拾遺集(27) Aus meinem Papierkorb, Nr. 27緑の枝 -4- Grüne Zweige -4-さて一時間以上かけて鉄道で通学していた学校のことを思い返すと、まずは丸く刈られた埃っぽいセイヨウサンザシの並木が目に浮かぶ。それが駅から学校まで続くのだが、同じように丸く刈られたアカシアも何本か混じっていた。この線路沿いの通学路からフリードリヒ・ゲオルク・ユンガーはすでに索漠とした気配を感じさせられたという。レンガ造りの学校と校庭そのものも同じく索漠としていた。校庭にはスラグが撒かれていた。なぜそんな汚いぎしぎし音のするものを用いたのか、恐らくは学校で燃料として使った泥炭の燃え滓を最も安上がりに始末したのだろうと言う。すべて意気阻喪させるものだったが、前庭の茂みでは春はナイチンゲールがよく鳴いた。ナイチンゲールの多さを人々は自慢していた。大都市近くの小さな町は特に活気のなさが目立つとユンガーには思われるのだが、彼の通った学校はそのような地域にあった。それゆえ教師たちも、またすぐ離れるつもりで赴任してくるのだった。つかの間の橋渡し、跳躍台、仮の宿だったのが、去るもならず腰を落ち着ける覚悟も決まらず、ゆえに彼らの生き方には何か中途半端なところがあった。 校舎に入り教室で初めて自分の席に着いた時、窓の下半分が曇りガラスであることに気付いた。授業中生徒によそ見をさせない目論見だったのだろう。フリードリヒ・ゲオルクは窓から外を眺めるのが好きだったので、このことが忘れられない。曇りガラスはずっと彼にとって不快なものであり続けた。 とうてい楽しく通う学校ではなかったが、だがホルム校長のことは気さくで明朗な先生だったと、ユンガーは懐かしく思い出す。校長に好感を持たれていたという感情は今も彼の中で生きている。たっぷり生地を使ったゆったりした服を常に身に着け、その授業も服装同様ゆったりしたものだった。 彼の授業は毎回のように少し遅れて始まった。ハサミでものを切るように授業時間を切り取っているとは私は思わなかった。おそらくハサミで切り取った時間ですることは何もなかったろう。それにこの手抜きは校長として他の様々な業務のため、というわけでもなかった。授業は彼にあっては他の教師の授業とは意味が違っていた。それは取りやめることができるもの、だからそうなった。あるいは彼の授業には楽しい驚き、規則からのずれ、また脱線、幕間があった。時間が停滞し延び始めた時の、座り方あるいは本の置き方を変える様子からして退屈させないものだった。私はよく覚えている、そのような動きがどれほど私を共感で満たしたか、どれくらい注意深く学んだことか。生徒がカエサルのテキストの訳につっかえて行き詰り、夏のハエが飛び交い羽音がブンブン鳴り響く、その重苦しい単調さを彼は自ら破るのであった。校長は成績の良い生徒も悪い生徒も愛情をもって接した。教師としての職業の持つ機械的な側面、人間の区分け、生活の時間割が不快だった。何事も規則で一律に進めることを嫌った。こうしたやりようは当局との軋轢を招かずには済まず、酒量も増えてついには解雇された。後任は兵役を終えたばかりの若いシュトルツというラテン語教師だった。今も時折夢の中に現れる教師の一人だが、この教師とはついに打ち解けることができなかったという感覚が残っている。小柄で華奢で痩せ型の体躯、ある貴族の家で家庭教師をやっていたとのこと、確かに上品な身のこなし・振舞いであった。生徒との間に何か冷たさとぎすぎすしたところがあって、ユンガーにとっては校外でも掛り合いのあった唯一の教師だが、いつも互いに距離を置いていた。 数名の生徒がシュトルツ先生の引率でヴェーザーゲビルゲ、ズュンテル、原野、そしてヘッセン方面へ(*)長い徒歩旅行に行ったことがある。食事は自炊、穀物小屋の藁にくるまって寝る旅行だった。ユンガーはこういう規制された集団旅行には楽しさを感じなかったので、できることなら参加したくなかったが、やんわりと強制されたのだった。エーダーの谷(**) を歩いているとき、そこはすでに住人のいない空虚で荒れ果てた廃村であり、まもなく水底に沈む家々であったが、生徒の一人が石を投げ、屋根瓦を何枚か割った。 この時ほどシュトルツが怒ったのを見たことはなかった。家のそばには何もなかった。もはや住居地ではなく、もはや誰も利用できなかった。だが自尊心が損傷させないことを命ずる、破壊の快感に身を任せると、自らを危険にさらすことになるのだと説諭する。私はこの議論に無関心ではなく耳を傾けていたが、そのときシュトルツが私のノートの欄外に書きいれた優美な赤線のことを思っていた。突如長らく蓄積されていた彼に対する怨念が私を捉えた。ここでは人が利用するために渓谷全体が荒廃させられていた。数世紀にわたって住み慣れた地にあった住居や耕地が溺死させられ、そしてこのちっぽけな人間が、運命と礼儀に対する感情が人間の弱さにまで教育された人間が、瓦に投げられた一つの石で憤るとは。彼がその言葉と視線とで私を矯正しようとするやり方がおぞましかった。どこかへ行っちまえばいい。これが彼と共に行動した最後となった。それほど腹を立てたユンガーだが、後になって少し穏やかな気持ちになり、シュトルツ先生の言うことは間違いではないのだと考えるようになった。そのことを本人に伝えたかったが、先生は戦争で負傷し、フランスのいずこかの野戦病院で亡くなったと聞かされることになった。シュトルツ先生は同じ学校の数学教師ヴィンデマーの妹と結婚していて義弟にあたる。ふたりはエーダータール徒歩旅行で知り合いになり結婚した。短い結婚生活で、出征中に男児が生まれたが、そのとき父親はすでに冷たい土の中に埋められていた。 数学教師ヴィンデマーも謎のある風変わりな人物で、授業はどこか散漫なところがあった。先生と町で会うといつもそぞろ放心状態だった。足早に歩き、何か考え事をしているように伏目がちでときおり髭をつまんで引っ張る。 学校では彼の様子には陽気さと生気の失せた陰気な不機嫌さが交互に現れた。よく熱に浮かされた極度に覚めたような、両眼がめらめらと燃え神経質な顔は蒼白になるときがある。だが疲れてぼんやりだらしなく見えるような時でも用心しなければならない。むかっ腹を立てがちでこんな怒りを投げつける。「優れた数学者はほとんどいつも怠惰だ。といっても勤勉なのは劣った数学者だということではない」と言うのがお決まりだった。この箴言の後半は私に向けられていた。そして吊目がちの栗色の瞳から嘲笑するような探るような視線を投げて寄こすことも忘れなかった。ユンガーには対数表の勉強が退屈でならなかったので、その著者のシュレーミルヒ(***)という名前を見聞きするといまも陰気なイメージが呼び起こされる。対数表はなぜかタルムードを思い出させる、どちらの本も誤りを発見すると報奨が得られるからなのだろうか。あるとき思い立って、先生を喜ばせようと珍しい種類の針葉樹の枝のコレクションを持参した。彼は大変喜び、それを持ち帰ったが、きっと種類を特定したり保存する労力など払わなかったろうと思うのだ。 教師のなかで最も凄腕だと思われたのはヘールゼル先生で英語の教師だった。容赦なく日々の課題を頭に叩き込ませるような厳しい指導をする教師で、同時に本来の自分を隠して与えられた役になり切れる性格の持ち主だった。服装からして、兵役に就いたことがないくせに、予備役将校のような身なりであった。ごつごつした動作、髪形、髭そしてだみ声も模倣の産物だった。教室で生徒の前に立つと、世話の行き届いた清潔な大型のブルドッグを思わせるのだった。 彼が激高すると顔がサクランボ色に赤くなるが、鼻は血の気がすっかり引いて蒼白、他では二度と目にしたことのない、そんな様子だった。人間についてこう言っていいなら怒りのあまりいななくのだ、詩人のみに許される表現だが、彼が怒るとそうなる。というのも彼は怒りをひゅうと飲み込んで、身中で短く乾いた鼻息を立てるのがはっきり聞こえるのである。彼は確かな学識・知識の持ち主で、それは私にはまったく新しい経験だった。彼の知識は他の教師とは違っているのはすでに学校で私には明らかに思えた。彼は知識をまるできれいに梱包してポケットに入れて歩いているようだった。授業時間の初めにカバンを開いて本とノートを取り出すとき、同時にその知識も取り出して、どの日も新しい課をハンマーで叩いて生徒の頭に打ち込むように思われた。毎日が判で押したような授業で、生徒たちの成績も、自らの業績も上がることはなかった。彼の慎み深さは疑えなかった。一カ所にぐずぐずしがみ付いていなかったことからもそれがわかる。彼は町を離れた。そのころはもう彼の姿を見なくなった。いつから生きづらくなったのか、知らず知らずのうちに堕ちてゆき、過度の飲酒がそれを速めた。失職し、酒場に入り浸るようになった。かつての教え子にはつらい光景だった。 この学校の教師たちは学者でもなければ学習指導に情熱を傾ける教育者でもなかった。彼らの知識はパラグラフに分けられた教科書の中身に結びついていた。このような教育課程はほとんど生徒を刺激するところがない。あっという間に授業は硬直したものとなりレールの上を進むだけになる。抗いがたい無気力がその結果だ。この欠点と相対立した長所があった。それは教師と生徒の親密さと屈託のなさ親近感だ。ホルム先生のお陰と言うべき情愛が全校に行き渡っていた。先生は生徒の熱意を掻き立て生徒間に競争をもたらすことはしなかったが、ユーモアも自由な活動に対する感覚にも欠けることなく、生徒たちが慕い心を寄せる善良さがあり、彼に感謝の念を抱かせるのであった。 同級生は大半が農家の息子たちでユンガーと同様列車で通学していた。彼がハノーファーから移ってきて直ぐに、級友たちはみな揃って古ザクセンの郷土色があることに気付いた。それは衣服から明らかだった。未だ既製服が広まる以前で衣服は村の仕立て屋によって丈夫一筋に作られていた。頑丈でごつく趣味のないもの、大人の服と同じ型から作られていたから、いかめしく仰々しいものだった。幼い下級生も硬い襟に硬い蝶ネクタイを結んでいた。ズボンは長すぎて油を塗った革靴に被さるか、あるいはふくらはぎの半ばまでしか届かない不格好なものだった。生地は黒っぽい布地か頑丈なマンチェスター(綿ビロード)で、新しいうちはビロードのような光彩のある生地だが古くなると油じみた光沢が目立ってくる。それに異臭があり雨の日には特に強くなる。異臭は彼らの衣服からくるだけではない。すべてに泥炭の煙が染みついているのだ。暖房や肉の燻製に泥炭が用いられる。この地方のソーセージは強く燻べるからあたり一帯に匂った。 彼らの衣服が堅苦しいように、彼らの身のこなしにも言葉にも堅苦しさ、もったいぶったところ、しかつめらしさ、ぎこちないところがあった。はじめ、なにか回りくどいような気取った感じを受けたが、彼らは皆子供の時から低地ドイツ語を話していて、標準ドイツ語は外国語のように習得しなければならないものだったのだ。その低地ドイツ語は村ごとに差異があった。彼も近隣の農民から低地ドイツ語を学んだので、標準ドイツ語を身に着ける困難さは理解できた。低地ドイツ語では人称代名詞の与格、対格の区別がないこと、これが標準ドイツ語を学ぶときの躓きの石であった。 級友たちと特別親しくなれなかったとすれば、それは自分より彼らの方に原因がある、とユンガーは言う。彼らは出身の村ごとにグループを作って他と付き合おうとしなかったからだ、と。彼らには大人びたところ・行儀良さがあって、遊びにもさほど夢中にはならなかった。 彼らのものの考えは早くも実際的なもの、実利的な方に向いていて、その会話を聞くと正確な計算があることに驚かされた。あらゆる点に不信の気質が窺われた。気前の良さを示す徴は乏しく、たまにあると大変珍しく思われた。それについては私はほとんど、いや一つとして忘れていない。この点において私の記憶は確かだ。だが私は彼らから苦痛を受けることは何もなかった。多くは私より強かったが、私より敏捷なものは一人もいなかった。しかし彼らは闘鶏より劣るところは何もなくて、喧嘩沙汰や殴り合いからは距離を置いていた。恐らく、そのような振る舞いは何の益にもならず、服を破るか穴を開けるかが関の山と考えてのことだろう。 ユンガー家の人々がその土地に移ってまだ日が浅いころであったが、一人の少女がやってきて彼らの家で数年住むことになった。本名とは異なるがフリードリヒ・ゲオルクは少女をウラと呼んでいた。そのとき彼女は17歳くらいだったが、目立たずにひっそりと現れた。少女の父のことはよく覚えていて、役人をしていて、精神的な事柄に関心のある風貌であった。母の方はごく狭い場でたくさんの仕事をこなす静かな女性の一人だった。この両親とは、何度かその家で夜を過ごして知り合いとなった。その家はいつも平穏で、時間が彼らとは遠くのところで、まるで遠方の駅に発着する機関車の汽笛のように過ぎてゆくような印象を持った。小さな庭があって豆の花が咲くころ、とてもいい香りが漂った。彼にはこの類の庭園は忘れがたい。シェークスピア『夏の夜の夢』で《豆の花》という名の妖精(****)が登場するのを読んで、あの庭の香りが漂ってくるようで嬉しかった。 ウラは温和な性格で、生まれながらの愛嬌があり、むら気なところはないので、すぐ皆に愛された。じっさい限りなく穏やかで、腹を立てている彼女など記憶にない。小柄で華奢で顔色は青白く、目立つ茶色の瞳、栗色の髪の毛だ。勤勉で器用な娘であり、広い大きな家の家政を取り仕切るのに完全で欠けるところがない。朝はいつも家族みんなと一緒に起き、午後も子供たちが学校から帰るのを食事を用意して待っている。長年、朝一番に聞くのは軽やかでメロディアスな「6時ですよ」「さあ起きましょう、起きましょう」という彼女の声。ベッドから出るのが母胎から剥がされるようにつらいときもあったが、なんとか起きて着替えてキッチンへゆくと、すでにウラが待ってくれている。テーブルで朝食が湯気を立て、彼女はまったく普段と変わらず明るく親切で、どんな不機嫌も消え失せ、どんな苦しみも和らいで軽くなる。 夏には早朝から彼女と森へ行き、ブルーベリーを摘んだ。それはいつもよく晴れた日で、畑地から森への道はうっそうと茂るシダに沿って続いている。高さが胸まであるシダの間に小道が走っている。そこを行くのをウラは嫌がる。シダの密生するところはヘビのたまり場だと恐れているのだ。乾燥した場所にへびは出ないといくら言っても甲斐なく、少しでもガサガサと鳴るとびくっとして開けた場所まで足を速める。半日を日差しの中、樹脂の香りが漂うトウヒの森の中を歩き、ベリー摘みに疲れたら草地に横になる。聞こえるのはすだく虫とキツツキと風の音、彼はウラの膝枕で眠る。川で取った魚、秋のキノコなどを持ち帰り、また庭で摘んだ野菜などを台所に運ぶと、彼女が料理する。彼は豆の殻をむくなど手伝う、ウラのそばならちっとも苦にならない。彼女の部屋でお喋りをすることもしばしば。 私はその部屋が好きだった。広く森が見渡せるし、いつも新鮮なリンゴの香りがしていた。リンゴの実がなる時期が過ぎても香りがしていた。一度この香りはどこから来るのかと彼女に尋ねたことがあるが、彼女はそんな香りはしないと言い張ったので、リンゴのように香ったのは彼女自身だったのだと思う。父は庭師をひとり雇っていた。はじめはダールという名のシュプレーヴァルトから来たソルブ人(*****)で、冗談の通じない真面目人間であったが、兵士になって去った。その後任にハーメルン出身のローベルトが来た。小柄でひ弱な感じすら受けたがそのじつ強靭で耐久力があった。この庭師とはフリードリヒ・ゲオルクはたいへん親しくなった。仕事中も何か口笛を吹いている、そんな音楽好きで、就寝前にツィター、ハーモニカを楽しむので、夜にはモーツァルトの熱狂的ファンの父が地下室でツィターとかアコーディオンで演奏する『魔笛』『ドン・ジョヴァンニ』『後宮からの誘拐』の音楽とダブって聞こえてくることがよくあった。 彼といると快適なので、終日、庭で一緒に過ごすこと、また夜は部屋で過ごすこともよくあった。彼は友人がひとりもなく、若い娘ときたら誰にでも物おじを覚えるのであった。それを笑いの種にして隠そうとしていたが。休日はダンスに出かけるより私と散歩する方を選んだ。我々は遠くまでさまよい歩きながら藪に植わっているバラの新芽を掘り起こして持ち帰り、庭に植えて大切に育てた。彼は結構な植物の知識を持っていて、並んで歩きながら私に植物のラテン名を教えてくれた。だが誤った変な発音だったので、微笑まずにはおれなかった。だがこっそりと笑うだけだった。というのも彼のことを傷つけたくなかったからだ。その発音の間違いを訂正することもしなかった。ローベルトはたいていは静かに考え事をしている風情、読書も好きだった。ユンガーのすることには何でも理解を示してくれるが、自分から何かをさせようとは決してしなかった。庭や温室で働いているときに一緒にいるのがたいへん愉快だった。土の準備、種まき、挿木、移植、果樹や灌木の剪定、芝生の植付け、バラの接木など実に様々な仕事を教えてくれた。冬は温室で過ごし、春には苗床の準備を手伝った。そしてシャクナゲを植えたが、これは父が特別に好んだ花で、オランダから何百も取り寄せたくらいだ。それが咲き始めると多くのハチを引き寄せる。家全体が咲き乱れるシャクナゲの壁に包まれる。手前の芝生にはアザレアの円形花壇が素晴らしい香りを放っている。 この庭仕事とそれに携わった喜びは、ある一つの観察によって強力な推進力を得た。ローベルトが湿った砂に挿したゼラニウムの枝がしばらくして根を出してきたのを初めて目にしたとき、私を捉えた驚きのことをよく覚えている。この事象は私には理解できない不可思議で、このからくりが私を襲った感情、それは描写しがたいものだ。ひょっとしたら、ポケットに幸運の銅貨を発見した人間が抱く感情と似たものかもしれない。切断された枝がどこから自立する力を得たのだろうか?芽継ぎ・接木によって根ができる様を目にして、植物の生態の不思議に打たれたユンガーはさまざまな若枝を地面に植えてこの秘密を探ろうとした。苗床でローベルトが別の植物を植えようとしていた場所まで占拠して次々に植えてゆく。そのあとも場所を変えて長らく生長の観察を続け、ローベルトはそれらの枝にきちんと養分が回るよう面倒を見てくれた。 * Wanderung ins Wesergebirge, den Süntel, die Heide und nach Hessen: この行程はシュタインフーダー湖から南西に進み、ヴェーザー川に沿ってノルトラインとニーダーザクセンの州境を南下し、ミュンデン方面まで進むルートと思われる。 [追記 2018/12] フリードリヒ・ゲオルク・ユンガーの兄エルンスト・ユンガー Ernst Jünger (1895-1998) の伝記データ (de.wikipedia) によって『緑の枝 Grüne Zweige』では明示されていない地名、学校名がいくつか判明したのでここに記しておく。 「1901年にエルンスト・ユンガーはハノーファーのゲーテ・ギムナジウム Goethegymnasium に入学し、1905年から1907年までハノーファーとブラウンシュヴァイクの寄宿学校で過ごし、1907からは家族の元に戻ってレーブルクで住んだ」とある。これで弟フリードリヒ・ゲオルクが一年遅れて合流したシュタインフーダー・メール西方の町がレーブルク Rehburg とわかった。 レーブルクは現在ではレーブルク=ロックム Rehburg-Loccum の東地区となっている。なおエルンスト・ユンガーはレーブルクの名誉市民に選ばれている。 「兄弟姉妹とともにヴンストルフ Wunstorf のシャルンホルスト実科学校に通った。この時代、彼は冒険小説に対する偏愛と同時に昆虫学への愛着も発見した」とあるので、兄弟が通っていた学校名も判明した。 シャルンホルスト実科学校 Scharnhorst-Realschule は1904年に創立。後にシャルンホルスト学校 Scharnhorstschule とも呼ばれ、さまざまな学制変更を経て2015年に閉校となった。創建時はオスヴァルト・ベルケ通り Oswald-Boelcke-Straße にあり、閉校時にはノルトブルッフ通り23 Straße Nordbruch 23 にあった。(de.wikipedia) 著名な生徒として(ただ一人!)1907年から1911年に在校したエルンスト・ユンガーの名が挙げられている。 緑の枝 -5- Grüne Zweige -5-「家から歩いて三十分のところに小さな温泉地があり、周辺の村の農民たちはブルネン Brunnen と呼んでいた」という。ユンガーの住居はシュタインフーダー・メール西方の町レーブルクにあったので、ここにいう温泉はレーブルク山地と呼ばれるなだらかな丘陵にある、かつての保養地レーブルク温泉 Bad Rehburg であろう。18世紀半ばから拓けたこの入植地はレーブルク泉 Rehburger Brunnen の地区名称で最初レーブルク市に含まれたが、やがて独立した。19世紀にはホテル、娯楽施設、チャペルなどが建設され、また騎馬憲兵隊の駐屯地も置かれた。現在では(1974年から)この温泉町は Rehburg を中心に Münchehagen と Loccum と Winzlar の5地区が合併して Stadt Rehburg-Loccum となっている。ユンガーは温泉へ向かう道について、歩くのに絶好の道だと述べる。丘を越えて行くので見晴らしが広がり、畑、沼地、草原、森が目を楽しませてくれ、ことに湖と島が素晴らしい、夏には青い湖面に白い帆が、まるで小さな真っ白な綿毛が散っているように見えるのだと。島とはヴィルヘルムシュタイン Wilhelmstein であろう。これは18世紀に造られた人工島で、シャウムベルク・リッペ領主の伯爵 Graf Wilhelm zu Schaumburg-Lippe が、彼の小国を他国からの侵略を防ぐ要塞として建造した。 森の縁に沿ってトウヒ、ブナが緑の屋根のように張り出している道を行くと、小高い位置でブナの老木が道の中に立っているところがあり、1本はすでに枯れて5本しか残っていなかったが《六本木》と呼ばれていた。木々は樹冠が重なり合って一つの丸屋根のように見えた。野生のハトがその場所を好んで、そこを歩くとよくグルグルと鳴き声が聞こえてきた。ユンガーもその場所が好きで、《六本木》に差し掛かるといつも休憩をとり景色を眺めるのだった。 温泉ではヤギの乳と水を混ぜたホエー(乳清 Molke)が飲まれ、これは身体にいいと評判だった。かつてハノーファー王が好んで訪れ、そこには《ケンブリッジ公爵ホテル》があって、ハノーファーと英国王室との親密な関係が伺われる。のちにここはプロイセンの温泉となり、ひとりの医師が環境も空気もよい当地を肺病患者の療養所にしようと考えた。いくつかサナトリウムが建ち、健康保険組合からも病人を送ってきた。だが保養地・リゾートとして発展させる計画はうまく進まなかった。たいていの人は結核病者の傍らで過ごそうとは思わなかったからだ。療養所に楽団があって、晴れた日には緑に囲まれたパヴィリオンで演奏したが、聴衆は少なく、時にはユンガー一人だけということもあった。音楽が却って周辺の深々とした静けさを意識させてくれた。 さらに冬になるとすべてが雪に埋まり静けさが増して、煙突から立つ煙だけが人の存在を示すようになる。この一帯の静けさにひかれてユンガーは四季を通じて週に2度3度と訪れる。手工職人の息子と仲良くなったことも足しげく通う動機となった。息子は丘のふもとの家に住んでいて、そこは夏には香りの高いジャスミンが葉を伸ばし、彼らは暖かい夜更けまでそこに座ってお喋りに時を過ごし、そしてユンガーは暗い森を抜けて家に帰るのだった。雨の後はアオウキクサに覆われた池のほとりで黒と黄色が混じったサラマンダーが見つかる。節くれだった木の根があれば、人の頭とか竜の頭の形に切り取る。兄のエルンストはこのグノーム彫刻がとてもうまかった。 この地の住民で、いつも2頭の大型犬を連れている老医師とも知り合いになった。妹のハンナを気に入ってくれ、いつでも、クリの木とモモの木も植わっている広い果樹園に入って実を採っていいと許してくれたので、春と夏には訪れた。その他そこに住む人々とは、何か仕事を依頼することのある職人たちを除いて、ほとんど没交渉、姿を見かけるだけだったので、思い出すと何だかマリオネットを見るように感じられた。 温泉地では、ときどき奇術、人形芝居、旅芸人一団の興行がある。春には小さなサーカスもやってくる。周辺の村の木々や塀に宣伝のビラが貼られる。音楽堂近くにベンチが据えられ、テントが張り巡らされる。なにもかも質素な作りだったが、ユンガーには大きな楽しみであった。というのは彼は肉体の力や機敏さが必要な技、とくに綱渡りが好きだったからだ。 ある日のサーカスの公演のこと、彼の生涯に重大な意味をもつこととなった、その夜のことはいまもしょっちゅう思い返さずにはおれない。道々手にしたハシバミの枝でタンポポの花を打ち落としながら、ぶらぶら出かけたのだった。 その夜は暖かく明るく、はじめは明り無しに外出できるほどだった。観客の大部分は子供で、そして私は、13歳そこそこであったが、他の子供たちと同様とてもいい観客であって、入場券が与えてくれる権利を完全に楽しもうという気持になっていた。こうして上機嫌で公演の開始を告げるベルの音を聞いた。間違っていなければ、はじめに見たのは着飾った動物たち、サルや犬、それに火食いの奇術だった。だがそのとき私の観客としての役割は終わっていた。それは不思議な瞬間だった。12歳くらいの少女が砂地のリングに飛び出して来て観客の前で微笑みながらお辞儀をし、サーカスの人々みなに特徴的な、荘重で幾分こわばった動き、両腕を高く挙げるポーズで来場者に挨拶したのだった。少女の髪はブロンドの巻き毛となって肩にかかり、身に着けるのはバレリーナのような薄い絹の衣装、手には短いムチを持って、これはあとで投げ捨てる。彼女の後ろから白馬が入ってくる。彼女は鞍に飛び乗り、並足、速足、ギャロップで走らせながら、馬の背に座り、膝をつき、あるいは立ち上がる。すでに日は落ちて、明りが眩しく灯り、舞台と会場を取り巻く木々を照らしていた。 これより速く、強く、否応なしの思慕の突発はあり得ないだろう。この日の夜まで私は女という性に対する目も耳も無かった。私がこの素晴らしい被造物を目にした瞬間、至福の感情が全身を貫いた。それはこれまで無かったもので、名前すら知らないエレメントのように私を襲って驚かせた。木の葉で飾られ明るく照らされた舞台で少女は、運命の車輪(*)の上を回るように、馬に乗って回った。これより美しいものは見たことが無いと思った。何より惹かれたのは、軽々とした身のこなしだった。優美で、まるで小鳥のように空中を飛んでいるように思われた。私は身体の敏捷さには相当自信を持っていたが、このような軽々とした真似のできない優美さを目にして、自分は鈍重なのだと思わされた。少女を乗せた馬はギャロップで退場。乗り手はもう一度戻ってきて、厳めしくしゃちこ張った挨拶をして、カーテンの後ろに姿を消す。同時に彼には一切が気の抜けた空虚になった。焼けるような痛みが体を貫く。周囲の人々が煩わしくなり、公演が終わるのを待たず会場を出て、暗い森を通る近道をとって家に向かった。心中は少女のイメージでいっぱいなので、もう一度彼女を目にするのは絶えられなかった。一人になること、彼女から空間的に距離を取ること、それが治療薬のように思われた。 帰宅するとすぐさまベッドに入って目を閉じたのは、眠るためではなく、先ほどの出来事をよく考えてみるためであった。眠りの前には人の顔や姿をいつも喚び出せるのに、あの美しい少女のことを思い浮かべようと、精いっぱいの努力をしても、あるいは努力をするからこそなのか、試みは成功しない。すぐに目に浮かぶ顔はすべて似ていない。どのような顔かを描写することはできない。それができないことが彼を苦しめた。思い違いをしたのだろうか、照明と距離に欺かれたのだろうか、と自問する。お前が思っているようには美しくなどなかったのではないか、と。いや、容姿は完全だった、難癖を付けるところはなかったと、自分に言い聞かせる。欺かれたのではないかという自問は様々に続いて、このときはじめて «Quidquid recipitur ad modum recipientis recipitur»(**) という命題を深刻に考えさせられたのである。「受け取り方は、受け取り側の尺度次第」なのだろうか。彼はそれに反論する。 いや、と自分自身に言った、これが全部まやかしならお前はもう生きていたくないだろう。私の考えは熱を帯びて千々に乱れた。私は病気になるに違いない、痛ましい情熱が私をすっかり飲み込もうとしているのだと思えた。しかし突如、涙が滂沱として流れ、その時からひと月以上、いくら泣くまいとしても激しく泣かない夜はなかった。朝まで覚めたまま伏せていて、そして疲れ切って眠った。しかし今度は夢の中ですべてが繰り広げられるのであった。ここではその不思議な夢と、その夢についての彼の考察を詳しく見てみよう。夢はこのような展開を示す。 最初、白樺に覆われた道が見え、これがどの道かはすぐわかった。というのも近所にあって、よく歩いたり自転車で走った道だったからだ。白樺の根元にはヒースが群生、白いひものように伸びて遥か彼方に消え、その葉は愛くるしい緑の旗のように垂れ下がっていた。私は長い時間この道をさ迷い歩いたような気がする、そしてやっとあの少女を、ひとりで樹下にたたずむ少女が目に入った。私を待っていたのは明らかだ、というのも彼女はすぐさまこちらを見て、その顔が、今や表情の隅々まで馴染みのある顔が、喜びでぱっと明るくなったからである。彼女に近づいてあいさつすると、手を差し出してきた。その手を握ろうとしたが、はやその姿は遠ざかり、捉えられることなく、消えていった。あたかも彼女はその場から動いたのではなく、透明になり溶け去ったようだった。ユンガーは自らの夢を次のように解釈・謎解きする。この夢は彼にとって慰謝(バルサム)であっただけでなく、後になって思い起こすと、完全に真実で、予言的な夢であった。なぜなら現実に、少女が馬に乗って両親とともにこの道を進んで行っただけでなく、出来事が最短の形で表現されている、その真実さと正確さには容赦がなかったけれど、温和なトーンも無くはなかったからだ、と。 それ以降の公演はなく、サーカスの一家は温泉地を去ると聞かされ、愕然とした。彼はもう一度彼女の姿を見たくて、昼も夜も毎日のように会場付近へ出かけ、学校も食事も構わずにずっと待ち続けた。そして、忍耐が報われる時が来た。噴水のところに少女が現れたのである。籠を手に提げ、木の下をやって来て噴水に近づく。身を乗り出して格子越しに、丸い水槽の中を泳ぐ赤い金魚を覗き込んだ。 この瞬間、すべての知覚が鋭く曇りなく克明に記憶に刻まれ、後になっても鏡を見るがごとくよみがえってきた。薄日が差して生じる微かな水面の揺れ、針金で編まれた格子、木の葉の天井から漏れる光が道の上で縞を描き渦巻いたり斑紋を作る動き、昼下がりの静まり返った暑い静けさ、そこを華奢な姿が動くさま、これらすべてが、まるで蝋に型押ししたように明瞭に残っている。ただ顔貌だけは、彼女がそこに数分いて身を起こし噴水を離れる、その瞬間に逃れてゆく。彼女が木々の間に消えるまで後ろ姿を目で追って、そして私は森の中に入り、空が開けたところにある、地面一面にスズランが生い茂る気に入りの閑静な場所に向かった。翌日、また彼女の姿を見ることができるかと温泉地にやってきたが、その場所はテントが取り払われ空地になっていた。 このころ彼は多くの本を読んだ。父の蔵書が、大きな部屋のすべての壁の、天井まで届く書架に並んでいて、それが日々増えていった。父はドレの絵の入った蔵書票を使っていた。あるとき数週間かかって蔵書の整理とナンバーリングをした。父の蔵書は自然科学書が大きな部分を占めていた。天文学、物理、化学、薬学など、それに動物学、植物学、地理学、鉱物学、そして法学。回想録、歴史書も多数あって、ナポレオン関係が主だったものであった。それに旅行記、地図、事典。加えて少なからずのチェスの本だ。父は40歳から習い始め、プロの棋士たちを自宅に招き、その多くが数週間滞在した。父は年齢とともに理論研究に集中していった。フリードリヒ・ゲオルクも父に倣ってチェスを学んだ。上達は速かったが、時間を取られ過ぎることを恐れて深く極めるまでには至らなかった。
そのほか蔵書には古代の作家、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語からの翻訳もの、そして読書狂の母の嗜好による文学、詩作品があった。ユンガーはその中の『千一夜物語』に読みふける。これは何にも代えがたい楽しみだった。アジブとガリブの物語、そしてオマル・ビン・アル・ヌマン王と息子たちの物語(***)の二つは除いて繰り返し繰り返し読みふけった。父の蔵書のカタログ作りをしているとき、20ポンドにも及ぼうかと思われる重い本があったが、それがアリオスト『狂えるロランド』で、ドレの挿絵入りだった。これを自室まで引きずってゆき、挿絵とテキストを比べながら読んで、その世界にのめり込んでいった。広大な森、城塞と宮殿、小人に巨人、魔術師、モール人、騎士、旅する女性……これらに引き付けられた。ロランドの狂気は完全に理解できると思えた。ひと夏をこの本とともに過ごした。 この頃が思考の転換時期だったとユンガーは言う。少しく込み入っている彼の述懐に耳を傾けてみよう。まず、当時を思い返して〈不可侵 unverletzlich 〉だという感情がなくなった、というのが正確な表現だと言うのである。子供はその感情がなくなるともはや子供ではない。どのような経過をたどるか。ここに加わるものがあって、それは《美しい女性》という言葉で思い浮かべること、《女性の美》についてそれまではごくわずかしか概念が無かったことだ、と言う。母のことはさておく。妹のハンナのこと、彼女が美しいかどうかなど考えなかったが、あるパーティで人ごみの中を妹が目の前に来たとき、まったく別人かと思え、その瞬間、美しい少女だと思った。これは奇妙な瞬間だった、忘れることが無い、なにしろ二度とない驚きだった……すなわち異性の存在、その美に気づいた時が〈不可侵〉でなくなった転機ということか。 だが《美しい女性》という称号は温泉地の医師のB夫人に相応しい、と続ける。ときおり母を訪ねてきて、小さな長椅子に腰かけている容子は、ほっそりしなやかで整っていて、なにか完全・完璧なものと呼ぶしかなかったと述べる。灰色がかった金髪で卵型のプロフィール、整った純粋な柔らかく丸まった、一筆で描き上げられた目鼻だち、そこにすべてが溶け込んでいる。向かい合うと、青い深い燃えるような二つの目が見えた。すでにモルヒネを使い始めていたのだろう、双眸の光沢、見事な青白い肌の色、なにか震えを伴なう活気、それらが高価な薬を飲んでいることを恐らくは示していた。当時彼はそうとは知らず、夫人が行きつく所まで行ってから聞き知った。母のそばに腰かけている姿を見て、この人はスミレの香りを持っているに違いないと思って、胸いっぱいに空気を吸い込むと、快感の大波が押し寄せてくるようだった。これが単にそう思っただけのことなのか、実際にスミレの香りがしたのか香水によるのか、今になってはわからないが、夢見るような快感であったことは確かだと言う。 転機について、このように続ける。あるとき遊んでいて不注意で怪我をし、すぐにこうした遊びをやめた。だが傷ついた Verletzung という感覚は残り、消え去ることはなかった。子供の痛みは大人の痛みに劣らないし、両者は別種のものなのだ。人はその類の出会いはかりそめのもの、その大部分が幻覚で、後々まで残るようなものは生じないのだ、と考えるかもしれない。しかしそれは誤りだと断言する。ユンガーはその場所を20年後に再訪した。噴水は壊れ、金魚池は消えていたが、記憶はありありと残っていて、それには痛みが伴っている、この痛みは過ぎ去った過去の余韻、エコーだとしても、と。 このように振り返ったあと、ここで当時見た夢について話したいと断ってユンガーはまたもや夢の話を語るが、出現するのはあのサーカスの少女ではなく今度は精霊たち、じっくりと彼の言葉に耳を傾けてみよう。夜の夢は昼の生活の夜の側からのコピー、あるいは足りないものの補充と見なされている。だが彼は、優しさに満ちた示唆と助言、昼間の思考、事物の理解を助ける不可欠のものだと言う。彼は休暇や日曜日にしかできなかったが朝寝坊が好きだ、小鳥が巣を慕うのと同じようにベッドに愛着があると言う。シンプルな鉄製の野営用ベッドで、バネが弱くなっていて、身体を置くと窪地のような凹みになるので、家族にはハンモックみたいだと冷やかされるが取り換える気は全くなかった寝床。 部屋は屋根のすぐ下で東向き、朝日が差し込む。冬は部屋の洗面器の水が氷るほどだが、自分は寒い部屋で寝るのが好きだと言う。作り付けの戸棚にすべての持ち物、収集品を入れた鉄製の小箱も収められていた。壁には鳥の絵を掛けてある。窓の高さに、道に面して樫の木の樹冠があり、春から秋までホシムクドリの賑やかな囀りが聞こえる。父がたくさん取り付けた巣箱、それがすべてこの鳥に占領される。早春、雛鳥が飛べるようになる頃、ユンガーはしばしば賑やかな鳴き声に起こされる。活発に夢を見ていたが、そのとき夢に変化が生じたことに気づく。しばらくの間は望む通りに夢見ることができると信じていたが、やがて夢は好き勝手に進行し、思い通りにはならないことを知った。 続けて言う、わずかしか夢を見ないとき、多く夢見るときがある。明瞭さの程度は様々、というのは目が覚めると多く夢は逃げ去って、もはや捕まえることはできない。目覚めの後よく夢を見たとは感じるが、夢の端っこを掴めるような気のするときですら、どんな夢だったか思い出せない。しばしば夜通し夢を見続けたと思う時がある。そして夢の縺れが消え去った時、いい夢だった、あるいは悪い夢だったという感覚は残るのである。 さてこの時分、私はほとんどいつも軽快で明るい夢を見た。こうした夢で、二つめの性があるという一層明確なイメージを得ることになった。この発見は自分の中から出たのではなく、虚空から近づいてきた使者によってもたらされたように思われた。訪れて来た者の姿が光を放ちながら、しなやかに近づき遠ざかっていったとき、私は手足を動かすことはなかった。使者たちは初めはまれに、それから頻繁になり最後はしょっちゅうやってきて、私の注意を強く引き付けた。私は彼らを精霊 Genien と名付けた。矢のように飛んできて私の周りを回るところはまさしくそう見えた。というのも彼らはほとんど身体が無く、思い返すとすぐに明るい銀色の音響が記憶に浮かんでくるが、それはモーツァルトの音楽の調べ、とりわけコシ・ファン・トゥッテの序曲の響きなのだ。そこには次のような事情がある。私がベッドに横になるときしばしばドア越しにこのメロディアスな小オペラ、あるいは魔笛の音色が鈍く聞こえてくる。これらは父にとってあらゆる音楽で最高のもの、いつも演奏していたのである。家中が静まり返った夜のしじまの中、階段を上ってくるコシ・ファン・トゥッテの序曲を耳にしつつ眠りにつく。とりわけ繰り返す音の連なりに注意を向ける。その繰り返しが耳にこびりつく。こうして夢が始まる。 かくて夢がはじまる。精霊たちが接近してくるのは心地よいものだが、彼らの一つとして私に触れることのできる近さまで来ることも触れたりも、しない。しかし私は気づく、この距離が次第に縮まり、彼らの姿がはっきりしてきて、輪郭を持つようになったことに。ぐっと迫ってきたことは現れた姿が女性のものに違いないと判る、そのことで確かめられた。それは彼らの性が目に見えるようになったためではない。と言うのは彼らは裸ではなく、また着衣もなく、空気そのものがその姿を不透明のうすぎぬのように囲っていたからだ。彼を取り巻くときの精霊たちの運動の法則が次第に分かるようになった、あっけにとられることなく観察できるようになったとユンガーは述べる。その折には彼は身動きすることなく仰向けの姿勢をとっている。自分の肉体のイメージは、腕を横に置いて上を見ている、その寝ているときの姿勢にそっくり対応している。 だがある夜、その夢が再びやってきたとき、精霊の一つが雲つく高みから電光の速度で下り落ちてきた。私は驚いたが、突如とびきり美しい子供の顔が――それは大きな少女と言うより子供だった――上から覗き込んできて、潤んだ空色のようにきらめく目で私を見つめると、同時に巻き毛の渦が顔に垂れてきた。私には子供の顔だけが見えた、体の方は知覚できる材料のものとは思えなかった。というのはキスされたのは感じたが、それは愛の矢の羽根のような研ぎ澄まされた鋭さで私を貫いたからだ。夢ではしばしば、ドアのノックのようなかすかな物音、空間の閃光のような些細なことが大きな意味をもつとされるが、この予期せぬ優しい接触がどれほど私を感動させたか理解されるであろう。その接触には人を鼓舞する焔が、全身を貫き通す甘美さがあり、長らく消えずにあった。目覚めたとき、彼はすごい贈り物をもらったように思えるのだった。霊たちはそれを見通したかのようで、あたかも気前の良すぎる姉妹を恥じるかのように、遠ざかってゆくのであった。そして夢の視覚の捕えどころのなさが増し、虹のごとき輝き、オーロラのごとき透明さが失われてゆき、モノの輪郭が明瞭となってくる。そしてすべては消え失せ、二度と現れることはなかった。 * 運命の車輪 Glücksrad とはローマ神話の運命の女神フォルトゥーナが操る車輪 Rota Fortunae である。多くの絵画の材料になるほかに、タロットの「運命の輪」カードの元となり、また現在ではテレビのクイズ番組のタイトル(「ホイール・オブ・フォーチュン」)や、イケア IKEA 製の玩具の名前に用いられたりしている。右挿絵はホーエンブルクの修道女ヘラッド・フォン・ランツベルク Herrad von Landsberg (ca.1130-1195) の著した百科事典《歓喜の庭》Hortus deliciarum 所収の図。 |