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拾遺集、拾六 Aus meinem Papierkorb, Nr. 16



水泳学校 Schwimmanstalt

湯屋へ水浴に行くことが市民社会のモラルに反する振る舞いとされる中で、昔は普通に行われていた水泳も廃れていたのが、18世紀末からの水浴の復活に伴って水泳もまた盛んになってくる。ヴェルパーの水浴船が個室の温浴と同時に流水で水泳もできる構造であったように、baden と schwimmen は結びついている。

そして蘇った水泳に特徴的だったのは、それを人間教育の一つ、身体の鍛錬として見る思想が働いていたことだ。新しい教育法を実践し「ドイツのルソー」と称せられるザルツマンは、デッサウに開かれたバーゼドウの「汎愛学校」で指導法を学んだが、身体教育の方法など不満に思うところがあり、ザクセン・ゴータ公国の僻村シュネップフェンタールでみずからの汎愛学校を創設した。この学校で長年教鞭をとった教育者グーツムーツこそが新しい水泳を普及させた先駆者である。この変わった名前の人物はハレ大学で神学、物理学、数学、歴史などを学んだ後、家庭教師として生徒(*)に付き添ってきて、この学校の教師に採用されたのである。彼は通常の科目のほかに「体育」を担当し、身体教育の最初の教科書といわれる『青少年の体育』を著した。
    [注]すでに3名の名前が出たが、この項では肉体鍛錬あるいはスポーツとしての新しい水泳を創始し普及させた有名無名の立役者が多く登場する。その他、ここで言及される人物のフルネーム、生没年などは各段落ごとに挙げることにする。
  • バーゼドウ Johann Bernhard Basedow (1724-90) ドイツ啓蒙主義の神学者、教育者。生徒の出自・宗派を問わず、かつ権威主義で子供に忍従を強いるだけの学校ではない、新しいタイプの「汎愛学校」(フィラントロピウム)開いた。指導法も大幅に各教師の自由に任せた。
  • ザルツマン Gotthilf Salzmann (1744-1811) イェーナ大学で神学を専攻、牧師となる。1784年、シュネップフェンタール Schnepfenthal で汎愛学校を創設した。『蟹の本』(1777) 『コンラート・キーファー』(1796)『蟻の本』(1806)などの著作が有名。
  • グーツムーツ Joh. Chr. Friedrich GutsMuths (1759-1839)
    『青少年の体育』"Gymnastik für die Jugend (1793)"
グーツムーツの教育論、遊戯論、余暇論、地理教育法にわたる多くの著作の中に『水泳術独修小教本』がある。「毎年何千人のヨーロッパの人が水に落ち、水に抗いもがいて命を失くしていることだろう! ―― この不幸を防止するためにヨーロッパの理性は何を考え、それがどんな効果を挙げたのだろう?」とその「序文」は書き始められている。ひとは救助法や蘇生術にばかり意を用いているが、「いわゆる未開世界の」水に慣れた自然児がこんな様子を見たら驚くだろう。助けることよりも、水に落ちても溺れない方が大切ではないか。世の親は子供のダンス教師にすっかりつぎ込んで水泳を習わせるお金は残らないのか。「水泳は教育の主要科目にならなければならない」との要請が掲げられる。ギリシャでもローマでも大切な修練だった水泳が廃れたのはなぜか。十全な教育という考えがなくなったのか。いや、「これまで溺れることが流行だったのは、水泳が流行でなかったからだ」と警句でもって糾弾する。
  • グーツムーツ:
    『水泳術独修小教本』 "Kleines Lehrbuch der Schwimmkunst zum Selbstunterrichte (1798)" この書の新版が2013年に、初版を基に、ごくわずかな箇所で誤りを訂正し解説を付して刊行された。
タイトルに『独修』とあるものの指導法に重点があって、ナポリで新しく出版された水泳指導書を紹介しつつ古来のドイツの水泳術と併せて説いている。徐々に水に慣れさせてゆき、水中で身体を浮かせること、背泳ぎ、平泳ぎ、潜水、飛び込みと「章 Kapitel 」に分けそれぞれ「課 Lection 」ごとに段階を追って進むカリキュラム。彼の創案として知られた水泳ベルト Schwimmgürtel は、「長さ12フィートほどの軽い竿の端に丈夫な麻紐を結ぶ。手の平ほどの幅の二重にしたリンネルを緩く生徒の胸に回してボタンか紐で留めたベルトに、その紐を繋ぐ」というもの。これも、「必要に迫られて発明した」と述べているように、生徒一人ひとりについて教師が水中で支える労を省くための道具である。

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さて、ベルリンに目を向けると、水浴船あるいは水浴ハウスとして新しい形のさまざまな施設が作られる中で、入浴ではなく水泳を目的とする人々が増えてくる。水浴船でも柵内で泳ぐことができたが、ベルリンで本格的な水泳施設が生まれたのは1811年のこと、所はシュプレー川ウンターバウム橋近くであった。これを作ったのは、フンボルトのメキシコ地図作成にも協力した測量学者フリーゼンである。フィヒテの演説《ドイツ国民に告ぐ》で語られた「ドイツ人のための教育計画」という教育立国論に鼓舞され、ヤーンとハルニッシュとともにペスタロッチ思想に基づくプラマンの学校に赴くなど、新しい教育法を打ち立てようと努めていた。そして「体操の父」ヤーンがハーゼンハイデに体育場を開いたとき協力し、また、当時は学生で後にプロイセン軍大佐となるパルムとドイツ最初の水泳施設を開設したのである。
  • フリーゼン Karl Friedrich Friesen (1784-1814) マグデブルク出身、ベルリンの「建築アカデミー」で主に測量学を学んだが、哲学・教育学にも関心が深かった。1806年から11年までフンボルトのメキシコ地図作成に協力した。ヤーンがハーゼンハイデに体育場を開いたとき師範 Vorturner となった一人。冬の間、体操協会を催して, 鉄棒・横木・あん馬など体操器具を開発した。
  • アレキサンダー・フォン・フンボルト Alexander von Humboldt (1769-1859)
  • フィヒテ Johann Gottlieb Fichte (1762-1814) 『ドイツ国民に告ぐ』(Reden an die Deutsche Nation, 1808) はナポレオン占領下のベルリンで行われた講演。
  • ヤーン Friedrich Ludwig Jahn (1778–1852) 1811年に市南部ハーゼンハイデ Hasenheide に体育場を開いた。「体操の父」と呼ばれる。
  • ハルニッシュ Wilhelm Harnisch (1787-1864) ハレ大学で神学を修める。神学者、教育学者。「郷土研究の父」Vater der Heimatkunde と呼ばれる。
  • ペスタロッチ Johann Heinrich Pestalozzi (1746-1827)
  • プラマン Johann Ernst Plamann (1771-1834) ハレ大学で神学を修める。ペスタロッチに心酔し、その方式で小学生からギムナジウム5年度 (Tertia) まで教える「プラマン学校」 Plamannsche Erziehungsanstalt を設立。フリーゼン、ヤーン、ハルニッシュもここで教壇に立った。
  • パルム Palm マグデブルク大学のウェブサイト MBL の「Friesen, Karl Friedrich」の中で、「のちのプロイセンの Generalmajor Friedrich Ludwig Palm 」とあるが、Karl Friedrich Ludwig Freiherr von Palm (-1812) のことか?1812年9月17日にヴュルテンベルクのウラーネン連隊第20部隊の隊長に任命されるが、その10日前、モスクワ西100キロのボロディーノで戦死していた。
ウンターバウム橋の水泳施設ではハローレン Halloren(**) のタールマンが主導して水泳を教えた。ハレの町で製塩に従事する職人のハローレンは、仕事の後に川に入って身体を洗うのがしきたりで、自ずと水泳の技も身につけていた。そのため実技指導者として喚ばれたのであろう。タールマンのあと、1816年からはアンドレアス・ティヒィがその役割を受け継ぎ、続いてアンドレアス・ルーツェがその任にあたった。ティヒィもルーツェも同じくハローレンだった。
  • タールマン (Halloren) Thalmann
  • アンドレアス・ティヒィ Andreas Tichy
  • アンドレアス・ルーツェ Andreas Lutze
グーツムーツは『水泳術独修小教本』の「飛び込み」の箇所でハローレンに触れている。「このやりかたでハレのハローレンたちは高い橋から、32フィートもあるぞっとする高さからザーレ川に飛び込む、それでも私の知る限り怪我をしたという例は一人もない。」 そう言えばグーツムーツもハレ大学で学んでいるので、彼らの水泳術をしばしば目にしたことだろう。

このあたりの経緯は複雑で、人間関係も錯綜している。生徒に実技指導をしたのはハローレンの職人たちだったので、その経歴や係累はほとんど不明である。しかしながらやがて彼らが施設の経営をも担うようになった。1811年ウンターバウム橋に最初の水泳学校「水泳小屋」 Schwimmhütte を開設したのは、一般にはルーツェとティヒィとされている。例えば、1834年の『ベルリン百科事典』の Schwimm-Anstalten の項目では、水泳学校は3箇所あるとして ―― フリーゼンは無視されて ―― ルーツェとティヒィ、そしてプフュールの名を挙げている。

どうやらタールマンは早世したようで、未亡人アマーリエが夫の水浴場を引き継いだが、亡夫と同じハローレンのアンドレアス・ルーツェと再婚し、夫婦で水浴場の経営にあたった。また同じくフリーゼンの施設で教師を務めたアンドレアス・ティヒィも水泳学校に携わり続け、1825年になるとティヒィはルーツェの施設の西、火薬工場の傍に男子用施設を設け、これは1860年代まで営業していた。この事業を支援したのは、次に述べるプフュールで、彼がティヒィに自前の施設作りを世話し斡旋した。ここには立派な円柱の玄関ホール、河岸に平らな建物とステップがあった。両施設はすぐ近所で、ポッホハンマーとともに当時の代表的な施設であった。
  • タールマン未亡人アマーリエ Amalie
  • ポッホハンマー Georg Friedrich Pochhammer (1759-1839) 枢密税務顧問官で、1818年に新フリードリヒ通り、現在のリッテン通り、(今は無い)ヴァイゼン橋 Waisenbrücke 近くにロシア式蒸気風呂などさまざまな入浴・水浴施設を作った。
前項 《水浴船 Badeschiff》 で、人目もはばからずシュプレー川で水浴をしたり「公序良俗を嘲弄するように」裸で小舟に乗るような行為についてのモアービット住民の苦情を紹介したが、モアービット地区はまさにウンターバウム橋のすぐ下流にある。「裸族」の中にはティヒィやルーツェの施設で水泳を習っている者もいたのではないか。

はじめは男性用しかなかった野外施設 Freibad だが1830年代にアウグストとアマーリエ・ルーツェ夫妻が女性用施設を作った。前項に掲載した地図を見るとベルヴュー宮殿の少し下流に Damen Bad の表示があるが、これがそうであろう。ルーツェ家の人々はなかなか商才に長けていたようで、1845年にはモアービット橋の袂で「波のプール」設置の認可を得た。兄(弟)フリードリヒの手紙によると、波を作る蒸気装置の安全性の問題でオープンは延期になったようだ。

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新しい水泳の普及に決定的な役割を果たしたのは古い家柄の貴族エルンスト・フォン・プフュールである。プロイセンで軍務に就いて1803年に中尉で退役、1805年4月に再び就役してナポレオン戦役に従軍、シュメッタウ将軍の副官としてイェーナ、アウエルシュテット戦を戦う。プロイセンの敗退後はドレースデンでザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国の王子ベルンハルトの教育係りとなる。そのあとオーストリア軍、ロシア軍に籍を置いてフランス軍と戦う。解放戦争では再びプロイセン軍に戻り、「ワーテルローの戦い」にも従軍、パリ占領時プロイセン占領地区の司令官であった。
  • プフュール Ernst von Pfuel (1772-1866) ベルリンではラーエル・ファルンハーゲンのサロンに出入りしていた数少ない軍人の一人。1803年に軍を退いてドレースデン滞在中はハインリヒ・フォン・クライストと各地へ旅をした。パリ占領時プロイセン占領地区の司令官、ナポレオンがパリに持ち去ったブランデンブルク門上のクアドリガ Quadriga を元に戻した。
  • ハインリヒ・フォン・クライスト Heinrich von Kleist (1777-1811)
  • シュメッタウ将軍 Friedrich Wilhelm Carl von Schmettau (1743-1806) アウエルシュテットの戦いで負傷し、ワイマールで死亡。
プフュールは独立戦争後再びベルリン司令部付きとなり、1817年からオーバーバウム橋近く Köpenicker Straße 12 の工兵兵舎の裏手に水泳学校を設けた。水泳を軍人の必修技能と位置づけ、教練に水泳を組み入れる教育カリキュラムの改革を行った。水泳の訓練ではベルトを用いるなどグーツムーツの指導法を参考にしたとされる。ここの施設は午前中は教練に使われたが、夕方は一般市民に水泳を教える学校でもあった。下の写真がプフュールの水泳学校。向こうに見えるのがオーバーバウム橋であろう。



下は1893年の地図に記されたプフュールの水泳学校。オーバーバウム橋の少し下流、 Köpenicker Straße 12 の兵営の裏にあたるところに、Pfuelsche Schw. Anst. と Milit. Schwimm Anst. の表示が読み取れる。軍と民間が共用していたことを示すものであろう。



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それにしても気になるのはシュプレー川の汚染である。以前は流水は病気に伝染する心配のない水と考えられていた。しかし19世紀、工業化が進展し、ベルリンの人口は爆発的に増加する。そして近代的な下水施設は未整備である。川の汚染が急速に進んで行ったに違いない。

ベルリンの代表的な水泳学校は町を貫くシュプレー川の両端で《関税市壁》の役割を担うオーバーバウム橋とウンターバウム橋に作られた。この世紀の半ばにベルリンで少年時代をすごした人物(***)の証言がある。
ティヒィでも水泳を習うことができたが、われわれはそれは敬遠した。シュプレーは白鳥のようにベルリンに入り、豚のようになって出てゆく、というリュッケルト(****)の言葉を試してみようと思うならプヒュールとティヒィの両水泳学校を訪ねてゆかねばならない。[・・・]ティヒィのところを、そこで水から上がったらみな背中に死んだ猫を担いでいるよ、といつもふざけて言ったものだ。[プヒュールのほうは水がきれいなだけでなく、しっかりとした水泳術を習うことができる]水泳にとってプヒュールという名前は体操のヤーンに匹敵するのだ。
Man konnte zwar auch bei Tichy schwimmen lernen, aber wir hielten nichts davon. Wer auf Rückrts Wort, daß die Spree wie ein Schwan Berlin betritt, um es wie ein Schwein wieder zu verlassen, die Probe machen wollte, mußte die beiden Schwimmanstalten bei Pfuel und bei Tichy besuchen. [...] Wir neckten die Tichyschen stets damit, daß jeder, der dort aus dem Wasser steige, eine tote Katze auf seinem Rücken heraustrage; [...] denn der Name Pfuel bedeutet für die Schwimmerei dasselbe, was der Name Jahn für die Turnerei.
--Alexander Meyer: Aus guter alter Zeitt. Berliner Bilder und Erinnerungen. (1909, 2006)
やはりと言うべきか。この証言は1850年前後の状況を語るものだろう。旧市内の流水プールは早くも1825年に水の汚染のために閉鎖されている。60年代にはウンターバウム橋近辺の水泳学校も営業を終えたようだ。
* のちに地理学者として大成し、アレクサンダー・フォン・フンボルトとともに「近代地理学の創始者」とされるカール・リッター Carl Ritter (1779-1859) である。
** ハローレンとは、ハレの町の、塩泉から汲み出した塩水を熱して食塩を取り出す職人、あるいはその組合。「ユネスコ無形文化遺産」に新しいジャンル「現代に生きる共同体 Genossenschaft の伝統」を加えるべく2014年にドイツが選定したリストに採られた。
*** アレキサンダー・マイヤー Alexander Meyer (1832-1908) ジャーナリスト、プロイセン議会・ドイツ帝国議会議員
**** リュッケルト Friedrich Rückert (1788 -1866)
その詩の該当部分:
 Sie kommt beim Oberbaum herein,
 rein wie ein Schwan, um wie ein Schwein
 beim Unterbaum herauszukommen.
  (Altberliner Bilderbogen, S.124)


往年の水泳狂 alte Schwimmfanatiker

ハンス・フェヒナー『わが懐かしのベルリン』(「六文橋 Sechserbrücke」参照)で語られる幼いころの思い出の中で、エルンスト伯父が話してくれたベルリン水浴場の話題が出てくる。この伯父の生年は不明だが、「昔の生粋のベルリンっ子」、「1829年の大火を体験している」ので恐らくは1820年代初めの生まれで、ここで語られる水泳の話は30年代の様子だろう。昔話の中の昔話である。ロシア式蒸気風呂や水浴施設のことに続けて、水泳学校の話になる。

19世紀前半のベルリンにあった水泳学校について、1834年の『ベルリン百科事典』(*)の「水泳施設」の項目では、ルーツェとティヒィ、そしてプフュールの名を挙げている。1851年のガイドブック『15グロッシェンで訪ねるベルリン』(**)の「水浴施設」の項目では、「1.冷水浴場と温水浴場」と「2.流水浴場」に分けて、後者でルーツェとティヒィ、ポッホハンマーそしてプフュールを挙げている。

エルンスト伯父の頃からすでにティヒィやルーツェの施設は「ベルリン中の下水、汚物の中で泳がされるようなもの」だった、と言う。
水泳は水浴より奨励された。高齢のよき伯父はいつも鼻にしわを寄せて語った、ティヒィやルーツェなどで泳ごうとは一度も思わなかったね。彼らはシュプレー下流右岸、に二つの水泳場を持っていたが、そこは今のレアーター駅の近くだが、当時はモアービットの方角は草地か畑ばかりだった。彼らはこの水泳場をそんなに長く続けてはいない。泳いでいると汚いものが見つかったりしたからな。ベルリン中の下水、汚物の中で泳がされるようなものだからさ。
Besser gefördert wurde das Schwimmen. Der gute, alte Onkel Ernst erzählte immer mit gerümpfter Nase, daß er nie bei Tichy und Lutze hätte baden mögen. Die hatten zwei Schwimmanstalten am rechten Ufer der Unterspree, in der Nähe des jetzigen Lehrter Bahnhofes, wo damals in der Richtung auf Moabit zu nur Wiesen- und Ackerflächen lagen. Sehr lange haben sich die Anstalten nicht gehalten, denn die Badenden hatten wohl ein Haar darin gefunden, in den sämtlichen Abwässern und dem Unrat ganz Berlins umherschwimmen zu sollen. --

ヴァイゼン橋の上手の、そこは水はまださほど汚れていなかったが、ポッホハマーの水泳学校にいつも習いに行って、自由に泳ぐことが許されるようになった。シュプレーのもっと上流、ケーペニック通りの端っこにある兵営の裏手に、まったく申し分のないプフュールの水泳学校があった。そこでは《兵隊浴場》で水泳を習わせるために軍隊も使っていた。水浴と水泳狂で、時間のあるものはみなプフュールの水泳学校へ、都心から遠い道のりを出かけていった。エルンスト伯父は「われわれ古株は」といつも愉快そうに思い出話をしてくれた、「水泳クラブみたいな《長老会》を組織していたのだ。10歳か12歳年上の大人の市民が早朝6時から7時の間(***)にクレムザーを使ってみなを門口まで迎えにきてくれた ―― たいていの者はアレキサンダー広場辺りに住んでいたからな。
Oberhalb der Waisenbrücke, wo das Wasser noch nicht so verunreinigt war, in der Pochhammerschen Schwimmanstalt, gingen wir immer baden und durften dort uns endlich freischwimmen. Weiter oben an der Spree, am Ende der Köpenicker Straße, hinter der Schützenkaserne, war die ganz einwandfreie Schwimmanstalt von Pfuel, wo auch das Militär zu baden pflegte, im "Soldatenbad" das Schwimmen erlernen mußte. Zu Pfuel wanderten all die Wasser und Schwimmfanatiker, die die Zeit hatten, den weiten Weg aus der Stadt dorthin machen zu können. "Wir bejahrten Semester", erzählte Onkel Ernst immer mit behaglichem Erinnern, "hatten so eine Art Schwimmklub "Alter Herren" zusammengebracht. Etwa zehn bis zwölf ältere, ehrbare Bürger ließen sich in der Morgenfrühe zwischen sechs und sieben Uhr von einem Kremser gemeinsam von ihren Haustüren abholen, -- die meisten wohnten ja da um den Alexanderplatz herum. --

ごく軽装で、寝巻きとフェルトのスリッパといういでたちも結構いたが、御者の吹き鳴らすラッパを聞くや、長い安物のパイプを携えて玄関先に姿を現す。そしてゴトゴトとのんびりプフュールへ向かう。道中は町の様子や目に入る変化をあれこれじっくりと批評する格好の機会となったのさ。」
In leichter Kleidung, manche im Schlafrock und Filzpantaffeln mit langer Kanasterpfeife, erschienen sie alsbald an der Haustür auf den Trompetenruf des Kutschers. In gemütlichem Zockeltrab ging's dann zu Pfuel hinaus, und man hatte die schönste Gelegenheit und Muße, während der Fahrt städtische Angelegenheiten und in Aussicht genommene Neuerungen bekritteln zu können". --

この往年の水泳狂と水泳を愛する若者は、命令で水泳を習っている実直な兵士たちと同様、清潔こそ健康維持の礎を信条とする代表者であった。イギリスの若者たちが、春夏秋冬いつでも毎日入浴できるようにするためにと、ベルリンの施設に持ち込んだゴム製の浴槽を目にしたとき、みな住民はあっけに取られたものだよ!
Diese alten Schwimmfanatiker und die Jugend, die den Schwimmsport liebte, waren ebenso wie das brave, auf Befehl schwimmen lernende Soldatenvolk, die Vertreter gesundheiterhaltenden Reinlichkeitsprinzips. Welch' Kopfschütteln unter den Bürgern über die ersten Gummibadewannen, die sich englische Junggesellen für den Aufenthalt in Berlin mitbrachten, um zu allen Jahreszeiten ihr täglichen Bad zu genießen! --
-- Hans Fechner: Mein liebes altes Berlin. Neue Spreehannsgeschichten. (o.J.)
清潔こそ健康維持の基本とされていて、水泳が衛生と体育の両面の意味を持っていたことがわかる。ティヒィやルーツェの水泳場は1811年、プフュールの施設は1817年、ポッホハマーの水泳学校(Mariannenbad)は1818年に開設された。だがベルリンの人口は1810年の16万人から1840年の32万人へと、30年間で2倍に増えている。シュプレー下流ウンターバウム橋近くでは汚染が急速に進んだことだろう。
* L. F. v. Zedlitz: Neuestes Conversations-Handbuch für Berlin und Potsdam (1834)  この事典には料金なども記されている。利用するだけなら一夏で3ターラー、講習を受ける場合は7ターラー。初心者区域には囲いが設けられ、脱衣所としてテントがある。
** A. Cosmar: Ganz Berlin für fünfzehn Silbergroschen (1843, 1851)
「水浴施設」 Badeanstalten I.「冷水浴場と温水浴場」Kalte und warme Bäder II.「流水浴場」Flussbäder
コスマール Alexander Cosmar (1805-42) は文筆家で編集者、文学結社「シュプレーに架かるトンネル」 Tunnel über der Spree のメンバー。
*** 前項で、午前中は軍事教練に夕方は一般市民に公開とあったが、曜日によって異なるのか、あるいは時代の経過で変わっていったのか。


水道 Wasserleitung

ベルリンに近代的な水道がお目見えしたのは19世紀も後半のことであった。近代都市の最も重要なインフラといえる上・下水道の建設には水問題に関する市民のさまざまな苦情に始まり、提言、論争、諍いがあったが、加えて住民の的外れの反発もあり、この都市近代化事業は一筋縄では成就しなかった。ここでは水道建設を巡るおかしな出来事、珍事のあれこれを振り返って見よう。

ベルリンの悪臭は有名であった。それは「小用事情」で触れたような路傍の放尿もあったが、主に排水溝から立ち昇るもので、本来雨水を川に流すための溝に家庭や工場の汚水も流されて悪臭源となった。19世紀に人口が爆発的に増大し、ゴミ、汚水が増えて悪臭はいよいよ耐え難いものになっていった。それがそのまま川に流れ込んでシュプレーの汚染も激しくなる。また汚水の一部は地面に浸み込んで、地下水を汚染させる。汚れた空気と水が住民の健康を蝕む。

1831年と48年三月革命時のコレラの流行がベルリンの上・下水道設備の建造を推し進めることとなった。「ベルリンのコレラ」で見たように、三月革命と同時期に流行したコレラにより、ベルリンで8000名近い死者が出た。医学・病理学者ルードルフ・フィルヒョーの活動もあって、住居や飲料水、街路浄化など根本的な生活環境の改善が必要と広く認識されたのである。

さまざまな苦情、提言を受けて市当局も対策に乗り出すが、いつまで経っても施策をまとめることができずに、結局は国王の任命した警視総監ヒンケルダイの主導で事業が進むことになる。市当局の不甲斐なさについては、ファルンハーゲン・フォン・エンゼ(*)が辛辣に語っている。「市民の意識や自由に背き、臆病風に吹かれて不名誉にも反動に与し、皆の尊敬を失った後、ベルリン市当局はいまやその報いとして、警視総監の掌中にある。ヒンケルダイは市当局をさして省みることもなく、消防制度と街路清掃を整備し、市の水道給水についてイギリス人と契約を結んだ。」

このいきさつについては後で詳しく見ることとして、まずは近代的な設備ができるまでの水事情を見ておこう。

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ベルリン自由大学の電子文書館に「ベルリン下水道の成立」なる文書があり、そこには下水道ができる以前の汚水処理の状況が次のように記されている。
汚水の処理は当時までは単純な仕組みだった。道路の縁と歩道の間に大きなものでは幅1メーター、深さ1メーターに及ぶ排水溝があり、家庭と事業所の排水そして雨水が、そこを通って町から外へ運ばれたのである。固形の廃棄物と排泄物のためには裏庭に肥溜めが設えられていて、定期的に空けられ内容物は運び出されなければならなかった。歩道を横切る、厚板で蓋をした小さな暗渠が家庭の排水を直接排水溝へと流した。
建物の壁に取り付けられた縦樋からは屋根の雨が歩道を越えて排水溝へ流れるが、これは冬期の数ヶ月凍結して歩行者にはきわめて危険であった。

Zille_Rinnstein Die Entsorgung des verschmutzten Wassers hatte sich bis dato einfach gestaltet: Zwischen den Straßenrändern und Bürgersteigen befanden sich bis zu einem Meter breite und einem Meter tiefe Rinnsteine, durch die das häusliche und gewerbliche Abwasser sowie das Regenwasser aus der Stadt heraus transportiert wurden. Für die festen Abfallstoffe und Fäkalien waren in den Hinterhöfen Abtritte eingerichtet, die regelmäßig abgeschöpft und deren Inhalt fortgeschafft werden musste. Kleinere Kanäle, die mit Bohlen abgedeckt waren und quer über die Bürgersteige führten, leiteten das häusliche Abwasser direkt in die Rinnsteine.
Aus Fallrohren an den Häuserwänden floss das Regenwasser von den Dächern über die Bürgersteige in die Rinnsteine, was in den Wintermonaten aufgrund von Glätte eine beträchtliche Gefahr für die Fußgänger darstellte.
--Oliver Krzywanek: Die Entstehung der Berliner Kanalisation. (2004)
すべての家の、汲み取って運び出す汚物以外は、排水溝に流したのである。

排水溝(下水溝、どぶ)が都市の下水装置の主役であった。排水溝 Rinnstein とは道路の歩道際の(ときには中央に設けられることもあった)少し低くなった箇所である。Rinne は液体が流れる溝状のもの、だからこれだけで排水溝を意味するが、舗装された道路に作られたものを Rinnstein というようだ。

Rinnstein

Rinnstein

『往昔ベルリン絵本』 Altberliner Bilderbogen によると、1856年に近代的な設備が建造されたとき、ベルリンの人口はおよそ60万人で、道路に公共の井戸が900箇所、そして家屋9000戸のほとんどの中庭に井戸があった。当時多くの建物は5、6階建てで上階に住む者が水を運び上げるのは骨の折れる仕事だった。とうぜん使った後の汚水は運び下ろさなくてはならなかった。下水溝に流せない(相当部分は流したようだが・・・)固形部分の処理について、同書にはこうある。
すべての中庭には井戸と汚水・糞尿をためる竪穴を備えるとなっていた。しかしこういった設備は作りが悪かったので汚れたすすぎ水が竪穴ではなく、道路の下水溝に流れるのだった。
汚水桶の中身を道路の下水溝に空けることは禁じられていたが、多くの市民はそれほど厳密に守ろうとはしなかった。
裕福な人が住む住居にはトイレがあったが、水洗ではなかった。毎夜、覆いをかけた車が通りを走った。これらの車はそれぞれおよそ100の蓋付きバケツを運んでいた。灯りを手にした10人かそこらの女 ―― いわゆる 《夜のエマ》 Nacht-Emma(**) である ―― が不気味な車列に付き従い、空のバケツを提げて建物に入ってはバケツを満杯にして戻って車に積み込む。こういう時に帰宅したら口と鼻をしっかりとハンカチで押さえて階段を急ぎ昇らねばならない。
車のこと? 人びとはその車を、ベルリンでもっとも高級な香水店(***)の名でもって『トロイ・ウント・ヌークリッシュ』とか単に『ヌークリッシュ』呼んでいた。

Auf jedem Hof mußten ein Brunnen und eine Senkgrube für Abwässer und Kot vorhanden sein; aber die Anlagen waren so schlecht eingerichtet, daß das Spülicht nicht in die Senkgrube lief, sondern sich in die Straßenrinnen ergoß.
Es war nicht erlaubt, den Inhalt von Gefäßen, die unreine Flüssigkeiten enthielten, in die Straßenrinnen zu entleeren, aber so genau nahmen das die meisten Bewohner nicht.
Die besseren Wohnungen hatten Toiletten, aber ohne Abfluß. Nachts durchfuhren geschlossene Wagen die Straßen. Jedes dieser Gefährte führte etwa hundert verdeckte Eimer. Zehn bis zwölf mit Laternen ausgerüstete Frauen -- die sogenannten Nacht-Emmas -- begleiten die unheimliche Fuhre, drangen mit leeren Eimern in jedes Haus, holten die gefüllten und stellten sie in den Wagen. Kam man in diesem Augenblick nach Hause, dann mußte man mit fest an Nase und Mund gepreßtem Taschentuch das Treppenhaus durcheilen.
Und die Wagen? Die Volkswitz nannte sie "Treu und Nuglisch" nach der vornehmsten Berliner Parfümerie oder einfach nur "Nuglisch".
--Hans Ludwig: Altberliner Bilderbogen. (1965)
プロイセン政府も市当局も下水溝を汚させないようにとさまざまな手を打つ。1836年には警視庁が以下のような布告を出している。
1.歩道、排水溝と車道は市街居住部分の地所の前では週に2度、毎水曜日と土曜日に、夏季は6~8時の間、敷地の前面に沿って端から端まで、そして道路幅の半ばまで入念に清掃しなければならない。排水溝は底までシャベルですくって、そこにある不潔物は一纏めにしてその日のうちに道路から取り除かねばならない。乾燥時にあっては、埃が立つのを防ぐため車道・歩道を掃くとき十分に水を撒かねばならない、云々。
2.瓦礫、ゴミ、陶器のかけら等々を投棄して道路を汚すこと、窓から液体を撒き捨てること、糞尿バケツを道路に空けること下水溝に流すことは厳しく禁じられる。
3.中庭等々はかくあらねばならない云々

1. Der Bürgersteig, der Rinnstein und der Straſsendamm müssen vor jedem Grundstück in dem bewohnten Theile der Stadt wöchentlich zweimal, an jedem Mittwoch und Sonnabend, während der Sommermonate in den Stunden von 6—8 Uhr, längs der ganzen Frontlinie des Grundstückes und der Straſsendamm auf die Hälfte seiner Breite sorgfältig gereinigt werden. Der Rinnstein ist bis auf die Sohle auszuschippen, die vorgefundenen Unreinlichkeiten sind in Haufen zusammenzubringen und jedenfalls noch im Laufe des Tages von der Straſse fortzuschaffen. Um bei trockener Witterung den schädlichen Staub zu vermeiden, muſs beim Fegen des Dammes und des Bürgersteiges zureichendes Besprengen mit Wasser angewendet werden u. s. w.
2. Jede Verunreinigung der Straſsen durch Herauswerfen von Schutt, Müll, Scherben u. s. w. wie das Ausgieſsen von Flüssigkeiten aus den Fenstern und das Ausleeren der Schmutzeimer auf den Straſsen oder in die Rinnsteine wird hiemit gemessenst untersagt.
3. Müssen die Höfe u. s. w.
--Hobrecht, James: Entwickelung der Verkehrs-Verhältnisse in Berlin. Berlin, 1893 (http://www.deutschestextarchiv.de/)
実はこの類のお触れは≪大選帝侯≫フリードリヒ・ヴィルヘルム(1640-1688)の時代から繰り返し出されてきた。当時道路は未舗装かぐらぐらの石畳、家並みに排水路が沿って走っていた。選帝侯はオランダ流の舗装された清潔な道路を求めて規制を強化し、路上に小屋を置いて豚を飼育することを禁じたり、市場に商品を並べた農民には必ずごみを市外に持ち帰るように命じた。住民に道路清掃の義務を課し、ごみがたまると道路清掃人が車に積んで市門の外へ運ぶこと等々の命令を発した(****)。19世紀になって道路を汚すな、ごみを捨てるな、窓から汚物を流すな、排水溝をきれいにせよ、などという布告が出るということは、いまだにごみ、汚物が道路、排水溝を汚していたということだ。

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突然の土砂降りなど大雨が降ると水が溢れてまるで川のようになる排水溝もあって、これは子供たちには楽しみの種となった。ハンス・フェヒナー(「『ラインの守り』あれこれ」参照)の『シュプレーハンス』に語られる思い出話に耳を傾けてみよう。フェヒナーの生家は市中央のシャルロッテ通りにあった。これは南北に走るベルリンきっての目抜きフリードリヒ通りからひとつ東側の道で、ジャンダルメンマルクトを挟んでもう一つ東側がマルクグラーフェン通りになる。
突然の非常な、凄まじい、豪勢な土砂降りより素敵なものはなかった。そのときのシャルロッテ通りの光景ときたら! もっと凄いのがマルクグラーフェン通りだ! われわれ近隣一帯の男の子は打ち連れて出かけてゆく。というのも排水溝の大洪水がこの上なく素晴らしい遊びに使えるのだ。分厚い排水溝の渡し蓋が一つ一つ浮き上がって、「渡りに舟」とはこのこと、それに打ち跨り「シュプレーの水上」のつもりで漕いで行く! 箒の柄と杖がオールだ。滅茶苦茶に面白かった。転覆しても破損しても面白い。50、60センチの深さのところだったら。
Nichts war herrlicher, als ein tüchtiger, gehöriger, ausgiebiger Platzregen. Wie wundervoll sah es dann in der Charlottenstraße aus! Noch großaritiger aber in der Markgrafenstraße! Wir Jungen aus der ganzen Nachbarschaft zogen gemeinsam dorthin, denn die Riesenüberschwemmungen der Rinnsteine waren zu den herrlichsten Spielen zu gebrauchen. Einzelne der dicken Brückenbohlen wurden fortgerissen, und das war dann ein "gefundenes Fressen". Man stellte sich darauf, es war ein Kahn, man fuhr "auf der Spree!" Besenstiele und Stöcke waren die Ruder. Das war wahnsinnig fein und interessant. Kentern und Havarie gehörte auch dazu. Gab's doch Stellen, wo das Wasser über eine Elle hoch stand.
--Hanns Fechner: Der Spreehannes (1911)
「蒸気船が来たぞ!」 向こうから二人の男の子の乗ったが大きな樽が来たのだ。一人はバランスをとって立ち、一人はラッパをやかましく吹き鳴らす。彼らはジャンダルメンマルクトに近づくと、「アメリカだ!」と叫ぶ ・・・ 『シュプレーハンス』の続編『わが懐かしのベルリン』(「六文橋」参照)でも土砂降りの雨や排水溝の舟遊びのことを振り返っている。
なにより素敵な舟遊びは、水の溢れた排水溝や車道において、昔の洗い桶と大きなたらいとぷかぷか浮いた排水溝の覆いを使ってするものだった。われわれの考えでは排水溝なるものは都市の発明のなかで、およそ考え得る、一等素敵な発明だった。もちろん家主さんたちは別の考えであったろう。家主さんはそのような大雨の時には口汚く悪態をつきながら出てきてじゃぶじゃぶと水を掻き分け、手遅れにならないうちに家の前の排水溝の覆いを外す。遠くに流れてしまったり、われわれの舟遊びのための犠牲とならないようにである。
Die schönsten Kahnpartien ließen sich auf den überfließenden Rinnsteinen und Straßendämmen in alten Waschfässern, Zubern und auf losgeschwemmten Rinnsteinbohlen veranstalten. Ja, nach unserer Meinung waren diese Rinnsteine überhaupt die köstlichste städtische Erfindung, die man sich denken konnte. Die Hausbesitzer waren natürlich anderer Meinung. Unter mörderischem, bösem Gefluche stapften sie während eines solchen Regenfusses durchs Wasser, um noch rechtzeitig genug die zu ihrem Hause gehörigen Rinnsteinbolen zu erwischen, ehe sie allzuweit davonsegelten oder unsern sportlichen Gelüsten zum Opfer fielen.
--Hanns Fechner: Mein liebes altes Berlin. Neue Spreehannsgeschichten. (o.J.)
どの建物の前も、車輌の出入りの便宜をはかり歩行者が転落するのを防ぐために、排水溝は木製の厚板で覆ってあった。普段も悪童たちは溝を飛び越えたり、ズボンをたくし上げて水の中をじゃぶじゃぶ歩いたりして遊ぶのだが、大雨ともなると衣類やら玩具やら野菜・果物の籠から犬猫の死骸が流れる中を厚板や樽に乗って「航行」できるのだ。
夏の驟雨は特別な恵みでもあった。排水溝の悪臭も洗い流してくれるのである。そして雨が上がりお日様が顔を出して数日もすると、排水溝の縁から草が生えてきて白や黄色の可愛い花が咲き競う。

フェヒナーは1860年生まれだから、これは70年前後の情景と思われる。上下水道ができたとはいえ、大雨になると至るところで浸水したのである。思い起こせば私たち昭和20年代大阪育ちの子供も、台風で道路が冠水すればボートに乗せてもらって避難したが、それはわくわくと胸躍る出来事だった。いつの時代も何処にあっても「適度の水害」は子供たちの喜びであろう。
* Varnhagen von Ense 1852年の日記、川越修『ベルリン 王都の時代』(ミネルヴァ書房、230ページ参照)
** なぜ Nacht-Emma か? この仕事をする女性は普通 《バケツ女》 Eimer-Frau と呼ばれていたので Eimer に近い音の女性名 Emma としゃれたのだろうか?
*** トロイ・ウント・ヌークリッシュは1832年ベルリンで創立され、王室御用達となった香水店。 (wikipedia.de: "J.F.Schwarzlose Söhne")
**** Barbara Beuys: Der Große Kurfürst. (1974,1989) S.215ff. & S.372f.