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拾遺集、拾七 Aus meinem Papierkorb, Nr. 17



給水施設 Wasserwerk

ベルリン市街の汚れと悪臭は都市化の進展、人口増とともに1820年ころから年毎に悪化していった。1831・32年と48・49年のコレラの流行に際して、汚物と汚染された空気が原因だとする「ミアズマ説」が流布されたことも、町を清潔にすること、特に排水溝の浄化が必要だという認識を広めるきっかけとなった。シュプレー川の汚染は、前の世紀から問題視されていて、1796年には医師フォルマイ Formey が尿瓶の中身がシュプレーに捨てられていることを憂慮し、また川の水でビールを醸造するのは健康上の問題があるとの懸念を表明していた。かつては市中心部、シュプレー川のルストガルテン対岸にも醸造所があった(*)

測地学者で軍事学校の教官であったベイアー Johann Jacob Baeyer (1795-1885) は、都市問題にも関心をもっていて、すでに1838年、地下に水道管を埋設して蒸気機関による揚水で排水溝を浄化する案(**)を提出していた。これがきっかけで彼はアレキサンダー・フォン・フンボルトの推挙を受け、建設顧問官アイテルヴァインによってパリとロンドンに下水事情を視察のため派遣されることになった。同行したブレッソン Johann Ludwig Urban Blesson (1790-1861) は工兵出身でやはり軍事学校の教官であった。パリ、ロンドンは都市インフラ整備でも先進的なので当時ヨーロッパ各国各都市から視察団が送られ、いずれのチームにも階上の住居から排泄物が流せるロンドンの水洗トイレが印象的だったようだ。彼ら二人も両都市の設備を比較してロンドンのシステムを範とすべきとする報告をまとめている。
Baeyer, J. J.; Blesson, L.: Die Bewässerung und Reinigung der Straßen Berlins. Eine Denkschrift zur allgemeinen Verständigung. Mit einem Plan. Berlin: Verlag von E. H. Schroeder, 1843. 78 p.(***)
しかし市当局はいかなる提案も費用の支出を渋って受け入れず、懸案をどう解決するか一向に結論を出せないので、警視総監ヒンケルダイ Karl Ludwig Friedrich von Hinckeldey (1805-1856) が乗り出すことになった。彼は1848年、 革命の騒然たる雰囲気の中で、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世により、ベルリンの警視総監に任命された。王はベルリン市をしっかり統治でき、民主化の動きをコントロールできる人物を求めた。ベルリンの市民軍を無血のまま鎮圧したヴランゲル将軍の支持を得て新総監は辣腕を振るう。53年3月には警察庁長官に任命され、内務省の警察部門トップになった。印刷所を閉鎖したり、劇場の検閲など弾圧もしたが、町の清掃、水道、市民生活の目に見える改善を行って、やがて市民の尊敬と愛情を受けるようになった。

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ベルリンの水道計画スタートから一世紀にあたって書かれた《ベルリン水道100年》 Philipp Kunze: 100 Jahre Berliner Wasserwerke (Berliner Heimat 1957 Nr.3) という文章がある。水道設備の計画、工事、運営に関して手際よくまとめられているので、主としてこれによってスケッチしてみよう。

汚染問題を解決せんがために、さまざまなプランが提案され議論された。シュプレー川沿いに水車を建てて水をくみ上げ排水溝を洗い流す計画もあったが、水車では必要な量の水をくみ上げる力がないとわかるなど、あれやこれやでいつまでも結論が出ず、ついに警視総監ヒンケルダイが前面に出て、1852年12月14日にイギリスの企業家フォックス Fox とクランプトン Crampton に水道事業を発注する契約を結んだ。
Vertrag zwischen dem Königlichen Polizeipräsidenten von HINCKELDY namens des Königlich Preußischen Gouvernements und den Unternehmen Sir Charles Fox und Thomas Russel Crampton über die Versorgung der Stadt Berlin mit fleißendem Wasser.
契約の骨子は、1856年7月1日から25年間の期間、水道に必用な公道と土地を独占的に利用する権利を認める、そのために土地が利用されることを地主は認める、水道システムから水道を引くかどうかは各住民の任意である。道路洗浄・散水ならびに消火目的にも備える。さらに市内に5つの噴水を作り水を供給し続けること。以上の契約と法的な義務を履行するために10万ターラーの保証金を支払うというものである。

契約締結後の1853年3月19日にイギリスで株式会社 "Berlin-Waterworks-Company" が設立された。1855年12月13日にフォックスとクランプトンはこの会社に契約の権利義務を譲り渡した。水道システムはシュプレーの上流で水を汲んで市内に給水する構想、そのために必要な設備として、シュトラーラウ門前の土地に機械および濾過装置を建造した。ポンプで加圧された上水を市内に送る2系列の主送水管として 710ないし760mm 径のパイプを敷き、アレキサンダー広場からは送水ネットの中心になる給水塔へ水道管を伸ばす。給水塔には水槽が付属していて、水圧が低いときにはパイプラインに水を流す仕組み。給水塔は三箇所に設けられた。

シュトラーラウ門で二手に別れ、第二の主送水管はシリング橋でシュプレー川を越える。シュトラーラウの施設はレンガと淡黄色タイルでイギリス風の建物群になった。水道会社のオフィスは最初、王宮横のシュロッスフライハイトに、後にブライト通りに置かれた。

1855年末までに契約にあった60250メートルの水道管敷設が終了し、さらに115000メートルの敷設も済んで、1855年12月1日に試験給水が行われた。水道施設ができたことは一般に歓迎されたが、住民が皆、家に水道を引こうとはしなかった。そこで導入されたのが割引作戦。料金は家賃の1%に設定されていたが、建物の全住戸に引くと33%を値引きするとした。
1859年1141戸 
1860年1446戸 
1861年1822戸 
1862年2358戸 
こうして年を追って水道を引く家が増えてゆき、またベルリンの市域拡大、人口増のため、契約の設備規模ではまかなえないことが明らかになった。イギリスの会社は予定以上の敷設工事をする条件として独占期間延長を求めたので、ここでベルリン市自らが水道事業を行うことを目論む。1873年12月31日に会社とベルリン市との間で売買契約が締結された。

市が運営を引き継いだとき、ベルリンの人口は約91万人、そのうちの43万8千人が水道を引いていた。さらに人口の増加が見込まれ、施設全体の拡張が早急に必用となっていた。そこでテーゲル湖畔に1日あたり8万立方メーターの給水能力(シュトラーラウの施設は6万立方メーター)を持つ施設を新設し、シャルロッテンブルクの高所に中間ポンプを作る。もちろん市内の給水管の新設も必用であった。これらは1877年に完成して、この年の最大消費量は76500立方メーターに昇った。水道を引いた地所は12365箇所、利用者数は71万2千人に達した。

下水処理に関しては建築顧問官ヴィーベ Eduard Wiebe (1804-92) の案(****)が検討されたが、排水を処理せずにシュプレーに流すプランであったため、衛生上の懸念から却下された。ホーブレヒト James Hobrecht (1825-1902) が新しく立案した、市域を放射状に12の系統に分けて下水灌漑耕地 Rieselfelder で汚物を処理した後に排水を川に流す方式(*****)が、医学・病理学者ルードルフ・フィルヒョーの支持も得て採用された。1774年に工事が始まり、78年から順次下水システム Kanalisation が稼動し、ベルリンの汚染と悪臭の元凶と見なされた排水溝 Rinnstein は警察の通達により取り除かれることとなった。人口は100万を遥かに超えていた。

下水灌漑耕地 Rieselfelder に関しては、それぞれの場所、面積、土地購入価格、用途など詳しい資料がある。-- A. Oskar Gericke: Berlins Rieselgüter. in: Groß Berliner Kalender. Illustriertes Jahrbuch 1914.

これ以降、水道設備工事は新たな段階に入る。ミュッゲルゼー Müggelsee の設備建造が1890年に始まった。テーゲルの場合と同じく中間ポンプをリヒテンベルクのランツベルガー通り沿いに設置した。英国の会社が作ったシュトラーラウの施設は1893年11月6日に操業停止、そのあと撤去された。世紀の変わる頃には、料金も下がり冷たくておいしいという評価も定着して、水道需要が飛躍的に伸びた。

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ベルリンの水道事業は初めは大きな抵抗に立ち向かわねばならなかった。頑なに新しいものを受け入れないベルリン人が多かったっらしい。「ベルリン対ミュンヘン 」でも話題にした作家でジャーナリスト、A・O・クラウスマンは、《1880年のベルリン》で、「残念ながらもともとのベルリン人は改新の味方ではなく、それどころか新しいものには何でも激しい抵抗を見せた」と証言する。
もともとのベルリン人は路線馬車に猛烈に反対したし、水道のことなど我関せずだった。英国の会社が水道を開設して、ベルリンの恐ろしく深くかつ天高く悪臭の立ち昇る排水溝の清掃義務を肩代わりするので、家に水道を引くよう求めると、馬鹿馬鹿しい拒絶に突き当たった。パイプが破裂するとか家が壊れるからと、建物の所有者は誰も家に水道を引こうとしなかったのだ。英国の会社はやむなくケーペニク平原に、すなわち現在のモーリッツ広場あたりに、自らの負担で家を数軒建て、ごくごく安価に、あるいは無料で人を住まわせ、建物に引いた水道の便利さを実際に知らしめようと決心するに至った。
Der Urberliner hat gegen die Straßenbahn auf das schärfste opponiert; er wollte von der Wasserleitung nichts wissen, und als die englische Gesellschaft, welche die Wasserleitung eröffnete und dafür die Verpflichtung übernahm, die entsetzlich tiefen und gen Himmel stinkenden Rinnsteine Berlins zu reinigen, den Berlinern das Wasser in die Häuser leiten wollte, stieß sie auf schnöde Zurückweisung. Kein Hausbesitzer wollte Wasser im Hause haben; man fürchtete ein Platzen der Röhren und ein Ruinieren der Häuser. Die englische Gesellschaft mußte sich zu entschließen, auf dem Cöpeniker Felde, das heißt in der Gegend des jetzigen Moritzplatzes, aus eigene Kosten ein paar Häuser zu erbauen, sie mit Wasserleitung auszustatten und dann für billiges Geld oder für nichts Mieter hineinzusetzen, damit diese praktisch die Vorteile der Wasserleitung im Hause kennen lernten.
-- A. Oskar Klaußmann: Berlin im Jahre 1880. Aus den Erinnerungen eines Pressemenschen, in: Groß Berliner Kalender. Illustriertes Jahrbuch 1915.
消火設備、噴水や排水溝への給水は会社の持ち出しなので、利益を得るためには住民一般の需要を掘り起こすしかないのですが、モデルハウスまで拵えて住まわせないと水道は受け入れられなかったとは、驚きです。
* »1796 äußerte auch der Arzt Formey Bedenken und Kritik wegen des Entleerens der Nachteimer in die Spree und glaubte aus gesundheitlichen Erwägungen, daß das Bierbrauen mit Spreewasser "weder gut noch zuträglich sein" könne. « Ragnhild Münch: Gesundheitswesen im 18. und 19. Jahrhundert, S.215
G・バンベルガー『往時のこと』によると「かつてはパーツェンホーフ醸造所はシュパンダウ通りとハイリゲ・ガイスト通りの間にあった」。「六文橋」参照。
** Baeyer, J. J.: Wie die Rinnsteine Berlins durch eine Röhrenleitung mit fließendem Wasser zu versehen sind, Berlin (Ferdinand Dümmler) 1838.
*** Zentral- und Landesbibliothek Berlin のサイト (http://opus.kobv.de/zlb/volltexte/2011/10809/) からダウンロードできる。
**** 建築顧問官ヴィーベ Oberbaurat Wiebe は1860年に都市計画家ホーブレヒト Baumeister Hobrecht、技師ファイトマイアー Ingenieur Veitmeyer とフランス、イギリスの下水事情を視察した。それに基づく提案が »Über die Reinigung und Entwässerung der Stadt Berlin« (Berl. 1861) である。
***** ARO KUHRT: Die Berliner Kanalisation (25. April 2009)
http://www.berlinstreet.de/1392 を参照。


ベルリンの空気 Berliner Luft

悪名高かったベルリンの悪臭も、19世紀末には下水工事の進展とともに、すっかり消え去ったようだ。元凶とされた排水溝 Rinnstein がごみ溜から本来の雨水を流す構造物に戻ったのだ。昔はこんな言い回しがあった。「ベルリンの排水溝は臭いがベルリン女性は臭くはない」 Die Berliner Rinnen stinken, aber die Berlinerinnen nicht. 排水溝と比べるなんぞ女性には失礼だが、Berliner Rinnen と Berlinerinnen が同じ音だから成り立つ地口である。それが1955年の郷土誌の記事「ベルリンの空気――昔と今――下水道の恩恵」になると、街路や中庭や汚物搬出時の建物内の猛烈な臭気を伝える1858年のある新聞記事を引いたあと、こう書かれている。
今日わが町の市民が「良きベルリンの空気」を胸いっぱいに吸い込むとき、一度は下水道と排水処理システムを作り上げた人々とその長年にわたる働きを思い起こすべきであろう。[中略]
私たちは手入れの行き届いた清潔な道路をあたりまえと思っていて、住まいの洗面、バス、トイレなど諸設備は、これなくしては済まされない必需品となっている。
私たちは道路で下水工事を見かけると、いち早く鼻にしわを寄せる。こういう「悪臭を発する状況」は良きベルリンの空気を害するからだ。私たちの良きベルリンの空気は、ベルリンの人々が「なんと、絹のような空気だ」とか「ベルリンの空気、特別な香気」とか言って自慢するが、確かにそう自慢するだけのことはある。

Wenn heute die Bürger unserer Stadt die "gute Berliner Luft" in vol'en Zügen atmen, sollten sie sich einmal an die Menschen und ihre Taten erinnern, die dieses System der Kanalisation und Abwässerung in jahrelangen Wirken schufen.[...]
Wir nehmen die gepflegten und sauberen Straßen als etwas Selbstverständliches hin, und die sanitären Einrichtungen unserer Wohnungen sind uns ein Bedürfnis, das wir nicht mehr missen können.
Wenn wir Straßenarbeiten am Kanalisation sehen, sind wir bereit, die Nase zu rümpfen, denn diese "stinkende Angelegenheit" beeinträchtigt ja unsere gute Berliner Luft, eine Luft, auf die der Berliner mit Recht so stolz ist: einen Stolz, den er in Worte kleidet wie; "Mensch, die is ja wie Seide" oder "die Berliner Luft hat so'n besondren Duft".
-- Karl Wesenick: Berliner Luft -- frühe und heute -- Der Segen der Kanalisation. (Berliner Heimat, 1955 Nr.4)
絹のよう! 特別な香気! いやはや何という変わりようだ。しかし本当だろうか。下水問題は片付いたとはいえ、20世紀の都市には別の汚染源が生まれたのではないか。ガソリンや軽油を燃料とする自動車が空気汚染の主役になったのではないか。1955年のベルリンは排気ガスも空気を汚すほどではなかったということだろうか。

ジャーナリストで作家、また俳優でもあったヴァルター・キアウレーン Walther Kiaulehn (1900-1968) はその著『ベルリン、ある世界都市の運命』 (1958) で、都市のニオイについて興味深いことを言っている。
大都市に足を踏み入れる人間が味わう束の間のものながら意味深い原体験、それはにおいである。この体験はいつも一回限り、つまり到着したときに限られる。翌朝にはもう忘れている、慣れてしまったのである。パリはニンニクと湿った土のにおいがする。メトロに乗ると、はっきりとわかる。ロンドンはゴミとなにか甘い果物、ラズベリーかもしれない、のにおいがする。ジンジャーエールを飲むとロンドンのにおいを感じる。ベルリンは・・・おや、ベルリンは何のにおいがする? そう尋ねられると、外から来た人も住民もみな首を伸ばし鼻をくんくん言わせて思い出そうとするが妙な顔をしてこう言う。「あれ、ベルリンは何のにおいがしたっけ?」 ベルリンは何のにおいもしない、が真実である。
Ein bedeutsames, wenn auch flüchtiges Urerlebnis des Menschen in der Großstadt ist der Geruch. Man hat dieses Erlebnis immer nur einmal, nämlich bei der Ankunft. Am Morgen danach hat man es schon wieder vergessen, man hat sich eingerochen. Paris riecht nach Knoblauch und feuchter Erde. Man riecht es ganz deutlich, wenn man in die 'Metro' hinuntersteigt. London riecht nach Müll und nach einer süßen Frucht, vielleicht Himbeeren. Gingerale schmeckt etwa so, wie London riecht. Berlin riecht ... ja, wonach riecht Berlin? Alle Fremden und Einheimischen, die man befragt, heben die Nase und schnuppern ihren Erinnerungen nach, blicken vor sich hin und sagen: "Ja, wonach riecht eigentlich Berlin?" Die Wahrheit ist, Berlin riecht nach nichts.
大都市はそれぞれ独特のニオイがする? 私など鈍感なのか、屋台やレストラン街ならともかく、鉄道駅や地下鉄でそれを感じたことはない。アムステルダムは石鹸の香りがするとも言っているので、必ずしも食べ物・飲み物のニオイに限らないようだ。キアウレーンはベルリンが何のにおいもしないと言って、その理由をベルリンのロケーション、谷間の清潔な砂地に位置していて四方から風が吹き抜ける地形に求めている。1900年生まれのキアウレーンには、まだ車の排気ガスは問題にするほどではなかったのか。

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そんな半世紀以上も昔の話だけではなく、現在でもベルリンの空気・ニオイについて、次のような新聞記事を目にする。北海沿岸地方からベルリンにやってきた女性の見聞として、ある夜のアレキサンダー広場でのこと、電話で友人を誘っているらしい婦人が、「あなた出てこなきゃだめ。素敵な夜よ。空気がとてもいい香りだわ」と説得するのを聞いて、故郷の空気に比べてすごく汚れているのにと驚いたという話題(*)が紹介されている。またベルリンの空気の組成を細かく調べた記事とか、どの地区が一番きれいかなどという記事も散見される(**)のである。

となると、「ベルリンの空気」には何かいわくがありそうだと気付かれる。下水施設の完成した後のベルリンで「空気」と言えば、どうやら地表に漂う気体であるより人々の心に刻印された気分・気質なのではないか。そして恐らくそれはあの歌が残した痕跡であろう。すなわち20世紀初め、一世を風靡したベルリン・オペレッタ『ルナ夫人』中の一曲《ベルリンの空気》である。
Berlin! Hör' ich den Namen bloß
da muß vergnügt ich lachen!
Wie kann man da für wenig Moos
den dicken Wilhelm machen!
Warum läßt man auf märk'schem Sand
gern alle Puppen tanzen?
Warum ist dort das Heimatland
der echte Berliner Pflanzen?

Ja, ja, ja, ...

das macht die Berliner Luft, Luft, Luft,
so mit ihrem holden Duft, Duft, Duft,
wo nur selten was verpufft, pufft, pufft,
in dem Duft, Duft, Duft,
dieser Luft, Luft, Luft.

Das macht die Berliner Luft, Luft, Luft,
so mit ihrem holden Duft, Duft, Duft,
wo nur selten was verpufft, pufft, pufft,

das macht die Berliner Luft.

Der richtige Berliner gibt
sich gastfrei und bescheiden,
Drum ist er überall beliebt,
und jeder kann ihn leiden.
Wenn sonst man: "Mir kann keener" sagt,
so sagt in jedem Falle,
wenn's dem Berliner nicht behagt
er sanft: "Mir könn'se alle!"
[u.s.w.]
Paul Lincke 《ベルリンの空気》はパウル・リンケ(Paul Lincke, 1866-1946)によって1904年に初演された別の作品のために作曲されたもの。一方で1899年初演のオペレッタ『ルナ夫人』が何度も増補改作を重ねる中で、1922年にこの曲が取り入れられて、オペレッタのヒットとともにあまねく知られるようになった。20世紀初頭、特に第一次大戦後アメリカ、ヨーロッパは空前の経済成長と大衆文化の興隆を見ることになり、敗戦国ドイツも戦後の「天文学的なインフレ」を脱して繁栄を謳歌する。この軽快な行進曲調の歌はまさに帝都から共和国首都へと変わった「世界都市ベルリン」の「黄金の二十年代」を象徴する曲となった。

オペレッタ『ルナ夫人』は3人のベルリン男が熱気球で月世界に行き、王妃ルナ夫人の宮廷で歓待されるという筋書きのもの。当時、ジュール・ヴェルヌの小説をもとにしたジャック・オッフェンバックのオペレッタ、ジョルジュ・メリエスの映画、その他さまざまな月世界旅行ものが流行していて、それに便乗した作品である。台本はオペレッタや草創期の映画台本を数多く手がけたハインリヒ・ボルテン=ベッカース(Heinrich Bolten-Baeckers, 1871-1938)のもの。歌詞もまたお気楽で単純な内容と言えば言える。しかし訳すに困難な、さまざまに解釈されるフレーズもある。最初の4行はどうか。
ベルリン、と聞いただけで
頬が緩んで笑いがこみ上げる!
どうしてわずかな御足で
デブのヴィルヘルムができるのだ!

Berlin! Hör' ich den Namen bloß
da muß vergnügt ich lachen!
Wie kann man da für wenig Moos
den dicken Wilhelm machen!
冒頭の2行は、魅力あふれる歓楽の町ベルリン、をアピールする句と受け取っていいだろう。だが「デブのヴィルヘルム」とは? ウィキペディアドイツ語版では、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 Friedrich Wilhelm II. を当てこすっているとの解釈を採っている。確かにこの国王は「デブで女たらし」(「イフラントと国王」また「不定詞王」参照)と陰口をたたかれていたが、100年以上も前の王を持ち出されても素直に頷けない。パウル・リンケがカイゼル髭を蓄えていることの揶揄とする説もあって、ドイツ最後の皇帝ヴィルヘルム2世(その独特な口髭が「カイゼル髭」と呼ばれた)は退位し亡命したが、目の前の舞台に庶民出身のカイゼルが居るよという、こちらの方が説得力があるかも知れない。そして一度聞くと耳から離れなくなる、
Das macht die Berliner Luft, Luft, Luft,
so mit ihrem holden Duft, Duft, Duft,
のリフレーンである。シュプレー川での水泳の思い出を記した(「水泳学校」参照)アレキサンダー・マイヤーはベルリンの近代化に触れて「馬車鉄道ができると、そこに新しい生活、新しい運動、自由な空気をもたらす」(***)と言っている。都市の近代化と自由は結びつく。ドイツでは中世以来「都市の空気は自由にする」 Stadtluft macht frei と言われてきた。そもそもはこの表現が《ベルリンの空気》の根底にあるのだろう。

《ベルリンの空気》 は youtube でいろいろなヴァージョンを聞くことができる。往年の映画女優で歌手のリッツィ・ヴァルトミュラー Lizzi Waldmüller やツァラー・レアンダー Zarah Leander の歌唱、またベルリンフィルの野外演奏会の締めくくりの演目として必ず演奏されるのでオーケストラヴァージョンもさまざま、小澤征爾指揮のものもある。

ヴァルター・キアウレーンは先ほど紹介した『ベルリン、ある世界都市の運命』の「歌謡曲とシャンソン」 Schlager und Chanson の章で、
およそ90年代にベルリンの偉大な歌謡曲時代が始まる。25年間にわたって3人の歌謡王がシュプレー河畔の都市に君臨した。パウル・リンケとヴァルター・コロとジャン・ジルベールだ。パウル・リンケがまず有名になった。この「ベルリンのヨハン・シュトラウス」は市中心の未亡人のせがれであった。軍隊の曲を追いかけ、「リックスドォルファー」(****)に夢中になった。
Etwa in den neunziger Jahren begann die große Schlagerzeit in Berlin. Fünfundzwanzig Jahre lang herrschten drei Schlagerkönige an der Spree, Paul Lincke, Walter Kollo und Jean Gilbert. Paul Lincke wurde zuerst berühmt. Dieser 'berlinische Johann Strauß' war der Sohn einer Witwe aus der Berliner Innenstdt, rannte der Militärmusik nach und war ganz bezaubert vom 'Rixdorfer'.
-- Walther Kiaulehn: Berlin. Schicksal einer Weltstadt. (1958)
と、パウル・リンケを20世紀初頭の歌謡曲時代の作曲家トップランナーに選んでいる。歌謡曲 Schlager とは芸術的歌曲 Lied ではない大衆的な歌曲・流行歌で、オペレッタから生まれる場合が多い。またドイツでシャンソン Chanson といえばキャバレーで歌われる社会風刺・政治風刺的な歌曲で、しばしばエロチックな歌詞も含まれる。

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ヨーロッパきっての産業都市に発展したベルリンは、文化芸術また芸能分野においても時代の最先端を走る。文学、音楽、アールデコの美術・装飾・ファッション、カフェハウス、バラエティー、キャバレー、ヴァリエテ、レヴュー、演劇、映画で次々と実験的な試みが行われた。都市型大衆文化が一気に広まったのである。なにより表現主義映画のタイトル『カリガリ博士』(1920)、『ノスフェラトゥ』(1922)、『巨人ゴーレム』(1920)、『メトロポリス』(1926) を挙げれば時代の雰囲気は感知されるだろう。

実はベルリンの映画興行史に名を残すオスカー・メスター Oskar Messter (1866-1943) がフリードリヒ通り218番地に所有していた「アポロ劇場」 Apollo-Theater こそ、オペレッタ作家パウル・リンケの揺籃だった。
九〇年代のこの芝居小屋の名声は、何よりもパウル・リンケという名前と結びついたものだった。一八九三年以来、このベルリン・オペレッタの「父」はここで第一指揮者をつとめ、ヴァラエティ部分の背景音楽を担当していた。彼は数多くのポピュラーな風刺小唄を作曲した。一八九六年五月には、オペレッタ『シュプレーアマゾン』がアポロ劇場ではじめて上演されたし、一八九九年五月一日にはここで『フラウ・ルーナ』が、まずは一幕物として披露された。アポロ劇場でパウル・リンケが濃紺の燕尾服にキッド皮の手袋といういでたちで自作の流行歌を指揮するさまを眺めること、それは一つの事件であり、ベルリンを訪れた旅行者や市民で――そういう余裕のあった者なら――それを見逃して平気な者などいなかった。(92ページ)
--M・ハーニッシュ:平井正監訳『ドイツ映画の誕生』(1995)
こうして誕生したオペレッタ作曲家パウル・リンケは、第一次大戦後には「ベルリンのオッフェンバック」「ベルリンのシュトラウス」としてドイツの舞台に君臨する。1929年の大恐慌で世情が一変した後も大御所として活躍し、75歳の誕生日にはベルリン市の名誉市民の称号を受けるなど数々の栄誉に輝く。1941年には『ルナ夫人』の映画もできる。これはオペレッタの映画化というより、『ルナ夫人』上演をめぐるドタバタ劇だが、リッツィ・ヴァルトミュラーの名唱・名演が作品を救っていると評されている。

1943年にもボヘミアのマリーエンバートで『ルナ夫人』の指揮をするなど、ヒトラー政権時代もそつなく生きたということで、戦後のパウル・リンケの評価はあいまいなところがある。1950年代に「ベルリンの空気」を話題にするとき、多くの人はパウル・リンケに触れぬよう努めているとすら見える。そして現在ではパウル・リンケの名はほとんど忘れられたのではないか。この曲《ベルリンの空気》は「非公式の市歌」とよばれるまでになっているのだが。
* Berliner Zeitung 09.11.2015, „Du musst wirklich noch rauskommen. Es ist so ein schöner Abend! Die Luft riecht so gut.“ Kolumne zur Berliner Luft: Wonach riecht Berlin?
** Berliner Morgenpost 27.07.2015, „Im Grunewald ist die Berliner Luft am saubersten“
*** "Und überall wo die Pferdebahn erscheint, spendet sie neues Leben, Bewegung, freier Luft." (A.Meyer: Aus guter alter Zeit, S.54)
**** 「リックスドォルファー」 Eugen Philippi 作曲の行進曲だが、 Oskar Klein の詞による歌謡曲として19世紀末に流行した。
パウル・リンケとともに名を挙げられているヴァルター・コロ Walter Elimar Kollo (1878-1940; 本名 Kollodzieyski) とジャン・ジルベール Jean Gilbert (1879-1942; 本名 Max Winterfeld) は当時の売れっ子作曲家だった。