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拾遺集、弐拾参 Aus meinem Papierkorb, Nr. 23


痛風 Gicht
   ―― 5) 中世から近世へ

今回も先ずはメルツ『痛風の歴史/文化史・医学史の観点』を参考にして、中世と近世の痛風を見て行くことにする。

古代の末まで痛風のイメージとその治療はほとんど変わらなかった。5世紀ヌミディアの医師カエリウス・アウレリアヌス Caelius Aurelianus は相変わらず「飲酒癖、強い冷え、体液の消化機能不足、性的放埓、過労、負傷」を痛風の主たる要因として、骨膜 Periost と頭筋 Muskelkopf に所在を求めた。痛みと硬化に対しては水治療に限られていた。

中世ヨーロッパには、高い水準にあったアラビア医学が普及したにもかかわらず、古代に得られた知識に新しい認識を加えるものは事実上何もなかった。2世紀以降ローマ帝国が崩壊してゆくにつれ「痛風の研究に関してはすでに《暗黒の中世》が始まった」とメルツは言う。

トラレス Alexander von Tralles (525-605) は痛風を、1) 血液によるもの、2) 胆汁によるもの、3) 粘液によるもの、の三つの形式を分けた。治療法は 1) には瀉血を勧め増血食(豚肉や赤ワイン)を禁じ、2) にはバラ油で通じをつけ、同時に生温い水浴、食前の適度な運動、規則正しい生活を守り、食餌療法を行う、3) すなわち《冷たい》痛風には下剤、《亜麻の種子、ニンニクと蜂蜜》のパップ(湿あんぽう)、黒牛のミルク、痛風のこぶが現れたらテレピン油と蝋と油の軟膏が効くとした。

イヌサフランの種子や球根から得られ、痛風薬としてよく知られるコルヒチンは古代から現代にいたるまで使い続けられている。
コルヒチンは、アレキサンダー大王の時代に、王自身も恐らくは痛風患者だったが、強烈な副作用のため評判を落としたが、痛風薬としてその後再び用いられるようになった。
Colchicum wurde als Gichtmittel wieder eingeführt, nachdem es infolge seiner drastisch abführenden Nebenwirkungen um die Zeit von Alexander dem Großen, der wahrscheinlich selbst Gichtkranker war, im Verruf geraten war.
6世紀にはアエティウス Aetius in Mesopotamien が、その後ギリシャのアイギナ島のパウルス Paulus Äginata (625-690) が改めてコルヒチンの有効性を指摘した。彼の著作を通じてアラビアの医師たち、特にアヴィケンナ Avicenna (Abu Ali Ibn Sina, 980-1037) に影響を及ぼした。アヴィケンナは200冊以上の本を著したとされ、ヨーロッパで以降5世紀以上にわたって医学の最高権威とされた。
中世が終わろうとするころテオフラトゥス・ボンバトゥス・パラケルスス・フォン・ホーエンハイム (1493-1541) によって痛風は《酒石》疾病に分類された。当時はなお学問と魔術が密接に絡み合っていたことを思えば、パラケルススは薬学の学問化とそれと結びつく関節病治療の変更を引き起こしたのだ。彼は中世の体液説を拒否した。彼の化学・生物的考え方で《酒石》疾病のもとにすべての関節病とリューマチの容態は含まれた。体内ですべての燃焼されたものの残余、あるいは食餌に含まれる酒石が害を及ぼす動因として作用し、そして地獄の痛みを引き起こすのだと。痛風薬としては食欲を増進する酸、そしてまたアルカリも処方された。
Mit dem ausgehenden Mittelalter wurde die Gicht von Theophratus Bombatus Paracelsus von Hohenheim (1493-1541) den »tartarischen« Krankheiten zugeordnet (tartarus = Weinstein). Wenn man zu jener Zeit Wissenschaft und Magie noch eng ineinander übergriffen, so bewirkte Paracelsus doch eine Verwissenschaftlichung der Arzneikunst und damit eine Änderung der Arthritisbehandlung. Die Humoralpathologie des Mittelalters lehnte er ab. In seiner chemisch-biologischen Denkweise verstand er unter den »tartarischen« Krankheiten alle arthritischen und rheumatischen Zustände. Der aus allen Verbrennungen im menschlichen Körper hinterlassene oder in allen Nahrungsmitteln enthaltene Tartar sollte als schädlichen Agens wirken und dann höllischen Schdmerzen hervorrufen können. Als Mittel gegen die Gicht wurden appetitsteigernde Säuren, aber auch Alkalien verschrieben.
--Mertz: Geschichte der Gicht. Kultur- und medizinhistorische Betrachtungen.
中世から近世へ移り行くときに、まさに時代を象徴する医師が現れたのだ。中世のキリスト教に否を突き付けたマルティン・ルター(1483-1546)が、近代的な精神の中になお中世的な心情の持ち主であったように、この宗教者より十年遅れて生まれた「医学界のルター」パラケルススも、古代から中世にわたる絶対的な医学理論《体液説》を否定した革新者でありながら、根底に秘境的な思想を保持していた。彼も同じく二つの時代に生きた人間と言えよう。

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パラケルススは書物や伝統ではなく、実地の観察と経験に基づいて医学の権威を拒否した革新者でありながら、またしばしば錬金術師とも呼ばれる。彼はその呼称から想像されるような、卑金属を黄金に変えると語る魔術師ではなかったが、しかしながら根底は神の技・神の奇跡に疑いを持たない神秘主義者ではあった。通常の枠組みでは捉えがたい思想と世界像の持ち主であったと言うほかない。

彼の《錬金術》は医薬品を探求する中で生まれてきた術である。「ローヴォルト・モノグラフィー」シリーズの一冊、エルンスト・カイザー『パラケルスス』には、自らが錬金術について語った言葉が引用されている。
・・・自然から生じたものを人間に役立てる者、それをかくあらしめる者、自然のものをかく手立てする者、それが錬金術師であり・・・錬金術は金を作る、銀を作るなどと語る者が錬金術師ではない・・・これが大切なことだ:治療薬を作り、それを疾病に差し向けること・・・ここに治療と健康への道がある。これらすべてが終いには、それ無しには物が生じない錬金術に至らしめる。
...was aus der natur wachst dem menschen zu nutz, derselbige der es dahin bringt, dahin es verordnet wird von der natur, der ist ein achimist ... nicht als die sagen, alchimia mache gold, mache silber; hie ist das fürnemen: mach arcana und richte dieselbigen gegen die krankheiten ... hierin ligt der weg der heilung und gsundmachung. solchs alles bringt zum ende die alchimei, one welche die ding nicht beschehen mögen. (S.30)
--Ernst Kaiser: Paracelsus (rororo bildmonographien 149, 1969)
スイスのアインジーデルンで生まれたパラケルススは、幼いうちからやはり医師であった父の教えを受け、14歳からヨーロッパ各地を遍歴して、フェラーラ大学で医学課程を修めただけでなく、「理髪師、温泉主のもとにも、学識ある内科医のもとにも、産婆や、魔術師のところへも」(*)でかけ、さらには軍の外科医として戦場の兵士の治療にもあたり、こうした豊富な見分と実践から得られた知識をもとに理論を深めていった。

33歳でバーゼル大学の教授に就任したが、「講義はラテン語」という従来の牢固たる慣習を無視してドイツ語で医学講義を行った。ドイツ語で講義を行いドイツ語で医学書を著したことは、ルターがドイツ語で礼拝を行い、聖書をドイツ語に訳したことと共通の姿勢を感じさせる。強まる反発に対して彼はアッピールを発表した。これはラテン語で認められていたが、その一部をドイツ語訳で引用する。
いったい誰が知らぬものか、今日大抵の医師が最悪のやり様で患者に甚だしき危害を加えていることを。彼らは行き過ぎて奴隷の如くにヒポクラテスのアヴィケンナのガレノスやその他の者の言葉にすがりつき、あたかもアポロの三脚杯から響く神託でもあるかのように、その言葉に指幅ほどの違いも許されぬとする。
Wer weiß es denn nicht, daß die meisten Ärzte heutiger Zeit zum größten Schaden der Kranken in übelster Weise daneben gegriffen haben, da sie allzu sklavisch am Wort des Hippokrates, Galenos und Avicenna und anderer gaklebt haben, als ob diese wie Orakel aus dem Dreifuß des Apoll herausklängen, von deren Wortlaut man auch nicht um Fingers Breite abweichen dürfte. (Kaiser S.89)
よく知られたヒポクラテスの言葉、»Ars longa, vita brevis«「人生は短く術は長い」について、パラケルススは彼らしい解釈を示している。
我々の人生は短い、これは誰も否定しえない・・・我々は埃で影、日々溶けて薄くなりゆくもの、水面の文様に過ぎない。それ故我々の人生は他に比して短い。金銀は根源 Ens の火に至るまで在り続ける、石、塩も同様である。しかし人間は在り続けることなく、極めて短期間しか与えられず、期限も定まらぬ・・・術は長い、故にそれは発展途次にある。世界の初めから探求が始まり今に至るもなお終息しない。病気は速く術は遅い;それ故病者は時期を失う。何しろ医師は未だ術を極めるに至らず、医師が有する術の進みは遅々として、病はそれを追い抜くのである。
Das usnser leben kurz sei, mag niemants leugnen ... dan wir sind ein staub und schatten, die alle tag zergehen, und ein wasserblatter. darumb ist unser leben kurz gegen andern. gold, silber bleibt bis in das feur des ents. stein, salz desgleichen. der mensch aber bleibt nicht, hat den kürzesten termin und kein bestimte stund ... Das die kunst lang sei, ist also in einem weg. es ist angefangen worden zu suchen im anfang der welt, bis auf mein zeit ist noch kein end gefunden. die krankheit ist schnel, die kunst ist langsam; damit wird der kranke versäumt. dan die arzt haben der kunst kein end noch nicht, und das sie haben, ist so langsam, das die krankheit die kunst übereilet. (Kaiser S.62)
細胞病理学を創始したフィルヒョー Rudolf Virchow (1821-1902)は「パラケルススは古い医学にとどめを刺した」と述べた(**)そうだ。前後の文脈は不明なので、近代医学の先端を走った医学者と奇跡を信じる医師との関りはどこにあったのか判断できないが、公衆衛生への貢献(「水道」、「給水施設」、「ベルリンのコレラ」参照)も大きかったフィルヒョーと、チロルの鉱山で働く鉱夫に多く発生する疾病を取り上げた(***)パラケルススと、接点はその辺りにあったのかもしれない。

実験、観察と実地の経験を重んじるパラケルススではあったが、根底には神の技・神の奇跡を見ていた。そこには異教的な色合いもある。彼はそれを「奥義の哲学」Philosophia adepta と呼んでいるが、それを以下のように語る。
奥義の哲学を知ると、最初にかくのごとき教えに気づく。地上のものの上にあるすべてはいずれかのエレメントを持ち、天空の力と徳を備える、つまり地上のものが存在するところには天空の性質がある。地上のものの内なる天空の性質を知る者が奥義を極めた哲学者である。[中略]
だが内にあるものをいかにして知るか? 人間は知るべきだし、知らねばならないからだ。自ら知ることを我らに語ることのできない者は、内に何があるか知ることを誰も理解できない。それは文字でもっても同様だ。自然のモノはすべて死んでいる、しかし植物の内に何があるかを探求すること、そこに哲学の奥義がある。すべて隠されたモノに、すべて秘密の内に、自然の治療薬すべてを、一つ一つの植物、種子、根等々に見つけた者が、奥義に達する。

Zu wissen, was Philosophia adepta sei, so merkent am ersten ein solchen underricht, das alle die irdische corpora über das, das sie von elementen haben, ein firmamentische kraft und tugent mit tragen, also wo ein elementarisch corpus ist, da ist auch ein firmamentische eigenschaft. der nun weiß, was firmamentisch ist im elementarischen corpus, der ist Philosophus adeptus.[...]
Wie sol man nun erfaren, was doch in sei? dan der mensch sols und muß wissen. so sie nun selbs das wissen nicht geben können, mit uns nicht reden, so haben wir des keinen verstand, das zu wissen, was in denen ist. also ists auch mit den buchstaben; die ding sind alle tot, nun aber zu erforschen was in kreutern ist, darzu gehört Philosophia adepta, die selbig weiß alle verborgene ding, alle heimlichkeit, alle arcana der Natur, was in ieglichen kraut, samen, wurzen usw. befunden ist.
(Kaiser S.47f.)
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パラケルススの膨大な著作は、生前にはほんの一部しか出版されず、死後になって次々と世に出された。彼の手稿も探し出され注釈付きでたびたび出版された。想像される通り贋作も混じっていた。彼を信奉する医師たちで「パラケルスス派」と呼ばれる流派も生まれた。学術的な研究書も、現在に至るまで途絶えることなく刊行され続けている。とはいえ我々がその全体像をおぼろげにでも把握するのは簡単ではない。痛風に関するテーマを扱う本稿では、彼が痛風を《酒石疾病》の一つと位置付けたことに限って少しばかり追ってみる。

酒石 Weinstein とはワイン瓶の底などに堆積している結晶である。ワインに含まれる有機酸のうちのひとつ「酒石酸」Tartrat, Acidum tartaricum がもとになっている。ブドウの酸味成分のひとつである「酒石酸」と、ミネラル分の「カリウム」が結合してできた結晶状の物質が「酒石」である。彼はワインにできる堆積からの連想で、人体の器官にできる堆積が激しい痛みを伴う様々な結石症を引き起こすと考えたようだ。

ところで酒石酸がなぜタルタル酸と呼ばれるのか。ドイツ語ウィキペディアの Weinsäure の項目には「酒石酸が・・・ラテン語で Acidum tartaricum と、英語で tartaric acid と呼ばれるのは、ギリシャ神話のタルタロスに由来する、焼くような、ヒリヒリした痛みの作用があるため」とある。タルタロスはギリシャ神話で冥界ハーデースのさらに下方にある奈落、永遠の苦しみが支配する世界だ。

パラケルススは『酒石或いは結石による疾病及びその治療』(****)においてその原因と本質を次のように説いている。
我々の身体の外にある、我々が食したり用いたりするものすべては三つの物質([引用者注]水銀、硫黄、塩)から形造られている・・・これら三物質は自然の中では粗削り、排せつ物無しでは決して成長せず、そしていつもそこには原生の儘があり、それに原質 Substanz が潜んでいる。そこから酒石疾病が発生してくる。
Alles das, so außerhalb unsern cörpern ist, das wir genießen und gebrauchen, wird aus dreien materialischen dingen geformirt ... solche drei ding werden in der natur also grob, das sie nimer on faeces nit wachsen, und haben alle mal eine wiltnis in inen, die inen in irer substanz verborgen ligen, aus deren die tartarischen krankheiten entspringen. (Kaiser S.82)
また、酒石疾病が身体に現れる症状をこう説明している。
さて・・・我々はさらに酒石疾病とは何かを見極めよう・・・かくて体内に一種の酒石が出来た時に、それを酒石疾病と名付ける:痛風は結石のごとく、丸くまた層をなし、角張り、その他多くの個所で目に見え鋭敏になる・・・
So ... wollen wir uns weiter zu erkennen geben, was die tartarischen krankheiten seind ... so nennen wir die tartarisch, die als ein tartarum in dem leibe wachsen: als podagra gleich wie die steinlin, runt, geflözet, geecket, und in ander vil wege sichtbar und entpfindlich ... (Kaiser S.84)
まことに実地の観測と錬金術的発想が織りなす理論と言うべきだろう。別の個所では、《ワインは一つの大きな第五元素を含有していて、それによって多くの不思議な効果を有している》とか《多くの力はつまり酒石のうちに見いだされる、ワインよりも多く》とも言っている(*****)。第五元素 Quinta Essentia とか秘薬 arcana とかはまさにパラケルススの奥義の哲学、彼の秘教的思想の中核をなすタームであろうが、私はこれについて何かを語れる者ではない。

見ての通り特異な思想を縦横に語るパラケルススの、そのドイツ語(イタリックで引用)もまた特異である。正書法が確立していない時代ではあるが、単語の綴りも語順も自在だ。スイス方言も混じっているようでもある。「形作った」geformirt などという、初歩のドイツ語学習者がよくやって叱られる語形変化も散見される。ロマン派の詩人フケー Friedrich de la Motte Fouqué (1777-1843) が1806年にA・W・シュレーゲルへ送った手紙で告げている。
僕はいま・・・テオフラトゥス・パラケルススにかかり切りだ。その独特のドイツ・ラテン語と言うかラテン・ドイツ語と言うか、それと取っ組み合って・・・もちろん過酷な戦いを勝ち抜かねばならないが、だが戦利品はたっぷりだ。この神と自然の認識の勇士は僕を捉えて離さず、また完全に満足させてくれたので、最新の哲学の動向などほとんど注意を払わなかったほどだ。
Vorzüglich beschäftige ich mit ... Theophrastus Paracelsus. Mit wunderlichen Deutschletein, oder Lateindeutsch ... hat man allerdings einen harten Kampf zu bestehen, aber die Beute ist reich. Dieser Heros der göttlichen und natürlichen Erkenntnis hält mich so gefesselt, und genügt mir auch so vollkommen, daß ich wenig von den neuesten Erscheinungen der Philosophie vernommen habe. (Kaiser S.139)
残念ながら私には「過酷な戦い」に勝ち抜く力はないようだ。引用した彼のドイツ語にとりあえずは訳を付けたが、誤訳だらけではないかと恐れている。
* 大橋博司「パラケルススの生涯と業績」(『パラケルスス・自然の光』人文書院 1984 所収)
** Paracelsus: Zerstörer der Fesseln (Sunrise 4/1964) による。Virchow erklärte, "Paracelsus gab der alten Medizin den Todesstoß."
*** パラケルススは『鉱夫病とその他の鉱山病について』Von der Bergsucht und anderen Bergkrankheiten 1533/34)を著して、産業公害を取り上げた遥かな先駆者と呼ぶこともできよう。
**** 『酒石或いは結石による疾病及びその治療』Von den tartarischen oder Steinkrankheiten samt deren Heilung, 1536/37
***** "Wein hat eine große Quinta Essentia in sich und dadurch hat er viele seltsame Wirkungen" "Viele Kräfte werden nämlich im Weinstein gefunden, mehr als im Weine" (Olaf Rippe: Von der Heilkraft des Weinsteins. "Zeitschrift Naturheilpraxis" による)
[付記]
ザルツブルクにあるパラケルススの墓石の墓碑銘にはラテン語で「医師としてあのレプラ、痛風、水腫その他不治の病を不思議な技で治癒した」とある。
CONDITVR HIC PHILIPPVS THEOPHRASTVS INSIGNIS MEDICINE DOCTOR, QVI DIRA ILLA VVLNERA·LEPRAM PODAGRAM HYDROPOSIM ALIAQUE INSANABILIA CORPORIS CONTAGIA MIRIFICA ARTE SUSTULIT ...
(Beerdigt ist hier Philipp Theophrast seines Zeichens Doktor der Medizin, der jene unheilvollen Leiden Lepra, Gicht, Wassersucht und anderes Unheilbares, für den Körper Ansteckendes mit wunderbarer Kunst wegnahm. ...)
(de.wikipedia)

痛風 Gicht
   ーー 6) 民衆の笑い

痛風の歴史を古代から中・近世まで辿って、パラケルススを取り上げたからには同時代人のマイスタージンガー、ハンス・ザックス Hans Sachs (1494-1576) にも登場して貰わねばなるまい。

マイスタージンガー Meistersinger は、中世から近世にかけてのドイツの手工業ギルドに倣って作られた組合のマイスター称号を持つ職匠歌手。中世には様々な吟遊詩人が各地を放浪していたが、騎士文化を背景とするミンネゼンガーたちが中世貴族の没落に伴って都市に住み着いたという経緯もあるようだ。こうして15~16世紀にかけて、ニュルンベルクなど南ドイツの諸都市を中心に手工業者の職人たちが組合に集い、詩と歌の腕を磨き合う文化が花開いた。

パラケルススには一年遅れで帝国自由都市ニュルンベルクに生まれたハンス・ザックスは、教会付属のラテン語学校で学び、職人の修業と併行して作詞・作曲・歌唱の研鑽も積んで、靴職人に先立って職匠歌でマイスターと呼ばれていたようだ。遍歴時代を経て故郷に戻り、1520年に靴屋の親方として独立した。ちょうど宗教改革が始まっており、ザックスはマルティン・ルターの思想に共鳴し、教権を批判する一連の対話集を発表するなど、精力的な活動を開始した。そして82年の生涯に職匠歌 Meistersang をはじめとして、様々なジャンルの詩、滑稽譚 Schwank や謝肉祭劇 Fastnachtsspiele od. Fastnachtspiele など、六千を超える膨大な作品を書き残した。

本項では中近世ドイツ文学研究の第一人者でザックスの謝肉祭劇全篇を邦訳(*)された藤代幸一氏の『謝肉祭劇の世界』(高科書店 1995)によって民衆文化の中の痛風を眺めてみよう。「はじめに」でこう述べられている。
謝肉祭劇の本場であるニュルンベルクは、名だたる出版文化都市でもあった。印刷術の発達と謝肉祭劇の展開は妙に符合する。印刷術が誕生した頃から、ラテン語でなく、民衆の言葉であるドイツ語のテクストによる謝肉祭劇が書かれ出した。十六世紀になると、印刷技術の進歩により、民衆本や暦など挿絵入りの本、パンフレットが大量に出版され、当時の文字なき人びとの理解を助けた。(5頁)
本書は謝肉祭劇で揶揄され笑いの対象となる人物の振舞い、また滑稽な出来事が演じられる場所などを11の章に分けて紹介している。「市場」「街道」「性と糞尿」「悪魔」「愚昧の農民」「不貞の女房と姦淫の司祭」「象徴」「裁判」「古典」「饗宴と美食」、そして最後が「医者と病気」である。中にインテルメッツォとして「カーニバル」「謝肉祭劇」「ニュルンベルク」「ハンス・ザックス」を挿入して謝肉祭劇の全貌が捉えられるように配慮されている。

まず、インテルメッツォ「謝肉祭劇」によってカーニバル時期に演じられるこの演劇の有様を概観しておこう。
いつの世でも芝居を観るのは楽しい。とりわけ、乱痴気騒ぎに明け暮れるカーニバルの時期に、娯楽を求める人びとのニーズに応える形で、謝肉祭劇は生まれた。当時のドラマの状況を見ると、受難劇、復活祭劇など中世の伝統を引く宗教劇があった。そのほか人文主義の時代を映して、フマニストたちによるラテン語の喜劇が新たに生まれた。また宗教改革の時代を映して、プロテスタントとカトリックの両陣営からも、続々と劇が生まれた。しかし、前者は福音の教えを説くことが主眼となっており、後者のイエズス会士劇もカトリシズムのプロパガンダであった。
このような演劇状況は、娯楽を求める民衆にとってはまったく無縁であった。その中にあって謝肉祭劇は、民衆の言語であるドイツ語によって演じられる唯一の世俗劇であった。確かに内容は寸劇まがいの、茶番狂言といえるかも知れない。しかし、言葉は理解できるし、内容も面白いということで、カーニバルのドラマは人びとに愛された。謝肉祭劇は娯楽性を中心に据えた、都市型の民衆文化といえる。(74/75頁)
インテルメッツォ「ハンス・ザックス」によると、ザックスは生涯で6202篇の作品を残し、それがケラーおよびゲッツェ編の『ザックス全集』二十六巻 (Hans Sachs: Werke. Herausgegeben von Adelbert von Keller (ab Bd. 13: und Edmund Goetze). 26 Bände. Tübingen 1870–1909) にまとめられている。職匠歌4374篇、説話詩1828篇、説話詩とは韻文で書かれたもので、対話詩、宗教詩、滑稽詩、寓話詩、史詩など1600篇余りと、ドラマの分野が喜劇64篇、悲劇61篇、謝肉祭劇85篇となっている。

さて、中世から近世の民衆の笑いは滑稽譚・寸劇・大道芸人の歌謡(戯れ歌)などに散りばめられているが、謝肉祭劇はそれらの集大成の観を呈する。『謝肉祭劇の世界』11の章にはいずれも興味をそそられるテーマが並んでいる。今回私たちが求めるものは最後の章「医者と病気」にあるはず。

怪しげな「検尿」で診断を下すだけのやぶ医者、いんちき医者、また床屋、湯屋(療治の目的で水浴・湯浴が行われたことは「湯屋 Bader」参照)などが登場すると紹介され、病気の話に移る。まず謝肉祭劇に出てくる呪詛(ののしり言葉)に注目しよう。
謝肉祭劇における呪詛表現には、すべてではないが、圧倒的に病気にことよせるものが多い。確かに「糞ったれ!」のようにスカトロジーによるもの、また「獄門台にかかりやがれ!」、「地獄に墜ちろ!」、「死神にとりつかれろ」などの宗教的伝統に沿った脅迫によるものもある。しかしほとんどが「・・・病にかかりやがれ!」の形をとる。その・・・の部分は、呪詛を浴びせる相手の胸にずしんと来るものでなくてはならない。だから「風邪でも引きやがれ!」とか「頭痛になりやがれ!」では様にならない。その目で見れば、近世初期にはどんな病気が流行り、そして恐れられたかが明らかになる。具体的には何か。おこり疥癬かいせん、梅毒、痛風、足痛風、熱病、ペスト、癲癇てんかん、中風、心臓麻痺、豚コレラなどであった。(193/194頁)
さらに、呪詛表現とは別にザックスの謝肉祭劇に出てくる病名を羅列してみる、として当時の人びとを苦しめた数々の疾病が挙げられる。
結核、疥癬、腎臓結石、聖ウルバン病、目痛、歯痛、肉のただれ、痛風、リューマチ、肋膜炎、尿道結石、梅毒、胆石、麻疹はしか・・・などである。これから見ると、ザックスは高度な医学知識をもっていたと見られ、市場で大声で叫ぶいんちき医者のレベルとはかなり差があるように思われる。しかし仔細に見れば、言語と実体は必ずしも厳密に一対一の対応をしていないことに気づく。「痛風にでもかかりやがれ!」には痛風だけでなく、辞書によれば「麻痺、痙攣けいれん」などのニュアンスも込められている。また「あの女なんか聖ウルバン病になればいいのに!」という時の聖人の名前を冠した病気は「足痛風(ポダグラ)」のことだが、そのほか「高熱、アル中」の意味もある。
痛風、足痛風について若干コメントを付けておきたい。これはヨーロッパに非常に多かった病気で、ザックス自身もこの病気で悩まされた。彼はある詩の中で、痛風は都市住民の病気で、やみくもに働く人びとがかかり、のんびりした農村ではかかる人は少ない、と分析している。過労とストレスが原因としているが、痛風は当時一般には度の過ぎた贅沢な飲食によって起こると信じられ、従って金持ちの病気とされた。(194/195頁)
ここでは痛風 Gicht と足痛風 Podagra が別々に挙げられているが、この病気は足指に現れるケースが多いので、前にも述べたように、中世まで二つの語はほぼ区別なく使用されていた(「「痛風」の語源」参照)ようだ。聖ウルバン病とはローマ教皇ウルバヌス1世 Urbanus I(在位 222-230)に因む名称だが、この教皇はブドウ、ワイン、醸造家、樽職人の守護聖人とされ、また酩酊、痛風、寒気、雷雨、落雷を免れる(**)願掛けの対象となったようだ。それにしても「痛風は都市住民の病気で、やみくもに働く人びとがかかる」とは! 自分が痛風だから、ザックスさんよ、あなたはそれを飲酒・美食による贅沢病とは認めたくなかったのではないの、とツッコミを入れたくなりますね。

藤代氏は続けて「なお十六世紀には、《ポダグラの文学》とも呼べるような一連の系譜があったことをつけ加えておきたい。例を挙げれば、人文主義者ピルクハイマーの『弁明、あるいはポダグラ礼讃』(一五五二年)、N・ブラウン『ポダグラの夢』(一五四六年)、フィッシャルト『ポダグラの慰めの書』などがある」(196頁)と述べている。ここに紹介される文献の内、ピルクハイマーの『弁明』は1988年にDDRの「ピルクハイマー協会」編によるドイツ語・ラテン語対訳で出版(***)されている。

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この「痛風シリーズ」で主たる資料としているメルツ『痛風の歴史/文化史・医学史の観点』には「風刺と絵画における痛風」"Gicht in der Satire und Malerei" という章があって、その冒頭に中世の箴言が紹介されている。
Vinum der Vater.
Coena die Mutter,
Venus die Hebamm',
machen das Podagram.
「ワインが父/食事が母/愛が産婆で/痛風となる」というもの。贅沢な飲食と淫欲が痛風の原因、これが人々の信じて疑わぬ常識だった。 自身も痛風患者だったペトラルカ Francesco Petrarca (1304-1374) は痛風に関して数多くの所見を書き残しているが、やはり飲食と淫欲を敵とみなしているようだ。
彼の数多くの書簡以外に、ペトラルカは最も長い作品『幸運と悪運の治療法』において痛風を取り上げた。痛風患者と、慰め手として人の姿をとった理性との対話形式の作品である:『・・・高齢になるとたいてい一軍団の病を伴うことになります――痛風も含めて! ・・・もしこの病と決着をつけたければ、飲酒と愛欲に対して公然と宣戦布告せねばなりません』
Außer in seinen zahlreichen Briefen beschäftigte sich Petrarca mit der Gicht in seinem längsten Werk »De remediis utriusque fortunae« in Form eines Dialogs zwischen dem Opfer der Gicht und der personifizierten Vernunft als trostspendender Partnerin: »... das höhere Alter bringt meistens eine Armee von Krankheiten mit sich -- eingeschlossen die Gicht! ... wenn du mit dieser Krankheit ins reine kommen willst, dann mußt du dem Wein ud der Liebe offenen Krieg erklären.« (Mertz S.87)
ペトラルカの痛風に関する記述は後世に広く伝わり、ハンス・ザックスもそこからモチーフを得て『痛風と蜘蛛』»Der Zipperlein unnd die Spinn«(****) という寓話詩を書いている。「私」が郊外を散歩していると生垣の向こうから話し声が聞こえた。《痛風くん》は農村では人びとは働きづめで贅沢しないので、その身体には住みにくいと不満を述べ、老いた《蜘蛛さん》は都会ではいくら巣を張ってもすぐに払われるのでおちおち暮らせないと訴えているというもの。その末尾は、
ペトラルカの慰めるがごとく
窮乏が痛風を追い払う、
痛風は富者の家にのみ住まう、
故に逃げ出したき者は、逃げ出せ、
痛風は一日にして
入込みはしない、成長するのは
贅が過ぎたとき!
かく述べるはハンス・ザックス。

Wie den Petrarca gibt ein Trost
Armut den zipperlein treibt auß,
Der nur wohnt in der Reichtum Hauß,
Deshalbso fliech, wer fliechen mag,
Das der Zipperlein auf den Tag
Nicht bey im einker unnd aufwachs
Durch Überfluß!
Das rät Hans Sachs. (Mertz S.88)
この作品に触発されて(藤代氏も書名を挙げている)16世紀の風刺作家ヨーハン・フィッシャルト Johann Fischart (1546 od. 47-1591) が『痛風慰めの書』»Podagrammisch Trostbüchlein« (1577)(*****) を著している。これは主として2世紀のサモサタのルキアノス Lukian von Samosata の『悲劇の痛風』Tragopodagra (Das tragische Podagra) によって書かれているとのこと。ルキアノスは痛風がもとで亡くなったそうだ。
* 藤代幸一・田中道夫 訳『ハンス・ザックス謝肉祭劇全集』(高科書店 1994)
** ...: gegen Trunkenheit, Gicht ("St. Urbans Plag"), Frost, Gewitter und Blitz. (de.wikipedia "Urban I." の項目)
*** Pirckheimer, Willibald: Verteidigungsrede oder Selbstlob der Gicht
版元は Aufbau-Verlg で、これはわりあい簡単に古書で入手できる。
**** Projekt Gutenberg-de にこの作品が収録されている。50. Fabel: Das Zipperlein und die Spinne. メルツの引用したテキストとは少々異同がある。
なお Zipperlein という語については「「痛風」の語源」を参照されたし。
***** この書はいくつかのサイトで原書のデジタル版を読むことができる。

痛風 Gicht
  ―― 7) 痛風礼讃

これを取り上げるかどうか少し迷ったが、やはり素通りはできないだろう。前項で紹介した藤代幸一『謝肉祭劇の世界』でも書名が挙げられていた人文主義者ピルクハイマーの『弁明あるいはポダグラ礼讃』Apologia seu podagrae laus (1522) である。手元に、1985年にキルシュ Wolfgang Kirsch がラテン語/ドイツ語の対訳本(*)として出した版がある。古書でわりあい簡単に入手できる、と注を付けておいたのがこれである。キルシュのドイツ語訳と注釈を参考にこの奇書を紹介してみましょう。

ピルクハイマー Willibald Pirckheimer (1470-1530) は帝国自由都市ニュルンベルクの裕福な名門市民の出自で、7年間イタリアに遊学した。1495年に故郷に戻り、市の行政官として、数年の中断はあったが、1523年まで務めた。スイス戦争 (1499) では、市当局から指名され皇帝軍の帝国都市部隊を指揮した。この体験は『スイス戦争』(**)に記されている。1501年に発足したレギメント(帝国最高執行機関)がニュルンベルクに置かれたこともあり、学芸の振興に熱心だった《中世最後の騎士》マキシミリアン1世(***)の顧問であり親しい友人のように接する関係になった。帝国議会の議員としてトリアー/ケルン (1512)にも派遣された。次の皇帝(マキシミリアンの孫)カール5世の顧問官にもなった。
[付記]
ピルクハイマーが顧問官として仕えた二人の皇帝も痛風患者であった。マキシミリアン1世は50歳過ぎから痛風に悩まされていたらしい。江村洋『中世最後の騎士』(中央公論社 1987)p.382, p.390, p.421, p.423 など参照。
カール5世はハプスブルク家の世界帝国を現出させた皇帝として知られるが、若くから痛風であったことも有名。ヨーロッパ王侯貴族の痛風が取り上げられるときには必ず登場する。メルツ『痛風の歴史/文化史・医学史の観点』ではこのように書かれている。
痛風が世界史を作った雄弁な例は、30歳から痛風であったカール5世であった。[中略]痛風がもたらした痛みと運動不如意に制約されて、そして魂の恐ろしい呵責によって、彼は宗教改革者ルターに対して手荒いというより寛大な対応だった。このことからルターと宗教改革が生き永らえたのはカール5世の痛風のお蔭としなければならない。
Ein beredtes Beispiel dafür, daß Gicht Weltgeschichte machte, ist Kaiser Karl V. (1500-1558), der von seinem 30. Lebensjahr an gichtkrank war. [...] Bedingt durch Schmerzen und Bewegungsunfähigkeit, die ihm die Gicht bereitete, und durch furchtbare Qualen der Seele übte er gegenüber dem Reformator Luther mehr Nachsicht, als anzunehmen war. Man hat daraus geschlossen, daß Luther und damit die Reformation ihr Weiterleben eigentlich der Gicht von Karl V. zu verdanken haben. (Mertz S.63, S.69)
ピルクハイマーは幅広い教養の持ち主で、セバスチアン・ブラアント、ヨハンネス・ロイヒリン、メランヒトンと並んで当代のフマニストの一人と見なされ、とりわけロッテルダムのエラスムスとは親しく書簡を交換する間柄だった。ギリシャ語文献をラテン語に訳し、一部はドイツ語にも訳してギリシャの文筆家またキリスト教教父の知識を広めるべく努力した。ルキアノス、クセノフォン、プルタルコス、ダマスケノス、ナツィアンツなどなどである。宗教改革の紛乱の中でルターの行動とその教えには共感を示したが、カトリックの信仰を離れることはなかった。

さて彼は、キルシュの対訳本「後記」によると、「42歳の誕生日の4日前に痛風に襲われ、死までの18年間忠実に付き従われ」、病状は次第に重症化していった。マルクトにある自宅から市役所へ通うにも馬に乗せられてゆく有様だったので、妹カタリーナは兄のことを心配して、「神は兄の病を来世のツケにしてこの煉獄の炎を免れさせてくださいますよう」と望んだほどだが、本人は違った。
しかしピルクハイマーは好んで自身のこと自身の病苦を吟味したし、より一層好んだのはそれについて語ることだ。恐らくはヒポコンデリーだったのだ。彼はすでにイタリアで法学を学んでいるときに痛風の処方を収集した。1512年から8年間、多量の薬を服用するだけでなく、自己の病状と治療について細心に日記をつけた。医学と薬学は彼の多くの道楽のひとつだった、道楽どころか、親戚や友人に医学上の助言を求められるほどだった。遺稿にはいろいろの処方箋が見つかった――そして数多くのホロスコープも。
Doch hat Pirkheimer sich auch gern mit sich selbst und mit seinem Leiden beschäftig, noch lieber davon geredet. Er war wohl ein Hypochonder. Schon als er in Italien die Rechte studierte, sammelte er Rezepte gegen die Gicht. Von 1512 an hat er acht Jahre lang nicht nur Medikamente die Fülle geschluckt, sondern auch sorgsam über seine Krankheit und ihre Behandlung Tagebuch geführt. Medizin und Pharmazie gehörten zu seinen vielen Liebhabereien, ja, er wurde von Verwandten und Freunden um medizinischen Rat angegangen. In seinem Nachlaß hat man mehrere Rezepte gefunden -- und zahlreiche Horoskope. (Kirsch S. 117f)
かくて生まれるべくして生まれたのが戯文『痛風礼讃』である。これには友人バニシウスへの献呈の辞が巻頭に添えられている。バニシウス(****)はやはりこの時代のフマニストの一人、トリエント聖堂参事会会長で皇帝の外交官、ピルクハイマーとは本書執筆の前年、1520年にアントワープで知りあったと思われる。献呈の辞で、友人たちは私の書き物を覗き見て、何故これを出版しないのかと非難するし、敵方は素人のくせに学問に口を出していると非難すると訴える。しかも深刻な問題を茶化す文章だと非難されるなら、自分にはこの書き方が向いているし、これには先例があると述べる。
加えて手本があります。ある著述家は僭主を誉め、別の者は発熱を、三番目には禿げ頭を、それどころか馬鹿を礼讃している著述家もいるではありませんか。
Zudem habe ich Vorbilder, denn ein Schriftsteller hat die Tyrannei gepriesen, ein anderer das Fieber, ein dritter die Kahlköpfigkeit, einer sogar die Torheit. (S.7f.)
キルシュの注釈によると、シチリア島にある古代ギリシャの植民都市アクラガス Akragas の僭主を誉めた文章はルキアノスの『パラリス』にあり、四日熱(マラリア)を礼讃したのはファボリヌス、禿頭を礼讃したのはキュレネのシネシオス、そして馬鹿を礼讃したのは、言うまでもなくエラスムスで、その『痴愚神礼讃』である。

エラスムス『痴愚神礼讃』はトーマス・モアに捧げられた風刺作品。痴愚女神モリアーが聖書伝説やギリシア・ローマの古典からの夥しい引用、縦横に繰り出される警句とともに王侯貴族や聖職者・神学者・文法学者・哲学者たちを徹底的にこき下ろし、人間の営為の根底には痴愚の力が働いているのだ、人間は愚かであればこそ幸せなのだ、と自画自賛の長口舌を繰り広げるのだが、我らがヒロイン「痛風」は(ラテン語 Podagra ドイツ語 Gicht はいずれも女性名詞)いかなる演説をぶつのだろうか。彼女は次のように自己弁護を始める。
尊敬すべき公正なる裁判官どの!
私はこれが困難で労多く甲斐なき課題であるとよく承知しております。いったん定着し年経て根付いた偏見を人々の頭から、とりわけ大勢の粗野で無教養な人々の頭から消し去るという課題はそうなのです。彼らの意見はたいていが慎重に熟考したものと言うより、高ぶった気分、取り留めない激情に左右されているからです。

Geehrte und billige Richter!
Ich weiß sehr wohl, was für eine schwierige und undankbare Aufgabe es ist, ein einmal gefaßtes und seit langem festgewurzeltes Vorurteil aus den Köpfen der Menschen zu tilgen, zumal aus denen der rohen und ungebildeten Menge, die sich für gewöhnlich in ihrer Meinung weniger durch umsichtige Überlegung leiten, als von heftigen Stimmungen und unberechenbaren Leidenschaften hinreißen läßt. (S.13f.)
そのように前置きを述べて、彼女は自己弁護を進めてゆく。
私はすなわち、あの武骨な農家の人びと、休まず弛まず体に笞打ち働き詰めに働いている人々と関わることには、何の喜びを持ったこともありません。この人たちは滅多にあるいは全く逸楽を求めることなく、空腹に耐え乏しい食事で腹を満たし、水で渇きを鎮め、粗末な衣服を身に着け更に粗末なベッドで眠っていて、あらゆる享楽を進んで放棄しています。
Ich habe nämlich keine Freude an jenen derben, bäurischen Menschen, die niemals rasten, sondern ihren Körper durch ständige Arbeit tüchtig in Anspruch nehmen, die selten oder nie sich gütlich tun, die Hunger ertragen und sich mit kargen Speisen sättigen, die ihre Durst mit Wasser stillen, schlechte Kleidung tragen und auf einem noch schlechteren Bett schlafen, die bereit sind, auf allen Genuß zu verzichten. (S.28f.)
それに引き換え、贅沢に暮らし享楽をむさぼっているのが告発者たちである。「私・痛風」が訪れるのは彼らの許ばかりなのだと語る。
しかしながらわが高名なる告発者殿たちは日夜贅沢三昧に明け暮れています。無為を業とし怠惰を事とし、いかなる労苦もペストのごとく呪って、享楽という享楽、殊に色欲の享楽で体を衰弱させ、山海の贅沢な珍味を探し求め、ありとある香辛料を欠かさず口を刺激し、必要ではなく気紛れで酒杯を重ね、それも決して地場ワインでなく輸入ものばかりで喉を潤し、快適極上の座蒲団に横たわり、派手なだけでなく突飛な服に身を包み、人間の軽率が発明したあらゆる贅沢を濫用し、挙句に肉体も精神も弱め、時には私に、まこと贅沢に慣れているこの私に、彼らはその放埓によって吐き気を催させる、そこまでに至るのです――そしてすべての罪をいつもいつも私だけに押し付けるのです。
Meine hochansehnlichen Herren Ankläger jedoch schwelgen Tag und Nacht, sind schlapp vom Nichtstun, verwünschen jede Anstrengungen wie die Pest, sind von allerlei Genüssen, insbesondere denen der Liebe, entkräftet, suchen sich zu Land und Meer köstliche Leckerbissen zu verschaffen, reizen ihren Gaumen ständig mit allerlei Gewürz, setzen dem Trinken nicht nach Bedürfnis, sondern nach Belieben ein Maß und löschen den Durst um keinen Preis und Landwein, sondern nur mit Importen, wälzen sich auf den allerbehaglichsten Polstern und kleiden sich nicht nur eitel, sondern verrückt, treiben Mißbrauch mit allem Luxus, den menschlicher Leichtsinn erfunden hat, so daß sie zugleich Körper und Geist schwächen und häufig sogar bei mir, die ich nun wirklich verwöhnt bin, durch ihre Ausschweifungen Brechreiz erregen -- und dann schieben sie alle Schuld immer wieder auf mich allein. (S.29f.)
彼女は弁じ続ける。痛みや苦しみは告発者殿たち自らが招いたことなのにすべて責任を他人に押し付ける。それに痛風は悪いとばかりは言えないはずだ、痛風のおかげで馬や車に乗れるし、王侯の臨席される場所で皆が起立するときにも座っていられる。余計な外出を控えて事故や危険を免れ、煩わしい勤務から解放されて学問芸術にいそしむ時間が与えられるではないか云々。「私・痛風」の雄弁に丁寧に付き合ってゆくと草臥れるので途中を飛ばし、最後に彼女が、自己弁護の総括として一気に捲し立てるくだりを拝聴して、本書の紹介を終えましょう。
すなわちこれを指して、公平公正なる裁判官どの、私が犯した卑劣な犯罪と決めつけるのです:私は肉体を卑しめることで魂に自由を与え、そうして魂が清められ天に向かうようしむけます。というのも罪深い者を信心家にし、破廉恥漢を名誉を重んじる人間にし、傲慢な者を謙虚にし、僻みっぽい者を愛想よくし、毒舌家を世辞者にし、詐欺師ペテン師に責任感を植え付け、憎悪に固まった者を友好的に、高慢な者を慎み深く、軽率な者を用心深く、怒りっぽい者を人好きのするように、峻烈な者を寛大に、感謝なき者を神の熱心な崇拝者に、短気な者を忍耐強く、貪欲な者を気前よくするのです;私は信仰、希望、愛情を注ぎこみ、こう教えています:俗世を軽蔑し天上のことのみ尊重し、何事も正しい尺度で測り真実の洞察と賢明さで舵を取り、善と悪を峻別し、善を愛し悪を避け、神を敬い、神の掟と信仰と真の教えを守り、キリストの愛を行い、義務を忘れることなく、名誉を重んじ正義を重んじて生き、隣人を傷つけることなく、神の掟に反することは一切行わず、無垢なるものを憐れみ、しかるべき人に感謝の言葉を述べ、悪を悪で以て埋め合わせることなく、何か誰かのために如何なる事情があろうと道を踏み外さず、ただひたすら正義のみ目に据えて、恐れを知らず如何なる恐怖も抱かず、卑劣下劣を軽蔑し、一途に偉大なもの崇高なものを求め、また苦労と困難を名誉のために耐え、いったん獲得した洞察を常々失わず、無益な反抗を行わず、遺恨ゆえに義務をなおざりにすることなく、常に真の名声を求め、非難すべき快楽にのめり込むことなく、情欲を軽蔑し抑制し、諸計画をしっかり制御し、怒り、憎しみ、復讐に盲目的に突き進むことなく、人生の浮き沈みに理解を持ち、友情、柔和、寛容を敬い、畏敬、礼儀、尊敬を失わず、とどのつまり何事も節度を守り、何事も一定の限界を置き、自らを知り、すべて肉あるものを待ち受ける最期から目をそらさず、正しい行為と罪には信賞必罰、これが私の行うこと、これを罪というのでしょうか? そもそも私は誰かの肉体を訪れるときには、何事もないがしろにせず、魂がより良く完全になり魂の本源を意識できるようにしているのです。
Das also, gerechte und billige Richter, sind die ruchlosen Verbrechen, die ich begehe: Ich erniedrige den Körper und schenke damit dem Geist die Freiheit, so daß er geläutert wird und sich auf den Himmel richtet. Denn Sünder mache ich fromm, Schamlose ehrenhaft, Hochfahrende demütig, Neider freundlich, Lästermäuler schmeichlerische, Gauner und Betrüger pflichtbewußt,Haßerfüllte freundlich, Übermütige bescheiden, Leichtfertige besonnen, Zornmütige leutselig, Strenge gnädig, Gedankenlose zu eifrigen Verehrern Gottes, Ungeduldige geduldig, Habgierige freigiebig; ich flöße Glaube, Hoffnung, Liebe ein und lehre: Menschendinge zu verachten und einzig Himmlisches hochzuhalten, alles nach rechtem Maß zu bestimmen und mit wahrer Einsicht und Klugheit zu lenken, Gut und Böse unterscheiden, jenes zu lieben, dieses aber zu fliehen, Gott zu ehren, seine Gebote, den Glauben und die wahre Lehre zu bewahren, christliche Liebe zu üben, die Pflicht nicht zu vergessen, ehrenhaft und gerecht zu leben, den Nächsten nicht zu kränken, nichts gegen das göttliche Gesetz zu tun, sich der Unschuld zu erbarmen, Dank zu sagen dem, der es verdient, Böses nicht mit Bösem zu vergelten, um nichts und niemandes willen, unter keinen Umständen vom rechten Wege abzuweichen, sondern stets einzig die Gerechtigkeit im Auge zu heben, unerschrocken und ohne alle Furcht zu sein, das Niedrige zu verachten und einzig nach dem Großen und Erhabenene zu streben, auch Mühen und Schwierigkeiten um der Ehre willen zu ertragen, beständig an einer einmal gewonnenen Einsicht festzuhalten, nicht wider den Stachel zu löcken, nicht aus Groll die Pflicht zu vernachlässigen, sondern stets nach wahrem Ruhm zu streben, sich verwerflichen Freuden nicht hinzugeben, Begierden zu verachten und unterdrücken, seine Plänen zu steuern, sich nicht blindlings in Zorn, Haß und Rache zu stürzen, für die Wechselfälle des menschlichen Lebens Verständnis zu haben, Freundschaft, Sanftmut und Milde zu erweisen, Ehrfurcht, Anstand und Achtung zu wahren, schließlich in allem Maß zu halten, allem eine bestimmte Grenze zu setzen, sich selbst zu erkennen, das Ende, das alles Fleisch erwartet, beständig vor Augen zu haben, für rechtes Handeln Lohn, für Schuld mit Gewißheit Strafe zu erwarten? Überhaupt nichts unterlasse ich, wenn ich das Fleisch heimsuche, wodurch der Geist besser gemacht, vervollkommnet und seines Ursprungs bewußt werden kann. (S.97ff.)
こうして「私・痛風」の演説は終わるのですが、さていかがでしょうか。この項の冒頭で「これを取り上げるかどうか少し迷った」と書いたのは、これは《奇書》ではあるけれど、私にはなんだかもう一つ面白みが足りないと感じられたからです。『痴愚神礼讃』などと比較すべきではないのでしょうが。

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ピルクハイマーと親しい間柄であったデューラー Albrecht Dürer (1471-1528) に触れてこの項を終わることにします。幸いデューラーの主な書簡と自伝が邦訳されていて、両者の関わりを知るのに貴重な情報を提供してくれている。
デューラー、前川誠郎訳『自伝と書簡』(岩波文庫 2009)
デューラー、前川誠郎訳『ネーデルラント旅日記』(岩波文庫 2007)
「デューラーはピルクハイマー家の構内の借家で生まれ、ピルクハイマーより一歳年少の竹馬の友として育った。」(『自伝と書簡』p.45)画家の二度目のイタリア旅行 (1505-1507) に際しては資金を提供している。画家が滞在中のヴェネツィアかからピルクハイマーに宛てた10通の書簡が『自伝と書簡』に訳されている。手紙で宝石やギリシャ語文献などの購入を頼まれ奔走している様子など、実に興味深い。本訳書には1503年に描かれた肖像画(銀筆素描と木炭素描)も収められている。

『ネーデルラント旅日記』にはピルクハイマーに「大きなベレー帽と見事な水牛の角製筆記具、皇帝の銀メダル、ピスタチオ一ポンド、有平糖三本を贈った」とある。この日記には購入した贈り物も含めて旅行費用の使途が細かく記され、訳者「あとがき」によると『旅日記』の本質は「旅中の収支の明細を記した出納簿」という点にあって、それと日々の旅程、見聞等を結合させた「敢えて言うなら《出納簿文学》とも呼ぶべき文筆の新ジャンル」を生み出した、と評価している。「あとがき」ではまたネーデルラント旅行から帰ったデューラーついて、画業より理論的著作の執筆に精魂を傾け、すべてを書き終えて亡くなった《凄絶というべき晩年》であったが、その中でピルクハイマーは友人の早い死を「藁しべのごとく痩せ衰えて」「手を取りて最期の訣れを告ぐることすら能わざるほど」速やかに不帰の道を急いだと嘆いたことを紹介している。
* Willibald Pirckheimer: Verteidigungsrede oder Selbstlob der Gicht. [Anmerkungen und Nachwort von Wolfgang Kirsch. Mit zehn Kupferstichen von Baldwin Zettl] Lateinisch und deutsch, Jahresgabe der Pirckheimer-Gesellschaft im Kulturbund der DDR, Aufbau-Verlag 1985.
原本は Bayerische Staatsbibliothek digital で読める。キルシュの指摘する通り、献呈した Jacobus Bannissius の名を DOMINO IACOBO BANNISSIO ... とすべきところを IOANNI (Johannes) と誤記されている。
** 1737年の版が Bayerische Staatsbibliothek のサイトにが掲載されている。"Bellum Suitense sive Helveticum cum Maximiliano imperatore atque dynastis et civitatibus suevicis feliciter gestum anno 1499" 同じ版がグーグル・ブックスでも読める。また 1895年に Karl Rück が編纂した "Schweizer Krieg" が Historical Collection from the British Library の一冊として刊行されている。
*** 1459年生誕、1486年ローマ王に選出。1493年に父帝フリードリヒ3世が没し、ローマでの戴冠式を目指すも結局成らず、1508年にトリエントで「皇帝宣言」、教皇による戴冠を受けない最初のローマ皇帝となった。1519年没。
**** Jacob Bannissius/Jacopo Bannisio, 1467-1532 od.1547
Christoph Wilhelmi: Domenico Capriolo Jacopo Bannisio など参照。

痛風 Gicht
  ―― 8) 馬鹿と痛風

近世に入ってカルダヌス Cardanus (Gerolamo Cardano, 1501-1576) が関節炎とポダグラを区別し、バイヨー G. de Baillou (1538-1616) がリューマチの概念規定を記述し、トーマス・シデナム Thomas Sydenham (1624-1689) が数多の臨床例に基づいて、痛風の最終的な古典的定義を与え、リューマチと痛風を区別した。メルツ『痛風の歴史/文化史・医学史の観点』によると「シデナムは先入見無しに痛風を贅沢で自堕落な生活ぶりと結びつけ」(S.18) て、運動の不足が体液 (humorum colluvies) の汚れとなり、それが関節に蓄積することで発症する、特に肥満の者、栄養のいい者に多く、痩せた者にはまれ、という。治療としては植物性油脂 laktovegetabil の食物を勧める。ビールは禁じている。

シデナムは自らも痛風を患ったのである。その体験もあって、急性痛風発作の症状ならびに急性リューマチと痛風の鑑別診断 (Differentialdiagnose) について正確に記述しているとのこと。メルツは急性の痛風発作の古典的な病状描写としてこれを超えるものは無いと評価し、その部分(*)を詳しく紹介している。
通常、発作は以下のように訪れる:1月の終わりか2月の初め、それに先立つ数週間前に患者は胃の調子が悪くなったり消化不良を起こしたり、あるいは身体が重く浮腫んだ感じが日毎に強まったあと、いきなり本来の発作が現れる。2、3日の間、幾分の気力の薄れた状態になる;患者はあたかも大腿の筋肉によって浮腫みが引いてきた感じがするが、きまって痙攣性の収縮と前日の尋常でない食欲の後に生じるのである。普段通りの体調で床に就いて眠りに身をゆだねる。それが真夜中過ぎ1時間ほどして痛みによって起こされる。痛みは大抵は足の親指、時にはかかとや足裏またはくるぶしに来る。この痛みはそれらの部分を脱臼した折に現れる痛みに似ており、患者はその時同時に、あたかも痛む部分に冷水をかけられたような感じがするのである。そのあとすぐに悪寒と発熱が来る。はじめは穏やかな痛みが次第に強くなり、それと歩調を合わせて悪寒が戻ってくるなかで、時間が経つにつれ、ついにはその夜にかけて痛みが最高度にまで高まり、足首と中足骨の様々な関節、その靱帯にまで進み、ときに猛烈な緊張の性格を帯び、ときに靭帯が引き千切られたような、あるいは犬に噛まれたような感覚が呼び起こされ、時には圧迫されたり締め付けられたような感じになる。加えて痛む個所が異常に過敏になり患者はベットで被っている寝具の重みにも、人が部屋を歩くときの床の軋みにも耐えられないのである。
Gewöhnlich tritt der Anfall folgendermaßen auf: Ende Januar oder Anfang Februar, nachdem Patient einige Wochen vorher an verdorbenem Magen oder Verdauungsbeschwerden gelitten oder das Gefühl von täglich steigernder Schwere und Aufblähung des Leibes verspürt hat, erscheint ganz plötzlich der eigentliche Anfall. Ihm geht wenige Tage noch ein gewisser Grad von Schlaffheit voraus; Patient hat das Gefühl, als ob ein Abgang von Blähungen durch die Muskulatur der Oberschenkel stattfände in Verbindung mit krampfartiger Zusammenziehung und einer am Tage vorher auftretenden ganz unnatürlichen Eßlust. Gesund geht er zu Bette und überläßt sich dem Schlafe. Da wird er etwa in der zweiten Stunde nach Mitternacht von einem Schmerz gewekt, der meistens die große Zehe, zuweilen auch Ferse, Sohle oder Knöchel erfaßt. Dieser Schmerz gleicht dem, der bei einer Luxation der genannten Knochen auftritt, wobei Patient zugleich die Empfindung hat, als ob kaltes Wasser über den leidenden Teil gegossen würde. Es folgen bald danach Frostschauer und Fieber. Der anfangs gelindere Schmerz wird allmählich stärker und steigt von Stunde zu Stunde, während im gleichen Verhältnisse der Frostschauer zurückgeht, bis schließlich zur Nacht der Schmerz den höchsten Grad erreicht, sich in die verschiedenen Knochen des Tarsus und Metatarsus und deren Bändern fortsetzt und bald den Charakter einer heftigen Spannung annimmt, bald die Empfindung des Zerreißens der Bänder hervorruft, oder dem Bisse eines nagenden Hundes, zeitweilig dem Gefühl des Druckes und der Einschnürung gleicht. Dazu ist der ergriffene Teil so außerordentlich und lebhaft empfindlich, daß Patient weder das Gewicht der darauf liegenden Bettstücke, noch die durch starke Schritte erzeugte Erschütterung des Zimmers ertragen kann.
続けて、
このように病人は絶えざる不安のなか姿勢を変えながら辛く苦しい一夜を過ごす。痛みが強まるたびにあちらにこちらにと寝返りを打ち、身体の向きないしは痛む部分の位置を変えることで痛みを和らげようと千回も試みるが、効き目はない。ようやく夜が明けて1時間或いは2時間経って、発作が始まっておよそ24時間が過ぎて、病素の緩やかな消化ないしは排出が為された。突如痛みが去り、患者はほっと息をつく、そして患者はこの変化を最後の位置取りの成果だと誤って考えてしまう。発汗も穏やかになるなかで眠りがやって来る、そして患者が著しい痛みの名残で目が覚めると、痛みに襲われた箇所に新たな腫れがあることに気づく、そこは以前、あらゆる痛風発作で通例のケースだが、病んだ部分を取り囲む静脈の強い拡張が観察された場所である。その翌日、あるいは二日後、三日後に、痛風の病素がたっぷりある場合は、再び痛みが現れるが、特に夕刻により強く現れるが、しかしまた翌朝(鶏が鳴くとともに)痛みは引く。数日のうちに痛みは別の足にも現れる。最初痛みが襲った個所が緩和すると、やがて脱力感も去り、患者はあたかも一度も痛みなぞ無かったかのような気分になる、それはあくまで別の足で同じ劇(トラジェディ)が繰り返さなければの話で、別の足でも起きれば、性質も期間も痛みも最初の発作とまったく同じものが繰り返されるのである。
So bringt denn der Kranke eine qualvolle Nacht in beständiger Unruhe und Lageveränderung zu. Bei jeder Schmerzsteigerung wirft er sich hin und her, tausend Versuche werden gemacht, durch Umlagern des Körpers bzw. des ergriffenen Teiles den Schmerz zu lindern, jedoch ohne Erfolg. Erst in der zweiten oder dritten Morgenstunde, nachdem vom Beginn der Anfalles etwa 24 Std. verflossen sind, hat eine mäßige Verarbeitung und Ausscheidung des Krankheitsstoffes stattgefunden. Patient wird plötzlich schmerzfrei und atmet erleichert auf, wobei er diese Wendung mit Unrecht glaubt der Stellung zuschreiben zu dürfen, die er gerade zuletzt eingenommen hat. Unter gelindem Schweißausbruch erfolgt nun Schlaf, und wenn Patient mit bedeutendem Nachlaß des Schmerzes erwacht, bemerkt er an dem ergriffenen Teil eine frische Anschwellung, da, wo vorher, wie das bei allen Gichtanfällen gewöhnlich der Fall ist, eine stärkere Erweiterung der das kranke Glied umgebenden Venen zu beobachten war. Am folgenden bzw. am zweiten und dritten Tag danach tritt, wenn der gichtische Krankheitsstoff reichlicher vorhanden ist, wieder der Schmerz, besonders gegen Abend, stärker auf, läßt aber dann (beim Hahnenschrei) in der Frühe nach. Innerhalb einiger Tage greift der Schmerz auch auf den anderen Fuß über. Hat der Schmerz dann an der zuerst ergriffenen Seite nachgelassen, so verschwindet auch bald die Schwäche, und Patient hat das Gefühl, als ob er niemals gelitten hätte, vorausgesetzt, daß nicht am anderen Fuß dasselbe Spiel (tragoedia) sich wiederholt, das nach Charakter und Dauer des Schmerzes dem ersten Anfall vollkommen gleichen kann.
さらに続けて、
時には、すなわち病素が多量で片足で収まらないほどならば、両足同時に同じ激しい痛みに苦しめられるということが起こりうる。しかし、すでに述べたように、片方の足から別の足へと移るのが一般的である。両方の足が火の洗礼を一度切り抜けると、その後の発作は、発症する時刻並びに継続時間については不規則になるのが通例だ。ただ一点、ある種の同等性があり、すなわち痛みは常に夜に強まり朝には収まるということ。そしてそのような一連の小規模な発作が痛風の苦しみを構成し、患者の年齢によって長い時間あるいは短い時間継続するのである・・・
Zeitweise, solange nämlich der Krankheitsstoff so reich vertreten ist, daß ein Fuß nicht ausreicht, ihm zu beherbergen, können beide gleichzeitig von gleich heftigem Schmerz gequält werden. Im allgemeinen jedoch greift er, wie bereits mitgeteilt wurde, sukzessiv von einem Fuß auf den anderen über. Haben nun beide Extremitäten ihre Feuertaufe einmal bestanden, dann pflegen die späteren Anfälle sowohl in bezug auf die Zeit des Auftretens wie in bezug auf die Dauer unregelmäßig sich zu verhalten. Nur in einem Punkte besteht eine gewisse Gleichmäßigkeit, nämlich darin, daß der Schmerz stets bei Nacht zunimmt, in der Frühe nachläßt. Und aus einer Reihe solcher kleineren Anfälle setzt sich das gichtische Leiden zusammen, das je nach dem Alter des Patienten von längerer oder kürzerer Dauer ist ...
慢性の痛風についても簡単に紹介している。
患者の病状が悪化する前、発作の合間の長めの休止期に、そして患者の容態がすっかりよくて各器官が順調に働いているときに、脚があらゆる方向に収縮し萎えてしまっていて、たとえ立ったり歩いたりできるとしても、足を引きずりながらであり、大変な困難を要するのである。それに足を使って動こうと常以上の力を籠めるのは危険である;休止期に病気の元が決して完全に消えているのではなく、脚に延びていくことが全くできないわけではないので、患者が前に進もうと努力を重ねれば重ねるほど、体内の器官にとっては一層危険なのである。それによって痛みは強まり、そして絶えず多かれ少なかれ体にけだるさが存する・・・食欲が失せ、生きる気力が減少するので体の組織は衰える。
Während vor Verschlimmerung des Übels der Patient zwischen den Anfällen längere Pausen und während dieser völliges Wohlbefinden genießt, auch die Organe normal funktionieren, besitzt er jetzt Extremitäten, die nach allen Seiten zusammengezogen und gelähmt sind, und wenn er auch gehen und stehen kann, so ist das nur hinkend und mit großen Schwierigkeiten möglich. Übrigens sind größere Kraftanstrengungen, sich mit den Füßen zu bewegen, gefährlich; der Krankheitsherd, der in den Intervallen niemals vollständig verschwindet und nach den Extremitäten zu nicht frei sich erstrecken kann, wird für die inneren Organe um so gefährlicher, je mehr der Patient seine Bemühungen zur Fortbewegung verstärkt. Dadurch wird der Schmerz stärker, und ständig sind mehr oder weniger lästige Empfindungen vorhanden ... Der Appetit verschwindet, der Organismus ist wegen Mangels an Lebensgeist erschlafft.
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シデナムは18歳でオクスフォード大学に入るが、清教徒革命による内戦に議会派の士官として従軍したため、学業に専念することはできなかった。1648年に医学士の学位を得てオクスフォードを卒業。学部を卒えた研究者のみを受け入れる「オール・ソウルズ・カレッジ」のフェローに選ばれる。1656年にロンドンで開業した。1676年、ケンブリッジ大学を卒業、ようやく医学博士の学位を取得した。長い内戦の混乱の中で、市井の開業医として臨床の現場で多くの病状の正確な記録を取り続け、疾病分類学の基礎を築いたと言われる。数多くの著書を残したが、特に『医学診察報告』Observationes mediciae (1676) はその後2世紀にわたって臨床医の標準的なテキストとなり、彼は《イギリスのヒポクラテス》(**)と呼ばれるに至った。

英訳版『シデナム著作集』The Works of Thomas Sydenham, M.D., on Acute and Chronic Diseases: With Their Histories and Modes of Cure に添えられている伝記『シデナム博士の生涯』THE LIFE OF DR. SYDENHAM によると、シデナムは52歳で健康が下り坂になり、彼が生涯の大半の時間をその研究にささげた病、すなわち「痛風の頻繁な発作」に見舞われる。後には腎臓結石と血尿が伴うようになった。

『シデナム著作集』の「痛風論」A TREATSIZE OF THE GOUT を見ると、シデナムは痛風の発作には肉体的な原因以外に、精神的な原因があると考えていた。精神の酷使、心配事、不眠、興奮、学問に精励しすぎることなどである。「… 従って私は馬鹿が痛風に罹るのはわずかしかいなかったと思う」 "[...] and hence I conceive it is, that few fools have had the gout." と言ってのけるのである。「痛風論」の結論部分を見てみよう。
結論:内臓は早晩、病原となる物質の沈滞によって傷つくので、分泌器官がもはや機能しなくなり、そこから、汚れた体液が増えすぎて血液が淀み、そして痛風の物質が以前のように手足に投げ捨てられることが無くなり、その結果ついに死が彼を悲惨な生から解放する。
しかし私にとって一つの慰めは、そして大きな財産も大した才能もない他の痛風患者も同感であろうが、王、王子、将軍、提督、哲学者その他の偉大な人物もみな同じように生きそして死んだということだ。つまり、この疾病は他にない特別な意味において認められるであろう。この疾病が貧しい人よりも裕福な人を、馬鹿よりも賢人を滅ぼし、かくて神の正義と厳密な公平を証しているように思われ、人生を快適にするものを欠いている人々には別の良きものを支給し、多く持つ人には災いを同じだけ混入することで釣り合いをとる;その結果、誰も混じりけのない幸福あるいは不幸を味わうことはなく両方を体験させるという神意が普遍的絶対的に現れる:そしてこの幸不幸の混交こそが弱くて滅びやすい我々に相応していて、恐らくは人間の本性にぴたりと適っているのだ。

To conclude: The viscera in time are so much injured, from the stagnation of the morbific matter therein, that the organs of secretion no longer perform their functions, whence the blood, overcharged with vitiated humours, stagnates, and the gouty matter ceases to be thrown upon the extremities as formerly, so that at length death frees him from his misery.
But what is a consolation to me, and may be so to other gouty persons of small fortunes and slender abilities, is, that kings, princes, generals, admirals, philosophers, and several other great men, have thus lived and died. In short, it may, in a more especial manner, be affirmed of this disease, that it destroys more rich than poor persons, and more wise men than fools, which seems to demonstrate the justice and strict impartiality of Providence, who abundantly supplies those that want some of the conveniencies of life, with other advantages, and tempers its profusion to others with equal mixture of evil; so that it appears to be universally and absolutely decreed, that no man shall enjoy unmixed happiness or misery, but experience both: and this mixture of good and evil, so adapted to our weakness and perishable condition, is perhaps admirably suited to the present state. (pp.312-213)
痛風の要因として従来から飲酒・贅沢な食事・淫欲が言われてきて、トーマス・シデナムも「安逸な生活、官能的快楽、過度の飲酒、運動不足」を挙げているが、この《イギリスのヒポクラテス》は、痛風は「馬鹿よりも賢人を滅ぼす」と、そこに知的要因を加えたのである。それを天の配剤としたのである。疾病の診断と治療に粉骨砕身当たってきたこの身が痛風に苦しめられる、そんな医師の自己救済というか、よもや意趣晴らしではないでしょうが。
* メルツが用いているドイツ語訳は、Abhandlung über die Gicht. In: Klassiker der Medicin, hrsg. von K. Sudhoff. Barth, Leipzig 1910 -- Eingeleitet und übersetzt von J. L. Pagel.
シデナムの著作はその英・独訳が電子書籍 Google Play で読める。英訳は1809年の Benjamin Rush 編 によるフィラデルフィア版、独訳は1838/39年のJ. Kraft 訳、R. Rohatzsch 編 (Ebnersche Buchhandlung, Ulm) である。
** 多くの資料で 'The English Hippocrates' という呼称が紹介されている。メルツは Pearce, J. M. : Thomas Sydenham "The British Hippocrates" (1995) という文献も挙げている。