拾遺集、四 Aus meinem Papierkorb, Nr. 4お化けズボン Hosenteufelプルーダーホーゼの流行はブランデンブルク選帝侯国の首都ベルリンでも騒動を引き起こした。あるベルリン逸話集に取り上げられている記事によると・・・お上が領民の仕事と暮らし万般を規制していた時代のこととはいえ、「服装規定」Kleider-Ordnungen なるものを発布しファッションにまで口出しするに至ったことにはあきれ顔だが、ただ国の財政が厳しい中、高価な輸入生地を無駄に消費する馬鹿げた服装が流行したことにも非があるとのニュアンスも感じられる。例えば16世紀半ばに傭兵の衣装に倣って登場した異様にだぶだぶのプルーダーホーゼがそうであった。これに対してベルリンでは選帝侯ヨアヒム二世 (1535-1571) が憤怒に燃えて戦った。「一着のズボンに九十九エレが使われている」と言うのがこの傭兵たちの自慢のしかたで、百エレというより聞こえがいいからであった。ベルリンの街中で何人かの裕福な市民の息子がそのようなズボン姿で現れた時、選帝侯の命で彼らは大きな檻に閉じ込められ、一日の間、音楽伴奏つきで人目にさらされた--この見世物、もちろん民衆はやんやの喝采である。主に仕立屋が用いる「エレ」という単位は「肘から中指の先までの長さ」で、地方により実際の長さは異なるが、プロイセンでは66センチ余りとされる。九十九エレなら60メートルを超え、まさかこれほどではないにしても普通10~20メートルの生地は使ったらしい。 別の資料では、洒落者たちの振舞いは以下のごとく描写されている。これによると、音曲つきで見世物にされたのはどうやらご当人たちの身から出たさびというべきか。 ある日のこと、いずれも裕福なベルリン市民の子息である三人の若者が、その伝の膨らんだズボンを穿いて通りを闊歩していたが、彼らは単に歩くだけでは不足だった。二人のヴァイオリン弾きに先導させたので、誰もかれもが窓から、子どもたちが大勢ぞろぞろ付き従うこの奇天烈な行進を眺めたのだった。伊達男たちはわがもの顔で孔雀のように気取って歩きながらも、誰かれなくその経費のことを言いふらすのであった。当時の絹の価格からすれば三人が支払った金額は一財産ではあろう。ところが突然この洒落者らは警察の手勢に包囲され、見物人が大笑いするなか、ベルナウアー通りの酒場横にある精神病施設に入れられた。そこは普段は飲んだくれが酔いの醒めるまで収容されるところであった。彼らは夜になるまで格子の中に留め置かれた。ヴァイオリン弾きはその前で演奏することが許されて、しっかり多くの人々を招き寄せたのである。この異様なズボンを身につける連中に対しては教会も黙っていなかった。選帝侯国の大学都市、フランクフルト・アン・デア・オーダーの Andreas Musculus (1514-81) が説教の中で激しく攻撃して、それが彼の説教集に記録されているとのこと。そのタイトルは: Vom zuluderten zucht und Ehrerwegenen pluderichten Hosenteuffel, Vermahnung und Warnung というもの。 この本は1894年に Max Osborn が編纂して「Vom Hosenteufel. (1555) 」として出版されているのだが、最近 Kessinger Publishing なる(正体不明の)出版社からそのリプリント版が出ているようなので、恐る恐る発注してみました。さてどんなモノが到着するか。 悪魔劇場 Theatrum DiabolorumKessinger Publishing のリプリント版「Vom Hosenteufel. (1555) 」が届きました! しっかりした、美しいと言える装丁です。中を開くとスキャナーの焦点がぼけている箇所や、原本のページ閉じ部分が開ききらずに複写がすぼんで読みにくいところもありますが、ますまずの出来だと思われます。In the interest of creating a more extensive selection of rare historical book reprints, we have chosen to reproduce this title even though it may possibly have occasional imperfections such as missing and blurred pages, missing text, poor pictures, markings, dark backgrounds and other reproduction issues beyond our control. Because this work is culturally important, we have made it available as a part of our commitment to protecting, preserving and promoting the world's literature. Thank you for your understanding.このような出版者のメッセージ(申し開き?)が扉ページの裏に印刷されていますが、ドイツの図書館で原典を借り出して自分で複写してもこの程度になるだろうし、送料込みで二千円少々だから、まあ、お買い得であったかも知れません。 さて中身ですが、マックス・オズボーン Max Osborn の「序文」が27ページあって、そのあとに G. Wagner の押韻詩 "Reime vom zötlichten Hosen Teuffel" が3ページ、Musculus のテキスト本文が22ページ続くという構成です。 その詳しい「序文」によると、アンドレアス・ムスクルス Andreas Musculus は16世紀後半の後期ルター派 Spätlutheraner の見事な雛型と紹介されています。ザクセンに生まれライプチヒ大学で学んだあと、ヴィッテンベルクに移ってルターやメランヒトンの謦咳に接し熱烈なプロテスタントとなった。フランクフルト・アン・デア・オーダーの高位牧師に任命され、大学の神学教授にも就任した。激烈な性格で闘争好き、頑固一徹で独断専行、異見には一切耳を傾けない人物だったので「口論と争闘に明け暮れる生涯となった」という。 疲れを知らぬ執拗さと狂信的な熱意で、こうと信じた自説はあくまで護り通し、より良い意見にも決して屈せず、自らの立場を一歩も譲らない。戦いの武器は自家薬籠中のもの、弁舌・文筆の力を駆使し、神学の該博な知識と驚くべき博覧強記と桁外れの記憶力が総動員される。やがて彼にとっては争闘が快楽になり、ついには無くては済まないものになった。あらゆる問題に口を出し介入し、実際の非行にも、そうと誤解しただけの物事にも、罵倒し怒鳴りつけ、あらゆる場所で人を侮辱し傷つけた。そこにあの事件が起きた。1555年のある日曜日の礼拝で牧師が、当地の若者にも広まってきたプルーダーホーゼの着用を諌める説教をした。すると次の日曜日、同じ教会で説教壇に向かい合う柱に問題の派手なだぶだぶズボンが釘留めされていたのである。牧師も会衆ももちろん驚いたが、この罰当たりな所業に対してアンドレアス・ムスクルスが黙っている筈はなかった。彼は市当局ならびに大学に対して(大学生の犯行であることは誰も疑わなかったようだ・・・)厳重な捜査と犯人の処罰を求めたが下手人は突き止められなかった。彼はマリア昇天祭の日、自ら教会に赴いて「悪魔のズボン」を難詰糾弾する説教を行ったのである。 ところで Hosenteufel という言い回しは「悪魔のズボン」より「ズボン魔」とでも訳す方が相応しいのかも知れない。というのは当時「~魔」...teufel という表現が盛んに用いられていて、それが実はマルティン・ルターから始まるらしい。 ルターは、気に食わないモノは何でも悪魔のせいにした。15世紀末から主にセバスティアン・ブラント『阿呆船』の影響で「金銭阿呆、傲慢阿呆、結婚阿呆、ダンス阿呆、賭博阿呆、名声阿呆」など専門の阿呆がドイツで流行し長らく文学に影響を与え続けたが、それを手本にして、人間の悪習・愚行はすべて諸悪の根源たる悪魔から派生するとして、とにかく邪まなものは次々と個別の専門魔に請け負わせていったのであった。かくてプロテスタントのドイツでは事あるごとに地獄のデーモンを呼び出して、Saufteuffel 飲酒魔、Fluchteufel 悪態魔、Alamode-Teufel 流行魔、Hoffahrtsteufel 傲慢魔が宗教劇や教訓物語の主人公になり、Zornteufel 憤怒魔、Lästerteufel 悪癖魔、Neidteufel 嫉妬魔、Hassteufel 憎悪魔、Mordteufel 殺人魔、Hohnteufel 侮蔑魔、Hurenteufel 売淫魔、Geizteufel 吝嗇魔、Wucherteufel 暴利魔、Spielteufel 賭博魔、Lügenteufel 虚言魔などなどが歌謡や物語を賑わしたのである。 こうした「悪魔本」Teufelsbücher が数多く読まれたので、1569年にはこの類の本を20冊分集めた Theatrum Diabolorum なる書物が出版された。1575年には4冊を増補した再版が、1587年には9冊の新刊を補って2巻本となった第3版が出版され、いずれもベストセラー本となった。悪魔文学は民衆本と並ぶポピュラーな読み物であった。そうしてこの手の出版物の範例となったものこそ「フランクフルトのルター」こと、ムスクルスの Hosenteufel だったとオズボーンは言う。カトリック側はこれに対抗して「天使文学」Engellitteratur を興そうと『警告天使』Johannes Nas: Warnungsengel (1588) が発表されたが、後が続かなかったようだ。 Max Osborn とはドイツ人らしくない名だが、ヨーロッパ各都市の芸術史を扱った双書の一冊に彼の執筆になる『ベルリン』が手元にあってこの名に記憶があった。改めて見てみると Pluderhose にまつわるベルリンの騒動にも触れてある。ウィキペディアによると、1870年 Köln 生まれ、ナチを逃れてアメリカに亡命、1946年 New Yorkで没とある。1945年には "Der bunte Spiegel" という表題の回想記が、トーマス・マンの序文がついて出版されているとのこと。 それにしてもオズボーンがこうした珍しい分野の専門家であったとは知らなかった。アヒム・フォン・アルニムにもハインリヒ・ハイネにもヴィリバルト・アレクシスにも「悪魔文学」の系譜を引く作品があるとも記されているので、同じ版元から出ている Die Teufelliteratur Des XVI Jahrhunderts (1893) のリプリントも注文してしまいました。 最後の審判 das Jüngste Gerichtマックス・オズボーンの詳しい「序文」を読んでアンドレアス・ムスクルス "Vom Hosenteufel" のテキストに取り掛かる。これは(当然とはいえ)まことに「時代がかった」文章である。まず、アダムとイヴ以来時がたつにつれ地上に悪行非行がはびこり人間の罪は増すばかり、神の怒りが強まり昔には無かったさまざまな疫病も出現している。人々は苦難の世を嘆き、神に許しを乞うている。かくも罪深い世界に当節はさらに「神にも天使にもまた敬虔な人々にも盾つき、のみならず悪魔にすら吐き気を催させる」ような極悪な服装が俗界に持ち込まれた。プルーダーホーゼのごとき常軌を逸した悪弊は近々訪れる最後の審判の時に罰せられること間違いなしと宣告する。ムスクルスは教会で行う説教と大学の講義でだけでは足りないので、こうして文書でも警告すると言うのである。「悪魔にすら吐き気を催させる」とはいかなる次第か。 ある信心深い人物が画家のもとに出かけて板絵を依頼し、最後の審判の場面を度肝を抜く恐ろしさで的確に描くように、殊に悪魔どもは身の毛のよだつ姿で描いて貰いたいと注文を付けた。画家は精魂を傾け仕事に励み、悪魔どもをこれ以上ないほどにおどろおどろしく、現今の若者たちが身につけている同じプルーダーホーゼを穿かせて描いたところ、そこへ悪魔がやってきて画家に平手打ちを喰らわせ、お前を殴ったのは真実でないことを描いたからだ、俺はこんなプルーダーホーゼを穿いて描かれるような醜い残忍な姿ではないと言ったそうだ。こんな荒唐無稽な話を真面目な顔で取り上げて、そして若者を戒めようというのだから恐れ入るしかない。このあと神は不正を決して許さないぞと、Hosenteufel の八つの「罪」を挙げて断罪する。それぞれ終段には決まって「最後の審判」を持ち出して、今はまだプルーダーホーゼを穿いている若者はさほどの罰が当たっていないかも知れぬが、今に酷い目にあうぞと脅す。二、三箇所を引用してみる。 そのような人間にあるまじき思い上がりに追従するなら、現在受ける罰は小さいが、必ずや最後の審判の日には、神は永遠の罰で懲らしめられるということ、私はそれを気遣うのだ。(「第二の罪」より)大洪水の後、ノアと子供たちを祝福した、あの美しい虹もムスクルスにかかると、最後の審判の警告となる。神は虹によって範例をお示しになっている。いまドイツ人が神に罰せられていないとしても、われわれは日々、空にかかる虹でそれを目にしているだろう、と説きつける。このあたりよくわからない言い回しだが、海にかかる虹と海の夕焼けのイメージを重ねているのだろうか。 神は大洪水でもって、大水で・あの虹のもとで怒りを示されるのだ、そして日々、全てを焼き尽くす火炎と同じ色彩でもって充分に神が示し想起せられているのは、最後の審判の日に火炎でもって執り行うこと、永遠の怒りでもって一纏めに、長らく堪えてきたものを償わせるぞという神の所存である。(「第五の罪」より)とにかく古いドイツ語で正書法もでたらめ(コンマとピリオドの区別もなし)なので、大過なく訳せているかどうか心もとないが、この罰当たりなズボンを穿く怪しからん若造ども、いまは罰を免れているかも知れんが、最後は酷い目にあうぞと繰り返す。よほど無軌道な連中がのうのうと過ごしていることに腹の虫がおさまらないのであろう、神よりも悪魔よりも、ムスクルスご本人が憤怒に燃えて歯がみしている気配である。 琥珀 Bernsteinケーニヒスベルクといえば哲学者カントが生涯をすごした町として知られている。哲学よりも文学・音楽に関心のある向きには E.T.A.ホフマンの生誕地として記憶されているかも知れない。ここは13世紀、ドイツ騎士団によって建設された町だが、「王(ケーニヒ)の山(ベルク)」の「王」とは要塞造営に援助を与えたボヘミア王オタカル二世を称える命名だと言うから、すでにこの都市の地政学上の微妙な地位を暗示している。16世紀にはポーランド王に臣従する「プロイセン公国」の首都となり、やがてブランデンブルク選帝侯国の支配下に入って、1701年に「プロイセン王国」が成立すると、そのプロイセン州の州都となる・・・ この町は琥珀の産地としても有名である。第二次大戦後はソ連(ロシア)に併合されてカリーニングラードと名称が変わったが、いまも「琥珀の都」と呼ばれているようだ。(蓮見雄『琥珀の都カリーニングラード』(ユーラシア・ブックレット 東洋書店 2007)) 東プロイセン出身の作家、ハンス・ヘルムート・キルスト Hans Hellmut Kirst (1914-1989) はこの地方の琥珀について次にように語っている。 琥珀--《きらめく太古の樹脂》--は女性の手のように暖かかった。繊細で芳しい香りを放つ。それを唇にあてると、渋く苦いような味覚を感じることができた。郷土の詩人たちは、詩的も詩的に《琥珀は輝く黄金よりも冷たい宝石よりも好ましい》とうたっていた。ザームラント半島では--その付け根にケーニヒスベルクがある--誰でも簡単に、まるで私たちが山菜取りでワラビやゼンマイを採ってくるように、琥珀を拾ってきたようだ。 琥珀探しはザームラント沿岸の休暇の楽しみの一つであった。ほとんど裏切られることなく琥珀発見に至るのだった。友人の一人はズボンの両ポケットをパンパンに膨らませて帰宅した--嵐の後にブリュスターオルト(*)の灯台近くに出かけた朝の収穫がそれであった。琥珀には昆虫などが閉じ込められたものがあって珍重されているが、最近はお香にも用いられる「コーパル Copal」を溶かして虫を封入し再度固めたもの、さらにはプラスチック樹脂製のまがい物が出回っているそうだ。コーパルはもともとが樹脂の化石という点では琥珀と共通で、両者を区別するのは素人には難しいようだ。 * ザームラント半島北西端にある。 カントとホフマン Kant und Hoffmann前項で紹介した作家、ハンス・ヘルムート・キルストはケーニヒスベルク南方百キロ余りの小都市オスターローデ Osterode (現ポーランド領 Ostróda )の生まれである。ここは旧東プロイセンのマズーレン Masuren 地区に属する。一口に東プロイセンと言ってもザームラント、ケーニヒスベルク、オーバーラント、エルムラントなど地理的、歴史的に異なる地域を含んでいて、それぞれのお国自慢があるようだ。マズーレンは美しい森林と湖沼地帯にあって、地元の人は「千湖の国」と自慢するが、決して誇張ではなく、湖はむしろ正確には三千に及ぶとのこと。「文化の果つるところマズーレンが始まる」と揶揄されることもあるが、キルストはその素晴らしさを讃えてやまない。彼によればマズーレンは「無限の可能性のある土地」である。 なぜならそこで無いものがあったなどとは想像がつかない。マズーレンは天国であり同時に地獄だと思っている者が少なくない。どこを眺めてもすぐにそんな心地になる。東プロイセン出身で名を成した思想家・文学者にはジーモン・ダッハ、ゴットフリート・ヘルダー、ヘルマン・ズーダーマン、アルノー・ホルツ、エルンスト・ヴィーヒェルト、ジークフリート・レンツなど数多いが、ケーニヒスベルク生まれの偉人としてキルストは哲学者カントと、有能な裁判官であって文学・音楽の分野でも才能を発揮した E.T.A.ホフマンの二人をあげる。 カントは文句なくこの町の生んだ最大の偉人である。 このカント--教授の一人--は東プロイセンで事実ポピュラーな人物だったと言えるでしょう。誰しも、少なくとも名前は知っていた。マズーレンではカレンダーにカントの言葉の引用が載っていたのである。著書はもちろんほとんど目にすることは無かったが、--「あの御仁はまあややこしいことを書きなさる」と言われていた。E.T.A.ホフマンはケーニヒスベルク大学に在学中、一度もカント教授の講筵に列したことはないようだ。この有名教授の講義には誰もが聴講に押しかけたのだが、法律家の家系に生まれ、職業上やむを得ず学ぶ法学以外、「論理学」や「形而上学」などにはまったく関心を向けることなく、音楽と文学に没頭したのであろう。 ホフマンも故郷が生んだ偉人に数えられているが、ベルリン大審院判事であり同時にエクセントリックな芸術家に関しては、ちょっと微妙な断りがつく。 この土地が生み出した人間のなかで、この E.T.A.ホフマンは疑いもなく最も偉大な人間の一人であった--ひょっとしたら東プロイセンの精神世界で、一番魅惑的で美しい星座なのかもしれない。第二次大戦によって、500~600年にわたり父祖の歴史を刻んだ郷土を追われたドイツ人には複雑な思いがあろう。この書の副題に「先入見に満ち満ちた本」とある。序文でキルストは、「見過ごせないこと、忘れがたいことのあれこれ」にはなんとか心の折り合いをつけることができるが、「東プロイセンの土地と人々への愛」が消えることはないだろうと言っている。 琥珀包含物 Bernsteininklusen一般に「虫入り琥珀」と呼ばれる、昆虫や植物を閉じ込めた琥珀は、装飾品として珍重されるだけでなく、生物の系統進化を知る貴重な学術資料でもある。何十万年、何百万年前の生物の生態を知る手がかりになるのである。そのため古くから装飾品としての、また学術上の偽造が横行、すでに16世紀にはカエル、魚、トカゲなどを封入した偽物があったことが知られている。プロイセン公アルブレヒト・フリードリヒの侍医であり草創期のケーニヒスベルク大学で医学・物理学を講じたゲーベル教授 Severin Göbel (1530-1612) は、エルシュ・グルーバーの百科事典で「さして重要でない本を執筆したなかで、一番注目に値するものは琥珀に関する論文である」と記述されている人物で、偽造琥珀について書き残しているが、その後も偽物は次々に出現する。 ゲーベルは1558年に模造品(カエルとトカゲ)について報告している。ダンチヒのある商人がマントゥアから来たイタリアの貴族に売りつけたのである。18世紀、琥珀の起源が無機物か有機物かで(タキトゥス『ゲルマーニア』で決着がついていたはずだが)なお争われていたなか、琥珀が有機物であることを論証したロシアの博物学者ミハイル・ロモノーソフ (1711-1765) は、琥珀の模造品があったことにも言及しているとのこと。 その著作のなかで「偽造されたこはくの多くは、透明な樹脂でつくられ、またいくつかの別の材料が入ったテレピンによってもつくられた」と書いている。巧妙に捏造された虫入り琥珀によって専門の昆虫学者がまんまと騙されることもあった。いわゆる「ピルトダウンバエ」事件だ。 ロンドン自然史博物館の標本から発見された、巧妙に彫りこまれた偽物の琥珀があります。最近「ピルトダウンバエ」として有名になったものです。バルティック琥珀の中に大きなイエバエが入っています。ドイツ人の昆虫学者、ヘルマン・リューによって1850年に初めて記載されました。その後1966年に、ヴィリー・ヘニッヒ Willi Hennig が、琥珀中のハエが現在も生きているハエ Fannia Scalaris と同じ仲間だと同定。そのため昆虫進化の研究に大きな混乱をもたらしたのだが、最初の記載から40年を経てようやく1993年に、巧妙に作られた捏造と判明したのである。 この標本がなぜ「ピルトダウンバエ」Piltdown-Fliege と呼ばれるかと言うと、近代科学史上で最大のいかさまとされるイギリスの「ピルトダウン人」 Piltdown Man に類する捏造とされるからである。 1909年から11年にかけて、アマチュア考古学者であったチャールズ・ドーソン Charles Dawson によってイースト・サセックス州ピルトダウンから発見された頭頂骨と側頭骨が、大英博物館のアーサー・スミス・ウッドワード卿の研究室にもたらされた。卿は自らも現地に赴いて人骨の一部や動物化石を発掘し、発見された化石人骨に Eoanthropus dawsoni の学名を付して発表した。 怪奇小説作家のH・H・エーヴェルスは "Bernstein im Blutgericht" という物語を書いている。昆虫やクモなど動物また植物を包含する琥珀が題材となったごく短い小品である(*)。 琥珀が好きで自慢のコレクションを持つ「ぼく」はケーニヒスベルクへ出かけるたびにレーマンという琥珀商から蟻、蚊、蠅、甲虫、鳥の羽根などの入った珍しい琥珀を買う。そして琥珀博物館を訪れるのだが、そのたびにいっそう蒐集欲を募らせる。ここには何千、何万の蝸牛、蟹、蜂、蜘蛛、蜻蛉、蠍、百足、花、葉をつけた花、蜥蜴、蚤などを閉じ込めた琥珀が展示されているのである。あるとき「博物館以上に見事なもの」を持つというドクトル・カッツェンコップなる琥珀コレクターを教えられる。毎水曜日に王宮地下のレストラン「重罪法廷」に来るという人物である。 さっそく「ぼく」はレストランに赴いて博士のそばのテーブルに座りポケットから自慢の琥珀をこれ見よがしに取り出して、カッツェンコップの気を引く。博士は、みんながらくた琥珀だと軽蔑する。小さな蚊が十一匹入った琥珀を突き付けても、見るに値しない、わしはもっと大きな琥珀を持っているという。そしてポケットから取り出したのは、黒蛇、ヒキガエル、ハチドリ、タツノオトシゴ、蘭の花である。持ち歩けるのは小さいものばかり、本当に素晴らしいものは家にあると。彼が言うには、 「ジャコウ猫ときれいなハリネズミを持っている。一メートル半もあるオオトカゲや、そのほかにもいろいろ、あれやこれやお目にかけられるものがある。一年先のことだが、きみがまた当地に来られるならもっとすばらしいものをお見せしよう。わしは約束事はせん主義でな――でもセイウチの入ったのを見たらなんと言うかな? あるいは――美女の首入りのやつを見たら?」「何ですって――何の首ですって?」と驚いて「ぼく」が反問すると、「しっ」と制して思わせぶりなせりふをつぶやき、飲み代を「ぼく」に支払わせて悠々と立ち去る。ウエイターの表情が何だか妙なのでチップをはずんで問いただしてみると、 「あの方の家政婦を知っておりますが、その家政婦があの方のお手伝いをしている次第でして。まず琥珀の屑をお買いになり、それが足りないときはテレピン油をお求めになるのです。そして四百度の温度でみんな熔かして、手に入るものはネズミでも猫でも蛭でも、みんなその中にお入れになるわけでして、はい」ぞっとする結末である。ネコ、ネズミ、トカゲも熔かした琥珀に封じ込めた? 一年先にはセイウチも? そしてヒトの首も? タイトルにある Blutgericht「重罪法廷」とは死刑に値する罪を裁く法廷のことだが、1799年、王宮地下にワイン酒場が設けられたとき、経営者がこれを店名にした。命名の由来は諸説あるとのこと、確かなところは不明である。いずれにせよ「Blut 血の gericht 裁判」とは、「カッツェンコップ」(ネコの首)という名のドクトルが、「美女の首」について語るに相応しい場所と言うべきか。 往時の王宮の平面図、ワイン酒場内部を描いた絵などは以下のサイトで見ることができる。 → 1933年版「ケーニヒスベルク王宮」ガイドブック → 「西・東プロイセン財団」(ミュンヘン)HP * "Bernstein im Blutgericht" には、ドイツ怪奇幻想文学研究の第一人者であった前川道介先生による翻訳があり、 前川道介訳、竹内節編『独逸怪奇小説集成』(国書刊行会 2001) に『琥珀』のタイトルで収められている。引用ドイツ文との対訳にはこの訳文を使わせて頂いた(一部変更あり)。 琥珀の魔女 Bernsteinhexeバルト海沿岸、ウーゼドム島の寒村ネーツェルコウの牧師の家に生まれたヴィルヘルム・マインホルト Wilhelm Meinhold (1797-1851) は、大学で2年間学んだ後、家庭教師をしながら勉強を続けて牧師の資格を得た。諸所の教区を転々としながら職務と創作にはげみ、最後はベルリンに移って文学に専念。詩・劇・小説・紀行・神学や言語学の論文など9巻に及ぶ全集を残した牧師詩人である。1820年にはウーゼドムの小学校の校長となり、1821年、コーゼロウの牧師に栄転して7年程この教区にいたときのこと、教会の聖歌隊席の下から二つ折り版の原稿を見つけた。豚皮で装丁されていたが、前後のページが大きく欠けていて、途中も所々で引きちぎられていた。それは三十年戦争のさなか、当地の十五歳の少女マリーア・シュヴァイトラーが魔女の嫌疑をかけられた事件を記録した、少女の父で牧師であったアブラハム・シュヴァイトラーの手記であった。 その内容に心打たれたマインホルトは、文章が読み易くなるように省略したり補ったりして、1841年に一部を雑誌に発表、43年には原稿発見の経緯と編集仕様を記した序文を付し、単行本『マリーア・シュヴァイトラー、琥珀の魔女』 "Maria Schweidler, die Bernsteinhexe" として出版した。 ここに記された琥珀の魔女事件の舞台はウーゼドム島の小村コーゼロウである。ウーゼドム島はやはりバルト海(ドイツ語では「東海 Ostsee」)沿岸、といってもケーニヒスベルクからはずっと西の、ポーランドをまたいでオーデル河口に位置する。新教陣営の要請を受けて参戦を決めたスウェーデン王グスタフ2世が上陸した場所で、現在は島内にポーランドとの国境線が走っている島だ。 (Wikipedia "Usedom" より) (上の赤枠部分を拡大) スウェーデン軍が上陸するまでに、駐留していた皇帝軍によって食物は徴発され、畑は荒らされ、多くの人々が餓死に追い込まれている時、牧師の娘マリーア・シュヴァイトラーが近くのシュトレッケル山(海抜58メートル)に木苺を探しに出かけて、偶然に「大人の頭ほどの」琥珀を見つけた。そこには琥珀の鉱脈が隠れていたのだった。父の牧師がそれを換金して教区民を助けていたのだが、このことが発端となって牧師の娘は悪魔と結託して琥珀を入手している、マリーアは魔女だとのうわさが広まり、裁判でついに焚刑の判決を下される・・・という内容である。 これが雑誌・単行本で発表されると、でたらめな審問や残虐な拷問によって、可憐な少女が魔女に仕立てられてゆく魔女狩りの過程が詳細に描かれていて大変な評判となった。すぐにイギリスで2冊の翻訳がでて、アメリカでも発行されるという次第で、人々は実録と信じて疑わなかったのだが、『琥珀の魔女』は実はマインホルトの創作だったのだ。聖歌隊席の下から原稿を見つけたというのは作り話で、作者は当時隆盛を極めていたテキストクリティークを嘲弄する意図で、17世紀の低地ドイツ語方言を用い正書法や語彙に擬古体を巧みに模したのだった。その出来栄えが見事だったので、多くの人が実録と信じたのだ。マインホルトは刊行後1年たってから、これは自分の創作だと公表しなければ納まりがつかないほどだった。 マリーアが琥珀を見つけた経緯は次のように語られる。 ある日のこと、マリーアが息せき切って帰ってきて、エプロンの中から大きな二つの琥珀を取り出した。娘の説明では、 木苺を探しながら海岸沿いの山峡に入って行くと、何やら日の光に光るものがあったので、近づいてみるとこれが見つかった。風が琥珀の黒い鉱脈の上の砂を吹き飛ばしてくれていたのだ。(*) すぐに小さな棒切れで鉱脈を割って、琥珀を取り出した。棒きれを砂の中へ差し込んでみると、あたり一帯に手応えがあって、棒きれはせいぜい一フィートしか砂の中に入らなかった。ふつう琥珀は海岸で見つかるもの、陸地の地下に埋もれる琥珀の一部が地面に露出していた、という状況で発見されるのは珍しいので、この箇所には「編者」による「脚注」がつけてあって、『琥珀の魔女』がいかにも手稿を編纂した記録であるかの風を装っている。 [脚注]これはよくあることで、編者も見つけたことがある。だがこの小さな黒色の鉱脈は炭化した植物と混ざりあっていて、ごく少数の琥珀が含まれていたにすぎない。炭化した植物は、琥珀が元来植物性のものであることを明らかにしている。ここには琥珀の起源が無機物か有機物かの争いの余韻が残っているようでもある。マインホルトは有機物に決着したことを知っているのだろう。これが物語の発端だが、別の個所では、嵐のあとに海岸に打ち上げられた琥珀を拾うという一般的な採集風景も描かれる。 主がこの冬、わが教区を素晴らしくお恵み下さったおかげでども村でもたくさんの魚を獲って売ることができたし、コーゼロウではアザラシが四頭とれた。また十二月十二日の嵐ではかなりの数の琥珀が海岸に打ち上げられ、たくさんの人がそれを見つけたが、特に大きいものはなかった・・・マリーアの美貌に目をつけた代官が彼女に言いよる。きびしくはねつけられた代官はあれこれ悪知恵を巡らせ籠絡しようと図り、いずれも不首尾に終わると挙句には彼女が魔女だとのうわさを広めさせ、裁判で焚刑の判決を下されるのを待って、言うことを聞くなら助けてやると持ちかける。あくまで代官の要求を突っぱねたマリーアは火あぶりの刑の宣告を下されるが、薪の山に登る寸前で救出されるのである。 Hesse & Becker 社版(発行年記載なし)の匿名編者 K.Q. 氏の解説に曰く、「全ドイツ文学中最も注目すべき産物の一つ」であり、中世末期の闇夜をいかなる資料よりも鮮やかに照らし出していて「ドイツの文化史文献中の特別席」に置いてしかるべきものだと。 わが国のドイツ文学界で無視されてきたこの著作を翻訳(*)して紹介されたのは前川道介先生であった。「・・・マリーアとその思慮分別に富む父牧師が、暗い時勢のなかにあっての個人ではどうしようもない悪運の連続に翻弄されるすがたを追い、一難去ってまた一難、絶望と慰藉、緊張と解放、不安と希望を巧みに綯い交ぜながら、最後の解決まで息もつかせず読者をひっぱっていく」とその「訳者後記」にあるとおり、小説を読む楽しみを満喫できる作品でもある。 * W・マインホルト(前川道介・本岡五男訳)『琥珀の魔女』(創土社 1984) エリダヌス Eridanusリュディガー・ザフランスキーのホフマン評伝(*)で気にかかる箇所があった。ホフマンの青春時代、すなわちイマヌエル・カントがいた時代のケーニヒスベルク大学は、ザフランスキーによると、ドイツ語圏で主要な大学には入っていなかった。カントの評判をもってしても、ハレ、ライプツィヒ、イェーナにはるかに及ばなかった。学生数は減る一方だったとのこと。そして、カントがいたにもかかわらず、ケーニヒスベルクの大学は胸の高鳴るような知的対決に欠けていた。[中略]ことによるとカントという他を圧する権威の存在ゆえに他の教員にこれといった大物がいなかったのかもしれない。大学に他に変わり種がいなかったかというと、もちろんそうではない。ヨハネス・シュタルクとかいう教授は妄想を体系化し、それによれば、フランス革命はインゴルシュタットの秘密結社が操ったものである、とのことだ。東洋学教授ヨハン・ゴットフリート・ハッセはザームラントが聖書にいう天国であり、琥珀の木こそが生命の木であった、ということを証明しようとした。「インゴルシュタットの秘密結社」とはイルミナティ(啓明結社)のことで、この結社によるフランス革命陰謀説は革命直後から広まっていたので取り立てて珍しい説ではないが、「ザームラントがエデンの園であり、琥珀の木こそが生命の木であった」という論は極めて独創的(!)だと思われる。 ハッセ Hasse, Johann Gottfried (1759-1806) は ADB (19世紀以前の網羅的なドイツ人伝記事典) によると、ヴァイマールに生まれ、イェーナ大学で学び、1786年、東洋学教授としてケーニヒスベルク大学に招聘されている。その業績中には、 „Der aufgefundene Eridanus" (1796) „Preußens Ansprüche, als Bernsteinland, das Paradies der Alten und Urland der Menschheit gewesen zu sein" (1798) が挙げられていて、この1798年の著作が「ザームラントが天国であり琥珀の木が生命の木であった」ことを証明せんとするものだろう。これの入手を目指して探索するなかで、1796年の『見つけ出されたエリダヌス』の複写版が見つかった。こちらも独創・奇想に満ちた作であろうと、さっそく注文して届いたのは、ひどい複写でまともに読めるページは半分もないという代物、可読部分を拾い読みしただけだが、期待にたがわぬ(!)内容であった。 届いた本の扉を見ると、 „Der aufgefundene Eridanus oder neue Aufschlüsse über den Ursprung, die Zeit der Entstehung, das Vaterland und die Geschichte des Bernsteins nach griechischen und römischen Schriftstellern" 『見つけ出されたエリダヌス、すなわち琥珀の起源、生成時期、生地、歴史についての新見解、ギリシャとローマの著述家を手掛かりにして』とある。この時代の書物らしく長たらしい表題だ。 エリダヌスとは、ギリシャ神話中で太陽神ヘリオスの子パエトーンが、父にねだって天を駆ける「燃える火の馬車」に乗り手綱を取ったが暴走し、地上に近づき過ぎて大地に大災害をもたらしたためゼウスの雷によって落とされる、その墜落した河の名である。彼の死を悲しんでパエトーンの姉妹が琥珀の涙を流したとされる。 さて、この神話中の河は実在するのか、実在するならどの河にあたるのかと往時から問題となっていた。ヘロドトス『歴史』には「ヨーロッパの端の地域」の話題に触れて「少なくとも私は、琥珀の原産地と伝えられる、北の海に注ぐ河があって、異国人たちがその河をエリダノスと呼んでいるというごとき話を信ずることはできない」(巻三、115節)と語られているように、もともとは未知の国の河と思われていたのだろう。 神話の基には歴史上の出来事が隠れているはず、伝説の地をどこか実在の土地に見つけ出せるのではという発想はいつの時代にも存在する。(後にはそれが成就したトロイア遺跡の例もある。)この伝説がギリシャ悲劇で取り上げられたときには、例えばエウリピデス『ヒッポリュトス』では、アドリア海にそそぐ河とされる。死を決意したパイドラを見送るコロスがその心中を歌うのである。 地の底に深く沈むか、ローマ時代のオウィディウス『変身物語』では、姉妹の「琥珀の涙」が「涙 → 樹脂 → 琥珀」となる。すなわち、エリダヌス川に落ちたパエトーンはすぐに引き上げられたが既に死んでいた。姉妹(ヘリオスの娘たち)は悲しみのあまりその場で泣き続け「月が四度みちた」とき、ポプラの木に変身する。母親は、足元からじわじわと樹木に変身してゆく娘たちに駆け寄り、必死に幹から引き離そうと枝を折り取ったりする。娘は叫ぶ。 「やめてちょうだい、お願いだから! あなたが裂いている木は、わたしたちのからだなのだもの。ああ、これがお別れ!」--樹皮が、この最後の言葉をふさいでしまった。そして、そこから、涙が流れ落ちる。出来たばかりの枝からしたたるこの樹脂は、日光で凝固して、琥珀となり、澄んだ流れの河がこれらを受け取って、ローマへ運び、妙齢の婦人たちの身につけられることとなった。(68頁)『変身物語』はよく読まれたので、これ以降、神話のエリダヌスはイタリアのポー河に擬せられることが多い。琥珀その他の産物が水路・陸路を経て送られた、古代の「琥珀の道」Amber Road にも近いからであろう。しかし実際には琥珀は北方から到来する。ゆえに産地は北の地方と考えざるを得ないので、さまざまな河川の名が挙がってくる。 紀元後1世紀、2世紀になるとローマ人の知る地理版図が拡大し、タキトゥス『ゲルマーニア』ではヨーロッパの北端を包む海まで視野が広がり、そこで琥珀が採集されることにまで知識が及んでいる。 ・・・海を探り、浅瀬の間、または単に海岸においてさえ、彼ら自身がグレースムと称する琥珀を採集する。いかなる自然、いかなる理由がこれを生んだかは、さすがに野蛮な彼らの、考究し理解するところではないのみか、われわれの奢侈が、その名をして著われしめるに至るまで、永いあいだ、海から打ち上げられ異物にまじって無用に横たわるままであった。彼ら自身には少しも用がなく、ただ生のままを取り集めて不格好なまま売り渡し、怪しみつつ値を受け取るばかり。(213/214頁、一部省略)こうして琥珀が北方の海で産すること、もともと「樹液にすぎない」ことまで知られているにもかかわらず、エリダヌスをローヌ、ラインなどに擬す説もあり、その後もダンチヒ付近でバルト海に注ぐヴァイクセルまたはその支流ラダウネとする意見など、様々な議論が繰り広げられたのである。 ヨハン・ゴットフリート・ハッセの『見つけ出されたエリダヌス』はパエトーンの墜落したエリダヌスをバルト海とする! バルト海に注ぐ河ではなく、バルト海そのものが「見つけ出された」のである。まったくの新説と呼ぶべきであろう。 この本は、全10章200頁で、 序文、第1章 琥珀の起源、第2章 琥珀生成の時期、第3章 名称・性質・用途、第4章 琥珀の生誕地、第5章 琥珀=エリダヌスがイタリアのポー河、ライン河ローヌ川でなく、そもそもかかる南方の河ではないこと、第6章 琥珀=エリダヌスがダンチヒのロダウネでなく、プレーゲルでもデューナ等々でもないこと、第7章 古代の琥珀=エリダヌスは東海に他ならないこと、東海の生成について、第8章 古代・近代の過ちの解決。琥珀生地に関する古代のすべての見解の総合および若干の反論に対する返答、第9章 琥珀交易について、第10章 オウィディウスによる大火の物語、注釈つき、結論という構成である。 目次中で「琥珀=エリダヌス」と呼ぶのは、琥珀の採集される地もエリダヌスという名の河も他にもあるが、検討対象を神話に伝えられた琥珀のエリダヌスに限定するの謂い。すなわち文献多数を渉猟し考察を加えた結果、神話の「エリダヌス」が現実世界に「見つけ出され」た、それは東海(バルト海)であると主張するのである。えっ、河ではなく海だって? 河を海と置き換えるとは、従来にない大胆な説である。我々の注目すべき点もそこ以外にはあるまい。 琥珀の生成年代・生成地を論証するのに、実証的な調査は念頭になく、ギリシャ・ローマの神話、伝説、叙事詩、史書に手掛かりを探る。もっともハッセといえども神話と史的事実をまったく混同しているわけではない。神話は太古の歴史を詩人が書きとめたものだから、粉飾を剥ぎとってゆけば基の素材が露わになると言う。琥珀は大昔に大火によって樹脂が流れ出て固まったもの、神話に伝わる大火・洪水が琥珀を造ったのだ、ギリシャ神話の大火・洪水は旧約聖書のソドムの大火、ノアの洪水と一致するので史実である・・・という理屈。 従来の諸説、ポー、ローヌ、ライン、ロダウネ、プレーゲル(ケーニヒスベルクを流れバルト海に注ぐ)、デューナ(ラトヴィアのリーガでバルト海に注ぐ)を次々に否定し去るのに苦労はいらない。「パエトーンの暴走で大火になりそのあたりの河は水が干上がったはずだ」「オウィディウスにはさそり座を超えてゆくと書いてあるのだから、パエトーンは遥か北方に墜落したのだ」などなど、神話に語られたことや『変身物語』の記述でもって論断するのには唖然とさせられるが、もともと諸説の方にも確かな根拠などないのである。従ってハッセの議論は、確かにバルト海(東海)である琥珀の産地と伝説の「エリダヌス」を結ぶことに集中する。以下の部分に立論の核心があると思われる。 さてこのギリシャのエリダヌスについて、ギリシャやローマの人々のいう琥珀の生誕地にはいささか疑義が生じる論争がある。解明されるべき命題はこうである。そこから琥珀がギリシャへ到来したエリダヌスとはいかなるものか、いずこの流れであるのか。本章ではこの解明の予備作業のみ行う。そしてその注にいわく、 この語はギリシャ語では常に 'Ηριδανοσ と η で書かれ、Εριδανοσ のごとく ε で書かれることはない、[中略]Ηριδανοσ なる語は、それを分解すると、副詞 ηρι「早い、朝の、東方の」(ホメロスではイーリアス 9, 360 に、そして別の著述家にも頻繁に単独で出現すること、各種ギリシャ語事典で示されるとおり)と、語尾 δανοσ から成る。ηρι はあらゆる語尾と結びついて形容詞となる。[中略]であるから ηριδανοσ は形容詞で「早朝の、あるいは、東の」という意味である。しかし ηριδανοσ にあっては常に ποταμοσ が見つかるしまた[一語不明]だ。ゆえに Ηριδανοσ は東へ伸びる河となる。ποταμοσ はギリシャ語では河や流れだけではなく海、海洋にも用いられる。それで大洋も ποταμοσ である。まさにそれゆえ ωκεανοσ (ωκυσ「速い」に由るか、あるいはヴァハターが主張する ωγη「波浪」に由るか)が波の高い急な流れであると同様、ηριδανοσ は東流、東海なのである。最後のヴァハター云々のところも複写が不鮮明で ωγη が正しい判読かどうか。正しいとすると ωγη がなぜ Woge なのか理解できない。ちなみに「ωκεανοσ オケアノス」については J.B. Hofmann の語源辞典によれば「Herkunft unklar 語源不明」とされている。 ハッセは、この部分は予備作業と言うが、後段でもこれ以上の根拠が示される個所は見つからず、彼の立論はすべてがここの、河を海と読み変え得るという「言語学」上の主張にかかっている。ギリシャの神話・伝説を、聖書の記述にも一致するからと、現実世界に対応箇所を探し求めることの当否をここで指摘するのは野暮なこと。それは措くとして、エリダヌスをバルト海(東海)に擬するハッセの「言語学手続き」に幾分なりとも掬い取れる真実が含まれるのかどうか、古典語の素養に乏しい私には判断がつかない(**)。 「ザームラントがエデンの園であり、琥珀の木が生命の木」だという本も、いつかぜひとも読んでみたいものだ。 * 邦訳がある。 |