が関与していることは遅くともカッパドキアのアレタエウスの観察によって知られていた。ロッテルダムのエラスムス (1469-1536) は、ユートピアの父、人文主義者でヘンリー8世の敵役として宗教改革運動の最初の犠牲者となったトーマス・モア (1478-1535) への手紙で「あなたは腎石持ち、私は痛風。我らは二人姉妹と結婚したんだ」と書いたのは的を射ている。
Wenn man einmal von den Schriften des Hieron von Syrakus aus dem 5. vorchristlichen Jahrhundert absieht, so ist eine Mitbeteiligung der Nieren bei Gicht spätens durch die Beobachtung von Aretaeus von Kappadokien bekannt. Treffend schrieb Erasmus von Rotterdam (1469-1536) an Thomas Morus (1478-1535), den Vater Utopiias, zugleich Humanist und als Gegenspieler Heinrich VIII. erstes Opfer der englischen Reformationswehen: »Du hast Nierensteine, und ich habe die Gicht: Wir haben zwei Schwestern geheiratet.«
治療面ではヒポクラテスの徒は親指の関節髁の上半部あたりの血管を焼く、激痛時には冷水をかける、熱くしたロバのミルクを飲む、それに性活動の制御、下剤を勧めたが、ガレノスは痛風の薬剤治療は無価値とし、自然治癒をよしとして、食事制限と予防的な瀉血と身体の運動を行うよう提案した。「運動は痛風になることを防ぐ」 »Exercitio podagram fieri prohibet«

古代の末まで痛風のイメージとその治療法はほとんど変わらなかった。ガレノスのあと慢性関節炎と痛風の区別は、中世末、カルダヌスが新たに概念を分けるまで、失われた。
* Arthritis は炎症を起こした関節の病。関節炎。Arthrose は摩耗、過温、関節滲出液、膨れなどによる変形性関節症、らしい。
** Colchicin はイヌサフランの種子や球根から得られる薬剤。痛風の発作を抑える働きがあり、現在に至るまで用いられている、
*** Podagra, Omagra, Chiragra, Gonagra は発症する部位による病名、足の親指、肩の関節、手、膝に出る痛風である。
[付記]
この項に頻出するラテン語(一部ギリシャ語)については、西洋古典の専門家である畏友 T.N. 氏にSOSを発信したところ、貴重な時間と労力を割いてご教示下さいました。氏には「エリダヌス Eridanus」の折にも助けていただいております。