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拾遺集、弐拾四 Aus meinem Papierkorb, Nr. 24


痛風 Gicht
  ―― 9) 尿酸の発見前後

メルツ『痛風の歴史/文化史・医学史の観点』によると、いつの時代も体力があり肉付きのいい強壮な者は紛れもない痛風体質だと見られていたが、トーマス・シデナムからほぼ1世紀後、18世紀「スコットランド啓蒙主義」の医学・化学分野を代表する一人ウィリアム・カレン William Cullen (1710-1790) も『医術の第一線』»First Lines of the Practice of Physic« (Edinburgh 1777) で「強靭で栄養の良い、頭の大きな胸幅の広い、多血で肥満している」者を痛風患者の類型としているとのこと。彼もシデナム同様、医者でありながら痛風患者になった。痛風を発症したとき食餌療法で自らの治療に当たったが、当時よく用いられていた蛋白の少ない簡素な食事ではなく、乳製品を中心にした中程度の食餌療法を選んだ。その療法についてこう説明している。
「それゆえ中程度の食餌療法を選ぶべきで、ミルクはそれに最も適している。なぜならミルクは動物性と植物性の成分を含んでいるからだ。飲み物については、一緒に動物性の栄養素材をたっぷり摂るならば、発酵飲料が許される。ワインはほどほどならば、ほとんど有害な刺激物にはならない。ただごくまれには完全禁酒が必要な場合がある。」
»Es sollte deshalb eine mittlere Diät gewählt werden, und Milch entspricht ihr am besten, da sie tierische und vegetabile Stoffe enthält. Was die Getränke angeht, so sind vergorene Flüssigkeiten erlaubt, wenn sie reichlich mit tierischen Nahrungsmitteln zusammen genommen werden. Wein, mäßig genossen, wird kaum einschädliches Reizmittel sein, und nur im wenigen Fällen ist völlig Abstinenz erforderlich.« (Mertz S. 18)
発酵飲料とはビールを(ウィスキーも?)指すのだろう。この程度の食餌療法ならあまり抵抗なく受け入れられるに違いない。医療知識のシステム化と教育に長けていたカレンによる『医術の第一線』は医学教科書として広く用いられたが、最初の著書『分類学要約』Synopsis Nosologiae Methodicae (1769)(*) は疾病分類学の普及に大きな役割を果たした。疾病分類学 Nosologia とは、18世紀にリンネの植物命名法に倣ってモンペリエ大学の医師・植物学者ソヴァージュがその主著『疾病分類法』 (Nosologia Methodica, 1763) で導入したもので、シデナムの業績もその先行例と見做されている。エディンバラ大学教授、グラスゴー大学教授、王立内科・外科学校学長などを歴任したカレンは多くの優秀な学生を育てたが、のちに師と対立することになるジョン・ブラウン(「ブラウン主義」参照)もそのひとりであった。

18・19世紀にはコルヒチン(「4) 古典古代と痛風」「5) 中世から近世へ」参照)が »Wilson Tinktur« »Reynolds Spezifikum« »Eau medicinale« などの特許医薬品 patent medicine に用いられて、売薬として広範に使用されるようになっていたが、痛風治療におけるコルヒチン再評価の貢献者としてメルツは3名の医師の名を挙げている。まずはアンブロワーズ・パレ (1510-1590)、彼はなお中世的な「理髪師兼外科医」(**)でありながらフランス王の外科医に任命された。そしてピエール=ジョセフ・ペルティエ (1788-1842)、ジョゼフ・ビヤンネメ・カヴェントゥ (1795-1877) である。シデナムもカレンもこの痛風発作の特効薬には触れていないとのこと。
コルヒチンがヨーロッパで再び痛風治療にひろく用いられるようになるまでには、まずはペルティエとカヴェントゥの研究が必要であった。二人は1820年に草地サフラン(イヌサフラン)からコルヒチンのアルカロイドを抽出した。これによりヨーロッパでは痛風の発作を数多の薬草、薬用醸造酒、機械装置、塗り薬、瀉血、ガルヴァーニ電流、誘導電流療法(***)によって治療する時代は終わりになった。
コルヒチンに大いなる信頼を置いたのは、エジンバラ・レヴュー (1802) の創刊者でかつすばらしい著述家であったS・スミス(****)である。そのことは次のコメントが証している:『日曜日、杖にすがって歩き、その足を地面につけることができなかった。火曜日、4マイル散歩した、コルヒチンの力はかくも偉大なのだ。』

Bis Colchicum in der Gichtbehandlung allgemein wieder in Europa seinen Eingang fand, bedurfte es erst der Arbeiten von Pelletier u. Caventou. Beide isolierten im Jahre 1820 das Alkaloid Colchicin aus dem Wiesensafran (Herbstzeitlose). Damit ging in Europa die Zeit zu Ende, in der man Gichtanfälle mit einer großen Anzahl von Kräutern, medizinischen Gebräuen, mechanischen Vorrichtungen, Einreibungen, Aderlaß, schließlich galvanischem Strom und Faradisation behandelt hatte.
Sehr großes Vertrauen in Colchicum setzte S. Smith, der Gründer der Edinburgh-Review (1802) und glänzender Schriftsteller. Davon zeugte seine Bemerkung: »Am Sonntag mußte ich an Krücken gehen und konnte den Fuß nicht auf den Boden setzen, am Dienstag ging ich vier Meilen spazieren, so groß ist die Kraft Colchicum.« (Mertz S. 23)
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これまで9回にわたって見てきたように、痛風という病を巡ってはその原因について、症状について、治療法について、古代から多種多様な見解が示され意見が述べられてきた。中には感染するなどという説もあったが、化学の進歩が従来の見方を確実に乗り越える決め手をもたらした。1776年、スェーデンの化学者シェーレ (1742-1786) が尿路結石中に尿酸 Harnsäure を発見し、その20年後にウォラストン (1766-1828) が痛風の患部から尿酸を分離した。その後ガロド (1819-1907) が1848年に有名な《糸検査法》"thread test" によって痛風患者の血液中の尿酸濃度が異常に高くなることを確かめた。

血液や尿中の成分を化学的に測定する検査法が開発されて、ようやく人類はこの疾病の正体を突き止め得る地点に辿り着いた。尿酸の発見によって、痛風という疾病の正体が明らかになり、治療法も確立してゆくのだが、それは必ずしも一挙に進捗したのではなかった。メルツは言う:
にもかかわらずほとんど19世紀を通して、なお魔術、迷信、経験的知識がものをいう余地が広く残っていた。相も変わらず瀉血と下剤が使用された。すでにシデナムが非難していた治療法である。衣服の選択にあたっては特にフランネルが良いとされ、並びに一般的な緊張緩和としてこう勧められた:「睡眠をとりすぎるのは良くないが、ベッドで布団をかぶって長めの休息をとることは痛風患者にはよい。」
Trotzdem blieb jedoch fast über das gesamte 19. Jahrhundert noch breiter Spielraum übrig für Magie, Aberglaube und Empirie. Nach wie vor wurden Aderlässe und Abführprozeduren geübt, Behandlungsmaßnamen, die bereits Sydenham verworfen hatte. In der Wahl der Bekleidung wurde Flannel neben allgemeiner Entspannung besonders empfohlen: »Viel Schlaf ist nicht gut, aber eine längere Ruhe, im Bette zugedeckt, ist dem Podagristen wohltätig.« (Mertz S.25)
フランネル(*****)などという、イギリス産業革命における紡織機の進歩によって生産が拡大した生地を取り入れるなど、目先の変化はあったが、それだけで民間療法から一歩も出ない治療が行われていた。専門の医師にしてそうなのだから、俗間では素人診断、素人療法が横行していた。啓蒙の哲学者ですら斯くの如し:
例えばイマヌエル・カント (1724-1804) は自分自身の痛風発作のために極めて独断的な方法を用いた。それを《文学部と医学部の争い》に以下のように記している。『予期せぬ痛風の発作に対しては私は英雄的な手段を取った ―― 全力を振り絞って思考を一つの対象に集中する・・・しかしこれが単に想像による痛みなんかではなかったこと、そのことは翌朝左足親指の赤い腫れが確信させてくれた。』
Beispielweise wandte Immanuel Kant (1724-1804) wegen seiner eigenen Gichtanfälle eine höchst eigenwillige Methode an, die er in seinem »Streit der philosophischen und medizinischen Fakultät« folgendermaßen beschreibt: »Gegen die gichtigen Zufälle griff ich zu einem heroischen Mittel -- meine Gedanken mit Anstrengung auf ein bestimmtes Objekt zu heften ... Daß aber dieses nicht etwa nur eingebildete Schmerzen waren, davon konnte mich die des andern Morgen früh sich zeigende glühende Röte der Zehe des linken Fußes überzeugen.« (Mertz S.25)
あの大哲学者にもなんだか可愛いところがあったのだなあ、と不謹慎な親しみの感想が浮かんできますね。コルヒチンが広範に用いられるようになった19世紀の中頃までは、痛風患者は発作が起きると何週間もベットで過ごさねばならなかった。メルツによると:
大変印象深いのは英国の美術収集家にして文筆家ホレス・ウォルポール (1717-1797) が痛風の苦しみについて書簡に残した記録だ。彼は二度目の痛風発作――最初の発作は恐らくかかりつけの医師に痛風と診断されなかった――について次のように報告している:『私はこの二週間体調が普通ではなかった。何がどうなったのか分からなかったが:頭痛、胃の不快感、倦怠感と冬の発熱の再発・・・翌朝左足に、痙攣だろうと思ったが、何か感じるものがあった。それでも終日駆け回っていた;夕方になって、事態の正しい名称が分かって、その夜は大変痛んだ・・・6年前、私が痛風だと言っても誰も信じようとしなかった。痩せているし節制していたから、そんなはずはないと言うのだ。』
Sehr eindrucksvoll sind die Dokumente, die der englische Kunstsammler und Schriftsteller Horace Walpole (1717-1797) in Briefen über seinen Gichtleiden hinterlassen hat. Über seinen zweiten Gichtanfall -- der erste wurde wahrscheinlich nicht als solcher von seinem Arzt erkannt -- berichtet er folgendes: »Ich bin in der letzten vierzehn Tagen nicht in Ordnung gewesen, ohne zu wissen, was mit mir los war: Kopfschmerzen, Übelkeit im Magen, Lustlosigkeit und eine Wiederkehr des Fiebers, das ich im Winter hatte ... Am Morgen verspürte ich in meinem linken Fuß etwas, was ich für einen Krampf hielt, trotzdem lief ich den ganzen Tag; gegen Abend entdeckte ich die Sache bei ihrem richtigen Namen und litt sehr in der Nacht ... Niemand wollte mir vor sechs Jahren glauben, als ich sagte, daß ich die Gicht hätte. Sie lehnten es meiner Magerkeit und Mäßigkeit wegen ab.« (Mertz S.25f.)
ホレス・ウォルポールとは私たちにはあの『オトラント城奇譚』(1764) で知られるウォルポールである。放縦に流れず程よく節制して太っていなければ、いくらその症状を訴えても痛風とは認められなかったのである。

メルツは、自分勝手な素人療法を試みたもう一つの例として、近代化学の祖とされるロバート・ボイルが書き残した珍妙なエピソードを紹介している。
英国の自然科学者サー・ロバート・ボイル (1627-1691) はこう述べている:『ある痛風患者が、手と足を小麦粉、ミルクの粥パップで覆っていたのだが、部屋に一人きりにされていた。一匹の豚がドアが開いているのを見て――そして粥の匂いに引き付けられ入ってきて、粥を喰ったので、患者はびっくり仰天し、痛みはその日のうちに弱まってきて次第に治まり二度とぶり返すことはなかった。』
So bemerkte der englische Physiker Sir Robert Boyle (1627-1691): »Ein Gichtiker, dessen Hände und Füße mit Breiumschlägen, Mehl und Milch abgedeckt waren, wurde in seinem Zimmer unbeaufsichtigt gelassen. Eine Sau fand die Tür offen -- und angelockt von dem Geruch des Breis kam sie herein, fraß den Brei, worauf der Mann so erschrak, daß seine Schmerzen noch am gleichen Tage nachließen, allmählich zurückgingen und nie wieder kamen.« (Mertz S.26)
びっくりしてしゃっくりが止まった、ではなく痛風が治った、という。あれだけの業績を上げた科学者が伝えている話ですから呆然とさせられます。優れた科学者に関わるもう一例。こちらは本人の体験です。
別の取り組みをしたのはカール・フォン・リンネ (1707-1778) で、彼は自分が発明したイチゴ療法を後生大事に信じていたが、というのもかつて苦しんだ重い痛風発作がそのお蔭で治ったと有難く思っていたからだ。
Anders hantierte der schwedische Chemiker Carl von Linné (1707-1778), der auf die von ihm erfundene Erdbeerkur schwor und glaubte, ihr habe er es zu verdanken, daß die schweren Gichtanfälle, unter denen er früher zu leiden hatte, aufgehört hätten. (Mertz S.28f.)
フィンランドの医師ヒェルト Otto E. A. Hjelt のリンネ伝(v*)によると、リンネはあるとき偶然イチゴを食べて痛風の痛みが治まり夜もぐっすり眠れたという経験をして、毎年夏になると、大量のイチゴを少しの砂糖あるいは沸かさないミルクとともに食べ続けた、冬にも懸命にイチゴを探したが、入手できなかった、云々と書き残しているそうだ。

18世紀から19世紀にかけて化学的知見が痛風研究に大きな進歩をもたらした。紀元2世紀にカッパドキアのアレタエウス(「4) 古典古代と痛風」参照)が痛風に腎臓が関係していると述べたことが、ようやくにして実証的に明らかにされてゆくのである。

ロマン派の詩人ティーク、ホフマンのケースを取っ掛かりに、人類史どころか恐竜にまで遡って痛風の文化史を追ってきたこのシリーズ、出発点のロマン派時代に戻ってきました。これ以降になると、主たる参考書としてガイド役を務めてもらったメルツ『痛風の歴史/文化史・医学史の観点』も、高校時代の授業で悩まされたあの亀の子模様(ベンゼン環)とグロテスクな解剖写真がこれでもかと迫ってくるので、歴史を辿るのは今回までとし、あと1、2回で語り残したエピソードなどを落穂ひろいのように取り上げてお終いとしたい。
* カレンは疾病を大きく4群に分類した:《Pyrexiae 熱病(チフスなど)、Neuroses 神経疾患(癲癇など)、Cachexiae 悪液質(壊血病など)、Locales 局部疾病(腫瘍など)》である。そのうち特に Neuroses に関しては広く論争を巻き起こし、厳しい批判も受けた。
** この高名な床屋医師の伝記・業績については、『床屋医者パレ』(福武文庫―JOYシリーズ) 、『近代外科の父・パレ―日本の外科のルーツを探る』(NHKブックス) が日本語で読める。
*** 誘導電流療法 Faradisation はマイケル・ファラデー Michael Faraday (1791-1867) による《電磁誘導の法則》の名を借りた療法。ガルヴァーニ療法は電極をタッチさせるが、こちらは近づけるのみという。
**** "Edinburgh Review" は19世紀イギリスで最も影響力のあった雑誌。Sydney Smith (1771-1845) はジェーン・オースティン『ノーサンガー・アビー』で17歳のヒロインが惹かれてゆく Henry Tilney のモデルではないかと推測する評者もいるようだ。 (en.wikipedia.org)
***** フーフェラント『マクロビオティク(長生法)』(「ブラウン主義」参照)でも「痛風で痛む個所はウールかフランネルでくるむこと」とか「旅行にはフランネルのシャツを携行するのがよい」とか言及されている。
v* Internet Archive (https://archive.org/) にこのドイツ語訳のフル・テキストが掲載されている。

痛風 Gicht
  ―― 10) 日本と痛風

この連載のしょっぱなで、公益財団法人痛風財団の《痛風の歴史》に、この病気は西洋のもので、日本では明治以前にはなかった、
「安土桃山時代に日本を訪れたポルトガル人宣教師のルイス・フロイスは日本人には痛風がないと記録し、明治のはじめにもドイツ人医師ベルツが《日本には痛風がいない》と記録しています。 痛風が日本史に忽然と現れるのは明治になってからで、実際に増えたのは戦後、それも1960年代になってから」
と記されていることを紹介した。これを読んでそうだったのかと感心したことだが、最近ある小説を読んでいて次のような箇所に遭遇した。
やがて彼らは管流に導かれて、国造と呼ばれる長のやしきにやってきた。周囲にめぐらした生け垣が青々と茂る、予想にたがわぬ壮大なやしきである。管流はおやしきの人々にも顔がきくからと道々吹聴していたが、まんざら嘘ではなかったらしく、彼が前に立つと取りつぎもすんなり通り、遠子たちはじきに、この国の大巫女にあたる女性に対面させてもらえることになった。
「じっちゃんが痛風を病んでからは、おれが造様のもとへ玉を納めにくるからね」
得意げに笑って管流は言った。(352頁)

-- 荻原規子『白鳥異伝』上(徳間文庫 2010)
『白鳥異伝』は「勾玉三部作」と呼ばれるファンタジー連作の第二巻、ヤマトタケル伝説を下敷きにした作品のようだ。日本の神話時代に「痛風」が出てくるのはヘンだとしても、老人の持病らしい病名として痛風を選んだのだろう、これはフィクションだし登場人物の心の動きなどまったく現代風になっている中で取るに足りないこと、と読み飛ばすことができる。

だがこれはどうだろう。たまたま手元の電子版広辞苑第四版で「つうふう」を引くと、【痛風】血中尿酸濃度が上昇し、尿酸塩が関節・皮膚・心臓・腎臓などに沈着して炎症をおこす疾患。発作的な足指関節の激痛を伴う。昨日は今日の物語「つふうの薬ぢやと申ほどに」とある。

ここに出典例として挙げられている『昨日は今日の物語』は江戸時代の笑話である。あれっ、江戸時代に痛風があったのか、だとすれば痛風財団の《痛風の歴史》の記述は誤りなのだろうか。これは読み飛ばすことはできない。図書館に出向いて調べてみると数冊が所蔵されている。まず「日本古典文學大系」の一巻『江戸笑話集』を見る。「鹿の巻筆」「軽口露がはなし」「軽口御前男」「鯛の味噌津」などとともに「きのふはけふの物語」がその冒頭に収められている。問題の個所は上巻の21番にある。
21 ある人、寺へまいり、「長老様は」といへば、「御留守ぢや」と申。「はるばる参たるに御殘りおほひ事ぢや」とて、しばらくやすらひけるに、おりふし竹の子の時分ぢやとて、藪をのぞきまわれば、長老様、見事成雁の毛をぬいて御座ある。此人、そろりとそばへ寄り、御見舞にまいりたるよし申せば、長老、仰天して、「さてさて此鳥の毛を枕に入候へば、通風の薬ぢやと申ほどに、かやうにいたすが、何としても、手なれぬ事はならぬ物ぢや」と仰せらるゝ。檀那きゝて、「其は易ひ事で御座候。是へ下されよ」とて、くるくるとひきむしり、毛をばをしよせて、「此身はこなたにいらざる物よ」とて、やがてとつて歸り、賞翫した。(56ページ)
-- 小高敏郎校注『江戸笑話集』(「日本古典文學大系〈100〉」岩波書店 1966年)
引用文(元はもちろん縦書き)中、はるばる、さてさて、くるくる、の繰り返し語には右に示す「くの字点」が用いられている。漢字の多くにふりがながついていて、「痛風」には「つふう」のかながふられている。

次に、岩波版の1年後に出た武藤禎夫訳『昨日は今日の物語』(平凡社東洋文庫 1967年)で見ると問題の個所は「さてさて、この鳥のむく毛を枕に入れますると、痛風の薬じゃと申しますので…」(24ページ)となっている。

北原保雄編『きのふはけふの物語研究及び総索引』(笠間書院 1973年)の当該箇所は、 「さてさて此鳥のけをまくらに入候へは、つふうのくすりちやと申ほとに…」(10ページ)とある。「さてさて」はやはり「くの字点」である。そして、索引の部に《づふう》があり、「頭風」の漢字が当てられている。

ずっと新しい宮尾與男訳注『きのふはけふの物語: 全訳注』(講談社学術文庫 2016年)では「さてさて此鳥のむくげをまくらにいれ候へは、づふうのくすりじやと申程に…」(64ページ)とあり、「さてさて」はやはり「くの字点」が用いられている。〈現代語訳〉は「さてもさても、この鳥の毛をむいて、毛を枕に入れて寝ると、頭痛にいい薬だというので…」と訳されている。〈語注〉に「づふう」は頭風、頭痛、とある。

このように閲覧しえた4種の版では解釈は「痛風」と「頭風」の二つに分かれている。いずれを取るか。日本の古典には門外漢ながら私は「つふう(づふう)」を「頭風」と解する方に軍配を挙げたい。

岩波版該当ページの欄外注には「痛風。関節やその周囲の組織に急性または慢性の炎症を起こし、痛み、腫れ、赤くなる病。」という気楽な注がついている。痛風という病が日本にいつからあったかということには無頓着のようだ。東洋文庫版の注には二三の類話が紹介されているが、痛風についての記述はない。訳者による「はじめに」で「原稿作成中に、厳格な本文校訂に加えて、正確な頭注と懇切な補注の施された『江戸笑話集』が出版され、[中略]小高敏郎先生にこの貴重な労作を利用させていただけるようにお願いし、拙稿を全面的に訂正・加筆することができた」とあるので、「痛風」の扱いも異なるところが無いのであろう。

広辞苑第四版(*)での出典のタイトル表記からみて、これは東洋文庫版を典拠にしているのだろうかと想像したりする。とすれば岩波版『江戸笑話集』の解釈に遡ることになる。なお同じ広辞苑第四版で「ずふう」を引くと、「【頭風】「頭通(ズツウ)。<日葡>」とある。(『日葡辞書』については後述)

「痛風」を他の辞典でも調べてみた。
『日本国語大辞典』(第二版 2001年)第九巻には「痛風」の見出し語のもとに、類語「痛疾風」もある。*医学天正記 (1607) 乾下、二四「痛風」*内科秘録 (1864) 四「暦節風は古名にて、金匱要略に載す、後世に至り痛風と通称す」と記されている。
諸橋轍次『大漢和辞典』(2000年)巻七には【痛】の見出し語の下に【痛風】病名。身體の一部に激痛を發生する病。リウマチス。[證治要訣、痛痺]筋骨疼者、俗呼為痛風、云々とある。
白川静『字通』(1996年)には[痛]の見出しの二字語彙に 痛痺つうひリューマチ/痛風つうふう痛痺 が挙げられている。
「痛風」の語が日本でいつから用いられたか、やはりわからない。

笹原宏之『訓読みのはなし』第五章「同訓異字のはなし」に「風と風邪」という項目がある。
もともと、中国で「風」(フウ)という字が百病の長という意味でも使われるようになり、感冒、咳気を含む広い症状を指す病名となった。これが日本で、「風」を空気の流れを意味する「かぜ」と同様に、「かぜ」と訓読みされたために、「かぜ」は感冒を含む病名としても使われるようになった。
「風邪」という漢字二字による表記は、元は「フウジャ」という漢語を表す熟語であり、身体に影響を与える悪い風を意味した。「風気」「風病」(フウビョウ・フビョウ)とも呼ばれた。「中風」(チュウフウ・チュウブ〈ウ〉)は、悪い風に当たって発症する病気という意味である。「痛風」も、俗に風に当たっただけでも痛いくらい、辛い病気という意味だとされるが、本来は先述のこの「風」の一種である。(159頁)

-- 笹原宏之『訓読みのはなし』(角川ソフィア文庫 2014年)
なるほど「頭風」という言い回しはそこから来ているのかと納得したが、はてさて日本にいつから「痛風」があったと考えられているのか、その点に関してはこの文章だけでは不明である。

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「日本と痛風」というテーマに関して、もう一つ書いておきたいことがある。「もぐさ」で痛風を治療したという17世紀の証言があるとのこと。おやおや、だとすれば明治以前にも痛風があったのかと驚いたが、その文献に当たってみると、そうではなくて、東洋にやってきた西洋人の痛風病者の事柄であった。オランダ東インド会社の牧師が痛風をもぐさ Moxa で治療して、その経緯について当人のヘルマン・ブショフ (Hermann Buschoff, 1620?-74) が著した書物が「九州大学学術情報リポジトリ」に掲載されている。
ヴォルフガング・ミヒェル編著
ヘルマン・ブショフ: 痛風に関する詳細な研究及びその確実な治療法と効き目のある薬剤について: ヨーロッパにおける灸術に関する初の著書(1676年英語版)
この興味深い文献の、詳しい解説と注の付いた全文がPDFファイルで読める。編者による「はじめに」で、この書の内容について以下のように紹介されている。
本書には灸術による病気の治療について詳しく紹介した、史上初の西洋人による著書の英語版を収録している。執筆したのは医師ではなく、バタビアで勤務していたヘルマン・ブショフというオランダ人牧師で、今日では忘れられた人物である。
長年足通風に悩んでいたブショフはバタビアで何度もヨーロッパ人医師たちから治療を受けたが、思うような効果が得られなかった。迷った末に彼は市内のベトナム出身の女医に助けを求め、膝の上に灸をすえる治療を受けた。
その効果は絶大なものだった。ブショフは大いに心動かされ、「Moxa」(もぐさ)という素晴らしい治療薬をヨーロッパの同胞たちに紹介しようと決心した。彼はオランダ東インド会社の医師たちの助けを借りて、痛風に関する西洋の書物を徹底的に調べ、通風の原因及びもぐさの効能について研究した。
しかしオランダ語の原稿が出版されたのは彼が亡くなったあとだった。彼の著書は大きな反響を呼び、やがてドイツ語、英語にも翻訳された。ブショフのおかげで「Moxa」という言葉は、ヨーロッパの多くの言語に定着することになる。しだいに医師たちももぐさについて研究を行なうようになった。とくにウィレム・テン・ライネやエンゲルベルト・ケンペルの貢献は大きく、もぐさは半世紀に亘りヨーロッパで議論の的となった。しかしより専門的な論文が相次いで発表されたために、牧師であり医学には素人と見なされたブショフの名はしだいに忘れ去られていった。
本書に収められているのは、ブショフの生涯と彼の著作の英語版である。わかりにくい箇所やオランダ語の原著から逸脱した箇所には脚注をつけている。
「ヘルマン・ブショフの生涯と著作について」と題して、ブショフ以前のヨーロッパ人が観察した灸術、ヘルマン・ブショフの生涯、ブショフが体験した「もぐさ」などが解説されている。ヨーロッパ人による「もぐさ」のもっとも古い記述は、日本に来たイエズス会士が書き残したものだと考えられ、ルイス・フロイスも『日本史』(1584) や『日欧文化比較』(1585) で触れている。広辞苑の「ずふう」の項目でも典拠に挙げていた『日葡辞書』にも言及されている。
1603年に長崎で印刷された『日葡辞書』(Vocabulario da Lingoa de Iapam Nangasaqui 1603)では初めて「もぐさ」という言葉が現れた。ここで、もぐさとヨモギは「火のボタン」を作るための薬草として説明され、また、よもぎ、フツ、灸治、やいとう、やいひ、皮切りの方言や類語܃なども紹介されている。
治療に当たった女性は、「あいまいに記された灸点から」見て、おそらく脚気と診断してもぐさを用いたらしい。
彼女は、「非常に注意深く足の患部を探った後で」、彼の脚と膝に半時間の間にもぐさの小塊を約20個置いた。効果は彼の期待をはるかに上回った。すでに治療の最中に、それまでは一晩も休めなかったブショフが気持ちよく眠り込んでしまい、24時間後に目覚めたとき、膝と脚はまだ腫れていたが、発作は治まり、何日もしないうちに仕事に戻ることができた。
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ヴォルフガング・ミッヘル氏といえば、実はドイツ語教師にはおなじみの名前であった。氏が執筆されたドイツ語教科書は評判が良く、同僚の多くが採用していたと記憶する。私もしばしば使わせてもらった。氏の個人サイト「欧亜文化交流史」の「著書・論文・報告等」の「教材」をみると、それら懐かしいテキストの数々が表紙写真とともにリストアップされている。

そしてもう一つ縁があった。実は私は氏の著書の書評を書いていた。ヴォルフガング・ミヒェル/新保彬粥『ドイツトラベル会話辞典』である。
書評「『ドイツトラベル会話辞典』--短期ドイツ語研修旅行に頼もしい伴侶」『BRUNNEN』409号(郁文堂 2001年)
この書は2006年に『ドイツトラベル会話』〈新訂版〉となっている。いずれにせよ直接の面識はなかったし、ましてや氏が医学史、東西交流史の専門家であることなど、私はまったく存じ上げなかった。
* 冊子版の広辞苑第五版、第六版も同様の記述。第七版は未見。[追記:第七版も同様の記述であった。(2018.03.18)]

痛風 Gicht
  ―― 11) 痛風あれこれ

ドイツの小説や評伝などでしばしば出くわす Gicht あるいは Podagra という語の出現箇所をメモしていたのがこのシリーズのもととなった。両語とも《痛風》を意味し、特に区別するとき、Gicht は痛風一般、Podagra は足痛風を指すようだ。今回はそのようなメモからこれまで取り上げていないトピックを何点か紹介して一応の区切りとしたい。

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痛風に苦しむティークにノヴァーリスが見舞いの言葉とともに様々なアドヴァイスを寄せたことは先に述べた(「ティークの場合」参照)が、ノヴァーリスは痛風に限らず病気そのものに強い関心を抱いていたのである。彼は生と死、健康と病気について独自の見解をもっていた。『断章』の中で痛風に触れている箇所をいくつか抜き書きする。ロマン派詩人の特異な観念連合、連想が頻出してここでも彼の《魔術的観念論》の一端が伺えますね。
痛風等は一般的な病気以上のものに思える。具体的に存在するのではなく、多様な変化形で出現する――よって素因なのである。
Die Gicht usw. scheint mehr eine allgemeine Krankheit zu sein, die nicht in concreto existiert, sondern sich in mannigfaltigen Variationen äußert – also eine Disposition.

ひょっとしたらそれはすでに、純粋の耐力等々が生じる良い体質なのかも知れない。その大抵の体質はひょっとしたら本当の病には成ることのないものかも知れない。単に不完全な病、病の傾向に留まる。ひょっとしたら四肢の痛み等々は未熟な炎症かも知れない。
Vielleicht sind das schon gute Konstitutionen, in denen reine Sthenien usw. entstehn. Die meisten Konstitutionen vermögen vielleicht nicht wahrhaft krank zu werden, und es bleibt nur bei unvollkommnen Krankheiten, Krankheitstendenzen. Vielleicht ist Gliederreißen usw. eine unreife Entzündung.

痛風等は身体占領期の前触れなのだろうか。身体の詩化は連想等々に拠るのだろうか。
Sollte die Gicht usw. der Vorläufer der Körperbemächtigungsperiode sein? Beruht auf Assoziation usw. Poetisierung des Körpers?

疝痛が生じるところから、そこから痛風、リューマチ、心気症、痔等々、神経症等々、筋肉症、半病。――病と健康の推移。
Wo Kolik her entsteht, daher entsteht auch Gicht, Rheumatism, Hypochondrie, Hämorrhoiden usw., Nervenkolik usw., Muskelnkolik. Halbkrankheiten. – Übergänge von Krankheit und Gesundheit.

刺激と反応の個人的な関係は個人的な健康のリズムである。この関係に欠陥があると、欠陥あるリズムが健康を害する形状、連結等を生み出す。発熱の音楽的な自然。局所病。痛風。化学的リズム。連想の教え。(現実的創造的音楽。)
Das individuelle Verhältnis der Reizbarkeit und des Reizes ist der Rhythmus der individuellen Gesundheit. Ist dieses Verhältnis fehlerhaft, so wird der fehlerhafte Rhythmus gesundheitswidrige Figurationen, Katenationen usw. hervorbringen. Musikalische Natur der Fieber. Lokalkrankheiten. Gicht. Chymischer Rhythmus. Die Lehre von den Assoziationen. (Reale, schaffende Musik.)

我々の精神は連想体である――調和から――多様の同時性から、生じてきて、その中で自らを維持する。精神は痛風である――戯れる本質である。
Unser Geist ist eine Assoziationssubstanz – Aus Harmonie – Simultaneität des Mannigfachen geht er hervor und erhält sich durch sie. Er ist eine Gicht – ein spielendes Wesen.
《夭折の詩人》ノヴァーリスとは対照的に長寿に恵まれた文豪ゲーテは、その代価と言うべきか、やはり痛風を免れることはできなかった。50歳ころから身体の不調を自覚するようになり、そのためもあって頻繁にカールスバートに出かけたのであろう。60歳を過ぎて、痛風のために身体がどんどん動きにくくなったと訴えている。『ファウスト』第2部第1幕にも「痛風」が出てくる。メフィストーフェレスが、大地の深いところから生動する気配が立ち上ってくる、手足がつねられるような気がしたら、そこに宝が埋まっている、と言う。すると人々が呟く。

呟き
私は足が鉛のように重いぞ――
私は腕が引攣る――それは痛風だ――
私は足の親ゆびがむずむずする。
私は背中じゅうが痛い。
こういう具合じゃ、ここには、
しこたま豊富な宝がありそうだ。(相良守峯訳)
Gemurmel.
Mir liegt's im Fuß wie Bleigewicht –
Mir krampft's im Arme – Das ist Gicht –
Mir krabbelt's an der großen Zeh' –
Mir tut der ganze Rücken weh –
Nach solchen Zeichen wäre hier
Das allerreichste Schatzrevier.

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以下、手元のメモからアトランダムにいくつか抜き出してみる。啓蒙主義時代の言語学者で批評家であったムゼウス J. K. A. Musäus (1735-1787) は、風刺小説の作家として、またドイツの伝説、民話、童話の収集でも知られているが、その代表作『ドイツ人の民衆童話』32章に、こんな場面が描かれている。
方伯ルートヴィヒ、皇帝の忠実な封臣であったが、広く触れを発して、家臣に集合の号令をかけ、我に従い軍営に参れ、と命じた時、多くの者が口実を設けて他所へ出向くのを何とか逃れようとした。或る者は痛風に罹った、結石ができた、馬が倒れた、兵器庫が焼けたと言う。
Landgraf Ludwig, ein treuer Lehnsmann des Kaisers, ließ ein gemeines Aufgebot ins Land ergehen, daß sich seine Vasallen zu ihm sammlen und ihm ins Heerlager folgen sollten. Allein die mehresten suchten einen Vorwand, diese Fahrt in fremde Lande glimpflich von sich abzulehnen. Einen plagte das Zipperlein, den andern der Stein; dem waren seine Rosse gefallen, jenem die Rüstkammer aufgebrannt.
-- Johann Karl August Musäus: Volksmärchen der Deutschen (1782-1786)
ナポレオン戦争で崩壊の危機に瀕したプロイセン王国にあって、1807年10月~1808年11月の間、首相として徹底的な改革を断行したシュタイン男爵 Heinrich Freiherr vom Stein (1757-1831) の回想録(執筆は1821-1823年)から。1806年の夏のこと、それは対仏開戦を目前にした混乱・紛糾のさなかであった。
たいへん重大な出来事が矢継ぎ早に続いて、このことはやがて忘れられた。私は9月はたくさんの仕事があって、激しい痛風の発作を起こした。翌年の5月まで、痛風は去らなかった。
Wichtigere Ereignisse folgten so schnell, daß dieses bald vergessen wurde; ich bekam infolge vieler Arbeiten im September einen heftigen Anfall von Podagra, der mich nicht bis in den Mai des folgenden Jahres verließ.
翌年の3月、
私は三月末にナッサウに着き、わが祖国の不幸な運命、戦争の成り行きの不明、私の地位剥奪という過酷な状況の中にあって、収まることなく続く痛風の発作で痛手を受けた健康を取り戻そうと、可能な限り努めた。
Ich erreichte Nassau Ende März und suchte nun meine durch fortdauernde podagrische Anfälle sehr erschütterte Gesundheit wiederherzustellen, soweit als es bei der Teilnahme an dem unglücklichen Schicksal meines Vaterlandes, dem ungewissen Erfolg des Krieges, dem tiefen Unwillen über die mich betreffende Mediatisierung möglich war.
-- Heinrich Freiherr vom Stein: Lebenserinnerungen und Denkschriften. (Verfaßt in den Jahren 1821-1823)
19世紀初めにベルリンで活躍した歌手・女優にベートマン夫人 Friederike Bethmann-Unzelmann (1760-1815) がいる。E・T・A・ホフマン『騎士グルック.1809年のある思い出』でも、ティーア・ガルテンのカフェで人々が代用コーヒーを飲みながら話すのは、戦争と平和のこと、大陸封鎖のこと、下落した通貨のことに加えて「ベートマン夫人の靴が最近はグレーだったか緑だったか」が話題になったとされるほどの人気女優だった。最初の夫が Unzelmann、2番目の夫が Bethmann、この夫が痛風を患った時のこと。F・W・グービッツ『ロマン主義とビーダーマイアー時代の体験』から。
ベートマンは痛風を病んで温泉に出かけた; 彼女は思いついた、二番目の結婚相手の留守中、一番目の結婚相手、ウンツェルマンを、4週間毎日昼食に招こうと。だが彼一人を客にしないため、彼女はその間私を二人目の客になるように頼んできた。私は仕事が立て込んでいてこの熱心な招待を受けることはできなかったが、幾度かは、4人目としてこの小さな集まりに連なった。…
Bethmann litt an der Gicht und reiste nach dem Bade; sie aber ließ sich einfallen, während der Abwesenhait ihres zweiten Ehmannes den ersten, Unzelmann, auf vier Wochen täglich zu Mittagessen einzuladen: um ihn jedoch nicht allein als Gast zu haben, bat sie mich, der zweite Gast sein für dieselbe Zeitlänge. Bei meiner erforderlichen Arbeitsamkeit konnte ich mich nicht verpflichten zu beharrlicher Annahme dieser Einladung, doch saß ich mehrmals als vierter in dem kleinen Kreise: [...]
-- Friedrich Wilhelm Gubitz: Erlebnisse aus Romantik und Biedermeier
次はゲンツ Friedrich von Gentz (1764-1832) の場合。ゲンツは初めルソーの思想に共鳴して自由主義的著述を発表していたが、ナポレオンの拡大政策に反発、一転してメッテルニヒのもとで活動した。アッツェンベック『パオリーネ・ヴィーゼル/プロイセン王子ルイ・フェルディナントの愛人』によると、
彼は当時すでに、贅沢を極めた生活の結果の一つとして重い痛風を患っていた。それでもいつも通りの美しい女性に言い寄ること、65歳にもなってなお19歳になるやならずの踊り子の愛の魅惑に喜びを覚えることを妨げなかった。
Er (Gentz) litt damals schon stark an Podagra als Folge eines zu üppigen Lebens, was ihn aber nicht hinderte, daß er nach wie vor schönen Frauen den Hof machte und noch als 65 jähriger an den Liebesreizen einer kaum 19järigen Tänzerin Gefallen fand. (S.46)
-- Carl Atzenbeck: Pauline Wiesel. Die Geliebte des Prinzen Louis Ferdinand von Preussen. (1919)
次はフォンターネ Theodor Fontane (1819-1898) の "Irrungen, Wirrungen" (1888) から。この小説の題名は、日本語の定訳が有るのか無いのか不案内だが、直訳すると『錯誤、錯綜』となろうか。何かの事柄が紛糾・混乱に陥ったとき、そうした事態をこの韻を踏んだフレーズで表すことがよくある。ここでの日本語訳は伊藤武雄訳『迷路』(岩波文庫 17頁)による。
『ああ、ズーゼルか』彼[デル氏]は女房を迎えた、『お前ここにいたのかい。じゃあ見ていたろう。ボルマンの家の奴がまた来やがったよ。今度はきっとあいつを火炙りにしてやるぜ。少しは脂があるだろう、脂滓はズルタンに舐めさせてやろう……犬の脂ってものはね、ズーゼル……』彼はここで、暫く前から効験があると信じている痛風の療法を一席弁ずるつもりだったらしい。が、その時女房の腕にアスパラガスの籃がぶら下がっているのを見て、その話は中止して『ちょっと見せてごらん。捗ったかい』と尋ねた。(伊藤武雄訳、現代仮名つかいに改めた)
»Na, Suselchen«, empfing er [Herr Dörr] seine beßre Hälfte, »da bist du ja. Hast du woll gesehn? Bollmann seiner war wieder da. Höre, der muß dran glauben, un denn brat' ich ihn aus; ein bißchen Fett wird er ja woll haben, un Sultan kann denn die Grieben kriegen... Und Hundefett, höre, Susel...«, und er wollte sich augenscheinlich in eine seit einiger Zeit von ihm bevorzugte Gichtbehandlungsmethode vertiefen. In diesem Augenblick aber des Spargelkorbes am Arme seiner Frau gewahr werdend, unterbrach er sich und sagte: »Na, nu zeige mal her. Hat's denn gefleckt?«
クラーラ・フィービヒ Clara Viebig (1860-1952) の出世作『女の村』(「『ラインの守り』 (1) 」参照)の登場人物の一人、皮革職人アントン・ニコラウス・シュミーツは、徒弟から叩き上げて工場主にまでなったのだが、年を取って痛風に苦しんだ。
最後に彼はケルンで大きな製革場を所有した。だが何が彼をしてそこまであくせく働かせるのか。彼は独身だったし、近い親戚もいなかった。髪の毛に白髪が混じり、しばしば痛風が起き、皮なめし用のタンニンで首筋がヒリヒリ痛んだ。今は休息の時だった。
Zuletzt hatte er eine große Gerberei in Köln besessen. Aber was sollte er sich noch länger schinden? Junggeselle war er, nähere Verwandte hatte er nicht, sein Haar war grau geworden, die Gicht suchte ihn öfters heim, und der Hals kratzte ihn vom Lohstaub. Jetzt war's Zeit, sich zur Ruhe zu setzen. (S.129)
-- Clara Viebig: Das Weiberdorf (1900)
ベルリンの庶民の生活を題材に数多くの小説を書いて人気作家となったグレーザー Erdmann Graeser (1870-1937) (「レムケの亡き未亡人」参照)の『シュプレーローレ』に登場するグンダーマン船長も痛風を患っている。シュプレー河を運行するはしけの船乗りの娘として生まれたローレ、父が失跡し音信不明となって数年、母の再婚話――相手は靴職人カーノルト――が進み、娘は自分は邪魔もの扱いだと叫びながら行き当たる人々を突き飛ばして通りを駆ける。
そしてグンダーマン船長と行き合った。この時はことはうまく進まなかった。船長は耳が遠かったので、初めローレが何を言っているのか分からなかったが、――話が分かると彼自身も怒りを燃え上がらせた。何故なら船長がカーノルトに作らせた靴が窮屈過ぎたことがあったからだ。ローレが急いで先に行こうとすると、船長は黄色の竹杖を彼女の足の間に延ばした。バタン――ローレは倒れた。船長は彼女のお下げをつかんで離さなかった。これはとことん追求しなければならぬ問題だ、と彼は言った。もし泣き叫ぶのをすぐにやめないと、この大きなハンカチを口に押し込むぞ、と。グンダーマン船長は関節の痛風のためにそれほど速くは進めなかった。それにフリードリヒ運河まではちょっとした距離があるので……
Dann kam ihr noch Kapitän Gundermann in den Weg. Hier aber ging die Sache schief. Er verstand sie nicht gleich wegen seiner Schwerhörigkeit -- und dann geriet er selbst in Wut, weil ihm Kanold einmal zu enge Stiefel gemacht hatte. Als Lore nun auch hier eiligst weiter wollte, schob er ihr seinen gelben Bambusstock zwischen die Beine. Bums -- da lag sie! Dann faße er sie beim Zopf und ließ sie nicht mehr los. Die Sache müsse doch gründlich untersucht wereden, sagte er. Und wenn Lore jetzt nicht gleich mit Brüllen aufhörte, würde er ihr sein großes Taschentuch in de Mund stopfen. Kapitän Gundermann konnte wegen der Gicht in seinen Knochen nicht so schnell vorwärts, und weil es doch bis zur Friedrichsgracht ein ganzes Stück Weg, ... (S.44)
-- Erdmann Graeser: Spreelore. Altberliner Roman (1950)
時代は遡るが、パラケルススなどが《武器軟膏》(Waffensalbe / Powder of sympathy)なる怪しげな薬品について記述している。ロバート・フラッド Robert Fludd (1574-1637) によれば、これには磁力と共通した性質があり、傷や病の患部から離れていても効くという。
「これによって、水腫、胸膜炎、痛風、めまい、てんかん、フランス痘、中風、癌、瘻、不潔な潰瘍、腫瘍、負傷、ヘルニア、四肢の切断、女性の月経過多、月経過少および不妊も、また熱病、消耗熱、萎縮症や、四肢の消耗なども、この自然に存在している磁気を用いる方法で癒されうるのである。しかも、距離を置いて、なんらの直接的接触なしにこの治療は可能なのである。」(pp.264-265)
-- アレン・G・ディーバス、川﨑勝・大谷卓史訳『近代錬金術の歴史』(平凡社 1999年)
同じころ、痛風を防ぐのに効果のあるという《痛風指輪》なるお守りもあったようだ。スティーブン・オズメント(庄司宏子訳)『市長の娘―中世ドイツの一都市に起きた醜聞』(白水社 2001)によると、
「さらに指輪であるが、これにはありとあらゆる素材が用いられた。宝石のついていない金、トルコ石をはめ込んだ十八金、合金、エナメル塗り、そして印章つきの銀の指輪、水晶の台に埋め込んだ銀の指輪(いわゆる「めまい指輪」――これはまた痛風のお守りになると信じられていたので、「痛風指輪」ともいう――)、さらに… (30頁)
またこんな言い回しもありました。岡田温司『グランドツアー。18世紀イタリアへの旅』(岩波新書 2010)によると、ウィリアム・チェンバーズ William Chambers (1723-96) はパエストゥム神殿のドリス式石柱を「痛風の円柱」と皮肉った(142頁)そうだ。

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王侯貴族、支配層の人々の痛風については手元にクルースマン『痛風・権勢・偉大・権力。欲望と苦痛に引き裂かれる支配者』Klußmann, Rudolf: Gicht-Gier-Größe-Macht. Herrscher im Spannungsfeld von Lust und Leid. (1998) があって、チューダー朝のハインリヒ7世、8世、スペイン・ハプスブルク家のカール5世、フィリップ2世、ヴァレンシュタイン、ホーエンツォルレルン家の大選帝侯、初代プロイセン王、兵隊王、フリードリヒ大王そしてビスマルクが取り上げられている。

ホーエンツォルレルン家の遺伝的な病については多くの資料があるが、例えばヨッヘン・クール「痛風と水腫。ホーエンツォルレルン家の病」(*) という記事には、
いくつかの病がホーエンツォルレルン家の家系には赤い糸のように貫いている。痛風、卒中発作、水腫で、それらは診断のたびに再三再四繰り返し言及される。
Einige Krankheiten ziehen sich wie ein roter Faden durch die Familiengeschichte der Hohenzollern. Es handelt sich um die Gicht, um den Schlaganfall und um die Wassersucht, die als Diagnosen immer wieder Erwähnung finden.
ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム(1620-1688)はプロイセン国家の基礎を固めた名君と讃えられ、後に《大選帝侯》と呼ばれた。この選帝侯に痛風の症状が出た時期ははっきりしないが、バルバラ・ボイスによると、本格的に現れたのはデンマーク遠征中のことという。
フリードリヒ・ヴィルヘルムはデンマーク遠征中、あの忌まわしい病に本格的に捉えられた。それからはずっと癒えることなく、むしろ症状が重くなって苦しむことになる――痛風に。
Friedrich Wilhelm war zum erstenmal während des Feldzuges nach Dänemark von jenem Übel richtig gepackt worden, das ihn nicht mehr loslassen, sondern immer stärker plagen würde -- von der Gicht. (S.229)
-- Barbara Beuys: Der Große Kurfürst (1979, 1984)
選帝侯が「フェールベリンの戦い」(1675) でスウェーデン軍を破り、ブランデンブルクの地位を固めた事績は、ハインリヒ・フォン・クライスト Heinrich von Kleist のドラマ『公子ホンブルク』Prinz von Homburg でよく知られている。この作品は選帝侯の命令に違反した公子ホンブルクを巡る劇であるが、その公子と選帝侯の間のビール醸造権での争いに触れた歴史小説、ギュンター・テメス『ビール魔術師の罵り』(「公子ホンブルク」参照)がある。その中で選帝侯に次のような嘆きを語らせている。
宮廷に戻った選帝侯は家臣を前に大声でヘッセン公子を非難した。「フランス奴は余を侮辱する、スウェーデン奴は腹に据えかねる、それにこの痛風があってまだ足りないとでも言うのか、あのヘッセン公子はビール税のことにとやかく言いおる。」
Zurück am Hof lästerte der Kurfürst lautstark und öffentlich über den Hessenprinzen: »Als ob mir der Franzose nicht schon genug auf die Füße tritt, der Schwede mir Ärger bereitet und mich dazu die Gicht plagt, kommt jetzt auch noch dieser Hessenprinz und beschwert sich über unsere Bierakzise.«
-- Günther Thömmes: Der Fluch des Bierzauberers - Historischer Roman (2010)
アドルフ・フォン・メンツェル Adolph von Menzel (1815-1905) は19世紀の最も人気のあった画家・挿絵画家の一人である。庶民の日常、国の歴史を題材として多く描いたが、その画業の中心はフリードリヒ大王を描くことであった。ここに大王の生涯のエピソードを集め、メンツェルの4冊の著書から選んだ挿絵を添えた伝記、というかメンツェルの絵が主、文章が従の絵本のような伝記がある。その終わり近くのところである。
1785年の春になる。老フリッツはいまや73歳である。
彼はそろそろ最期が近づいているのが分かっている。すでに5年前に友人にこう書いていた。『ときに痛風がふざけ、ときに腰が、ときにしたたかな熱がわが命を費えとして好き勝手に振舞っておる。こやつらはわが魂の擦り切れた容器とおさらばする準備を余にさせている。』

Das Frühjahr 1785 kommt. Der ALTE FRITZ ist nun 73 Jahre alt.
Er weiß, daß es allmählich zu Ende geht. Bereits fünf Jahre früher hat er an einen Freund geschrieben: »Bald belustigt sich das Podagra, bald das Hüftweh, bald ein einträgliches Fieber auf Kosten meines Daseins. Sie bereiten mich vor, das abgenutzte Futteral meiner Seele zu verlassen.« (S.212)
-- Wolfgang Venohr: Fritz, der König (1981)
ヴァルター・フォン・モロ Walter von Molo (1880-1958) はウィーン生まれ、第一次大戦後に次々と発表した小説で人気作家となった。18世紀末から19世紀にかけてのプロイセンの激動の時代を『目覚める民族』3部作で描いた、その第一作『フリデリクス』の、大王が父《兵隊王》の臨終のときを想起する場面。
「…命の火が燃え尽きようとする父は、大きな、寒い、薄暗い居室にいた。水腫がごつく脂ぎった体を不格好に腫れあがらせていた。[中略]『お前』と、喉をぜいぜい鳴らして言った。痛風を患った両手はすでに動かせなかった。『危ないから剣はベットの下に! フリッツ、儂に復讐せよ! 』[中略]『お前はもはや仮面を被らずとも好い。連中は大臣に報酬を払った、儂は兵士たちのために節約した。儂は皆を指揮してきた、全部のスパイを。儂はお前にすべてを用意してやった。プロイセンを偉大にせよ! 戦いだ、皇帝に対して、世界に対して戦いだ!』」
"... Der sterbende Vater saß im großen, kalten, im halbdunkeln Raum; unförmig blähte die Wassersucht den groben, fettigen Leib im Totensessel. [...] 'Mein Sohn,' röchelte er, die gichtischen Hände schon bewegungslos, 'stoß' zur Sicherheit mit dem Degen unter das Bettgestühl! Fritz, räche mich!' [...] 'Er braucht die Maske nicht mehr, Fritz! Sie zahlten meinen Minister, ich sparte Geld für Soldaten! Ich hab' sie angeführt, all meine Spione! Ich hab' Ihm alles bereitgeschafft: Mach Preußen groß! Krieg, Krieg gegen den Kaiser, Krieg gegen die Welt!'" (S.183f.)
-- Walter von Molo: Fridericus, 1918
その第2部、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 Friedrich Wilhelms III. (在位1797-1840)の妃、ルイーゼ王妃(「不定詞王」参照)をタイトルロールにした『ルイーゼ』には、若い王妃が訪ねて来た兄弟姉妹と無邪気にふざけ合っている箇所がある。
『ねえ、ゲオルク…つまらないお喋りはやめて、ちゃんと言いなさい。お祖母様の痛風の具合はどうなの? お前はだいたい故郷のことを何一つ話していないじゃないの!』
"Du, Georg ... sag mir, statt daß d'Unsinn redtst! wie geht's denn der Großmäm' mit ihrer Gicht? Ihr habt's mir überhaupt noch gar nichts von daheim verzählt!" (S.20)
-- Walter von Molo: Luise, 1919
ルイーゼの父メクレンブルク公爵はヘッセン-ダルムシュタットのフリーデリケと結婚し、10人の子を生したが、そのうち5人は早世、母も29歳で亡くなり、公爵は妻の妹と再婚した。男兄弟は父のもとに残ったが、幼い3姉妹テレーゼ、ルイーゼ、フリーデリケは、ダルムシュタットで祖母マリア・ルイーゼ・アルベルティーネに育てられた。ここで「お祖母様」と話題になっているのは、"Prinzessin George" と呼ばれたその女性である。

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どうやらルイーゼ王妃の祖母も痛風だったようだが、最後に《女性と痛風》に関わるメモ帳からいくつか拾い上げてみよう。古くから一般に「女性は痛風にかからない」とされていたが、男性に比べるとごく少ないものの、皆無ではないと知られていた。例のシデナムもこう述べている。
痛風が女性を攻撃することはめったにない。その場合は年配の女性か、あるいは男性のような体質の持ち主に限る;…
16. The gout seldom attacks women, and then only the aged, or such as are of a masculine habit of body; ... (p.315)
-- The Works of Thomas Sydenham, M.D., on Acute and Chronic Diseases, With Their Histories and Modes of Cure.
天衣無縫の言行でベルリン子に人気のあったデュティートル夫人 Madame Dutitre [Du Titre] (1748-1827) は様々な逸話の持ち主(「不定詞王」参照)であったが、亡くなって時が経っても多くの人が墓参りに訪れたらしい。ジャーナリストで作家、また演出家でもあったフェーリックス・フィリッピ Felix Philippi (1851-1921) が名優デフリント Ludwig Devrient の墓に参ったおり、墓地の係員にあれに参らないと、と連れて行かれたのが近くのデュティートル夫人の墓であった。
もう長らく、年老いた痛風の骨がこの盛り土の下で安らっている、デュティートル夫人は老フリッツの時代、そして続く二代のフリードリヒ・ヴィルヘルム(**)の時代に、ベルリンで最も知られた変わり者であった。その荒削りの言葉と振舞いは、古くからの、本物のベルリンの家庭には世代から世代へと受け継がれ、今日でもなお朗笑とともに引用されている。
Die Dutitre, die nun schon so lange ihre alten gichtigen Knochen unter diesem Hügel ausruht, war zur Zeit des alten Fritzen und der beiden ihm folgenden Friedrich Wilhelme eines der bekanntesten Berliner Originale, eine Dame, deren urwüchsige Worte und Taten in alten und echten Berliner Familien sich von Geschlecht zu Geschlecht fortpflanzten und heute noch lachend zitiert werden. (S.24f.)
-- Felix Philippi: Madame Dutitre [(Hrsg.) Gustav Manz: 100 Jahre Berliner Humor (Berlin 1923)]
フィリッピは《古ベルリン》"Alt-Berlin" を舞台にした数多くの小説を書いて、1920年代のベストセラー作家となった。その一つに『ツバメの巣』Das Schwalbennest (1919) がある。古いベルリンの住宅街の一角に、毎年ツバメが巣をかける家があり、そこに住むのがシュバルベ Schwalbe さん一家。美しい娘 Alice(アリスと読むのかアリーツェと発音するのか?)の母シュバルベ夫人が痛風である。

1907年にリヒャルト・シュトラウス、ゲオルク・ブランデス、ヴェルナー・ゾンバルトなどと雑誌「モルゲン(朝)」"Der Morgen" を創刊して批評家として活動を開始したランツベルガー Artur Landsberger (1876-1933) (「モラルとタクト」参照)は、その後作家として第一次大戦前後のベルリンを舞台にした多くの小説を書いた。『新しい社会』には、息子と結婚しようとする舞台女優フリーダに向かって、財産目当てだろうと睨んで談判に出かける母親ツェチーリェとの間に、こんなやり取りがある。
「… それに貴女が家族の生計を心配しなくちゃならないと思うわよ」
「何ですって?」とフリーダは激昂して叫んだ。「私があなたの息子を養わなきゃならないの?」
「あなたの夫でしょうが」とツェチーリェは訂正した。
「まあそんなこと!」
「私たちはもちろん彼を相続から外しますから。貴女が私と私の夫の死を待ってもしょうがなくてよ。私は今日45歳になったばかり、私が死ぬまで遺産を受け取れないのよ、左脚にちょっとした痛風があるだけで、あいにく私は健康そのものよ。…」

"... Und ich glaube, für den Lebensunterhalt der Familie müßten Sie sorgen."
"Was?" rief Frida empört. "Ich soll Ihren Sohn ernähern?"
"Ihren Mann!" verbesserte Cäcilie.
"Das sollte mir einfallen!"
"Wir würden ihn selbstredend auch enterben. Es hätte daher auch wenig Zweck, daß Sie meinen und meines Mannes Tod abwarten. Ich bin heute erst fünfundvierzig und bis auf ein wenig Gicht im linken Bein kerngesund. [...]" (S.324)
-- A. Landsberger: Die neue Gesellschaft. Burlesker Roman, 1917
ヒルデガルト・フォン・ビンゲン Hildegard von Bingen (1098-1179) は『素朴療法の書あるいは自然学』を著し(「ヒルデガルトの自然学」参照)、痛風に対する薬草についても触れているが、女性の痛風に関して『健康法』(***)で次のように述べている。
… 贅沢な食事をしょっちゅう食べる人は簡単に痛風に罹る … 女性はそんなに簡単には罹らない。有害な液が月のものと一緒に清められ、痛風を免れるのです。
… Wer verschiedene üppige Speisen häufig geniesst, bekommt leicht Podagra … Die Weiber bekommen es nicht so leicht, die schädlichen Säfte gehen in die monatliche Reinigung über, und so werden jene vom Podagra frei.
-- Hildegard von Bingen: Heilwissen
先に、「女性は痛風にかからない、月経がなくなってしまわない限りは」»Mulier non laborat podagra, nisi ipsi menstrua defecerit« とのヒポクラテスの見解を紹介した(「古典古代と痛風」参照)が、聖女ヒルデガルトはその根拠をきっぱりと言い切っている。当否は別にして。

また、セネカはルキリウスに宛てた書簡で、「女性でも男性と競うように不摂生をしているので、もはや痛風から免れることはない」と書いていたが、最近ネット上で「痛風は30年間で4倍に! 女性の“オッサン化”に思わぬ危険」(****)という記事を見た。我が国女性の西欧化もついに「男性と競うように不摂生」する、セネカの時代に達したかと感慨無量である……
* Jochen Kuhl: Gicht und Wassersucht: Die Krankheiten der Hohenzollern (2012) この記事は aerzteblatt.de の Archiv で読める。
** 「二代のフリードリヒ・ヴィルヘルム」とは、Friedrich Wilhelm II. (在位 1786–1797) と Friedrich Wilhelm III. (在位 1797–1840) である。
*** "Heilwissen" Hamburg, SEVERUS Verlag, 2015 / Kindle版 あるいは google の E-Book で入手できる。
**** 「痛風は30年間で4倍に! 女性の“オッサン化”に思わぬ危険」というタイトルの『女性自身』誌の記事(2017年6月14日)がメモに残っている。「痛風の患者数は、現在100万人ほどといわれるが、そのうち女性患者は6%。30〜50代の男性が圧倒的に多い。しかし、’92年に行われた東京女子医科大学の調査では、女性患者の割合は1.5%。実にこの30年で4倍に増加したことになる。」