拾遺集、拾八 Aus meinem Papierkorb, Nr. 18代用コーヒー Kaffee-Surrogateドイツの人々はよくコーヒーを飲む。このオリエントの飲み物がヨーロッパに伝わったのは16世紀半ばとされる。東方から到来したエキゾチックな飲料は、希少で高価だったのではじめは裕福な上流階級の嗜好品であったが、18世紀半ばにはそれを飲む場としてのコーヒーハウスの出現とともに一般の市民層、やがては農村部にも広まっていった。そのうち家庭内でも飲用されるようになったのだが、やはり高価な輸入品だったので、いきおいコーヒーの代用品が求めれることになった。ドイツでは、コーヒー豆の産地となる植民地を持たなかったこともあって、盛んに代替原料が研究され、ナポレオン戦争時に大陸封鎖で輸入が断たれたことにより代用コーヒーが広まることになった。下はE・T・A・ホフマンの『騎士グルック ―― 一八〇九年のある思い出』の冒頭の一節である。 好天気に恵まれるのも例年あと数日というベルリンの晩秋である。太陽が雲間から温和な顔をのぞかせ、通りに漂う生暖かい湿気をさっと蒸発させる。すると、伊達男、晴れ着の妻子を連れた市民、牧師、ユダヤ女、司法官試補、娼婦、教授、装身具店のお針子、踊子、士官たちが色とりどりの長い列をなし、菩提樹の並木の下をティーア・ガルテンさしてそぞろ歩いて行くのが見える。やがてクラウスやヴェーバーの席が全部ふさがる。モールリューベン・コーヒーが湯気を立て、伊達男は葉巻に火を点ける。人々が話し合い、議論している話題は、戦争と平和についての話、ベートマン夫人の靴が最近はグレーだったか緑だったかの話、閉鎖された商業国とか粗悪なグロッシェンの話、話。これらの話し声がみな『ファンション』のアリアに溶け込んでゆく。調子はずれのハープ、音のあっていないヴァイオリンが二、三挺、肺病病みのフルート、ひきつけを起こしたファゴットが、演奏している楽団員も聴衆も悩ませている。1806年、破竹の勢で進撃してきたナポレオン軍によって、プロイセンの裁判官ホフマンは職を失い、不遇の身をベルリン、バンベルクなどを漂泊して過ごした。友人を介して知り合いになったロホリッツの編集する有名な音楽誌「一般音楽新聞」に「小論」を送り、掲載を依頼する。これが、後におびただしい量の作品を産みだした作家ホフマンの処女作『騎士グルック』であった。 『1809年のある思い出』と副題が付されているが、実際は1807年の晩秋の情景で、ベルリン市民の生活をユーモラスな筆致でスケッチしている。靄の霽れたメイン・ストリート、ウンター・デン・リンデンの人波。色とりどりの人の群だ。着飾った人々の中にパリ風のモードに身をやつす伊達男がいる。プロイセンの実利的政策のため他の都市より目立つユダヤ人の姿、また官職につけるのはいつのことかと不安な司法官試補の姿も見えるが、彼らの多くはナポレオンの命で閉鎖中のハレ大学法学部で学んだ若者だろう。娼婦たちも歩いているし、ベルリン・アカデミーの老学者たちだろうか、教授の姿が見られる。アレキサンダー・フンボルトはこのアカデミーを「老人ホーム」と呼んだ。 リンデンの大通りを西に進むと正面にブランデンブルク門の偉容が迫ってくる。門はなお堂々と立っているが、門頂にあって王都を見護っていた4頭立て馬車の勝利の女神が消えている。シャード作のこのブロンズ像はパリに送られてしまっていた。門を過ぎればそこはもうティーア・ガルテンだ。深い木立の中を少し歩くとイン・デン・ツェルテンにさしかかる。クラウスの店もヴェーバーの店ももう空席はほとんどない。 プロイセンはイェーナとアウェルシュテットで無残な敗北を喫した。皇帝ナポレオンがベルリンに入城し、いよいよ宿敵イギリスを屈服させるべく、皇帝はシャルロッテンブルク宮殿から対英封鎖令を発した。人々の話題は、いまなお大陸各地で戦闘が続く戦争のこと和平のこと、ベートマン夫人の靴の色も気になるし、フィヒテの『封鎖された商業国家』と、最近の価値の下がったグロッシェン貨のこと。ステージではヒンメル作曲『ファンション』のアリアが歌われ、あたりにはタバコの煙とコーヒーの湯気が漂っているが、そのコーヒーは「モールリューベン・コーヒー」だ。イギリスを孤立させる目的の大陸封鎖は逆に大陸諸国に深刻な物資不足をもたらす。コーヒー豆の輸入もストップしたのである。 ここで名指される「モールリューベン・コーヒー」 Mohrrübenkaffee とは、その名からしてニンジンを材料にしたものだろうが、果たしていかなる製法で、いかなる香り・風味だったのか。そのころさまざまな原料から作られた「コーヒー」があったようだが、最近これに関する詳しい資料を見つけた。A・B・ライヒェンバッハ Anton Benedikt Reichenbach の『コーヒーの木』(1867)である。これは『人間に役立つ植物』なる叢書の第3巻として出版されたもので、以下のごとき長いタイトルがついている。 Der Kaffeebaum, seine Verbreitung, Kulturgeschichte und natürliche Beschaffenheit, sein Anbau und die Gewinnung der Kaffeebohnen, der Kaffeehandel und die Consumtion des Kaffee's, die Benutzung des Kaffee's zu einem Getränk und zu technischen Zwecken, Bereitung des Kaffeetrankes, seine Wirkung auf Geist und Körper, seine medicinische Anwendung, die Kaffeesurrogate und der Anbau der gangbarsten Sorten. Mit einem colorirten Stahlstich. 1867(*)この書は7章にわたって、タイトルにある通り、コーヒーに関するさまざまな問題を扱ったものである。19世紀におけるコーヒーをめぐる問題領域の知識を、なんとまあ細かいところまで網羅した書物だと、一読して三嘆これ久しうしました。
そもそもコーヒーの代用品が作られた理由として、貧しい人にはコーヒー豆が高価であったこと、また安い材料を混ぜて増量をたくらむ悪徳商法、そしてコーヒーの健康に及ぼす不安を挙げている。代用品は、種子・果実を原料にするものと、根・根茎を原料にするものとに大きく分けて記述されている。それぞれ10種類ほどの植物が挙げられているが、いかなる植物なのかよくわからないものは、そのまま書き写しておく。 A. 種子・果実を原料にする代用品 Aus Samen und Früchten bereitete Surrogate 1) ライ麦 Roggen はローストすると焦げ臭く嫌な臭いがして、本物のコーヒーとミルクを混ぜることでいくらかそれを抑えることができる。「農民コーヒー」と呼ばれる。丈夫な胃の持ち主に向いているからだ。黒パンをローストしてコーヒーを作ろうとしたこともある。スウェーデンではライ麦から作ったケーキを水に溶かしたものもコーヒーの替わりに飲む。 2) 大麦 Gerste は火で焙ると黒い粉になるが、色以外にコーヒーと共通するところは無い。多くはハンガリーから到来する。特によく用いられるのは Himmelsgerste という種類。 3) 小麦 Weizen はしかるべく栽培して焙煎すると良品ができる。 4) トウモロコシ Mais も同様、良品ができる。ただライ麦・小麦・トウモロコシのコーヒーは透き通った液にならない。これらは浅く満遍なく焙煎しなければならない。深く焙煎すると苦くなって、これを頻繁に飲むと消化器や神経に害を及ぼし、歩行障害も引き起こすと言われる。正しく焙煎した小麦コーヒーは子供に与えても大丈夫とされる。 5) アストラガルス Astragalus baeticus(**) マメ科の植物ゲンゲ属の一種で、大陸封鎖のときに「スウェーデン・コーヒー」として人気があった。一年草で春に種をまくと年内に収穫でき、本物といくらか似ているのでお勧めできる。カヤツリグサ Erdmandel よりは劣るが。真物のコーヒーと同じく、焙煎し挽いて煮立てればいいのだが、まず種子が割れて胚が見えるところまで煮て、蓋をしてひび割れるまでおいたあと、乾燥させる。それから黒茶色になるまで焙煎し、この粉を30分ほど煮る、という方法もある。 6) ソラマメ、エンドウマメ、レンズマメも代用コーヒーに用いるが、不快な味がして頭痛、めまい、動悸、四肢の痙攣を引き起こすこともまれではない。 7) ヒヨコマメ Cicer arietinum の種子はヘルツベルク伯爵とロッホウ氏(***)の推薦になるもの。 フライベルクやドレースデンで大規模に栽培されたが、品質はいまひとつでチコリの代わりにならない。スペインから直接もたらされたものは、真物のコーヒーに近く、チコリを凌駕する良品になる。香りが不足するので少量の真物を加えればよい。 8) ルピナス lupinus の特に黄色か青色の花が咲くもの(黄花ルピナス、青花ルピナスか?)の種を使用する。これをよく乾燥させ、焙煎し挽く。この豆5~6個分を1ロートのコーヒー豆と混ぜて煮立てると、2ロートのコーヒー豆より美味である。ただし少し長い時間煮なければならない。この植物は家畜の飼料にも向いている。牛と馬ははじめあまり食べたがらないが、すぐに好むようになる。ただし乳牛には適していない、ミルクを苦くするからである。焼酎つくりには極めて適っている。栽培する土壌は砂地、粘土を含んだ砂地がよい。 8)[sic] ケンタッキー・コーヒーツリー Schusserbaum (Gymnocladus canadensis) 北米原産で、とくにケンタッキーで代用コーヒーに用いられるのでこの名がある。硬く、茶色で、卵形の種子はヨハニスブロートの粒に似ている。 9) 以下、多数の植物があげられるが、よくわからないものは原語だけ記しておく。 Pfriem (Spartium scoparium) Dreistein (Triosteum perfoliatum) Sumpfschwertlilie (Iris Pseudacorus) Hundsrose (Rosa canina) Labkraut (Galium) ドングリ Eichel マロン Maronen (Castanea vesca) Roßkastanien (Aesculus Hippocastanum) アーモンド Mandel ヒマワリ Sonnenblume (Helianthus annus) の種も「淑女のコーヒー」とされて飲まれている。 ブナの実 Buchecker やイチジク Feige も用いる。カルムック人は tatarischer Ahorn (Acer tataricum) の種をコーヒーにする。 10) またトルコでは Kenguel という植物の種子から作ったコーヒーがあり、ロンドンの産業博覧会に出品された。西インド、スーダン、ニジェール、またツングースでもさまざまな代用コーヒーが作られている。 B. 根・根茎を原料にする代用品 Aus Wurzeln uud Knollen bereitete Kaffee-Surrogate: 1) まずは、最も普及した、代用コーヒーの代表格であるチコリについて、詳しい解説が加えられている。 チコリはドイツ語名 Wegwarte で、「あらゆるコーヒー代用品の中で最も成功し重要な貿易品目にもなった」とされる。昔から薬草として用いられていて、ブラウンシュヴァイクのランツォウ伯爵夫人(****) が、胆嚢炎の回復期に医師から食欲増進のためとしてこの根を煮て食し、また根を乾燥させて茶として飲用する処方を受け、彼女はこれをコーヒーに仕立て、瞬く間にドイツのコーヒー愛飲家、とくに女性の愛飲家の間に好評を博した。アルンシュタットの庭師ティム (*****) により一般に広まったが、はじめは悪徳商人によって混ぜ物に使われた。この植物はヨーロッパ中の道端や畑の縁や草地に見られ、6月から8月まで咲いている。これが代用に使われるようになると、飼料にも肥料にも使えるから、栽培地がイングランド、プロイセン(とくにマグデブルク地方)、中・上ライン地方、バーデン、フランス、ベルギー等々に広がった。栽培方法を詳しく説明して、最後に、女・子供で世話ができ日雇いは不要、という。1845年に、イギリスに450万ボンド輸出、フランスでは1200万ポンド消費、ベルリンで2万 Ctr (v*)のローストされたチコリが消費された。バーデンのゼークライスからは主としてスイスに輸出。 チコリの根をコーヒー代用に使うには、長く伸びる以前に根を掘り出し、洗浄、細かく切り乾燥させ、チョコレート色になるまでローストする。コーヒーの香りはまったく無く、甘苦い味。通常の飲用では無害、便通に効く。本物の持つ成分はごく少量、たんぱく質もほとんど含まない。苦味成分、焦げ臭い油脂分。コーヒー・紅茶と同様の穏やかな気分、神経を落ち着かせる働き。苦味はだがこれに慣れていない多くの人には不快な味覚というだけではなく、吐き気を催させる。節度を持って飲用すれば無害だが、長期間大量に飲み続けると、胸焼け、胃痙攣、食欲不振、口中の酸味を引き起こす。 挽いて粉にしたコーヒーはしばしばチコリで偽造される。しかしこれは、フィーラ博士 (Dr. Fila) によると、簡単に見破れる。指に取って軽く湿し指の間でこすって玉になったり粘り気が出るとチコリである。本物は粉のまま。苦く酸っぱいのがチコリ、本物のコーヒーは香りのいい苦さである。また冷水に浸して色が出るのはチコリである、云々とのこと。 チコリコーヒーはよく有毒な橙赤色の鉛丹で着色された紙で包装されて販売される。この紙は硫黄を含んだ臭気でわかる。 最後に、悪徳商人によってチコリそのものも偽造されることが稀でないことに注意が必要。よくある混ぜ物は次のものである: 焼いたパン、麺の粉末、細ヌードル、砂、煉瓦の粉、砂糖工場から出た使用済み骨炭、漉した Siedekohle の塊などなど。[中略]コーヒーの出しがらで増量されることもある・・・ジョンストン博士『生活の化学』(Th. O. G. ヴォルフ独訳)(v**)によると、「上質のコーヒーの色合いを出すため、往々にしてチコリは酸化鉄に替えられて販売されることがある」という。博士はこう続ける、 商人は安いからチコリでコーヒーを偽造し、チコリ製造業者はまた商人を誤魔化すため酸化鉄でチコリを偽造する。そして酸化鉄の業者は煉瓦の粉末で色をつける。それはより安価に作り色合いを多彩にして、チコリ製造業者を獲得するためである。かくて粉コーヒーの買い手はお金を払って、チコリのほかに酸化鉄と煉瓦の粉末の混じったコーヒーを入手する次第となる。酸化鉄と煉瓦の粉は健康に有害ではないがと断りながら、ジョンストン博士は続ける。「ロンドンではしばらく古い棺桶の腐った板を挽いて偽造に用いた。これは人々は格別美味しく感じたとのこと。この話はニューヨークで墓場近辺の湧き水がたいへん美味しい、という話を思い出させる。多くの炭酸やその他腐敗物から生じた物質を含んでいるので健康によくない。単に美味しいというだけで食べ物が有益である保証にはならない。」(S.89) チコリ以外はおおむね簡単な解説である。 2) ニンジン Die Mohrrübe これぞ『騎士グルック』でティーアガルテンのカフェで出されていたものだが、「チコリと同様の代用コーヒーで飲みすぎると同様の症状を引き起こす。つまり、胃を弱め、胃痙攣と腹腔にガスがたまり、多くの人には甘すぎる」と、ごく簡単な記述にとどまる。 3) Die spanische Skorzonore (Scorzonera hispanica) 多数の種が含まれるフタナミソウ属の一つ。和名はキバナバラモンジン。キクゴボウ、西洋黒ゴボウなどと呼ばれることもある。薬用、食用根菜としてヨーロッパでは利用されている。スペイン原産だが根がアスパラガスのような味だから、ドイツでも栽培されている。ニンジンのように甘くないので飲みやすい。 4) テンサイ Die Runkelrübe これもニンジンほどは甘くない。砂糖を絞った残りでも利用できる。下ろして固くしぼり塊にして焼く。それを砕いてパン焼き窯でよく焼く。これを粉にして小麦粉を混ぜ水で捏ねて1センチほどの厚さにする。これを賽の目に切り乾燥させ、後はコーヒー豆と同じようにローストし、粉に挽く。 5) ジャガイモ Die Kartoffeln ほどほどの硬さに茹で、賽の目に切り、弱火で乾燥させ、挽いて普通のコーヒーと半々に混ぜて使うと良品になる。 6) 落花生 Die Erdnüsse 地中で結実する。ドイツでは作物に混じって野生で育っている。ジャガイモのようにバターや塩で味付けする。オランダでは好んで食され、タタールやシベリアでは日常の食物である。粉末をジャガイモのように使って代用コーヒーとする。 7) カヤツリグサ Erdmandel 属には何百の種があり、Mandel アーモンド(扁桃、巴旦杏) もその一つ。匍匐茎に小さな卵形の根茎ができる。茶色で中が白い。でんぷんを多く含むが、油脂も多い。栽培法や土壌や収穫について詳しい説明。 8) クロゾフォラの根 Die Wurzeln vom Krebkraute これはアイルランドで代用コーヒーに用いられている。 9) タンポポの根 Die Wurzeln des Löwenzahns は英国、また大陸の方々で用いられている。Skorzonore に近い。
ドイツにおけるコーヒー事情について知るには、まずはJ・S・バッハ研究の大家の案内で、18世紀のライプチヒに出かけ、『コーヒー・カンタータ』を聴きましょう! ああ、なんてコーヒーはおいしいのでしょう、こんなコーヒー讃歌を歌う娘のリースヒェンを父親はどう扱うのでしょう・・・エキゾチックな輸入飲料の市民社会への浸透、当時のコーヒーハウスの様子、道徳的に問題ありとして取り締まる当局。その攻防が生き生きと描かれていています。(カヴァーも本文もコーヒー色の紙に印刷されている、凝った作りの小冊子です!) 日本語で読める、もう少し一般的な翻訳文献としては、シヴェルブシュ『楽園・味覚・理性―嗜好品の歴史』がある。プロイセンにおける18世紀半ばのコーヒー輸入抑制政策、禁止令に触れ、そしてチコリコーヒーの生まれた経緯が書かれている。 それから二十年たって、コーヒーに対する攻撃が最高潮に達したとき、ホテル経営者だったクリスティアン・ゴットロープ・フェルスター(v***)は代用コーヒー売り出しのチャンスが到来したと判断した。彼はフリードリヒ二世のプロイセン王国に、チコリコーヒーの栽培、加工、販売に関して六年の期限付き特権を申請し、そして認可された。チコリコーヒーの存在理由は、まさにその包装紙にあますところなく表現されている。背景は異国的な景色とコーヒー袋を積んだ船である。前景には、チコリの種をまくドイツ人の農夫の姿が描かれ、船に向かって手で追い返すしぐさをしている。そして、こう書かれている。「お前たちはいらない。それで健康になり、豊かになるのさ!」(81・83ページ)マッシモ・モンタナーリ、山辺・城戸(訳)『ヨーロッパの食文化』(平凡社 1999)の第四章「7 新旧の飲料」で、コーヒー・紅茶・ココアがヨーロッパに浸透して、アルコール飲料の領域を侵してゆく様子がさまざまな角度から興味深く描かれている。 オリジナルの日本語文献としては『世界の食文化 18 ドイツ』が挙げられよう。ドイツのコーヒー事情全般について詳しく紹介されているが、ここではチコリコーヒーの部分を引用しておこう。 チコリコーヒーは、当時「プロイセンコーヒー」と名づけられたが、そのネーミングもまた、この飲料にまつわるある種のナショナリズムを反映している。さらにまた、雑誌に宣伝が掲載されたり、ハレ大学医学部からの好意的な鑑定を得たりして、販売の拡大に寄与した。あのクノール Knorr 社もチコリの精製から始まった(「ひとつ鍋」の注** 参照)会社であった。 * google books の一冊としてネットで読むことができる。 ブラウン主義 Brownismusフーフェラントの『自伝』が翻訳(*)されているのを、うかつにも最近になって知り、邦訳があるなら読んでみようと、図書館から借り出してきた。クリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラント Christoph Wilhelm Hufeland (1762-1836) は18世紀から19世紀にかけてのプロイセン医学界の重鎮であり、ナポレオンによりベルリンを逐われた王家に侍医として随行して献身的に勤め、1811年に開学したベルリン大学の初代の医学部長にも選ばれた。生前に繰り返し増補・改版された『マクロビオティク(長生法)』 »Die Kunst, das menschliche Leben zu verlängern« (Makrobiotik) が代表的な著作である。森鴎外『うたかたの記』に女主人公マリイが自分の少女時代の読書を回想するところで、「クニッゲが交際法あればフムボルトが長生術あり」という箇所があるが、フムボルトはもちろんフーフェラントの書き誤りであろうと、鷗外全集の月報で小堀桂一郎が指摘しているのを最近知った。いずれにせよ『マクロビオティク(長生法)』はよほどポピュラーな書物だったのだ。(2017年1月 追記)『自伝』を読むと、ワイマールで過ごした幼少年時代、12歳の頃、デッサウの汎愛学校の生徒を獲得するためにドイツ中を駆け回っているバゼドーに勧誘されたが父が断ったこと(20ページ)、イェーナ、ゲッチンゲンで医学を修めてワイマールに戻り医師としての生活を始めるなかで、自由思想に関心を持ち、ボーデ(**)の勧誘で「神と真理に奉仕しようと思い」啓明結社に入会したこと(36ページ)、最初の著述がメスマーの動物磁気療法への反論であったこと(37ページ)など、何箇所か注目させらるところがあった。なかでもおやと思ったのは、ドイツでブラウン主義が注目を集める前に、自分は同じ発想を持っていたと主張しているところだ。次のように言う。 ここで私が述べずにいられないのは、既にワイマールでの生活の最後の四年間に私には長生法と病因論の根本理念が生まれ、早朝の時間にそれを書き記していったことである。長生法を書く最初のきっかけとなったのはベーコン Bacon の『生と死の自然誌』であった。そして生と生命力に関する私の思想は次のようないろいろな観察をもとにして出来上がったのである。すなわち、健康なときと病気のときの人体の自然・本性 (Natur) の観察、特に動物の卵、植物の種子や発芽の観察などを行った。同様に生そのものによって生命力が消耗するという着想もまた生まれたのである、この考え方は、個々の身体器官の働きや、さまざまな病状と分離に、また無力状態(Schwäche 過度の刺激と自己消耗による生命力の衰弱の結果としての無力状態)に適用できるのである。そういうわけで私はその頃既に、ブラウン Brown のいわゆる間接無力状態(***)という着想を完全に持っていた。それはブラウンという人の名前が世間に知られるよりもずっと前(一七八七-一七九〇年)のことであった。 (P.38/39)ブラウン主義、ブラウニズムは(今は [英]Brunonian system of medicine [独]Brownianismus と表記するようだ)、それまでの、経験に頼るだけの食餌療法、施薬、沐浴や刺絡を行う杜撰な医療に対して、整然と首尾一貫した理論であった。この学説は世紀転換期のヨーロッパに広まり、本国以上にドイツで広く深く影響を及ぼした。バンベルクの医師マルクス Adalbert Friedrich Marcus (後にE・T・A・ホフマンと親交を結ぶことになる)とレッシュラウプ Andreas Röschlaub に熱狂的に迎えられ、この地に多くの医学生や医師が押しかけるようになった。かくて、動物磁気(催眠)療法とともに、ブラウニズムはロマン主義時代の医学の中心テーマとなったのである。 フーフェラントは1793年、カール・アウグスト公の推挙でイェーナ大学の教授に就任、1801年にベルリンに移るまで、その職にとどまった。ここで長生法 Makrobiotik (Macrobiotic diet) を中心に講義を続け、大学病院の運営にあたり、「また、教養の高い同僚や友人といった、すばらしい仲間に囲まれていた」(P.45)と述べて、フィヒテ、シラー、シュレーゲル、シェリングなどの名前を挙げている。 その時期のイェーナはドイツ・ロマン派の拠点であり、詩人、思想家、新進気鋭の研究者が集結して、議論が沸騰し熱気にあふれていた。ブラウンの新しい医学思想もディスカッションの坩堝に投げ入れられた。シュレーゲル兄弟、シェリング、シュテフェンスが早くからマルクスとレッシュラウプと交渉を持っていた。ドイツの医学界のみならず思想界に大きな影響を与えたブラウン主義とはどのような理論だったのか、リカルダ・フーフの解説に耳を傾けてみよう。 スコットランド人で一七三五年生まれのジョン・ブラウンは天才肌の人で、その生活における途方もない放埓にもどこか傑出したところがあって、それゆえにパラケルススに例えられたりしたのであろう。彼の体系の根本思想は、生体の感受性と外的刺激間の交代運動から生じる興奮状態を生命ととらえるところにあり、その際過多または過少が病気の本質をなすと考えた。病気の特徴が興奮過少にあるか過剰にあるかによって、虚弱性の病気と亢進性の病気とに分け、生体に強化剤または緩和剤を処方した。(****)「世界は生きた統一である、これがロマン的世界観の根底であり、その唱導者たちが倦むことなく繰返す命題である」とリカルダ・フーフは別の箇所で述べているが、健康と病気を外界の刺激と個体の感応と捉えるブラウンの体系は、自然を生きた全体、有機体として把握し、生体を肉体と魂の統一体とするロマン派の表象に合致するものだ。初めは受容する側であったシェリングは、まもなく新学説を自己の体系に組み入れ、「あらゆる学問と芸術、否それどころか生命そのものの上に不思議な眩しい光を投げかける自然哲学という星」(フーフ)を現出せしめたのである。 ふつう私たちは、フーフェラントをロマン派とは距離を置く人物、よってアンチ・ブラウン主義者と見ていた。ウィキペディアにも、こうある。 彼はその生命力理論により生気論(当時流行のブラウン主義に真っ向から対立する観点)の代表者とされていた。そしてまた、19世紀の小市民が登場人物の小説を数多く書いて人気を博したアリス・ベーレントは、その遺稿『古き良き時代――19世紀の市民と小市民』において、フーフェラントの『マクロビオティクあるいは人間の寿命を伸ばす技』について、次のように述べていた。 この書は30年にわたって、年老いてゆく著者によって、繰り返し版を改め増補されて出版された。《携行医薬と常備薬》とか《フランネルの衣服について》などの実用的な章を新しく加えることで著書を「その目的に完璧に」近づけるべく常に言葉を継ぎ足していった。[中略]そして「夫婦和合の結婚生活」こそが何にもまして長寿のもとになると言う。「結婚しない者はいつまでもエゴイストで身勝手な気分や欲望に支配され、人類や祖国や国家のことより自分自身のことに関心を持つ・・・結婚しない市民の増加以上に革新、革命の気運を醸成するものが他にあろうか。」 対して、結婚すれば自ずと夫婦相互の依存を意識し、妻子への心配りが勤勉と規律に結びつく、国の安寧と利益が自らの仕合せとなる云々と言い、こう結論付ける。 「経験が教えてくれている。とびきり高齢に達した人はみな結婚している。――結婚こそが最も純粋な、斉一の、擦り減ることのない喜びをかなえてくれる――家庭の喜びを。」生気論(活力説)とブラウン主義、両者の理論の共通性と相違が医学的に見てどうなのか理解できずに言うのもなんだが、ロマン主義運動の理論体系の一部となるようなブラウニズムについて、国王の寵臣でありエスタブリッシュメントに属していたフーフェラントが、医学理論よりは診察・治療法の研究家であり、イェーナの教授時代に始めた『実地医療ジャーナル』 Journal der practischen Heilkunde の刊行を生涯続け、医家の倫理を説き続けた彼が、以前から自分にはブラウンと同じ着想があった、自分の方が先んじていたとの主張をされると、どうにもイメージが混乱するのである。 * フーフェラント、杉田絹枝・杉田勇(訳)『自伝/医の倫理』(北樹出版 1995) ホメオパティー Homöopathie前項でCh・W・フーフェラントについて調べるなかで、なんと、医学生時代の彼を主人公とする小説があると知って、早速取り寄せた。ハイケ・コシュィク『夜の錬金術』 Heike Koschyk: Die Alchemie der Nacht (2013) である。18世紀末の大学町イェーナを主たる舞台として物語が展開してゆくが、やがて別の町から一人の医師が登場する。ひょっとしてこちらの方が主要人物かとも思われるザムエル・ハーネマンである。本書には当時のさまざまな治療法や薬品名に加えて錬金術用語が頻出する。医学生の分娩実習や解剖講義、夜の墓場、秘密結社の実験室など、おどろおどろしい場面が繰り返し描かれる。この史実とフィクションがない交ぜになった、450ページを越える長編ミステリーを手短に紹介するのは難しいので、扉に記された宣伝文を借用して、取りあえずは内容の説明とさせていただきましょう。 本書はホメオパティーの始まりを描いた上質な小説である: 若い医学生クリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラントは、一人の学友が決闘で倒される現場の目撃者となる。この死体が不可思議な状況で消え去って、彼は死者の妹ヘレーネとともに謎を解き明かすべく行動を起こす。彼らは血なまぐさい蜜謀の手がかりをつかむ ―― それは万能の治療薬を巡る企て、若い娘に対する恥知らずな人体実験、フリーメーソン・ロッジの陰湿な画策であった。二人はもう一人の医師、残りひとつの疑問に確信が得られればホメオパティーという治療法が完成すると考えているザムエル・ハーネマンと一緒に、永遠の生を約束する神秘な処方を追い求めてゆく。ホメオパティー「同種療法」(*)の創始者とされるハーネマン Christian Friedrich Samuel Hahnemann (1755-1843) はフーフェラントより7歳年長で、大学を終えて医師として働き始めたものの定職を得られなかったため、多数の医学論文・医学書を執筆、英語・フランス語文献の翻訳をして生計を立てようとした。翻訳書のなかでは、ジョン・ブラウンの師にあたるウィリアム・カレンの A treatise of the Materia medica (1789) のドイツ語訳 Abhandlung über die Materia Medika が注目される。訳注で、マラリア特効薬キナ皮の作用に関して、カレン説を批判しているところがあり、そこにホメオパティー誕生の兆しが伺えるという。 彼の新しい治療法はなかなか受け入れられなかったが、その中でフーフェラントこそハーネマンの最もよき理解者であった。フーフェラントは1783年に学業を終え、ワイマールで医師として働いて10年、イェーナ大学の教授に任命された。そして、ほぼ生涯にわたって刊行されることになった、『実地医療ジャーナル』 Journal der practischen Heilkunde (Journal der praktischen Arzneykunde und Wundarzneykunst) の編集発行に着手し、この雑誌に数度にわたりハーネマンの論文を掲載した。ホメオパティーは生気論(活力説)と親和性があり、また思弁的な理論よりも治療法として実践に重きがあった。それが両者を結びつけたのだろう。 『夜の錬金術』は、プロローグで、イェーナを拠点にドイツの多くのフリーメーソン・ロッジにカリスマ的に君臨していたフリードリヒ・フォン・ヨーンセンが1764年に捕えられ、その後ヴァルトブルクの牢獄で亡くなったが、医学に革命をもたらす「万能治療薬たる生命の霊液の処方箋」について遂に明かすことはなかった。彼の貴重な叡智が永遠に失われたと思われたのだが、1780年、ヨーンセンが達成した秘密、夜の錬金術を解読しようとする目に見えない結社が浮かび上がってきた・・・と背景を述べ、読者を物語世界に導入する。 学生のフーフェラントは、友人のアルベルト・シュタインホイザーが剣で倒される現場の目撃者となるが、埋葬されるのがあまりにも早くて、仮死状態のうちに埋められた(**)可能性はないかと疑う。アルベルトと親しかった学友とともに教会墓地に赴いて墓を掘り返してみると、棺の中に横たわっていたのは、決闘で死んだはずのアルベルトではなく別人の死体だった。なぜ取り替えられたのか、一体友人は死んだのか生きているのかという謎を追って物語りは展開してゆく。 イェーナの夜の世界で蠢く学生の秘密結社は、市壁外の古びた騎士領の不気味な城館の「実験室」で生命の秘薬を探そうとしていた。ヘルメス・トリスメギストスの錬金術文書にまで遡り、「錬金術の技は卑金属を黄金に変えるだけではない、生命を作り出すことも可能なのだ」として若い処女の血に潜む生命力を試すため、その血を抜いて老人の血管に注ぎ込むなど、おどろおどろしい実験を繰り返していた。 決闘で倒され埋葬されたように装ってアルベルトを別の場所に拉致したのも、この結社の仕業であった。真相を知ろうと行動を起こすフーフェラント、ケーニヒスベルクからやってきたアルベルトの妹ヘレーネの身辺には黒い影が付きまとう。迫り来る危険を感じ、フーフェラントは妻子をワイマールの実家に戻す。そして、明らかに組織の警告だろう、神学教授であったフーフェラントの義兄が殺される。 新しい治療法を追求するハーネマンがライプチヒの癲狂院に収容されていたアルベルトに遭遇、これが彼をイェーナに向かわせ、謎の追跡に合流させることになる。ハーネマンは植物・動物・鉱物を用いた薬品について、その種類と量による効能を自らの身体で調べていて、残りひとつの疑問が解明されればホメオパティーという治療法が完成すると、彼もまた錬金術の文献を探している。こうして物語の焦点は生命の秘薬の処方箋の発見に絞られてゆく。三人は闇の組織と争って探索を進めるが、卑劣なやり方でヘレーネが誘拐され「実験室」の手術台に縛りつけられた。処方箋の秘密を届けなければ生体解剖するとの脅し。刻々と時が迫る、彼女の運命やいかに。ヨーンセン亡き後の結社に君臨する覆面の男は何者か、最後にその覆面は剥がされるのか・・・結末を記すことは、ミステリー作品についてはタブーであろう。 本書には、ミステリー作品としては異例と思われる、補遺がついていて、「レアル対フィクション」としてフーフェラント、ハーネマン、ヨーンセン、イェーナの教授・学生・市民、場所と事物、の項目に分けて著者による解説が加えられている。そのほか詳細な語彙注釈と文献リスト、さらには「ハーネマンは錬金術師であったか ―― ホメオパティーの始まりについて」という文章も添えられている。そこでは、医学の主流、正統派の医師や研究者からは、往々にして中世以来のいかさま医術扱いを受けるこの療法について、特に錬金術との関係を、彼女は次のように述べる。 錬金術の諸方法も、化学者、研究者としての彼の関心を引いた。そして、余りにも奇異な知識とは距離を置くよう常に努めたが、後の研究でも彼は繰り返し古い秘儀の洞察を参考にしたのである。ハーネマンの錬金術に対する関心を築いた「その礎石はおそらく1777年から79年にあった」とハイケ・コシュィクは言う。すなわち開業免許を取得する前のその時期に、彼はブルーケンタール男爵の家庭医兼司書となって、その蔵書を閲覧する機会を得たのである。男爵は当時ヨーロッパで最大の中世錬金術関連文書を所蔵していて、蔵書中にはもちろん医師で占星術師パラツェルズスの作品があった。そこに薬品中の類似性による治療の経験が書きとめられていることを発見する。これがハーネマンの同種療法 Similia similibus curentur, Ähnliches werde durch Ähnliches geheilt への道筋をつけたとコシュィクは見ている。 このような立場から彼女は、ハーネマンのホメオパティーが、今日でも往々にしていかさま医療と見なされることに、異議を唱える。 反対者はホメオパティーをインチキ療法として拒否しているが、その理由は科学的な証明がなされていない状況であるからという。しかし人間は数千年以来世界の秘密を解こうとしてきて、そしてこの道のりは今なお終点に達していないことは確実だ。十年ごとに、昨日はまだわれわれの限界ある理解能力のあちら側にあった事柄が解明されている。この著者の解説を読んで、並々ならぬ力の入れ方に目を見張らされるが、実は、著者は作家となる前は治療師(***)でホメオパティーの講師であったと知れば、さもありなんと納得がいく。熱心な信奉者が多い反面、否定する研究者も多い中、彼女はこの治療法の誕生にまで遡って、ホメオパティーにまつわる誤解を解きたいという強い思い入れがあって、この作品の執筆に赴いたものと思われる。 作中のハーネマンにも、この解説と同じ主張を同じ言い回しで語らせている箇所がある。それは、地下の結社が追い求める怪しげな万能治療薬の処方箋を、連中に劣らず熱心に探し求めるハーネマンに対し、フーフェラントは訝って、「あなたはこんな迷信を信じるのですか。あなたにはがっかりさせられた」と非難する場面だ。すると彼は答える。 「君は友人としては満腔の敬意に値するが、その考え方では医学の最高峰への道を共にするのは不可能だね。」ハーネマンは腕組みした。「どうして君は私のことをいつまでも誤解できるのだろう。私は、手前勝手に学問的だという悪辣な主張は排除し、徹底的な検証に耐えた理論だけを信じる。だからこの処方箋が強力な治療薬を生み出すと証明されたなら、私はそれを喜んで使うだろう。」彼は指を立てて言った。「説明できないことは全部、試しもしないで断罪するという、そんな姿勢には君は注意しなければならない。いつか、千年後のことかも知れないが、いまの知性だけでは把握できないことを、何らかの装置を使って解明できるほどに科学は進歩するだろう。」『夜の錬金術』のイェーナの秘密結社は生命の秘薬《エリクシール》(****)を作り出す処方箋を探しているが、もしハーネマンがパラケルズス、キルヒァーの錬金術文献をも渉猟して、病気を癒し生命を持続させる治療薬を求めていたとすれば、大学で医学を修めた彼も同じ目的を追求していることになる。そしてまた、新しい時代の医学者として神秘理論を排するフーフェラントも、その主たる研究テーマは『マクロビオティクあるいは人間の寿命を伸ばす技』であって、両者の間に奇妙な引力を生んだ。この危うい友好関係は、ハーネマンの頑なで偏屈な性格が災いしてか、やがて斥力が勝って破綻するのだが。 * ホメオパシーについては「義務としての健康」 でも触れた。ナチス医療で注目されて、それもまたこの療法の評判に影響を与えたようだ。 |