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拾遺集、弐 Aus meinem Papierkorb, Nr. 2



クール便 Eiswagen

軍人王(兵隊王)Soldatenkönig と呼ばれるプロイセン王国第二代のフリードリヒ・ヴィルヘルム一世は、派手好きで浪費家であった父王とは対照的な、徹底した倹約家として知られる。即位するや否や宮廷の華美奢侈を一掃し、容赦なく廷臣・官吏の首を切り、残った官吏の俸給をカットし、百頭を超える壮麗な馬、儀典用馬車、輿、橇ならびに貯蔵のワインが競売に付された。家具、絨毯、シャンデリア、衣装なども売却された。王の学者嫌いも加わって王立図書館の司書、騎士アカデミー教授の大半を解雇した。宮殿北側の美しいバロック庭園は錬兵場に変えられた。(*)

ところがこの王にして出費をいとわなかったことが二つあるという。

彼の吝嗇よりも強かったものが二つだけある。しょっちゅう手を洗いたい欲求、そしてカキに対する欲望である。手洗癖はベルリン宮殿の七百の部屋・広間すべてに水道を引かせることになり、カキ偏愛はベルリン - ハンブルク - ベルリンの特別郵便馬車を運行させることになった。氷を積んだ馬車と交替馬を用意して常時往復させたのである。
Es gab nur zwei Dinge, die stärker waren als sein Geiz: die Lust, sich immerzu die Hände zu waschen, und die Gier auf Austern. Sein Händewaschtick brachte ihn dazu, in die siebenhundert Zimmer und Säle des Berliner Schlosses eine Wasserleitung legen zu lassen, und seiner Austerngier zuliebe ließ er eine Extrapost Berlin - Hamburg - Berlin anlegen, die mit Eiswagen und Relaispferden ständig von Hamburg nach Berlin und zurück preschte.
-- Walter Kiaulehn: Berlin. Schicksal einer Weltstadt (1958)

この特別便はベルリン市民にも恩恵となった。プロイセンがデンマークの海に所有する漁場で採れる「国有カキ」"fiskalische Austern" は、オランダからの輸入カキ "Holländische Imperial" に比べて小ぶりながら安くて美味しかったからである。
でも何ですね、18世紀のベルリンで既にクール便が存在したとは。ネコならぬ、クロクマのマークでもつけていたのでしょうか。
* 拙文「軍人王とアカデミー」『流域』56号(青山社2005年9月)を参照。


イフラントと国王 A.W.Iffland und der König

マンハイムの宮廷劇場を拠点に17年間、俳優として劇作家として華々しい活躍を見せ、ドイツ演劇界の第一人者となっていたイフラントがプロイセンのベルリンに招聘されたのは1796年のことであった。国民劇場の監督に任命するに際して、王は彼を引見し、じきじきに言葉を賜ったという。

この時の王はフリードリヒ・ヴィルヘルム二世(在位 1786-97)であるが、フリードリヒ二世(大王)のあとを継いだこの王は、何かと偉大な先王と対照的に描かれる。痩躯精悍な大王に対して鈍重な肥満体、謹厳に対して華美軽薄好色、啓蒙君主に対して蒙昧君主というぐあいで、いかがわしい秘密結社に入会して宮殿で降霊術を行なうかと思えば、また無類の女好きで側女、愛妾に生ませた子どもは数知れない。フリードリヒ大王は跡継ぎには何の期待も持たず「甥は国の財産を浪費するだろう、軍隊は錆びつくだろう、国家は破滅するだろう」と言ったと伝えられる。また大王の弟ハインリヒも「あのでぶの甥はおつむが弱い。佞臣と寵姫に振り回される。あいつは怠け者で無為徒食役人の数を増やすだけだろう」と、さんざんである。(*)

イフラントの自伝によると、以下のような次第。

フリードリヒ・ヴィルヘルム二世国王はベルリン劇場の監督を愚生に委ねるという恩寵をお示し下さった。この職務につきポツダムにて親しく下された訓令より高貴なものはあるまい。「役の割り振りが一方的にならぬよう意を用いること。誰もが進歩上達するよう心がけなさい。一番の下っ端も時々は注目されることが望ましい。監督はその者のために特に気を配ること」
Der König Friedrich Wilhelm der Zweite hat die Gnade gehabt, mir die Führung der Direktion des Berliner Theaters anzuvertrauen. Man kann keine edlere Instruktion für diesen Posten geben, als die er selbst mir zu Potsdam mündlich erteilt hat: "Hüten Sie sich für einseitige Rollenverteilung, lassen Sie jeden vorwärtsgehen. Ich hätte gern, daß auch das letzte Mitglied am Theater zuzeiten bemerkt würde. Die Direktion tue etwas, besonders um seinetwillen."
-- August Wilhelm Iffland: Meine theatralische Laufbahn (1798)

一般に流布している国王像からはちょっと想像できない「お言葉」ではないか。崩御のちょうど一年前のことであった。
* 拙文「シャルロッテンブルクの招霊会 --フリードリヒ・ヴィルヘルム二世と黄金薔薇十字結社--」 『セミナリウム』第10号(大阪市立大学ドイツ文学会 1988)を参照されたし。


神よ! 天よ! O Gott! O Himmel!

Brunier の Schröder 伝からまた一つ。
シュレーダーは信仰心の篤い人間だったので、むやみにその名を口走ることは神を冒涜するものとして、舞台で「神 Gott」の語を使い過ぎることに反対であった。「劇場は道徳の学校ではないとしても、しかしながら不道徳の学校であってはならない」と言う。「コッツェブーやイフラントや最近の作家は茶番劇やオペラで、何と頻繁に神という言葉を出すことか」と、当時の大御所を名指しで批判した。「しかもただ笑いをとるために神の修飾を加えることまでする」として挙げる感嘆、驚愕、憤激などのフレーズは、
"Ach, du gerechter Gott! Ja, du barmherziger Gott! Gott behüte! Gott bewahre! Gott steh' mir bei! Um Gottes willen! Das sei Gott geklagt! In Gottes Namen! Mit Gottes Hülfe! Gott, du lieber Gott!"
と、まことに盛りだくさんである。

舞台での「神」の濫用は18世紀になって収まったが、その代わりに「天」がやたらと使われるようになったらしい。このことに関連して、筆者は面白い話柄を提供してくれている。

ウィーンでは、メッテルニヒ反動体制下の検閲が実に多くの珍事を生じせしめたことは、カステリが残したウィットに富んだ記録でわれわれは知ることができるが、ウィーンでは、「神よ!」という叫びは宮廷劇場だけで許され(つまり神の名を冒涜するのは皇帝国王の特権であり)、近隣の劇場では「天よ!」までに限られていたとのこと。
In Wien, als die Censur unter der Metternich'schen Verdunkelung so viel Lächerliches in's Dasein rief, das uns durch die witzigen Berichte Castelli's aufbewahrt worden, in Wien durfte der Ausruf: "O Gott!" nur auf der Hofbühne gebraucht werden (die Entweihung des Namens Gottes war also ein kaiserlich königliches Privileg), während die Vorstadttheater auf "O Himmel!" beschränkt blieben.
-- Ludwig Brunier: Friedrich Ludwig Schröder. Ein Künstler- und Lebensbild (1864)

カステリ Ignaz Franz Castelli (1781-1862) はビーダーマイアー時代のウィーンの人気作家だが、一時期ケルントナートーア劇場の座付作者でもあり、喜劇・音楽劇の台本を数多く書いた。同時代の作家・芸術家との交遊も多彩で、われらが ザフィール とも親しい間柄だった。1861年に4巻の回想録を出しているので、「ウィットに富んだ記録」とはそれかも知れない。



落下殿 von Hohenfall

17世紀のボヘミアはハプスブルク家の支配下にあり、新旧両教徒の厳しい対立が続いていたが、ボヘミア王を兼ねた神聖ローマ皇帝は当初プロテスタント勢力と妥協し、ルードルフ二世はボヘミアの領邦等族に「勅書」を発し古来の権利と宗教の自由を承認していた。ところが熱烈なカトリック教徒のフェルディナント二世がボヘミア王に即位すると一転して勅書を破棄し、新教徒に対する弾圧を始めた。これは当然、大半がプロテスタント貴族からなるボヘミア等族たちの猛烈な反発を引き起こした。

1618年5月18日、武装した領邦等族の代表たちがプラハ城に押しかけ、集まっていた国王代官たちと「勅書」をめぐって激しい口論の末、ついにはスラヴァータとマルティニツの2代官を窓から突き落とすという事態に至った。これがあの悲惨な三十年戦争の発端とされる。
シラーの『三十年戦史』ではこの場面は以下のように描かれている。

シュテルンベルクは穏やかな態度で応対した。マルティニツとスラヴァータは傲然と答えた。このことが彼らの運命を決定した。シュテルンベルクとロプコーヴィッツは憎まれるというより恐れられていたが、腕を捉えて室外に連れ出され、そうしてスラヴァータとマルティニツを掴まえて窓辺に引きずり、80フィート下の濠に突き落とした。両人の従者である書記官ファブリチウスも続けて落とした。このような珍しい処刑に文明社会が驚いたのも当然だが、ボヘミアの人々はこれは当地で普通に行われる習慣だと弁明して、あんなに高いところから落ちて無事に生還したことを不思議ともしなかった。皇帝の代官が落ちたのが堆肥の山だったので怪我なく済んだのであるが。
Mit Mäßigung empfing sie Sternberg; Martinitz und Slawata antworteten trotzig. Dieses bestimmte ihr Geschick. Sternberg und Lobkowitz, weniger gehaßt und mehr gefürchtet, wurden beim Arme aus dem Zimmer geführt, und nun ergriff man Slawata und Martinitz, schleppte sie an ein Fenster und stürzte sie achtzig Fuß tief in den Schloßgraben hinunter. Den Sekretär Fabricius, eine Kreatur von Beiden, schickte man ihnen nach. Ueber eine so seltsame Art zu exequieren verwunderte sich die ganze gesittete Welt, wie billig; die Böhmen entschuldigten sie als einen landüblichen Gebrauch und fanden an dem ganzen Vorfalle nichts wunderbar, als daß man von einem so hohen Sprunge so gesund wieder aufstehen konnte. Ein Misthaufen, auf den die kaiserliche Statthalterschaft zu liegen kam, hatte sie vor Beschädigung gerettet.
-- Friedrich Schiller: Geschichte des dreißigjährigen Kriegs (1790)

さて、この「プラハ窓外投擲事件」をここに改めて取り上げたのは、最近ヘルベルト・ローゼンドルファー『ドイツの歴史』というオーディオ・ブックを聞いて面白いエピソードを知らされたからだ。それによるとこの事件には後日談があるとのこと・・・ その場に居合わせたため道連れに落とされた気の毒なファブリチウスなる書記官のことだが、後日、なんと貴族に取り立てられたという。

後にファブリチウスは罪もなく苦痛と恐怖を被ったということで貴族に列せられ、『高所落下殿』なる含蓄ある称号が与えられた。
Später wurde Fabricius wegen seiner unschuldig ausgestandenen Leiden und Schrecken geadelt, sinnigerweise mit dem Prädikat «von Hohenfall». (*)
-- Herbert Rosendorfer: Deutsche Geschichte - Ein Versuch (Vol. 6). Der Dreißigjährige Krieg.

本当だろうか? 本当だとしたら真面目か悪ふざけか? なにしろ廷臣を身近において道化扱いするために爵位を与えるという君主(**)もいるのである。
* 引用は聞き取った音声の書き起こしなのでオリジナルの表記とは異なっているかもしれません。
** フリードリヒ・ヴィルヘルム一世は悪ふざけのため歴史学者ヤーコプ・グンドリングに男爵位を与え侍従に任命した。拙文「軍人王とアカデミー」『流域』56号(2005 青山社)を参照されたし。



ワイン風呂 Baden im Wein

カール・フォン・ホルタイ Karl von Holtei は軍人の家系(もともとクーアラントの貴族)に生まれながら若年より舞台に魅せられ、生涯のほとんどを俳優・演出家・台本作家として各地の劇場を点々と巡る生活を送った。生地はシュレージエンの中心都市ブレースラウ Breslau (現ポーランド領ヴロツワフ) で、ここは演劇の盛んな土地柄だったらしい。レッシングが5年間滞在してドイツ市民劇の嚆矢とされる『ミンナ・フォン・バルンヘルム』を書いた町としても知られる。

ホルタイが四十五歳になったとき、回想記を書き始めた。8年間をかけて、その題名も『栄誉と遍歴の四十年』 Vierzig Jahre Lorbeerkranz und Wanderstab. Lebenserinnerungen (8 Bände, 1843-1850) という演劇遍歴の半生記を完成させた。これは文化史上の貴重な資料とされるが、大部なものなので数種類の抜粋版が刊行されている。いま手元にあるその一つを読んでみると、確かに興味深いエピソードが満載である。
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1806年、ナポレオンのフランス軍がプロイセン侵攻を開始した。1807年には「ライン同盟」軍がブレースラウ市を占領した。それはホルタイがまだ十歳にも達しないときであったが、文字通り砲火の下で、守備軍が撤退し町が占領される現場を目の当たりにしたのである。
「ティルジットの和議」のあと「ヴェストファーレン王国 Royaume de Westphalie」が建てられ、ナポレオン・ボナパルトの末弟ジェローム・ボナパルトが国王に収まり Jérôme Napoleon と名乗った。軍の指揮官あるいは一国の統治者としてよりも、好色遊蕩の面で評判が高かったジェロームのこと、彼をめぐる奇談珍談には事欠かなかったようだ。

毎日ジェロームは白ワインの風呂に入るという噂だった。そして入浴のあと近従がこのワインをビンに詰めて安く売っているという噂だった。それでブレースラウではもう誰もフランス・ワインを飲もうとしなかった。
Jérome stand in dem Rufe, sich täglich in weißem Weine zu baden, und seine Kammerdiener standen in dem Rufe, diesen Wein, wenn das Bad genommen war, auf Flaschen zu ziehen und billig zu verkaufen. Nun wollte in Breslau kein Mensch mehr französischen Wein trinken.
-- Karl von Holtei: Jugend in Breslau (1988)

「ワイン浴」Badwein は現在も一種の美容・健康法として行われているようで、インターネットで検索してみると、チロルやドロミテ地方では湯にコップ一杯の赤ワインを加えて入浴するという方法らしい。浴槽に満々と白ワインを湛えて体を沈めるというようなぜいたくはなかなか難しいであろう。



パリのホルタイ Holtei in Paris

前項に続いてカール・フォン・ホルタイの回想記(*)から。
1809年のこと、デフリント Ludwig Devrient がブレースラウ市立劇場に移籍してきた。稀代の名優は二十五歳、いよいよその才能が光彩を放ちだした時であった。そこへ折々にはベルリンで活躍していた大御所イフラント A.W.Iffland も客演に訪れ、町全体がデフリント派とイフラント派に分かれて激しく争うような熱気が渦巻き、ブレースラウの演劇は黄金期を迎えたのである。少年ホルタイはデフリントの演技に感激し、せりふをすっかり暗唱できるほどであった。

1815年、ナポレオンがエルバ島を脱出してパリに入城、再び皇帝の座に就いたとき、ブレースラウでは志願兵の募集があった。愛国心に燃える十七歳のホルタイは狙撃兵として入隊したが、ヨーロッパ世界を驚愕させた事変も結局「百日天下」で終わり、活躍の場を得ることなく除隊。そのあと大学法学部に入学するも学問には身が入らず、ブルシェンシャフトに入会するも熱が入らずにいるところ、友人のカール・ザイデルマン(**)に誘われグラーフェンオルト宮中劇場の運営に加わることになった。当主ヘルバーシュタイン帝国伯(***)が大変芝居熱心で、劇場を創設したのであった。シーズン中は金曜日の午後3時か4時に郵便馬車に乗り、翌日昼過ぎにグラーフェンオルトへ着くという生活である。1924年にはベルリンの王都劇場 Königsstädtisches Theater に活動の本拠を移すが、ホルタイは12シーズンにわたって宮中劇場で俳優・監督として働き、彼の台本による3作品もここで初演された。

1826-1827年の冬シーズンに、ホルタイはヘルバーシュタイン帝国伯に同行を求められてパリを訪れた。その地の演劇に触れて圧倒され、「ドイツでは我々は劇場は持っていないのだ、これからも劇場を持てないのだ、持つことはないのだ」と慨嘆するほどであった。そもそもパリに近づくだけで舞い上がっていたのだが:

パリに対して私は妄信と言えるほどの崇敬の念を抱いていた。市境に近づいたら清潔な服に着替え、一番の盛装で身ごしらえしなければと思った位だ。すべての人が私のことを吟味し、パリ入市という栄誉に値するかどうか検分するのだという考えを拭うことができなかった。他の人ならこれほど子供っぽく現れないとしても、このような小都市的な考え方とか、また同様の性格は、その由って来たるところから言って文句なくドイツ的だ。我々のいわゆるドイツなる祖国には(ウィーンすら例外でなく)外国人が一週間以上気付かれず注目されずに済む都市は一つもない。パリでは外国人の居ること為すことを気にかけるものは誰一人いないのである!
Vor Paris hegte ich einen unglaubwürdigen Respekt; es war mir, als ob ich mich notwendig kurz vor den Barrierten sauber anlegen und im besten Putze einfahren müßte. Auch konnte ich den Gedanken nicht loswerden, daß alle Leute mich prüfend betrachteten und daß ich gewissermaßen ein Besichtigungsexamen zu bestehen haben würde, ob ich der Ehre, in Paris zu gelassen zu werden, fähig wäre. Diese kleinstädtisch Begriffe, wenngleich sie bei anderen Leuten nicht so kindisch hervortreten mögen wie bei mir und ähnlichen Naturen, sind ihrem Ursprunge nach unbedenklich deutsch. Weil wir in unserem sogenannten deutschen Vaterlande nicht eine Stadt haben (ich nehme sogar Wien nicht aus), wo ein Fremder länger als acht Tage unbekannt und unbeachtet bliebe; wo niemand auf den Gedanken käme, sich um ihn und sein Treiben zu bekümmern!
-- Karl von Holtei: Mit dem Thespiskarren durch die Lande (1971)

愛国者ホルタイが、フランスのパリに対してこれほどの賛仰・崇拝の気持ちを抱くとはびっくりでまた微笑ましくもあるが、それよりも、いまから200年前はベルリンもハンブルクもミュンヘンも(そしてウィーンでも)外国からやってきた人間は人の目に留まったのだろうか。同じヨーロッパ人でもよそ者であることを意識させられるそんな状況だったのだろうか。そちらの方が驚きだ。
* 今回は別の抜粋版 Mit dem Thespiskarren durch die Lande から。
** Karl Seydelmann (1793-1843) グラーツ Glatz 生まれ、のちにベルリン宮廷劇団俳優として活躍。
*** Johann von Herberstein (1772-1847) は1801年にグラーフェンオルト領を父のグラーツ伯爵 Johann Gundacker II から継承。



風紀の紊乱 Sittenverderben

フランス革命が急進化すると貴族が国外に亡命する事態となり、多くがドイツ諸国に逃れてきたのだが、実はその百年前にも似たことがあった。ルイ十四世がナントの勅令を廃止(1685年)して多数の新教徒が国外亡命を余儀なくされたとき、プロイセンは隣国の新教徒(ユグノー)を進んで受け入れた。彼らは多くが商工業に従事する者で、プロイセンの経済発展に大いなる貢献をした。

だが今回の亡命者はドイツで歓迎されなかったようだ。そのとき対仏同盟軍の兵士としてコブレンツに駐留していたラウクハルト F. C. Laukhard (1757-1822) によると、彼らはドイツの言葉や風習を馬鹿にすること、まるで「トルコ人がキリスト教徒を軽蔑する」ようであり、当初お金もたっぷりあったことゆえ、もとの生活態度を変えることなく贅沢三昧な食事とワインに金を消費し、ひがな一日、派手な身なりにサーベルをガチャつかせ、通りで人目もはばからず浮かれ騒いでいた。もちろん亡命中だからといって色ごとを控えるはずも無く、

亡命者たちがドイツで引き起こした酷い風紀の紊乱については私はその目撃者にもなった。「コブレンツじゃあ」とトリアーの真面目な古参下士官が言った、「十二歳以上で処女なんていませんぜ。あのフランス人どもがここら一帯の娘っこを手なずけちまったのでさ。罪つくりで恥さらしなことったらないやね」。事実その通りであった。おぼこい娘やまだいくらか色香の残る女はみな、それのみか信心深い大年増さえもこんな色仕掛けに抵抗できないのが大勢いたのだ。
Von dem greulichen Sittenverderben, welches die Emigrierten in Deutschland gestiftet haben, bin ich auch Zeuge geworden. "Hier in Koblenz", sagte ein ehrlicher alter Trierscher Unteroffizier, "gibt's vom zwölften Jahr an keine Jungfer mehr, die verfluchten Franzosen haben hier weit und breit alles so zusammengekirrt, daß es Sünde und Schande ist." Das befand sich auch in der Tat so; alle Mädchen und alle noch etwas brauchbaren Weiber, selbst viele alte Betschwestern nicht aus genommen, waren vor lauter Liebelei unausstehlich.
-- F. C. Laukhard: Ein abenteuerliches Leben während der Französischen Revolution (Bearbeitet von Franz Dobmann, 1969) [Originalausgabe: F. C. Laukhards Leben und Schicksale, von ihm selbst beschrieben, 1792-1802]

と言いながら、ラウクハルトはそのフランス亡命者と連れだって怪しげな場所に出かけたりしている。風紀の乱れを指弾する資格があるのか疑われるこの人物は、牧師の家に生まれ本人も牧師となるはずであったが、少年時代から酒に親しみ色ごとに経験を積んだ。ギーセン、ハイデルベルク、ゲッティンゲンなどで放縦な学生生活を送り、ハレ大学でまんまとマギスターの学位を得て大学教師の経歴を踏み出したのだが、自堕落な生活を改めず負債が重なってにっちもさっちも行かなくなり、何とプロイセン軍に志願してやくざな兵隊生活に身を投じた、上はその時の話である。

彼のことゆえ、まっとうな兵士で収まるはずが無く、フランス軍の占領する要塞に乗り込みスパイもどきの仕事をしたり、寝返って過激なサン・キュロットに身を置いたりした。軍隊を離れてようやくありついた牧師の座も、夜っぴって飲み明かしてそのまま説教壇に登ったりで、数年で追放されるような始末、乞食同然の境遇に落ちたりしながら放浪を続け1822年、クロイツナッハで没した。



卑俗語研究 Zotologie

前項に続いてラウクハルトの自伝から。
プファルツのヴェンデルスハイム Wendelsheim でルター派の牧師をしていた父は、スピノザの汎神論に傾倒し、かつ錬金術の実験に明け暮れるという、まさにこの父にしてこの子ありと思わせる人物。母は子育てには全く無関心であったため、子供たちの養育は未婚であった叔母に任されたのだが、この叔母と言うのがとんでもない飲んだくれ、彼女は「六歳の子供を飲酒の道に導いた」のである。

そして、幼少の彼に「麗しき徳育」を身に着けさせたのは叔母だけではなかった。牧師館の使用人がもう一分野、悪態と猥談 das Fluchen und Zotenreißen の早期教育を授けたのである。

プファルツでは下品な言い回しは日常茶飯のものと思われる。とくに庶民の間でえげつない話しぶりが幅を利かすこと、プロイセンの兵隊がプファルツのガキや小娘どもの単なる減らず口に赤面するほどのものだ。
In der Pfalz scheinen die Zoten wie zu Hause zu sein. Besonders herrscht unter den einfachen Leuten eine solche Schamlosigkeit im Reden, daß auch ein preußischer Musketier über die unlautern Schäkereien der Pfälzer Hänsels und Gretels erröten würde.

牧師館の使用人らしからぬ色事に通じた下僕の手ほどきにより、彼は幼少時よりそちら方面に関するヴォキャブラリーを蓄え、併せて実地の研鑽も積み、長じて学生時代にさらに知識に磨きをかけていった。ハレ大学でプファルツ伯ループレヒト(1400年から1410年まで神聖ローマ皇帝)に関する論文で学位を得て、晴れて Magister Laukhard となり、いくつかの講義を担当するようになったのだが、こうなると長年研鑽を積んできた最も得意とする分野の研究成果を発表せずばなるまい。

私は論文を一つ書いて『ドイツ語類義語集』とタイトルをつけた。ここには私が習い覚えた飲酒酩酊および下品な女性関係に関するドイツ語の言葉をすべて収録した。これぞまさにわが卑俗語研究の集大成であった。この論文を共有知識とすべく、学生諸君が望むならいつでも書き写すことを許した。それどころか論文を印刷することも考えたのだ。そうすればアーデルング氏が彼の辞書(*)の低俗表現の素材とできるのではと。
Ich machte einen Aufsatz, dem ich den Titel gab: "Deutsche Synonymen." Da brachte ich alle mir bekannten Wörter zusammen, welche die Besoffenheit und den unflätigen Umgang mit Frauenzimmern auf deutsch bezeichnen. Das war nun so ein Stück Arbeit aus der lieben Zotologie. Ich machte den Aufsatz gemeinnützig, indem ich erlaubte, daß jeder Student, der nur wollte, ihn abschrieb. Ich war sogar willens, ihn drucken zu lassen, und Herr Adelung hätte alsdann einen derben Beitrag zu seinem Wörterbuch gefunden.
-- F. C. Laukhard: Ein abenteuerliches Leben während der Französischen Revolution (Bearbeitet von Franz Dobmann, 1969)

さすがに論文の印刷出版は実現しなかったものの筆写版が広く行き渡り、「市庁舎地下食堂で一般の人間がマギスター・ラウカルトの『ドイツ語類義語集』を読んで滑稽な表現に大いに興じていた」と自慢げである。
* Johann Christoph Adelung: Grammatisch-kritisches Wörterbuch der hochdeutschen Mundart, 5 Bde (1774–1786) はグリムの辞書が現れるまで最大のドイツ語辞書であった。


サン・キュロット Ohnehosen

ラウクハルトの自伝からもう一つ。彼の行跡を取り上げるからには、革命の動乱の真只中で、無産市民の武装民兵サン・キュロットの一員となった顛末に触れずには済まないだろう。

プロイセン軍がフランス軍の立てこもるランダウ要塞 Festung Landau を包囲したのは1793年9月のこと。ラウクハルトは秘密の使命を帯び、逃亡兵を装ってランダウに入った。課されたミッションとは、ルター派の牧師でありながらランダウの革命勢力の重要なメンバーとなっているデンツェル Georg Friedrich Dentzel に接触して、要塞をプロイセン軍に明け渡すよう工作することだった。

この工作は成功せず、またプロイセン軍も包囲を解いて撤収したので、ラウクハルトは外国逃亡兵としてフランス国内に移送される。彼のことだから護送担当の兵士や士官と酒場で得意の Zotologie を駆使して意気投合、サン・キュロットのメンバーと親しくなるのであった。かくてリヨンに移送されたラウクハルトは、捕虜として収容されることなく、

翌日大勢のサン・キュロットに付き添われて大佐のもとに赴いた。この大佐と言うのはもとは実直な石鹸製造工だったのだが、リヨン占領時にその際立った勇猛果敢さが認められたのであった。大佐はこちらを親しげに見やり、愛国心について、また貴族僧侶への憎しみについていろいろ質問した後、こう言った。「君は仲間として迎えられた。すぐに武器も支給される」。入隊の手続きはこれでおしまいだった。
Den folgenden Tag ging ich in Begleitung mehrerer Ohnehosen zum Colonel, welcher ehedem ein ehrlicher Seifensiedergeselle gewesen war, aber bei der Eroberung von Lyon seine Bravour auffallend bewiesen hatte. Er sah mich freundlich an, und nachdem er verschieden Fragen über meinen Patriotismus und über meinen Haß gegen alle Aristokraten und Pfaffen getan hatte, sagte er: "Du kannst bei uns bleiben, bald wirst du ein Gewehr bekommen." Das war mein ganzes Engagement.

かくて彼のサン・キュロットの生活が始まる。彼らは革命勢力の中でジャコバン派を支持する最も過激な集団だったが、「サン・キュロットと一緒に過ごすのに私は満足だった、数人の仲間と朝までサン・キュロッティズムと共和国のために飲み明かすのであった」。なぜ満足だったのか。自由な国民に奉仕できるなどと尤もらしい理由をいくつか述べた後、「まあ変わったことが好きだから」と言い放つ。

リヨンにいる間はずっと、私の任務は市内パトロールと、そしてギロチンへと赴くことだけだった。毎日午後2時にギロチンの周りを囲むよう我々は指示されていた。悲惨なスペクタクルに私は初めこそおじ気づいたが、そのうち無頓着になり身震いすることなく見られるようになった。
Meine Dienst erstrecke sich, solange wir in Lyon waren, bloß auf das Patrouillieren und zur Guillotine ziehen, um welche wir täglich nachmittags um zwei Uhr einen Kreis schließen mußten. Vor dem traurigen Spektakel schauderte ich wohl anfangs zurück, konnte aber hernach es gleichgültig oder doch ohne Zuckungen betrachten.
-- F. C. Laukhard: Ein abenteuerliches Leben während der Französischen Revolution (Bearbeitet von Franz Dobmann, 1969)

その後、ヴィエンヌへ移動し蹄鉄工の家に泊まってふいごの仕事を手伝ったり、リヨンにもどってからある士官と決闘したりの冒険が続くが、やがて身の危険を感じるような状況になり、彼は偽の書類を調達して帰国許可証を獲得し、バーゼルを経てドイツへ入り、ハレに戻ったのである。

sans-culottes は ドイツ語ではそのまま Sansculottes あるいは Sansculotten と訳すのが普通。culotte とは貴族の着用する半ズボンで、平民は身につけないことから生じた呼び名である。それを Ohnehosen 「ズボン無し」として平然としているところ、いかにも彼らしいというべきか。ポツダムのフリードリヒ大王の離宮 Sanssouci 「サンスーシ宮殿」を訳して Ohnesorge 「無憂宮」 と呼ぶのとはちょっと違うであろう。



君よ知るや北の村? Kennst du das Dorf?

ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』の「ミニヨンの歌」はシューベルトをはじめ多くの作曲家により曲がつけられ、トマの歌劇『ミニヨン』のアリアにもなるなど、余りにも有名な詩である。わが国でもつとに森鴎外、堀内啓三などの名訳がある。
Kennst du das Land, wo die Zitronen blühn,
Im dunklen Laub die Goldorangen glühn,
Ein sanfter Wind vom blauen Himmel weht,
Die Myrte still und hoch der Lorbeer steht?
Kennst du es wohl?
Dahin, dahin
Möcht ich mit dir, o mein Geliebter, ziehn!
usw.

君よ知るや南の国
レモンの木は花咲きくらき林の中に
こがね色したる柑子は枝もたわわに実り
青き晴れたる空よりしづやかに風吹き
ミルテの木はしづかにラウレルの木は高く
雲にそびえて立てる国や 彼方へ
君とともにゆかまし (森鴎外の訳)
それゆえにまたパロディーも数多く、『エーミールと探偵たち』『飛ぶ教室』などで有名なエーリッヒ・ケストナー (Erich Kästner) の「君知るや大砲の花咲く国、知らぬと? 知るのだ!」 Kennst du das Land, wo die Kanonen blühn? / Du kennst es nicht? Du wirst es kennenlernen! と続く1928年の作はかなり有名。
ベルリンにはこんなのもあったそうだ。
Kennst du das Dorf, wo die Kartoffeln blüh'n?
Wo Berliner lagern uff det Wiesenjrien --
In jeder Faust 'ne Kimmelpulle blitzt --
Wo überall die Knoblochsoße spritzt --
Kennst du det Dorf? -- Dahin -- Dahin,
Will ick mit dir, jeliebte Juste ziehn!
-- A.K.Haumann: Ein Jahrhundert "Berlin im Schlager". In: Berliner Heimat 1955, Heft 1

君よ知るや北の村
馬鈴薯は花咲き緑なす草地に
ベルリンっ子たむろする
手にあまねくキンメル酒瓶照り輝き
到るところガーリックソース飛び散る
君知るや? 彼方へ、彼方へ
君とともにゆくぞ!
ベルリンの辻音楽師が手回しオルガンを奏でながら歌っていたとのこと。歌詞はベルリン方言だが大体分かりますね。あまり目にしない Kimmel というのは、標準語では Kümmel で、すなわちキャラウェーやクミンで香りをつけたリキュール「キンメル酒」のことである。

ベルリンには Gilka という銘柄のキンメル酒が1836年から製造されていて、庶民に人気があったらしい。フォンターネの小説『イェニー・トライベル夫人』"Frau Jenny Treibel" (1892) では、朝っぱらからパンとソーセージに併せてギルカを飲むお針子・・・というコンテキストで用いられているので、やはり高級な飲み物の扱いではない。

ガーリック(ニンニク)の匂い。W・キアウレーン『ベルリン』(Walther Kiaulehn: Berlin, 1958) は、大都会に到着したとき、いつも一回限りだが、それぞれ特有の匂いを感じるとして、パリはニンニクと湿った土、ロンドンは塵芥と甘い果物と並べ、「さて、ベルリンは・・・何の匂いもしない」と言うのだが。酒と料理の集まる場所は別でしょうね。