拾遺集、九 Aus meinem Papierkorb, Nr. 9キリエライス Kyrieleis ―偽りの書物 1―19世紀も末のこと、古書界に突如マルティン・ルターの署名入り書籍が続々と出現して、世間を驚かせることがあった。これはもちろんすべてニセ物だったが、巧妙な作りで一般の愛書家はもちろん、初めは多くの専門家も捏造と見破れなかった。第一、これらの書籍を世に出したのがヘルマン・キリエライス Hermann Kyrieleis と言う名前だったから、この人物がまさか偉大な宗教改革家の偽署名をするなど、誰も思わないだろう。「キリエライス」とはもともとキリスト教典礼で行われる重要な祈りのことばで、ミサや礼拝で繰り返し唱えられる「キリエ・エレイソン」(主よ、憐れみたまえ)のドイツ訛りである。中世ドイツの聖歌に多く含まれ、そしてルターもこの祈りで終わる聖歌を作っている。こんな有難い言葉を姓にもつ者が、こんな不届きを為すとは信じられないではないか! 商人ヘルマン・キリエライスは、著名な人物の書き込みがあれば古書の値段が上がることに目を付けていろいろ物色したうえ、ケーニヒの文学史、マイアーの百科事典にあるルターの筆跡を器用にまねて、手元の古書にニセの書き込みを加えたのだ。 Aus: R. Koenig: Deutsche Litteraturgeschichte, 1. Band (1900) 「ヴィッテンベルクのよき友ヨハンネス・ランゲ氏に贈る、十一月十日」などと。旧約の詩篇やルターの聖歌集にはもっと手の込んだ文言で飾り、中には扉頁の空きスペースに十戒を書き込んだのもあった。そしてこれの売り捌きかたがまた、いかにもなのである。 どう売るかと言う難問は、女房と力を合わせて解決した。彼自身は値の張りそうな品物を売り、女房にはそれほどは食指をそそらない品物をゆだねた。女房は出かけるときはたいてい喪服を着て、みすぼらしく見える娘の一人の手を引いて行く。携えた貴重な書物の出所についてはいつも同じ物語を語る。スウェーデン王グスタフ・アドルフにうちの亭主の先祖が――なにとぞ魂の平和を――忠実に仕えたので、王はルターの署名のある一冊を下された。いま亭主はこの他にも何冊か入手しているのだが、わが家は貧窮に落ちて飢えを凌ぐのに大切な書物を愛好家に買って貰う羽目になった、と。やがて専門家の中に、ルターの署名本ばかりが続いて出現することを怪しむ声が出るのは当然の成り行きだろう。この分野に詳しい二人の古書店主が調査を開始し、ヘルマン・キリエライスの偽造が発覚した。 キリエライスの手元で作られた「書き込み本」の中に、特に文献学者の間で大きな騒動を引き起こした一冊がある。それは薄い四つ折り版でピコ・デラ・ミランドラ Giovanni Pico della Mirandola の『神の愛』 De Amore Divino だ。この本には、「ルターから友人ヨハンネス・ランゲに」贈られたとあり、その後に『神は我が砦』 Ein feste Burg ist unser Gott の詩稿が書き付けてあった。それには語句に線を引いたり書き加えがあったりで、この有名な讃美歌の成立過程を示すかのようであった。 一見したところ、書体の特徴、インキの色具合、言語学的にも、すべてルターのものと見えたのだが、マックス・ヘルマンという文献学者の綿密きわまる検証によって偽造と確認された。彼はインクの成分を分析し、それがルター時代の「没食子インク」 Eisengallustinte ではなく、新しい「植物インキ」 Pflanzentinte が使われていること、また紙の虫食い穴 Wurmloch を細かく観察して、インキの乗ったところは虫が食わないはずだから、この書き込みは新しいこと、そして文字 Y の頻出も疑いを深めた。ルターは meyn や myr とも綴ったが、多くは mein や mir と、新しい表記を用いている。 さて法廷に立たされたキリエライス夫妻だが、女房だけが有罪となり獄に入った。亭主の方はというと、我はイエスの19代目の子孫だなどと言い立てて、精神病院行きとなったのである。本当の狂信家だったのか、それとも罪を免れるための狂言だったのか、不明である。彼はやがて快癒したとして自由の身となった。 このエピソードの出典『偽りの書物――世界文学における偽作・粉飾・擬装』には、ドイツのみならず英・仏その他の国に出現した贋作、剽窃、偽名、匿名の書物を巡る興味深い事例が満載で、まさに贋作者列伝とも言うべき奇書である。著者 Matthias Quercu は巻末で、この名は本の内容に合わせて作った筆名で、実は Hans Eich と Günter Matthias の共著であると説明している。つまり前者の姓 Eich(e) カシの木、に対応するラテン語 quercus と、後者の姓を名に転用して作ったとのことだが、全篇を通読した後ではそれすらも信じていいのか、疑心暗鬼になります。 ボヘミアの英雄詩 böhmische Heldenlieder ―偽りの書物 2―前項に続いて『偽りの書物――世界文学における偽作・粉飾・擬装』から。1819年に「ケーニギンホーフ手稿」なるもののドイツ語訳が出版された。 ケーニギンホーフ手稿。古ボヘミアの抒情・叙事歌謡、並びに他の古ボヘミア詩。王国博物館司書ヴェンツェスラフ・ハンカによる発見・出版、帝国人文学教授ヴェンツェスラフ・アロイス・スヴォボダによるドイツ語訳と批評校訂、序文付き。プラハ大学で哲学、ウィーン大学で法学を学んだあと、スラブとチェコの言語・文学研究に携わっていた博物館研究員ヴェンツェスラフ・ハンカ Wenzel (Václav) Hanka が1817年、エルベ河畔のケーニギンホーフにある教会で発見したと発表したもの。内容はポーランド人をプラハから放逐した話、ザクセン軍を敗った戦記、ボヘミア・メーレン軍がタタール軍に勝利した事跡などを歌った叙事詩と民謡調の詩となっている。11~13世紀に遡るボヘミアの古い文献とされた。 独訳者のスヴォボダはその序文で、ドイツ人のニーベルンゲンやミンネザング、ゲール人のオシアン、スペイン人のエル・シド、ロシア人のイーゴリ遠征譚などに匹敵するチェコ人の古代歌謡が発見されたのだ、と誇らかに宣言している。 古代歌謡に関心の深かったゲーテは『ボヘミアの詩』(1827)でこの書に触れ、処々方々で古の祖国への愛情が新たに目覚めたまさにこの時に、意味深い神意によって司書ハンカ氏が発見した「ボヘミアの英雄詩のコレクションは、すでにドイツ語訳が2版を重ね、我々にもよく知られるようになった」として、これを「貴重な遺産」 kostbare Überbleibsal と評価している。 このあとも、ボヘミア各地でラテン語で書かれた文献より古いチェコ語の貴重な手稿の発見が打ち続いてチェコ人の民族意識の高揚する中で、 ハンカは意気揚々と1843年に新しく12の言語の翻訳を追加した。この詩は繰り返し印刷出版された。学校ではカリキュラムの確固たる構成要素となり、これの知識はすべてのチェコ人が身に着ける教養となった。しかし、間もなく専門家の中から偽造を疑う声が上がってきた。手稿の詩歌の思考過程にその時代にそぐわないところがあること、言語的にも語の発音形式・略し方に新しい時代の特徴が含まれていること、飾り文字のインキに1704年以降に作られたプルシャン・ブルー(ベルリン・ブルー)が用いられていることが明らかになった。1853年に『ボヘミア日報』を刊行していたダーフィット・クー David Kuh が、この手稿は反ドイツ民族主義による完全な偽物だと指摘した。クーはハンカに名誉棄損で訴えられ、最終的に無罪となったものの、1・2審では有罪だった。 この時代、上で述べたように、世に現れた古文書はケーニギンホーフ手稿だけではなかった。1818年には、鉛筆書きの匿名の手紙に羊皮紙の資料を添えてプラハの博物館に郵送されてきた。これはネポムク近郊グリューンベルクの城で発見されたとして、グリューンベルク手稿 Grünberger Handschrift と呼ばれたが、内容は「会議」と題された短い詩と「リブッサの裁定」を扱った長い詩の部分で、ケーニギンホーフ手稿よりさらに古い9~10世紀のものとされた。 リブッサ(リブシェ)とはチェコ建国にまつわる伝説の女性である。最も古い記録は12世紀のコスマス Kosmas von Prag がラテン語で書いた『ボヘミア年代記』に見られるという。古のチェコでは争いがおきるとクロクという人物に裁定を委ねた。クロクには優れた三人の娘がいて、中でも末女のリブッサは賢明で未来を予言する能力を持っていた。人々はクロクの死後、彼女を裁定者としたが、女の身でありながら自分たちを支配するのは納得いかないと抗議する者があり、リブッサは透視の能力によってプシェミスルという一人の農夫を選んで結婚、この夫婦によってプラハが建設されチェコが統治されるようになった、というものだ。 ドイツではヘルダーが『諸国民の声』 (1778-1779) でこの伝説を取り上げ、また作家で民話の収集でも知られたムゼーウスが『ドイツ人の民衆童話』 (1782-1786) にこの説話を収めてドイツでも知られる伝説となり、これはブレンターノ『プラークの創建』 Die Gründung Prags (1815) やグリルパルツァー『リブッサ』 Libussa(1847, 1874)によってドラマ化されている。チェコではもちろん多くの芸術作品を生み出したが、スメタナのオペラ『リブシェ』がなにより有名であろう。 1836年には、当時声望のあった歴史家パラッキー Franz Palacki によって『ボヘミアの歴史』が出版された。彼は「新発見の手稿」に基づいて、「ドイツ人とスラブ人の民族的な憎悪」をボヘミアの歴史を解く鍵と結論付けた。民族の自尊心が行わせた偽造、偽造に基づく民族意識の高揚、このスパイラルは留まるところを知らない。 「グリューンベルク手稿」の出所と匿名の送り主が明らかになったのようやく1859年のことだった。送り主はヨーゼフ・コルヴァール Josef Korvar でコロレド・マンスフェルト伯爵の使用人だった。文書を古く見せるため、教会スラブ語、ロシア語、セルビア語を織り交ぜ、物語は何種類かの別の文書から取って織りあわせている。この資料は、一時期ハンカと同居していてた友人でコルヴァールとも親しい作家ヨーゼフ・リンダ Josef Linda の手になるものと判明した。 両手稿の出現から40年の時が過ぎて偽造に関わった面々が明らかになったのだが、それらの「発見」が続いて人々の関心が高まり、古代チェコ人の独自で高い文化を示すものと受け入れられたさなかに(1827年)ゲーテがこの手稿を高く評価し、さらなる新資料の発見を期待すると言ったのは、皮肉なことに偽造グループを大いに力づけることになったのではないか。 ゲーテは『ボヘミアの詩』でこう書いている。「ケーニギンホーフ手稿の発見は、ごく古い時代の全く計り知れない遺物について知らせてくれたのだが、これはこの類の資料がさらに発見されるのではないか、発見の知らせを心から願いたいというという希望を抱かせる。そのような民衆歌の中に、よく知られた民族では保持されていないようなキリスト教以前の、そして初期キリスト教時代の半ば素朴な、しかしすでに繊細きわまる表現が保存されているかもと思わせるのである。」まるで打ち合わせたかのように、この同じ年にボヘミア各地からそのような「古代の遺産」が続々と発見された。チェコの言語学者から偽造の指摘がなされるも、民族意識が熱狂的に高揚する中で、一般にはそれがボヘミアの歴史として、チェコ民族の誇りとして受け入れられていった。社会学者で哲学者のトマーシュ・マサリク――後のチェコスロヴァキア共和国初代大統領――が二つの手稿をはっきり偽造として、新しい社会は捏造された歴史の上に建設されるべきでないと指摘したのだが、彼は「チェコ神話」信者からの憎しみを買うことになった。 ここ数世紀の歴史を振り返ると、チェコ人には(ポーランド人と並んで)ドイツに対して特別の思いがあるのは十二分に理解できる。それにしても人は、自国の歴史と文化に誇りを求める民族主義的な熱意で、資料を偽造までするものなのか(*)。第二次大戦が終わってズデーテンからドイツ人を「移送」したあとも、その問題に決着をつけられないのか・・・ * 最近の研究でもこの件はまだすっきり片が付いていないようだ。あの時期に続々と発見された手稿類は多くが偽造であることは認めるが、「文献の偽装はもちろんチェコだけに限った特殊なことではない、偽造文献が滔々と現れたことは特殊なチェコの事情からの説明が求められる」と言う。これは私にはなんだか居直りのように感じられるが・・・ カール・マイ Karl May ―偽りの書物 3―カール・マイ Karl Friedrich May (1842-1912) といえばドイツの大ベストセラー作家で、いくつかの出版社からそれぞれ数十巻の作品集がが出ているが、カール・マイ協会の刊行するいわゆる「史的校訂版」は120巻になっているようだ。また40以上の言語に翻訳され、世界中で出版された総数は2億点に及ぶという。マイは世界を舞台にした波乱万丈の冒険物語を続々と世に送り出したが、北米大陸の西部を舞台に、「白色人種」に侵略され、騙され裏切られながら滅亡の道を辿るネイティブ・アメリカンを描いた<人道的な西部劇>で名を挙げた。その代表作は若きアパッチ族の勇者ヴィネトゥ Winnetou とそれを助けるオールド・シャターハンド Old Shatterhand の物語『ヴィネトゥ』三部作であろう。 これだけ多くの作品を出したから当然と言えば当然だろうが、盗作の非難を受けることも稀ではなかった。しかし、例えば『エーリの復讐』 Die Rache des Ehri が、これもアメリカを舞台に冒険小説を書いたゲルステッカー『アイメオの娘』 Das Mädchen von Eimeo の盗作ではないかとの批判に対して、同一の地誌に取材した作品だから似ているのだよ、と澄まし顔。数多くの旅行記も物しているが、現場を訪れたのはずっとのちのこと、見る前に書くなどのことは平気でする。 彼は自分の語学の天才をひけらかすのが好きだった。1894年11月2日の手紙でこう言っている。「私が話して書ける言葉は:フランス語、英語、イタリア語、スペイン語、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語、ルーマニア語、アラビア語6方言、ペルシャ語、クルド語2方言、マレー語、ナマクア語、いくつかのスンダ語のイディオム、スワヒリ語、ヒンドゥスターニー語、そしてインデアンの言葉でスー族、アパッチ、コマンチ、スネーク、ユタ、カイオワ、ケチュア語並びに南米の3方言。ラップランド語は数に入れようとは思わない。」と。それにまたカール・マイの剽窃は、作品の盗用・無断借用というレベルに留まるものではない。彼は実在であれフィクションであれ、他人に成りきるのである。しばらく自分はワルデンブルク王子 Prinz Waldenburg の庶出の子だと称していたことがあった。《私は~という名だ》とか《私は~だ》と言うとき、自分にとってそれは内面の変身の表現だから他人の名を用いるのはちっとも不当なことではないと言う。『ヴィネトゥ』のオールド・シャターハンドは若いドイツ人だが、マイはそれに乗り移り、憑依し、揚句は主人公の体験は自分自身の身に実際に起きたことと言ってはばからない。 彼が用いた変名の数も生半可ではない。オールド・シャターハンドは、近東を舞台にした物語ではカラ・ベン・ネムシ Kara Ben Nemsi となるのを筆頭に、その他いろいろな名前で登場し、シャターハンドの名で語り手となる作品もある。そのほかの筆名では、Capitan Ramon Diaz de la Escosura/D. Jam/Emma Pollmer (最初の妻の名)/Ernst von Linden/Hobble-Frank/Karl Hohenthal/M. Gisela/P. van der Löwen/Richard Plöhn (友人の名) などなど枚挙にいとまがない。 さてさて今まで述べたようなことは広く知られている事実だが、ここで注目したいのは、筆名の一つ「ラトレオーモン」 Latréaumont を巡る問題だ。この筆名は初期のいくつかの作品に使われたのだが、これを見れば誰しもあのロートレアモンを連想するだろう。『マルドロールの歌』の「ロートレアモン伯爵」である。なぜフランスの詩人に似た筆名が用いられたのだろうか。この関連を取り上げたある研究書(*)が引用されているが、それによるとカール・マイとロートレアモン伯爵はパリで出会っているそうだ。 彼は書いている:「ラトレオーモンなる名は全くフランス語的でない、そこで我々はそんな名前を思いつかせた、半可通でなくフランス語を操れる作家を探す。答えは――コロンブスの卵である。1868年に落ちぶれ半分気のふれた学生の詩集が、イシドール・デュカスという学生だったが、ロートレアモン伯爵という筆名で出版された。一文字動かすとラトレオーモンが作られる。しかしいかにしてマイは当時フランスでもほとんど知られず、ドイツでは誰も知らなかった本の情報を得たのだろうか。それは彼がその本の著者か著者の友人と出会っていた場合だけしかない。デュカスは生前最後の二年間に――彼は1870年に他界している――ある境遇の中に、マイにとっては打ってつけの境遇に堕ちていた:知的能力の低下、天才と狂気と犯罪のあわいに。マイはミラノからフランスに向かい、そこで1869年秋に《ロートレアモン伯爵》に出会ったのだろう」と。Latréaumont は全然フランス語ではないとはなぜ? そしてコロンブスの卵と称して、この研究者は強引にマイとデュカスを引き合わせているが、こんな出会いはもちろん単なる当て推量で根拠はない。一体全体どんな情景を想像しているのだろうか。マイが精神を病んでいる4歳年下の相手に向かって「デュカスはん、あんさんがロートレアモンと名乗るんやったら、わいはラトレオーモンにするけど、ええやろ」とでも言ったのか。引用者はこれをとんでもないでっち上げとする。 それは全く違う! 疑う余地なく証明されるのは、マイとデュカスは1837年にフランスで出版されたウージェーヌ・シューの恐怖小説『ラトレオーモン』を知っていたことだ。デュカスは文字を入れ替え、カール・マイはそのタイトルのまま筆名に用いたのだ。ウージェーヌ・シュー Eugène Sue (1804 -1857) の作品は多くがドイツ語に訳され、特に『パリの秘密』 Les Mystères de Paris (1842-1843) は、あのテオドール・ホーゼマンの挿絵入りで出版(**)されている。その人気ぶりは翻訳だけでなく、『パリの秘密』に倣って『ベルリンの秘密』も何種類か出たことにも現れている。都市のミステリーという新しいモチーフが受けたのだろう、さらに『ケーニヒスベルクの秘密』『ウィーンの秘密』『ハンブルクの秘密』『アムステルダムの秘密』『ブリュッセルの秘密』など同工の出版が相次いだのである。 ドイツでも人気作家となったウージェーヌ・シューの初期作品の一つに『ラトレオーモン』 Latréaumont, roman historique (1837) があった。この小説について、私は未見なので、村田京子氏の論文から引用して紹介に替えさせてもらう。 1830年に父の死によって莫大な遺産を手にしたウージェーヌは、パリでダンディとして派手な生活を再び始める。更に7月革命によって王政復古から7月王政に変わったことで、それまで頑なに貴族性を守ってきたフォブール・サン=ジェルマンのサロンの扉が彼の前に開かれるようになる。[中略]その頃の彼の作品は、バイロン風のサタニズムに色づけられ、ブルジョワ道徳を逆なでする諧謔的な精神に満ちたものであった。1837年にシューは、ルイ14世の治世の舞台裏を暴く『ラトレオーモン』(Latréaumont) という歴史小説を書く。これは太陽王を貶める「大逆罪」に値する作品として、王党派の新聞の糾弾の的となり、その結果、彼はフォブール・サン=ジェルマンのサロンから追放の憂き目に会う。その上、数年にわたる浪費生活で、シューは遺産を使い果たし、破産に追い込まれてしまう。カール・マイがこの作品を読んだのか、タイトルを知っていただけなのか、いずれにせよ彼好みの内容であろうと想像はできる。これは筆名にまつわるエピソードですが、捏造は作家の専売ではなく、研究者もするという一つの例でしょうか。 * Otto Forst-Battaglia: Karl May. Ein Leben, ein Traum (1931) パパ・ハムレット Papa Hamlet ―偽りの書物 4―新人が文学世界にデビューするとき、自分の作品が世に受け入れられるだろうかと不安なので、まずは変名で出版するということはよくあった。1889年に発表された『パパ・ハムレット』(*) Papa Hamlet もそういう作品の一つであろう。ノルウェーのビャルネ・P・ホルムセン Bjarne P. Holmsen の作をブルーノ・フランチウス Bruno Franzius がドイツ語に翻訳したとの形を取っていたが、実は駆け出しの二人の文学者、アルノー・ホルツ Arno Holz (1863-1929) とヨハネス・シュラーフ Johannes Schlaf (1862-1941) の共作であった。落ちぶれて仕事のない俳優が妻と乳飲み子を抱えて暮らしている。かつて演じた『ハムレット』の回想に浸りながら、生活も精神状態も荒廃し、ついには子供を死なしめ、酒に酔って道路で凍死体で見つかるというストーリー。この作品は8つのシーンで構成され、シーンごとに刻々と変わる状況が、〈物語る時間と物語られる時間の一致〉を目指す語り口で描かれる。これは秒刻みに時間空間を描写するという意味で〈Sekundenstil〉と呼ばれ、「寸秒文体」とか「秒刻体」と訳されている。とにかく可能な限り「語り手」の存在を消して、現実をカメラのように無機的に映してゆく、というこれまでにない実験的な手法が用いられている。 文学史上の自然主義は19世紀末の20年間に主流であった思潮で、フランス、ロシアそして北欧で登場した。エミール・ゾラ、ツルゲーネフ、トルストイ、イプセン、ビョルンソン、ストリンドベリなどがその代表。ドイツ語圏においては注視すべき自然主義的作品がなかなか出現せず、ようやくゲアハルト・ハウプトマンの戯曲『日の出前』でもってドイツの自然主義が始まるとされるが、この作品は『パパ・ハムレット』から刺激を受けて生まれたと作者自ら語っている。 二人の若者はやがてドイツ自然主義を代表する文学者と見なされるようになったのだが、このときはアルノー・ホルツは雑誌編集者を辞めてフリーの文筆家となり、ようやく詩集を一冊出しただけ、ヨハネス・シュラーフはまだ大学生であった。二人を結びつけたのは、若い作家の集まる「貫徹(ドゥルヒ)」 Durch という文学結社だ。彼らもそのメンバーであって、ホルツがシュラーフに共同創作を持ち掛けたのであった。 二人は1887年から88年の冬の期間に、ベルリン北東部のニーダーシェーンハウゼン村(1920年に大ベルリン市に編入)の一部屋に籠った。この辺りは夏の別荘地でホルツはその一軒に冬期の留守番として住んでいたのだ。牧歌的な土地の一角にある小さな部屋は「冬景色の中にあって鳥かごのようだった」「我々は机の前で大きな赤い毛布に首までくるまって」「立てつけの悪いすべての小さな窓から風が入り込み」「指が冷え固まってそのために作業を中断することたしばしばであった」という状況だったが、その中で彼らは〈ビャルネ・P・ホルムセン〉の作品創作に励んだ。 自分たちが「韜晦」を行った動機を二人の新人はこう語っている。「以前からしばしば耳にする不平は、今日わが国では外国の作家しか認められない、咎めを受けずに何か冒険を企てるためには最低限フランス人かロシア人かノルウェー人でなければならない、というものだった。ドイツ人では初めから陳腐な型と断罪され、外国人作家だけが古い偏見を事もなげに投げ捨てること、外国人作家だけがいわゆる《新目標》を目指すことが許されたのだ」と。 このように若い二人の微笑ましい共同生活の中から作品が生み出され、お互いの役割の評価について、最初は完全に一致していた。まさに一心同体、理想的なコラボレーションで生み出された作品だと語っている。 二人はこう言っている。「ある箇所では、いや《パパ・ハムレット》の全ページで、もともとのアイデアはこちらで、そのあと形にしたのはあちらだったか、あるいはその逆だったか、我々はもはや全くもって説明することが出来ないところがある。同じ文章の同じ文言が同時に筆記されることがしばしばあり、他方が書き始めた文を一方が完成させることが再々あった。なんなら我々はこの作品を「物語り合った」と言っていいかもしれない。お互いにヴィジョンを描きてそれを次第にくっきりするまで語り合って、そうして紙の上に書き付けたのだ。だからあとからこれは君の部分でこちらは他方のものと言おうにも、大概の場合じっさいどっちがどうと突き止めることはできないのだし、我々にはそのつもりもない。」『パパ・ハムレット』は狙い通りセンセーショナルな登場を果たすことができたが、案に違わずプラスの評価より反発・批判が多かった。その後二人は名乗りを上げ正体を明かして共同執筆を続け、次々と新しい作品を世に送り出していった。1892年には作品集『新軌道』が出版され、これには『パパ・ハムレット』をはじめ、『初めての授業日』『紙細工の受難像』『死』『別れ』『ゼーリケ一家』『皮を剥がれたペガサス』などが収録されて共作の集大成の観を呈している。しかし10年近く続いたカップルにも破鏡の時が来る。 ついに1898年に、彼らの共同作業が始まって10年になろうというとき、ヨハネス・シュラーフは刺激的なタイトルの文章《何故に私は最初のドラマを破棄したか》を発表した。ここで『新軌道』の本質的な部分は全て自分一人の手になり、彼だけが「新しいドイツ演劇を主導した人間」だと説明した。これでホルツ&シュラーフ工房は最終的に破たんした。信頼と友情が一挙に軽蔑と敵意に変わる。誇り高いホルツが不誠実な友を許せるわけがない。 ホルツは若い弟子にシュラーフを卑しめてこう言っている。「シュラーフに、一つの素材についてずっと交互に手を加え続けるのだと――それが自明のことながら共同作業の目指すべき状態なのだと教えてやろうと努力したが、無駄だった。私が口述をやめると彼の紙は空白のままとなった。いやはや彼の気性は――もちろん不当なので、それはだめと叱ったのだが――そうであったし、いまもそのままだ。シュラーフはいつもずっと受け取るだけ、何も与えることはできなかった。」[中略]ついにはアルノー・ホルツはシュラーフの一時的な精神の病まで種にして、かつての乳兄弟を貶めるのである。「シュラーフは何年も精神病なんだ! 固定観念、誇大妄想、迫害妄想に病んでいる――すでに1893年、ベルリン慈善病院で数週間診察した最初の医師に治癒不能と診断された。その後別の医師たちによっても確認された診断だ。」肝胆相照らす仲から激しい敵対へ、その変わりようをここまで記して、「かくてヨハネス・シュラーフは平等な共作者から精神を患う助手の地位に落とされた。真実がいずこにあるかは今となっては確かめようがない」と続けるのだが、いやはや、ため息が出ますね。本当の兄弟の間でも仲たがいは常のこと、ましてや個性の強い文学者が兄弟のように付き合って長続きするのは難しいのでしょう。 * アルノー・ホルツ研究会『ドイツ徹底自然主義作品集』(三修社 1984) に邦訳が収められている。 ゲーテの孫 Goethes Enkel ―偽りの書物 5―1848年といえばフランスで二月革命、ウィーン、ベルリンで三月革命が起きた年である。ナポレオン没落後の復古的な「ウィーン体制」のもとで抑えられていた自由主義の要求、議会・憲法を求める運動が高まる中、民衆の蜂起が一気に旧体制を崩壊へと向かわせた。そのさなかに『渡し守よ、向う岸へ。確かな輪郭の素描』 Fährmann, hol' über. Bilder in festen Umrissen (1848) なる書物が匿名で出版された。タイトルは『ニーベルンゲンの歌』第25歌から取ったものらしい。前書きで著者は心にかかる問題を打ち明けている。「この原稿を出版社に渡した数日後にパリの二月革命が勃発して、フランスは共和国になった。この短期間で、ウィーンから始まりすべてのドイツの状況が新規に形成され始めただけでなく、民衆がまた以前から熱く熱望していた、長く待ち望んでいた自由を獲得した。この自由の擁護を私は本作品で全力を挙げて語った。」だが、自由の擁護を語る書は賛同を得ることもなく批判もされず、つまり何の注目も惹かなかった。著者の意気込みも及ばず、出来ばえは今一つだったようだ。 この本には三篇のノヴェレが収められてる。上流階級の人の目の前で、庶民にとっても理解され好感をもたれるよう振る舞うにはどうすればいいかの手本となるべき、純然たる教訓文学である。ときに感傷的ときに大仰な、全体としてあまり成功していないで、ある種の進歩的な心情を持つ二流作家の、またジョルジュ・サンドやそのグループの影響を受けている作家の作品を思わせるものだった。著者は、いよいよ印刷に回すという段に、世情騒然とする中で出版社にこう書き送って念を押している。 私の名前が表題に出ることは望みません。これまで以上にしっかり匿名を保つことを願います。ほんとうに民衆を私のように愛さなければなりません。いまの見かけの粗暴な振る舞いに惑わされてはいけません。著者名が伏せられ――出版社としては著者名を印刷したかったことだろう――売れ行き不振で注目も評価も受けずに埋もれ去った書物がいまに知られるのは、ひとえに著者が文豪ゲーテの孫だったからだ。1911年には予約出版の限定版という形で再刊されているので、現在でも30~40ユーロも出せば古書で入手できるようだが、あえて取り寄せて読む気にはなりませんね。 文豪ゲーテにはクリスティアーネ夫人との間に5人の子供が生まれたが、成人に達したのは長男アウグストだけであった。このアウグストには3人の子供があった。長男ヴァルター・ヴォルフガング (1818-1885)、次男ヴォルフガング・マキシミリアン (1820-1883)、そして娘のアルマ・セディーナ (1827-1844) である。 長男ヴァルターは病弱で普通に学校に通うことができず、音楽を学んだ。のちにはメンデルスゾーンの教えを受け、歌曲やオペラを作曲したが、評価を得ることは出来なかった。ワイマールのゲーテハウス、祖父の遺産を引き継いだ。 次男ヴォルフガングはハイデルベルクで法律を学び、博士号を得た。卒業後はローマ駐在プロイセン公使館参事官となった。妹のアルマは16歳で亡くなっている。長男、次男には子供が無かったので、ゲーテの直系は孫のヴァルターで絶えた(*)。兄弟二人はワイマール市の永世市民権を与えられたが、偉大な祖父の名声の重荷にあえぐ生涯を送った。ヴァルターもヴォルフガングも、自分たちは《祖父の遺品のかけら》に過ぎないと、感じていた。 ヴァルターがかつて書きつけた四行詩が、生きる張り合いの無さを語っている。しみじみと哀れを催しますね。いつもかたわらに、だれより長生きして最後のゲーテとなる定めであった彼は、《渡し守よ、向う岸へ》で後世に残る最良の本を書いたと信じた。彼は辛抱強く20年近く成果を待った。しかしその間売れたのは175冊だけであった。ついにアルヴィーネ・フロムマンが、昔からゲーテ家と親しい女性が、1867年11月8日、出版者あてに手紙を書いた。「ヴァルター・フォン・ゲーテ氏の委託によりお伝え致します。『渡し守よ、向う岸へ』の残部を廃棄処分にするように、20部だけは残してこちらに送付頂くように、とのことです。」 * 墓石には「彼でもってゲーテの家系は消滅したが、その名は時代を越えて生き続ける」 Mit ihm erlosch Goethes Geschlecht, dessen Name alle Zeiten überdauert. と刻まれている。 |