拾遺集(26) Aus meinem Papierkorb, Nr. 26緑の枝 -1- Grüne Zweige -1-フリードリヒ・ゲオルク・ユンガー Friedrich Georg Jünger (1898-1977) は、かつていくつかの短篇小説をドイツ語授業のテキストに使ったこともあり、このサイトでも取り上げた(*)ことがあって、なじみの作家の一人ではあったが、最近それらを読み直す機会があり、多くの箇所で《記憶》がテーマになっていることに注意をひかれた。作中人物が何かの出来事を思い出す描写として、また記憶という事柄自体が語られる部分もある。ユンガーは特別に《記憶》に関心が深い作家であったのかと改めて思い知らされた。ウィキペディアで調べてみるとユンガーの著作の中に ≪Erinnerung≫ という語をタイトルに持つものが三冊がある。Grüne Zweige. Ein Erinnerungsbuch (1951) Gedächtnis und Erinnerung (1957) Spiegel der Jahre. Erinnerungen (1958) たまたまこの三冊は手元の書棚にあった。一度は目を通していたようで所々に書き込みがある。≪Grüne Zweige≫ は誕生からライプチヒ大学で法学を修め、司法修習を始めたものの、法律家の道を断念するまで、≪Spiegel der Jahre≫ はその後、1928年から1935年までベルリンを拠点にフリーの著作家としての生活を自伝的に書いたもの。≪Gedächtnis und Erinnerung≫ は記憶という事象そのものを主題にしたエッセー集である。 彼の著作は多くが第二次大戦後に出されていて、短編集も自伝的なエッセーも戦後の出版である。すでに執筆のものも含まれていたようだが、過去に距離を置いた創作であることが《記憶》の主題化に結び付くのかも知れない。いずれにせよ彼の情景描写からうかがわれる精緻な観察眼には驚かされる。しばらく ≪Grüne Zweige≫ によって若き日のユンガーの足取りをたどって、注意をひかれた箇所をメモしてゆくことにする。 『緑の枝』≪Grüne Zweige≫ は祖父母のことから記述が始まる。祖父はオスナブリュック生まれで、ハノーファーが王国であった短い期間 (1814-1866) に、教師としてハノーファー市にやってきて、市のリュツェウムで低学年対象にラテン語を教えていた。ヴァイン通り Weinstraße の家にはドイツ語を学ぶため多くはイギリスやその植民地から、またスペインから来た若者も下宿していた。彼らは平日は勉学にいそしみ、日曜日にはよく揃ってハルツ山地へ遠足に出かけ、これには家の子供たちも同行した。 そして父母のこと、父と母の馴れ初めのことも語られる。父は二人兄弟の長兄で、金髪であることなど祖母の方によく似ていたという。弟(叔父)はブルネットに近い髪、祖父に似ていて虚弱なところがあり、若くして亡くなった。父はヴァイン通りの家から遊び友達と近隣のマッシュ公園など町中を駆け回っていた。祖父の教える学校に通学して人文系の科目もよく勉強したが、むしろ物理や化学に関心があり、化学と薬学の方面に進むと決めていた。リュツェウムを終えて実習生として、ピュルモントの薬局で3年間研修した。ここは温泉療養地としての盛況を失いつつあって、遊技場も無くなっていたが、舞踏会やアイススケートはなお盛んで、父はダンスの名手として名を成したらしい。また放浪詩人として有名なペーター・ヒレ Peter Hille (1854-1904) と知り合った。 父はピュルモントでの研修を終えて 1888年ベルリンへ赴いたが、それは一年に三代の皇帝が交代した「三帝の年」 (Dreikaiserjahr) だった。ウンター・デン・リンデンのルカエ薬局 (Lucaesche Apotheke) で助手として働いた。皇帝フリードリヒ3世が在位99日にして喉頭癌で逝去、ドイツとイギリスの医師団の非難の応酬となったが、父はその薬剤の調合に携わったこともあり、問題の治療法について詳しく調べたようだ。そのあとロンドンのドイツ薬局で働き、帰国して志願兵として兵役についたあと、マールブルク、ミュンヘン、ハイデルベルクで学んだ。ミュンヘン時代に母と知り合い、母は両親の反対を押し切ってハイデルベルクに出奔、二人は結婚した。そのハイデルベルクで兄エルンスト(**)が生まれた。父は研究者になるかどうか迷ったようだが、長期間他人の指揮下で過ごすことを嫌い、ハノーファーに戻って薬局を開いた。そこでフリードリヒ・ゲオルクが生まれた。 ユンガーは幼い時から自然の森羅万象と濃密な接触していた。ハノーファーの近くにリューネブルク原野 (Lüneburger Heide) という広大な自然公園がある。そこへ連れられて行った時の記憶である。 私の最初の記憶は水の知覚と結びついている。陽の光に貫かれどのように動こうとも円形であり続け、輝きながら物の表面を転がってゆく水の知覚である。四歳くらいのとき、リューネブルク原野の、ラーメルスロー近くのある池で水遊びをした。それは春か初夏の日で、巻雲が空高くかかっていて好天気を告げる、うららかな晴天(***)の一日だった。岸辺で横になって私を見守っている母は白の衣服を身に着けていた。手であごを支えて私を見ていた。私の中では父より母の方が古い記憶に残っている。時々水から出て母の許へ急ぐ。いくつかのサクランボを貰って、水中で食べるために再び水の中へ走ってゆく。暗い水は私の胸まであった。岸辺の水際はタンポポの花で隙間なく覆われていて、花は新鮮な緑の中からエナメルのように鋭く力強く咲き出ていた。振り返ってみるといつもこの風景の色彩にどこか誇張されたようなところがあるように思われる、それは少なからずの画家の絵画に見られる、キャンバス上のニスのような光沢を放っているのである。すべて光を浴びて過度に新鮮で瑞々しく照り映えている。花にはメタリックなところがあり、葉は石のように輝き、手に持つサクランボは真っ赤に輝いている。私は、空気と水の暖かさと果物の甘さに興奮させられたので、大声で叫ぶのであった。その後、両親はエルツゲビルゲ (Erzgebirge) のシュヴァルツェンベルクで、親戚から借りた資金を元に大きな敷地を持つ薬局を購入し、一家はハノーファーを離れて移住した。新しい住まいはこれまで以上に豊かな自然の中の広大な家屋敷、フリードリヒ・ゲオルクは新しい風景の中で生きることになった。ここは二十世紀の初めに、かつての鉱山地帯が自然を楽しむべく多くの人々が訪れる一大リゾートに変貌してゆく。ユンガーは一人で近隣を遊び歩き、また家族と共にエルツ山地に出かけ、連なる山々や剥き出しの岩肌の崖 (****)を間近に見て、山から流れ落ちてきたシュヴァルツヴァッサーの流れを小さな橋から見下ろす。 この最初の頃のハイキングは記憶の中に消えることなく生き続けている。とくにある暑い夏の日のことが思い起こされる。私は赤いナデシコが一面に咲いている森の草原に立っている。母に手を取られ、カッコウが倦むことなく鳴き続け、まるでそびえ立つ黒い壁のようなトウヒの森に取り巻かれ、遠くで湿った空気の中を烈しい雷雨が走り過ぎていた。我々はフィヒテルベルクから流れ下るシュヴァルツヴァッサー川沿いに歩いていて、私は山全体が目前にあり自分を取り囲んでいるような気がした。当時エルツゲビルゲから受けた印象は私の中で失われることはなかった。森のざわめきと泉のせせらぎを聞き、樹脂の香りが満身に沁みとおってくるのを感じ、遠くの孤独な光を浴びて立つ森に覆われた山々を見ていた。そしてまた、氷がきらめき水晶のような氷柱がいっぱい垂れ下がった、冬の雪山も忘れられない。夏も冬も、折に触れ両親は子供たちをエルツ山中に、時にはボヘミア国境にまで連れて行った。遠出と言えば、一度などは母の故郷ミュンヘンにも行ったが、ちょうどオクトーバーフェスト開催時で、フリードリヒ・ゲオルクは勝手の違う当地のヴィーゼ(Wiese は草地、草原を意味するが、ミュンヘン市のヴィーゼはオクトーバーフェストの会場)で迷子になり、耳を聾する音響と焼きソーセージや揚げ物、魚の串焼きの匂いの中をさまよう破目に陥った。 * 以下の項目で取り上げた; 緑の枝 -2- Grüne Zweige -2-エルツゲビルゲでの生活は数年で終わった。父が薬局を売り払ってユンガー一家はハノーファーに引き返したのである。このときがフリードリヒ・ゲオルクの記憶に残る最初の旅であった。家族の移動に当時まだ珍しかった自動車を用いた。父は早くから自動車の運転に関心があり、ドイツで最初の自動車クラブの創始者の一人になった。一家は都市に戻ったとはいえ、新しい住まいは草原に接する大きな建物の中にあった。傍をライネ川 Leine が流れ、草原にはヒツジの群れが草を食み、多くの鳥類が飛び交っていた。そこはすぐに子供たちのたまり場となった。川を挟んで二つの地区の子供の争いが起きて、こんな最初の戦闘で飛んできた石が口元に当たり、血を流して半ば気を失って戦場を離脱した。 ユンガーは学校に通うようになったが、この学校の教師であった祖父はすでに亡くなっていて、父も習ったある老先生(以下でその退官のことが語られるヴィーアマン先生 Prof. Wiermann か?)の教えを受けることになった。先生は立派な大きな髭を蓄えていて、授業中生徒のベンチに乗り降りして教室を歩き回る、奇矯な癖の持ち主だった。 この時代の記憶は曖昧ではなく後年のものにくらべて記憶としての強さの劣るものではないが、この記憶には何か夢見るようなところが付着していて、思い出すたびにいつも、目覚めていながら眠りの中で自分を観察しているような、そんな気持ちになる。それの例外となる、というのは他のどんな記憶とも比べ物にならない多くの光を持つ、最初の出来事はある一人のクラスメートに対する好意である。それは六歳か七歳の頃だ。当時知っていた子供たちのことは思い出そうとしてもみんな影のよう、教室で隣の席にいた二人でさえもそうだ。しかしこの一人のことは、医師の息子だったが、ありありと覚えている。そのクラスメートに惹かれるようになったきっかけが何だったのかは覚えていないが、第一の理由は彼が快活な性格だったことだ。彼が姿を見せるだけで、その声を聞くだけで、何か重荷を下ろしたような、ほっとした気分になり、彼がいることで学校が楽しいものになった。その姿を眺めると完全な被造物に思えて、感嘆は増すばかりであった。一度などは夢に、小さな炎の花冠を被り額を赤く染めた姿で現れた。彼はいつも幾人かの友人に取り巻かれている。こちらがこれだけ好意を抱いているのに、なかなか親しくなれないことに痛みを覚える。この痛みこそが、この一件を忘れがたいものにした原因であった。 彼に好意を抱いていることは周りの誰も知らないし、知らせることはできない。そこで自分が行動を起こして友達になろうと試みて、相手が自分には冷淡で無関心であることを思い知らされる。この冷淡さに苦痛を味わったが、関心を惹く努力をあきらめない。自分に注意を向けさせるために眼をつけたのは、皆が好きな小銭で買える甘い菓子であった。これを使って関心を惹く作戦に出ようとしたものの、自分にはお金はない。そのためときどき母の所持金をくすねるという悪行に手を染め、菓子を買った。あっという間にユンガーは皆に取り巻かれ追従を受ける身となった。「金銭の威力というものを私は初めて印象付けられた……」のである。だがそのあと、手に何も持たずに皆の前に出ると、あっさりと無視された。大きな犠牲を払った行為に対しての、この裏切りにユンガーは傷ついた。 こうした痛みを癒してくれたのが読書であった。生まれて初めて手にした本、読書というより指で文字をなぞることから始まったが、それは祖母から誕生祝いとして贈られたカンペ訳『ロビンソン・クルーソー』(*)だった。読み書きができるようにと選ばれたプレゼントだったが、事実、瞬く間に苦も無く文字が読めるようになった。何時間も何時間もその本と過ごしたが、彼は主人公より島に興味を覚えるのだった。島の山や森や川、丘や古木の様子を想像して紙に鉛筆で描いた。 島という言葉を耳にするだけですでに喜びであった。というのは私にとってこの言葉は自由で快活で邪魔だてされない生き方というイメージと結びついていたからだ。そのイメージに私は快活な生活という感覚を抱いていたが、その感覚は水が私に与える印象と関連していて、二度と失われることはなかった。私の最初の記憶がすでに水の記憶だった。私にとって水が関わらない幸福のイメージはあまりない。いつも近くあるいは遠く水音がし、せせらぎの香りが伴っているのである。この関心はあらゆる岸辺と岸辺の景色に、ヨシ、アシ、イネ科の茂み、イグサに広がり、それらは常に私を引き付け、それを探索して倦むことがなかった。『ロビンソン・クルーソー』を繰り返しボロボロになるまで読み、ほとんど暗唱できるほどになったあと、乱読に進んでいった。「読書熱 Lesewut のせいにするつもりはないが」、またもや母のお金をくすねて、当時数多く出版されていた廉価本――1グロッシェンで30ページの冊子――を、手当たり次第に買って読んだが、中でも海賊キャプテン・モルガン(**)のシリーズに夢中になった。子供が大金を使えば怪しまれるのではと案じて、くすねたお金を小銭に崩したいのだが、それが難しかった。子供に必要のなさそうなものを買い求めれば怪しまれないだろうと考え、1グロッシェンでヘアピンを買ったが、金貨の値打ちを知らなかったものだから、大量の銀貨、ニッケル、銅貨に替わった釣銭に驚愕した。これを目立たないように使うのにも苦労し、使い終わったときには心底ほっとした。後になって打ち明けたら、母はこの顛末を面白がって大笑いした。 この時代、ほかに覚えていることはヴィーアマン先生 Prof. Wiermann の退官のこと。お別れの日、記念行事のあと、先生に贈られた花束をユンガーともう一人の生徒が先生の家まで持って行くことになった。それは風の強い日で、ゴーゼリーデ Goseriede まで来た時、強風のため進めず、風に背を向けて花束を守らなければならなかった。この日のことをなぜ覚えているのかというと、これが結節点となり、身体運動 "Bewegung" の記憶とつながっているからだ。 というのはゴーゼリーデに接してある水浴施設に規則的に通ったことをいま思い出す。そこではエルンストと水浴したこともまた思い出す、彼は泳げたが私は泳げなかった。私は田舎に移ってから泳ぎを習い始めたからだ。この水浴場は、幅広い貯水槽、ガラス質のタイル、天井からの明かりできらきら光る真鍮の手すりなどで、人工的なところがあった。私にとってはそんなに好きな場所ではなかった。恐らくそこには通わされたのであり、自分で望んで通ったのではなかった。水はうっすら緑色に光り、忘れがたい嫌なにおいがついていた。多分塩素が加えられていたからだろう。私はシャワーの下に立つのが好きだったが、それで思い出すのは乱暴な水泳教師のことで、いつも湯気の立つ水流の下から私を追い払うのだった。すべてが私には夢に残った。両親が買ってくれたもう一つの定期予約は動物園の入場券だった。兄エルンストとアイレンリーゼ Eilenriese を通り抜けて、そこでドングリを拾い集め、動物園へ通った。ということは最初に行ったのは秋だった。ドングリが呼び起こしてくれた心地よい気持ちは忘れられない。多くは皿が取れているが、時々は皿付きが見つかる。拾い集めたものは動物園のはずれの柵の中でいる一頭のイノシシに与える。なぜこのイノシシに関心を持ったのか、わからないが、その柵までのくねくね曲がった道に惹かれたのかも知れない。 動物園は私のお気に入りの場所だった。通うたびにわびしさと悲しさの感情を覚え、それはいまも残っている。狭い檻の中で、打ち勝ちがたい悲しみをたたえている動物。大きな鳥のケージに行くともっとも激しくそれを感じる。と同時に魔法にかかったような気分。騒々しく、耳を聾する甲高い鋭い鳥の鳴き声。そこにときどき美しい鐘の響きのような鳴き声が混じる。 そして――私は待ち受けていたが――一羽の鳥が鋭く、きちんと正確にこのメロディーを鳴らす騒音と虫の飛び交う音、鳥の羽ばたき、そして溢れる色彩が私の中に「一種すべての現実の壊滅」" eine Art Vernichtung alles Wirklichen" を呼び起こした。麻酔をかけられたように呆然となった。園内に居続けることはできず、やむなく外へ出た。膝ががくがくし、頭ががんがんした。車輪が激しく回転するような気分だった。鳥の鋭いくちばし、かぎ爪、そして足環をつけられた鳥がこちらを見る、その眼には何か敵意のようなものがあった。しかし私はこれらの鳥が大好きだったし、自分も鳥になりたいという願望がしばしば芽生えた。 エルンストと地元の博物館 Provinzialmuseum にもよく行った。豊富な博物標本があり、有史以前のものもあったが、記憶に残っているのはアメシスト晶洞だけ、その大きさのゆえに興味を惹かれたのだった。この晶洞は記憶の中で、私の成長に比例して大きく育った。後年この実物を再び見た時、その小ささに驚いた。相変わらずどの所蔵品にくらべても美しかったが、目前で小さく収縮したさまに、なにか痛みを伴う失望を覚えた。 三歳年長のエルンストはすでに植物学の授業を受けていた。校外実習に出かけた折などは帰宅が夜遅くになったが、すでに眠っている私を起こして、両手に抱えた植物の束、植物採集の胴乱に収めたものを取り出し、カタツムリや昆虫も見せてくれる。兄は植物の名を一つ一つ教えてくれたが、彼自身が水とアシと木の葉の香りを発しているように思われるのであった。指のあいだである葉をすり潰して、「匂ってみろ」という。それはミントの冷たい香りで、まるで別世界から来たもののようであった。 両親は再び町を離れ、田舎へ移住した。私は学期途中だったので期末まで町に残り、祖母の家から学校に通うことになった。私を快く迎えてくれた祖母の部屋にはマホガニーの戸棚の上にベルテル・トルバルセン Bertel Thorvaldsen のガニメデス像があった。寄宿中、その場所で読書をするか手仕事をする祖母の姿をしばしば見かけた。年齢は70歳ほどだったが、室内はきれいに整頓され、起床から就寝まで家事すべてがきちんと定まっていて、生活のペースに滞りはなかった。 フリードリヒ・ゲオルクに与えられた部屋には祖母の兄弟、すなわち大叔父にあたるヘルマン Hermann の若き日の肖像が掛かっていた。大叔父は1870年の普仏戦争に出征し、メッツ占領(****)時にチフスで亡くなった。この肖像を見るたびに、大叔父は亡くなったのに、若々しい兵士の姿で絵の中にいるのが彼には不思議でならなかった。 家中の部屋いたる所に祖父の遺品があった。カモを狩る人物の絵が描かれたマジョリカ焼の大皿。この絵で水草や沼に潜んで鳥を撃つ狩猟に興味を掻き立てられた。またルーペを使って植物を観察している修道士の油絵があり、これで植物観察にも興味をひかれた。そこかしこに皿、カップ、花瓶、クリスタルガラスの貴重な品々があるので、立ち居には常に注意を払わねばならなかった。おかげで身の回りに注意深くなり、祖父の思い出の品々が記憶に刻まれた。 ここにある物は記憶によって聖別されていた。私にはそれが感じられ、それらに対して沈黙の敬意をいだいた。祖父が買い求め、眺め、手に取らなかったものはまず一つとしてなかった。私をとても愛してくれていたことを知っていた。祖父の肖像は壁から私を見下ろし、書物の中に自筆署名があった。祖父は今にも扉から姿を現す、そんな不在者に思われた。それどころか、目に見えない姿でいつもそこにいる、そう感じもしていた。祖父は生徒たちから忘れられることのない教師であった。彼の本質は気立てのよさにあり、その中におかしな突飛な性質が現れ、それによって生徒たちを喜ばせた。子供たちは鋭い目でそれに気づくが、先生が善意の持ち主であることは見逃さなかった。そこは町の辺へんぴな一角で、「建物も部屋も冷やりとする静けさの中にあった」という。 建物の中庭には、家主である家具職人の親方の工房があり、テレビン油やニスの匂いが満ちていた。時おり家主の娘が祖母とお喋りをするため訪ねてきたが、病弱で発達に障害のある娘で、私にも優しい眼差しを向けてくれた。祖母との会話から穏やかな深い信仰が窺われ、その点祖母とは正反対であった。祖母は活動的で冷静な思考の持ち主、朗笑、冗談、揶揄が好きで、心魂を傾ける信仰とは無縁の人だった。娘の病はさらに進み、中庭に姿を見せるときも二人の幼い弟たちの押す車椅子であった。 祖母は謎々やカード遊びを教えてくれた。ペーシェンス Patience などの占いを見せてくれ、簡単な二人ゲームの相手をしてもらった。そしてまた話し好きで、若い頃の思い出話をたくさん聞かせてくれ、古いところは1848年にまでさかのぼるのだった。私がナポレオンの名を初めて耳にしたのは祖母の話の中であった。祖母は話し上手で、物語を手際よくまとめる才能があった。曾祖母のことも話してくれたが、祖母の母はやはり教師の娘で、千里眼 ≫das zweite Gesicht≪ の持ち主だったという。曾祖母が14歳の時、次のようなことが起きた。 彼女は玄関扉の側に立っていたとき、葬列が教会墓地にやってきた。先頭に生徒たちを引率した父が、そして子供の亡骸が、その後ろに男女の会葬者が続いた。葬列はすべての死者が運ばれる墓地の正門を通らず、墓参りの人々用の脇の門を通った。曾祖母はひどく驚き、居間に父がいるのを知っていたので、大声で叫んだ。「お父さん、お父さん!」 彼女の父は急いで部屋から出てきて、彼女が見たという出来事を聞くと、娘を納得させようと、こう言った。「お前、この門は決して死者を通すことがないのだから、そんなもの見たっていうことは有り得ないのだよ」 その数日後、ある小作人(*****)の息子が亡くなったが、その夜、死者がみな運ばれる門が崩れて、その子は脇の門から運び入れられた。つまりすべて曾祖母の見た通りの成り行きだった。祖母は毎週一度、ホテル《四季》で開かれる年配婦人の集まりに私を連れて参加した。私はおとなしく椅子に掛けて魚や肉を食べながら、皺の刻まれた顔の並びを眺めていたが、婦人たちは眼鏡越しに優しくこちらを見やった。みな特徴ある小さな黒い帽子を被っていて、祖母が亡くなったあとの遺品整理でこの種の帽子を1ダース以上見つけた。もうはるか昔のことになるが、あの集まりには節度が支配していた。湿り気のない機知が会話を活気づけていた。それは何かを回避する機知であった。それは言葉を節約することの中にあったが、その言葉の独特のニーダーザクセン訛りは再現が難しい。それは馴れ馴れしさから一歩距離を置くための、感情が高揚し過ぎることへの防御であった、と思えるのだった。 * Joachim Heinrich Campe (1746-1818): Robinson der Jüngere. Ein Lesebuch für Kinder (1779/80) デフォーの『ロビンソン・クルーソー』を青少年の教育用に書き直したもの。邦訳あり:田尻三千夫訳『新ロビンソン物語』(鳥影社 2006年) 緑の枝 -3- Grüne Zweige -3-やがて学期末がきて、フリードリヒ・ゲオルク・ユンガーは家族と合流することになった。祖母に連れられ汽車に乗った。少し走って支線に乗り継ぎ、この車内で知り合った、エルサレムからドイツまで徒歩で来たという異形の巡礼僧と共に、最寄り駅で降りる。そこから徒歩で半時間ほどという家に向かう。祖母は同行の僧と話しながらゆっくり歩く。それは、よく晴れて青空がひろがる、雲一つない10月の温かい日であった。我々は、すでに枯れた香りが漂う森を抜けて進み、年経たブナの木や緑のトウヒの保護林の側を通って行った。そして開けた場所に出るとマロニエの木が菩提樹の木に代わり、丘のなだらかな頂上から平地がはるか遠くまで見渡せる。眼下の土地には木々に囲まれた一軒の家の屋根が見えてきた。これが両親の家であった。やがて我々はそこに到達し、同行の巡礼僧に別れを告げ、大きな鉄の門をくぐった。両親の家はシュタインフーダー・メール湖 Steinhuder Meer の近くにあった。湖はハノーファーの北西に位置し、今では郊外地といった距離である。両親が移り住んだ時より少し古い1899年の旅行地図にも、湖は小さいながらしっかりと描かれている。鉄道の状況が当時どうだったのか詳細は未調査だが、小鉄道に乗り換えた駅はヴンストルフ Wunstorf(*) だろうか。この町は現在では人口4万余りになっている。ここから南西に向かう路線に乗ったと思われるが、両親の家の「最寄駅」がどこかは不明。いずれにせよ、この後の記述から判断して両親の家は湖の西岸に近い所にあったと想像される。 Reise-Karte 1899 (部分) Aus: Geschichte der Eisenbahn in Deutschland [de.wikipedia] 湖は広さ 8 km x 4,5 km 最深 2,9 m でニーダーザクセン最大の湖である。何百年も前からここでは燃料となる泥炭が採掘され、またドレーン、排水施設、排水溝を設置して農耕も行われた。泥炭採掘は1908年から機械化されたとのこと。周辺一帯は1974年に自然公園 Naturpark Steinhuder Meer に指定されている。1976年にはラムサール条約に加入し、ここは Ramsar site no. 87 になる。 斜線の施された区域は NSG (Naturschutzgebiet)、人の立ち入りが厳しく制限された自然保護地区、縦線の区域は LSG (Landschaftsschutzgebiet)、自然保護に留意しながら保養地としても用いられる風致保護地区。ユンガー一家が住んでいた当時は公園整備の行われる前で、ほとんど中世以来の原風景が残っていたものと思われる。 この風景が私におよぼした最初の印象がどんなものだったか。それは手つかずの自然であるように思われ、ほとんど人の手で変えられていないがゆえに古いように見えた。それは眼前に広々と開けていたが、何か隠されているようにも思えた。というのは、そこではしばしば、もはや存在しない動物に出会うのではないかという空想が浮かんできたのである。この風景を見ることは、あたかも予想もしなかった贈り物を貰ったかのような喜びであった。それにまたこうした始まりと初めて田舎で過ごした時代のことを思い返すと、あたかも雲、風、雨が、あらゆる天候の戯れが以前の私には無かったかのように思えたのだ。その印象はずっと残っているという。秋だったので木々の葉が落ち、地面から強い香りが立ち昇る。森を歩くと落ち葉がカサカサと鳴る。強い風が吹き、雪が降る。冬が来たのだ。兄エルンストと雪の中を遠くまで歩いた時、彼は初めてこれが冬だというもの、そのすべてを感じ取った気がする、それゆえその時のことを決して忘れないと言う。冷え固まったアシの茂み、凍り付いた小川、葉を落とした木々の姿、そこにある空っぽの鳥の巣、上空のカラスの鳴き声、顔や耳の感覚…… そして春が来て、夏が来る。 この時代は私には、木々の葉、水の動き、陽の光の記憶が満ち満ちる時だ。ここの太陽は他より強烈に感じられた。あたかも肌の中まで射し通すようだった。私の目に見えるのは何よりも、そこに生じている光、太陽が厚い木の葉を貫くところ、水滴を浴び湿っている緑の草地の上、強烈な赤色に隈取られた円形や星形の花壇に照り映える光である。すべてが思ってもみなかった幸福の感覚である。エルンストと広大な土地を自由自在に歩き回る、ここまでという限界は自分たちで引く。誰に妨げられることもない。どこへ足を踏み入れても新しい発見があり、そこを人跡未踏の原野と見なして、それぞれお気に入りの場所を自分たちで命名する。命名権は発見者にあるのだ。自分たちの地図に記入し、「発見簿」を拵えて、動植物、化石、昆虫、鳥、ヘビ、珍しい植物、そして小川、池、小石・砂の穴、石切り場、古木、藪、アシの茂み、泥炭採掘場などすべての探索記録を付けた。森の中で小さな洞窟を発見し、石筍を観察、またコウモリを探した。廃棄された採掘場の坑道にも好奇心を掻き立てられ、迷わないようアリアドネの糸よろしくロープを繰りつつ迷宮に分け入った。さらには骨壺や墓を探して土を掘り、石切り場ではアンモナイト、貝、矢石、森林砂岩 Wäldersandstein に恐竜の足跡(**)を探した。 あるとき狩猟監視人の領域に入り込み、彼と敵対関係が生じた。監視人は色黒の大男であったが、音もなく森の中を忍び歩き、ひょっくり姿を見せて我々を驚かせた。彼はイタチの罠を仕掛けていたが、目立たなく置かれた罠も我々の目を逃れることなく、その一つを別の場所に隠すという悪戯をしたこともあった。監視人のことはその風貌もあって、長らく対峙しながらもそれなりに尊重していたが、数年後、狩の依頼人に対して卑屈にへりくだった様子なのを見て、我々の中で彼の地位は下落、優劣逆転した。我々の父が猟師を雇うだろうという噂を流したことも功を奏した。森を探検しつくすと、おのずと森と湖の境の沼地 Bruch(***) にも足を踏み入れることとなる。 それでさらに広範囲を歩き回り、やがて我々には個々の風景が馴染みとなり、隅々まで知らないところはない、というほどだった。実に多様でいつもわくわくさせられる。その中の森は数多くある目的地の一つに過ぎない。森を離れると原野へ、泥地へ、湿地そして湖に出る。何よりもシュタインフーダー・メールに接する湿地、湿原が我々を惹きつける。我々はしばしばそこを訪れ、泥地と石切り場の間の中間部分には自分の部屋のように馴染んでいた。これらの名称からしてこの場所の確かな概念を与えている。この大きくて平らで湿潤な内陸湖に近づけば近づくほど、地面が柔らかく怪しくなり、ついには硬さを全く失って草湿原、浮草地に移行する。湖の片隅からメーアバッハとノルトバッハが流れだし、一方橋の中から境界の掘割とジュートバッハが流れ出している。この黒と茶の小川は、流れがとても緩慢で白いスイレンがしっかりと育っていて、魚がいっぱいいる。カワカマス、ウナギ、タンスイタラ、コイである。自然公園のサイトにある地図で、ここで語られるシュタインフーダー・メールに接する湿地、湿原、そして三つの小流メーアバッハ、ノルトバッハ、ジュートバッハの場所を拡大してみる。湖西側である。当時と状況が変わっているかも知れないが。 また、北ドイツ放送(Norddeutscher Rundfunk)のサイトにシュタインフーダー・メールの湿原と泥地の写真があったので、ここに転載する。ユンガーの時代から100年以上の時が経過しているので、当時の風景・雰囲気が残っているかどうかは不明。 湖の漁業権は営林署 Oberförsterei の管轄に属していて、ある漁師に許可を与えていたので、まもなく二人はこの漁師と争いになった。有り余るほどいた魚のことではなく、兄弟が水浴びやら魚釣りで岸辺を荒らしている、というのである。確かに二人は地面を離れて小さな流れに分け入ったりしたが、大した損害を与えるほどのものではなく、少額の金銭を支払うことで和解した。この貢物が功を奏して釣り竿での釣りも許してくれ、そのうち母が彼から魚を買うようになったことで、友好関係は強化された。 兄エルンストとフリードリヒ・ゲオルクは一切の拘束を脱するため、衣服をすべて脱いでハンノキの茂みに隠し、裸身で湿原と、幅の広い緑の帯となって水を囲んでいるヨシの茂みで半日過ごした。ハエやアブに刺されないよう沈泥を体に塗り付けて「モール人のような」姿で。浮島のような草土を駆け回り、泥に足を突っ込んでひやりとすることもあった。泳いだり、日光浴をしたり、長々とおしゃべりしたり。また棒を持ってカワカマスを叩いて獲ったり。ワタスゲ、モウセンゴケの赤いじゅうたん、営巣中の無数の鳥類。そこは半ば固体で半ば液体の中間地帯、誰も足を踏み入れることなく、彼らだけに委ねられた場であった。 両親の家は広くて住み心地がよかった。さほど古い建築ではないことは礎石の年号によって分かった。だがその家は子供がしたいことは何でもできるところで、いまもその時のことが夢に現れる。いまなおこの家の間取りを思い返して、心象の中で地下室から上へ上がり、あちらこちらの扉を開ける喜びを味わう。外から見ると建物は緑の木立の中にあって明るい雰囲気だった。テラスが一つ、バルコニーが二つあって、晴れやかな雰囲気を強めていた。壁にはツルバラ、ツタ、野生種のブドウが絡まり、年々密度を増していった。Mors Certa Hora Incerta(****) の箴言が付された日時計があり、折に触れ眺めた。読むたびに短く端的な表現に感銘を与えられたのである。 家はぽつんと孤立してあり、最も近い集落は広い草原の中の街道筋の村で、そこは黒色と茶色に濁った小川がゆっくりと流れている。流れが滞っているところは浅瀬で、雨の日や曇りの日にはぬかるみになる。陽が射すと金茶の光を映した。街道を歩いていて聞いた、牛に曳かせた車の音がまだ耳に残っている。付近の耕作地は小さな規模で、馬はめったに見なかった。記憶に残るのは、遠くから二頭の馬に曳かれた馬車が近づいてくる明るい響きである。ここでは何も変わらないで、すべてが同じリズムで、春夏秋冬の移り変わりのように、過ぎゆくのだと感じた。 近所には初めは二軒の農家があったが、やがて三軒目の農家が移ってきた。彼らは土地を耕し排水し、徐々に耕地を広げてソバ、ルピナス、ジャガイモ、カラスムギを栽培し始めた。荒地をこのように有効利用することがどんどん進んでいったが、私には好ましくなかった。自然の自由な生長が阻害されるように思われたからだ。次第に広い土地が耕され、新しい家が増え、新しい人間がやってきて、最後には総てがすっかり変わってしまって、最初に脳裏に刻み付けた映像だけが残った。 他人との交わりのない暮らしで、実際に役立つような人との接し方は身につかなかった。近くに学校も無かったので、兄エルンスト、妹ハンナと共に朝は6時に起床し、(おそらく湖の南西を走る)小鉄道(*****)の小さな列車に一時間以上乗って隣町まで通う。帰宅は午後4時、冬なら日が暮れかかる時分だ。冬季は雪に膝まで埋もれて通学することになる。道にはノロシカが立ち、マロニエの木の中でフクロウが鳴く。暗闇の中、遠くに汽車のライトが見えてくると、小高い丘から停車場に雪道を急ぎ下る。だが、目指す学校については、 そのように私は目的地に向かうが、それは私にとって、何ら心を惹くもののない、魅力のない目的地だった。というのは学校へ行くのが好きではなく、いつも身体だけが学校にあって、自分は違うところ、別の時間、別の場所、軽々と身を動かせる夢の領域にいるという感覚があった。このような状態が長く続いた。夢見の状態を破るのは他人との衝突であった。ハノーファーの体操施設で、ほかの子供たちと体操していたときのことを思い出す。体操は馴染むことのできないものだった。何のために体操するのか理解できなかった。号令され機械的に体を動かすことに何の喜びも感じなかった。体操教師は我々を一列に並ばせて行進させる。同じ歩みで。私が号令に合っていないのを目ざとく見つけると教師は忍び寄ってきて背中をどやす。夢から覚めさせる打擲。この不意打ちに打ち克つことはできず、よって忘れることもない。 子供が夢から覚める痛み。子供は人を驚かせることが好きだが、兄エルンストにこんな悪戯を仕掛けられた。あるとき兄弟で読書室にいるとき、兄が紙で作った長い曲がった鼻を付けそっと横に来て、こちらを向いた。兄の目論見は完璧に成功、私は全く見知らぬ存在、デーモンに出くわしたように驚き、目を逸らせないまま後ずさりした。こうなるには私が「見知らぬ形姿」にしばしば出会っていることが関係している。最初に現れたのはいつだったか、わからない。それが人間なのかデーモンなのかどちらとも決められなかったが、デーモンだという方に傾いていた。 子供の夢の中にはよく知った顔が覗き込む。鼻長、コーボルト、悪意ある陰険な存在、それらはいったいどこから来てどこへ行くのか解決のつかないものだ。それらは全て馴染みがなかった、見知らぬ者というわけではなかったとしても。見知らぬよそ者とは何か、それは簡単に答えが出るものではない。というのはどのように定義しても位置づけても、どこかぴったりしないところがあるからだ。それが傑出したものとか際立ったものだからではない。そんなものはそれには付随していない。というのはそれは色彩がなく、輝きがなく、そして日常的で、まったく日常的で、それゆえそこには際立つものが何物もないからだ。それは純粋の無だ、と私はしばしば思った、たとえ身近にあり戦慄すべきであるとしても、しかし何も無いことはなく、だから悪魔は、出現するとなると、これ以外の姿で出て来ることはできないのだという考えを抱くに至った。誰しも子供の時にはよく似た経験をする。私たちならお化け、物の怪の類であろう。しかしそれを《fremd 馴染みない》が《Fremde 見知らぬよそ者》ではないと感じ取る、こんな感性は誰にもあるものではないだろう。 * この町でエルンストとフリードリヒ・ゲオルクの兄弟は1911年にワンダーフォーゲル・クラブに加入した。(「緑の枝 -1-」参照) |