拾遺集、六 Aus meinem Papierkorb, Nr. 6ドイツの3K drei Kもう20年くらいになるだろうか、3Kという言葉が流行語になった。「きつい」「汚い」「危険」な仕事、職種を指す言い回しだった。この表現はまだ生きているのか、あるいはもう死語だろうか。ところで一世紀前のドイツにも3Kという表現があったらしいと、ある小説を読んで知った。ヨランテ・マレス『欲望。大戦争前のベルリンの小説』だ。ここで「大戦争」と呼ばれるのは第一次世界大戦のこと。38歳になる未婚の彫刻家、賭博狂いの夫と別居中の若妻、声楽家を目指す貴族の娘など女性ばかりのベルリンの下宿にアメリカから来たウェッブ嬢も住んでいる。小説冒頭でウェッブ嬢がこう言う。こちらに来て驚くことばかりです。ドイツの女性はエレガントでなく服装には無頓着、子だくさんで、料理、洗濯と家事に明け暮れる主婦ばかりだと聞いていたのが、来てみると全く違っていると。 「ドイツ女性はエレガントなレディーです。流行の服を身につけて、シックで艶っぽい方面にも通じている。[中略]お国のご婦人方について3K、つまり--教会、キッチン、子供--なんて言いますが、これは違ってますよね。皆さんとても楽しんでいらっしゃるんですもの。」19世紀半ばから20世紀の初め、ドイツは遅ればせの産業革命が進展し、プロイセンを中心に工業が発展、関税同盟による商業の振興、そして「鉄血宰相」ビスマルクによる普仏戦争の勝利とドイツ帝国成立、「グリュンダー・ツァイト」と呼ばれる会社設立ブームの時代を経て目覚ましい経済発展が止まることなく続いた。石炭と鉄の伝統的重工業、電機と化学という技術産業、そして貿易通商まで、ドイツは世界の経済大国の一角を占める地位にのしあがったのだ。 プロイセンの首都からドイツ帝国の首都となったベルリンについて、世紀末には「世界都市」という言葉が使われ始めた。華やかな繁栄の一方で社会の利害の分極化、多極化が進み、伝統的な価値観、倫理観が揺らいでゆく。『欲望。大戦争前のベルリンの小説』はそういう時代を背景とした風俗小説だ。夫と別居中の若妻エッバ・ホルムはベルリンにやってきて2週間になるのに、まだ兄夫婦と会う日取りを決めることができない。それを聞いて彫刻家ロッテ・ヴンシュは、2週間の間に妹、義妹に会う時間が取れないことは、まさしく今風だと指摘する。 「言っておくけれどもね、エッバさん。わたしたち大都会の人間は自我教を信奉しているの。自分自身に帰依しているのね。際限のないエゴイズムが礼節、道徳、義務感の根幹を揺るがしている--一番悪いのはそれが家族の絆を掘り崩していること。みんな自分のために生きていて、他人はどうでもいいのよ。」かく語るロッテは、彫刻を学ぶためベルリンに出てきて、師事する教授のアトリエでヌードモデルになることを強要され、挙句にレイプされそうになったという経験があり、それがトラウマとなって「愛情」というものが信じられなくなっている。ロッテは次のような決意で創作に向かっているのだ。 人間の中の動物、お前を、お前を私の芸術を通して定着するんだ。欲望というお前を、快楽への渇望を、それを人々に示してやる。血が凍るようなぞっとする相貌で、人々がそこに自分自身を見出して身もだえするものを。ドイツの3Kは皮肉なことに、産業化、都市化が進み、人々の欲望が露わになった時代にあって、以前の社会のモラルを象徴する言葉でもあったようだ。 著者のヨランテ・マレスという人はマイナーな作家で一般の文学史で名前を見ることがない。私が読んだのは『欲望。大戦争前のベルリンの小説』の他は『リリーの結婚。ある風俗画』(*)だけである。しかし20世紀初めのベルリンを舞台にした風俗小説を中心に相当数の作品があることが、古書店のカタログで分かる。(このころの大衆小説の常として発行年が印刷されないことが多く、以下に記されている年号は確かなものではない。) Lilli. Ein Sittenbild aus Berlin W. (o.J.; ca.1910)『リリー』と『リリーの結婚』は1919年に映画化(**)されているようだ。監督はヤープ・シュパイアー、配役はリリー役がミア・パンカウ、その友人のズーゼ役はレオポルディーネ・コンスタンティン、リリーの夫、医師フリーゼ役はブルーノ・アイヒグリューン等々と記録にある。 * 副題の表記、表紙は Ein Sittenbild aus Berlin W で、扉は Ein Sittenbild のみ。 モラルとタクト Moral und Takt第一次大戦前後のベルリンを舞台にして一連の小説を書いたランツベルガー Artur Landsberger (1876-1933)(*) は裕福なユダヤ人家庭に生まれた。大学で法学を修めたが堅気の道には進まず出版界に身を投じ、1907年、雑誌「モルゲン」を創刊する。多方面の縁故関係と財力にものを言わせて、編集長にヴェルナー・ゾンバルト(**)を招聘し、ゲオルク・ブランデス、フーゴー・フォン・ホーフマンスタール、リヒァルト・シュトラウスなどの原稿が紙面を飾った。りゅうとした身なりで、ベルリン西部に新しく拓けた繁華街クーダムを流し歩き、カフェやらバーやら阿片窟に頻繁に出入りして、その表と裏を知りつくした。そこから『ルー、コケットな女』 Lu, die Kokotte (1912) 『百万長者』 Millionäre (1913) 『女郎夫人』 Frau Dirne (1919) などが生まれた。彼の作品は多く〈風俗小説〉あるいは〈ベルリン小説〉と銘打ってミュンヘンのゲオルク・ミュラー社から出版されているが、ここに取り上げる『モラル--ベルリンの一家族の小説』 Moral. Der Roman einer Berliner Familie もその一冊だ。手元の版は1911年の発行となっていて、1910年に亡くなったジャーナリストで作家のO.J.ビーアバウムへ献辞がある。 この小説ではベルリンで事業を興して成功し、いまや顧問官の肩書を持つ実業家一家の生態が描かれている。奔放に育てられた娘が未婚の母になりかけたとき、両親はスキャンダルを糊塗するため、会社で雇用している幹部社員の中から適当な人間を選んで、君こそが会社を継いでくれる人物だと持ちあげ、娘と結婚させようとする。相手に選ばれた社員は、いぶかりつつも望外の成り行きに大喜びだが、娘はあけすけに妊娠のことを明かし、「私たちは二人ともこれが愛情による結婚でないとわかっている」と臆する気配もない。「これからあなたはいろいろなことに慣れなければいけないのよ」と念を押し、上流社会の生活について次のように言い放つ。 私たちの社会ではとても快適に生活しているの。あなたたちより間違いなく愉しくね。私たちは暗黙のうちに一致して、たぶん上流社会だけでの了解だろうけれど、一般に《モラル》と呼ばれるものをお払い箱にしたの。本当のところはずいぶん前からもう誰にも役立たない、ただただ煩わしいだけの時代遅れの強制でしかなかったもの。そしてこれこそ決定的な進歩を意味するの。つまりね、このモラルに代わって私たちには《タクト》があるの。ママなんか、タクトこそ人間の文化だと言っているわ。いずれにしてもモラルなんて陳腐で古臭く、子供部屋も社交も無いからタクトが持てない平民のためにだけあるのね。ここでの Takt は、われわれの知っているタクトとは違っているように思われる。日本語ではもっぱら音楽用語として「指揮、指揮棒」を意味し、「タクトをとる」はオーケストラの指揮をする(比ゆ的に、グループのリーダーとなる)という意味で用いられているだろう。 ドイツの辞書を見ると音楽用語「拍子」「規則的なリズム」と並んで Feingefühl (im Umgang mit anderen Menschen) という語義が載っている。「(他人に対する)繊細な感覚」ということになるだろうか。いまでは Takt が独立してその意味に使われるケースはまれだと思うが、taktvoll 「気配りのきいた」とか taktlos 「不作法な」とか Taktgefühl 「如才なさ」ならよく使われる。手元のフランス語、英語の辞書では tact は「機転・如才なさ」の語義だけが与えられていて、ドイツ語との違いが顕著だ。『研究社新英和大辞典』クラスの大辞典になってようやく「指揮棒の一振り」という音楽用語が現れる。続く項目の tactful は「a. 如才ない、機転のきく、思いやりのある」「b. 臨機応変の才のある、手際のよい」とあって、初出年が〖1864〗と示されている。 『モラル』以外に2冊を読んだだけだが、ランツベルガーの小説は「感覚・機知系」の〈タクト〉が頻出するので、ひょっとしたらフランス語・英語の影響のもと、19世紀末からその用法が広まっていったのかも知れない。それはまたブルジョア社会の成熟に伴う旧弊打破の一環、伝統的・倫理的な行動規範よりも繊細な対人感覚を尊ぶ時流のなかの一事象かも知れない。 念のためにと国語辞典を覗いてみると、なんとビックリ、日本語でもタクトが心理的な意味に使われたことがあったのですね。小学館『大辞泉』では (1) 拍子。拍節。(2) 指揮棒。に加えて、(3) 機転。如才なさ。 があり、有島武郎『或る女』から「もうそこには葉子はタクトを用いる余裕さえ持っていなかった」の例が取られている。そこで「青空文庫」から『或る女』をダウンロードして検索してみると、上巻に3箇所、下巻に2箇所の〈タクト〉があった。
* ランツベルガーの波乱に満ちた生涯は Till Barth: Artur Landsberger (1876-1933). Vom Dandy zum Haderer (Kritische Ausgabe 1/2005) にスケッチされている。 姉三六角蛸錦 Straßennamen都市ベルリンは宮殿と御猟場「ティーアガルテン」を結ぶ「ウンター・デン・リンデン」の並木植林から西への拡大がスタートした。1710年の地図( 「ベルリン物語 -14-」参照 )を見ると、城塞化によって二重都市ベルリン=ケルンの西、シュプレー支流と環濠の間に新都市フリードリヒス・ヴェルダーが生まれている。並木道北側のシュプレー河との間にはドロテーア・シュタットが造られ、続いてリンデンの南側に格子状の街区から成るフリードリヒ・シュタットが造成された。ここは19世紀には官庁街、銀行や出版社・新聞編集局の街区が生まれてベルリンの《シティ》が形成されてゆく。19世紀後半のドイツで、小学校の授業に「ハイマートクンデ」 Heimatkunde なる科目が登場した。郷土についてしっかり学ばせようという趣旨のようだ。たまたま手元にテオドーァ・コッタ著『ベルリンのハイマートクンデ』がある。これはベルリンの教師向けに書かれた参考書だ。プロイセンでは1854年に文部官僚フェルディナント・シュティールの主導によって「キリスト教信仰と祖国愛」を基本とする学習指導要領 Stiehlsche Regulative が制定されたが、この本の序文ではまさしくその精神に則って故郷の地理、歴史、文化を学ばせるという指導指針が示されている。 さて『ベルリンのハイマートクンデ』をここでとりあげたのは、道路名の記憶法なるものに興味をひかれたからだ。市内外の道路や広場、水路、鉄道などを順々に取り上げてゆく中で、格子状のフリードリヒ・シュタットについて、「よく似た道路の順序を覚えるのは難しくて、ありとある手段が考案されていている中に、さまざまな〈暗唱詩〉 Gedächtnißverse もある」として次の例をあげている。ウンター・デン・リンデンと並行して10以上の通りがあるが、 Unter den Linden, Behrenstraße, Französische Straße, Jägerstraße, Taubenstraße, Mohrenstraße, Kronenstraße, Leipzigerstraße, Krausenstraße, Schützenstraße, Zimmerstraße, Kochstraßeこれにコッホ通りの南に加わった二つの短い Puttkammerstraße と Besselstraße も読み込んで南からウンター・デン・リンデンまで北上する。 プットカマーとベッセルはライプチヒから来た射撃手クラウゼの部屋に料理人を訪ねる。彼らはそこで王冠とモールのハトを、菩提樹下のフランスのクマの猟師から買う。同様に南北道路についても紹介されている。こちらは東から西に数え上げていく。 リンデン通りを飾るはエルサレム教会の塔。エルサレムは辺境伯アルブレヒト熊公の訪問を受ける。王冠はプロイセンのシャルロッテとフリードリヒが戴くのだ。プロイセンの砲撃手はデュッペルの壁を粉砕する。プロイセン最後の王は、ケーニヒグレーツとセダンで勝利して、ドイツ皇帝ヴィルヘルムとなった。普仏戦争に勝利してドイツ帝国が成立した直後のヴァージョンなのだろう、「祖国愛」が横溢しているが、それはともかく相当無理にこじつけたという印象だ。これのどこが〈詩〉 Vers なのだろう。 時代がさがって、別の本にはまた違った暗唱法が紹介されている。ここではドロテーア・シュタットの、Georgenstraße, Dorotheenstraße, Mittelstraße から始めて北から南へと進む〈暗唱詩〉となっている。 ゲオルク氏はドロテーア嬢を連れリンデン通りの真ん中を散歩した。そこへ二頭のクマが現れ、これがフランス語を話した。次いで二人の猟師が現れ、ハトを撃った。そして現れた二人のモール人、王冠をライプチヒ門から運び出す。二人はひだ襟を付けていた。そこへ二人の射撃手が現れて、部屋に入るや料理人を殴りつけた。ドロテーア地区の3本の通り、ウンター・デン・リンデン、そしてフリードリヒ地区の11本の通りを北から順に読み込んでいる。さて、どうだろうか。ゲオルク氏、ドロテーア嬢はもともと人名ではあるが、
同じ碁盤格子の道と言っても、京都の通りを読みこんだ数え唄(*)は出来が違うと言わざるを得ない。これを歌えない京都の子どもはいないだろう。どうだ、ベルリン!? * 京都の通り名を覚えるわらべ歌については「姉三六角蛸錦」でグーグル検索すればいくつかのヴァリエーションの歌詞を見ることができ、さらに YouTube でメロディーを聴くことができる。 砕氷船? Eisbrecher?カール・H・ブリンクマンの小説『ヴァンツケ。大都会の風俗画』を読んだ。主人公パウル・ヴァンツケは16歳で孤児となる。そのままベルリンで暮らしてゆく目途も立たず、幼馴染のヴァルター・フリードリヒスに連れられてハンブルクに赴く。到着した日は、朝から酔っぱらった船乗りがいる港町で終日遊び歩き食べ歩いた後、歓楽街のビアホール Bierpalast に来た。 眩い明かりと音響に満ちた広いホールは満員だ。二人はようやくのこと、女性が一人だけ座っていてまだ席のありそうなテーブルを見つけてそこへ行く。場馴れしていないパウル・ヴァンツケは椅子の脚に躓いて女性のビールをこぼしてしまう。ヴァルターが友人の不始末を詫びると、相手は「ここは初めてなの?」と尋ねる。「いや、ぼくは違うが、このパウルはハンブルクは初めてなんだ」と答えると、 「あら、ハンブルクは素敵よ」と女性はうっとりと囁くように言った。そのとき〈素敵 schön〉の S 音を歯の間から押し出すようにして Sch が二つに切断されたが、これがヴァンツケにはこの上なく素晴らしく聞こえた。この「砕氷船」はもちろん本当の船であるわけがなく、飲み物のことだろうと見当がつく。調べてみると、特に北ドイツでよく飲まれるラムと赤ワインと砂糖のお湯割りのようだ。「砕氷船」という俗語表現は、シュレースヴィヒ・ホルシュタインとメクレンブルク・ポンメルンで多く使われ、20世紀初めころから北ドイツの文献に出てくるとのこと。同じくラムと砂糖を使った熱いアルコール飲料にイギリス生まれのグロック Grog というのがあるが、こちらは今でもその名前で普通に飲まれている。 ところでカール・H・ブリンクマンはどうやら無名の作家らしく、一般の文学史に名前が出ないし、ネットで調べても『ヴァンツケ』の著者として古書店のカタログで検索されるだけだ。たまたま『ヴァンツケ』の巻頭に「序にかえて Zum Geleit! 」があり、Karl Dopf なる人物(*)が著者の来歴を紹介をしているので、ここにメモしておこう。 居酒屋店主を父としてベルリンに生まれ、小学校を卒業後、葉巻職人の徒弟となった。父の死後、放浪生活に入る。バルチック海の蒸気船のボーイ、パリで菓子の見習い職人、ハンブルクで邸宅の使用人、カールスバートで給仕、外国航路船のスチュワード、ブリュッセルで行商、米国カリフォルニアで日雇い、南米のポルト・アレグレで新聞売り、ドイツに戻って酒場の芸人、旅回りのサーカスの芸人兼雑用係り、そしてベルリンの映画館で解説者、弁士、マネージャー、1910年のブリュッセル万博では娯楽施設の呼び込み、などなど。第一次大戦が勃発したので帰国して入隊、1915年11月、セルビアで負傷、傷痍兵として帰国。映画の説明役の訓練を積んで、1918年ギュストローの映画館で働きながら新聞に映画批評を掲載、併行して詩や短編を発表する。戦争が終わって革命の熱気渦巻くベルリンに戻り、旧友から菓子店の経営を任される。これが行き詰まると自ら作詞作曲する流しの歌手となる。まあなんと、すごく多彩な職歴ですね。詳しい説明は無いので仕事の内容はほとんど分からないのですが。これを見ると『ヴァンツケ。大都会の風俗画』は、船員とか外国での仕事、映画関連(**)の職業は省かれているが、あらまし自らの体験をもとに描かれていることが明らかだ。小説のストーリーは次のように展開する。 主人公はハンブルクでカフェバーのような店に職を得るが、夜遊びを続け、店の酒をくすねたのが発覚して解雇されベルリンに戻る。そのころ第一次大戦が勃発、従軍して(セルビアまでの行軍の模様が詳しく描写されている)脚と腕に銃弾を受けて除隊し帰郷、幼馴染の友人ヴァルターから菓子店の営業(儲けのからくりも説明されている!)を任され、初めこそ順調だったが、ワイン酒場で知り合った美しい女性と親しくなり、その浪費もあって経営が成りゆかなくなってきたとき、ヴァルターからその女性が娼婦だと教えられる。そんなある日、発作的に路上強盗を働き、通行人に取り押さえられる。懲役5年の判決を受け監獄に収容された夜、嵐で割れた窓ガラスの破片で血管を切って自殺、という結末。 先の紹介文によるとブリンクマンは小説執筆時はハンブルクに居を定めて "Verfehmte"(***) の編集を引きうけ、Ehrenfried Wagner, Ketty Gutmann, Hanna Grothendieck など数名のハンブルクの文士とも親しく交際し、今後の創作活動に期待が寄せられているというが、さて、その後はどうなったのだろう。 * カール・ドップとは何者か。ハンブルクにいた同名のアナーキスト Karl Dopf (1883-1968) かもしれない。ブリンクマンを、ドイツのゴーリキーになる小説家、と持ちあげたりしているところを見ると可能性はありそうだ。 結婚か建築か Heiraten oder bauen軍人王(兵隊王)と呼ばれるフリードリヒ・ヴィルヘルム一世治下のブランデンブルク・プロイセンに一人のフランス人が亡命して来た。名をヴェルヌゾーブル François Mathieu Vernezobre de Laurieux という。彼は、実はあの「ミシシッピ計画」で巨富を築いたのであった。18世紀の初め、仏英両国で過剰な投機による信用紙幣あるいは株価の急騰と暴落という、いわゆるバブル現象が生じた。フランスでは「ミシシッピ計画」、イギリスでは「南海泡沫事件」と呼ばれる経済事件である。「ミシシッピ計画」はスコットランド出身ながらフランスの財務総監にまで登りつめたジョン・ローの引き起こした「バブル経済」だ。彼はロンドンでプロの賭博師として資金を蓄え、大陸に渡って各地の経済システムを観察した。そしてフランスの多大な財政赤字の解消に不換紙幣の導入など独自の金融政策を提唱する。北アメリカの植民地における開発・貿易にあたるミシシッピ会社を巧みな戦略で宣伝し、この会社の株に投機買いが集中した。もちろん、数年でバブルは弾け、「ミシシッピ計画」は破綻する。 われらがヴェルヌゾーブルはジョン・ローの秘書官として働く中、「ミシシッピ計画」で莫大な財を成した。機を見るに敏であったのだろう、バブルが崩壊してミシシッピ会社の株が紙切れと化す前に手を引いたのである。そしてそれを持ってベルリンに来た。国王はこのような大資産家の亡命者はもろ手をあげて歓迎、男爵の爵位を与えた。いかなる経緯で蓄財したかに拘ることなど微塵もなかった。 ヴェルヌゾーブル男爵には娘がいて、うち二人は未婚だった。陸軍大尉フォルカード Kapitän von Forcade(*) がその一人と結婚を望んだが、この大尉、ハンス・エルマンによれば「歳をとって、醜くて、藪睨み」(**)という男だったからか、娘の方はきっぱりとはねつける。国王の従兄にあたるフリードリヒ・シュヴェート辺境伯が乗り出して父親と掛け合うが奏功しない。フォルカード大尉は何としても富豪男爵と縁を結びたく、もう一人の娘にアプローチし、このときは何と、国王自らが取り持ちにあたって、勇敢で正直な士官だから娘を嫁にやれと父親に迫った。父の男爵もこの婚姻を進めようとしたがどうにも娘を説得できず、「娘にはその気がございません、別の娘も同様で」と男爵は王に答える。娘が直々王に「実は他に意中の人がございます」と訴える事態にまでなった。 「この結婚話を無しにするために」は、男爵はあらゆる熱意と忠誠を示す腹積もりで、フリードリヒ・シュタットに屋敷を建てるという王の「御意にかなう」意向を示した。もしもフォルカード大尉に対する娘の「抗いがたい嫌忌の情にご配慮を賜り」、娘の自由な婿選びをお許しいただけるならと、それがヴェルヌゾーブルの条件だった。老境の男爵は娘の結婚問題で王の意思に同意するようなことはできなかった。パリですでに宮殿のような館のプランを作ってあったので、それを建てる意向を示した。だがその代わりと、重ねて望んだのは「国王陛下が、娘に自らの好尚で夫を選ぶ自由をお許し下さる」ことだった。なにしろフリードリヒ・ヴィルヘルム一世はベルリンに王都の威容を与えること、とりわけフリードリヒ・シュタットの整備に熱心( 「ベルリン物語 -15-」参照 )だったので、1736年12月18日に「娘御の自由な婿選びを許す」お達しが下された。こうして翌年早々に「結婚を免れるための邸宅」建設が始まり、ヴィルヘルム通り102番に壮麗なロココ式邸宅が建つこととなった。 ヴィルヘルム通りにはシュヴェリーン邸、ラーツヴィル邸(シューレンベルク邸)など貴族の大邸宅が続々建って、それらが後には大統領官邸、帝国官房になり、やがてドイツ帝国の官庁街が形成されていくが、ヴェルヌゾーブル邸は男爵の死後プロイセン王家の所有に移り、王女アンナ・アマーリェが住んだあと、1830年にはフリードリヒ・シンケルが改築してアルブレヒト王子宮 Prinz-Albrecht-Palais となり、その三十年後にはシンケルの弟子アドルフ・ローゼの手で改築され、第一次大戦後は外国賓客の宿所として利用されたあと、ゲシュタポ本部となるという数奇な運命をたどった。現在では戦後の廃墟を整地し、ナチスの記録展示や催し物を行う「恐怖のトポグラフィー」 Topographie des Terrors が建てられている。 * フランスから亡命してきたユグノー Jean Quirin de Forcade (1663-1729) を父とする兄弟の、兄 Friedrich Wilhelm Quirin von Forcade Marquis de Biaix (1698-1765) あるいは弟 Peter Isaak von Forcade (1702–1775) か? オチがないと Witzsucht真面目で勤勉だ、というのがドイツ人についての一般のイメージで、ひょっとしたら「冗談も通じない」と思われているかもしれないが、必ずしもそうではない。特にベルリンの人たちは昔からウィットに富んでいるというのが定評だ。パウルス・ポッター『シュプレーの灯り』に次のような証言が引かれている。ベルリンの人々にはいつも面白いことを言おうとする性癖がことさらに際立っている。いわゆる文化人や立派な社会人までが何か面白いことを言わねばと自分の脳みそを責めつけ拷問にかけている様子ときたら実に愉快な見ものだ。この性癖は当地ではもう疫病のごとく蔓延している・・・1798年に出版された書物からの引用とのことだが、これを読んで「ベルリン」を「大阪」に取り換えてもそのまま当てはまりそうなので笑ってしまった。こんなやり取りがあったとしよう。 A: きのうなあ、難波の地下街で木村に会うたで、ほら高校の同じ組にいた木村。ここで少しの間が生じる。Bは話のオチを待っているのである。ちょっと待って後が続かないと「何や、それだけかいな」となる。大阪ではそうなる。「休みやからやろ」のあとにせめて「ナンパしとるんや」と、難波と軟派(と難破)くらい掛けないと収まりがつかない。話にオチ(下げ)をつけようとする性癖は大阪人にとって宿痾のようなもの。親の葬式という場でも笑いの種を見つけるのだ。 『シュプレーの灯り』の副題は Berliner Geist, Witz und Humor だが、「ベルリン人の才知、機知、諧謔」と訳すか「ベルリン人のエスプリ、ウィット、ユーモア」とするか、いずれにしてもこの三つを定義しようとするとなかなか難しい。この本の序文で著者は以下のように言う。 才知、ウィット、ユーモア、これらをどう説明すればいいだろうか。才知(フランス語でエスプリ)とその、ちょっとしつけの良くない弟であるウィットは、ともに理性の子供だ。ユーモアは心情から生まれるもの、善意、忍耐、思いやりが前提にある。また他人の意見に対する幾分かの寛容もある。ちなみにユーモアは習って身につくものではない。なかなか気の利いた定義ではないか。ベルリン人がウィットに富んでいるのは、17・18世紀にフランスから大勢の新教徒(ユグノー)が亡命してきたからだとの説がある。1685年に大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムが「ポツダム勅令」を発して新教徒難民の受け入れを表明すると、一万五千人を超えるユグノーがブランデンブルクに逃れてきて、そのうち六千人がベルリンに住み着いた。1700年にはベルリンの人口の20%がフランス人という状況だった。かくしてセーヌの町のエスプリがシュプレー川のほとりに舞い降りることになったのだ、と言うのである。 |