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拾遺集、参 Aus meinem Papierkorb, Nr. 3



静けさの前の嵐 Sturm vor der Stille

ハインリヒ・ザイデルの『レーベレヒト・ヒューンヒェン』に出る表現である。
クリスマスイヴの午後のベルリン。一年で最も心ときめく最も大切な行事を控えて町中の人々が準備に奔走している。凍えながら樅の木を売る男たち、ケーキやクッキーを売る屋台の側を人々がせわしく行き交う。クリスマス飾りの用意、贈り物の準備、商品配送の喧騒も最高潮。

おとぎ話のようにきらびやかなドールハウス、空想を掻きたてる形をした大きな包装物が揺れながら通り過ぎ、大商店の配送荷車がいたるところで疾走し、そこかしこで停まる。クレムザーと呼ばれる馬車はクリスマスの時期、郵便局が借り上げるのが習わし、これが家から家へとガタガタ走る。大切な荷物を満載した貨物運搬車が大音響を発して、除雪を終えた道路をごうごうと走るか、でなければ凍りついた雪の上をキーキー軋みながら走る--つまり、通常の言い回しとは逆に静けさの前の嵐であった。
Puppenstuben von märchenhafter Pracht und eingewickelte große Gegenstände von phantastischen Formen schwankten vorüber, die Transportwagen der großen Geschäfte karriolten überall und hielten bald hier, bald da; die sogenannten Kremser, die die Post zur Weihnachtszeit zu mieten pflegt, rumpelten schwerfällig von Haus zu Haus, mit Schätzen reich beladen, Lastwagen donnerten auf den bereits gereinigten Straßen oder quietschten pfeifend auf dem hartgefrorenen Schnee, wo dies nicht der Fall war, – kurz, es war umgekehrt, wie sonst die gewöhnliche Redensart lautet, der Sturm vor der Stille.
-- Heinrich Seidel: Leberecht Hühnchen. Prosa-Idyllen (1882)
ハインリヒ・ザイデル Heinrich Seidel (1842-1906) は詩人・小説家、聖職者、学者を輩出したザイデル一族の一人。メクレンブルクのペルリーン Perlin 生まれ、身の回りの動物植物が大好きで機械にも興味のある子供だった。シュヴェリーンの機関車修理工場で徒弟として修業したあとハノーファーの専門学校で機械工学を学び始める。しかし牧師であった父の死によりそこを一年余りで中退してギュストロー Güstrow の小さな農業機械の工場に就職した。19歳であった。日当50ペニヒで始まり、二年後には週給3ターラーとなった。

1866年、Gewerbeakademie (工科大学の前身)で学ぶためにベルリンに出た。4ゼメスターにわたって機械工学を学んだあと、ある機関車製造会社、また「ベルリン・ポツダム・マグデブルク鉄道会社」、次いで「ベルリン・アンハルト鉄道会社」に勤める。ベルリンの旧メインターミナル、アンハルト駅の大屋根建造などで際立った才能技量を示したが、周囲がアカデミックな専門教育を受けた世代に変わってゆく中、次第にたたき上げの技師としての限界を感じるようになり、1880年に会社を辞め作家として独立した。

以前から創作活動に手を染め、詩を作り小説を書き始めていた。例の奇人ザフィール( 雑学ポプリ「ザフィール」参照 )が創設した文学結社「シュプレー川に架かるトンネル」Tunnel über der Spree に加入、結社として最盛期は過ぎハイゼやフォンターネ、シュトルムなどの出席も稀になってはいたが、メンバーから得られる批評や助言は貴重で、ここは若い作家を育てる修業の場であった。『レーベレヒト・ヒューンヒェン』シリーズが好評で、彼は一躍人気作家となったのである。

文中に出る「クレムザー」とはジーモン・クレムザー Simon Kremser (1775-1851) が1825年にベルリンで始めた公共乗合馬車のこと。ブランデンブルク門――シャルロッテンブルク間に十名から二十名の客が乗れるサスペンション付きの大型馬車を走らせた。次いでハレ門から郊外への定期路線を開設、1835年にはシェーンホルツ門――パンコー線を開いてこれが遊覧路線として大当たり。ベルリン北東部の小村パンコー Pankow は市民の行楽地として大変人気があって、それまで庶民は徒歩で出かけていたのが、2グロッシェン奮発すれば馬車で行けるようになった。

注記: ずいぶん昔になるが、前川道介先生は第三書房「初級ドイツ語」の連載コラム「こんな作家・こんな作品」1980年11月号、12月号で「ユーモア小説の傑作」としてこの作品を紹介され、「いい翻訳のでる日を待ちたいと思う」と結ばれている。私の知る限り、残念ながらまだ翻訳出版はなされていない。


嵐の前の静けさ Stille vor dem Sturm

ザイデルの『レーベレヒト・ヒューンヒェン』を読んで、なるほど静けさの前の嵐ね・・・と感心しつつ、ところで本来の「嵐の前の静けさ」という表現はいつから用いられているのか、出典はどこにあるのかと気になって調べてみると、これがなかなか難題であった。

一般の日本語辞典類で見ると「変事の起る前の、一時の無気味な静穏さのたとえ」(広辞苑)のように、いずれも意味は説明されるが出典に関する記述はない。もっぱら慣用句を扱う『成語大辞苑 : 故事ことわざ名言名句』(主婦と生活社)には[意味]として、
異変が起こる前の、それを予感させるような何ともいえない不気味な静けさ。
そしてこんな[解説]がついている。(一部省略)
嵐の来る前、またその吹き返しの来る前などに不気味な静けさがあたりを支配することがある。それを大事件の起ころうとする前兆とするのである。(中略)中国晩唐の詩人、許渾の詩に「咸陽城の東楼」があり、に次の対句がある。「渓雲初めて起つて日閣に沈み 山雨来らんと欲して風楼に満る」。渓雲に佞臣を、山雨に賊の仲間の隠喩を見る説がある。佞臣が群がって天子の明徳を覆い、賊の仲間が事を起こそうとしている、とする。そこに「嵐の前の静けさ」との類似が指摘されたが、最近では隠喩とするのはうがち過ぎとする見方が有力のようである。

なんだこれは! 「嵐の前の静けさ」という表現自体の用例・出典を挙げないで、比喩的な意味で類似するかどうかと中国の古典を持ち出すのは筋違いの議論ではないか。つまるところ和漢にはこの慣用句はもともと存在せず、西洋から流入した表現なのだろうか。

これは英語では The quiet/calm before the storm. とか the lull before the storm. などという言い回しで使われるし、ドイツ語では、
George Hesekiel: "Stille vor dem Sturm", 3 Bände, Berlin 1862
Theodor Fontane: "Vor dem Sturm" (historischer Roman), 1878
Hans Thoma: "Stille vor dem Sturm" (Öl auf Leinwand), 1906
というタイトルの小説・絵画があり、 リヒャルト・シュトラウス Richard Strauss の単一楽章交響曲『アルプス交響曲』(Eine Alpensinfonie, 1915) は22の情景 (Abschnitt) から構成されているが、その18番目が「嵐の前の静けさ Stille vor dem Sturm」という表題になっている。

このようにドイツ語でもかなり一般的な言い回しと思われるので、そちらで出典を探ると・・・
グリム辞書によると、もともと sturm und stille と対になる表現は頻繁にあり、その際 die stille vor dem sturm という形で出現することが多く、当初は海の気象に関して文字通り「嵐と凪」の意で使われ、次いで人間生活の場で比喩的に用いられるようになった、とある。そして以下のような十八世紀以来の使用例が挙げられている。
du schweigst, vorm sturme kommt die stille [A. v. Arnim];
es war blosz die bedenkliche stille vor dem heranziehenden sturme [Schiller];
auf einen solchen sturm in meinem herzen / so eine stille plötzlich folgen könne [Lessing];
o fändest du nach langem sturm / des lebens und des herzens stille! [E. M. Arndt]
どうも特定の個人・作品に帰すことのできる表現ではなく、sturm und stille と頭韻を踏んで調子がいいこともあって、自然に成熟した慣用句のようにも見える。
ただ sturm und stille (storm and calm) には、しけとなぎ、喧騒と静寂、動乱と平安というセットで《動と静》の対比が表現されているが、「静」の側に「無気味な」というニュアンスはないと思われる。もしこの言い回しが西洋伝来だとすれば、calm を「なぎ」ではなく「静けさ」と翻訳したために日本で独自の意味展開を遂げたのではないか。英語では After a storm comes a calm. とも言う。騒擾もやがて鎮まるということで、不気味な静けさが来る、というのではあるまい。



イェーナのフィヒテ Fichte in Jena

フィヒテ J. G. Fichte といえば貧しい職人の家に生まれ、貧困に苦しみながら学問の道を歩み続けた哲学者として、一般には粒々辛苦とか、生真面目、頑固、辛辣、激烈などの形容詞で描かれる人物というイメージを持たれているのではなかろうか。あのリカルダ・フーフも「ロマン主義の哲学」でフィヒテについてこう述べている。
彼の肖像画からは精神の一途に真摯なまなざしを持った大きな目がこちらを見つめている。それは周囲の色彩や形状の変転するモノなどはいっさい知覚していないように思われる。彼の目から彼の哲学が説明できるだろう、「絶対」以外は何もない。熱い血潮が流れて息づく自然の肉体ではなくて偉大な概念の骨格である絶対的なもの。この向う見ずなシステムが立脚するのはただ一点のみである:我は我なり。
Aus seinen Bildern sehen uns seine großen Augen mit einem fanatischen, zehrenden Geistblick an, der nichts von den wechselnden farbigen und plastischen Gegenstände um sich her wahrzunehmen scheint; man könnte sich aus seinen Augen seine Philosopie erklären: für sie gibt es nichts als das Absolute, ein großes Begriffsgerippe anstatt des atmenden, blutwarmen Naturleibes. Das tollkühne System berührt den Boden nur in dem einen Punkte: Ich bin ich.
-- Ricarda Huch: Die Romantik (1899-1902, 1951)
ところが・・・フィヒテはゲーテの推挙もあってイェーナ大学に招聘され、1794/95年の冬学期には「知識学」 Wissenschaftslehre の講義が行われるが、この時のフィヒテ教授について次のような証言があるのだ。
『知識学』をフィヒテは朝6時から7時に講義した。通例は朝の乗馬のあとに。「というのはフィヒテはたいてい乗馬用ムチを手に、長靴と拍車という出で立ちで講義室に入ってきて、つかつかと勢いよく講壇に上がるものだから、すべての学生たちに一種高揚した気分が伝わるのであった」。かつてイェーナの学生であったH・シュミットなる人物が1836年にこう語っている。(『あるヴァイマール退役軍人の回想』)
Seine Wissenschaftslehre las Fichte von 6 bis 7 Uhr morgens, gewöhnlich nach einem Spazierritt, »denn er kam meist mit der Reitgerte und mit Stiefeln und Sporen in den Saal, und er bestieg den Katheder so rasch und lebendig, daß sich allen eine erhöhte Stimmung mitteilte«, berichtet 1836 ein H. Schmidt, ehemaliger Student in Jena (»Erinnerungen eines weimarschen Veteranen«).
-- Peter Brückner: "... bewahre uns Gott in Deutschland vor irgendeiner Revolution!" Die Ermordung des Staatsrats v. Kotzebue durch den Studenten Sand (1975)
この颯爽とした身ごなしの人物が刻苦精励の哲学者フィヒテだなんて信じられるだろうか。堅物イメージを覆すに十分だが、それにしても、あの時代に乗馬の身なりのまま大学の講壇に立つことがありえたとは。ヘーゲルなどの講義は、本人はもちろん正装で、傍らに従僕が控えていたのではなかったか。



ハレのティーク Tieck in Halle

前項でフィヒテが『知識学』を朝6時から講義したとあって、そんな早くから? と驚く向きがあるかもしれない。しかし昔のドイツの大学で6時始まりは珍しくなかったようだ。

ロマン派の詩人ティーク Ludwig Tieck はベルリンのギムナジウムを卒え、1792年からハレ大学で学生生活をスタートさせる。ベルリンに残った親友ヴァッケンローダー W. H. Wackenroder に書き送った長い長い手紙には、郊外のギービッヘンシュタイン Giebichenstein にある音楽家ライヒャルト Reichardt 邸で開かれたダンスパーティーに出かけた様子や、新刊の小説(グローセ『ゲーニウス』 K. Große: Genius )に感動し徹夜で朗読した興奮などを書き記した後、大学生としての日常生活を伝えている。
・・・僕は4時過ぎに起床するが、5時過ぎになることもしょっちゅうだ。女中が僕を起こしてくれてコーヒーを運んでくる。髪結いに頭をあたらせ、着替えをして、6時から7時までヤーコプの経験心理学、7時から8時までクナップの聖書釈義、9時から10時はヤーコプの論理学、午後の2時から3時はヴォルフの古代ローマ美術の講義を受ける。僕の受けている講義はみなまだ割と面白い、特に最後のものは。
[...] ich stehe nach 4 Uhr, oft nach 5 erst auf, die Aufwärterin weckt mich und bringt den Kaffee, der Friseur frisiert mich, ich ziehe mich an und höre -- 6-7 empirische Psychologie bei Jakob(*), -- 7-8 Exegese bei Knapp(**), dann von 9-10 Logik bei Jakob und von 2-3 nachmittags römische Antiquitäten bei Wolf(***), alle meine Kollegia interessieren mich noch so ziemlich, besonders das letztere.
-- Tieck an Wackenroder (Halle, am 12. Juni 1792)
ティークも朝6時からの講義に出ているのである。4時過ぎか5時過ぎに起床と、さらっと言っているので特に早起きという訳ではないのであろう。社会活動全般が今より早くに始まり早くに終わった中でのタイムスケジュールだし、当時は学生も教授もみな大学の近くに住んでいたのである。ただ、学生の分際で毎朝髪結いに整髪させていたのかと訝しく思うが、これも通例だったのだろうか。神学部生の義務であったのかどうか、講義室には辮髪をきちんと整えてゆくので、そのためには髪結いの手がどうしても必要だったのかも知れない。

結局ヴォルフ以外に惹かれる講義はなく、また当地の粗暴な学生風俗にも馴染めず、ティークは半年でハレを見限って、同じ年の冬学期にはゲッティゲン大学に移る。
* Ludwig Heinrich von Jakob (1759-1827) 政治学者、哲学者。1787年からハレ大学の教授。
** Georg Christian Knapp (1753-1825) 福音派神学者。1782年からハレ大学で神学の教授。
*** Friedrich August Wolf (1759-1824) 古典学、古典文献学者。1783年から1807年、ハレ大学で哲学、教育学の教授。ヴォルフはフリーメーソンのメンバーでもあった。



学寮 Burse

ドイツ(神聖ローマ帝国)で大学が設立されるのは14世紀の中葉から後半にかけてであるが、初期の大学には「ブルゼ Burse 」と呼ばれる学寮があった。パリでは1275年、貧しい神学部学生のためのソルボンヌ学寮が設立されて以来多数の「コレージュ Collège 」が作られた。その数100に及ぶと言われる。これのドイツ版が Burse (lat. bursa, ae)(*) である。

これら学寮は多くが個人の寄付によって作られたという。ここには寝室、食堂のほか講義室もあり、寮長(舎監)として住み込んでいるマギスターからラテン語、数学などの授業を受ける。
中世では学生の大多数が職人、農民、召使いなど下層階層の出身者だったので、たいていの者たちは大学で学ぶことにより教会に職を求めて俸給を得ようと目指していた。だがわずかなお金しか用意できないので生活費、学費にはとても足りず、それでやむなく学寮に下宿したのである。
Da im Mittelalter die überwiegende Masse der Studierenden aus unteren Kreisen stammte, denen der Handwerker, Bauern und Dienenden, so strebten die meisten von ihnen durch Studium eine Versorgung im Kirchendienst zu erlangen. Nur mit geringen Mitteln versehn, die in keiner Weise zum Lebensunterhalt und zum Studium ausreichten, waren sie genötigt, die Unterkunft in den Bursen zu suchen.
中世の大学はカトリック教会の監督下にあり、したがって学寮も総じて厳しい規律の下にあった。いくつかの例を見てみよう。
15世紀にはウィーンのブルゼの学生は朝3時に起床、4時にミサに参列、6時に第1時限目の講義に出なければならなかった。イェーナでは正規の講義が冬期で5時、夏は4時に始まった。5講時の授業後に朝食だった。午後は5時に夕食、9時か遅くとも10時には建物のドアが閉じられたとのこと。
Im fünfzehnten Jahrhundert mußten die Studenten in den Bursen Wiens um drei Uhr morgens aufstehn, um vier in die Messe gehn und um sechs die erste Vorlesung hören. In Jena begannen die öffentlichen Vorlesungen im Winter um fünf und im Sommer um vier Uhr. Nach fünf Lerrstnden gab es das Frühmahl. Nachmittags um fünf war das Abendessen, um neun, spätestens um zehn Uhr sollten die Haustüren geschlossen sein.
-- Max Bauer: Sittengeschichte des deutschen Studententums. (1991)
イェーナの夏期では第1講時が朝4時始まりとは凄まじい。これは修道院のタイムテーブルに準じたのかも知れない。
上で、遥か時代が下って18世紀末に、イェーナ大学でフィヒテが朝6時から講義したこと、ハレ大学でティークが4時過ぎか5時過ぎに起床して6時から講義を受けたことなど、ドイツの大学生の早起きぶりを紹介したが、どうやらそれは中世以来の習わしであったようだ。

* ラテン語 bursa は「包、嚢」であり、それが「巾着、財布」の意に用いられ、さらに共同の会計で生活する施設の名称にも用いられることになった。「株式相場、取引所」 Börse もこれから生じている。ブルゼの寄宿生を意味する bursales という語から Bursch とか Burschenschaft という語が生まれた。


学寮の食事 Mahlzeiten in der Burse

学寮は貧しい学生のために作られたものが多く、そこではベッドメーキングから、当番に当たれば部屋・階段の掃除まで自ら働かなければならなかったが、身分の高い裕福な学生向けの学寮では、それは奉公人の仕事であった。

一般に学寮では厳しい規則が定められていて、時間厳守が求められ、特に夜の門限は厳しく、ハイデルベルクの学寮では合鍵・偽鍵を使うと6グルデンの罰金を科された。(こんな規則を定めたのは門限を守らない学生が少なくなかったということだろう・・・)また、勉強熱心からか虚栄からか、建物内ではすべてラテン語使用、一言でもドイツ語を使うと食事抜きや室内蟄居や鞭打ちを覚悟せねばならない寮もあった。

学寮の生活は「質素」が謳い文句である。
日常生活の規程は修道院より簡素である。「これらの建物では安穏な暮らしはせずという賢明さを旨とするので、上等な食事、美味なるものは邪悪なセイレーンのように本寮から遠ざけておかねばならない」と、《英知の家》と名付けられたフライブルクの学寮では1496年の規則に書かれている。
Die vorgeschriebene Lebensweise war mehr als klösterlich einfach. "Da die Weisheit in den Häusern derer, die wohlleben sich nicht findet, so müssen feine Mahlzeiten, Leckereien, wie böse Sirenen von unserem Hause weit weg bleiben", heißt es 1496 in der Ordnung einer Freiburger Burse, domus sapientiae genannt.
「質素」を重んじて経営される学寮ゆえ、食事についての不平・不満の声は尽きない。ライプチヒの「ハインリヒ学寮」の食事については、次のような Dunkelmännerbriefe(*) のスタイルで書かれた風刺文があるそうだ。
我々の学寮では毎日二度、昼と夜、七品の結構な食事が供される。一品目は「常々」といいドイツ語では粥である。二品目は「恒常」といってスープ。三品目は「連日」といって野菜である。四品目は「頻繁」という少量肉、五品目は「異例」というロースト肉、六品目は「皆無」というチーズ、七品目は「後日」でリンゴとナシ。加えて結構な飲み物はコヴェントという名の薄口ビール。ご覧あれ、立派なものではないか。我々が年間通して従うこの規定は諸人称賛の的である。
Wir haben auch gut zu essen in unserer Burs und zweimal täglich sieben Gerichte, Mittags und Abends. Das erste heißt Semper, auf deutsch Grütze. Das zweite Continue, eine Suppe. Das dritte Quotidie das heißt Gemüse, das vierte Frequenter, Magerfleisch; das fünfte Raro Gebratenes; das sechste Nunquam Käse, das siebente Aliquando Äpfel und Birnen. Und dazu haben wir einen guten Trunk, der Covent heißt. Seht da, ist das nicht genug? Diese Ordnung beobachten wir das ganze Jahr hindurch und sie wird von allen gelobt".
-- Max Bauer: Sittengeschichte des deutschen Studententums. (1991)
とにかく食事の貧しさはどこの学寮でも共通であったようだ。「合図の鐘がなると各人競って食堂に急ぐ。盛り付けは年齢と地位の順。上の者に一番いいところが取られ、同学同窓の友情は棚上げ。遅れてきた者には料理は残っていない」 (Nach dem Läuten beeilt sich jeder, damit er nicht zu spät kommt. Beim Zulangen geht es nach Alter und Würden. Ihnen kommen die besten Stücke zu. Die Kameradschaftlichkeit hört fast auf. Wer zu spät kommt, findet keine Speise mehr vor.) というありさまだった。
* Dunkelmännerbriefe (Epistolae obscurorum virorum) はドイツのフマニストたちが、当時の大学でなお支配的であったスコラ哲学を揶揄するため、でっちあげたラテン語の書簡。


パリの学寮 Pariser Burse

ここまででドイツ各地の学寮の「質素」ぶりは垣間見ることができたが、では本家パリ大学の学寮、すなわち「コレージュ」はどうだったのか。ここに一つの証言がある。『痴愚神礼讃』で有名な「ロッテルダムのエラスムス」、デジデリウス・エラスムス Desiderius Erasmus (1466-1536) は一時期パリのあるコレージュで過ごしたことがあり、後年の『対話集 Colloquia 』で、当時を振り返って次のように語っている。
私は三十年前、パリのコレギウムにいた。そこでは明けても暮れても神学教育が実施されていたので建物の壁まで神学に染まっていたくらいだ。しかし私がそこで得たのは不健康な体液が充満した身体と山ほどの病害虫だけであった。この施設の長は一途に熱心なだけで理非の判断に欠ける人物だった。彼は自分が惨めな貧困の青春を過ごしたから、格別に貧乏学生の面倒を見た。しかしまさに同じ理由から学生にはぎりぎり最低限のものしか与えなかった。寝床は硬く食事は劣悪で極少、昼の課業また夜勤は過酷で、ために才能ある多くの若者が入寮した年のうち落命するか、でなければ失明するか気がふれるか癩病になった。それでもなお足りることなく、学生たちに修道士になれと説き伏せ、きっぱり肉欲を断つように仕向けた。寮で身に蓄えたさまざまな病気から今に至るも解放されない多くの人々を私は知っている。いくつかの居室は隠し部屋の並びにあり、天井が低く湿気がこもって、加うるに壁には悪臭を放つ漆喰が塗ってあり、住んでいた者で命ながらえ、もしくは重病に侵されずに退室できた者は一人としてない。与えられる罰は、鞭打ちの罰であったが、まるで死刑執行かと思われる程で、その有様は口にするのも憚られる。意固地な性格は矯正せねばならぬとの名目ではあった。しかしその意固地は修道士服を着ることを拒む寮生たちの高貴な魂の動きに他ならなかった。どれだけ腐った卵を食べさせられ、どれだけ酸敗した葡萄酒を飲ませられたことか。
Ich habe vor dreißig Jahren in einem Pariser Kollegium gelebt, in dem so viel Theologie getrieben wurde, daß auch die Wände davon angesteckt waren. Aber ich habe nichts mit herausgenommen als einen Körper voll ungesunder Säfte und eine große Menge Ungeziefer. Der Vorsteher (der Anstalt) war ein Mann, dem es bei großem Eifer an allem Urteil fehlte. Er berücksichtigte vorzugsweise die Unbemittelten, weil er seine Jungend in der drückendsten Armut zugebracht hatte. Allein er sorgte aus eben diesem Grunde auch grade nur für ihre unentbehrlichsten Bedürfnisse. Ihr Lager war so hart, die Speisen so schlecht und kärglich, Arbeiten und Nachtwachen so beschwerlich, daß viele talentvolle Jüngling im ersten Jahr ihres Aufenthalts starben oder blind, wahnsinnig, aussätzig wurden. Hiermit noch nicht zufrieden, beredete er sie Mönche zu werden, und versagte ihnen ein für allemal den Genuß des Fleisches. Mir sind viele bekannt, die ihren Körper von dem dort gesammelten Krankheitsstoff bis jetzt noch nicht befreien können. Einige der dortigen Stuben lagen neben den heimlichen Gemächern und waren so niedrig und dunstig, dabei mit so stinkendem Kalk bestrichen, daß niemand, der darin gewohnt hat, lebendig oder ohne schwere Krankheit herausgekommen ist. Die Strafen, die in Peitschenhieben bestanden, wurden mit solcher Henkerstrenge geübt, daß ich nichts davon sagen mag. Bei ihnen hieß es freilich, der Trotz müsse gebrochen werden. Allein der Trotz war ihnen jede Regung eines edleren Geistes, der nicht zur Annahme der Mönchskutte sich zwingen lassen wollte. Wie viele faule Eier wurden da gegessen, wie viel umgestandener Wein getrunken...
-- Max Bauer: Sittengeschichte des deutschen Studententums. (1991)
なんとまた壮絶な世界ですね。これに比べればイェーナ、ハイデルベルク、フライブルク、ライプチヒの学寮など牧歌的な楽園に見えてきます!

エラスムスは司祭叙階を受けた後、1495年から99年まで、神学の学位獲得を目指してパリ大学に留学、しばらく「モンテギュ学寮」Collège de Montaigu で過ごした。舎監の神学者ヤン・スタンドンク Jan Standonck は峻厳な禁欲主義者として有名であった。ここでの生活はエラスムスに、三十年経ても色褪せることのない骨髄に徹する記憶となって残った。こんな環境では学位どころではあるまい。ロンドン滞在を経て1506年にイタリアに留学、トリノ大学で神学博士となった。



遍歴学生 Goliarden

中世から近世にかけてのドイツの大学には、学寮という規律厳格で待遇劣悪な檻に閉じ込められて過ごす学生もいれば、反対に、一ヶ所に留まることなく放浪の生活を送る学生もいた。

当時の4、5年~7、8年という修学年限をまっとうしてマギスターあるいはドクターの学位を獲得するのは2割か3割ていどだったといわれる。途中で離脱する学生も多数あった。めでたく学位を獲得すれば目指す教職、聖職に就けるかというとそうではない。諸邦の宮廷官吏、弁護士、公証人、医師、教会参事会員、司教に全員が就職できるとは限らない。職を求めて放浪することになる。

神学を修めた学生が聖職に就こうにも十分なポストが無い。処々方々を巡るも、教会の鐘撞きや雑用係のクチすら簡単には見つからない。なんとか教会や修道院に見習い身分で職を得たとしても、みじめな境遇であったようだ。
修道院で加えられる折檻から逃れて洞穴や森に身を隠す。そこで別の放浪者と合流して遍歴学生の経歴を歩み始める、という例も少なくない。
    導師さま、神様が命じられたので
    こっそりラインを泳ぎわたり
    修道士様方のもとを離れたのです
と、修道院での棒叩き・鞭打ち・断食その他の罰から逃げ出した折に、シェッフェルのユニペルスが歌っている。

Manch einer dieser Goliarden begann seine Laufbahn damit, daß er aus Furcht vor Strafe dem Kloster entlief, und sich in Höhlen und Wäldern barg, bis er sich anderen Vaganten anschließen konnte.
    "Treuer Lehrer, Gott befohlen
    Durch den Rhein schwimm ich verstohlen
    Und verlaß euch Klosterherrn,
singt Scheffels Juniperus, da er den Stock- und Rutenstreichen, dem Fasten und anderen Strafen im Kloster entflieht.
また放浪の学生たちには素行に問題のある連中が多いこともあり、放浪の聖職者を雇わないようにという通達が繰り返し出された。ついには怪しいペテン師にされる。
こういう放浪者はヴィーナス山からきた黒魔術に通じるいかさま師である。どこかの家にやって来るとこう話し始める。曰く、ここなるは放浪の学徒、自由学芸の七つを修め、悪魔を招び出し雹や霰、すべて不吉なことを祓う者なり。そのあと何かブツブツ言って二、三度十字を切ると、この呪文を唱えたら誰も不死身となり、いかなる不運にも見舞われないなどなど有難いお言葉の数々。農民はそれじゃあと、放浪者がやって来たのを喜び彼らに語りかけるには、こんな目にあっているが助けてくれるかと。放浪者はよしよしと請け合い、農民を騙す。
Die Vagierer sind Abentheurer, die aus der Frau Venus Berg kommen und die Schwarze Kunst verstehen. Wenn sie in ein Haus kommen, so fangen sie an zu sprechen: Hier kommt ein fahrender Schüler, der sieben freien Künste ein Meister, ein Beschwörer der Teufel gegen Hagel Wetter und alles Unheil. Darnach machen sie etliche Charaktere, zwei oder drei Kreuze und sprechen, wo diese Worte gesprochen werden, da wird niemand erstochen, es trifft auch niemand ein Unglück und viele andere köstliche Worte. Da meinen dann die Bauern, es sei also, sind froh, daß sie kommen, und sprechen zu den Vagierern, das und das ist mir begegnet, könnt ihr mir helfen? Diese aber bejahen es und betrügen die Bauern.
-- Max Bauer: Sittengeschichte des deutschen Studententums. (1991)
なんと放浪学生は「タンホイザー伝説」の官能の女神ヴィーナスが住まう山から来たいかさま師の烙印を押される。引用箇所のこの部分、Grohmann, I, S.208 によると注にあるが、おそらくは16世紀の初めに書かれた「放浪者の書」を下敷きにしている。その中の「遍歴学生 Von Vagierern 」という項目に、ほとんど同文の記述がみられるからである。

中世末期から土地を失い家を失う農民が増えてゆく。放浪する者、野宿する者で街道や村はあふれ、悪疫が蔓延する。貧者は巡礼、修道士、病人、放浪者に変装して市の立つ広場、教会の前へ流れ込む。市当局と教会は大量の放浪者から町の秩序、善男善女の信仰を守らねばならない。偽貧者もいる。そのため施しをしてよい「まともな乞食」と施しをしてはいけない「怪しい放浪者」を見分けるためのハンドブックが書かれた。これが「放浪者の書」Liber Vagatorum(*) である。さまざまな偽の乞食、仮病人、偽の産婦、偽修道士、偽神父、偽巡礼など28種の放浪者のタイプと騙しの手口を紹介して、注意を喚起するのである。

「放浪者の書」には、ペテンを見抜くのに役立つよう、詐欺師が使う隠語集もついている。この至れり尽くせりのハンドブックは版を重ねた。マルティン・ルター Martin Luther もこの書に注目して改作版を作ったが、隠語の解釈にはいくつか間違いを犯しているようだ。

「放浪者の書」の本文テキストに成立事情の考察を加えた研究書がある。
Heiner Boehncke; Rolf Johannsmeier: Das Buch der Vaganten - Spieler, Huren, Leutbetrüger, Prometh Verlag, Köln 1987
これには早くに邦訳『放浪者の書 博打うち,娼婦,ペテン師』(永野藤夫訳、平凡社 1989)が出ていることを付記しておく。
* このテキストはバイエルン州立図書館が提供するデジタルデータで読むことができる
    → Digitalisat einer Ausgabe von 1510


放浪見習い Schütze

今風にいえば「パシリ」がぴったりかもしれない。放浪の生活を送る学生 Goliarde, Vagierer はまた Bacchant すなわちバッカスの徒とも呼ばれた。飲んだくれて狼藉を働く連中が目立ったのであろう。放浪生活そのものが目的となり学問とは無縁な暮らしを送る者も多かった。彼らは数名で群れをなし、年少のメンバーを引き連れて行動した。幼少の者は同情を得やすいので命じられて門付けに出される。貰った金品(そして盗んだ家禽など)はそっくり年上の連中に差し出す。こうしてグループの生活を実質的に支える年少の者が Schütze(*) と呼ばれたのである。

集まった食物は、年長の連中が食べきれずにカビが生えるようになると、ようやく年少組に回される。そのときにはほとんど賞味できない状態だ。幼い子供たちがもの乞いして歩いていると、時には心やさしい人にあたって屋内に招き入れられ、美味しいスープや肉料理を振舞われることもあったが、

しかし遍歴学生は見習いがそのような「悪い癖」に染まってはいけないことを心得ている。年少者に無理やりに熱い湯を口に含ませて容器に吐き出させる。その中に脂肪分の痕跡でもあろうものなら子どもの着衣をはぎ取り、頭からコートを被せて叫び声が漏れないようにしてから情け容赦なく殴りつける。それゆえ飢えてひもじくなると床の隙間のパンくずを拾い集めたり犬のえさを奪ったりする子どもたちが少なくない。[中略]早朝から遊惰な年上の学生を養う仕事は始まり、すっかり暗くなるまで物乞いをし聖歌を歌う。真夜中まで続くこともしばしばあった。
Aber die Bacchanten verstanden sich darauf, derartige "Unarten" dem Schützen abzugewöhnen. Sie zwangen ihn den Mund mit warmen Wasser auszuspülen, das in ein Gefäß gespuckt werden mußte. Zeigten sich darin Fettspuren, dann rissen sie dem Knaben die Kleider vom Leibe, warfen ihm einen Mantel über den Kopf, um seine Schreie zu dämpfen und schlugen erbarmungslos auf ihn ein. Manch hungernder Schütz suchte da lieber die Brosamen aus den Dielenspalten zusammen oder jagte dem Hunde das Futter ab. [...] Am frühen Morgen ging die Arbeit für den faulenzenden Herren los, um mit Betteln und Singen bis tief in die Dunkelheit, ja oft bis Mitternacht zu währen.
これはスイス生まれで、従兄の放浪学生に随いてドレースデン、ブレースラウ、ウルム、コンスタンツなどドイツ各地で数年間「ぱしり」をしたトーマス・プラッター Thomas Platter (1499?-1582) の経験である。その後プラッターはグループから脱走し、綱作り職人の徒弟となって修業しながら、あちこちの学校でギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語を学び、やがて教師として身を立てることが出来たが、放浪学生は一生を放浪者で終わるのが多かった。
年をとると見習いは一人前の放浪学生になる。自分たちを引きまわした連中と同じく粗暴になり、かつての彼らと同じように身も心も堕落して絞首台上か柵の中で過ちの生を終えるのである。
Mit zunehmendem Alter wurden aus den Schützen Bacchanten, ebenso rücksichtslos, verderbt an Leib und Seele wie ihre Lehrmeister von einst, bis sie auch wie diese auf dem Rabenstein oder hinter einem Zaun ihr verfehltes Leben beschlossen.
-- Max Bauer: Sittengeschichte des deutschen Studententums. (1991)
トーマス・プラッターの自伝は阿部謹也氏によって『放浪学生プラッターの手記』(平凡社 1985)の表題で訳されている。「社会史の資料として比類ない価値をもつ」(訳者解説)として、プラッターが生きていた宗教改革時代の社会状況、当時の学校制度などについて詳細で懇切丁寧な解説が付けられている。
英訳が Project Gutenberg で提供されている → The Autobiography of Thomas Platter
* この語の由来については「盗む Stehlen」を昔の学生言葉で「射る、打ち落とす Schießen」と言ったことから来ているらしい(Wikipedia.de)。 阿部謹也氏は「ひよっこ」と訳されている。


プルーダーホーゼ Pluderhose

15世紀の学寮生活には着衣についても窮屈な束縛があった。いずこも同じ黒か茶の長い上着をベルトで留め、頭巾を被るという出で立ち、修道士と変わらぬ画一的で暗い身なりなどは、学問の世界に身を置く者としての自負を抱き、またいずれの時代もファッションに敏感な若者として面白いはずはなかった。学生たちは、学寮生活を終えるや、歓呼の声をあげて陰気な衣服を脱ぎ捨てたのであった。

これが16世紀になると、事情が変わる。新しい時代の息吹は人間の個性化を進める。世俗の衣服に身を包んで颯爽と闊歩する学生が現れてくるのである。

時あたかも世紀の中ごろに、男性ファッション界に大きな流行が生じる。それはフランス語でオー・ド・ショース haut-de-chausses 英語でトランクホーズ trunk-hose ドイツ語ではプルーダーホーゼと呼ばれるズボンである。ショースとはもともと厚手のストッキングのような脚衣であったが、それが次第に長くなって、つま先から腰まで届くタイツのようになった。その後、軍装の影響と言われるが、上着が短くなってくると、ショースが靴下兼ズボンとしての役割を果たすことになる。やがて上下に分割され、上半分がオー・ド・ショースという半ズボンとなり、下半分がバ・ド・ショース bas-de-chausses という膝程度までの長さのある靴下になった。

旧来の学生の服装が1553年か1554年に登場したプルーダーホーゼによって強い衝撃が与えられる。これは従来の大きくて出来るだけ目立つようにされた前当てだけが残るのみで、その他の点では全く新奇なものであった。(中略)「宗教改革もそうだが、プルーダーホーゼの着用はひとつの民主主義運動であった。これは下から上へと波及した。傭兵のあと市民を飲み込み、いつもあらゆる流行を熱心に促進しようとする学生を捉え、そして貴族と宮廷をもその渦に巻き込んだ」
Einen harten Stoß versetzte der althergebrachten Schülertracht die um das Jahr 1553 oder 1554 aufgekommene Pluderhose, die aus alter Zeit nur den großen, möglichst auffälligen Latz weiterkonservierte, sonst aber eine völlige Neuheit darstellte. [...] "Wie die Reformation, so war auch die Pludertracht eine demokratische Bewegung. Sie ging von unten nach oben; nach den Landsknechten verschlang sie das Bürgertum, riß die Studenten mit sich fort, die ja immer geneigt waren, alle Modeneuerungen eifrigst zu fördern, und zog den Adel und die Höfe mit in ihre Kreise".
このオー・ド・ショース、イタリア、スペイン、フランスでは多くは詰め物を入れて膨らませていて、縦に多くの切れ目を入れて(後には型抜きをして)、中の高価な、美しい布を見えるようにした。これは「スラッシュ」とか「スリット装飾」と呼ばれるが、ドイツのプルーダーホーゼは詰め物をせず表地の間から裏地を見せるようにしたのが特徴と言われる。

そして、この時代に歴史の舞台にのし上がって来た傭兵 Landsknecht たちのこれ見よがしの奇抜な装束がエスカレートして、様々な型抜きの無数のスリットが帽子、靴、手袋にまでおよび、あるいは左右異なった(ミ・パルティ、片身替わり)色彩のホーゼとか、サイケデリックと言うしかない色と形の装束となった。貴族、市民層にも広がった新しい流行のファッションに身を包む学生たちは、当然のことながら保守的な人たち、教会関係者の大いなる顰蹙を買うことになった。
ルターの最初の伝記作者であるボヘミアのヨアヒムスタールの牧師、ヨーハン・マテジウスは1559年にこんな説教をした。「軽薄な身なり・服装は、軽薄な心を広告しているようなものだ。もし生徒、学生、学士がフェルト帽、リボン、トロラー、パウス袖やプルーダーホーゼ、また縁飾りのついた衣服、刺繍を施したり切れ目を入れた袖の服を着用に及ぶとすれば、それはまことに良くない印である。目下は喜捨によって学び生活している身分、もしくはかつて喜捨によって養われた身分なのに。もし若い人たちがかくも女々しく華美な衣装で着飾るなら、それはよいことではない」
Luthers erster Biograph Johann Mathesius, Pfarrer in Joachimstal in Böhmen, predigte im Jahre 1559: "Leichtfertigkeit in Trachten und Kleidern ist eine Anzeigung eines leichtfertigen Gemütes. Es ist wahrlich ein böses Zeichen, wenn die Schüler, Studenten, Baccalaurien ihre Filzhüte, Binden, Troller, Paußärmel(*) und Pluderhosen, verbrämte Kleider und ausgestickte und zerschnittene Ärmel tragen, zu voraus die von Almosen studieren und leben, oder weiland von Almosen sind ernährt worden. Es stehet doch ja nicht wohl, wenn sich die junge Mannschaft so weibisch und in geputzten Kleidern pflegt zu zieren".
-- Max Bauer: Sittengeschichte des deutschen Studententums. (1991)
服装の「退廃」は学生だけに留まらなかった。「強調すべきは、監督官が学生のみならず教師たちも相応しくない身なりをしていないか見張らねばならない」とのこと、中には「騎兵のように切り刻んだぼろぼろの短い衣装でサルのようにうろついて、教師というより騎兵の従者か職人のよう」なのもいると激しく非難するのは、ヴィッテンベルク大学でルターやメランヒトンに学んだ宗教改革家のヴェストファル Joachim Westphal である。

女子体操着として一世を風靡した「ブルマー」 Bloomers もプルーダーホーゼが原型になっていると言われる。いずれにせよ、これを着用した姿は我が国の鳶職のズボン、工事現場の作業着ニッカーボッカーズに似たシルエットになって、あまり大学で学ぶ者・教える者らしくは見えないかもしれない。
* トロラー、パウス袖が衣服のどの部分か、どのようなものを指すのか調べがつかなかった。当時の代表的なファッションについては、「ドイツ靴下博物館」のサイトでも見ることができる。
    → Deutsches Strumpfmuseum