拾遺集、拾五 Aus meinem Papierkorb, Nr. 15六文橋 Sechserbrückeヨーロッパ中世の都市は周囲に城壁・掘割をめぐらせて外敵の攻撃に備えていたが、18世紀ともなるとこの防御装置は軍事的な意味を失って、むしろ町の発展拡張の障害となった。やがては取り壊され、周回道路や公園に作り変えられていったが、一時期は市壁が軍事装置ではなく物流をコントロールする関税壁の役割を果たした。シュプレーに架かる橋のうち、オーバーバウム橋とウンターバウム橋、これは現在のクローンプリンツ橋、の両橋が粉挽きや畜殺業で納税義務のある市民を管理する城壁の両端を閉じていた。[中略]奇妙なことにほとんど都市中央に位置するカヴァリール橋、ロッホ橋、ヤノーヴィッツ橋で通行税が徴収されていた。これらは実は私営の橋で所有者は通行人の「封鎖六文銭」で懐を肥やしていたのだ。料金はそれほど高額ではなかったが ―― 5ペニヒか6ペニヒ ―― 倹約家の市民はこういう橋を避けたので、ここを経由するルートはいつも閑散として、料金を払わないでいい軍人だけが通っていた。徴税人はオーバーバウム橋とウンターバウム橋の監視所だけではなく、市門の全体で目を光らせていたのである。これはあのハンス・フェヒナーの『シュプレーハンス』の続編にあたる『わが懐かしのベルリン』の一節である。橋が都市に流入する物品に課税する税関の一翼を担っていたのは理解できるが、市内に有料の橋があったとは驚きだ。下の図は1855年の関税市壁の状況を示している。中世の城壁より遥かに広い区域を囲っていて、確かにシュプレー川の上・下流部分がオーバーバウム橋とウンターバウム橋で結ばれている。フェヒナーは1860年生まれだから、この記述は1870年代のことと思われる。実は市域の拡大により、課税場所をどんどん外に移動させることになり、結局ベルリンの関税市壁は1860年の布告で撤廃されている。市へ入る物品の課税はなくなっても、橋の通行料「六文銭」徴収の方があとまで残ったのである。 Die Berliner Akzisemauer um 1855 (de.wikipedia.org) お金を払って通るという所は橋ばかりではなく、昔は夜間に閉じられた建物の扉を、夜警にお金を払って開錠してもらったのであって、ウィーンではその金額がやはり6クロイツァー、これを「封鎖六文銭」 "Sperrsechserl"(*) と呼んでいた。この名称がベルリンの有料橋まで及んだのであろう。
こうした有料橋の一つ、カヴァリール橋で橋守の防御をかいくぐって「只で渡る」ことをゲームとしていた腕白小僧たちの話がG・バンベルガー『往時のこと』で報告されている。いつの世も大人をからかうのが悪童の楽しみだった。 市内もこの75年の間にガラッと様子が変わった。かつてはパーツェンホーフ醸造所はシュパンダウ通りとハイリゲ・ガイスト通りの間にあったことを知る人は少ないだろう。ここからヨアヒムターラー・ギムナジウムの門をくぐってカヴァリール橋に行くことが出来た。この橋は「六文橋」と呼ばれていたが、渡るのに半グロッシェン硬貨が要ったからだ。ここに言われている場所にパーツェンホーフ醸造所があったかどうか、(この醸造所のWEBサイトには、「1855年にミュンヘンからベルリンにきて、ノイエ・ケーニヒ通り(現在のオットー・ブラウン通り)に醸造所を建てた」とある)下の1875年の地図では確認できない。ルストガルテン、そしてドームの対岸にある 7 と番号の打たれた建物がヨアヒムターラー・ギムナジウムで、27 がカヴァリール橋である。なお Kavalierbrücke はもとは Burgbrücke で、そのあと Kaiser-Wilhelm-Brücke そして Liebknechtbrücke と変遷を重ねている。 「六文銭」といえば、ベルリンでは「六文馬車」も走っていた。当時のベルリンでは市域の拡大・人口増にともなって乗合い馬車が急速に普及し、1886年以降、新規参入が相次いだが、ある会社が料金を半グロッシェンに設定して客集めに成功してから、これが乗合い馬車の基準料金となった。かくて「六文馬車」 "Sechseromnibus" がベルリンの乗合い馬車の通称となった。(ベルリンの最初期の乗合い馬車としては1825年にスタートした「クレムザー」が有名だが、これは「静けさの前の嵐」や「レムケの亡き未亡人(2)」の「ピクニック」などに出てきました。) ところで上の記述で六文橋の通行料が5ペニヒと6ペニヒとに揺れているのは、通貨制度の変更のためであろう。プロイセンの1ターラー(30 Groschen)は3マルク60ペニヒ (360 Pfennig) であったのが、1872年、3マルク (300 Pfennig) に切り下げられた。それで1グロッシェンは12ペニヒから10ペニヒに下落して半グロッシェンは5ペニヒになったのに「六文銭」 Sechser (Sechsling とも言う) という硬貨名がそのまま残った(**)のである。これは昔の十二進法が十進法に改められた影響と言えよう。英国でも以前は1シリング=12ペンスで、やはり半シリング=6ペンス硬貨があり、sixpence といえば安価なこと、安物、つまらないものという含意があった。 [付記] 現住地に移る前に住んでいた京都府向日市に「一文橋」と呼ばれる橋がありました。これは江戸時代に整備された「街道」の一つで「山陽道」の旧道にあたる「西国街道」(京と西宮の間は「山崎街道」とも呼ばれた)が、向日市と長岡京市の間を流れる小畑川を渡る橋です。橋の保守・修理の費用のために旅人から橋守が一文の通行料を徴収したので「一文橋」と呼ばれるようになったとの言い伝えがあります。この橋名に倣って Sechserbrücke を六文橋と訳した次第です。 * ウィーン・オペレッタの最後の作曲家の一人とされるローベルト・シュトルツ (1880-1975) に "Das Sperrsechserl" というタイトルの作品がある。ローベルト・ブルーム Robert Blum とアルフレート・グリューネヴァルト Afred Grünwald (1884-1951) の脚本によってウィーンのコメディアンハウスで初演(1920年)されたオペレッタらしいが、どのような内容なのか調べがつきません。 小用事情 Notdurft verrichtenいささか辺りをはばかって「小用事情」と題したが、「道端など便所以外の場所で、立ったまま小便をすること」(広辞苑)、すなわち「立ち小便」の話題である。19世紀のベルリンの上水道・下水道など水事情を調べていて、本題とは直接関係はないものの、当時の世情を窺える興味深い史料にいくつか出くわしたうちの一つがこれである。近代的な下水設備が整備されるまでヨーロッパの大都市は何処も不潔で不衛生だった。ベルリンでは枢密建設顧問官E・ヴィーベに「悪名高いベルリンの排水溝(*)」と言わせしめたように、街中の悪臭は主に排水溝から来ていた。禁じられているにもかかわらず住民がごみを溝に捨てるので、至るところで流れがせき止められるのである。家庭や商店のごみだけでなく街中にある屠殺場からの臭いが、特に夏場は耐え難いほどで、こうした問題の対処に市当局、警察は苦労していた。そんななかで方々で見られる「立ち小便」がまた町に漂う悪臭の源となっていることから、これが改めて問題となった。ラーグンヒルト・ミュンヒ『18・19世紀の公衆衛生制度』(Berlin 1995)によると、 警察本部は、案件はさまざまだが関連する廃棄物処理を対象を広げて措置することに決めた。今は以前より水浴をする者のことや悪臭を気にする住民が増えていて、街角で用を足す人々を目にすることにも悩まされている。こういった事情は警察本部が問題を受け止め、目指すは「公共の小用施設を各道路の適当な箇所に、目立たない形で設け、そして尿の臭気を取り去るよう按配し、これ以上の害悪を招かないよう対策をとること・・・もうずいぶん昔から街角、通りや広場の片隅を小用で汚させないようにするのは願わしいことと考えられてきたが、陛下内閣はそのような不潔箇所が存在することは・・・これもまた大いに憂慮すべきことであると宣言した。」しかしながら、この種の施設についての近隣住民の反発も予想したようだ。 同時に、住民がそのような施設を受け入れるようとの希望を表明し、この期待を「少し先まで行けば安全に礼儀正しく用を足せるところがあると分かっていれば誰にとっても好都合だし・・・警告板やその類のものを立てる必要も・・・ないだろう」と強調した。このように1824年の警察の記録にあるとのこと。注目すべきは、小用が水浴と平行して議論になっていることだ。コメニウスの『世界図絵』 (1658) にもその項目がある冷水浴・温水浴なのだが、ヨーロッパの都市生活では一時期廃れていて、「18世紀の市民文化の中で水浴はタブーであった」(**)のだ。ところがその世紀の末からベルリンではロシア式の蒸気浴施設が作られたり、水浴が衛生・健康に良いとして復活してきたのである。しかし川岸を散歩すると裸体が目に入るという風紀の問題がある。こちらの問題は川辺に水浴施設が建てられたり、「水浴船」 Badeschiff が作られるという方向に進むが、「小用事情」の方はどうなったか。 市の建築顧問官ラングハンス(***)が所見を求められて概ね以下のように回答した。
また都市の拡大、人口増につれて新たに悪弊の場所が出現する。すなわち新しい交通機関として1825年に登場した乗合馬車クレムザー(前項「六文橋」あるいは「静けさの前の嵐」など参照)のターミナルである。住民の苦情を受けて1833年4月、警察本部は次のような対策を講じた。 「ブランデンブルク門の前、その右手、クレムザーの車両が停められている場所で、誰はばかることなく用便をするというのは良からぬ振る舞いである。これは耐え難い悪臭を放つだけでなく、多数が集う場所を背にしてそこに行くのは公序良俗にもとると言わざるを得ない。それゆえ栄えある王国警察本部におかれてはこの不都合について慎むよう通達され・・・市壁に警告板を取り付けることが許されるかどうか伺いを立てること、それがわが義務と考えた次第である。」クレムザーの乗合馬車はブランデンブルク門とシャルロッテンブルクを結ぶ路線から営業が始まったのであった。ブランデンブルク門が建つパリ広場に関してはクレムザー側が建設費用負担と、加えて街灯の設置を申し出ていて、すぐさまラングハンスに小用施設の設計が委託された。
しかしいくら公衆トイレを設置してこれを厳しく禁じても、悪弊を絶つことは出来なかったようだ。1873年3月9日にベルリンに到着した岩倉使節団の一行は市内を視察して、 此府ノ人気粗率ナルハ、第一ニ兵隊学生ノ跋扈スルニヨル、兵隊ハ数戦ノ余ニテ、左モアルヘキナレドモ、学生ノ気モ亦激昂ナリ。・・・遊園ニ劇飲シ、酔ヲ帯ビテ高吟朗謡、或ハ路傍ニ便溺ス・・・と、路傍ニ便溺ス、すなわち「立ち小便する」様子を観察していた。普仏戦争勝利の興奮いまだ冷めやらず、若い兵士・学生の粗暴な振る舞いは、遥か東洋から来た使節団の目には異様な光景に映ったであろう。「高吟朗謡」とあるからには、あの『ラインの守り』も使節団の耳に響いたのではなかろうか。 * "... und ähnlichen Anlagen in diesen tiefen Rinnen theilweise liegen blieben und in Fäulniss geriethen, so dass der üble Geruch der Berliner Rinnsteine sprichwörtlich wurde." 湯屋 Bader前項の「小用事情」で、ヨーロッパの都市生活では一時期廃れていた「水浴」が18世紀の末ころから復活してきたことに触れた。今回はこちらの事情を眺めてみよう。水浴・湯浴は衛生、療治の目的で(*)ドイツ語圏でも古くから行われてきた。そしてこれを行う施設が Badhaus とか Badestube と呼ばれた。河川あるいは地下水を汲んで、冷たいまま冷水浴、あるいは薪で沸かして温水浴をさせる。これを施す施術者は Bader と呼ばれ、湯浴みさせるだけでなく、瀉血(刺絡)や吸角(吸瓢)も行った。Bader は中世以来外科的な手術、刺絡、散髪、抜歯などを行う医療家で、床屋、理髪師 Barbier に似た、一種の職人として養成された。 16世紀の Bader と Badhaus (wikipedia.de) 昔は理髪師は髪を切り髭を剃るだけでなく、外科医を兼ねていたのはよく知られていることだが、 Bader も水浴施設において同様の仕事をした。ただし、地位は理髪師より一段下であった。この職に日本語の定訳があるのかどうか不詳だが、Barbier が床屋、理髪師なら Bader は湯屋、入浴師(沐浴師)となるだろうか。Badhaus はわれわれが思い浮かべる入浴施設、「風呂屋」とか「銭湯」とかとはずいぶん様子が異なる。というわけで「床屋」が理髪店と理髪師の両方の意味で用いるのに倣ってここで「湯屋」をその施設にも入浴師の意味にも用いることにする。 ヨーロッパ近世の理髪師という職業について、その修行や仕事ぶり、同職組合の様子などを鮮やかに伝える資料がある。それは一人の理髪師マイスターの自伝で、ありがたいことに日本語に訳されている。ヨーハン・ディーツ (1665-1738) という理髪師は、この資料のタイトルにあるように、「大選帝侯軍医にして王室理髪師」Meister Johann Dietz, des Großen Kurfürsten Feldscher und Königlicher Hofbarbier であった。「軍医」 Feldscher とは実態は従軍理髪師であり、それが傷病兵の治療に当たるのである。戦場では外科手術はもちろん、内科的な病人にも投薬治療を行う。 手術や解剖が自由に行えない時代なので、大学で医学を修めた者は内科専門の医師となる。だから「理髪師」の方が大学出の「ドクトル」より外科的分野はもちろん治療法全般についての知識と経験は上回るという事態がしばしば生じる。戦場でヨーハン・ディーツの前には、腕を失くし、足を失った者、頭を真っ二つに割られた者、下顎が取れて舌がぶらぶら垂れている者が連れてこられる。町ではペスト薬を調合、強壮剤と毒消しを使い、テリアカ(**)、ダイオウを扱う。頭に大怪我をした者には、まず瀉血し、生きたニワトリを二つに裂いて頭に載せる。パラツェルズスの本を読み、薬草摘みに出かける。 理髪師兼外科医という「手職」の実情について「訳者あとがき」で次のように説明されている。理髪師はそもそも十二世紀に組織された湯屋組合(本書でも Bader に「湯屋」という訳語が用いられている)から生まれた職種である。公衆浴場を経営し、入浴、散髪、ひげそり、爪切りから、皮膚病の治療、瀉血といった「医療」にも携わっていた。もちろん「医術」は「湯屋」だけのものではなく、いわゆる民間医術として出産・分娩を助ける産婆のほか、市の立つときや祭りに現れる流しの医師、旅芸人のように見世物興行をしながら薬を売る者、その他さまざまな怪しげな「医者」が携わっていた。それが、 キリスト教が浸透するにつれて、「湯屋」が担当していた医術は、修道院学校で正規の授業を受けた聖職者に任されるようになる。ただし、出血をともなう手術は禁止されていた。外科手術は神意にもとるものと考えられていたからである。その結果、一二九八年には、聖職者は外科医術も、外科手術に立ち会うことも禁止され、このあたりから手職としての外科医術が差別され、内科学からはっきりと分離されるようになる。内科学は「身体医」と呼ばれる大学卒の医者の手にゆだねられていたが、出血をともなう治療は助手として雇っていた理髪師にやらせた。戦場で外科の実習を積み重ねていた理髪師も多かったのである。まさしくこういう時代にディーツは生きていた。 もともと保健、療治の目的でひとが訪れた湯屋は、酒食を提供するところが現れ、やがて一種の社交の場ともなった。かくて少なからぬ湯屋は男女の放縦な交渉の場になり、さらには売春宿もどきのものも出来たのである。 このあたりの状況は下田淳『居酒屋の世界史』に描かれた居酒屋の光景を髣髴とさせる。古くからドイツの居酒屋は住民の社交の場であり、階上には寝室もあって旅人の宿にもなった。居酒屋では宴会が開かれ、賭博場となり、また街娼のたまり場ともなった。階下で意気投合すれば(話がまとまれば)階上に上がる、というのは湯屋も同じスタイルであろう。さらに同書第九話「芸人と居酒屋」では、湯屋(風呂屋)を引き合いに出して両者の類縁性を語っている。 「外科医は大学出の医者ではない。外科医というより芸人であった。当時は、しばしば風呂屋も外科的治療をおこなっていた。風呂屋が外科医でもあった。農村には公衆浴場はなかった。定住あるいは旅回りの床屋が、湯を沸かし、外科的治療をおこなった。とくに放浪外科医は、治療効果を誇張して客を呼んだ。当時の居酒屋も同様だろうが、湯屋は施設や水質の管理が十分ではなく、瀉血や吸角が必ずしも消毒の行き届いた器具で衛生的に行われたとは言えず、却ってここで病気に感染するという事態が生じた。風紀の乱れもあいまって、性病(梅毒 Syphilis )も広がったのであろう。 ここ[ベルリン]は、ヨーロッパの全域でそうであったように、公共あるいは私設の入浴施設でみな一緒に入ったので、梅毒が出現し、それによって評判を落とし長らく都市生活から締め出されることとなった ―― 少なくとも水と触れ親しむのはむしろ良くないのだと言い伝えられることになった。さて、こうした尤もな事情で「18世紀の市民文化の中でタブーであった」水浴・温浴が世紀末に復活してきたのはどうしてだろうか。まずは啓蒙思想による新しい衛生観・健康観の浸透が底流にあるだろう。そしてベルリンにおいては枢密保健顧問官ヴェルパーが水浴復活の立役者となったようだ。彼の奮闘については、また稿を改めて。 * 病気治療の一環として行われたが、身体に水をかけることは「洗礼」との連想から、わが国の「沐浴」「斎戒沐浴」に似て、一種の儀式的なイメージもあったようだ。 水浴船 Badeschiff18世紀末になって啓蒙思想による新しい保健観・衛生観が浸透してきた。身体を湯水で洗って汚れを落とし清潔に保つこと、これが日々の快適な生活に役立つとの認識が広まってきた。そしてまた一種の楽しみとして、おいそれとは遠方の温泉場に行けない庶民が手近な入浴所を求めたことが都市の水浴・湯浴復活に結びついたのである。そこに新しくロシア式蒸気風呂が西欧社会に紹介されるという事情も加わった。この項も、当時の衛生行政について公文書資料を綿密に調査したラーグンヒルト・ミュンヒ『18・19世紀の公衆衛生制度』によって、ベルリンの水浴事情を眺めてみよう。例によって微苦笑を禁じえない史料が紹介されている。まずは1796年、ベルリンのブーダッハなる人物がこのロシア式蒸気風呂の営業を国王に願い出た顛末について、実に興味深い請願者と当局との応酬である。 「さまざまな専門家の勧告に基づき、また小生自らがロシアに住んだ経験により、市郊外ローゼンシュタットの4列目にある家屋でロシア式浴場を設置いたしました・・・痛風や関節病に罹った若干の病人[に対して]非常に良好な効果がありました」という請願。所轄部局から即座に返答がきた。「ブーダッハなる者ただちに罰金30ターラーを科す、かかる所業はあらゆる医学的法則に反し[そして]住民にこの上なく大きな不利益と害を与えるゆえ、ロシア式浴場なるものを中止させる」と。ブーダッハはなかなか強かな人物だったようで、おいそれと引き下がることなく正面切って反撃に出た。罰金に抗議するとともに当該部局に微妙で厄介な問を投げ掛けたのである。「上級保健局」がこれを有害無益な「素人療法」と決定されたのか、あるいは純然たる警察の問題として「浴場が住民に害を与える」と扱われたのか、と。当時、衛生医療に関する行政システムがなお形成途上にあって、保健部局と警察の役割分担が必ずしも明確ではなかった。 専門家がロシア式浴場を有害無益と裁定したのかとブーダッハは啖呵をきっているが、「上級保健局」 Ober-Collegium Medicum とは、1725年に「保健局」 Collegium Medicum から格上げされたプロイセン王国の保健衛生担当官庁である。この部局が医療者の職種として認めていたのは学位を持つ医師、外科医、薬剤師、薬種屋、湯屋、産婆であって、祈祷師も含め目医者や歯医者など、それ以外の者を十把一絡げに「素人医」 Pfuscher と呼んで医療行為を禁じていた。その上でロシア式蒸気浴を「素人療法」 Kurpfuscherei と認定されたのか、と反問したのである。そうすると、 警察本部は浴客をも含めて罰しようと考えていたが、しかし差し当たりは尋問を行うことに決した。なぜなら「一つにはロシアの外交官が利用していること、もう一つにはすでに訪れた民間人も良い効果を得ている」ので、「現在の浴場を医師の監督の許で続けるのはどうか」という提案をして円満な解決を図った。外交問題にも成りかねないと恐れたためか、警察本部は一転して浴場経営を許可した。「医師の監督」という条件をつけてなんとか面子を保とうとしたように見える。 ベルリンで新時代の水浴を普及させた功労者が、イェーナ大学で医学を修めて1794年からベルリン市の保健局長となったG・A・ヴェルパー Georg Adolph Welper (1762–1842) であった。彼はブーダッハの件で市の保健局長としてまた上級保健局のアドヴァイザーとして審査に当たったのだが、同じときにコンラートというカフェーハウスの経営者からも水浴場設置の申請があって、それに対して彼は、「湯屋の公衆の健康に及ぼす大きな効果を認識することなくして健康の歴史を語ることはできない」との見解を表明し、浴場設置を後押しした。のみならずやがては自らが「一般大衆に最良の施設」の設置を申請するに至る。彼の計画は規模の大きな施設をシュプレーの川畔あるいは水上に設け、川の流水での水浴と個室での温浴を可能とするものだった。 実はパリでもウィーンでも水浴船が作られていて、パリではジャン・ジャック・ポアトヴァンなる国王付き湯屋が1761年セーヌに浮かべた。2艘の船を並べた作りで、水浴・湯浴ができる33の浴室があり、2艘の船の間では流水で泳ぐことができた。ウィーンではパスカル・ヨーゼフ・デ・フェローという医師が1781年にドナウ川に水浴筏 Badefloß を浮かべて岸に係留した。筏には開口部があり、そこから梯子で木製の格子で作った籠に降りることができた。籠の中で泳ぐ形であって、人々はこれを「うなぎの箱」Aalkasten と呼んだ。1793年、ハンブルクでもこれに倣ってアルスター湖に水浴筏が設けられ、毎日5時から22時まで営業、1810年まで続けられた。(*) ヴェルパーの「水浴船」は1802年(あるいは1803年)、シュプレー川の、そこが水質が最も良いとして選んだランゲ・ブリュッケ(現ラートハウス橋)近くに設置された。王宮に近すぎるとの反対もあったが、国王自らが承認したという。船底中央が開いていてシュプレーの流水に身を浮かべることができる構造で、ロシア式蒸気風呂はなかったが、個室の浴室は複数設置された。個室は4等級に分けられ最上級の浴室は絵画が描かれた天井、アラバスター製のランプ、全身を映す鏡、マホガニーの床、戸棚など内装が贅沢にできていた。料金は最高が1ターラー、最低が2グロッシェンだった。(**) Badeschiff bei der Langen Brücke (wikipedia.de) シュプレーでの遊泳は危険として禁じられていたこともあり、「浮かぶ水浴場」は人気を呼んだ。10年後には「水浴船」は手狭になり設備も老朽化したので、彼はノイ・フリードリヒ橋の袂に新設を申請した。現在の美術館島 Museumsinsel になる。新しい施設の建設に当たっては水浴船本体だけではなく橋の周辺の整備、川水の濾過装置も必要、汲み上げは水面下の見えないところ・・・と工事費の負担が増え、ヴェルパーの用意できる資金ではとうてい間に合わなくて、公費助成を求めることとなった。これは認められたが、その代わり貧困者に12年間無料にするという義務を課せられた。 Badehaus an der Friedrichsbrücke (wikipedia.de) 12年が過ぎて経営が苦しくヴェルパーは新たに助成を求めた。(1810年からはプロイセン内務省の枢密保健顧問官に任用されていた。)これははじめ承認されなかったが、当時水浴施設の監督官庁となっていた文化大臣アルテンシュタインの力添えがあって国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世により承認の裁可がくだされた。「この者になにがしかの援助を与え水浴施設を維持させること」、としてまたも1万2千ターラーが贈与された。しかしその後も火災にあうなど不運に見舞われて、さらに大きな負債に苦しんだ。また「無料入浴」客が多数に上り、有料の客を締め出しかねない状況だった。この義務の免除を何度も請願したが、貧民・病人政策の支障となるとして認められなかった。 ヴェルパーの奮闘は近代的な公共浴場の発展に大きな役割を果たした。彼の先例に倣って続々と新しい入浴施設が開設され、ロシア式蒸気風呂も含めさまざまな形態の施設が作られ、とくに解放戦争のあと顕著な増加を見た。市の保健医ナートルプ Carl Natorp によると1830年には市内と市の近郊に18の公認浴場が誕生し、湯屋は市民生活に不可欠な施設となっていた。36年にヴァイデンダム橋そばに水浴船が作られ、それからも施設数は年々増加し、1856年にはその数40に上った。 18世紀の湯屋が抱えていた風紀道徳の問題、これは新しい施設では改善された。ヴェルパーの水浴船では「人品怪しきもの」 »Personen mit zweifelhaftem Ruf« は入場を断ったし、男女の客は厳しく分けられていた。「良風美俗を求め、いかなる事情があろうと、たとえ夫婦であろうと、分離の例外とはされなかった。」(***) しかしながら川の水浴を巡っては相変わらず苦情が絶えなかった。ミュンヒ『18・19世紀の公衆衛生制度』に、1817年7月の興味深い記録が拾いあげられている。 「少なからぬモアービットの住民が苦情を言っていた。一人前の大人なのに礼儀をわきまえず、シュプレー川のベルヴュー対岸の人目に触れる中で水浴びをしたり泳いだりするだけでなく、公序良俗を嘲弄するように素裸で小舟に乗り川を漕ぎまわり、なんとツェルテまでやってくる・・・目撃者によるとシュプレーのツェルテとベルヴューの間で毎日同じようにして礼儀に反し鉄面皮にも、ベルリンの慎み深い住民に不愉快な思いをさせ、シュプレー河畔の散歩という市民の楽しみを邪魔立てしている。」モアービットはベルリンの北西、シュプレー川のティーアガルテン対岸に位置する地区。フランスからの亡命新教徒ユグノーが定住することで市街地形成が始まるが、その後軍事施設・工場が立地することとなる。ティーアガルテンのシュプレー川に接する上流(東側)に、テント(Zelt)掛けのビアガーデンから始まった市民憩いの場所ツェルテがあり、その少し下流(西側)に1786年に建てられたベルヴュー宮殿がある。 Moabit-Bellevue-Zelte (1836, www.alt-berlin.info/) これまで見てきたように、当時の人々の水浴には衛生のためという目的に、スポーツとしての水泳という要素が混じってきていた。この世紀を通じて水浴 baden (bathe) と 水泳 schwimmen (swim) は次第に分離してゆくことになる。 * この段落は Badekultur (de.wikipedia) による。 |