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拾遺集、弐拾五 Aus meinem Papierkorb, Nr. 25


ドゥスマン Dussmann

ある知友からメールが届いた。「昨日読了したヘンリー・ヒッチングズ『この星の忘れられない本屋の話』(ポプラ社)は本好きの人間にとってはとても面白い本でした。世界各国の15人の作家による「本屋」にまつわるエッセイ、アンソロジーです。思わず自分の体験を重ねてしまいました」 この人が面白いと言うならと、さっそく図書館で借り出してきて読みました。うむ、間違いなく、楽しく面白い本でした。

まず編者ヒッチングズの序文で、彼自身の九歳、十二歳、十八歳、二十六歳……四十一歳のとき、と1ダースばかりの体験が披露される。これだけでも十分面白いエピソード集になっているが、「本書には、本屋そのものを誉め称え、その価値と魅力を綴ったエッセイも収められている。どれも特定の本屋や、特定の地域における本屋文化への愛に溢れたものだ」と寄稿文の紹介をしている。作家と書店の関りには想像以上に多様な形態があることにまずは感嘆させられるが、全体を通して、町の小さな書店・古書店が次第に消えてゆくこと、客と店主の牧歌的なつながり薄れてゆくことに対する哀惜が基調に流れている。大型書店の開店による個人経営店の駆逐、Amazon や AbeBooks などのネットショップの興隆がもたらす、書物探索・購入風景の変化への思い……

ただ一篇、ダニエル・ケールマン「ある会話」だけは雰囲気が違っている。このエッセイの原題は "Dussmann: A Conversation" で、邦題には最初の語が省かれているが、それを補って訳すと「ドゥスマン:ある会話」である。

二人の男性作家の対話という構成である。本屋の話をしようと一人目の F が持ちかけると、二人目の S がそんな必要があるかい、とのやりとりで始まる。F がぼくらは本で生計を立てているではないか、と言えば、S は本の売り上げだけでは食っていけないから、読書会やトークショーをやっている……という具合に、妙にあけすけな会話が始まる。

F 本屋がもっとしっかりしてくれたら、きみも本で食っていけるんだろうけどね。
ぼくがもっと面白い本を書けば、と言わないのがきみのいいところだよ。でも、本屋のせいにするのはおかどちがいだ。大きい本屋であろうと小さい本屋であろうと、本屋に責任はない。
ぼくは小さい本屋が好きだね。
それはぼくも同じ。
店主が客のひとりひとりと言葉を交わすような小さい本屋には、情熱と使命感がみなぎっている。
素晴らしいね。
そういう本屋がいまだにあることを、ぼくはうれしく思うんだ。
同感だよ。

このアンソロジー全体を通しての基調は小さな本屋、店主が使命感を持った本屋へのオマージュである。ここまでともかくも安心して耳を傾けてきた読者は、続く会話で面食らう。

F だけどそういう本屋にはぼくは行きたくない。
ぼくもそう。
本屋ではだれにも話しかけてほしくないんだ。
情熱と使命感は、ぼくも勘弁してもらいたいね。ぼくには必要のないものだ。使命感なら自分で持ってるけど。
本当に?
うん。いや。まあどっちだっていいじゃないか。自分ではよくわからないことだ。とにかく、情熱と使命感といえば、いいものと相場が決まっている。
それはそうだ。

おやおや、なんだこれは、と読者は戸惑うのではないか。店主が客のひとりひとりと言葉を交わすような本屋がいいと持ち上げながら、自分は客としてそのような書店には行きたくない、と言い放つのだ。

S でも、ぼくには必要ない。ぼくが望んでいるのは……。
なんだい?
つまり、そっとしておいてほしいんだよ。それがいちばんだ。
確かに、そうしてもらえるとうれしいね。
だからぼくはドゥスマンが好きなんだ。

ここで原タイトルにあった書店が登場する。《ドゥスマン》はベルリンの中心部に店舗を構える大型書店で、何しろフリードリヒ・シュトラーセ駅からウンター・デン・リンデンへ向かうとすぐ左という、まさに目抜きの場所にあるので、私もベルリンに行くたびに立ち寄って本やらCDやら文具を買ったところである。F「ひどいところだろ」 S「まったくひどい。ドゥスマンにも魅力なんてひとつもないんだけれど、本だけはある」と二人は評するが、私の記憶では日本の大型書店とそれほど変わらない雰囲気の店であった。最後に訪れたのは2009年のことだから、もう10年近く前になる。いまの店の様子はどうなのだろうか。

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このエッセイの筆者ダニエル・ケールマン Daniel Kehlmann は1975年、ミュンヘンに生まれ、ウィーン大学で哲学とゲルマニスティクを専攻、在学中から小説執筆にも手を染め、28歳で出した長編第三作『僕とカミンスキー』Ich und Kaminski (2003) は20以上の外国語に訳され国際的に名を知られるに至った。2年後の『世界の測量』Die Vermessung der Welt (2005) が発行部数200万部を超える大ベストセラーとなり、その後も『名声』Ruhm. Roman in neun Geschichten (2009) など、長編小説、短篇小説、エッセイ、評論を続々と発表し、ゲッティンゲンやニューヨーク大学で講師も勤める、現在最も注目されているドイツ人作家と言えよう。ここにタイトルを挙げた長編3作はいずれも瀬川裕司氏の訳で日本語版(*)が出ている。

私は瀬川氏の日本語訳でしか読んでいないが、ケールマンの小説には話がかみ合わないやり取りが頻出する。一見頓珍漢だが意味深長な、あるいは意味深長に受け取ることを揶揄するような対話に溢れている。さらに言えば、読者を(愚弄とは言わないまでも)翻弄するような、どんでん返しの連続である。ドゥスマン書店についてのエッセイは、そのような彼の文体のサンプルを読むような気にさせられる。この対話も自らを F と S に二分して、あるいはその二人を見つめる(表には出ない)もう一人とに三分して書いているのだろう。以下、気になった、あるいは気に入った箇所を抜書きしておく。

F ドゥスマンでは作家の読書会なんかもやっているのかな?
もちろんだよ。
例えばどんなふうに?
それは知らない。本の売り場から離れたところにある、特設のイベント会場でやってるんだ。買い物中でも作家のおしゃべりが聞こえないって、素晴らしいと思わない?
読書会は好きじゃないのかい?
そりゃそうさ、読むなら自分で読むよ。学校で読み方を習ってからは、自分で本を読むのに、特に問題を感じたことはないね。
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ベルリンとドゥスマンが同じものだって?
雰囲気という点では、まちがいないね。冷たくて人間味がない。そして魅力に乏しい。それでも行くだけの価値はあるし、居心地がよくて、メインストリームの文化もマニアックな文化も充実している。
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だけど、みんなはベルリンがクールな都市だと言うけれど、ドゥスマンは全然クールじゃないだろ。
そもそも、そのクールってやつがいったい何を意味しているのか、ぼくにはさっぱりわからないんだけどね。仮にそれがわかったとしても、都市がクールでなきゃいけない理由がわからないし、クールな都市を具体的にイメージできたとしても、ベルリンがクールだとする意見は、この町を過剰に美化した主張だと言わざるを得ない。実際のベルリンは、人間味がなくて醜悪だけど、それでも最高に楽しいんだ。人は誰だって、いろんなものや人や場所や生き方の中から、自分に必要なものや、興味を惹かれるものを見つけ出すものなんだよ。
つまりきみは、ドゥスマンにはそれがあると言いたいわけだね。
そういうこと。派手さはないけれど、多彩さと静けさ、客観的な機能性と幅広い品揃えがあるんだ。
だけど、雰囲気と魅力が完全に欠如している――
雰囲気が欲しい人はろうそくに火を灯して風呂に入ればいいのさ。魅力は、ぼくが自分で持ってるからなくてもいいんだ。
本当にそう思うのかい?
思うね。ものすごく魅力的だよ! そして、それ以外のものは……。
それ以外のものは?
すべてドゥスマンに揃っている。

クールってやつがいったい何を意味しているのか、私もわからない。雰囲気が欲しい人はろうそくに火を灯して風呂に入ればいい。けだし名言である、かな? それで一冊くらいはドイツ語で読んでみようと AbeBooks へ "Die Vermessung der Welt" を注文しました。本体 1,50 €、送料 4,95 € です。
* 『世界の測量 ガウスとフンボルトの物語』(三修社、2008年)
『僕とカミンスキー 盲目の老画家との奇妙な旅』(三修社、2009年)
『名声』(三修社、2010年)

クラック claque

ヨーゼフ・ショスタール Josef Schostal という人物をご存じだろうか。よほどのオペラ・ファン、それもオペラの周辺・裏面に関心を向ける偏奇な趣味の持ち主でもなければ、さっぱり思いつかないのではないか。特にオペラ愛好者でもない私がその名を知っているのはなぜか、種を明かせば、ヴェックスベルクの自伝エッセイで知ったのである。

ヴェックスベルク Joseph Wechsberg (1907-83) という作家その人もあまり知られていないだろう。いつだったか、たまたま『ブルー・トラウトとブラック・トリュフ』"Blue trout and black truffles" (1953) (*)を読んだのがこの作家を知るきっかけとなった。副題に『エピキュリアンの遍歴』 "The Peregrination of an Epicure" とあるが、幼時の食事への関心の目覚めから、パリ留学時代の思い出、船上楽団の一員として乗り組んだ客船のレストラン、そして世界各地の料理のことなどを自伝的に書いたもので、パリ留学時代の思い出に関してはこのサイトの「パリの定食屋 prix-fixe restaurant」で紹介しました。この本が実に面白かったので、他の作品も英語・ドイツ語で集めて読むようになった次第。いくつかはドイツ語中級・講読クラスのテキストとして使ったこともある。

チェコの都市オストラヴァ生まれのユダヤ人である著者は経済や音楽を学びつつ、自由奔放な学生時代を送っていたが、ようやく法学で学位を取って法律事務所で働く傍ら、さまざまな雑誌に自らの見聞・体験をもとにした記事を送っていた。ナチス時代、祖国がドイツに併合され、1938年にアメリカに亡命した。アメリカ国籍を取得し軍隊に入って各地を巡り、戦中からジャーナリストとして週刊誌「ニューヨーカー」≪The New Yorker≫ などへの寄稿を重ね、こうして本格的な作家活動が始まったので、よって英語の著作が多いのである。

そんな一冊に "Looking for a Bluebird" (1944 / Penguin Books 1948) がある。これは1949年に "Ein Musikant spinnt sein Garn" というタイトルで、戦後派新進作家の集まり「47年グループ」≪Gruppe 47≫ の創立メンバーの一人、アンデルシュ Alfred Andersch によるドイツ語訳が出ている。これも自伝的な短編集であり、中の「クラックの日々」"Mein Leben in der Claque" で、ウィーンの音楽生時代に国立オペラ劇場でショスタールのもとで活動していた経験を語っている。冒頭の一節はこうである;(原文の英語版と異なる箇所もあるが、本稿では主としてドイツ語版をテキストに用いる)
メトロポリタン・オペラの休憩中にお喋りをした人は、大多数が常設のクラック Claque というような考えを認めないようだ。卑しい非難されるべき仕事と呼ぶ人も少なくない。にもかかわらず常設のクラックが、ガッティ‐カザッツァが総監督であったころまではメトロポリタンにもあったし、ミラノのスカラ座、パリのオペラ座、プラハの国民劇場、ワルシャワのオペラにもクラックが常駐していて、ワルシャワでクラックのリーダーをしていた若者にはアルトゥール・ロジンスキーという名前もあった。ウィーンの国立オペラではクラックは決して非難されてはいなかった。一九二〇年代の半ば、私はそのメンバーの一員であった栄誉を有している。
Sehr viele Leute, mit denen ich mich während der Pausen in der Metropolitan-Oper unterhalten habe, lehnen die Idee einer fest angestellten Claque ab; manche bezeichnen sie als ein billiges und schimpfliches Gewerbe. Trotzdem gab es eine ständige Claque auch an der Metropolitan, solange Gatti-Casazza Intendant war, und es existierten Dauerclaquen an der Mailänder Skala, der Pariser Oper, dem Prager Nationaltheater und der Oper in Warschau, wo übrigens einmal sogar ein Bursche namens Arthur Rodzinski als Claquenchef fungierte. Und es war nichts Schimpfliches an der Claque der Wiener Staatsoper zu finden, zu der ich die Ehre hatte, in der Mitte der zwanziger Jahre zu gehören. (S.79)
メトロポリタン歌劇場の話題から入るのは、アメリカの雑誌に載せるゆえのサービスであろう。ミラノのスカラ座総監督だったガッティ‐カザッツァ Giulio Gatti-Casazza (1869–1940) は、1908年から35年にメトロポリタンの ≪general manager≫ を勤めた。その時、イタリアの例に倣って組織的クラックを導入したとされている。アルトゥール・ロジンスキー Artur Rodziński (1892-1958) は1920年代に渡米し、フィラデルフィア管弦楽団、ロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団を指揮。1933年から1943年まで、クリーヴランド管弦楽団の音楽監督に就任した。こんな大物もクラック経験者だった。
クラックのリーダーはショスタールといった。彼はグスタフ・マーラーが監督時代にクラックになった。そして続けてスコッティ、ヘッシュ、ティッタ・ルッフォ、シャリアピン、ガリ=クルチ、ファラール、カルーソーのために働いたのだった。クラックは若い三十名から四十名の良きオペラの信奉者から成っていて、そのほとんどはウィーン・コンセルヴァトリウムか音楽・演劇アカデミーの、私もそうだが、さほど裕福ではない学生だった。懐に二シリングあると、それを夕食よりもオペラのチケットに費やすのである。とは言え――たまには食事も摂らなければならないので、我々はみなクラックに採用されようと努めたのであった。
Der Chef der Claque hieß Schostal. Er war unter Gustav Mahler Claqueur geworden und hatte abwechselnd für Scotti, Hesch, Titta Ruffo, Schaljapin, Galli-Curci, Geraldine Farrar und Caruso gearbeitet. Die Claque bestand aus dreißig bis vierzig jugendlichen Anhängern der guten Oper, von denen die meisten, wie ich selbst, nicht allzu bemittelte Studenten am Wiener Konservatorium oder an der Akademie für Musik und darstellende Kunst waren. Wenn wir zwei Schillinge hatten, gaben wir sie eher für ein Opernbillet aus als für ein Abendessen. Immerhin -- hin und wieder mußten wir essen, so daß wir alle versuchten, in die Claque aufgenommen zu werden. (S.80)
ショスタールは「グスタフ・マーラーのもとでクラックになった」という。これはちょっと首をかしげるところ。マーラーが指揮者・総監督として「ウィーン宮廷歌劇場の黄金時代」を築いたとされるのは1897年~1907年のこと。ここで語られている1920年代からは相当古い。それに別の箇所では、「クラックの名手としてのショスタールは、有名なテノール歌手カール・アーガルト・エストヴィヒによって見出されたのであった。それは1918年のある夜、ショスタールは当時は常連の立見席マニアでしかなかったが、……(S.94) と、その経緯を書いている。こちらの方が正しいのではないか。また、グスタフ・マーラーというカリスマ的な歌劇変革者は、清新で緊張感あふれる新時代の芸術性の高いオペラ上演を目指した。岩下真好『ウィーン国立歌劇場』[世界の歌劇場] 音楽之友社 1994)(**)によると(これはコンパクトながら質の高い解説書)、「グスタフ・マーラーの劇場改革」の項に、次のような記述がある。
マーラーは、劇場の習慣を改めることから改革に着手した。まず、悪名高い雇われ拍手屋を劇場から閉め出し、また、上演中に客席を暗くすることや開演後の遅刻者の途中入場を認めないといった規則を導入し、それを徹底させた。これが、宮廷歌劇場を貴族や裕福な市民たちの娯楽と社交の場から厳粛で高度な芸術の場に高めようとするマーラーの戦いの始まりだった。(29頁)
「悪名高い雇われ拍手屋」とはまさにクラックのことだ。マーラーの後、フォン・ワインガルトナーが総裁 (1908-1911 / 1935-1936) また指揮者 (1900-1938) を引き継いだ。同じ『ウィーン国立歌劇場』によると、「1908年一月から始まったワインガルトナーの総監督としてのポリシーは、マーラーの遺産を出来るかぎり消し去ろうというものだった……ドイツ語による軽喜歌劇の上演を好み、芸術性を重視するマーラーの方向からふたたび旧来の娯楽性への傾斜を強めていった」(35頁)のである。

1914年に始まった第一次世界大戦が1918年に終了して、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊、オーストリアは共和国となり、「宮廷歌劇場」は「国立歌劇場」へと変わった。リヒャルト・シュトラウスとフランツ・シャルクが共同総裁 (1919-24) に就任、1920年からは学者肌のカール・アルヴィンが (-1938) 指揮者を務める。ショスタールがクラックのリーダー claquechef になり、ヴェックスベルクがそのメンバーの一員として活動していたのはこの時であった。彼はひょっとしたらマーラーとシュトラウスとを取り違えたのかも知れない。

クラックの作戦基地は音が最もよく聞こえる四階バルコニーにあった(***)。一番左側、舞台が見えない柱の席にショスタールが着座して、10名ないし多い時は30名(演者の中に何人のクライアントがいるかによる)の、目立たないよう二人、三人に分けて配置したメンバーを指揮する。決定的な瞬間、ショスタールはキューを出し、背後に立つ三名の「将校」にちょっと頷く。彼らは控えめな、抑制気味の拍手を始め、残りの面々は大きい喝采を混ぜ、三秒の内に劇場全体が拍手喝采の波で揺れ動く、という段取りだ。
正しいタイミングにサインを出す、それには高度に発達した時間感覚が要求される。オペラのアリアは多くは高音の《延音》符で終わる、だから歌手はこの終りのブラヴォー効果にすべてをかける。拍手は最後の音符が終わって観衆がなお歌手の魔力に捉えられている、その瞬間に始まらなければならない。早すぎる喝采は、素人はみな遣りがちなのだが、舞台の男性歌手なり女性歌手が入念に積み重ねてきた効果を損なう。遅すぎると、オーケストラが次の曲を始めてしまい、自然発生的にオベーションの湧き上がるチャンスが過ぎてしまう。指揮者は歌手が幕の途中で喝采を受け過ぎることを嫌うもの、なにしろ早く家に帰って燕尾服と固い襟を脱ぎ捨てたいからだ。
Die Zeichen im rechten Moment zu geben, verlangte einen hochentwickelten Zeitsinn. Viele Opernarien enden mit einer hohen, "ausgehaltenen" Note, und die Künstler legen alles auf diesen abschließenden Bravoureffekt an. Der Beifall muß beginnen im gleichen Augenblick, in dem die letzte Note zu Ende ist und das Publikum sich noch ganz im magischen Bann des Sängers befindet. Falls man zu früh anfängt, wie es alle Amateure tun, bringt man den Sänger oder die Sängerin um den sorgfältig berechneten Effekt. Falls man zu lange wartet, hat das Orchester schon mit dem nächsten Stück begonnen, und die Gelegenheit für eine spontane Ovation ist vorbei. Dirigenten hassen es, wenn die Sänger im Akt zuviel Applaus bekommen, denn sie wollen nach Hause, um den Frack und den steifen Kragen ablegen zu können. (S.83)
上得意のマリア・イェリッツァや、彼らがひいきにしていたロッテ・レーマンが歌うときは特別な声援と拍手喝采を送る。そして、オベーションは劇場の外にまで溢れ出て、街路が祝祭空間となる。
マリア・イェリッツァは数年にわたって我々の一番の得意だった。イェリッツァが歌うときには単なる拍手やブラヴォーでは済まなかった。彼女のオベーションは戦略的に計画され完璧に遂行されねばならなかった。イェリッツァの出演する、例えば『トスカ』、『サロメ』、『死の都』、『黄金の西部の娘』では、ショスタールは手勢を二グループに分ける。最後の幕が下りると、一つのグループは、オペラ通りのアーケードの下で待機して、イェリッツァ夫人が楽屋口から出て車に乗るときのため、熱狂的な出迎えの準備をする。第二グループは、ショスタール直々の指揮で、夫人の住まいのあるシュタルブルク通り二番へ急ぎ、家の前で隊形を組んで位置につく。以降の手順は、大声で名前を呼号し、そしてショスタールは様々な指示を出す、例えばイェリッツァ夫人の車のステップに跳び乗れとか、家の扉を開けよとか。それから向かいのサンスーシー・バーに飛び込んで、道路が見渡せるところの電話機で、イェリッツァ夫人の信頼する秘書グレートルに、その場にいる人々の正確な人数を伝える。夫人が到着すると大きな歓声が上がる、彼女は急いで階上に上がり、数刻すると窓から小さな花束を《それぞれに一つずつ》投げ降ろす。その間、ショスタールは監視ポストから指令を発する。「もう一度お辞儀をお願いします!」とか「花束十七本、お願いします」と。どういう段取りなのか、この花束はいつもたっぷり用意されていた。
Maria Jeritza war einige Jahre hindurch unsere Hauptkundin. Wenn die Jeritza sang, war es mit bloßem Applaus oder Bravorufen nicht abgetan. Ihre Ovationen mußten strategisch geplant und meisterhaft ausgeführt werden. Bei einer Jeritza-Vorstellung von, sagen wir, "Tosca", "Salome", "die tote Stadt" oder "Das Mädchen aus dem goldenen Westen" teilte Schostal seine Kräfte in zwei Gruppen. Nach dem letzten Akt wartete die eine Gruppe unter der Arkaden in der Operngasse und bereitete Frau Jeritza einen begeisterten Empfang, wenn sie aus der Bühnentüre trat und in ihr Auto stieg. Die zweite Gruppe, von Schostal persönlich kommandiert, eilte zur Stallburggasse 2, wo sie wohnte, und nahm in Schlachtordnung Aufstellung vor ihrem Hause. Es erfolgte ein Namensaufruf, und Schostal erteilte die verschiedensten Anweisungen, wie zum Beispiel, auf das Trittbrett von Frau Jeritzas Auto zu springen oder ihr die Haustür zu öffnen. Alsdann sprang er in die Sanssouci-Bar gegenüber und rief von einem Telephon aus, von dem er die Straßenfront übersehen konnte, Gretl, Frau Jeritzas vertraute Sekretärin, an und teilte ihr die ganze Zahl der anwesenden Leute mit. Frau Jeritzas Wagen kam an, es gab eine mächtige Huldigung, sie eilte hinauf und erschien wenige Augenblicke später am Fenster, um kleine Blumensträußchen hinunterzuwerfen, "eines für jede Person", während Schostal von seinem Beobachtungsposten aus Befehle erteilte: "Bittschön, nochmal verneigen, gnä' Frau!", oder "Siebzehn Sträußerln bittschön!". Irgendwie war stets eine große Menge von diesen Sträußchen vorrätig. (S.94f.)
このような乱痴気騒ぎを微笑んで眺めるか、あるいは眉をひそめるか、人それぞれであろう。それはオペラを豪華絢爛な幻想世界と見るか、創造的な舞台芸術と見るかによると言えるかもしれない。『ウィーン国立歌劇場』で岩下真好氏はこう述べている。
……マーラーが推進しようとした芸術上のエリート路線とワインガルトナーがそのあと回帰した娯楽重視の大衆化路線との対立、マーラーからワインガルトナーへの交代そのものが、その後のウィーン国立歌劇場の歴史を考えるとき、ある種のシンボリックな意味を持っているように思える。ウィーン国立歌劇場は、その後も今日まで、そうした相剋、すなわち創造的で改革の意思と芸術的意欲とに燃える活気ある革新の時代と、そうした時代の行き過ぎを修正し、この歴史ある劇場にふさわしい安定した保守的な時代との相剋を繰り返してきている観がある。(35頁)
ショスタール・チームの一番のお気に入りの歌手、ロッテ・レーマンに対する特別のオベーションの、はらはら手に汗を握る展開、また別のクラック集団との息詰まる《抗争》シーンも描かれているが、長くなるので省略する。ご関心のある向きは "Looking for a Bluebird" に、直接当たっていただきたい。Penguin Books 版なら AbeBooks などでいまも数ユーロで入手できるようだ。
* Gerda v. Uslar のドイツ語訳 "Forelle blau und schwarze Trüffeln. Die Wanderungen eines Epikureers " (1979) がある。
** 「あとがき」に「……かつて筆者が監訳したアンドレア・ゼーボーム 編の『ウィーン・オペラ』(リボルポート刊)から多くの情報と示唆を得たことは明らかにしておきたい」とあるが、『ウィーン・オペラ: 栄光と伝統の350年』は、1869年まで/建築/歴代総監督とそのアンサンブル/舞台装置と衣装/バレエ/オーケストラ/ウィーン宮廷・国立歌劇場における主要作品初演一覧という構成で、現在でも日本語で読める最良のウィーン・オペラ解説書と言えよう。
*** この場所は現在でも特別な席として使われているようだ。野村三郎『ウィーン国立歌劇場: すみからすみまで』(音楽之友社, 2014)に、「……なぜなら観客席の最上階、ガレリーと次のバルコン席の舞台の見えない端の席に、楽譜が読めるところがあり、音楽学生、なりたての音楽家が総譜を見ながら聴いているからである。…… 」(217/218頁)とある。

クラック(続き)claque (forts.)

では「クラック」はいつ、どこで、どのようにして生まれたのだろうか。このタームからして恐らくフランス発祥のものだろうと予想がつく。まずはウィキペディアで、フランス語、イタリア語、英語、ドイツ語、日本語の順に当たってみよう。以下、それぞれの冒頭部分を引用しておく。
La claque est, au théâtre ou à l'opéra, un ensemble de personnes (les « claqueurs ») engagés pour soutenir ou faire choir une pièce par des manifestations bruyantes (applaudissements, rires, sifflets, huées, etc.).

Il termine claque è un francesismo di uso corrente (dal verbo onomatopeico francese claquer, "battere schioccando", come per esempio il battimani; analogo all'inglese to clap), che in italiano indica un gruppo organizzato di spettatori che applaude o dissente non spontaneamente, ma dietro compenso economico o di altra natura. Il termine è italianizzato in clacche e il membro di una claque è detto clacchista.

A claque is an organized body of professional applauders in French theatres and opera houses. Members of a claque are called claqueurs.
ドイツ語ウィキには claque はなく claqueur の項目がある。
Ein Claqueur (frz. claquer ‚klatschen‘) bezeichnet eine Person, die bei einem Theaterstück oder einer anderen öffentlichen Aufführung bezahlten Applaus liefert. Zweck des Claqueurs ist es, das Publikum zum Applaudieren zu bewegen. Die Gesamtheit der Claqueure in einem Theater wird „die Claque“ genannt.
日本語ウィキには、冒頭できちんと要点を抑え、そのあと結構詳しい(仏、伊、英、独より詳しい?)説明がある。
クラック(仏:claque、「拍手する」という意味の動詞 claquer より)は、「サクラ」あるいは「喝采屋集団、すなわち演劇・オペラなどの舞台芸術において、特定の公演を成功(時には失敗)に導く目的で客席から賛辞(や野次)を送る集団のことである。ほとんどの場合、興行主、劇作者、作曲者、俳優あるいは歌手からの金銭受領を対価とするプロ集団だった。
イタリアでも類似の組織が見られたようだが、どちらかというと、イタリア・オペラでは、ひいきのグループが歌手を応援したり、ライヴァル歌手をやじり倒したりする集団だったようだ。従ってパリ・オペラ座がクラック組織発祥の劇場と言えるだろう。オペラの上演、特に「グランド・オペラ」と呼ばれる大規模な上演は莫大な費用が掛かるので、興行主は公演成功のためにクラックを使うようになったのである。確実に効果を上げるため、時には100人を超えるクラックが «rieurs» 笑い屋、 «pleureurs» 叫び屋、 «chatouilleurs» そそり屋、 «bisseurs» アンコール屋などの役割を分担して活動したようだ。

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音楽学と歴史学の双方に通じた研究者による実に興味深いオペラの研究書がある。劇場運営と興行の成り立ち、作家、作曲家、歌手の関わり方、契約や報酬のことなど、オペラ上演を巡る音楽と社会史双方からのアプローチによる、耳新しいトピックが満載である。著者のミヒャエル・ヴァルターは1958年にギーセンで生まれ、マールブルク、ギーセン、シュトゥットガルト、バイロイトなどいくつかの大学研究所を経て、現在はオーストリアのグラーツ大学教授。(*)
Michael Walter: ≫Die Oper ist ein Irrenhaus≪: Sozialgeschichte der Oper im 19. Jahrhundert (1997)
≫Die Oper ist ein Irrenhaus≪ という書名は、オスカー・ビー Oscar Bie の著書『オペラ』"Die Oper" (1913) で、メロディーとアンサンブル、歌とオーケストラ、作曲家と台本作家など「8つの根本的矛盾」(**)をあげて、《オペラは不可能の芸術である》 "Die Oper ist ein unmögliches Kunstwerk" と述べたが、このフレーズとともにオペラ史を扱ったそこそこ大部の書物なら必ず引用される、《…劇場は精神病院でありオペラは治癒不能患者科である》 "...das Theater ein Irrenhaus und die Oper die Abteilung für Unheilbare sei" という言い回しから採られたタイトルである。従って引用符付き書名となっている。この著作には優れた日本語訳がある。書名も名訳である。
小山田 豊(訳)「オペラハウスは狂気の館――19世紀オペラの社会史」(春秋社 2000年)
以下、本書の紹介にはこの訳を使わせていただく。目次を見てみよう。
  • 序章
  • 第一章 イタリア――スタジョーネとインプレサリオ
  • 第二章 フランス――パリとオペラ座
  • 第三章 ドイツ――宮廷歌劇場と市立劇場
  • 第四章 台本作家
  • 第五章 オペラ歌手
  • 第六章 オペラ作曲家
  • 第七章 著作権
  • 第八章 「作品」の概念と著作権、そして契約の形態
  • 第九章 オペラと政治
  • 第十章 検閲とオペラ
  • 第十一章 オペラの観客
初めの3章で、三つの言語圏のオペラ興行について詳しく解説される。インプレサリオ impresario は普通「興行師」と訳されるが、スタジョーネ(公演シーズン)の興行計画を立て、作曲家との契約、歌手の雇い入れなどのプロデュースや関係官庁との連絡も行い、商業上のリスクも負っていたので「興行師」とはしなかった、と訳者の説明(16頁)がある。そのあとオペラを構成する一つ一つの役割と上演を取り巻く、多岐にわたる諸問題を、豊富な史料を駆使して解き明かしてゆく。

例えば人気のある歌手には「顕彰公演収入」Benefizeinnahmen というものがあった。いまは Benefiz といえばチャリティー公演をさすのだが、
スター歌手の収入の相当な部分は、顕彰公演によるものだった。ここでいう顕彰公演とは、一回の公演からあがる収益の一部、またはそっくり全部を、功績のあった一人の歌手に与えるもので、前もってその旨が告示されていた。一八三〇年代になってもイタリアでは、女性歌手が顕彰公演にやってきた観客にロビーであいさつし、脇に置かれた大皿にファンたちが現金を投げ込む、といった光景が時には見られた。しかし、本来は歌手の名誉をたたえるためだった顕彰公演も、はやくから営利目的のものになっていたらしい。契約の際に、顕彰公演の回数や――ヘンリエッテ・ゾンタークの場合のように――最低限の収入は保証されていたのである。もうひとつ、女性歌手にとっては、金額の確定出来ない、間接的な「収入源」があった。金持ちのファンから敬愛のしるしとして贈られる、宝石のアクセサリーがそれである。こうした宝石を身に着けて公の場に出ることで、彼女たちは自分のステイタスを誇示したのである。(小山田訳 230頁)
また、「作品」という考えについて、ドニゼッティのケースが実に興味深い。オペラを作曲すればそれが完成した「作品」とはならない。劇場の土地柄、歌手の顔ぶれで上演ごとに「適正化」が行われる。以下はほんの一例だ。
あるときドニゼッティは《グラナダのゾライデ》(一八二二)のテノール・パートをズボン役(つまりは女声)に書き直す必要に迫られた。テノール歌手が急死したためである。また《ドン・セバスティアン》をウィーンでの公演向けに切り詰めたこともある。この町ではかつてないほどの長い作品だったことが主な理由だが、このあとさらに数箇所削除したのには別の理由がある。ウィーンでは夜十時以降に帰宅すると、門番に心づけを与えなければならなかった。「オペラが長いせいで余分な小銭をとられるのはたまらない」と、ウィーンっ子が劇場から遠ざかるのは目に見えていたのだ。(小山田訳 328頁)
わずかな小銭が理由で「作品」の修正とは! ヨーロッパの都市では夜になると建物が施錠され、鍵を持つ夜警に開けて貰わねば建物内の住居に入れなかった。最近までこの風習が残る都市があった(「六文橋 Sechserbrücke」参照)が、10時を境にそのような違いが生じるケースは知らなかった。

オペラと政治、検閲の事情も詳しく論じられている。
政治とオペラの密接な関係は、十七世紀にこのジャンルが生まれたときからすでに存在していた。それは最初からオペラがもっぱら宮廷向けのジャンルだったことによる。宮廷がオペラを委嘱し、宮廷歌手に歌わせる。オペラは宮廷の威光の象徴だった。こうした機能を果たすのは、まず音楽それ自体である。宮廷にふさわしい、豪華絢爛たる音楽でなければならない。その点、宮廷で演奏される器楽作品とは違ったものが求められた。そしてもうひとつ、台本の意味内容も、やはり象徴的役割を負わされていた。たとえば《ティート帝の仁慈》などは、まさに良き君主の「慈しみの深さ」を表現したものにほかならない。
[…]
フランス大革命の時代を通じて、旧来のオペラ・セリアやトラジェディ・リリックの伝統がばったり途絶えたのはたしかだ。だが、たとえ前の時代に比べてオペラに現れた政治的傾向は違っていても、特定の政体の威光を示すという機能の点では、絶対主義の時代となんら変わりはない。革命の前後におけるオペラと政治の関係の変化は、あくまで相対的なものにすぎない。いまや絶対主義体制ではなく、革命政府を称えるときがきたというわけだ。(小山田訳 350/355頁)
最後の第十一章にわれわれの当面の課題であるクラックが取り上げられる。
フランスの観客を語る際にどうしても見落とせないのは、「サクラ(クラック)」の存在である。オペラ座には(少なくともヴェロン監督時代は)常にサクラがいた。観客と劇場職員の中間、それがサクラである。ヴェロン時代に彼らのまとめ役だったのが、オーギュスト・ルヴァスールで、彼の年収は二万から三万フランに及ぶと言われていた。現金による手当と切符の売り上げがその内訳である。ルヴァスールはオペラ座から切符をもらい、それを自分の裁量で売りさばいていたのだ。現金の出所はさまざまだった。たとえばデビューする歌手の家族がルヴァスールに金を贈り応援を頼むこともあった。ある作品がオペラ座で初演されるプレミエのときは、歌手や作曲家、あるいはその両方がルヴァスールにまとまった額を渡すこともあった。無料券は経営部だけではなく、歌手からも渡されていた(一公演当たり二枚から六枚を各歌手がもらっていたので)。そしてルヴァスールと配下のサクラたちは、そのつど歌手や監督としっかり契約を交わしている。(小山田訳 461/462頁)
オーギュスト・ルヴァスール Auguste Levasseur はクラック黎明期の大立者であろう。年収が二万から三万フランに及ぶとはすごい。当時、成功した台本作家で年収は5000~6000フラン程度、オペラ監督の年俸12000フラン、30000フランと言えば並みの作曲家以上、スター歌手(超売れっ子のヘリエッテ・ゾンタークやマリア・マリブランなどは別格)と肩を並べる収入である。イタリアのクラックについては以下の説明が与えられている。
パリとは違い、イタリアには、劇場にやとわれたサクラはいなかったようである。むしろ歌手が自分でファンたちを組織して、自分個人に拍手を送らせていた。彼らの多くは学生など、パルケットに座る客層である。しかしそれよりさらに多かったのは、ライバルを陥れるために、歌手やインプレサリオが相手側の劇場のパルケット客の一部を買収し、上演をぶち壊しにすることだった。自分の「応援団」を組織するという建設的なやり方をしていたのは、たとえば作曲家のゴバッティである。ゴバッティはボローニャ出身で、この町のファンたちは近くの町で彼の作品が上演されると聞くと、劇場まで彼と行動をともにし、いざ上演が始まれば盛大な拍手を贈ってゴバッティのカーテン・コールを執拗に求め、終演後はたいまつをかかげて練り歩いた。(小山田訳 466/467頁)
イタリアの「ひいき連」は劇場の外にまで出て、やはり街路を祝祭空間としたのだ。これがマリア・イェリッツァやロッテ・レーマンに対するショスタールのオベーションのプロトモデルなのだろう。『オペラハウスは狂気の館』は19世紀のオペラを扱っているので、ウィーン国立歌劇場のクラックやショスタールについては触れられていない。

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[付記]日本語ウィキでは、フランス語版にもドイツ語版にもない、ルヴァスールとショスタールについての記述がある。

[…]もっとも有名だったのは、オギュスト・ルヴァスールなる人物(1844年没)であった。オペラ座支配人であったルイ・ヴェロン(在任1831年 - 1835年)に雇用されたルヴァスールは、オペラ座から無料あるいは廉価で渡されるチケットを配下のサクラや一般客に売却して金銭を得るほか、作曲者や歌手からは別途金銭の受領があり、一説には年収2万-3万フランともいう。同時期パリの一般病院の院長が年収2,400フランから5,500フラン、パリ市内に15人しかいなかった商事担当法務官の年収が3万フランというから、ルヴァスールがいかに高収入を得ていたかが窺える。
[…] 1920年代ウィーンでは、ショースタールという者に率いられた部隊が活動していた。彼は自らの耳にプライドをもっており、好みのオペラ作品でしか活動しなかったし、気に入った歌手のパフォーマンスに対してはたとえ依頼がなくとも熱烈な喝采を送ったという。
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1944年2月19日号の ≪The New Yorker≫ 誌に掲載されたヴェックスベルクの「クラックの日々」には、
Shortly after the German occupation of Vienna, Schostal vanished and was reportedly sent to a concentration camp. He was a Roman Catholic and he hated the Nazis, but some former members of the claque still think that his fight with the clique was what was really responsible for his arrest.
という一節が記事末尾にある。ナチス・ドイツによるウィーン占領後、ショスタールは姿を消したので強制収容所に送られたという噂があったようだが、逮捕の原因は "click" と呼ばれた別のクラック集団との《抗争》とみるメンバーもいたようだ。"click" は「ウィーンの新聞でゆすりとの関連をおりおり指摘されていた」 (S.88) グループで、ことがあると躊躇なく暴力沙汰に及ぶ集団なので、ナチスとの親和性があったかも知れない。この末尾の文は単行本では省かれている。

1953年5月14日付 "Zeit" 誌に "Abschied vom großen Claquechef" という Otto F. Beer の署名入り記事が載った。
ニューヨークで近頃一人の人物が、ウィーンの国立オペラが絢爛と輝やいていた時代に重要な役割を果たし人物が亡くなった。彼には良い時代も悪い時代もあった。名前:ヨーゼフ・ショスタール。職業:クラック・リーダー。
In New York starb kürzlich ein Mann, der in den Glanzjahren der Wiener Staatsoper große Bedeutung hatte. Er machte schönes und schlechtes Wetter. Sein Name: Josef Schostal. Sein Beruf: Claquechef.
このあと彼の経歴がざっと説明されるが、ヴェックスベルクが "Looking for a Bluebird" に書き残したこと以上の情報はない。どんな経緯でウィーンを逃れ、アメリカに渡ったのか、ニューヨークのどこに住んで、どんな生活をしていたのか、「ヨーロッパから逃れてきた彼のクライアントがメトロポリタンで歌うとき、時々は仕事をした」とあるが、誰が歌うときに、どのオペラでどのようなオベーションをしたのか、詳しいことは一切語られていない。あえて言えば Josef というファースト・ネームだけが新しい情報だ。ヴェックスベルクのクラック体験記にはショスタールのファーストネーム(***)は書かれていない。

ヴェックスベルクの体験記の最後には「クラック・リーダーへのオベーション」が語られている。ショスタールはバレエにも情熱を傾けていて、グスティ・ピヒラー Gusti Pichler (1893-1978) やグレーテ・ヴィーゼンタール Grete Wiesenthal (1885-1970) がクライアントであった。ヴィーゼンタールは優れたバレリーナであり、また舞踊学校を組織して多くの少年少女を教えていた。ショスタールはある夜の上演に際して、格別に難しい〈鐘のダンス〉が終わったタイミングに拍手喝采を仕掛けることができないか、と持ち掛けられた。譜面を書き換えなければ不可能と思われる依頼を、彼は無謀にも引き受けてしまう。
その夜我々は、ショスタールが総譜を手にヴィーゼンタール夫人の〈鐘のダンス〉を追う様をしっかりと見守った。打ち合わせた箇所で彼はキュー、軽い頷き、を出し、それを受けて我々は開始した。オベーションは盛大に沸き起こった。上演のあと、それはヴィーゼンタール夫人その人にとって飛び切りの成功となったが、我々は楽屋口で最後の喝采を贈るため待っていた。どこか後ろの方で、五〇人ほどのほっそりした少年少女が立っていた。それはグレーテ・ヴィーゼンタールの有名なバレエ学校の生徒たちだった。夫人が出てきて車の方に歩むと、いつものように我々の「ヴィーゼンタール夫人万歳」の歓呼が沸き起こった。車がゆっくりと動き始め、夫人は唇に微笑みを浮かべ、振り返って後方窓から生徒たちに頷いた。それは、すぐに明らかになったが、約束の合図だった。少年少女たちは、胸いっぱいに息を吸い込んで、「ショスタール万歳! ブラヴォー、ショスタール!」と鬨の声をウィーンの夜空に轟かせた。あまりの大音声だったので、オペラハウスのレストランのボーイですら、いつもの半睡状態から目覚めさせられた。みな飛び出して来て、ボーイ長のバウアー氏は配下の者たちに言った。「おやまあ何たること、ショスタールにオベーションだ! いつも言ってるだろう――ウィーンでは何でもありだ!」
An diesem Abend beobachteten wir Schostal genau, wie er Frau Wiesenthals Glockentanz verfolgte, die Partitur in der Hand. Im vorgeschriebenen Moment gab er uns das Zeichen, ein leichtes Nicken, und wir begannen. Die Ovation kam in großem Stil. Nach der Vorstellung, die sich zu einem großartigen persönlichen Erfolg für Frau Wiesenthal gestaltete, warteten wir vor dem Bühnenausgang, um ihr unseren letzten Tribut zu zollen. Irgendwo im Hintergrund stand eine Gruppe von etwa fünzig schmalen Jungen und Mädchen, Schüler aus Grete Wiesenthals berühmter Balletschule. Als Frau Wiesenthal herauskam und zu ihrem Wagen schritt, brachen wir in unsere üblichen "Hoch-Wiesenthal"-Rufe aus. Das Auto setzte sich langsam in Bewegung, und Frau Wiesenthal, ein Lächeln auf den Lippen, wandte sich um und nickte durch das Rückfenster des Wagens ihren Schülern zu. Das war, wie sich sofort herausstellte, ein verabredetes Zeichen. Die Jungen und Mädel holten tief Atem, und dann stieg ein donnernder Kriegsruf "Hoch Schostal! Bravo Schostal!" zum Wiener Nachthimmel empor, so laut, daß selbst die Kellner des Opernrestaurants aus ihrer gewohnten Lethargie aufgeschreckt wurden. Sie kamen herausgerannt, und Herr Bauer, der Ober, sprach zu seinem Pikkolo: "Jessesmaria'nd Josef! Jetzt geb'ns gar dem Schostal selber eine Ovation! I sag ja immer -- in Wien is alles möglich!" (S.98)
「いつも言ってるだろう、ウィーンでは何でもありだ!」――『ばらの騎士』のオックス男爵は「ウィーンというこの町じゃあ、騎士には何だって起きるのだ……」と歌う。このワルツがボーイ長の記憶にも刻み付けられていたのだろう。
* ≫Die Oper ist ein Irrenhaus≪ の他に次のような著作がある:
 Grundlagen der Musik des Mittelalters. Schrift - Zeit - Raum (1994)
 Hitler in der Oper. Deutsches Musikleben 1919-1945 (2000)
 Richard Strauss und seine Zeit (2000)
 Haydns Sinfonien. Ein musikalischer Werkführer (2007, Orig.-Ausg.)
 Oper. Geschichte einer Institution (2016)
2016年の著書について、グラーツ大学のサイトに紹介があり、この書では「珍妙な出来事、ナンセンスな逸話」「オペラという制度の興味深い背景の情報ならびに知られざる事実」が語られ、「オペラ上演にかかわるあらゆる問題、歌手とクラック、旅興行の条件と権利問題、ギャラと楽屋が扱われている」とのこと。
** リヒャルト・シュトラウスの最後のオペラ『カプリッチョ』(初演 1942) で、伯爵が歌う「オペラは馬鹿げたもの、歌で命令され、二重唱で政治が話し合われ、墓の周りで踊り、メロディにのせて短刀が手渡される…」というセリフが思い出される。
*** 両人は同じファーストネーム「ヨーゼフ」(Joseph / Josef) なのに、なぜ触れなかったのだろう。