拾遺集(28) Aus meinem Papierkorb, Nr. 28緑の枝 -6- Grüne Zweige -6-サーカスで曲馬の少女を目にした至福の瞬間、少女が去った後の虚脱と悲しみ、その際には思いは千々に乱れ夜通し泣き通し、明け方ようやく眠りに落ちると今度は夢の中で同じことが繰り返される。サーカスの少女が現れ、近づくと溶けるがごとく失せる。そういう夢見がひと月以上続いた。異性というもの、女性の美について意識するようになり、子供時代の終わり、自分の在り方の転機を思い始めたころ、そのころの夢には、階下から響いてくるモーツァルトの曲を耳にしながら眠りにつくのだが、虚空から使者が接近してくるようになった。美しい光彩を放つ精霊たちは自分の周りをつかず離れず飛び回る、まことに心地よい夢である。一度はぐっと迫ってきてキスをした精霊もいて、甘美な感触がずっと消えずに残った。[付記]「それに続く時期に生じたことをはっきりさせようとすると、ウラのことだけを考えればいい」と言う。ウラとは 「緑の枝 -4-」後半で登場する、ユンガーの家に住み込んで食事や子供の世話をしていた17歳くらいの少女、両親は小さな庭に豆の木のある家に住んでいた。父親は官吏だった。 彼女に関わらないことは記憶の中で色あせてあいまいになっている。ウラがなぜ記憶に対してこのような力を持つのか、と彼は自問する。彼女は美人でもなければ醜くもなかった。一目見て印象に残ることのない、目立たない存在だった。だが、普段はその存在は気づかれないが、数日でもいなくなると家の中にぽっかりと空隙ができる。冷気と空虚が忍び込む。不快な気分に捕らわれる。それが彼女が戻ると即刻解消する。妖精の美徳(Elfentugenden)をもっているに違いない、なぜなら勤勉で器用だというだけでは、このように知覚されることを説明できないからだ。 一度彼女の夢を見た。彼女はにっこり微笑み、手に大きな鍵を持っていた。事実彼女はある種の記憶を保管していて、それを通して私には過去の記憶の全領域が開かれる。だが鋭い目で注視する者も、私が彼女に見るものを発見できないだろう。彼女は下級官吏の娘で、狭い小都市の環境で育った。これらはことごとく彼女に見て取れた。身に着ける衣服は常に注意深く体を隠すためのものという印象を与えた。装いというより覆いであり、小柄な細い体つきを隠していた。あたかもそこに身体は無いかのように、あるいは身体を意識させないかのように。田舎の生活が与える魅力はすべて彼女を通して感じられるものとなる。春はキングサリ Goldregen (Laburnum) に囲まれる園亭での朝食、家の前のカシの木の下での昼食、広いバルコニーでの夕食、これらすべてだ。暑い季節になると彼女はカシの古木の下の影を好む。熱気が身体に応えるのである。夜の冷気の方を好んだ。日中、ウラは草の上にシートを広げて寝ている。彼が見上げると樹冠でアトリ、シジュウカラ、ゴジュウカラ、キバシリががさごそ音を立てている。夏はコウライウグイス、秋はカケス、モリバトがやってくる。クワガタが散歩して登ってゆき、毛虫が長い糸を伝って降りてくる。 ウラの本性には夢見るところがある。彼女がいつも愛の夢を見ている、これより確かなことはないと思える。その目、顔には恋い焦がれている表情がある。縫物をしてまぶたを下ろしていると、まつ毛は小さな房飾りのようだ。頬のえくぼにはなにか甘美なものが漂い、内なる声に聞き入っているかのようだ。そういうときに声をかけると彼女はどきっとして顔を赤らめ動揺したように見える。あたかも眠りから目覚めさせたように。ある春の宵、外は激しい雷雨で、彼は彼女とメードのフリーダと明かりを点けないで室内にいた。二人の女性は雷光・雷鳴が怖くて部屋に戻れない。ウラはソファーで横になっていて、彼はそのそばに座っている、フリーダはドアの前で立っている。稲光のたびにウラはびくっと体をすくめ、ため息を漏らす。彼はウラをからかって髪の毛をくしゃくしゃにする。だが、突如彼女は彼を突き放す。その瞬間フリーダが電灯のスイッチを入れたのだ。この小さな出来事が、彼には強い印象を与えた。あたかも眠りから覚めて、物事がこれまでにない、夢にも思わなかった見え方をしたようだった。彼女の激しい動きが何を意味するか、理解した。二人きりの時はこのようなことはなかった。二人のことは他人には知らせないと、了解があったのだ。 それまで姉弟のように暮らしてきたが、その関係が変わり、それに伴ってお互いの態度も変わった。ウラは彼に対する思慕の情に気づいて、それを変えようと努力した。ふたりだけの時、以前のこだわりのなさが続いているようにふるまうが、人工的で、わざとらしさがつきまとう。彼女は憶病になって、それを克服するのに大変な努力を必要とした。彼女は穏やかな日々を望み、ダンスやパーティに出かけることもなかった。ダンスなら家で家族と踊った。ウラは日記をつけているが、彼に覗かせたことがあった。慎ましさを尊重していることが読み取れたが、つねにある距離をもって表現されたので、その陰影しか見えなかった。 ある暑い夏の日のこと、学校が早く終わり昼頃に途中の温泉駅 (Brunnen) で下車しそこから歩いて家に向かった。彼は夏の暑い日が好きだった。この日のことははっきりと記憶している。人生の甘美さを味わっていた、尋常でない幸福感が体を貫いた。あらゆる義務から解放されて、歩くというより踊り進んだ。畑の畔でナミヘビ Natter を見つけ、捕まえようとしたが、いつもより手ごわいヘビで格闘するうち、真昼の不安 Mittagsangst に襲われ、そのまま帰宅した。 ウラが一人でいた。暑さに参っているとこぼした。二人きりの昼食。黙りがち、普段とは全く違う感じで、疲れ切って弱弱しく熱でもあるようだった。食後彼は水浴びに出かけ、日が暮れるころ帰宅した。 私たちは一緒に夕飯を食べた。そして私はもう一度出かけた。あちこちさまよい歩いて、千々に乱れた考えが頭をよぎった。というのは彼女が私を待っていることは分かっていたからだ。そして家に足を踏み入れたときも、彼女が階上で立っているだろうと分かった。かくて我々は彼女の部屋のドアの前でまるで泥棒同士のように、お互い相手に不安をいだきながら出会った。その夜はとても暑く、空気を通すため窓は大きく開いてあったので、廊下からカシの木が見えた。その木は窓の前に植わっていて、明りで照らされていた。我々は一瞬向き合って立っていたが、ウラは指を唇に当てた、これは秘密のことよ言っているように。そしてすぐ私の部屋に滑り込んだ。ユンガーは、この夏の夜が離別の始まりとなった気がする、と言う。ウラが最初に抱いた気持ちは、われを忘れて大胆な行動に走ったこと、そのことに対する不安だった。人の耳目が見ていなかったとしても家が囁くに違いないと思った。ウラの不安な様子に彼を引き付けるものがあった。二人は共謀者として過ごすことになった。彼女の眼は饒舌だった。ちょっとした眼差しから、何か請い願う気持ちを彼は読み取った。多くの質問を投げかけたいのを、我慢した。彼女が顔を赤らめ、質問から逃げる様子が彼を恍惚とさせた。 私の記憶に間違いが無ければ、この夏はとても暑く急な雷雨が多かった。好天気が長く続いた。湖から流れ出る小川のある場所に、毎日出かけるきまりの水浴場があった。そこでは木製の堰で水が穏やかな淀みとなっていた。池のように白いスイレンの葉と花で覆われていた。ここに描かれる天候と、彼が毎日でかけるお気に入りの水浴場と披露されるところは、短篇小説『黒いゼニアオイ』(*)の、夏休み中の二人の高校生が泳ぎに出かける水浴場面を想起させる。 話をしながらくぼ地になった岸辺に降りてきて、小川のいつも泳ぐ場所に着いた。木製の水門がゆったりした流れをせき止めていた。水面にはスイレンの丸い葉と白い花が浮かんでいた。川岸の低地は湿った酸性の土で、耕作には適していなかった。あたりに広がる牧草地もわずかな収穫しか上げていなかった。施肥は行われず、年に一度刈り取るだけだった。いたるところでイグサ、スゲ、カヤツリグサが牧草に混じって生えていた。泳いでいると、白い夏服と幅広の帽子をかぶったウラも、湿った草地を通ってときどきやってくる。彼女は泳ぐことなく、岸辺の草の上に座って見ている。そして二人で帰る。彼女を日々見ることができなくなる、彼女がいなくなる、などと想像することはできなかった。だが彼女の母が病気になり、彼女が看病することになった。ウラはユンガー家を去った。 彼女がいなくなってすぐ、その部屋に行き、何もない空間、裸の壁、むき出しのベッドに悲しみを覚えた。急に姿を消した彼女の微かな痕跡を探した。彼女の息が感じられ、声が聞こえると思って、長い間そのベッドに目を閉じて横たわっていた。壁の隠れた一隅に彼女の名前といなくなった日付を書き付けた。家は死に絶えたように思われた。彼女がもういないことに慣れるまで長い時間がかかった。彼女がいなくなって、過ぎ去ったことばかりにかかずらう。魔法にかかったようで逃れられない。思い出が忍び寄ってきて、まるで失われた妙なる響きが鳴る郷愁のように苦しめる。鳥の鳴き声にも同じ気持ちで聞き耳を立てる。夜、ベッドの中でダイシャクシギまた秋に群れで渡るツルの憂鬱な音響を聴く。「過ぎ去ったことは過ぎ去ったこと、どうしても戻らない、イメージの中でしか返ってこない」、それが辛い。日記を付ければ苦しみが和らぐと考えて付けてみた。記憶は、再び呼び出すことで豊かになり、変化に富み、メロディアスになる。記憶にある様々なシーンは自由に再現できるようになり、それは甘美な刺激であった。 このような夢うつつの状態に、彼は名称を与えた:「モクセイソウの庭へ行く In den Resedengarten gehen」と。それには次のような事情があった。いつかどこかで花壇にモクセイソウ(**)が咲いている庭を見た気がする。彼はこの花が好きで、とりわけ香りが素晴らしいと感じていた。庭がどこに在ったのかわからないが、その情景はきちんと言える。営林署官舎のような古びた、窓には木製の雨戸のある建物に付属するいささか荒れ寂れた庭。モクセイソウがなければ放置された家屋敷だと思っただろう。いつどこでこの癒しの香りの庭を見たのか言えなければと思うが、また「その庭はお前は見ていないんだ、おりおり想像の中で散歩できるように、でっち上げたのだ」とも思う。本当に静かな庭だった。完ぺきに隠された、露がぽとぽと落ちる以外は何の動きもない庭、風もなく枝の先も揺れない、他人は誰も来ない、いつも彼一人きりの庭だった。 秋の深まった庭に立つ。彼の好きな土と野菜の香りが漂う。ある日の午後だった。澄み切った大気と青い空、渡り鳥の鳴き声が聞こえてくる。こみ上げる涙、抑えきれない興奮。夜は眠れない。家を出て菩提樹の植わっている丘に登って横になる。どうして鳥の声が心の底まで響くのか。何かを失った。もはや自由になれない、もう捕らわれ人なのだ。フリードリヒ・ゲオルクはウラがいなくなったショックが治まらなかった。なぜ自分もあの鳥のように飛んでいけないのか。 憂鬱の発作に襲われたときは歩く。兄エルンストはそのころハーメルンのギムナジウムで学んでいて休暇にしか帰ってこないので、一人で歩く。ユンガーの家は、父によると、氷河期の漂積物と森林砂岩の境にあるという。氷堆石 Moräne は砂・砂利の鉱床となって坑道から採掘され、砂岩は瓦礫として掘り出される。そのたぐいの採砂坑が、家のすぐ近くのミューレンベルク Mühlenberg にある。そこでは砂と石の層が良く観察できた。一番近い採石場は野原の盛り上がった丘、ハールベルク Haarberg にある。サクラの木が自生していて、水は小さな緑の池となっていた。長い間、彼には秘密めいた不気味な場所であった。
この採石場は常に稼働しているのではなく、どうやら注文があった時だけに動くようだ、普段はいつも無人で、稼働していないときは黒っぽい物置小屋やトロッコの鉄路、古い炉や発破で砕かれた石の塊など、亡霊じみた印象の場所だという。この場所の描写もまた彼の短篇小説『黒いゼニアオイ』で殺人現場となる採石場を想起させる。 ネリーが話していた採石場は機械工の家が建つ丘のすぐ後ろにあった。石切り場では、赤みがかった、かなり硬い砂岩が切り出されていた。前には二本のニレの老木があった。切り出した石を運ぶトロッコ用のレールが一対、石切り場の中から外へ延びていた。ハールベルクの採石場にはナミヘビ Natter が他では見られないほどたくさんいる。池で泳ぎ、脱皮した古い皮をとげのある草に残していた。カエルが多いのがヘビを呼び寄せていると思われるが、ユンガーは何匹も捕まえて家へ持ち帰った。 この場所の池ではまた兄弟でガムシ (Wasserkäfer / Hydrophilidae) を採集した。兄エルンストは昆虫に夢中だったので、休暇で帰って来た時には二人で採集に出かけた。子供の昆虫採集には父も大いに応援した。 兄の昆虫狂い(***)は近所の採砂場でハンミョウ Sandläufer (Sandlaufkäfer / Cicindela) を追いかけたことが始まりだった。冬にも金槌と鏨をもって森のトウヒの切株を砕いて冬眠中の虫を採集し、氷を割って水中の虫を掬い取った。網をふるい、樹皮をはがし、地面の石を裏返し……およそ探索のおよばない場所はなかった。昆虫にはエルンストの方が熱心で、フリードリヒ・ゲオルクは兄の採集に付き合いそのコレクションを増やすことに参加することで満足していた。 兄弟には遠くの国へ旅行したい、自立したいという願望が強まった。ことにエルンストはその願望に身を焦がしていた。春に二人で一週間の徒歩旅行に出たことがあった。多くの浮浪者・無宿者を目にする。放浪者が語る隠語にもエルンストは興味をひかれる。放浪者を目にするとエルンストは夢中になって、彼らの生活を色鮮やかに描き出した。だが、それでもって彼らの仲間になるという気持ちは収まって、ひたすら熱帯地方へどうすれば行けるかを思案するようになった。自立した生活がまだ可能だと思われる土地を求めたのだ。 兄はずっとこれまでさほど多くの詩を書いていないが、当時は蝋引き皮表紙のノートいっぱい詩で埋まっていた。朗読してくれたし、頼むとそれを与えてくれた。私はそのノートを紛失してしまったが、その詩のいくつかははっきりと記憶している、何度も読んだからだ。エキゾチックな魅力が無いとは言えなかった。後に、フライリヒラート(****)の詩を読むと色彩が強くてうっとりとさせられ、予期せぬ陽気さを呼び起こされたが、そのおりエキゾティズムは滑稽な面もあるのだとわかった。エルンストは密かに抱いていたアフリカ行き計画を実行に移す。まずは灼熱の気候に慣れようと、父がキュウリを育てている温室で、地獄のように暑いところで何時間も座って、かつ地獄のようにきつい煙草を喫って過ごすのだった。兄弟は二人とも早くから様々なタバコを試していた。戦争が始まる前には "Bambus" と "Brera" の二銘柄に絞られていた。 この個所で、ユンガーは自分の回想記に年月を正確に記さないことについて、こう語っている。記憶は「過去の現在化」Vergegenwärtigen des Vergangenen であるが、その際、時系列の関連だけが決定的ではない。我々はしばしば時間の織物よりも重要な関連の中で生きている。この上なく正確な時間順序であっても出来事について何も語らないのだ。 と言いながら、1912年のことだと思うがと断って、二つの出来事を語る。ある日、学校から帰る列車から、自宅近辺と思われる場所から大きな黒煙が上がっているのを目にした。家は丘の上にあり、列車は低い谷間を走っていたのでよく見えた。すぐに下車してミューレンベルクを急いで登った。燃えていたのは母屋ではなく庭にある建物で、2家族の住居と厩であったが、その時は空き家になっていた。火事の原因は、一番下の弟が近所の子供たちと遊んでいて、床の藁に火が燃え移ったことによる。建物の大部分が焼け落ち、母が亡き叔母から受け継いだ立派な、精巧なキリスト降誕模型 Weihnachtskrippe が灰燼に帰した。 もう一つの出来事。エルンストが、秘かに抱いていた旅行計画を、まったく予想もつかない形で実行に移した。兄が学校で極めて困難な状況になっていたことは、休暇で帰省した時も話さなかったので、フリードリヒ・ゲオルクは知らなかった。自らの意思で自由に行動したいエルンストには学校という制度が個人を拘束する機関でしかなかった。授業には関心が持てず、成績は最悪で、多くの教師との関係が険悪になる。例外的にホルム Holm(「緑の枝 -4-」で登場したシャルンホルスト実科学校の校長か)はエルンストをよく理解して、教室で将来を予言したりした。しかし大半の教師とは激しく対立したのであった。 規則を押し付ける、融通の利かない教師たちとはシュネーベルクでもハノーファーでもぶつかっていたが、ハーメルンでは「拘束機関」にもはや耐えられなくなって、兄は密かに姿を消した。行方不明と聞いて探し始めたときには、エルンストは列車と徒歩でフランスに行き、ヴェルダン Verdun で外人部隊に入って、アフリカに渡っていた。兵士になるのではなく、アフリカで生きることが目的、外人部隊からも脱走を企て、あえなく捕まり営倉入りとなったりしたようだ。フリードリヒ・ゲオルクは兄の不在を悲しみ、これまで二人で過ごした場所を辿って歩いて、兄の好きだった場所で座り込んで思い出に浸った。「父はもっと行動的で」あらゆる役所に掛け合って、息子を連れ戻した。クリスマスが過ぎてエルンストは戻ってきた。 これほどよく太った兄は見たことがなかった。褐色に焼けてたくましくなっていた。なにか知らない匂いが漂ってきた。明らかに別大陸、アフリカの匂いだった。これまで知らないアロマのタバコを吸っていて、私はひどい風邪を引いていたのだが、鼻に異質な香りが入ってきた。今日でも風邪をひいているときにタバコの香りを嗅ぐと、すぐにあの夜の記憶がよみがえる、我々二人の寝室で兄の冒険について語り合っていた夜の。寝室に入ると、兄はシガレットを一本くれ、新しい作りのライターを見せてくれ、そして長い――青い?――布を荷物から取り出して、「これがベルトさ。部隊じゃあこれを付けているんだ」と言った。これが外人部隊から連れ戻された兄の様子だった。父親からもとくに叱責されることはなかったようだ。 * Friedrich Georg Jünger: Schwarze Malven (Dalmatinische Nächte und andere Erzählungen, Lausanne o.J.) この短篇は以前「夏にお勧めのドイツの小説」として『ダルマチアの夜』と『休暇』と共に紹介したことがある。『黒いゼニアオイ』参照。 [追記 2019/02] Ernst Jünger: Subtile Jagden (1967) 山本尤訳『小さな狩 : ある昆虫記』(人文書院 1982年)では何カ所かでフリードリヒ・ゲオルクとともに行った昆虫採集のことを語っている。その中、以下の出来事は『緑の枝』では触れられていないと思うので、ここに書き写しておく。「突発事故」の章である。 バート・レーブルクの森には、斜面に水平に掘られた古い坑道があって、その入口を私たちは発見した。通路は昔のもので、壁面には水晶が房状に詰まっていた。床層には崩れ落ちた岩石が積っていた。天井からぶら下がっている小さな蝙蝠のほかには動物は見つからなかった。息が詰まりそうだった。蝋燭は地面に下ろすと消えた。 昔、石炭を運び出すのに使った垂直の坑道へ下りて行くのは、もっと危険であった。入口には錠のかかった蓋がついていたが、それを私たちはぶち壊した。緑の苔に覆われた梯子が下に通じていた。その右側に巻き揚げ縦坑が大きく口をあけていた。私たちは歯を固く食いしばって降りて行った。足場があるたびに一休みした。あたりはだんだん暗くなり、岩から滴り落ちる雫が雨のように降り始めた。やっと底に達して、蝋燭の明りで見回すと、道があちこちに枝分かれしている。雫が地底で合流して小川になって、そのさらさら流れる音のほかは、不気味なほど静かであった。これ以上、穴の中を進んで行く勇気はなくなった、私たちは引き返した。 私は、弟を後ろに従え、梯子の中ほどまで登ったとき、恐ろしい落下音を聞いた。弟が足場から足場へと音を立てて落ちて行き、やがて梯子から離れて真っ逆様に縦坑の底へ墜落して行ったのだ。そのあとはしーんと静まり返った。つるつるすべる梯子にしがみついている私の手も今にも離れそうになった。しばらくして思い切って弟の名を呼んで見たーー答えがあった。壁が崩れて梯子の上に積っていた大きな石を踏んづけて足を滑らせたのであった。 このことがあってから私たちはそこへは二度と立ち寄らなかった。そこの森さえ避けた。(山本訳 260/61頁) 緑の枝 -7- Grüne Zweige -7-兄のエルンストはハノーファーでアビトゥーア(大学入学資格試験)の準備をしていた。兄弟は新しい旅の計画を練り、夏休みにカルパチアに徒歩旅行に行くことに決めた。何より惹かれたのは、そこにある手付かずの広い森だった。彼にはこれほど魅力ある計画はないと思われた。庭師のローベルトにも声をかけて計画に引き込んだ。彼は大いに乗り気で、あの森には多くの熊や盗賊がいて、重武装して入らなければ生還は難しいのだ、というような物語を語った。暖かい夜、三人はブルネンに行き、森の縁に立つブナの老木の下に座り込んでお喋りした。いつまでも話は尽きず、誰も自分から立とうとはしなかった。当時のことを思い出すと、フリードリヒ・ゲオルクには信じられないほど遠い過去のように思える。夜はいつも静かで、木の葉が黒々と頭上を覆っていて、星も見えなかった。ホタルだけが飛び交っていた。三人のお互いの姿は見えず、声だけが聞こえていた。そのときのローベルトの声が彼の耳に残っている。陽気で利口そうな声、善良さも混じっている。彼が黙るときはパイプ煙草に火をつける時だった。 当時、彼らは戦争のことなど思ってもみなかったし、またも[普仏戦争に続いて]大きな戦争が起きることなぞ、あり得ないと多くの人は考えていた。だが、1914年のある日、学校からの帰宅途中の列車で、車室に入ってきた一人の乗客が、フランツ・フェルディナント大公暗殺[6月28日、いわゆるサラエボ事件]を伝える号外を手に持っていた。そしてユンガーたちに向かって「みんな、これは戦争になるぞ」と言った。大公暗殺と戦争との関係が彼にはよくわからなかった。オーストリアの大公には何の関心もなかったし、だいいち、オーストリアという国のこともほとんど知らなかったのだ。 町へ出かけた農民やハノーファーの市場から戻ったシュタインフーダー湖の漁師の妻たち、そんな人々の間で日に日に緊張が高まって周囲は息苦しくなってきたが、両親は北海のユースト Juist へ避暑に行くと決めてユンガーも避暑地へついて行った。第二の港町ローク Loog で家を借りた。彼は海辺の干潟 Watt から家の近くまで海水が寄せてくるのを楽しみ、島中のあちこちで泳ぎ、砂丘 Düne で横になった。草花が咲き乱れて、それが蜂蜜のように甘い香りとなって漂ってきた。父は情勢をいろいろ分析して、母に説明していたが、ついに、ドイツに動員令が出される日[7月28日にオーストリア=ハンガリー、セルビアに宣戦布告。8月1日、ドイツ動員令発布]が来た。人々は突如あわただしく動き始め、蜂の巣をつついたようになった。 [付記]夏の休暇はお終い、カルパチア徒歩旅行も取りやめになり、人々はみな自宅に急ぎ向かった。ユンガーたちも混乱の中を帰ってきたが、家は変わることなく深い静けさに包まれていた。いつものオークの老木の下に行き、夏の盛りの庭を眺めた。モモやアンズなどの果物が豊かに実っていた。何がどうなると想像していたのか分からないが、彼はこの平和に驚き、幸福感を味わっていた。その時は戦争は自分たちの生活に何の影響もないのではと思ったが、まったくの間違いだった。すべてが容赦なく変わった。特にローベルトの世話で年々充実してきた庭が、わずかの間に荒れて行くさまを見るのは辛いものだった。 戦争の最初の年、フリードリヒ・ゲオルクは修了試験の準備のため、学校管理人の夫人宅に下宿し、つまりは学校に住んで、日曜と休暇にだけ帰宅することになった。この小柄な管理人夫人は朗らかな働き者で、庭で野菜を作り、ブタを飼い、心をこめて生徒の世話をしてくれた。ユンガーは思い出してはいつも感謝の気持ちが起きると言う。その夫、リングハルト氏はもと下士官で、大柄ではあったが、腰は曲がり、アフリカの戦場で肌が焼かれてカサカサ、髭にはすでに白いものが混じっていた。片脚が義足だった。アフリカから羚羊の角、矢と弓、盾、革で作られたものなど様々な物を持ち帰っていた。現地で写した写真も壁に掛かっていた。その中にはサムエル・マハレロ Samuel Maharero(*) が写ったものもあった。 窓から兵士の行軍が見え、日夜、人、馬、火砲、車両が駅から西へ東へ向かっていった。この年はバラで溢れていた、兵士たちは身の回りだけでなく、馬や車や銃器にもバラの花を飾っていた。夜に目を覚ますと、窓から車輪の音とともに兵士の歌声が聞こえてきた。潮の満ち干のよう寄せては遠ざかる夜の歌声を聴くと心を打たれて窓辺に寄り、歌声が次第に小さくなり聞こえなくなるまで見送るのであった。秋になり冬が来ると、負傷兵を積んだ長い列車が戻ってきた。シュトルツ先生(ラテン語教師、「緑の枝 -4-」参照)は戦死、兄エルンストが志願兵として入隊。ローベルトは徴兵検査を受けた。フリードリヒ・ゲオルクは受験勉強を続けた、戦争と、もう一つの身近なことに気を取られながらも。 ユンガーの家にごく短期間だが一人の少女がいた。ブロンドですらりとして青い瞳、ちょうど17歳で、ミミ Mimi という名だった。牧歌劇の美しい娘として見ても欠けるところはほとんどなかった。陽気で活発だったが、冷淡なところもあると彼には感じられた。どうにも得心の行かない優越風を吹かすので、半ばあい敵対して過ごしていた。ユンガーに対する態度は皮肉っぽく、思いがけない形で傷つけられることがあった。彼が話すとその言葉をわずかにアクセントを変えて繰り返し、疑問文のイントネーションにする。こうして彼の主張は、強調すればするほど、その意見が疑わしく聞こえるのである。ミミはそのようにして少なからぬ性急な主張を正したのかも知れないが、そのやり方を退屈しのぎか単なる悪ふざけで用いたのである。そうした手段で何もかもひっくり返され、彼女の前でうっかり隙を見せたら、辛らつに弱みを突かれるのであった。 このように鋭利な機敏さを持つ人間にはこれまで出会ったことが無かった。それゆえに彼女に惹かれるところがあった。くっきりと陽気な動きを欲する気持ちがどこかにあったのだ。ウラ(ユンガーの家に数年住んだ少女、「緑の枝 -6-」参照)はいつもふんわりと柔和な真面目さを見せていたし、陽気になった場面でもそれが見て取れた。冗談が好きだったが、皮肉屋でも冷やかし屋でもなかった。いつも少し不安げで、目に見えないもののきっと存在している危険にさらされていると思っていて、悪ふざけ・傲慢を恐れていた。危険を引き寄せるからである。そのような内気さがいつも感じられた。 ミミは何よりも澄明な理解力の持ち主だった。謎も秘密も存在せず、現存するもの、目に見えるもの、しっかり把握できるものにしか関心が無かった。他に依存せず、皮肉を用い、根拠のない憂愁を笑いものにした。また人生を自由に楽しむことに長けていて、それまでの田舎生活に新しい光、新しい空気をもたらした。果樹園の芝生がお気に入りの場所で、大きな中国の傘を広げ、スカンポとマーガレットに挟まれ、好みの本と菓子を側にして過ごす。とにかく自由奔放にふるまうのであった。散歩するときも人目もはばからず水着姿で歩き、太陽が暑過ぎるとなると花壇に水を撒くための丸い石の水槽に入り込み、首まで水に浸かる。しょっちゅう彼を呼びつけて如雨露で水をかけさせる。彼女のきゃしゃな姿は遠くからでもわかった。白い肌で、草原に白い斑点のように浮かび上がるからである。庭師のローベルトも持ち場を冒され、同じように嘲弄するような扱いを受けた。それで彼女にいろいろないたずらをするようユンガーにけしかけるのであった。 ところが突然、服をかなぐり捨てるか仮面を外すように、彼に対して揶揄するような態度をとらなくなった。その痕跡もなくなった。どうしてそうなったか、その次第とは …… 毎夜、彼は寝る前に読書する習慣だった。「なんという呑気さで母がそう決めたのか」、少女の部屋は彼の部屋の隣にされていた。彼女も本を読んで寝る習慣で、彼より長時間読み続けた。壁の隙間から明かりが漏れる。 あるとき、夜遅くまで読書をしているとき、ふと、何を読んでいるのか壁越しに訊いてみようという気になった。はじめ、彼女は明らかにこの質問の意味と目的を詮索していた、というのも彼女は沈黙し、もはや返事は無いかと思った時になって、「それが知りたいなら、こちらへ来なさいよ」と答えたからだ。私はそのまま寝ていた、というのは彼女が新たな悪さ・意地悪を企んでいるのではないか、疑ったからだ。しかし私は、あたかも髪を引かれるようにベッドから出て、静かに彼女の部屋に滑り込みそのベッドの縁に腰かけた。彼女は熱心に本を読み続けているようなふりをした。このはったりには呆気にとられた。 フリードリヒ・ゲオルクはアビトゥーアの準備のため、ハノーファーからは100キロほど離れたリッペ侯国首都デトモルト Detmold の学校へ行くことになり、下宿を決めねばならないので父と共にその小都市へ赴いた。車中で父は、学校でますますはびこる調教めいたしつけを軽蔑した。父は彼が〈良い生徒〉になることは望んでいないと、この旅の機会に言い聞かせようとした。本当の教養は学校の外で、人それぞれの志向に貫かれた学びにあるのだ、と。学校なんぞではバッタのようにぴょこぴょこ飛び回るだけで高みへ飛翔することはない、実際には障害となるだけのものだ、と諭す。あまり教育的とは言えない訓戒だったが、試験という〈鉄のメカニズム〉に圧迫されている息子には勇気を与えるものだった。彼は最初の試験に受かったばかりだった。そして長い間通ったその小都市の学校[ヴンストルフのシャルンホルスト実科学校]を離れ、ホルム先生やヴィンデマー先生(ラテン語担当で校長と数学教師、「緑の枝 -4-」参照)や彼の面倒を見てくれ良き将来を願ってくれた老先生たちと別れた。 下宿はすぐに見つかり、荷物を置いて父を駅まで見送った。選んだ下宿は30歳代の娘二人と住む元顧問官のところ。そこは庭付きの家で、下宿人はフリードリヒ・ゲオルク一人だけ。この家の方針は、入居者は単なる賄つき下宿人ではなく養子として家族の一員として処遇する、ユンガーも家族としてのあらゆる権利・義務を持つ、それでいいかと同意を求められ、その申し出を了解した。それで二人の娘ゾフィーとマリーが紹介され、姓ではなく名で呼び合うことになった。そして家の鍵が渡されて、食卓につき、食前の祈りの後「パンと塩」(**)が取り交わされた。 両親の許を離れて暮らすのは、祖母の家で過ごした僅かの期間だけだったので、この日は気がめいった。ここでは自宅とはまったく異なった秩序があった。最初の夜は遅くまで起きていて、与えられた部屋の壁にかかる絵画を見たが、その中にガラスの球に乗って進むフォルトゥナの絵があった。[部屋にかかっていた「フォルトゥナ」の絵とは、恐らく複製画であろうが、どのような絵柄か、画家が誰かは不明。左に掲載したのはデューラー A. Dürer の有名な ≫Nemesis oder Das große Glück, Kupferstich, 1501/02≪ この銅版画は国立西洋美術館にも収蔵されている。]それを見て、すべてが見知らぬ言葉なきものになってしまったという陰鬱な気分に陥った。 時としてそのような印象は記憶に保持されて、後になってしばしばこの空間が目の前に現れることがあった。物はなく空虚で、月光を浴びて白々しく、部屋の前の庭にはリンゴの木々があり、葉を落とした枝が暗闇を背景にキラキラ光っている。後にこの光景が夢でも現れ、何年たっても奇妙な夢の中でこの空間に戻るのであった。ゾフィーが私に挨拶するが、彼女は私には見知らぬ人となっていて、その夢の姿の中にときどき彼女だとわかる特徴を見出すのみ。庭ではヤギが飼われていて、たくさん実ったイチゴを食い尽くす。建物はもろくなっていて、踏み破らないために廊下は四つん這いで注意深く進まなければならなかった。奇妙な夢だが、自分が帰り道のわからない帰郷者を演じるこの夢は、あの最初の夜に関連があるように思える、と彼は言う。当時はすぐによそ者の意識、帰属感の無さに捕らわれ、それが亢進して、理解すること、意思が通じ合う可能性などないのだという驚きに捉えられることになった。それは何か不可思議なことに直面して襲われる驚きではなく、自己認識が壊される出来事である。すなわち追試できない習慣や慣習に依存するすべての自己認識が壊されるものだ、とする。 それはひとつの単語の意味をあれこれ考えるときに感じる感覚とそっくりだった。われわれは何気なしに言葉を使っているが、それを繰り返すとその意味が揺らぐ。意味は我々から離れ去り、言語は、意思疎通の手段としては、崩壊の危険に脅かされる。この驚きの出来事は外国語の場合では生じないのである。外国語の場合は理解する働きはすぐさま翻訳に向かい、それでもって満足するのだ。この問題について私はしばしば考えを巡らせ、すべて驚きは我々にとって何か翻訳不能となるところで始まるのだと思われた。だが、鏡に映った自分の像を見て往々にして生じる疎外感は、彼には厄介で我慢がならないものだった。自分自身が疑わしく、お前がそこにいるのは有りえない、とか、お前が存在することはできないのだ、と自分に向かって言う。その感情はとても強く、自分の中ではすべてが逆さまになり、どんな拠りどころも無くなったように思えるのだった。こうした驚きと疎外感は時には強まり、時には薄れるのだった。これはしばしば自分が周囲に対して無感覚になることと関連していて、無理に周囲に注意を向けさせられると孤独の感情が強まり、悲しみと、そして同時に自分は空想世界に生きているという意識が彼をとらえるのだった。 下宿先の元顧問官は70歳を越えていたが、かくしゃくとして、なお兵士のような立居振舞であった。毎日散歩に出かけ、まるで家を中心として町の地理を測量するように歩いてくる。二人の娘には優しい父親で、娘たちからも愛されていた。早々に若い下宿人を信頼するようになり、夕食後の会話を楽しんだ。娘たちもそれに加わった。チェスもしたが、元顧問官はあまり強くなく、娘たちは、時々は父に勝ちを譲るようにと苦言を呈するのだった。マリーは小柄で肉付きがよく、活発で人をからかうのが好きだった。片脚が悪くびっこを引いていた。ゾフィーは背が高く痩せたブロンドの女性だった。優しさと怒りっぽさ、プライド、寄る辺なさが同居していた。 ゾフィーはフリードリヒ・ゲオルクの一挙手一投足を観察し、彼の言葉のテキストにいちいちコメントを付ける。物語や暦にある詩句を実によく読んでいて、これをごらんなさいと示すのである。そのたぐいの箴言には彼はほとんど興味が無かったが、ゾフィーは反論を認めず小さなカードに書いて、食卓の彼のナプキンの下に置くのだ。亡霊、幻影、夢、前兆についての彼女の信仰は固かった。その種の不思議な話をいくつも物語り、天文学者フラマリオン(***)の本を、その証拠として示した。彼は次第にゾフィーの信じる現象は精霊やデーモンではなく亡霊と蘇り(転生)であることに気づく。父の元顧問官はこういう現象について特に意見を表明しなかった。それを信じてはいるが、殊更に注目するのは有益ではないと考えていた。フリードリヒ・ゲオルクにはそれがまっとうな意見だと思われた。 それにまた、スウェーデンボルク(****)読んで、夢に押し入って人を怖がらせる化け物は典型的な懲らしめの対象となる、とあるのを見つけてわが意を得たりと感じた。ユンガーはフラマリオンの編纂するような物語のコレクションには反感を覚えるのだった。しかしマリーはゾフィーに熱心に肩入れした。二人とも、ごく些細なしるしを重要視して、前兆との関連を探し求めた。 またすべての夢が夢判断の本を助けにして吟味され、みな自分の見た夢を報告するよう促された。この課題は朝食の席のお楽しみであり、何か罠にかからず済むことはなかった。そんな次第で、あるとき私はヘビがベッドに這入って来たと、夢の話を物語った。ゾフィーはすぐさまエジプトの書を開き、中を見るや、解釈を読み上げることなく、本を隅っこに仕舞ってしまった。興味津々に私はそれを探し出し、予想したような解釈を見つけた。もちろん、そのようなことは朝食の席で気楽に披露できることではなかった。満足して私は本を戻し、それ以降は用心して、あらかじめ夢判断の本に当たることなしに、夢の話はしないようになった。フリードリヒ・ゲオルクと同様、我々もベッドにヘビが這入ってくる夢には一定の解釈を予想するが、二姉妹はそれまでこの方面の夢判断は経験が無かったのかも知れない。 * サムエル・マハレロ Samuel Maharero (1856-1923) ドイツ・アフリカ植民地(現ナミビア)の先住民族ヘレロのリーダー。1904年、ヘレロが植民地軍に対して蜂起したが、激烈な鎮圧で多数の犠牲者を出し、20世紀における民族虐殺の先蹤とされる。 緑の枝 -8- Grüne Zweige -8-アビトゥーアの準備のためデトモルトのギムナジウムで学ぶことになったユンガーは、そこで特に印象深かった教官としてフランス語・ドイツ語授業担当のフリッシュ先生 Professor Frisch の名を挙げている。何事にも厳格な先生で、背は低く、短く尖らせた赤みがかった灰色のあごひげ、中央で左右に分けた塩コショウ色のかつらをつけていた。このかつらがしばしばはじけて後頭部が巻き上がり、生徒たちを少なからず喜ばせた。本人はめったに笑わない人だった。しゃちこばった歩き方や所作による威厳というものを当時はよく目にしたものだ、とユンガーは言う。優雅・高尚の概念が今とは違っていた、と。それにまた自動車が主役となる以前の歩行者の時代であった。この小柄な先生が出校、下校するときの姿を目にする機会がよくあった。何事にも煩わされない落ち着きをもって、急がず慌てずゆっくりと歩む。一種のストイシズムが、そして愚かな人間どもがせかせか動いている、つまらない世事など軽蔑するという態度が見て取れた。少々ぎこちない歩き方と言えたかもしれないが、作為的なところ、わざとらしさはなかった。 私がこの先生を高く買うのは、授業のためではない、授業自体は面白みに欠け、几帳面で型にはまったものだった、そうではなく本題とは全くあるいは殆ど関係のないことに脱線する習慣のためだった。先生は、質問をしては自分で答えるという一種の独白が好きで、沈黙を強いられた生徒たちのことは放念してしまう。明らかにこの独白は先生にとって必要なものであった。孤独に傾きがちな頭脳にとって時折声を出して考えることが必要であるように。先生をそのような独白に導くのは難しいことではなかった。単調な授業を心地よく中断してくれるものだから、生徒たちはそのように持ってゆくワザを心得ていた。フリッシュ先生が授業を脱線して独白状態に入るきっかけとなる言葉、その一つは〈スペイン〉だ。先生はこの国に対して激しい情熱を持っていて、この国に尊敬の念を持たねばならぬと生徒に叩き込もうとした。研究の結果なのか、旅行して形成されたのか、先生はスペインの歴史と文学に関して正確な知識の持ち主だった。ロペ、カルデロン、セルバンテスが崇敬され、それらから引用するを好んだ。ユンガーには引用そのものが面白かっただけではなく、先生の独白に普通の授業では失われた自由の要素が感じられ、楽しい気分になった。 そんな独白の折、先生は独特の、表情豊かな振舞いをする。突如、重荷になったかのように目の前の本を閉じ、人差し指を鼻に当て、生徒に向かってというより自分自身に熟考を促すように見え、嘲るような値踏みをするような辛らつな顔つきで生徒たちを見下ろす。 始めはつかえつかえの、生気のない調子で話すが、次第に熱がこもってきて、立ち上がり、教卓を離れて、普段の身のこなしの穏やかさとは驚くほど異なった炎の激しさで動く。時代遅れの灰青色の膝まである上着と、小さく跳ねるような動きとが相まって、ズキンガラスに似たイメージを与える。その面持ちはどこか勝利を収めて勝ち誇ったような相好となり、これが私には大いに気に入った。特にいつもは冷静で無表情な顔に、生気と熱気ある輝きが現れるところが好きだった。その独白にはあらゆる種類の転義法と修辞的な文彩があり、ことにイロニーと概念の漸層法があった。なにしろ先生の語りは、次第に上昇し強度を増して突如として中断、しばしの静まり返った休止のあと格言的な結びが続く、というふうだったのだ。ユンガーが覚えた喜びにはもうひとつ別の、もっと重要な原因もあった。それは他の教師にない精選された教養と何気ない知識の痕跡が感じられたことだ。他の教師たちはみな期間内に決められた課題をこなすとそれで良しとなるが、フリッシュ先生はご自身がじっくりと時間をかけ、熟考した成果を示してくれた。テーマについて様々な分岐と支流を示すことで一人の人間を、つまらない先入観で制約されない人間を示してくれた。先生のことを思い返すと、知るべきことをより厳密に同時により柔軟な概念で捉えていた昔の学校の先生のような気がする、と彼は言う。 天の摂理がいくばくかの財産と自立志向を与えたこの独身の老先生は、ユンガーがフランス語を習得した恩人であった。教科書のほか、テーヌのテキストで教えてくれた。ドイツ語の授業ではヴィンケルマン、レッシングから始まり、先生が文学の父と崇めるクロプシュトックは基本から徹底して教えられた。授業はとにかく暗唱が中心、『メシア』『頌歌』の長いテキストを暗唱させられた。いやおうなく生徒の耳を韻文に慣れさせた。先生はリズムや韻律に関心が深いので、教室でも生徒にそれを伝えようと懸命だった。この授業でユンガーには初めて言葉への関心を呼び起こされ、言葉の力を強める韻律に目覚めさせられた。彼は歩きながら大声で詩を暗唱するのを好んだ。そしてある日、「早世した者たちの墓」(*)という頌歌が彼の眼を開いた。「この詩一つで批評的惰眠から目を覚まさせられ」たという。 休暇になると列車で帰郷した。デトモルトへ戻るとゾフィーが駅まで迎えに出るのが通例となっていた。彼のことをまるで養子のように扱うのであった。とっておきの優しさで接してくれたこと、それに十分感謝しなかったことに、今になっても辛い思いがする。彼を喜ばそうと心を尽くしてくれたことに、彼女としてはそのような寵愛に対して、騎士が貴婦人に接するように応じてもらいたかったようだ。彼女は日々のちょっとした儀式に高い価値を置いていた。二人の間にはいつも緊張があり、思い出せば笑いがこみ上げてくるもんちゃくがあって、父の顧問官は心配し、アンナはからかうようなコメントを口にするのだった。 彼は名づけようのない不安にとらわれる。なんだか檻の中に閉じ込められたようなふさいだ気分に陥った。そのため家の外での時間を長くする。暖かい夜は丘に登り、町外れの居酒屋の快適な庭で時を過ごす。そこで同級生と出会うことが重なって、だんだんと小さなグループが出来上がり、数名の少女も加わっていた。この飲み仲間にはメンバーの自由を縛るような何の拘束もなかった。来たいときに来て帰りたいときに帰る。彼ら以外に客が無いこともよくあったので、飲んで歌ってしたい放題の狼藉をはたらいた。集まりがはねてからもユンガーは一人でうろついた。家の鍵を持ち忘れた場合は、セイヨウナシの木に登り窓から部屋に入るのだった。 あるとき、そのような集まりが昼からあり、酩酊して帰宅、何事もなかったように夕食のテーブルに着き、もうろうと味もわからず食事を終える。そのあと森へ出かけ、茂みの下で眠り、物音で目を開くと、ハリネズミが顔の前にいた。捕まえようとして逃げられ、また眠りに落ちた。森全体に静かな音楽が流れているような気がして目を覚ますと、蚊がブーンブーン飛んでいた。翌朝、どのようにして帰って来たのか、目覚めたら自室であった。こんなバカげた振舞いを、早く床にはいるゾフィーは知らなかった。だが、別れが近いことは彼女は知っていた。夏に学校を終えて入隊することに父が同意していた。その日が近づくのを彼女は恐怖の面持ちで耐えていた。しょっちゅう涙を浮かべて彼のことを見つめた。別れの朝は、駅で一家三名の送別を受けた。ゾフィーは長い間ハンカチを振っていた。そのあと何年も続く文通が始まった。 [付記]夏休みは故郷の両親のもとで過ごした。懐かしい土地を歩き回り、午後はかつてウラと共に出かけた水浴場で時間を過ごした。それから入隊する部隊の駐屯地ハノーファーへ赴き、祖母を訪ねた。10年ぶりだが何も変わっていなかった。相変わらずガニメデスがワシに水を飲ませていた。(「緑の枝 -2-」参照)サクラランだけが大きくなって窓一面を覆うようになっていた。ユンガーは子供の時過ごした同じ部屋で眠った。普仏戦争の戦地で病死した大叔父の絵のかかる部屋で。 それはあたかもこの老婦人の静まりかえった住まいでは時が停止していたかのようだった。そして過去から立ち上がってきて私に関わり合ってくるイメージも、それもまた音もなく澄明だった。しかしこの再会は同時に別れであった。後になって、この日でもって過去のすべてに閂がかけられたのだ、この日から新しい時が始まったのだ、と私には思われた。年齢の異なる二人がドッペルゲンガーのように出会い、明瞭な意識で過去を眺める方の者は、しばしば自分自身を、眠りにあって夢を見ている年下の弟のように見るのだ。 戦争は三年目に入っていた。戦闘はいよいよ激しくなり、消耗が進んで、戦争の本当の姿が現れ始めていた。東部戦線ではブルシーロフ将軍(**)の攻勢が[6月4日から]始まっていた。西部戦線では7月1日に夏季戦闘が始まって、英仏軍の激しい攻勢で損害が大きくなった。Trommelfeuer (太鼓連打砲火/連続集中砲火)、Feuerwalze(射撃ワルツ/移動弾幕射撃)、Materialschlacht (資材の戦闘/物量戦)などという新語が生まれた。そのような、太鼓や花火のような壮烈さ、機械化された戦闘の渦の中にエルンストはいた。ローベルトはオランダ国境の包囲線 (Kordon) にいた。次第に深く深く戦争は個人の生活に食い込んできた。人間が戦争を操るのではなく、戦争が人間を操るのだと、分かってきた。いたるところにバラの花があった1914年は遠い昔のことになっていた。 フリードリヒ・ゲオルクは第73歩兵連隊の兵士として入隊、プロイセン軍に属する同連隊の士官候補生であった。兄のエルンストも同じ連隊に属していた。兵舎に出頭し入隊検査を受けたのは夏の日の朝だった。兵士は演習に出ているので、建物は静まり返っていて、修道院のように思われれた。階段に腰かけ、頬杖をついて過ごす。森や草原や湿地帯の中に戻りたいという激しい願望に捉えられる。 すべてを後にしてきたのだ、もう目にすることはないのだ、という考えが込み上げてきた。再び見るとしても、もはやもと在ったものではないだろう。それは私がいないところで変化し、それ自らの時間と空間を持ち、私は私の時間と空間を持つのだから。今はいたるところ湿原の黒っぽい水に白いスイレンが咲いているだろう、その花を私は見ることが無いのだ、と思った。この花には他の何よりも静かなたたずまいが感じられた、この花に私は格別の愛着があった。懐かしい風景への願望があまりに強かったので、この石の階段で黙って過ごしたことはずっと忘れず、いつまでも記憶に残った。奇妙に思われるが、何事も起きなかった石の階段での数分の時間が、生涯の重要な瞬間の一つとなった。割り当てられた部屋へおもむいた。そこは他の士官候補生4人との相部屋で、共同生活は賑やかだったが、決して平和なものではなかった。同室の4人が見事に四気質の体現者であった。憂鬱質 Melancholiker は背の高い、細い優美な男で、多血質 Sanguiniker としか付き合わず、これが小柄で落ち着きのない男で雄鶏のように落ち着きがない。胆汁質 Choleriker は、ユンガーが部屋に入った時、《ラスコルニコフ》[ドストエフスキー『罪と罰』のドイツ語初訳は Wilhelm Henckel: "Raskolnikow" (1882)]に没頭、さきの二人と敵対していて、声をかけられたら不機嫌に、とげのある返事をする。粘液質 Phlegmatiker はシュティラー Stiller という名だったが、まさしく名前の通りの静かな人物。この四人と狭い一室で暮らすのは、枯れることのない教訓の泉だった、と言う。彼らが交わす会話の中に傲慢、辛らつな皮肉、不機嫌、憂鬱、満足感が常に入り混じって現れる。これが早朝に始まり、夜まで終わらない。 彼ら5人は揃って教官の訓練を受けたが、担当の教官は下士官で、次々に交代した。その一人は本来石工職人で、粗暴な立ち居振る舞いを見せていた。時と所を選ばずいきなり現れ、険しい目つきをして言葉少なくしわがれ声で怒鳴る。尖ったあごひげが付き合いにくい男と思わせるが、この威嚇的な振る舞いは、よくあることだが、芯のところでは善良な人間であることを隠していた。善良と狂暴はしばしば結びつく、むしろ同じ根から出ていることに、彼は初めて気づいた。 ユンガーは厳しい訓練に肉体的には耐えることができたが、何事にも黙って従わねばならないという強制は耐えがたいものだった。片時も自分の時間がないのはきつかったが、しかし彼は兵舎外の街中で住む許可を得た。そのとき負傷して後方に送られていた兄エルンストとともに旧市街に部屋を借りた。ここではフォルスターの『南洋旅行』(***)を寝床で読んだ。うとうとして何度も手から滑り落ちたが、描かれる静かで穏やかな南海の光景に生き生きとした印象を受けたので、夢の中にも島々、サンゴ礁、ヤシ、海水、褐色の人々の姿が現れた。兄は再び戦線に戻り、冬が近づくとフリードリヒ・ゲオルクたちは荒野の野営地に送られて、教練規定と野戦勤務の訓練を受けた。 訓練を終えて駐屯地に戻るとブリュッセル経由ソンム Somme(****)へ送られた。フリノワ=ル=グラン Fresnoy le Grand でまた兄と会う。教会の野外音楽界で出くわしたのだった。兄は彼を自分の宿舎に入れて大きなベッドをシェア。建物横の庭で拳銃射撃の練習をし、日が暮れると暖炉のそばに戻って、獣脂蝋燭の許で本を読む。厚い雲に覆われ、しょっちゅう雨が降るじめじめした気候、ぬかるみの地面で、わずかな気晴らしはワインだけだった。 部隊は陣地に移動、兄はシッソンヌの教練に行く命令を受けてフリードリヒ・ゲオルクと別れた。一夜にして冬になり、冷たい風が吹く。そこはフルク Forques という村、すでに立ち退いて住民はいない。宿舎に充てられたのは靴屋の店で、その大きな窓はまだ健在だったので、起居振舞は通りから丸見えだった。床に木屑をまき、そこで眠った。村には榴弾が飛んできて、死者・けが人が出ていたが、彼らの宿所は無事だった。村は急速に変貌を遂げていた。住人が去り軍が占拠すると村の様子は一挙に変貌した。作戦の目的に役立たないものはあっという間に消え去り、新しい施設、墓、塹壕、地下壕、堡塁ができた。 [付記]夜に塹壕に向かって前進して行った。空気は冷たく澄んで投光器、照明弾が色とりどりの光を風景に投げかける。終わりのない花火上げのよう。夜は鈍い音で満たされ、数珠繋ぎで車両の列が移動する回転音、地面を踏む音。交代要員が急ぎ近づくと、網の目のような陣地から塹壕の守備兵が、休息場所に向かうため出てくる。無言で行進する隊列に伴って武器、ヘルメット、調理器具が音を立てる。破壊された村の道沿いの、墓地の破壊された門柱の前に二本の背の高いイトスギがそびえ立っている。 ソンム川を渡って塹壕へ。中隊の先頭から末尾まで、誰もがその陰鬱な響きの川名を呟く。それぞれ塹壕の担当区画の守備隊と交代する。深く入念に掘られていて、そこでモグラのように過ごす者たちが必要とする広さが確保されている。小さな鉄製コンロがあり、暖房とパンをあぶったりブランデーを温めることができる。ユンガーたち5人が担当した坑道はキャベツ畑にあった。畑にはまだキャベツの切株が残っていて、野良猫が何匹かさまよっていた。とこどきウズラの親鳥がヒナを呼ぶ鳴き声が聞こえた。故郷でよく耳にしたので馴染みの鳴き声だった。彼の持ち場の左手にヴィレー村 Viller の家の垂木が青空にそびえているのが見えた。榴弾は決まった間隔で置かれているので、注意すれば触れずに歩くことができた。ソンム川は低地を流れていた。そこは砲弾を装てんした大口径砲が狙いを合わせていた。遠くまで大地が震動していた。砲弾が川に落ちると、高く水柱が上がった。 夜間はいつも重労働が控えていた。有刺鉄線を引き、巻きたたんだ鉄線を引きずり、拒馬[ドイツ語では Spanischer Reiter、フランス語では Cheval de frise と呼ばれるバリケード]、坑道枠、そして籠に収められた500ポンド[1ポンドは500gr]の砲弾を運ぶ。夜には景色が一変する。昼間は何もない畑地が、夜は兵士の群れの影がうごめく。交代のため、自分の穴蔵から出て、凍てつく寒さの澄み渡った冬の塹壕を歩くと、夜空に燃え上がるモミの球果のように砲弾の光跡、頭上を大きなロケット砲弾がオルガンのような低音を奏でて飛んでゆく。土手を越えて機関銃の音が群れなす小鳥のさえずりのように響く。近く遠くにエンジン音が響く飛行機を探して照明弾が打ち上げられる。彼は交代すると凍えた体を炙ったパンとブランデーで温め、寝床に横になってろうそくの明かりで本を読みながら眠る。 そして朝には缶詰の缶(*****)に入って体を洗い、朝食をとって、近くの坑道を訪ねる。食料配達が、郵便も携えてやってくると自分の坑道へ戻る。こうした繰り返しの日常を破るのが、突然の砲弾の飛来と、同じ部隊のかなり遠くの陣地まで出向くこと。例の粘液質男のシュティラーが斜面陣地に張り付いていた。辺りの固く凍りついた地面から数多くの死者の長靴、脚が突き出ていた。対壕[Sappe 敵陣に迫るための坑道]から敵方の塹壕を見ると、静まり返って人の気配はなかった。それから駆け足でカタカタ鳴る木のすのこを走って迷路のような坑道を、標識に注意して戻る。 畑地に降り注ぐロケット砲弾を避け、いたるところにある、深い空っぽの掩蔽壕に潜り込んだ。この地下の暗闇で座っていると、腕時計の光る針が目前にあって、この氷河期の穴居人のような風景は何と奇妙なのだろうという意識が浮かんだ。その住人は地中に潜って光のある時は深い地中の洞穴に身を隠した。とても静かで、時計の小さなチクタク音が聞こえてきた。時間は過ぎ去る、爆発は終わり、私は穴ぐらから抜け出し、歩みを続けた。複雑に掘り巡らされた塹壕の、通路として用いる個所のところどころに深い空間があって、避難所としても機能したようだ。 [付記]ある日、彼はデーベリッツの教練に派遣される命を受けた。夜の明けきらぬうちに戦友と別れてソンムの湿地を渡り、長い丸太道をエンヌマン Ennemain へ向かった。ここからヴェルマン Vermand へ行き、部隊の士官と会って、士官と共にサン=カンタン St.Quentin を経てハノーファーへ戻った。 デーベリッツ演習場(v*)は士官候補生の教育にあてられていた。冬の気候は厳しく、訓練は過酷だったが、ユンガーはここでの数か月はいい思い出になっていると言う。障害物のある路面を走る朝のランニングから始まり、銃剣の試合、行進、その他さまざまな訓練で、身体が鍛えられ戦闘技に熟練した。彼は優秀な銃剣使い、優秀な走者であった。何しろ簡単には疲れなかったのだ。また同年代の多くの仲間と交流できたことも有益だった。彼らの中に交じって常より自由に振る舞い、以前よりも心を開いた。若者たちの気まぐれ、無頓着、ジョーク、からかい、意地悪が彼には有益だった。というのも「彼らとの生活は、身をすり減らされないよう抵抗しなければならない砥石のようなもの」だったからだ。 春は遅く一挙にやってきた。美しく暖かい五月の夜に彼らは戦闘訓練を行った。草や野菜の香りの中、澄み切った星空の下、穏やかな空気の中で行う訓練は快かった。ユンガーのこの地での最後の思い出は次のようなものだ。ある夜の訓練の途中、町はずれの小さな森で休憩をとったときのこと、 武器を道端におろすや否や明るい服装の少女たちが姿を見せ、近づいてきた。この少女たちが皆、どこからこんなに速やかに集まってきたのか分からなかった。小さな森はたちまち隅々まで、お喋りしながら歩き回るカップルに満たされた。しかし知りあったかと思うと、我々はやってきたときと同じく、またあっという間に森から出て、夜の訓練を続けた。こうした束の間の出会いと交流には、薄暮の中でそっと花に触れるような優雅な気分があった。このような出会いを私は忘れることなく、いつになってもそのときの記憶の痕跡が戻ってきた。戦場を離れると、こんな牧歌的な光景もあった。しかし「薄暮の中でそっと花に触れるような優雅な気分」とは …… * 「早世した者たちの墓」Die frühen Gräber はクロプシュトックのオーデ。「批評的惰眠」kritischer Schlummer はカントのいわゆる「独善的惰眠」dogmatischer Schlummer を下敷きにした表現であろう。 |