拾遺集、拾壱 Aus meinem Papierkorb, Nr. 11ローレライ Roreley ― 『ラインの守り』 (6) ―クラーラ・フィービヒ『ラインの守り』から、続き。このところ、ヨゼフィーネは気持ちが落ち着かず、ほとんど放心状態に陥っていた。コンラーディの求愛が積極的になってきて、彼女もあえて拒めないでいる。最近では連れだってマーケットに出かけ、何かプレゼントを買って貰ったり、人形劇場「ヘンネスヒェン」Hänneschen-Theater を観るためケルンへ遠出するまでになった。人形芝居は彼には、独特の発声と方言のために理解できないのだが、笑ったり涙を流したりするヨゼフィーネを見るのが楽しいのであった。 聖霊降臨祭のころ、コンラーディは憲兵実習生としてエルバーフェルト行きが命じられた。彼には辛い赴任である。世の果てと言うほどの遠方ではないが、毎日曜にデュッセルドルフに帰れる距離ではなかった。彼女が心移りしないだろうか、それが心配だった。出立の前夜に彼は、君を婚約者と思っていいかい? と尋ね、頬にキスした。抗いはしなかったものの、ヨゼフィーネの方がキスを返すことはなかった。 コンラーディが去って、日々はたんたんと流れて行く。父はこのごろ上機嫌だった。若返ったようにさえ見えた。戦争が近いという希望を抱いたのだ。フランスでは大変なことになっている、今度は、今度こそは戦争だ! 母トリーナはそんなことは信じなかった。それよりも関心はもっぱら息子に向いていた。あの出奔事件のあと、ヴィルヘルムは仕立て屋の徒弟奉公をやめ、《美彩鳥》で働いている。「息子は本当に奇跡を起こした」と母トリーナは驚いた。このところすっかり客足が遠のき寂れていた店が、また繁盛している。昔以上の賑わいだ。そんな才覚があるとは! 「見て、リンケ」と母トリーナは勝ち誇ったように言う、「見て、この子をピッカルトのところへ戻さなくて、どんなによかったことか! それに仕立て屋なんかにはもったいないわよ、この子!」父リンケは、息子を仕立て屋の徒弟に戻すと言ったが、祖父母が医者を盾にして、あの寒い夜の彷徨の後遺症で胸に問題があるからきつい仕事は無理だと説得した。胸の病気と聞いて父はもう口を挟む気持ちを無くした。じゃあ祖父母の手伝いをすればいい、そんな能力があるなら! ヴィルヘルムの《美彩鳥》には一般の市民に加えて、ラインの船乗り、港の労働者、石炭の積込み人がやってきた。近所のアカデミーから若い絵描きたちも通ってきた。テーブルや壁やドアが彼らの作品で飾られる。祖父母の寝室には何枚も孫の肖像画が掛けられることとなった。店はいつも明るい笑い声が溢れていた。実直な市民が腹を抱えて笑い、若者がテーブルに飛び乗って演説すれば、皆はやんやと喝采を送る。演説と歌と叫びが繰り返される。統一だ、自由だ、平等だ! その年の作物の稔りは悪くなかったが、農民も市民も物価の高騰に悲鳴を上げた。庶民も農民も「関税同盟」の恩恵は感じられなかった。金持ちだけが恩恵を受けているんだ。新聞を見ると他はもっとひどい有様だ。シュレージエンの織工たちの状況ときたら! フランスでは労働者が暴動を起こしている。しかしそんな状況にあっても、ここデュッセルドルフにはいつもの陽気な生活があった。美しいライン河岸の素晴らしい夏であった。 ヨゼフィーネは自分がどうすればいいのか、分からなかった。眠れない夜が続いた。窓から兵営の中庭を見下ろす。足音も聞こえず、人影も見えない、静まり返っている。カエデの木だけが揺れて、ひそやかに止むことなく不安な響きを発している。彼女の心の中も不安な鼓動が響いている。コンラーディがエルバーフェルトから来てほしいと願うべきなのだろうか? あら ―― また流れ星! きらきら光る尾を引いて夜の闇を貫き ―― もう下の真っ暗なカエデの木の中だ。また何も願い事をしなかった! ヨゼフィーネは泣きたい気持ちだった。ヨゼフィーネは窓から見下ろす。ヴィクトール・フォン・クレールモン少尉が8月の半ばにこの駐屯地勤務になった。それから3週間になる。彼はヨゼフィーネのことを覚えていてくれて、廊下で出会うと声をかけ手を差し出してきた。彼女がツェチーリェの結婚式であなたをお見かけしましたと告げると、なぜ「ここっ」 Pst と声を掛けてくれなかった? と問う。なじかは知らねどああ、あの美しい歌だ! 最近、水浴びからの帰り、ライン川沿いを歩いているとき、聴いたのだった。新しい歌! それまで知らない歌だったが、彼女の耳はすぐさまそれを受け止め、受け入れた。まるで昔から知っているメロディーのように。いま歌は自ずと口をついて出た。 「声を掛けましたよ、いえ、掛けようと思いました。」顔を赤らめて言い直した。ヴィクトールは父のかつての駐留地に赴任を命じられた時、ちっとも嬉しくはなかった。前任地のノイ・ルッピンはベルリンに近く、日曜日には必ず、平日でも夜はよくウンター・デン・リンデンに操出し、王立オペラハウスでバレエを、将校割引で、楽しんだのだった。それがこの田舎町じゃあ、マルクトの劇場は場末の芝居小屋、ベルリンのがさつな靴職人の方がデュッセルドルフ全部を合わせたより気の利いたことができる。ホーフガルテンも大通りも死ぬほど退屈だ。ああ、ウンター・デン・リンデンとフリードリヒ通りで一晩すごしたらもう、あれこそが人生だ! ヴィクトールには、なぜ父がここで長いあいだ我慢できたのか、理解できなかった。 退屈な一日の勤務が終わって、将校部屋のソファーに寝転がっていると、「なじかは知らねど心わびて」と、歌声が聞こえてくる。また、ヨゼフィーネが歌っている、美しいヨゼフィーネが! ヴィクトールは目を閉じて聞き入る。これがたった一つの光明だ! ヒバリのような晴れやかな声なのだが、同時に深く暖かい響きがある! 秋の澄み切った空気にのって歌が彼の耳に運ばれてくる。しばらく聴いているうちにどうしても彼女に会いたいと思った。身なりを整えて出かけた。 軍曹の住まいのある廊下を進んで台所の扉を開けた。ヴィクトールの姿を目にしてヨゼフィーネは真っ赤になり、そして真っ青になった。まさに驚倒であった。その時ちょうどこの人のことを思っていたのだ。彼が「いろいろ親切にしてくれたので」来たと告げて、暫くたどたどしく言葉を交わした後、彼女は「お入りになりません、母がいます」と勧めたが、「いや、ここで帰ろう、さようなら」「あら、もうお帰りになりますの、さようなら、少尉さま!」「少尉さま ――?! どうしてヴィクトールと呼んでくれないのだい。そうは呼びたくないのかい?」 彼女は激しく首を振る。「じゃあ、なぜだい。以前はそう呼んでくれた、僕たちは以前と同じじゃないのかい?!」 すると彼女は明るく笑った、思い出したら楽しくてしようがないというように。「まあ、あんなこと、いまじゃあ相応しくありませんよ、シュペーのお濠で泥だらけになってミミズを探すなんて!あのこと覚えていらして? ミミズを舌に乗せられるか賭けたこと。ねえ、少尉様、」―― と、視線を上から下まで走らせたが、眼差しには賛嘆の色合いがあるように彼には思えた ―― 「もうあのときのあなたではありません!」別れたあとヴィクトールは満ち足りた気持ちであった。兵営を出て昔よく行ったところを巡り歩いた。バスティオン通り、ケーニヒスアレーからシュペ―の濠にきて長い時間佇んだ。シュヴァーネンマルクトからビルカー通り、カール広場へと、どんどん旧市街に入ってゆく。なにかヨゼフィーネにプレゼントしたいと思ったが、もう店はみな閉まっている。ところが一軒の書店がまだ開いていて、ショウウィンドウにはさまざまな本が並んでいた。教科書や副読本のほか、『恋文の書き方』『シュトルーヴェルペーター』『フランツ・ホフマンの青少年のための物語』『カンペのロビンソン』『クーパーの皮靴下』などなど。別のウィンドウには『宝石泥棒』『H伯爵家の結婚の秘密』『王と踊り子』など怪しげなタイトル、そして『東プロイセンの四つの問題』『法と国家と教会』『プロイセンとドイツの関係』・・・ ヴィクトールが立ち去ろうとした時 ―― 若い娘向きのものは無かったので ―― 何冊かのきれいな本が目に入った。天金仕立の美しい装丁だった。そうか、詩集だ! これぞ求めるものではないか! 若い娘は詩集に夢中になると、妹から聞いていた。お気に入りの個所を抜き書きして、夜、密かにベットの中で読む。本は枕の下に敷いておくのだ。『ヘルヴェーク:活気ある人の詩集』『フライリヒラート:信仰告白』『ホフマン・フォン・ファラースレーベン:非政治的歌集』などと並んで祈祷本のような小型の、しかし燃えるような赤い表紙と金箔の小口で、一番美しいと思える本が目に入った。店員にそれを指さすと、「これはとてもお勧めで、もう6版です、まことに感情のこもった詩集です。それにデュッセルドルフ生まれの詩人のものです!」と言う。ヴィクトールは1ターラー15グロッシェンを支払って購入した。こんなちっちゃな物にしては高すぎると思ったが。 その夜、将校室のろうそくは深夜まで灯っていた。灯心は何センチもの長さで炭になっていた。誰もろうそくの芯を切る者がいなかった。溶けた蝋の滴りがテーブルに流れていた。ヴィクトールはソファーに横になり、肘掛けに足を乗せ上着の胸をはだけ、そして、明日、金髪のヨゼフィーネに贈る本を読んだ。読んで、読んで、読み続けた。顔がほてってきた ―― ちくしょう、こやつ、詩にのめり込んでやがる! ヨゼフィーネはたいして喜ぶことだろう。あの子の歌も載っているから。見事に当たった! これで彼女、最後まで歌える。 夏が終わって。秋の嵐が木々の葉を散らし西風が税関門に吹きつけ、ラインの流れが岸辺に打ち寄せ、シッフブリュッケを支える小舟がギイギイと鳴る。古い宮殿が雨の中陰気に立っている。市民は、あんな見晴らしの邪魔になる物が、どうしていつまでも在るのだ、と嘆く。 そんな陰鬱な天気の中、ヨゼフィーネはボルカー通りの狭い中庭に立っていた。庭の奥がハイネの生家だった。漆喰塗りの飾り気のない家を見上げて、ああここで、あの窓の後ろで彼は生まれ、素晴らしい詩を作ったのか、と感慨にふけるのだった。自分がなぜここまで来たのか、どうにも分からない。魔法にかけられたようにやってきたのだ。誰にも言わずに。言えば皆に笑われただろう。 自分が何を期待していたのか分からないが、ここに来てがっかりした。壁にバラは咲いていないし、窓に陽は射していない。狭い庭の木製の柵の後ろにみすぼらしいアカシアの木が立っているだけ。ため息をついていると、窓から老婆が顔をだし、「何の用だい?」と声をかける。ハイネ? ―― そんな人はいないね、ハイマンさんなら、お向かいだよ。 家へ帰ると、待ちかねたように母が出迎えた。「お客様よ、コンラーディさん、明日の朝まで休暇なんですって」と。ヨゼフィーネは驚いたが、母は「気が進まないなら承諾しなくていいのよ。あの方、カルヴァン派だから、ユダヤ人よりそんなに良いわけじゃない。別の人を探せばいい」と小声で言う。 コンラーディは父と並んでテーブルについていた。平日の昼間なのに父はビールを用意させ、珍しく冗談を言うなど上機嫌だった。ヨゼフィーネは黙って席に座ったが、食卓の下でコンラーディが何度も彼女の方に手を伸ばしてくる。そのたびに手を引くのだが、父が窓際に立った時には、耳元で「この前渡した指輪と詩は持ってくれているかい」などと囁く。 彼は赴任地に決まったボーヴィンケルについて熱心に話す。ベルギーの方を見渡せ、ありとある種類の工場の煙突が立ち並んでいて、そこの空気はここらの町と違って強いんだ、煤煙が流れているが、まだたくさんの畑地があり、安い家賃で庭付きの家が借りられる、ジャガイモや野菜を育てることができる、ずっと求めていた理想の任地だ・・・ ヨゼフィーネは泣きたかったが、席を外そうとすると父に止められる。ついに母が娘の蒼白な顔に気づいて、ようやく部屋から逃げることが出来た。 父とコンラーディは行きつけの酒場に出かけた。こういう時にはしばらく戻らないとわかっているので、母トリーナは娘に「ベッドで横になって居なさい」と言い残して《美彩鳥》に出かけた。「一人だ!」 彼女はほっと息をついて台所の窓から見下ろした。兵営は静まり返っている。空は真っ暗で、星もない。―― と、彼女は喜びの声を上げた、むこうに明かりが一つ見える、彼の明かりだ! そこで窓を開けて「なじかは知らねど心わびて――」と歌い出す。曲の終わりまで歌う。彼の耳に届いただろうか、いや、自分が下りて行ってドアを叩いたらどうだろう、別に悪くはない、あの人のこと好きなんだもの! それ以上思案すること無く、廊下に出て下に降り、思いっきり駆けた、はやる気持ちに足が追い付かず、つまづき、よろめいて駆けた、―― とヴィクトールが飛び出してきた。 「ヴィクトール!」歓声を上げ両手を広げた。 * 「帰郷」第66歌にある2行。生田春月訳を借りて紹介すると、 黒・赤・金 Schwarz-Rot-Gold ― 『ラインの守り』 (7) ―クラーラ・フィービヒ『ラインの守り』から、続き。1848年2月は、デュッセルドルフでは、吹きすさぶ嵐の中で過ぎていった。屋根葺き職人は大忙しだった。毎夜のように強風が煉瓦やスレートの屋根瓦を吹き落としたのだ。道路には砕けた瓦が撒き散らされ、ホーフガルテンでは多くの美しい古木がなぎ倒された。居酒屋に屯する市民の話題はもっぱら嵐がもたらした様々な出来事のこと。当地の新聞もそんな記事で埋め尽くされ、政治記事は片隅に追いやられていた。パリではまた騒動かい? こちらは平和でいいなあ。 ヨゼフィーネは甘い甘い夢の中に生きていた。毎日、愛する人と会って、毎日その人と話をする。薄暗い廊下での素早いキス、静かな将校部屋での心のこもった抱擁。ヴィクトールも、彼は彼で日頃の舞踏会や社交で接する若いお嬢さんたちは死ぬほど退屈だったので、出来る限り近づかないようにしていた。上司の命令でやむを得ず出かけるときには終日そんな催しを開いた主催者を呪うのであった。 二人は人に見つかることを恐れていなかった。人に見られるなどということは考えもしていなかった。腕を組んで、ぴったり身体を寄せ合って回り道に回り道を繰り返すのであった。そのころリンケ軍曹には娘の様子に気がかりなところがあったが、折しもベルリンから続けさまに多くの命令が来て、予備兵の受け入れ、中隊の編成強化、糧食・武器の点検など、兵営は服務に追われていた。そうでなければ娘のふるまいにもっと早く気づいていたことだろう。 新聞には近隣の民衆蜂起が伝えられた。「民衆の激情が沸騰」とか「統一と自由を求める叫び」とか、「バーデン、ヴュルテンベルク、ナッサウ、バイエルン、ヘッセンでは民衆による嵐のような自由の要求に君主は同意した」と書き立てる新聞もあった。デュッセルドルフでは民衆が暴動を起こすような状況にはなかったが、カール・ヒュープナー(*)の描く惨めな庶民の情景が人々の関心を引いた。若い芸術家たちは「絵具箱会」 Malkasten を組織し、新しい時代の芸術運動を起こそうとしていた。 デュッセルドルフ市民は近隣の騒動にはそれほどの関心は持たなかった。カーニヴァルが近づき、娘たちは色とりどりのスカートを短く詰め、若者はできる限りおどろおどろしい仮面を探し出した。通りはさまざまなものを打ち鳴らす音、「ヘーラウ、ヘーラウ」というカーニヴァルの掛け声、叫び声で夜遅くまで賑わった。子供たちまで仮面をつけたがった。中には政治的なスローガンも混じっていた。いつもなら、リンケ軍曹はカーニヴァルの期間はできる限り兵営に留まって外出しないし、家の女たちにも外へ出るなと言い渡すのだった。それでも笛太鼓や叫び声などの喧騒は響いてきていたが。今年は予備兵の一団を鉄道駅から兵営まで引率するという仕事を命じられた。 予備兵を率いて駅から兵営へ向かう道程で、祭りの行列が「ヘーラウ、ヘーラウ」と大声で叫びながら、隊列に押し寄せてくる。軍曹は停止すること無く、行軍を続ける。「どうしたんだ。プロイセンはカーニヴァルの行列が過ぎるまで待てないのか?」「ヘーラウ、ヘーラウ」「プロイセンだ、プロイセンだ!」と、群れの中から叫びが挙がる。軍曹は腰の武器に手が行った。額に血が上る。一番近い人間に「場所を開けろ!」と叫ぶ。そのとき道化が、恋人にするように胸に手を当て、軍曹に投げキッスをして、民衆の怒りは笑いに変じた。「ヘーラウ、ヘーラウ、ハハハハッ!」。笑う人々の間に作られた空間を、怒りに震え歯噛みしながら軍曹は隊列を先導していった。 日ごとに不穏な空気が高まった。子供が学校から帰ってきて、どこかの工場に火がつけられた、どこかでは鋳物工場が壊された、ゾーリンゲンからデモ隊がやってくる、機械を全部ぶっ壊すのだ・・・母トリーナは不安になったが、軍曹はとりあわない。やくざな連中、与太者、あんな奴らに銃を使うのは火薬がもったいない、鞭で十分だ。夫はそう言うが、トリーナの心配は払しょくされず、《美彩鳥》に出かけた。そこは人で溢れかえっていた。ケルンからベルリンへ派遣団が出発した、王が民衆にもっと多くの自由を与えないでは済まないだろうと、皆の意見が一致していた。ベルリンでは民衆が道路の敷石を宮殿前の兵士に投げつけている、という噂まで伝わっていた。 軍曹はそんなことは信じなかったし、暴徒のことなど話題にする価値があるものか、とさえ思った。しかし行きつけの酒場でその日もそんな話ばかり聞かされ、いつもより早く家に向かうが、途中、人々が騒がしく群れているところに行きあった。ライン川の対岸、ロイスの町の大火が見えるという。果たして、一夜明けた日曜の朝、ロイスの大工場が灰燼に帰したことが明らかになった。そしてルール地方のミュルハイム、リュベック、ギュータースロー、エルバーフェルトなどなど多くの土地から不穏なうわさが聞こえてきた。街の酒場は人があふれていた。今日は「ゼバスティアン市民防衛隊」がフンスリュックの丘陵で総会を開くという。皆がそちらに向かっていた。 兵営は静かだった。日曜日はいつも退屈だったが、今日はいつにも増してそう感じた。軍曹は今日はことさらヨゼフィーネのことが気がかりだった、まるであのヴィルヘルムが姿を消した冬の日のように、あるいはそれ以上に不安が募った。《美彩鳥》へ行ってみようと、家を出て通りを歩いていると、 黒・赤・金 の旗が突然上階の窓から拡げられ、風の中を舞い翻った。酒場の中でも表の通りでも、いきなり何百人の声が一つになって挙がった。軍曹は道の向かい側で立ち止まって様子を眺めた。連中は皆酔っぱらっているのか? 大声を上げ、肩を叩きあい、手を振り回し、抱き合い、キスし合う。男同士でキスかい! 黒・赤・金 ―― ふん! 首を振りつつリンケは先に進んだ。だがまた新たに歌声が肥後から響いてきて、通りの端まで、さらに先まで追ってきた。そうしてリンケは《美彩鳥》にやってきた。妻と息子たちはいたが、ヨゼフィーネの姿はなかった。せわしく尋ねる夫に、「どうしていつも心配ばかりしているの、案じることなど何もないのに!」 妻は夫を自分の座っているベンチのそばに招き寄せ、また昔のようにここで並んで座っているのが嬉しかった。その日は店に客がいなかった。みなフンスリュックの集会に出かけたのだ。 その時、突如、通りで銃声が響いた。女たちは驚き、子供は窓に寄って外を見ようとした。「動くな!」と軍曹は叫んで、外の様子に耳を澄ました。さらに銃声が響いた。と、松明の明かりが近づいてきて一団の人々が姿を現した。みな口々に「明かりを灯せ、市民よ!」「王様万歳!」と歓呼の叫びをあげ、足を踏み鳴らす音も響いて、静かなラーティンガー通りは一瞬で魔法にかけられたように賑やかになった。若者たちの群れは「セバスティアン市民防衛隊、万歳!」「王様万歳!」と叫ぶ。街の音楽師が、弦をかき鳴らし、ラッパを吹きならす。するとゼバスティアン市民防衛隊の隊長が黒・赤・金 の旗に埋もれるようにして行進してくる。全身で喜びを現す人、人、人の波が続く。 トリーナ夫人は母親と子供を伴って戸口に急いで、通りががる人の袖をつかんでは何事かと尋ねるが、「分からないよ、万歳、万歳!」「何か知らないよ、万歳!」と、要領を得ない。そこへ昔馴染みのヘンドリッヒが現れ、いまも変わらぬ如才なさで立ち止まって、ベルリンの王が恩赦を下され、市民に自由が与えられた、一時間前に報せが来たんだよ、と教えてくれた。そして「イェーガーホーフへ旗行列だ、イェーガーホーフへ! フリードリヒ王子万歳、ゼバスティアン市民防衛隊のパトロン、王子様、万歳!」と叫びながら再び行列に混じって行った。 軍曹は窓辺に立ち、両手を窓台について、外を凝視した。妻が声をかけても振り向かなかった。《否、否、否、―― 祖国はより大なるべし》(****)という大音声が、他の音を聞こえなくしていた。彼は妻の後に従ってドアから出た。通りは明るくなっていた。窓という窓に明かりが灯っていたのだ。建物のドアは全て開け放たれていた。肌を刺す三月の風が夕暮れとともに治まっていた。ただラインから吹いてい来る微風が黒・赤・金 の旗を揺らせていた。 * Carl Wilhelm Hübner (1814-79) は三月前期を代表する風俗・風景画家。『シュレージエンの織工』など、社会の急速な工業化に翻弄される民衆の姿を描いた。1848年にはデュッセルドルフの美術家協会「絵具箱会」創立に参加し、一時期、その代表を務めた。 さようなら Adieu ― 『ラインの守り』 (8) ―クラーラ・フィービヒ『ラインの守り』から、続き。昨日のイェーガーホーフの出来事はリンケ軍曹には悪夢であった。ただ、皇太子がたいまつ行列の祝福に応えなかったこと、これには密かに溜飲を下げた。民衆がいくら歌い歓呼の声を上げても、宮殿は明かりが灯らず静まり返っていたのだ。やがて群集のなかにぶつぶつと不満を口にする者が現れ、口笛を鳴らす者まで出てきた。軍曹は頭に血が上ったが、そのとき突然、はっと息をのんだ。娘を見かけたのだ。ブロンドの女の子が、ほっそりした男性と腕を組んで通り過ぎた。あれはヨゼフィーネではないか?! 連れは平服だが間違いなく中尉だ。二人は暗がりを選んで歩いてホーフガルテンの木立の中へ消えていった。 その夜、軍曹は眠れなかった。娘が、ヨゼフィーネが中尉を愛している ―― これは不幸なことになる。どんなにか泣くだろうが、ここは非情に冷酷に当たるしかない。次の朝、娘を呼びつけた。娘は明るく「何のご用?」と、頬をバラ色にしてやってきた。 彼は娘を見ること無く、自分の衣服を直していた。そして、どうでもいい話題であるかのように聞いた。「きのう、どこへ行っていた?」父は娘の腕を掴んで言った。俺は嘘をつくことを教えたか? 答えない娘の体を揺さぶった。嘘をつくことを教えたか? そのときドアに近づく母の足音が聞こえたが、「外に居ろ」と怒鳴って鍵をかけた。俺は昨日お前を見た。お前は嘘つきだ! そのとき娘は体を伸ばし、頭を上げ、父の前に立った。涙を流しながらも父の顔をまっすぐに見た。「なぜ俺に嘘をつく?」とまた詰問されて、顔をひきつらせ、答えた。「私たちは ―― お父さんが ―― 怖いのです ―― みんな!」 驚いて娘を見つめた。「お前も ―― 怖いのか?!」彼の眼差しは曇って、熱いものが目に浮かんだ。ヨゼフィーネにそれが見えた。 「おとうさん!」 彼女は叫んで駆け寄り、手を下へ引いた。「私は言いました。確かに言いました! いえ、ちっとも怖くない。お父さん、そんな悲しそうな顔をしないで。ええ、私はヴィクトールと一緒でした ―― 愛し合っているのです!」 ―― その陶然とした話しぶりが彼女の顔を神々しく輝かせた。 ―― ああ、物凄く愛しているんです! ―― いいえ、もう嘘は言いません。だからもう悲しませません、私を打ってちょうだい ―― どうしようもできないんです、あの人のことを愛しているんです。」そして娘は話した。夜、散歩に出かけたこと、そして何度かは彼の部屋にも行ったことを打ち明け、これですっかり話しました、と。打たれると思って目をつむると、「そこへ座れ」と穏やかな父の声。 「これでお終いにするのだ! ここまでだ、これ以上はだめだ、いいか? お前を咎め立てすることはしない。必要なことはお前が一人で言うことができる。それ位の歳にはなっている。今はこうだ:《全隊 ―― 退却!》」父親は長々と話した。激することなく、刺々しくもなく。あの中尉にほれ込んだからといって、この子が悪いのではない。彼は度胸があり名誉を知る若者だ。貴族の生まれと言うだけでなく、本物の士官だ。 「泣くのはやめろ、頭を上げよ! 根性があれば忘れられる。お前にはそれがある。そして別の立派な男と結婚しろ。コンラーディはきっとお前を幸せにしてくれる。」 娘は頭をますます深く垂れて、泣き止まない。「しっかりしろ、一体何を考えている。お前は軍曹の娘、相手は将校。これがどうなるという? 止すのだ!」 「コンラーディが望めばすぐに結婚できる。無理なことはやめるのだ。」 ヨゼフィーネが口を開こうとすると、 「何も言うな!」と強い口調で言った。表情は鉄のようだった。「返事は無用、言う通りにするのだ。中尉とは今後一切むつまじくしないこと、それを約束するんだ ―― 名誉にかけて」娘に対して手を向けた。「こうして!」出勤時間が迫ってきて、軍曹はそそくさと朝食を済ませ家を出た。事務室で鵞ペンを削りながら決心した。コンラーディにすぐさま手紙を書くこと、ぐずぐずしないでさっさと取りかかろう、とにかく娘をここから遠ざけることが大事だ。そして、ちょうど手紙を書き終えたとき、部隊長から呼び出しを受けた。兵営の中も落ち着かない空気が漂っていた。兵器の手入れ、弾薬の支給、工兵隊の準備、兵量の配布 ―― 上官たちは不安げに目を見合わせていた。 昨日はごく限られた者にしか知られなかったこと、空恐ろしい秘密の報せとして夜遅くベルリンから届いたもの、陽気なたいまつ行列の人々の歓呼の声にイェーガーホーフの皇太子の耳を閉ざさせたもの、それが今では町中の知るところとなった ―― 三月十八日の争闘であった。夜になってリンケ軍曹は、これまでにない命令を受けた。当直としてブルク広場の守備につくこと、これは特別な栄誉だと感じた。夜、部下の一隊を引き連れて持ち場に向かう軍曹の胸は誇りで膨らんでいた。道路の左右の建物にはわずかな明かりしか灯っていなかった。商店は早くに閉まっていたが、誰も家には戻らず、そこここの通りを黙りこくって歩いていた。ときどき『ドイツの祖国』 Was ist des Deutschen Vaterland の歌があたりの静寂を破った。リンケは油断なく周囲に目を配った。部隊は完全装備だった。その日はラインの向うの部隊も市内に呼び戻されていた。ヤン・ヴィレム像の周辺、市役所前の階段には多くがたむろしていたが、みな押し黙っていた。 宮殿は暗闇に静まり返っていた。アカデミーに使用されている一翼も明かりはなかった。空からの光もなく、ラインを渡る風が鋭く吹いていた。ブルク広場を囲む家々の風見と吹きつける風だけが辺りで聞こえる物音だった。 笛が鋭く鳴った。すると、ラーティンガー通りから、市役所広場から、アカデミーの裏から、あらゆる方角から真っ黒な人の塊が無言でひたひたと近づいてきた。広場は人で埋まった。守備隊の正面に長い列をなして立った。なお静まり返っていたが、中から子供の声が「ヘーラウ、プロイセン、プロイセン!」と叫んだ。集まった群衆は大抵が若者たち、ようやく母親の手を離れたような子供たち、仕事にあぶれたもの、立ちん坊(*)、足元のおぼつかない酔っ払いも混じっていた。 リンケは口元にあざけりを浮かべて相手を見定めていた。これが英雄だったのかい! 「気を付け! 銃を上げよ!」 銃身がきらきらと光った。すると四方から声が上がった。「奴らは銃を構えたぞ」「奴らは民衆に発砲するんだ」「ベルリンと同じだ」「プロイセン消えろ、市民に明け渡せ」多くの声が叫んだ。 中には命令を真似る者もいた。「銃を構えよ、だ」「全員、進め、だ」と嘲る。いつも兵営から聞こえる訓練の声を耳にしているので、上手に真似るのであった。リンケは部下の憤りの視線を感じた。一言が、一つの命令が、これを解消する! しかし唇を噛みしめるだけだった。「平静、慎重、抑制!」これ以外の指令は受けていなかった。彼は銅像のように立っていた。 松明がいくつか灯された。ゆらゆら揺らぐ光が広場を照らした。「プロイセン野郎! 狂犬!」という叫び声が上がって、後ろの方から石が投げられた。そこからは罵りの声が上がり、それが次第に大きくなった。後ろの連中が前へ押して前方の集団はだんだん詰め寄ってきた。顔を突き合わせるところまできた。また石が投げられる。 兵士たちの銃を握る手に、無意識に、力がこもる。引き金にかかる軍曹の指が固くなる。そのとき、「石を投げるな! やめよ、投げるな!」という声がする。市役所から数名の男が駆け寄ってきてた。年配の声望ある市民であった。彼らは群集の中に混じって説得した、「静まれ、どうか静まってくれ」なおも群集のいきりたちは収まらず、石が飛ぶが、「静まれ、もう命令は発せられた、すぐに届く。連中は引きあげるから! 待て!」と叫ぶ。 事実そのすぐ後、守備隊に「撤退せよ、兵営に戻れ」との命令が届いた。屈辱的な撤退であった。リンケ軍曹はこれほど意気阻喪する命令を受けた覚えはなかった。その場の群集も、気抜けしたのか、静かに道を開けて守備兵が去るのを見送った。一声の罵声すらなかった。 「護衛は引き上げたっていうのは事実か」、と兵営に戻った軍曹に声をかけてきたのはヴィクトール・フォン・クレールモンであった。「そうです、中尉殿!」と答えると、「こん畜生!」とだけ口走った。暗がりで顔こそ見えなかったが、その口調からヴィクトールの顔が恥辱と憤懣で紅潮するのがはっきりとわかった。最新の報知を聞いたか? 陛下は軍を退却させた、全軍を却させたんだ。ほら、と新聞をリンケに渡して彼はその場を去っていった。 そこには《親愛なるベルリン市民に!》と題される国王の布告が掲載されていた。《すべての道路、広場から部隊を引き上げさせる。》 なんと、なんと! リンケは先を読む気にならなかった。続いてこうあった。《今回のこと、余も忘れるゆえ、諸君も忘れられよ ――》 春が力強くやってきた。通りでマロニエの花が美しく咲いた。 ヨゼフィーネはコンラーディと婚約し、夏には結婚式を挙げる手はずとなった。リンケは安心であった。ヨゼフィーネの眼差しに輝きが失せたこともさほど心配しなかった。なあに、結婚すれば収まるさ。気がかりは新聞に載る事柄だった。これまで無駄で無益なことと見なしていた地元の地方紙にも目を通した。フェルディナンド・フライリヒラートとかいう男の詩が載っていて、いらいらする新聞(**)だったが。時にはクレールモン中尉に頼んで、『鉄十字新聞』(***)にも目を通した。 ヴィクトールは近ごろはもう退屈していなかった。考えるのは政治のことばかり、廊下にヨゼフィーネの足音が聞こえないかと耳をそばだてることも、その姿が見えないかと窓を見上げることもなかった。妹のツェチーリエともめったに会わなくなっていた。妹といると退屈だった。女たちは政治には全く関係ないんだ、思った。ヨゼフィーネでさえそうだった。だが、ふと暇な時間に彼女のことを思うことがあった。 可哀そうな娘! 父に言われて手紙を書いた時には、どれだけ泣いたことだろう。《おしまいにしなければなりません》 ぎこちなく、しかし感動的に書いてきた。涙が便箋にこぼれた、その跡が見てとれた。彼が贈った数少ないプレゼントも送り返してきた。紫檀のネックレス、貝殻細工の小箱、『ポールとヴィルジニー』の小さな絵。ただ赤い表紙で金色のパッションフラワーの模様の入った本だけは手元に残すことを赦してください、《これを読んであなたのことを思うことでしょう》と言うのであった。父親に気づかれたのは致命的だ、お終いにするしかない、と彼も思った。そして自らが割り込んでこない父親の軍曹は見事だ、彼には繊細な感覚がある、その件については一切知らない、という態度でこちらが気恥ずかしくならないように気を配っているのだ。ヴィクトールは軍曹に好意の気持ちをもって接するようになった。それ以降、二人は兵営内でともに歩き、言葉を交わすことが以前より多くなった。 軍曹の宿舎のキッチンの窓から、若葉のさし出たカエデの木々に、歌声が響いてくることは無くなった。縫物をしながら、これまで一度も出たことのない兵営を離れること、新しい故郷となる土地のことを思い巡らせていた。知らない場所を想像しながら、それが楽しいのか悲しいのか、わからないのであった。コンラーディは数週間に一度は訪ねてきた。ヨゼフィーネがやさしい眼差しで迎えてくれ、別れのキスをしてくれるだけで満足だった。彼がプロテスタント、しかも改革派ということで、ルター派よりもっと悪いと嫌っていた母親も、次第にその穏やかな人柄に心を開いていった。 祖母チルゲスは結婚のお祝いを兵営なんかではなく、《美彩鳥》でやりたいと言った。軍曹は初めこそ猛反対したが、自分の意思を通しきれなかった。この頃では女たちの力が優ってきたのだ。家庭内のことなど、外の政治の問題に比べれば小さい、と軍曹は自分に言い聞かせるのだった。 デュッセルドルフは国王の行幸を控えていた。市民守備隊は歓迎準備には熱心ではなかった。王にへこへこしたい奴がゆけばいい、俺たちは自由な市民だ。とはいえ好奇心はあった。物見高い市民は多かった。その日、8月14日は早朝から周辺の村や工場、ラインの両岸から多くの群集が押しかけてきた。学校は休校、商店も役所も休みであった。誰もが休みであったが、男性コーラス隊だけが忙しかった。イェーガーホーフで皇太子との晩餐の際に控えの間で歌うことになっていたのだ。 コルドゥーラ・チルゲス夫人もその日の数時間は《美彩鳥》を閉じることにしていた。彼女は翌日の孫娘の結婚式を控えて、忙しく立ち働いていた。ちょっと前に結婚式の日取りは15日と決まった。花婿はその日一日しか休暇を取れないのだ。ヨゼフィーネは一日早かろうが遅かろうがどちらでもよかった。その日のうちにボーヴィケルへ向かうことになっていた。祖母にとっては結婚式がそんなに短いのは大いに不満だったが。 一通りの準備が終わって、チルゲス夫人も国王の行列を見物に出かけた。夫を一人きりで置いていくのは躊躇われたが、今日は特別よ、ごく短い間だからと思って出かけることにした。まだ生身の国王を見たことがなかったのだ。背もたれ椅子に座った老チルゲスは、「お母さん、どこへ行くのだ?」と問う。国王を観に行くと答えると、あの男ここで何の用がある、我々はデュッセルドルフ市民だ! と不満を口にするが、それがいつの間にか、ナポレオン入城の日のこととなり・・・夫人は急いで出かけた。 沿道は盛装した参事会員、軍の高官、市の役人、兵士が居並んでいた。閲兵服姿のリンケ軍曹もその中にいた。表情こそ普段通り冷静であったが、剣帯にかかる指先が細かく震えていて、興奮を隠しきれなかった。燃える視線で国王を探した。儀装馬車が通りかかったとき、彼はぎくりと身をすくませ、茫然とした目つきになった ―― これが、これが王だった?! その人はマントにくるまって座席の一隅に凭れていた。軍曹は心が張り裂けるようだった。若かりし皇太子時代の、あの精悍な輝かしい姿はどこにいった?! 万歳を叫ぼうとして、声が出なかった。周りの万歳の声も弱々しいものだった。多くの人びとは黙りこくっていた。 馬車が目の前を通り過ぎてしばらくした時、 口笛が聞こえたような気がした。突然、誰かの手で投げられた馬糞が馬車に飛んでいった。そして国王のマントに降りかかった(****)。5時を回って祖母が息せき切って戻ってくる。もう2時間近くも家を空けていた。いらいらして待っているのではないかしら ―― いや眠っているだろう ―― だったらいいのだが。家へ入ってみると、おやおや、ずっと同じ背もたれ椅子に座っているのか。手を振り首を上下して合図をしたが、老人はいなかった。「チルゲス」と叫びながら廊下に出て、「ペーター、私よ、戻ってきたよ!」と大声を上げるが、答えはない。キッチンの隣の部屋に入ると ―― 老人は窓際の背もたれ椅子で、頭を深く垂れ手を組み合わせて、事切れていた。 祖父が亡くなったと、ヴィルヘルムが泣きながら兵営まで知らせてきた。ヨゼフィーネが息を切らせて《美彩鳥》に駆けつけると、そこは静かに落ち着いていた。上の階の寝室の、祖父が横たえられているベッドの脇で祖母が座っていた。ろうそくの明かりを受けて、穏やかな表情であった。「この人、もうお前の結婚式には出られなくなったね。どれほどか喜んだことだろうに!」 泣き伏すヨゼフィーネに、「そんなに泣くのはおやめ、お祖父さんは眠っているだけなんだから」と、静かに言うのだった。そして祖父の上で十字を切って、「イエスさま、マリア様、ヨゼフ様、この人の魂をお預け致します ―― 永遠の世界で再会するまで。ペーター、ゆっくりお休み!」 結婚式は祖父の死にもかかわらず、決められた日程で行われた。祝の席は兵営に変更され、そこに夕方には祖母もやってきた。前に祖母がこの家に足を踏み入れたのははるか昔のことだった。せめて孫娘の花嫁姿だけは一目見たいと思ったのだ。ヨゼフィーネはもう少し落ち着いて皆と別れられると思っていたが、いよいよになると悲しくて辛くて別れられないのだった。大声で泣きじゃくりながら弟や妹たち、母、祖母とキスした。その嗚咽は父と抱き合った時が一番激しく長く続いた。 コンラーディが新妻を導いてホーフを通り過ぎる時、日が没した。カエデのこずえが夕べの風に吹かれて鳴り、黄金色の夕日が建物の窓を照らすなか、ごくゆっくりとヨゼフィーネは歩を進めた。しかし、いくら遅く歩いても門が近づく。門が開く。通り抜けると、門はまた閉まった。彼女は兵営を去った。 * 街角に佇んで荷物持ちなどの用事を言いつかってなにがしかの小銭を稼ぐ男たちのこと。数字入りの腕章をつけ、肩にベルトを掛けている。そしてポケットに酒瓶! 「立ちん坊 Eckensteher」 参照。 |