拾遺集、弐拾四 Aus meinem Papierkorb, Nr. 24痛風 Gicht
メルツ『痛風の歴史/文化史・医学史の観点』によると、いつの時代も体力があり肉付きのいい強壮な者は紛れもない痛風体質だと見られていたが、トーマス・シデナムからほぼ1世紀後、18世紀「スコットランド啓蒙主義」の医学・化学分野を代表する一人ウィリアム・カレン William Cullen (1710-1790) も『医術の第一線』»First Lines of the Practice of Physic« (Edinburgh 1777) で「強靭で栄養の良い、頭の大きな胸幅の広い、多血で肥満している」者を痛風患者の類型としているとのこと。彼もシデナム同様、医者でありながら痛風患者になった。痛風を発症したとき食餌療法で自らの治療に当たったが、当時よく用いられていた蛋白の少ない簡素な食事ではなく、乳製品を中心にした中程度の食餌療法を選んだ。その療法についてこう説明している。
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「痛風」を他の辞典でも調べてみた。 | |
『日本国語大辞典』(第二版 2001年)第九巻には「痛風」の見出し語のもとに、類語「痛疾風」もある。*医学天正記 (1607) 乾下、二四「痛風」*内科秘録 (1864) 四「暦節風は古名にて、金匱要略に載す、後世に至り痛風と通称す」と記されている。 諸橋轍次『大漢和辞典』(2000年)巻七には【痛】の見出し語の下に【痛風】病名。身體の一部に激痛を發生する病。リウマチス。[證治要訣、痛痺]筋骨疼者、俗呼為痛風、云々とある。 白川静『字通』(1996年)には[痛]の見出しの二字語彙に 痛痺つうひリューマチ/痛風つうふう痛痺 が挙げられている。 | |
「痛風」の語が日本でいつから用いられたか、やはりわからない。 |
もともと、中国で「風」(フウ)という字が百病の長という意味でも使われるようになり、感冒、咳気を含む広い症状を指す病名となった。これが日本で、「風」を空気の流れを意味する「かぜ」と同様に、「かぜ」と訓読みされたために、「かぜ」は感冒を含む病名としても使われるようになった。なるほど「頭風」という言い回しはそこから来ているのかと納得したが、はてさて日本にいつから「痛風」があったと考えられているのか、その点に関してはこの文章だけでは不明である。
「風邪」という漢字二字による表記は、元は「フウジャ」という漢語を表す熟語であり、身体に影響を与える悪い風を意味した。「風気」「風病」(フウビョウ・フビョウ)とも呼ばれた。「中風」(チュウフウ・チュウブ〈ウ〉)は、悪い風に当たって発症する病気という意味である。「痛風」も、俗に風に当たっただけでも痛いくらい、辛い病気という意味だとされるが、本来は先述のこの「風」の一種である。(159頁)
-- 笹原宏之『訓読みのはなし』(角川ソフィア文庫 2014年)
ヴォルフガング・ミヒェル編著この興味深い文献の、詳しい解説と注の付いた全文がPDFファイルで読める。編者による「はじめに」で、この書の内容について以下のように紹介されている。
ヘルマン・ブショフ: 痛風に関する詳細な研究及びその確実な治療法と効き目のある薬剤について: ヨーロッパにおける灸術に関する初の著書(1676年英語版)
本書には灸術による病気の治療について詳しく紹介した、史上初の西洋人による著書の英語版を収録している。執筆したのは医師ではなく、バタビアで勤務していたヘルマン・ブショフというオランダ人牧師で、今日では忘れられた人物である。「ヘルマン・ブショフの生涯と著作について」と題して、ブショフ以前のヨーロッパ人が観察した灸術、ヘルマン・ブショフの生涯、ブショフが体験した「もぐさ」などが解説されている。ヨーロッパ人による「もぐさ」のもっとも古い記述は、日本に来たイエズス会士が書き残したものだと考えられ、ルイス・フロイスも『日本史』(1584) や『日欧文化比較』(1585) で触れている。広辞苑の「ずふう」の項目でも典拠に挙げていた『日葡辞書』にも言及されている。
長年足通風に悩んでいたブショフはバタビアで何度もヨーロッパ人医師たちから治療を受けたが、思うような効果が得られなかった。迷った末に彼は市内のベトナム出身の女医に助けを求め、膝の上に灸をすえる治療を受けた。
その効果は絶大なものだった。ブショフは大いに心動かされ、「Moxa」(もぐさ)という素晴らしい治療薬をヨーロッパの同胞たちに紹介しようと決心した。彼はオランダ東インド会社の医師たちの助けを借りて、痛風に関する西洋の書物を徹底的に調べ、通風の原因及びもぐさの効能について研究した。
しかしオランダ語の原稿が出版されたのは彼が亡くなったあとだった。彼の著書は大きな反響を呼び、やがてドイツ語、英語にも翻訳された。ブショフのおかげで「Moxa」という言葉は、ヨーロッパの多くの言語に定着することになる。しだいに医師たちももぐさについて研究を行なうようになった。とくにウィレム・テン・ライネやエンゲルベルト・ケンペルの貢献は大きく、もぐさは半世紀に亘りヨーロッパで議論の的となった。しかしより専門的な論文が相次いで発表されたために、牧師であり医学には素人と見なされたブショフの名はしだいに忘れ去られていった。
本書に収められているのは、ブショフの生涯と彼の著作の英語版である。わかりにくい箇所やオランダ語の原著から逸脱した箇所には脚注をつけている。
1603年に長崎で印刷された『日葡辞書』(Vocabulario da Lingoa de Iapam Nangasaqui 1603)では初めて「もぐさ」という言葉が現れた。ここで、もぐさとヨモギは「火のボタン」を作るための薬草として説明され、また、よもぎ、フツ、灸治、やいとう、やいひ、皮切りの方言や類語܃なども紹介されている。治療に当たった女性は、「あいまいに記された灸点から」見て、おそらく脚気と診断してもぐさを用いたらしい。
彼女は、「非常に注意深く足の患部を探った後で」、彼の脚と膝に半時間の間にもぐさの小塊を約20個置いた。効果は彼の期待をはるかに上回った。すでに治療の最中に、それまでは一晩も休めなかったブショフが気持ちよく眠り込んでしまい、24時間後に目覚めたとき、膝と脚はまだ腫れていたが、発作は治まり、何日もしないうちに仕事に戻ることができた。
書評「『ドイツトラベル会話辞典』--短期ドイツ語研修旅行に頼もしい伴侶」『BRUNNEN』409号(郁文堂 2001年)この書は2006年に『ドイツトラベル会話』〈新訂版〉となっている。いずれにせよ直接の面識はなかったし、ましてや氏が医学史、東西交流史の専門家であることなど、私はまったく存じ上げなかった。
* 冊子版の広辞苑第五版、第六版も同様の記述。第七版は未見。[追記:第七版も同様の記述であった。(2018.03.18)]
痛風等は一般的な病気以上のものに思える。具体的に存在するのではなく、多様な変化形で出現する――よって素因なのである。《夭折の詩人》ノヴァーリスとは対照的に長寿に恵まれた文豪ゲーテは、その代価と言うべきか、やはり痛風を免れることはできなかった。50歳ころから身体の不調を自覚するようになり、そのためもあって頻繁にカールスバートに出かけたのであろう。60歳を過ぎて、痛風のために身体がどんどん動きにくくなったと訴えている。『ファウスト』第2部第1幕にも「痛風」が出てくる。メフィストーフェレスが、大地の深いところから生動する気配が立ち上ってくる、手足がつねられるような気がしたら、そこに宝が埋まっている、と言う。すると人々が呟く。
Die Gicht usw. scheint mehr eine allgemeine Krankheit zu sein, die nicht in concreto existiert, sondern sich in mannigfaltigen Variationen äußert – also eine Disposition.
ひょっとしたらそれはすでに、純粋の耐力等々が生じる良い体質なのかも知れない。その大抵の体質はひょっとしたら本当の病には成ることのないものかも知れない。単に不完全な病、病の傾向に留まる。ひょっとしたら四肢の痛み等々は未熟な炎症かも知れない。
Vielleicht sind das schon gute Konstitutionen, in denen reine Sthenien usw. entstehn. Die meisten Konstitutionen vermögen vielleicht nicht wahrhaft krank zu werden, und es bleibt nur bei unvollkommnen Krankheiten, Krankheitstendenzen. Vielleicht ist Gliederreißen usw. eine unreife Entzündung.
痛風等は身体占領期の前触れなのだろうか。身体の詩化は連想等々に拠るのだろうか。
Sollte die Gicht usw. der Vorläufer der Körperbemächtigungsperiode sein? Beruht auf Assoziation usw. Poetisierung des Körpers?
疝痛が生じるところから、そこから痛風、リューマチ、心気症、痔等々、神経症等々、筋肉症、半病。――病と健康の推移。
Wo Kolik her entsteht, daher entsteht auch Gicht, Rheumatism, Hypochondrie, Hämorrhoiden usw., Nervenkolik usw., Muskelnkolik. Halbkrankheiten. – Übergänge von Krankheit und Gesundheit.
刺激と反応の個人的な関係は個人的な健康のリズムである。この関係に欠陥があると、欠陥あるリズムが健康を害する形状、連結等を生み出す。発熱の音楽的な自然。局所病。痛風。化学的リズム。連想の教え。(現実的創造的音楽。)
Das individuelle Verhältnis der Reizbarkeit und des Reizes ist der Rhythmus der individuellen Gesundheit. Ist dieses Verhältnis fehlerhaft, so wird der fehlerhafte Rhythmus gesundheitswidrige Figurationen, Katenationen usw. hervorbringen. Musikalische Natur der Fieber. Lokalkrankheiten. Gicht. Chymischer Rhythmus. Die Lehre von den Assoziationen. (Reale, schaffende Musik.)
我々の精神は連想体である――調和から――多様の同時性から、生じてきて、その中で自らを維持する。精神は痛風である――戯れる本質である。
Unser Geist ist eine Assoziationssubstanz – Aus Harmonie – Simultaneität des Mannigfachen geht er hervor und erhält sich durch sie. Er ist eine Gicht – ein spielendes Wesen.
呟き | |
私は足が鉛のように重いぞ―― 私は腕が引攣る――それは痛風だ―― 私は足の親ゆびがむずむずする。 私は背中じゅうが痛い。 こういう具合じゃ、ここには、 しこたま豊富な宝がありそうだ。(相良守峯訳) | |
Gemurmel. | |
Mir liegt's im Fuß wie Bleigewicht – Mir krampft's im Arme – Das ist Gicht – Mir krabbelt's an der großen Zeh' – Mir tut der ganze Rücken weh – Nach solchen Zeichen wäre hier Das allerreichste Schatzrevier. |
方伯ルートヴィヒ、皇帝の忠実な封臣であったが、広く触れを発して、家臣に集合の号令をかけ、我に従い軍営に参れ、と命じた時、多くの者が口実を設けて他所へ出向くのを何とか逃れようとした。或る者は痛風に罹った、結石ができた、馬が倒れた、兵器庫が焼けたと言う。ナポレオン戦争で崩壊の危機に瀕したプロイセン王国にあって、1807年10月~1808年11月の間、首相として徹底的な改革を断行したシュタイン男爵 Heinrich Freiherr vom Stein (1757-1831) の回想録(執筆は1821-1823年)から。1806年の夏のこと、それは対仏開戦を目前にした混乱・紛糾のさなかであった。
Landgraf Ludwig, ein treuer Lehnsmann des Kaisers, ließ ein gemeines Aufgebot ins Land ergehen, daß sich seine Vasallen zu ihm sammlen und ihm ins Heerlager folgen sollten. Allein die mehresten suchten einen Vorwand, diese Fahrt in fremde Lande glimpflich von sich abzulehnen. Einen plagte das Zipperlein, den andern der Stein; dem waren seine Rosse gefallen, jenem die Rüstkammer aufgebrannt.
-- Johann Karl August Musäus: Volksmärchen der Deutschen (1782-1786)
たいへん重大な出来事が矢継ぎ早に続いて、このことはやがて忘れられた。私は9月はたくさんの仕事があって、激しい痛風の発作を起こした。翌年の5月まで、痛風は去らなかった。翌年の3月、
Wichtigere Ereignisse folgten so schnell, daß dieses bald vergessen wurde; ich bekam infolge vieler Arbeiten im September einen heftigen Anfall von Podagra, der mich nicht bis in den Mai des folgenden Jahres verließ.
私は三月末にナッサウに着き、わが祖国の不幸な運命、戦争の成り行きの不明、私の地位剥奪という過酷な状況の中にあって、収まることなく続く痛風の発作で痛手を受けた健康を取り戻そうと、可能な限り努めた。19世紀初めにベルリンで活躍した歌手・女優にベートマン夫人 Friederike Bethmann-Unzelmann (1760-1815) がいる。E・T・A・ホフマン『騎士グルック.1809年のある思い出』でも、ティーア・ガルテンのカフェで人々が代用コーヒーを飲みながら話すのは、戦争と平和のこと、大陸封鎖のこと、下落した通貨のことに加えて「ベートマン夫人の靴が最近はグレーだったか緑だったか」が話題になったとされるほどの人気女優だった。最初の夫が Unzelmann、2番目の夫が Bethmann、この夫が痛風を患った時のこと。F・W・グービッツ『ロマン主義とビーダーマイアー時代の体験』から。
Ich erreichte Nassau Ende März und suchte nun meine durch fortdauernde podagrische Anfälle sehr erschütterte Gesundheit wiederherzustellen, soweit als es bei der Teilnahme an dem unglücklichen Schicksal meines Vaterlandes, dem ungewissen Erfolg des Krieges, dem tiefen Unwillen über die mich betreffende Mediatisierung möglich war.
-- Heinrich Freiherr vom Stein: Lebenserinnerungen und Denkschriften. (Verfaßt in den Jahren 1821-1823)
ベートマンは痛風を病んで温泉に出かけた; 彼女は思いついた、二番目の結婚相手の留守中、一番目の結婚相手、ウンツェルマンを、4週間毎日昼食に招こうと。だが彼一人を客にしないため、彼女はその間私を二人目の客になるように頼んできた。私は仕事が立て込んでいてこの熱心な招待を受けることはできなかったが、幾度かは、4人目としてこの小さな集まりに連なった。…次はゲンツ Friedrich von Gentz (1764-1832) の場合。ゲンツは初めルソーの思想に共鳴して自由主義的著述を発表していたが、ナポレオンの拡大政策に反発、一転してメッテルニヒのもとで活動した。アッツェンベック『パオリーネ・ヴィーゼル/プロイセン王子ルイ・フェルディナントの愛人』によると、
Bethmann litt an der Gicht und reiste nach dem Bade; sie aber ließ sich einfallen, während der Abwesenhait ihres zweiten Ehmannes den ersten, Unzelmann, auf vier Wochen täglich zu Mittagessen einzuladen: um ihn jedoch nicht allein als Gast zu haben, bat sie mich, der zweite Gast sein für dieselbe Zeitlänge. Bei meiner erforderlichen Arbeitsamkeit konnte ich mich nicht verpflichten zu beharrlicher Annahme dieser Einladung, doch saß ich mehrmals als vierter in dem kleinen Kreise: [...]
-- Friedrich Wilhelm Gubitz: Erlebnisse aus Romantik und Biedermeier
彼は当時すでに、贅沢を極めた生活の結果の一つとして重い痛風を患っていた。それでもいつも通りの美しい女性に言い寄ること、65歳にもなってなお19歳になるやならずの踊り子の愛の魅惑に喜びを覚えることを妨げなかった。次はフォンターネ Theodor Fontane (1819-1898) の "Irrungen, Wirrungen" (1888) から。この小説の題名は、日本語の定訳が有るのか無いのか不案内だが、直訳すると『錯誤、錯綜』となろうか。何かの事柄が紛糾・混乱に陥ったとき、そうした事態をこの韻を踏んだフレーズで表すことがよくある。ここでの日本語訳は伊藤武雄訳『迷路』(岩波文庫 17頁)による。
Er (Gentz) litt damals schon stark an Podagra als Folge eines zu üppigen Lebens, was ihn aber nicht hinderte, daß er nach wie vor schönen Frauen den Hof machte und noch als 65 jähriger an den Liebesreizen einer kaum 19järigen Tänzerin Gefallen fand. (S.46)
-- Carl Atzenbeck: Pauline Wiesel. Die Geliebte des Prinzen Louis Ferdinand von Preussen. (1919)
『ああ、ズーゼルか』彼[デル氏]は女房を迎えた、『お前ここにいたのかい。じゃあ見ていたろう。ボルマンの家の奴がまた来やがったよ。今度はきっとあいつを火炙りにしてやるぜ。少しは脂があるだろう、脂滓はズルタンに舐めさせてやろう……犬の脂ってものはね、ズーゼル……』彼はここで、暫く前から効験があると信じている痛風の療法を一席弁ずるつもりだったらしい。が、その時女房の腕にアスパラガスの籃がぶら下がっているのを見て、その話は中止して『ちょっと見せてごらん。捗ったかい』と尋ねた。(伊藤武雄訳、現代仮名つかいに改めた)クラーラ・フィービヒ Clara Viebig (1860-1952) の出世作『女の村』(「『ラインの守り』 (1) 」参照)の登場人物の一人、皮革職人アントン・ニコラウス・シュミーツは、徒弟から叩き上げて工場主にまでなったのだが、年を取って痛風に苦しんだ。
»Na, Suselchen«, empfing er [Herr Dörr] seine beßre Hälfte, »da bist du ja. Hast du woll gesehn? Bollmann seiner war wieder da. Höre, der muß dran glauben, un denn brat' ich ihn aus; ein bißchen Fett wird er ja woll haben, un Sultan kann denn die Grieben kriegen... Und Hundefett, höre, Susel...«, und er wollte sich augenscheinlich in eine seit einiger Zeit von ihm bevorzugte Gichtbehandlungsmethode vertiefen. In diesem Augenblick aber des Spargelkorbes am Arme seiner Frau gewahr werdend, unterbrach er sich und sagte: »Na, nu zeige mal her. Hat's denn gefleckt?«
最後に彼はケルンで大きな製革場を所有した。だが何が彼をしてそこまであくせく働かせるのか。彼は独身だったし、近い親戚もいなかった。髪の毛に白髪が混じり、しばしば痛風が起き、皮なめし用のタンニンで首筋がヒリヒリ痛んだ。今は休息の時だった。ベルリンの庶民の生活を題材に数多くの小説を書いて人気作家となったグレーザー Erdmann Graeser (1870-1937) (「レムケの亡き未亡人」参照)の『シュプレーローレ』に登場するグンダーマン船長も痛風を患っている。シュプレー河を運行するはしけの船乗りの娘として生まれたローレ、父が失跡し音信不明となって数年、母の再婚話――相手は靴職人カーノルト――が進み、娘は自分は邪魔もの扱いだと叫びながら行き当たる人々を突き飛ばして通りを駆ける。
Zuletzt hatte er eine große Gerberei in Köln besessen. Aber was sollte er sich noch länger schinden? Junggeselle war er, nähere Verwandte hatte er nicht, sein Haar war grau geworden, die Gicht suchte ihn öfters heim, und der Hals kratzte ihn vom Lohstaub. Jetzt war's Zeit, sich zur Ruhe zu setzen. (S.129)
-- Clara Viebig: Das Weiberdorf (1900)
そしてグンダーマン船長と行き合った。この時はことはうまく進まなかった。船長は耳が遠かったので、初めローレが何を言っているのか分からなかったが、――話が分かると彼自身も怒りを燃え上がらせた。何故なら船長がカーノルトに作らせた靴が窮屈過ぎたことがあったからだ。ローレが急いで先に行こうとすると、船長は黄色の竹杖を彼女の足の間に延ばした。バタン――ローレは倒れた。船長は彼女のお下げをつかんで離さなかった。これはとことん追求しなければならぬ問題だ、と彼は言った。もし泣き叫ぶのをすぐにやめないと、この大きなハンカチを口に押し込むぞ、と。グンダーマン船長は関節の痛風のためにそれほど速くは進めなかった。それにフリードリヒ運河まではちょっとした距離があるので……時代は遡るが、パラケルススなどが《武器軟膏》(Waffensalbe / Powder of sympathy)なる怪しげな薬品について記述している。ロバート・フラッド Robert Fludd (1574-1637) によれば、これには磁力と共通した性質があり、傷や病の患部から離れていても効くという。
Dann kam ihr noch Kapitän Gundermann in den Weg. Hier aber ging die Sache schief. Er verstand sie nicht gleich wegen seiner Schwerhörigkeit -- und dann geriet er selbst in Wut, weil ihm Kanold einmal zu enge Stiefel gemacht hatte. Als Lore nun auch hier eiligst weiter wollte, schob er ihr seinen gelben Bambusstock zwischen die Beine. Bums -- da lag sie! Dann faße er sie beim Zopf und ließ sie nicht mehr los. Die Sache müsse doch gründlich untersucht wereden, sagte er. Und wenn Lore jetzt nicht gleich mit Brüllen aufhörte, würde er ihr sein großes Taschentuch in de Mund stopfen. Kapitän Gundermann konnte wegen der Gicht in seinen Knochen nicht so schnell vorwärts, und weil es doch bis zur Friedrichsgracht ein ganzes Stück Weg, ... (S.44)
-- Erdmann Graeser: Spreelore. Altberliner Roman (1950)
「これによって、水腫、胸膜炎、痛風、めまい、てんかん、フランス痘、中風、癌、瘻、不潔な潰瘍、腫瘍、負傷、ヘルニア、四肢の切断、女性の月経過多、月経過少および不妊も、また熱病、消耗熱、萎縮症や、四肢の消耗なども、この自然に存在している磁気を用いる方法で癒されうるのである。しかも、距離を置いて、なんらの直接的接触なしにこの治療は可能なのである。」(pp.264-265)同じころ、痛風を防ぐのに効果のあるという《痛風指輪》なるお守りもあったようだ。スティーブン・オズメント(庄司宏子訳)『市長の娘―中世ドイツの一都市に起きた醜聞』(白水社 2001)によると、
-- アレン・G・ディーバス、川﨑勝・大谷卓史訳『近代錬金術の歴史』(平凡社 1999年)
「さらに指輪であるが、これにはありとあらゆる素材が用いられた。宝石のついていない金、トルコ石をはめ込んだ十八金、合金、エナメル塗り、そして印章つきの銀の指輪、水晶の台に埋め込んだ銀の指輪(いわゆる「めまい指輪」――これはまた痛風のお守りになると信じられていたので、「痛風指輪」ともいう――)、さらに… (30頁)またこんな言い回しもありました。岡田温司『グランドツアー。18世紀イタリアへの旅』(岩波新書 2010)によると、ウィリアム・チェンバーズ William Chambers (1723-96) はパエストゥム神殿のドリス式石柱を「痛風の円柱」と皮肉った(142頁)そうだ。
いくつかの病がホーエンツォルレルン家の家系には赤い糸のように貫いている。痛風、卒中発作、水腫で、それらは診断のたびに再三再四繰り返し言及される。ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム(1620-1688)はプロイセン国家の基礎を固めた名君と讃えられ、後に《大選帝侯》と呼ばれた。この選帝侯に痛風の症状が出た時期ははっきりしないが、バルバラ・ボイスによると、本格的に現れたのはデンマーク遠征中のことという。
Einige Krankheiten ziehen sich wie ein roter Faden durch die Familiengeschichte der Hohenzollern. Es handelt sich um die Gicht, um den Schlaganfall und um die Wassersucht, die als Diagnosen immer wieder Erwähnung finden.
フリードリヒ・ヴィルヘルムはデンマーク遠征中、あの忌まわしい病に本格的に捉えられた。それからはずっと癒えることなく、むしろ症状が重くなって苦しむことになる――痛風に。選帝侯が「フェールベリンの戦い」(1675) でスウェーデン軍を破り、ブランデンブルクの地位を固めた事績は、ハインリヒ・フォン・クライスト Heinrich von Kleist のドラマ『公子ホンブルク』Prinz von Homburg でよく知られている。この作品は選帝侯の命令に違反した公子ホンブルクを巡る劇であるが、その公子と選帝侯の間のビール醸造権での争いに触れた歴史小説、ギュンター・テメス『ビール魔術師の罵り』(「公子ホンブルク」参照)がある。その中で選帝侯に次のような嘆きを語らせている。
Friedrich Wilhelm war zum erstenmal während des Feldzuges nach Dänemark von jenem Übel richtig gepackt worden, das ihn nicht mehr loslassen, sondern immer stärker plagen würde -- von der Gicht. (S.229)
-- Barbara Beuys: Der Große Kurfürst (1979, 1984)
宮廷に戻った選帝侯は家臣を前に大声でヘッセン公子を非難した。「フランス奴は余を侮辱する、スウェーデン奴は腹に据えかねる、それにこの痛風があってまだ足りないとでも言うのか、あのヘッセン公子はビール税のことにとやかく言いおる。」アドルフ・フォン・メンツェル Adolph von Menzel (1815-1905) は19世紀の最も人気のあった画家・挿絵画家の一人である。庶民の日常、国の歴史を題材として多く描いたが、その画業の中心はフリードリヒ大王を描くことであった。ここに大王の生涯のエピソードを集め、メンツェルの4冊の著書から選んだ挿絵を添えた伝記、というかメンツェルの絵が主、文章が従の絵本のような伝記がある。その終わり近くのところである。
Zurück am Hof lästerte der Kurfürst lautstark und öffentlich über den Hessenprinzen: »Als ob mir der Franzose nicht schon genug auf die Füße tritt, der Schwede mir Ärger bereitet und mich dazu die Gicht plagt, kommt jetzt auch noch dieser Hessenprinz und beschwert sich über unsere Bierakzise.«
-- Günther Thömmes: Der Fluch des Bierzauberers - Historischer Roman (2010)
1785年の春になる。老フリッツはいまや73歳である。ヴァルター・フォン・モロ Walter von Molo (1880-1958) はウィーン生まれ、第一次大戦後に次々と発表した小説で人気作家となった。18世紀末から19世紀にかけてのプロイセンの激動の時代を『目覚める民族』3部作で描いた、その第一作『フリデリクス』の、大王が父《兵隊王》の臨終のときを想起する場面。
彼はそろそろ最期が近づいているのが分かっている。すでに5年前に友人にこう書いていた。『ときに痛風がふざけ、ときに腰が、ときにしたたかな熱がわが命を費えとして好き勝手に振舞っておる。こやつらはわが魂の擦り切れた容器とおさらばする準備を余にさせている。』
Das Frühjahr 1785 kommt. Der ALTE FRITZ ist nun 73 Jahre alt.
Er weiß, daß es allmählich zu Ende geht. Bereits fünf Jahre früher hat er an einen Freund geschrieben: »Bald belustigt sich das Podagra, bald das Hüftweh, bald ein einträgliches Fieber auf Kosten meines Daseins. Sie bereiten mich vor, das abgenutzte Futteral meiner Seele zu verlassen.« (S.212)
-- Wolfgang Venohr: Fritz, der König (1981)
「…命の火が燃え尽きようとする父は、大きな、寒い、薄暗い居室にいた。水腫がごつく脂ぎった体を不格好に腫れあがらせていた。[中略]『お前』と、喉をぜいぜい鳴らして言った。痛風を患った両手はすでに動かせなかった。『危ないから剣はベットの下に! フリッツ、儂に復讐せよ! 』[中略]『お前はもはや仮面を被らずとも好い。連中は大臣に報酬を払った、儂は兵士たちのために節約した。儂は皆を指揮してきた、全部のスパイを。儂はお前にすべてを用意してやった。プロイセンを偉大にせよ! 戦いだ、皇帝に対して、世界に対して戦いだ!』」その第2部、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 Friedrich Wilhelms III. (在位1797-1840)の妃、ルイーゼ王妃(「不定詞王」参照)をタイトルロールにした『ルイーゼ』には、若い王妃が訪ねて来た兄弟姉妹と無邪気にふざけ合っている箇所がある。
"... Der sterbende Vater saß im großen, kalten, im halbdunkeln Raum; unförmig blähte die Wassersucht den groben, fettigen Leib im Totensessel. [...] 'Mein Sohn,' röchelte er, die gichtischen Hände schon bewegungslos, 'stoß' zur Sicherheit mit dem Degen unter das Bettgestühl! Fritz, räche mich!' [...] 'Er braucht die Maske nicht mehr, Fritz! Sie zahlten meinen Minister, ich sparte Geld für Soldaten! Ich hab' sie angeführt, all meine Spione! Ich hab' Ihm alles bereitgeschafft: Mach Preußen groß! Krieg, Krieg gegen den Kaiser, Krieg gegen die Welt!'" (S.183f.)
-- Walter von Molo: Fridericus, 1918
『ねえ、ゲオルク…つまらないお喋りはやめて、ちゃんと言いなさい。お祖母様の痛風の具合はどうなの? お前はだいたい故郷のことを何一つ話していないじゃないの!』ルイーゼの父メクレンブルク公爵はヘッセン-ダルムシュタットのフリーデリケと結婚し、10人の子を生したが、そのうち5人は早世、母も29歳で亡くなり、公爵は妻の妹と再婚した。男兄弟は父のもとに残ったが、幼い3姉妹テレーゼ、ルイーゼ、フリーデリケは、ダルムシュタットで祖母マリア・ルイーゼ・アルベルティーネに育てられた。ここで「お祖母様」と話題になっているのは、"Prinzessin George" と呼ばれたその女性である。
"Du, Georg ... sag mir, statt daß d'Unsinn redtst! wie geht's denn der Großmäm' mit ihrer Gicht? Ihr habt's mir überhaupt noch gar nichts von daheim verzählt!" (S.20)
-- Walter von Molo: Luise, 1919
痛風が女性を攻撃することはめったにない。その場合は年配の女性か、あるいは男性のような体質の持ち主に限る;…天衣無縫の言行でベルリン子に人気のあったデュティートル夫人 Madame Dutitre [Du Titre] (1748-1827) は様々な逸話の持ち主(「不定詞王」参照)であったが、亡くなって時が経っても多くの人が墓参りに訪れたらしい。ジャーナリストで作家、また演出家でもあったフェーリックス・フィリッピ Felix Philippi (1851-1921) が名優デフリント Ludwig Devrient の墓に参ったおり、墓地の係員にあれに参らないと、と連れて行かれたのが近くのデュティートル夫人の墓であった。
16. The gout seldom attacks women, and then only the aged, or such as are of a masculine habit of body; ... (p.315)
-- The Works of Thomas Sydenham, M.D., on Acute and Chronic Diseases, With Their Histories and Modes of Cure.
もう長らく、年老いた痛風の骨がこの盛り土の下で安らっている、デュティートル夫人は老フリッツの時代、そして続く二代のフリードリヒ・ヴィルヘルム(**)の時代に、ベルリンで最も知られた変わり者であった。その荒削りの言葉と振舞いは、古くからの、本物のベルリンの家庭には世代から世代へと受け継がれ、今日でもなお朗笑とともに引用されている。フィリッピは《古ベルリン》"Alt-Berlin" を舞台にした数多くの小説を書いて、1920年代のベストセラー作家となった。その一つに『ツバメの巣』Das Schwalbennest (1919) がある。古いベルリンの住宅街の一角に、毎年ツバメが巣をかける家があり、そこに住むのがシュバルベ Schwalbe さん一家。美しい娘 Alice(アリスと読むのかアリーツェと発音するのか?)の母シュバルベ夫人が痛風である。
Die Dutitre, die nun schon so lange ihre alten gichtigen Knochen unter diesem Hügel ausruht, war zur Zeit des alten Fritzen und der beiden ihm folgenden Friedrich Wilhelme eines der bekanntesten Berliner Originale, eine Dame, deren urwüchsige Worte und Taten in alten und echten Berliner Familien sich von Geschlecht zu Geschlecht fortpflanzten und heute noch lachend zitiert werden. (S.24f.)
-- Felix Philippi: Madame Dutitre [(Hrsg.) Gustav Manz: 100 Jahre Berliner Humor (Berlin 1923)]
「… それに貴女が家族の生計を心配しなくちゃならないと思うわよ」ヒルデガルト・フォン・ビンゲン Hildegard von Bingen (1098-1179) は『素朴療法の書あるいは自然学』を著し(「ヒルデガルトの自然学」参照)、痛風に対する薬草についても触れているが、女性の痛風に関して『健康法』(***)で次のように述べている。
「何ですって?」とフリーダは激昂して叫んだ。「私があなたの息子を養わなきゃならないの?」
「あなたの夫でしょうが」とツェチーリェは訂正した。
「まあそんなこと!」
「私たちはもちろん彼を相続から外しますから。貴女が私と私の夫の死を待ってもしょうがなくてよ。私は今日45歳になったばかり、私が死ぬまで遺産を受け取れないのよ、左脚にちょっとした痛風があるだけで、あいにく私は健康そのものよ。…」
"... Und ich glaube, für den Lebensunterhalt der Familie müßten Sie sorgen."
"Was?" rief Frida empört. "Ich soll Ihren Sohn ernähern?"
"Ihren Mann!" verbesserte Cäcilie.
"Das sollte mir einfallen!"
"Wir würden ihn selbstredend auch enterben. Es hätte daher auch wenig Zweck, daß Sie meinen und meines Mannes Tod abwarten. Ich bin heute erst fünfundvierzig und bis auf ein wenig Gicht im linken Bein kerngesund. [...]" (S.324)
-- A. Landsberger: Die neue Gesellschaft. Burlesker Roman, 1917
… 贅沢な食事をしょっちゅう食べる人は簡単に痛風に罹る … 女性はそんなに簡単には罹らない。有害な液が月のものと一緒に清められ、痛風を免れるのです。先に、「女性は痛風にかからない、月経がなくなってしまわない限りは」»Mulier non laborat podagra, nisi ipsi menstrua defecerit« とのヒポクラテスの見解を紹介した(「古典古代と痛風」参照)が、聖女ヒルデガルトはその根拠をきっぱりと言い切っている。当否は別にして。
… Wer verschiedene üppige Speisen häufig geniesst, bekommt leicht Podagra … Die Weiber bekommen es nicht so leicht, die schädlichen Säfte gehen in die monatliche Reinigung über, und so werden jene vom Podagra frei.
-- Hildegard von Bingen: Heilwissen
* Jochen Kuhl: Gicht und Wassersucht: Die Krankheiten der Hohenzollern (2012) この記事は aerzteblatt.de の Archiv で読める。
** 「二代のフリードリヒ・ヴィルヘルム」とは、Friedrich Wilhelm II. (在位 1786–1797) と Friedrich Wilhelm III. (在位 1797–1840) である。
*** "Heilwissen" Hamburg, SEVERUS Verlag, 2015 / Kindle版 あるいは google の E-Book で入手できる。
**** 「痛風は30年間で4倍に! 女性の“オッサン化”に思わぬ危険」というタイトルの『女性自身』誌の記事(2017年6月14日)がメモに残っている。「痛風の患者数は、現在100万人ほどといわれるが、そのうち女性患者は6%。30〜50代の男性が圧倒的に多い。しかし、’92年に行われた東京女子医科大学の調査では、女性患者の割合は1.5%。実にこの30年で4倍に増加したことになる。」