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拾遺集、八 Aus meinem Papierkorb, Nr. 8



ベルリン対ミュンヘン Berlin vs. München

Berliner-Weiße ビールの話である。ドイツでビールの本場といえばミュンヘンとなろうが、もちろん地方それぞれに独自のビールがある。ケルンのケルシュ、デュッセルドルフのアルトは有名だが、バンベルク、ニュルンベルク、クルムバッハ、レーゲンスブルクなどフランケン地方にもおいしいビールが目白押し。そしてベルリンと言えば Berliner Weiße が知られる。ただしこのビールは果物のシロップを加えて赤や緑に色づけされ、アルコール度数が低く夏にストローで飲む甘酸っぱい清涼飲料水・・・と今ではなっている。

もともとベルリン・ヴァイセと呼ばれるビールは大麦麦芽に小麦(Weizen)麦芽を混ぜた上面発酵のビールである。酵母に乳酸菌を混ぜるのであの酸っぱさが生じる。1800年ころのベルリンにはこれを飲ませる酒場がおよそ700軒あったと言われる。 ところが19世紀半ばに状況が変化する。バイエルン・ビールが押し寄せてくるのである。この間の事情が1950年代から60年に旧東独で刊行されていた季刊の郷土誌「ふるさとベルリン」(Berliner Heimat)の記事中で次のように解説されている。ベルリンでヴァイスビールがいつから作られたか確定はできないが、1680年の課税規定にこのビールが挙げられていることから、これを根拠に1880年をヴァイスビール200年祭として消費拡大を図ろうとした酒場の主がいたらしい。つまり、ベルリン・ヴァイセはかなり落ち目になっていたのである。
1830年あたりまでベルリンではヴァイスビールが圧倒的に優勢であったことは疑問の余地がない。この時代、三月前期、そして上に述べたようにヴァイスビールの情緒ある効果を合わせて見るとそれは時代にぴったり合っていたと言わねばならない。
しかし新しい時代がやってきた。1830年以降、ベルリンの人口は10年にほぼ10万人ずつ増加した。新たな生活様式にはヴァイスビールは合わなかったと言ってもさほど無理な仮定ではなかろう。
Weißbierkellner 凋落の外的要因となったのはバイエルンから導入された新しい種類のビールである。これによって味覚神経に全く新しい感覚が開かれた。切れ味の鋭さに対する味覚である。苦みの泡立つヴァイスビールにはどれにもなかった味覚である。ベルリンっ子をこの新しいビール、「バイエルン・ビール」にすっかり転向させたのはゲオルク・ホップ(*)の功労による。彼はライプチヒ通り6番に一軒の・・・ワイン酒場を所有していたが、ある夜のこと常連たちのテーブルで、うちでも「バイエルン・ビール」が作れると話した。ここから始まった物語はベルリン経済史のまた別の一章である。

Bis um 1830 besteht in Berlin ohne Frage eine unumstrittene Vormachtstellung des Weißbieres. Wenn man diese Zeit, den Vormärz, und die oben schon angedeutete gemütvolle Wirkung des Weißbieres zusammen betrachtet, muß man feststellen: Sie paßten zusammen.
Doch eine neue Zeit kam herauf. Ab 1830 wuchs die Einwohnerzahl Berlins in jedem Jahrzehnt um etwa Hunderttausend Seelen. Es ist wohl kaum eine sehr gewagte Hypothese, wenn man sagt, daß der neue Lebenszuschnitt dem Weißbier nicht zuträglich war.

Flasche&Glass

Der äußere Anlaß des Niedergangs war eine neue Art von Bier, das aus Bayern eingeführt wurde. Hier eröffneten sich den Geschmacksnerven ganz neue Genüsse. Genüsse schärferer Art; die nichts mehr mit dem herben moussierenden Weißbier gemein hatten. Die volle Wendung der Berliner zur neueren Biersorte, dem "Bairisch Bier", wurde durch Georg Hopf eingeleitet, der in der Leipziger Straße 6 eine ... Weinstube besaß und eines Abends am Stammtisch behauptete, daß er auch in der Lage sei, "Bairisch Bier" herstellen. Was sich aus diesem Anfang entwickelte, ist ein anderes Kapitel Berliner Wirtschaftsgeschichte.
-- Werner Meidow: Ober, 'ne Weiße! Streifzug durch die Geschichte eines Berliner Getränks, in: Berliner Heimat 1959, Heft 3
さらに常連たちの中には数人でテーブルの中央に「桶型グラス」(Wanne)を一つ置いて、それぞれが自分の前に引き寄せて飲むという蛮カラな習慣があって、これも新時代の人々にそっぽを向かれた要因だと指摘している。

上は20世紀後半に100年以上も前の状況を振り返っている文章だが、こうした変化のただ中にある1861年のベルリンのガイドブックをみると、当時の人々の夜の過ごし方を紹介している箇所があって、そこで2種類のビール飲みのリアルタイムの生態が描き分けられている。新しいバイエルン・ビールと凋落していくヴァイスビール、それがまるで新旧の世代・社会層の交代と歩みを合わせるかのようで、哀切さが漂う。
楽師たちはビール酒場へ急ぐ。そこは1グロッシェンで長時間の音楽演奏を楽しめるのである。楽師の後に続くのは真面目な職人と、恋人を連れた若者たち。バイエルン・ビールの酒場で客がおしゃべりやドミノに興じるころ、ヴァイスビール党は船乗りのように足を広げ体を左右に揺らせながら亭主関白をなす住処へ向かう。お偉方の馬車はオペラへ向かうのか夜会へ向かうのか舗道を疾駆する。辻馬車は駅へと走る。箱型馬車はプリマドンナを舞台裏へと運ぶ。
Die Musikanten eilen in die Bierlokale, wo man für einen Silbergroschen ein langes musikalisches Programm genießen kann; ihnen folgen die soliden Junggesellen und die Jünglinge mit ihren Liebchen; in den bayrischen Bierstuben finden sich die Plauderer und Dominospieler ein, während der Weißbierbürger breitbeinig und balancirend wie ein Schiffskapitän nach seiner patriarchalischen Behausung wandelt. Herrschaftliche Karossen jagen über das Pflaster nach der Oper oder nach den Soiréen; Droschken fahren nach dem Bahnhofe; die Kutsche bringt die Primadonna hinter die Coulissen.
-- Robert Springer: Berlin. Ein Führer durch die Stadt und ihre Umgebungen. 1861, Faksimile-Ausgabe 1976
次は作家クラウスマンの証言である。A・O・クラウスマン(A. Oskar Klaußmann, 1851?-1916)(**) はいくつかの雑誌編集に携わり、1879年に "Berliner Tageblatt" 誌の特派員となり、1881年からは同じ雑誌の編集助手となった。1883年からはフリーの作家として推理小説などを書いた。彼が雑誌の編集者であった1880年ころのベルリンを回想した文章の中で、ミュンヘン・ビールが従来のベルリン・ビールを圧倒してゆく状況が生々しく描かれている。
編集の仕事が終わって夜9時半頃ホーフブロイ酒場に赴いた。店はかつてのクノープスドルフ・パレ(現在のアッシンガー・ホーフブロイ(***))にあったが、店主のおやじが憂鬱そうな様子でいた。
「ビールはあと半時間だね」とおやじは言った。「樽にはあと何リットルかしか残っていない。」
店主が気の毒だった。ミュンヘン・ビールを導入して酒場を始めたが、オープンして十日で閉じなければならなかった。提供するビールが無くなったのだ。それは宣伝テクニックだろうとみんなに言われた。酒場が再開すると先よりも多くの客が押し寄せた。そして二度目の休業という次第になった。二、三週で提供するビールが尽きたのである。ミュンヘンのホーフブロイはそんなに大量のビールを醸造する設備を持っていなかった。
私はそのビールを一口飲んでいい味だと思ったので、用心のためすぐさま半リットルのグラスを5杯注文してテーブルに林立させた。半時間ほどして店主がやってきて半リットルを1杯買い戻させてくれないかと言う。まだここのビールを味わったことが無いおれの親友が来たのでせめて一口でも飲ませてやりたいとのこと。おやじといろいろ話をして、二度目の休業もベルリンの連中はまた宣伝テクニックだと悪しざまに言うのではないかと言うと、おやじも同じ心配をしているとのこと。この店主はほかのベルリンの酒場の店主のタイプとははっきり違っていた。もともと商人であったが、陶器の商売で失敗したあと友人たちの資金援助でこのホーフブロイ酒場を開店したのだった。

Als ich nach Redaktionsschluß abends gegen 9 1/2 Uhr im Hofbräu-Ausschank erschien, der sich im ehemaligen Knobelsdorffschen Palais (jetzt Aschingers Hofbräu) bestand, empfing mich der Wirt mit trübseliger Miene.
"In einer halben Stunde ist das Bier alle", sagte er; "es sind nur noch wenige Liter im Faß."
Der Mann tat mir leid. Er hatte das Münchner Bier eingeführt und das Lokal eingerichtet, und zehn Tage nach der Eröffnung mußte er das Lokal schließen, weil er kein Bier mehr hatte. Man hatte das als einen Reklametrick betrachtet. Als aber das Lokal wieder eröffnet wurde, blieb der Zuspruch gerade so groß wie zuerst. Nun kam aber zum zweitenmal die Schließung des Lokals; denn innerhalb der nächsten Wochen war kein Bier aufzutreiben. Die Hofbrauerei in München war nicht auf die Lieferung solcher Quantitäten eingerichtet.
Ich kostete das Bier und fand es so wohlschmeckend, daß ich mir zur Vorsicht sofort noch fünf halbe Liter bestellte und vor mir auf den Tisch aufpflanzen ließ. Nach einer halben Stunde kam der Wirt und bat mich, ihm einen halben Liter zurückverkaufen. Ein guter Freund von ihm, der das Bier noch nicht gekostet hatte, war gekommen, und der Wirt wollte ihm wenigstens einen Schluck Bier zukommen lassen. Ich kam mit dem Wirt in ein Gespräch und drückte ihm auch meine Bedenken darüber aus, daß die Berliner diese zweite Schließung des Lokals sehr übelnehmen würden, weil man sie wiederum für einen faulen Reklametrick hielt. Der Mann gab zu, daß er die gleichen Befürchtungen hege. Dieser Wirt unterschied sich merklich von dem sonstigen Typus der Berliner Wirte. Er war ursprünglich Kaufmann gewesen, der im Porzellanhandel Unglück gehabt hatte und der mit Hilfe seiner Freunde, die ihm Kapital vorgestreckt hatten, den Hofbräuauschank eröffnet.
-- A. Oskar Klaußmann: Berlin im Jahre 1880. Aus den Erinnerungen eines Pressemenschen, in: Groß Berliner Kalender. Illustriertes Jahrbuch 1915.
産業化が進む時代、大都市の住民にはホップの効いた切れ味鋭いビールが合っていたのだろう。とはいえ、うまいと思えば半リットルを6本も並べて飲むというのには驚かされますね。
* Georg Leonhard Hopf はプファルツ出身の樽職人、ミュンヘンでビール醸造の修業をした。1827年にベルリンで初めて下面発酵ビールを造ったとされる。
** Franz Brümmer: Lexikon der deutschen Dichter und Prosaisten von Beginn des 19. Jahrhunderts bis zur Gegenwart, 6. stark vermehrte Auflage, Leipzig, Reclam, 1913. Band 3 (Grzenkowski bis Kleimann), S. 478
*** August と Carl の Aschinger 兄弟によって1892年以来ベルリン市中に数多く開かれたビール酒場。


砂売り小僧 Sandbuben

Sandbuben 諧謔と風刺の作家として知られるアードルフ・グラスブレンナー『ベルリンの民衆生活』(*)第 2 巻に「砂売り小僧」 Die Sandbuben という話が収められている。よぼよぼ老馬の引くオンボロ車で、これまた破れ着の18歳のフリッツと15歳のペーターが、早朝ハレ門からクロイツベルクに向かうところから話が始まる。砂を車一杯に積み込んで町に戻ると、「砂はいらんか、白い砂だよ」と売り歩く。買い手の料理女に「おねえさん」、「娘さんと呼んでよ」、「3ペニヒ高く買ってくれるならお嬢様と呼んでやるよ」から始まり、「この前みたいに石粒が混じっているのはだめよ」、「俺の砂に石粒だって、お嬢さん、バカも休み休みにしてよ」、そして「この砂はローゼンタール門の外で取ってきたんじゃない、クロイツベルクの砂だよ、お嬢さん、大臣だってこれを買ってくれるんだ」というようなやり取りが面白おかしく繰り広げられる。この本にはビーダーマイアー時代を代表する風俗画・挿絵画家テオドール・ホーゼマンが挿絵を付けていて、ここには「砂売りと料理女」(**)のシーンが描かれている。

さてさて、砂売りというような商いがあったのか、と驚かれるかも知れない。ベルリンは厚く堆積した砂地の上にできた都市(ベルリン物語 -4- 参照)だから、砂はありふれたものなのに、何とそれが商品となるのだ。用途は、床に撒くのである。そのときありきたりのものではなく、白くて細かい砂が重宝されるということ。

ベルリンの砂売り少年について、ジャーナリストで文化史家のハンス・オストヴァルトは『ベルリンとベルリン女。文化・風俗の歴史』で次のように書いている。
砂売り少年は90年代まで路上に見られた姿であった。彼らはふつう北のレーベルゲまたは南のシェーネベルクやリックスドルフから白い砂を持ってやってきた。これはピカピカに磨いた床に撒かれたのだ。
Die Sandjungen waren bis in die neunziger Jahre stehende Figuren im Straßenleben. Sie kamen gewöhnlich aus den Rehbergen im Norden oder aus Schöneberg und Rixdorf mit dem weißen Sand, der auf die weißgescheuerten Dielen gestreut wurde.
-- Hans Ostwald: Berlin und die Berlinerin. Eine Kultur- und Sittengeschichte, Berlin 1911
レーベルゲ Rehberge は、いまのヴェディング Wedding 地区東部にあたる。細かい砂地にいくつかの丘陵が広がっていた。現在は市民が散策やサイクリングを楽しむ公園になっている。シェーネベルクはティーアガルテンの南側にある。リックスドルフはシェーネベルクの東側に位置していて、ボヘミアから逃れてきた新教徒が多く住んだ。現在ノイケルン Neukölln 地区となっている。

床に砂を撒くのは一般家庭だけで行われたのではない。ハンス・ブレンディケ(***)は「ベルリン往時の人間類型」でいろいろな珍しい仕事に従事する人々を紹介する中で、砂売り少年を取り上げている。筆者自身がベルリン大学で哲学博士となりながら、体育教師の資格も取り、いくつかの雑誌の編集に携わり、ベルリンのガイドブックも書き、さらには切手収集にも詳しいという変わった人物である。
砂売り少年は北ならレーベルゲから南ならテンペルホーフの山からブランデンブルクの白く美しい砂を小さな車に乗せて運んでくる。軍隊をお払い箱になった馬匹――老いぼれ馬――に引かせて一軒一軒売り歩くのである。主婦なり料理女は部屋と台所、床と階段、机と椅子を白い砂でピカピカにする。タバギーやヴァイスビール酒場でも、やってきた客が足下で新しい砂がキシキシ鳴ると、そこはちょっとした店だとみるのである。「砂はいらないか」と男の子の若い喉から響く。――窓から女中が合図をすると1ドライアー(3ペニヒ硬貨)でエプロン一杯分、指示された場所まで砂売りは品物を抱えてゆく。
Die Sandjungen holten aus den Rehbergen im Norden oder vom Tempelhofer Berg im Süden den schönen, weißen, märkischen Sand auf kleinem Gefährt, das ein vom Militärdienst ausrangierter Saul -- eine alte Kracke -- von Haus zu Haus weiter beförderte. Hausfrau und Köchin scheuerten Stube und Küche, Boden und Treppe, Tische und Bänke blitzblank mit weißem Sand und die "Tabagien" und Weißbierstuben galten als gutbürgerlich, wenn dem Eintretenden der frische Sand unter den Füßen knirschte. "Kooft Sand" ertönte es aus frischer Knabenkehle -- ein Wink der Magd aus dem Fenster und der Sandjunge schleppte seine Ware, für 1 Dreier die Schürze voll, bis in eine angegebenen Winkel im Hause.
-- Hans Brendicke: Altberliner Typen. in: Groß Berliner Kalender 1914
ヴァイスビール酒場と並べられている「タバギー」も酒場であるが、18世紀の終わりころから19世紀の前半、火事を防ぐため酒場では、所によっては路上でも、喫煙は禁じられていた、そのなかで喫煙が許された酒場のこと。1848年の革命以降、市民生活の自由化のなかで喫煙規制もなくなったようだ。

前項で引用した郷土誌「ふるさとベルリン」(Berliner Heimat)のベルリン・ヴァイセの記事の中にも酒場の床に砂を撒くことが記されている。
店内の部屋は地味で質素、飾りは何もないと言ってよい。床は砂が撒かれて、客は真っ白に磨かれた丸いテーブルの席に着くのである。唯一の「装飾」と呼べるのは、用意した料理を亭主がチョークで書きつける黒板である。たいして多くはなく、選べる品数はわずかだった。生活そのものがつつましいものだった。
Die Gaststuben waren einfach und schlicht, ja kahl zu nennen. Der Fußboden war mit Sand bestreut, und man saß an runden blankgescheuerten Tischen. Der Einzige "Schmuck" war eine schwarze Tafel, auf der mit Kreide die Anzahl der Gerichte verzeichnet stand, die der Wirt zu bieten hatte. Es waren nicht viele, die Auswahl war gering. Der ganze Lebenszuschnitt war eben bescheiden.
-- Berliner Heimat, 1959-3
そもそも床に砂を撒くという風習はいつごろからあるのだろうか。またどこまでの広がりがあるのだろうか。ヴェックスベルク「初めてのパリ」に出てくるモンマルトルの定食レストランでは「タイル敷きの床におが屑が撒いてあった」(パリの定食屋 参照)と書かれている。砂にせよおが屑にせよ、床に撒く理由はどこにあるのか。そこでは「床掃除に都合がいいからか。昔は床にどんどんモノを捨てたからか?」と推測を述べたのですが、疑問は深まるばかり。
* Adolf Glaßbrenner: Berliner Volksleben (1847)
この本は第 1 巻、第 2 巻とも現在 Google Books (Google eBooks) で閲覧できる。Die Sandbuben の章は第2巻133~148ページ。
** ホーゼマンにはE・T・A・ホフマン全集のための24枚の挿絵があることなど、前川道介『愉しいビーダーマイヤー』(国書刊行会 1993)で詳しく紹介されている。
ここに掲載した挿絵は1983年の国立図書館展覧会 Theodor Hosemann. Illustrator -- Graphiker -- Maler des Berliner Biedermeier のカタログから取った。
*** Hans Heinrich Julius Brendicke (1850-1925)


立ちん坊 Eckensteher

19世紀中ごろ、ベルリンの街角に佇んで荷物持ちなど、ちょっとした用事を言いつかってなにがしかの小銭を稼ぐ男たちがいた。これを Eckensteher と言う。直訳すれば「街角立ちん坊」で、肩に掛けた荷物を吊るすベルトと警察の鑑札らしいが数字入りの腕章、これがトレードマークである。ポケットから酒瓶が覗いているのが通例と見てよい。

Eckensteher 前項でも触れた諷刺と諧謔の作家アードルフ・グラスブレンナーはその名も『立ちん坊』と題する冊子を作ったところ、1832年末から翌年にかけて4版まで増刷する人気となった。そのため新たに冊子『ベルリン、そのあり様と飲み様』 «Berlin wie es ist - und trinkt»(*) を Ad. Brennglass の筆名で編集・刊行することになった。さきの『立ちん坊』を衣替えしてこの第1巻とし、続巻を年数冊のペースで発行したが、それもまたよく売れ、繰り返し復刊・増刷されることになった。「立ちん坊」はベルリンの数々の Originale 「変人、変わり者」代表として頻繁に登場し、かかる酒飲みで怠け者でしかも喧嘩好きの口からベルリン方言で好き勝手なセリフが、時には三月革命前後の世相を辛辣に皮肉るセリフが飛び出して、一躍ベルリン下層庶民のヒーローとなったのだ。
誇り高いベルリンのあらゆる平民の中で彼らこそ最も数が多くて最も注目すべき階層として第一に挙げられてしかるべきである。プロイセンの首都の広くきれいな道路を一度でも歩いた人なら、きっとこの滑稽な国民が目についたであろう。その風体によって、その年中喉を乾かせていることによって、その怠惰と、自分自身あるいは身の回りの何事にも(喧嘩立ち回りは別として)無関心なその様子によって、そのしたたかなウィットによって際立った存在である。
Unter allen Plebejern des stolzen Berlins verdienen sie als die zahlreichste und merkwürdigste Klasse zuerst genannt zu werden; wer je durch die großen und schönen Straßen der preußischen Residenz gewandelt ist, dem wird gewiss diese komische Nation aufgefallen sein, die sich durch ihre Sitten, durch ihren immerwährenden Durst, durch ihre Faulheit und ihre grenzenlose Gleichgültigkeit gegen Alles, was in ihnen und um sie vorgeht, (mit Ausnahme von Prügeleien) und durch handfesten Witz auszeichnen.
-- Adolf Glassbrenner: Berliner Eckensteher. 1832, 1845, Faksimile-Ausgabe 1987
「立ちん坊」を紹介する冒頭の一節である。ここに掲載した挿絵は『ベルリン、そのあり様と飲み様』第1冊の巻頭を飾ったもの。前項と同じくテオドール・ホーゼマンによる。

だがこの「立ちん坊」像はグラスブレンナーの創作ではない。実は俳優で劇作家カール・フォン・ホルタイ(「ワイン風呂」および「パリのホルタイ」参照)の『ベルリン悲劇』(1832年初演)に〈日雇いナンテ〉が脇役として登場するが、この役を当時の人気俳優フリードリヒ・ベックマンが演じて大当たりをとった。これに気を良くしたベックマンは翌年には自ら『尋問を受けるナンテ』なる茶番劇を書いて演じ、ドイツ各地の劇場で熱狂的な喝采を博した。

ベックマンの演技と、〈日雇いナンテ〉に独自の性格(批評精神)を付与したグラスブレンナーの文章とがあいまって「立ちん坊ナンテ」は人気者となったのである。そして人気に拍車をかけたのが『立ちん棒の歌』 Lied der Eckensteher(**) である。グラスブレンナーがベルリン方言で書いた4行4節を、ベックマンが10節にまで引き伸ばしたこの歌は、町中の飲み屋で盛んに歌われた。タイトルの下に (Nach bekannter Melodie) と書かれていて、メロディーは別の歌のものを流用したようだ。
いや、これもいい人生だ
苦情を言うこたないさ
袖の穴から風吹き込もうが
それくらい我慢するさ。

朝、腹が減ったなら
バタパンを頬張るのさ、
キュンメル酒がよく合うね
グビグビ流し込むのさ。

仲間と腰を下ろして
大きい奴もちびも一緒よ、
俺を馬鹿にする奴にゃ、
直ちに一突き食わせるさ。

やっとこせ荷物を運んで
握るはこれ小銭よ、
ポケットの酒瓶取り出し
煙草一服ふかすさ。

Det beste Leben hab' ick doch;
Ick kann mir nich beklagen,
Pfeift ooch der Wind durch's Aermelloch,
Det will ick schonst verdragen.

Det Morjens, wenn mir hungern dhut,
Eß ick 'ne Butterstulle,
Dazu schmeckt mir der Kimmel jut,
Aus meine volle Pulle.

Ick sitz mit de Kam'raten hier
Mit alle, jroß un kleene;
Beleidigt ooch mal eener mir,
So stech' ich ihm jleich eene!

Und drag ich endlich mal wat aus,
So kann ick Jroschens kneifen,
Hol wieder meine Pulle 'raus
Un dhue eenen pfeifen.
この16行がグラスブレンナーによる『ナンテの歌』 Nante-Lied である。ベルリン方言をそれとして訳す(たとえば東北地方、仙台あたりの方言がふさわしいかも知れない)ことは私の力量を越える。上で大意だけは伝えられたと思うが、どうだろうか。
* «Berlin wie es ist - und trinkt» というタイトルは、Berlin wie es ist までは「ベルリンのあり方」と受け取れるが、後に - und trinkt 「飲み方」と続くと wie es ist 「あり方」が wie es ißt 「食べ方」 のように感じられておかしい。
** YouTube で例えば、Eckensteher Nante にアクセスすれば Peter Schwedler の渋い歌声で全曲(?)を楽しむことができる。


ハインリヒ・ラウベ Heinrich Laube

ナポレオン帝国が崩壊した後、ヨーロッパはいわゆるメッテルニヒ体制という復古的な時代になるが、ドイツ・オーストリアの文学史では「ビーダーマイヤー」そして「三月前期」と呼ばれるエポックがくる。その中でフランスの七月革命(1830年)の影響を受けた政治的に尖鋭なグループは「青年ドイツ派」と呼ばれ、ハインリヒ・ハイネ、ルートヴィヒ・ベルネ、ゲオルク・ビュヒナーも含められることがあるが、カール・グツコウ、ゲオルク・ヘルヴェーク、フェルディナント・フライリヒラートなどがその代表者と見なされ、ここで取り上げるハインリヒ・ラウベ Heinrich Laube (1806-1884) もグループの一人である。

ラウベは貧しい職人の家の生まれで、ギムナジウムでは慈善テーブル Freitisch の食事を受けるような経済状態だった。1826年、ハレ大学神学部に入学するものの、自由主義による政治改革を目標とする学生結社「ブルシェンシャフト」に加わって翌年には2か月の学生牢入り。次の学期からブレースラウ大学に移るが、やはり勉学よりもブルシェンシャフト活動に熱中。また当地の雑誌に劇評を書いて文筆家としてデビュー、やがて勃発した七月革命の理念に共鳴し、自由を求める文筆活動に専心する。その後小説・劇作にも手を拡げ、1849年、ウィーンのブルクテアーターの芸術監督に招聘される。1867年に総監督と争って辞めるまでこの職に留まった。

さて、ラウベは小説・戯曲以外に、カール・グツコウとオーストリア・北部イタリアの旅行に出かけた折の紀行など数多くの旅行記を書いていて、残された旅行記(「旅行小説」 Reisenovellen と名付けられている)は数巻におよぶ。それを抜粋して一冊にまとめた本が手元にあるので読んでみると、中欧各地を巡る中で訪れる都市やゆかりの人物の寸描など、皮肉が効いていてページを繰るごとにニヤリとさせられる箇所に行き当たる。ここでは都市の描写に限っていくつか引用してみよう。

まずは栄華を極めるザクセン王国の首都ドレースデンから。
ドレースデンはエルベ河畔の美しい都市だ、とは子供でも知っている。この町の特長についていまさら何かを言うのは余計なことだろう。なにしろ祖国で評判の教養人は誰もが一度は住んだことがあるか、あるいは訪れているからだ。このザクセンの人口六万人の三分の二が昔々から流行性・伝染性の病気、すなわちに鼻詰まりにかかっている。
Dresden ist eine schöne Stadt an der Elbe, das weiß jedes Kind. Es wäre Luxus, über die Merkwürdigkeiten dieser Stadt noch etwas zu sagen, da jeder reputierliche Gebildete unseres Vaterlandes einmal dagewesen ist oder hinreist. Es hat an die sechzigtausend sächsische Einwohner, von denen zwei Drittel seit vielen, vielen Jahren an einer epidemischen und kontagiösen Krankheit, nämlich an Stockschnupfen, leiden.
ヨーロッパ屈指の美術コレクションや名高いゼンパーオーパーの歌劇などを語ることは「余計なこと」と片づけて、子音が濁音化する独特の方言をことさらに取り上げ、「鼻詰まり」と茶化しているのだ。続いて商業都市ライプチヒについて。
ライプチヒへの道は迷いようもなく面白くもないので、途中では何も起こりえない。それにライプチヒはまた奇妙なことに、見もしないでも大抵のことは書くことができる町だ。ここで長く住めば住むほど語るべきことが少なくなる。市民の美しい少女を見かけると、たいがいはおしゃべりを楽しむことになる、他にもっと良いことが無ければの話だが。だが少女と会う回数が重なると、結婚するより良いことは無くなる。こんな結婚について多くを語れるひとはいない。
Die Straße nach Leipzig ist so zweifellos und uninteressant, daß sich auf ihr durchaus nichts ereignen kann. Und Leipzig hat auch die Merkwürdigkeit, daß man das meiste darüber zu schreiben vermag, wenn man es nicht gesehen hat. Je länger man da lebt, desto weniger weiß man darüber zu sagen. Wenn man ein bürgerliches hübsches Mädchen sieht, so kann man allenfalls mit ihr schwärmen, falls man gerade nichts Besseres zu tun hat. Kommt man aber öfter mit ihr zusammen, so bleibt nichts Besseres übrig, als sie zu heiraten. Von solch einer Heirat weiß niemand viel zu erzählen.
バッハゆかりの音楽の都であり古い大学を擁する学芸都市であることには触れずに、退屈な商業の町として描かれるのである。次いで歴史都市マグデブルクについて。カール大帝の時代から記録があり、中世は司教座都市として栄えた町だ。
・・・ここは最初のプロイセン都市で、ベルリン以上にプロイセン的だ。マグデブルクでは火薬が発明(*)され、ベルリンではイロニーが発明された。それに現在では電報があるので、ベルリンのことは数分で知れる。人々がよく眠れているかいないか、ハーグン嬢(**)が赤いドレスを着ているか、ピンクのドレスか。だが、そもそも「女舞踏会」の状況はどうなのかについては誰も知らない。これはマルク・プロイセン・マグデブルクの滔々たる全知の流れをせき止める呪文だ。マグデブルクの人々はこの致命的な言葉が口にされると、声が小さくなる。地位の高い人であればあるほど声が小さくなる。
[...] Es ist die erste preußische Stadt, preußischer noch als Berlin. In Magdeburg hat man das Schießpulver erfunden und in Berlin die Ironie. Und da es in Magdeburg jetzt auch einen Telegraphen gibt, weiß man in ein paar Minuten, ob man in Berlin gut oder schlecht geschlafen und ob Fräulein Hagn ein rotes Kleid oder ein rosenrotes getragen habe; aber was es eigentlich für eine Bewandtnis mit dem Weiberball hat, das weiß man nicht. Er ist das Zauberwort, den Strom der märkisch-preußisch-magdeburgischen Allwissenheit zu stopfen. Die Magdeburger werden kleinlaut, wenn man das verhängnisvolle Wort ausspricht, und je vornehmer sie sind, desto kleinlauter.
マグデブルクといえば三十年戦争中に二万人の市民が虐殺された都市である。いったい褒めているのか貶しているのか読者を迷わせる紹介の仕方だ。ここで思わせぶりに言及される「女舞踏会」 Weiberball とは何だろうか。カーニヴァルに女性だけが参加するパーティーではないかと思われるが、詳細は不明。現在でも「女舞踏会」なるものはドイツ、オーストリア各地で行われているようだ。"Weiberball und Herrenabend"「女舞踏会と男の夜」が催されている町もある。次はハレ。
ギービッヘンシュタインの近くにハレがある。ギービッヒェンシュタインはドイツの最も素晴らしいスポットの一つ、ハレはもっともつまらないスポットの一つだ。ここでは天国と地獄が隣接してあり、両者を結ぶ道がいわゆる「緑の草原」(***)であって、真に善良でもなく真に悪でもない連中がやってくる。
In der Nähe von Giebichenstein liegt Halle. Giebichenstein ist einer der schönsten Punkte Deutschlands, Halle einer der schlechtesten. Himmel und Hölle liegen hier nahe beieinander, und der Weg zwischen beiden ist die sogenannte »Grüne Wiese«, wo die Leute hinkommen, die nicht recht gut und nicht recht schlecht sind.
ラウベも学生として住んだ大学都市なのに(であるがゆえに?)ハレは「地獄」とされる。確かに近郊の要塞の廃墟があるギービッヒェンシュタインは景勝地で、フリードリヒ大王の宮廷楽長であったヨーハン・フリードリヒ・ライヒァルト(1752-1814)が邸宅を構えていてティーク(****)、ノヴァーリス、アイヒェンドルフ、ブレンターノ、アルニムなど多くの若い芸術家が訪れたので「ロマン派の宿」とか「ギービッヒェンシュタイン詩人パラダイス」と呼ばれた。

さて、ドイツ文化の「聖地」ヴァイマルはどう描かれるか。
ヴァイマルはやがて気晴らしのためにはカジノと狩りに出かけるしかない小都市になるだろう。文学はヴァイマルの最大の敵だ、なぜなら文学はヴァイマルが応えようもない要求を持ち出すからだ。というのもヴァイマルは単なる町であって、八千人余りの住民が普通に住むところ、ここにはもう一人の詩人も住んでいない。学校が一つ、孤児院が一つ、劇場が一つ、病院が一つ、曲がりくねった道とかの付属物があるだけだ。
Weimar wird bald eine kleine Stadt werden, in der man in das Kasino und auf die Jagd gehen muß, um Abwechslung zu haben. Die Literatur ist Weimars größter Feind, weil sie Ansprüche weckt, für die Weimar selbst nichts kann. Denn Weimar ist eine Stadt an sich, ein offener Ort mit achttausend und einigen Einwohnern, unter denen jetzt kein Dichter mehr lebt. Mit einem Gymnasium, mit einem Waisenhause, einem Theater, einem Spitale, mit krummen Straßen und sonstigem Zubehör.
-- Heinrich Laube: Reise durch das Biedermeier. (Hrsgg. von F.H.Körber, 1965)
というような調子だ。
* das Schießpulver nicht erfunden haben 「とくに頭がいいわけではない」という言い回しがある。「火薬を発明する」は「頭がいい」ということになろう。
** Charlotte von Hagn (1809-1891) はビーダーマイヤー時代の人気女優。
*** ハレを取り巻く緑地・庭園は現在 Gartenträume と呼ばれる。その一部であろう。
**** 「拾遺集、参」「ハレのティーク」 参照。


ウィーン訛り Wienerisch

テオドール・フォンターネ (Theodor Fontane 1819-1898) の作品に "Irrungen, Wirrungen" という小説がある。このタイトル、韻に構わず直訳すれば『まどい、もつれ』となるだろうか。1870年代のベルリン市街と郊外を舞台に男女の出会いと別離が淡々と進行する物語である。

ふとしたきっかけで庶民の娘が貴族の士官と相思相愛となる。娘は身分違いで決して結ばれることはないと承知の上で「いつかは去っておしまいになるが、いまこの時間の仕合せだけでいい」と告げつつ逢瀬を重ねる。士官は美しく気立てのいい娘を本気で愛しているのだが、経済的に行き詰まっていて、結局は周りの圧力に押され裕福な従妹と結婚するほかなくなる。それを知らされた娘は一言の恨みも口にせず深い悲しみに耐え、数年後には小さな工場で働く年配の男の申し出を受けて結婚する。

この作品には二種の和訳があるようだ。比較的新しいのは(私は未見だが)立川洋三訳『迷誤あれば』(三修社 1997)である。もう一つは伊藤武雄訳『迷路』、1937年の岩波文庫、かなり古いものだが最近復刊されて入手しやすくなっている。ちかごろ思い立ってこの伊藤武雄訳を読んでみると、古い翻訳によくある生硬な直訳調ではなく、流麗な日本語で原作のしみじみとした味わいをよく再現しているのに感心させられた。

ところで、この翻訳で驚かされたことがひとつある。裕福な従妹ケーテと結婚したボートーの方だが、常に明るく一日中笑っているような妻に少しの物足りなさを感じることもあったが、結婚に後悔することはなかった。78年の6月のこと、と日付が入っているが、ケーテの母と姑が若夫婦のもとに逗留していて、「顔色がいつもより蒼い、とか血の気が無いとか、疲れている」とか言って無理に婦人科の診察を受けさせ、シュランゲンバートへ一か月の温泉療養に行かせると話が決まった。おやっと思ったのは、旅先の妻からの便りが紹介される場面(20章)だ。それは行きの汽車でヴィーンからの若い夫人と同室となったことの報告だが、その人物のせりふが次のように訳される。
同室の方はヴィーンの方で、ザリンゲンル夫人舊姓ザリングと仰有る、若いとても感じのいい銀行家の奥様ですの。御實家の御名字と今の御名字とが似ているので不思議だと申しましたら、「ねえ、まるで比較級と結婚したやうでつしやろ」つて御返事でございました。始終こんな調子のお話し振りの方で、十になるお嬢さまがいらつしやるのに(お嬢さまはブロンド、お母さまはブリュネット)、矢つ張りシュランゲンバートへおいでになりますのよ。(伊藤訳、206ページ)
Ich reise mit einer jungen, sehr reizenden Bankierfrau, Madame Salinger geb. Saling, aus Wien. Als ich mich über die Namensähnlichkeit wunderte, sagte sie: ›Joa, schaun S', i hoab halt mei Komprativ g'heirat't.‹ Sie spricht in einem fort dergleichen und geht trotz einer zehnjährigen Tochter (blond; die Mutter brünett) ebenfalls nach Schlangenbad.
Saling 嬢が Salinger 氏と結婚、原級が比較級に変わったと面白く言うのだが、夫人のウィーン訛りの言い回しが、「まるで比較級と結婚したやうでつしやろ」と訳されているところ、どうも京言葉のように聞こえる。どうなんだろうと思いながら先を読むと、ケーテが療養からベルリンに戻ってきた場面(24章)で、ザリンゲンル夫人がボートーに直接語り掛けるセリフがある。
ボートーはアンハルトの驛へ出迎へに行つて、ザリンゲンル夫人に紹介された。夫人は、いいお連れがあつて結構でしたといふ御禮の言葉には耳を貸そうともせず、どんなに自分が仕合せだつたか、いや、それよりもこんな魅力のある若い奥様がおありになるあなた様はどんなにかお仕合はせなことでせうと、何遍も何遍も繰り返した。『男爵様、若しわたしこちらさんの旦那はんになるやうな仕合せな身になつたら、三日と奥様を離したげしまへんえ。』 それから夫人は男といふ男の悪口を言つて、續いて、是非ヴィーンへも訪ねて來てくれるやうにと言つてすすめた。『ヴィーンから一時間とかからへんとこに、ちつさな可愛い家がおすのや、それからお馬さんが二三匹とお臺所と。プロイセンは學校、ヴィーンは御料理の本場どすえ。どつちがええか言うたら、ちよつと分らしめへんけど。』
『私には分かつて居りますわ』とケーテが言った、『ボートーにも分かつて居りませう。』
彼らは別れた。若夫婦は、荷物を後から送り届けるやうに言ひ置いて、幌を外した馬車に乘つた。(伊藤訳、251ページ)

Botho war am Anhalter Bahnhof und wurde der Frau Salinger vorgestellt, die von Dank für gute Reisekameradschaft nichts hören wollte, vielmehr immer nur wiederholte, wie glücklich sie gewesen sei, vor allem aber, wie glücklich er sein müsse, solche reizende junge Frau zu haben. »Schaun S', Herr Baron, wann i das Glück hätt' und der Herr Gemoahl wär', i würd' mi kein' drei Tag' von solch ane Frau trenne.« Woran sie dann Klagen über die gesamte Männerwelt, aber im selben Augenblick auch eine dringende Einladung nach Wien knüpfte. »Wir hoab'n a nett's Häusl kei Stund von Wian und a paar Reitpferd und a Küch'. In Preußen hoaben s' die Schul', und in Wian hoaben wir die Küch'. Und i weiß halt nit, was i vorzieh'.«
»Ich weiß es«, sagte Käthe, »und ich glaube, Botho auch.«
Damit trennte man sich, und unser junges Paar stieg in einen offenen Wagen, nachdem Ordre gegeben war, das Gepäck nachzuschicken. [...]
-- Theodor Fontane: Irrungen, Wirrungen (1887)
やはり京言葉ですね。小説中の方言をどう訳すかは、いつも翻訳者を悩ませる問題ですが、ウィーン方言を京言葉で訳された例は他で見たことがないと思う。神聖ローマ帝国の都であった優雅な宮廷文化のウィーンと、武張ったプロイセン中心の新興ドイツ帝国首都ベルリン、これを京都と東京と見立てたものでしょうか。しっくりくるようなこないような、複雑な気分になります。