茶筅の歴史
今から、五百年余り前足利 義政(あしかが よしまさ)の時代。
高山は、大和国添加郡鷹山(やまとこくてんかぐんたかやま)と称し
清和源氏源頼光の後裔(せいわげんじみなもとのよりみつのこうえい)を名乗った鷹山氏が
奈良興福寺宮府(ならこうふくじきゅうふ)出仕の僧兵として、
鷹山村を支配していた。
大膳介頼栄(だいぜんかいよりさか)の次男、民部丞完(みんぶしょうかん)砌亦の名人道完砌は、
山名弾家(やまなだんけ)に仕え家長となって、
奈良水門町に住んでいたが、当時流行の
連歌、和歌に優れ竹林抄(ちくりんしょう)の一人であり
亦勅筆流書道の達人であった。
近くに住む称名寺(しょうめいじ)の住職、村田珠光(むらたじゅこう)とは、
文雅(ぶんが)を通して親交を厚く、珠光が、茶の葉を
粉末にして飲むことを、考案したとき
それを攪拌(かくはん)する道具の製作をたのまれた。
苦心を重ね作りあげたのが茶筅の初まりです。
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