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拾遺集(32) Aus meinem Papierkorb, Nr. 32


フェリチタス Felizitas

フリードリヒ・ゲオルク・ユンガー Friedrich Georg Jünger (1898-1977) の初期の短篇に『フェリチタス』がある。短編集「ダルマチアの夜」(Dalmatinische Nacht, 1950) に収録されている。物語の舞台には、司法修習生時代のユンガーが実際に住んでいたライプチヒの、中心から少し外れた一画が選ばれている。

第一次大戦に志願兵として従軍し、フランドル戦線の最前線の陣地で塹壕戦を戦い、負傷して奇跡的に戦場を離れて生還したユンガーは、終戦後しばらく軍に留まった後、退役して法律家の道を進むべく、ライプチヒ大学の法学部に入学手続きを取った。数年で修了試験(試補試験)に合格、マイセンやフライベルクなどの裁判所で研修を受ける。研修の最後の地はライプチヒを選び、市内何カ所かの住居を移り住んだが、最後に住んだのがアルベルトパーク Albertpark の縁にあるガーデンハウス、老夫婦と二人の娘のいる家だった。

自伝的エッセー『緑の枝--記憶の書』Grüne Zweige. Ein Erinnerungsbuch (1951) によると、部屋はすっきりと明るく、朝日が射しこむこの部屋をユンガーは後々まで懐かしく思いだす。部屋の世話をする二人の娘はどんな細かい塵も見逃すまいと競いあった。「二人は新鮮なリネンの香りに包まれた、家の妖精だった」とある。午前は部屋で勉強、午後は公園を通り、白鳥とコイに餌をやり、ほとんど毎日図書館へ行き、数時間過ごす。往き来の道すがら、柵や生垣にごく甘い香りを発するソラヌム Solanum (Nachtschatten) の植え込みが繁茂して、いまでもその紫の花と赤い実を目にすると当時の隠者生活を思い出す。時は過ぎ、周囲の静けさは増していった。

『フェリチタス』は「私」がそのころの思い出話を語るような調子で始まる。
私のライプチヒ滞在の最後に住んでいた家、この家のことは楽しい思い出になっている。そこへ越して行ったのは大きな公園がすぐ近くだったからだ。公園には年経た美しいニレの木が数本あり、毎日のようにその下に座って過ごした。公園にはまた池があり、細くせばまったところ数箇所には木製の橋が渡されていた。水上にはハクチョウとカモが泳いでいて、きれいな水面は、秋には落葉で覆われ、太ったコイ、テンチ、金魚の群れがうごめいていた。これらの生き物はみな、公園を訪れる人たちにパンくずを与えられ、群れ集まって激しく争うのであった。
(S.58)
さて、ユンガーの住んだ家の道路を挟んだ向かい側にも家があり、『緑の枝』には、このように描かれている。
私の家の前にいかにも裕福な人が住まう一軒の家があった。鉄格子が道路との境界を区切っていて、四方が細い庭に囲まれていた。その家に住み込む何人かの若い娘が、ときどき興味深そうに、私が腰かけて本を読むこちらの窓を見やる。窓の前のカエデの枝の隙間から彼女たちが縫物をしたり、手紙を書いたりおしゃべりをするのが見ることができた。彼女たちが私のことを気にかけ、いろいろ話題にしていることに気付いたが、私はほとんど無視していた。
(Grüne Zweige S.267)
娘たちを「無視していた」ユンガーが、ある日の夕方窓辺に寄ると一人の娘がこちらを向いてにっこりしたのである。彼も大声で挨拶の言葉を叫んだが、聞こえないという身振りをしたので手紙を書くという身振りを返す。相手も身振りで郵便箱を示したので、数行のメモを書いてその家の郵便箱に入れた。すぐに回収された。公園を散歩しましょうと書いたが、彼女はこちらに同意の頷きを返してきた、というのである。こうして、なんだか小説中の出来事のように、その女性、ルイーゼとの交際が始まる。

一方、『フェリチタス』でも、「窓の前にカエデの木が植わっていて、半球状の葉並が通りからの見通しをほとんど遮っているのだ。[中略]カエデの下枝の二本が作る隙間から向い側の家を見ることができた」と描かれている。まったく同一のシチュエーションである。それが物語では次のように展開してゆく。
九月のある日、長い散歩から部屋に戻ってきた。肘掛椅子を窓際に引き寄せ、本を一冊取って読み始めた。その日は蒸し暑く、陽が少し陰り始めると、カエデの枝で蚊の塊が舞った。しばらく読み続けると、眠気を覚えた。そのとき奇妙なことが起きた。
(S.59)
奇妙なこととは、それまで人が住まないと思っていた向いの家に明かりが灯っていて、窓に人影が見えたのだ。
向いの家は長らく無人だと思っていた。ふと外を見ると、驚いたことに二階に明かりが灯っているのを発見したのだ。長らく閉まっていた家の一つの窓が開き、鎧戸が折り返されていた。窓辺に一人の少女が座っているのが見えた。手仕事をしていたが、何の作業かはすぐには分からなかった。しかし目を凝らしてよく見ると、小さな銀色のやすりで爪を研いでいた。すぐさま奇妙に思えたのは、爪を研ぐのに誰にも見える窓際を選んだことだ。彼女は仕事に熱中していて目を上げることがなかった。顔はくまなく明かりを浴びていた。とても青白い顔色で、目鼻立ちもすっかり読み取れた。首を少し傾げていたので、濃い色の巻き毛が横へ流れて額に垂れかかっていた。まったく自由で自然なこの姿勢以上に優美なものは考えられなかった。額は突き出ることも平たくもなく、鼻と口の形もよかった。眼差しがどうかは見分けがつかなかった。それだけ一層まつげと眉毛が、その濃い弓なりが青白い顔に独特の表情を与えていた。
(S.59f.)
窓の女性は優美で美しい少女に見えたが、その表情にはどこか「私」を不安にさせるところがあった。
しかし少女をじっと長く見つめるにつれ、優美な像から受ける喜びが消えて行き、かすかな不安にとらえられた。その顔には私を不安にさせる何か、なぜそうなるのか分からない何かがあった。明るくもなく陰気でもなく、打ち解けてもなく冷たくもなかった。そもそもその顔から何かの印象を受け取ることができなかった。しかし恐らくは隙を見せないかたくなさが、大理石のような堅固さが形作られていた。油断なく張りつめているように見えたが同時にごく穏やかで柔軟な動きとも見えた。この見事な柔軟さは、銀のやすりを操っている長い白い指の揺らめきにもあった。小さなやすりは彼女が動かすと明るく光った。すべてが奇異であった、明るく澄んだ揺らめきであり――なんだか私には――残虐とも思われた。急に私は甘くやっかいな快楽、悩ましい欲望が迫ってくるのを感じ、心臓が速く強く打つのであった。
(S.60)
そのとき彼女がふと顔をあげ、目が合った。彼女の「物おじしないきらきらした視線に」耐えられず、「私」はついに微笑みかけた。彼女の方もごくわずかに微笑んで、「ご近所さんがいらっしゃるとは存じませんでした」と、声をかけてきた。そしてこのような会話が交わされた。
その家にお一人で住まわれているのですか
独りぼっちです、ずっと。このあたりはとても寂しいところで、誰も訪ねてきません
というので「私」は思い切って言ってみる。
私も一人です:お近づきになれたらうれしいですが

すると驚いたことに、彼女が「こちらにいらっしゃいますか」と言って立ち上がり、階下の玄関ドアを指さしたのである。「私」は「心臓が耐えられないほど早打ちし、全身の血管を燃えるような熱い血がどくどくと流れた」状態で「行きます」と叫んで階段を駆け下り道路へ出た。向かいの家を見上げたが窓辺に人影はない。それで開いていた玄関ドアを通り抜けて建物に入り、まっすぐな石の階段を上がった。冷たく湿った少々かび臭い空気が押し寄せてきた。二階でもすぐさまドアが見つかった。それはたった一つあるドアだった。
ドアの名札を読むために身を屈め、暗かったのでマッチを擦った。銅の丸い標札には、緑青がこびりついていたが、フェリチタスという文字が読み取れ、そしてこれを読みながら考えた:これは姓ではなく名なのだろうと。ドアを開け、しばし耳を澄ませて立っていた、燃えるマッチ棒を手に持って。一匹の猫が出てきて、こちらの顔を見、そしてゆっくりと階段を降りて行った。美しい黒猫だった;しばらく猫を吟味してから住まいに足を踏み入れた。動くものは何もなかった。手探りで暗い廊下を進んだ。誰も出て来なかった。盗人のように壁を手探りして歩んだ。不意にその状態の異常さ、非現実さが意識にのぼり、災いの予感が、急速な恐怖が雷光のように走った。そのとき手がドアに触れ、それを押し開いて入ると空っぽの部屋だった。クモの巣と埃が、この部屋が長期間無人であったことを示していた。
(S.62)
以下が物語の結末。こんなどんでん返しが待っていたとは…
「だけど窓は開いている」と私は思った。全身に恐怖を感じながら窓に歩み寄り外を見た。何という驚き! 自分の部屋が覗き込めた、私自身が見えた、窓辺の椅子に座って眠っている自分が。身震いしながら、何も考えられず、その姿を眺めていた。長い間そうして立っていた。すると眠れる者が目を開けてこちらを見た。空虚なこわばった放心状態の悲しげな目だった。その情景は耐えがたく、そして驚きのあまり、すぐさま目が覚めた。
(S.62f.)
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自分が自分を見る現象は医学においては「自己像幻視」autoscopy として扱われるが、ドイツの伝説・民話ではドッペルゲンガー Doppelgänger と呼ばれ、文学作品で様々なヴァリエーションで登場する(*)。詩人の実体験として語られる例も少なくない。詩として描かれ、作曲されて歌われたものとしてハインリヒ・ハイネの『帰郷』中の一篇にシューベルトが作曲し、歌曲集「白鳥の歌」に収めた "Der Doppelgänger" があり、我が国では《影法師》のタイトルで知られている(**)

ユンガーはどうなのだろうか。ドッペルゲンガーを目にした実体験があるのだろうか。不思議な夢を見たという体験は『緑の枝』で何度か触れられている。まだ幼い少年時代、サーカスの公演で12歳くらいの少女の馬上の演技に衝撃を受けた。「これより美しいものは見たことが無いと思った」「優美で、まるで小鳥のように空中を飛んでいるように思われた」と感激ぶりを語っている。帰宅するとすぐさまベッドに入って目を閉じたが、眠りの前には人の顔や姿をいつも喚び出せるのに、あの美しい少女のことを思い浮かべようと、精いっぱいの努力をしても、成功しない。すぐに目に浮かぶ顔はすべて似ていない。突如、涙が滂沱として流れ、その時からひと月以上、いくら泣くまいとしても激しく泣かない夜はなかった。朝まで覚めたまま伏せていて、そして疲れ切って眠った。しかし今度は夢の中ですべてが繰り広げられるのであった。夢はこのような展開を示す。
最初、白樺に覆われた道が見え、これがどの道かはすぐわかった。というのも近所にあって、よく歩いたり自転車で走った道だったからだ。白樺の根元にはヒースが群生、白いひものように伸びて遥か彼方に消え、その葉は愛くるしい緑の旗のように垂れ下がっていた。私は長い時間この道をさ迷い歩いたような気がする、そしてやっとあの少女を、ひとりで樹下にたたずむ少女が目に入った。私を待っていたのは明らかだ、というのも彼女はすぐさまこちらを見て、その顔が、今や表情の隅々まで馴染みのある顔が、喜びでぱっと明るくなったからである。彼女に近づいてあいさつすると、手を差し出してきた。その手を握ろうとしたが、はやその姿は遠ざかり、捉えられることなく、消えていった。あたかも彼女はその場から動いたのではなく、透明になり溶け去ったようだった。
Zunächst sah ich eine Straße, die von Birken eingefaßt war, und diese Straße erkannte ich sogleich wieder, denn sie lag in der Nachbarschaft, und ich war oft auf ihr gegangen oder mit dem Rad gefahren. Das Heidekraut wucherte in Polstern am Fuß der Stämme, die sich wie eine weiße Schnur in der Ferne verloren und deren Laub sich in zierlichen, grünen Fahnen tief hinabsankte. Mir war, als ob ich lange auf dieser Straße wanderte, bis ich endlich das Mädchen sah, das allein unter einem Baum stand. Offenbar erwartete sie mich, denn sie wandte sich mir sogleich zu, und ihr Gesicht, in dem mir jetzt jeder Zug vertraut war, leuchtete vor Freude auf. Ich erreichte und begrüßte sie, und sie gab mir die Hand. Ich suchte sie festzuhalten, schon aber entfernte sich die Gestalt und entschwand, ohne von mir gehalten werden zu können. Es war, als ob sie, ohne sich von der Stelle zu bewegen, durchsichtig wurde und sich auflöste. (Grüne Zweige S.86f.)
それ以降の公演はなく、サーカスは温泉地を去ると聞かされた。彼はもう一度彼女の姿を見たくて、昼も夜も毎日のように会場付近へ出かけ、学校も食事も構わずにずっと待ち続けた。そして、忍耐が報われる時が来た。噴水のところに少女が現れたのである。籠を手に提げ、木の下をやって来て噴水に近づく。身を乗り出して格子越しに、丸い水槽の中を泳ぐ赤い金魚を覗き込んだ。
この瞬間、すべての知覚が鋭く曇りなく克明に記憶に刻まれ、後になっても鏡を見るがごとくよみがえってきた。薄日が差して生じる微かな水面の揺れ、針金で編まれた格子、木の葉の天井から漏れる光が道の上で縞を描き渦巻いたり斑紋を作る動き、昼下がりの静まり返った暑い静けさ、そこを華奢な姿が動くさま、これらすべてが、まるで蝋に型押ししたように明瞭に残っている。ただ顔貌だけは、彼女がそこに数分いて身を起こし噴水を離れる、その瞬間に逃れてゆく。彼女が木々の間に消えるまで後ろ姿を目で追った……
In diesem Augenblick prägte sich mir jede Wahrnehmung so scharf, klar und unverlierbar ein, daß ich sie später wie in einem Spiegel wiederkehren sah. Das leichte Zittern des Wassers, das der dünn fallende Strahl hervorrief, die Drahtschlingen des geflochtenen Gitters, das Licht, das die Laubgewölbe durchbrach und in Streifen, Kringeln und Flecken auf den Wegen sich regte, die lautlose, heiße Stille des Nachmittags, in der die schlanke Gestalt sich bewegte, alles dieses erhielt sich mir so deutlich wie der Abdruck, den das Siegel im Wachs hervorruft. Nur ihr Gesicht entzog sich mir in dem gleichen Augenblick, in dem sie sich aufrichtete und den Springbrunnen verließ, an dem sie einige Minuten verweilt hatte. Ich sah ihr nach, bis sie zwischen den Bäumen verschwand, [...] (Grüne Zweige S.88)
このように振り返って、そのころ自分は子供から大人への転換期だった、異性の存在、その美に気づいたときだったと言う。そしてまた当時見た夢について話したいと断ってユンガーは改めて夢の話を語るが、出現するのはあのサーカスの少女ではなく今度は精霊たちだ。夜の夢は昼の生活の夜の側からのコピー、あるいは足りないものの補充と見なされているが、と彼は言う、夢は優しさに満ちた示唆と助言、昼間の思考、事物の理解を助ける不可欠のものだ、と。

春になるとユンガーはしばしば賑やかな鳴き声に起こされる。活発に夢を見ていたが、そのとき夢に変化が生じたことに気づく。しばらくの間は望む通りに夢見ることができると信じていたが、やがて夢は好き勝手に進行し、思い通りにはならないことを知った。目覚めの後よく夢を見たとは感じるが、どんな夢だったか思い出せない。しばしば夜通し夢を見続けたと思う時がある。そして夢の縺れが消え去った時、いい夢だった、あるいは悪い夢だったという感覚は残るのである。

夜はいつもモーツァルトの熱狂的ファンの父が地下室でツィターとかアコーディオンで演奏する『魔笛』『ドン・ジョヴァンニ』『後宮からの誘拐』の音楽が聞こえてくる。家中が静まり返った夜のしじまの中、階段を上ってくる『コシ・ファン・トゥッテ』の序曲を耳にしつつ眠りにつく。とりわけ繰り返す音の連なりに注意を向ける。その繰り返しが耳にこびりつく。こうして夢が始まる。
かくて夢がはじまる。精霊たちが接近してくるのは心地よいものだが、彼らの一つとして私に触れることのできる近さまで来ることも触れたりも、しない。しかし私は気づく、この距離が次第に縮まり、彼らの姿がはっきりしてきて、輪郭を持つようになったことに。ぐっと迫ってきたことは現れた姿が女性のものに違いないと判る、そのことで確かめられた。それは彼らの性が目に見えるようになったためではない。と言うのは彼らは裸ではなく、また着衣もなく、空気そのものがその姿を不透明のうすぎぬのように囲っていたからだ。
Nun begann der Traum. Die Annäherung der Gestalten war mir angenehm, doch kam keine von ihnen mir so nahe, daß sie mich berühren konnte oder berührt hätte. Ich merkte aber, daß sich die Entfernung, in der sie sich von mir hielten, nach und nach verringerte, daß sie dadurch fester wurden und an Körper gewannen, was sich vor allem daran zeigte, daß ich erkannte, diese Erscheinungen müßten weiblicher Natur sein. Nicht als ob mir ihr Geschlecht sichtbar geworden wäre, denn sie waren nicht nackt, auch nicht bekleidet, die Luft selbst umgab sie wie ein undurchdringlicher Flor. (Grüne Zweige S.100f.)
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ユンガーは多彩な夢を見て、それをよく記憶している。夢の内容は日中の体験のさまざまな変形であり、あるいは現実から遠く離れた精霊たちの飛翔する幻の世界にまで広がりがある。また「完全に真実で、予言的な夢」"vollkommen wahrer, ja prophetischer Traum" (Grüne Zweige S.87) もあった、すなわち夢で見た光景を、のちに現実の出来事として体験することもあったという。『フェリチタス』の場合、事柄は込入っていて、自分の分身を見たという出来事が夢のなかのこととして描かれているでのである。

[付記]
『フェリチタス』の他に「分身」が登場するユンガーの作品があるか無いかは確認できていないが、詩集 "Der Missouri" (1940) の最後に、4行連16節(全64行)の、自分が目覚めた夢を見る内容の詩 "Am Morgen" がある。これも「分身」のヴァリエーションと言えるか。Sämtliche Gedichte 1 (S.152-154)
AM MORGEN 朝に  
Ich dachte, halb im Schlafe:
≪Es ist ein Traum.
Du träumst, dass du erwacht bist
Im fremden Raum.
私は思った、半ば眠ったまま:
《これは夢だ。お前は、
知らない場所で目覚めた夢を
見ているのだ。
Wie käme sonst ans Fenster
Der wilde Wein?
Die Zeder grünt im Garten,
Sie nickt herein.
さもなくばどうして窓に
野生のブドウが伝う?
庭でスギが緑に茂り、
窓から頷きこむ。
[...]
[中略]
Wo bin ich? Ist das alles
Noch Schlaf und Traum?
Ich sehe, wie vom Lichte
Ergrünt der Baum.
私はどこに? すべては
まだ眠りと夢の中なのか?
私は見る、光りを受けて木が
緑にきらめくのを。
Ich sehe auf dem Kissen
Dein dunkles Haar.
Mir ist, als ob das alles
Schon einmal war
私は枕の上に見る
お前の黒い髪を。
あたかもすべてが
すでにあったかのように
Als ob es niemals anders
Gewesen ist.
Die Zeit verbirgt nur, dass du
Der gleiche bist.
あたかもこれと違うことは
なかったかのように。
時は、隠すだけ
お前が同じだということを。

ユンガーはデジャヴュの経験も多い。最も強烈な印象を受けたものとして、次の例を挙げている。ある士官を訪ねて行って、建物の階段を上ってゆくと、下から音楽と歌が聞こえてきた。中庭を見下ろすと、下には老人と少女が立っていた。彼が下を見たその瞬間、老人は演奏をやめ、少女も歌いやめて、二人は彼の方を見上げた。高い建物の囲みに振り下ろす陽の光が二人の頭部に注いで、ブルーの背景に不思議な感じで浮かび上がっていた。ユンガーはすっかり混乱してすぐに身を引いた。というのは同じ事象を同じ経過で一度見たことがあるという確信に撃たれたからであった。彼は音楽家を見るべく、階段を駆け下りたが、二人は姿を消していた。中庭の壁際に一輪のヒマワリが咲いていて、以来、その種の花を見ると全事象が彼の中で繰り返された。浮遊し、きらめいて、しかし暗く。すべては、と自分に言った、錯覚であり、お前が見た夢なのだ、と。(緑の枝 -13-参照)

ユンガーの場合、夢がデジャヴュでデジャヴュが夢、というように入り組んでいるようだ。詩人のドッペルゲンガー実体験としてよく知られている例に、ゲーテの場合がある。彼は21歳の時、馬に乗っている自分を見た、その八年後、自分が同じ場所で同じ服装をして馬に乗っているのに気付いたという。フリーデリーケと別れるシーンだ。『詩と真実』によると、こうある。
別れに当たって馬上から手を差し伸べたとき、彼女の目には涙が浮かんでいた。私は胸が痛んだ。ドゥルーゼンハイムに向かって小径に馬をかっていたとき、私はひどく奇妙な予感におそわれた。すなわち、肉眼ではなく、心の目で、同じ道を馬に乗って、しかも、私が一度も着たことのない、やや金色みをおびた灰青色の服を着て、私の方へやってくる私をみたのである。急いで夢をふり落とすと、その姿は消えた。しかし私は、不思議なことに、八年ののち、選んだのではなく偶然身につけたのであったが、夢に見たのと同じ服を着て、同じ道を、もう一度フリーデリーケに会うために通ったのであった。
(『詩と真実・第三部』山崎章甫訳、岩波文庫 P.92)

Als ich ihr die Hand noch vom Pferde reichte, standen ihr die Thränen in den Augen, und mir war sehr übel zu Muthe. Nun ritt ich auf dem Fußpfade gegen Drusenheim, und da überfiel mich eine der sonderbarsten Ahndungen. Ich sah nämlich, nicht mit den Augen des Leibes, sondern des Geistes, mich mir selbst, denselben Weg, zu Pferde wieder entgegen kommen, und zwar in einem Kleide wie ich es nie getragen: es war hechtgrau mit etwas Gold. Sobald ich mich aus diesem Traum ausschüttelte, war die Gestalt ganz hinweg. Sonderbar ist es jedoch, daß ich nach acht Jahren, in dem Kleide das mir geträumt hatte, und das ich nicht aus Wahl sondern aus Zufall gerade trug, mich auf demselben Wege fand, um Friedriken noch einmal zu besuchen.
[Aus meinem Leben. Dichtung und Wahrheit. Bd. 3]
これも案外デジャヴュとして解釈できる現象ではあるまいか。
[使用テキスト: Friedrich Georg Jünger: Werke. Erzählungen 1 (Klett-Cotta, Zweite Auflage, 2004) S.58-63]
* 前川道介『ドイツ怪奇文学入門』(綜芸社 1965)に詳しい。その他、
 Otto Rank: Der Doppelgänger. In:Imago, 1914
 (有内嘉宏 訳『分身 ドッペルゲンガー』人文書院 1988)
 河合隼雄『影の現象学』(講談社学術文庫 1987)
などが参考になる。
** Doppelgänger 影法師 石井不二雄・訳
Still ist die Nacht, es ruhen die Gassen,
In diesem Hause wohnte mein Schatz;
Sie hat schon längst die Stadt verlassen,
Doch steht noch das Haus auf demselben Platz.
  夜が静かだ、町並みは安らいでいる、
  この家に僕の恋人が住んでいた。
  彼女はずっと前に町を去ったが、
  家は相変わらず同じところに立っている。
Da steht auch ein Mensch, und starrt in die Höhe,
Und ringt die Hände vor Schmerzensgewalt;
Mir graust es, wenn ich sein Antlitz sehe -
Der Mond zeigt mir meine eigne Gestalt.
  そこにも人が一人いて、虚空を見つめ、
  激しい苦痛に組んだ手をよじっている。
  僕はその顔を見て、ぞっとする――
  月が照らし出したのは僕自身の姿なのだ。
Du Doppelgänger! du bleicher Geselle!
Was äffst du nach mein Liebesleid,
Das mich gequält auf dieser Stelle,
So mancher Nacht, in aller alter Zeit?
  お前、影法師よ! 蒼白い顔をした仲間よ!
  どうしてお前は真似るのか、
  昔、夜ごと夜ごとこの場所で
  僕をさいなんた愛の苦しみを?

アスパラガスの季節 Spargelzeit

ドイツの人々は春の野菜アスパラガスに特別の愛着を持っているようで、それは我が国の人々がタケノコに向き合う姿勢と似通っているところがあるが、彼我を比べれば彼の熱心・執心ぶりははるかに上回っているだろう。四月半ばか五月になるとどこの食堂でも店舗入り口の小さな立て看板にアスパラガスの文字が躍り、メニューにアスパラ料理が並ぶ。ネットで Spargelzeit を検索すると様々なレシピが溢れ、またレシピ本もこれまた毎年新しく出版される。

この時期の雰囲気を覗き見るには、ちょっと古いですが、東京のドイツ大使館のサイト YOUNG GERMANY に「ドイツで春を告げるモノ: シュパーゲル」(2015年5月22日)という記事が好適です。これを眺めればドイツ人のアスパラガスの愛着ぶりが生き生きと伝わってくるでしょう。

ロンドンのドイツ大使館のサイトにも "The ‘Spargelzeit’ (asparagus season) — a national obsession" (2019年4月26日) という記事が掲載されています。これは昨年の記事ですが、春のアスパラガスはドイツ人の「ナショナル・オブセッション」、すなわち国民的強迫観念とまで言っています。この野菜への愛情などという言い方は生ぬるい、崇拝なのだ、と。
It’s that time of year again — the asparagus season has started in Germany! To say Germans love this seasonal vegetable would be an understatement… they absolutely adore it. Every year, the average German consumes roughly 1.5kg of the vegetable that is often referred to as the ‘king of the vegetables’.
Whilst the green variety is available all year round, Germans prefer the seasonal white variety that grows only during ‘Spargelzeit’ (asparagus season) which lasts from mid-April to mid or late June.
ドイツのアスパラガスのシーズンは四月半ばに始まり、六月二十四日の聖ヨハネの日 Johannistag に終わることになっています。その日を過ぎると、多年植物なので、翌年の収穫のために土のなかで休ませるのです。国内産はそのようなしきたりになっていますが、今では国外からの輸入物もあるのでこのシーズンを過ぎてもスーパーで見かけることがあります。10月ころから「冬のアスパラガス」とか「貧者のアスパラガス」と称して国内産の黒いアスパラが店頭に並ぶこともある(「黒い根のシーズン」参照)ようです。黒い皮をむけば外国産よりおいしい白いアスパラガスが姿を現すとのこと。

この野菜の収穫は大変な手間で、今でも一本一本手で刈り取っているらしい。刈り取り作業は現在では多くは東欧圏からの労働力に支えられているようですが、昔は国内の若い女性の労力に依存していた。フリードリヒ・ゲオルク・ユンガー Friedrich Georg Jünger (1898-1977) の『アスパラガスの季節』Spargelzeit は、二カ月半のシーズンに限ってアスパラガスの刈り取りに雇われた娘たちを巡るいくつかのエピソードを集めた物語である。この作品は第二の短編小説集「クジャクとそのほかの物語」(Die Pfauen und andere Erzählungen, 1952) の巻頭に収録されている。

物語はこのように語り始められる。
私の住む地方では昔から、カッコウが鳴きはじめるとハムを切る。カッコウはここらでは四月に戻って来て、そのころ湿地の森、原野、湿原へ出かける者はカッコウが鳴くのを耳にする。昔から、人々はお金をポケットに突っ込んで、その年最初のカッコウの鳴き声を聞くと、すぐさまジャラジャラ放り出すのが習慣だ。最初の鳴き声が大事で、そのような振舞いをして、一年のあいだ懐が空にならないよう願うのだ。
(S.198)
ドイツのアスパラガスのシーズンは一般に四月半ばに始まり、六月二十四日の聖ヨハネの日 Johannistag に終わるのだが、この物語の舞台(おそらくはハノーファー近郊と思われる)では始まりの日が四月十四日のティブルティウス(*)の日と決まっていて、六月半ばに終わるとなっている。現在どうかは不明だが、この地方の教会暦(農事暦)では四月十四日の暦に、
   ティブルティウスは歌と響きとともに来る、
   カッコウとナイチンゲールを連れて来る。
と記されていたとのこと。語り手の「私」は、これは本当だ、この日に季節外れの遅い雪が降ったときも、カッコウの鳴き声を降雪の中で聞いたことがあった、と請け合っている。四月にカッコウが鳴き大地が暖まるとシーズンが始まり、人々は切ったハムに初物のアスパラガスを添えて食べるのである。
春がきて、八百屋で走りのアスパラガスを目にするとき、編みカゴに入っているかあるいは小さく十字に結ばれて並んでいるとき、私には見える、はっきりと見える、土の肌ばかり目立つ畝を歩く多くの娘たちが、低く屈んでナイフでアスパラガスを刈り取っている姿が。畑は色とりどりだ、というのも娘たちは色とりどりのブラウス、シャツ、スカートを身に着けているからだ。一歩一歩進んで、脇に提げているカゴにアスパラガスを入れてゆく。風が吹き、陽が射し、畑に降り注ぐ熱い光で顔は茶色に灼ける。
(S.199)
アスパラガス刈りにはその土地の者でない娘たちが雇われ、遠方からやってくる。 別の土地の、男ではなく女の労働者である。刈り取り、集め、汚れを取り、皮をむき、茹でるのは女手が向いていると考えられたからだ。

「私」がマケーベン母さんを知った時、この土地に生まれ育ち住み続けた婦人はすでに八十六歳だったが、元気でかくしゃくとしていた。誰とも知り合いで何でも知っていて、あきれるほどの話題の持ち主であり、「私」にもあれこれ様々な話をしてくれた。あるときアスパラガスのことを尋ねると、畑が造成され栽培が始まったころのことから、いつもの淡々とした調子で語ってくれた。アスパラガスは「野蛮で騒々しい作物なのだ」との品評。刈り取りのため多くの娘たちがやって来た。「仕事がきて、銭がきて、騒々しさがきたのさ。銭より騒々しさの方が大きかったね、娘たちは騒々しいからさ」と言う。次第に多くの面積がアスパラガス畑に変わり、多くの小屋が建てられ、多くの娘たちがやってきて、春の騒々しさが強まったというのが老婦人の見立てだった。「燃える火をこの土地に与えた」若い娘たち。その火の粉が飛び散って引き起こされた事件が語られる。

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よそから来た娘たちは週日は働き、日曜日にはダンス場に出かける、土地の娘たちは踊り相手を奪われないため、きつい言葉を投げ、争いになり、何度も本気の乱闘になって、その中で一番有名なのはマケーベン母さんのいわく《蝶々の戦い》であった。その時の踊り手の中に、翼のような袖と帯とリボンがついている空色の衣装の娘が数名いて、動くたびに蝶の羽ばたきを思わせたからその名が付いたという。乱闘はとても激しかったので、水を浴びせて女たちを四散させるまで終わらせることができなかった。会場の被害は甚大だった。

この事件の捜査に当たった地方憲兵ヘプケは、医者に運動を勧められていたので、暑い中、いかめしい装いで、本来の騎馬ではなく徒歩で娘たちの住む小屋に出かけて行った。《蝶々の戦い》は人々を面白がらせたが、彼には仕事を増やしただけ、調書を取るためあちらこちら走り回らされ、いまも不機嫌な顔で、砂埃の中を畑の畦道を横切って小屋に赴いた。

テーブルの前に腰を下ろし、事件当日の参加者をひとりひとり尋問していくが、脚と腕を晒し素足で歩く軽装の若い娘たちに取り囲まれて次第に気分がほころび、尋問の調子が和らぎ、娘たちもずんずん憲兵に近づき、椅子やテーブルに腰を下ろし、笑い、おしゃべりし、制服をつまんだりした。娘たちは陰でひそひそ相談して、居酒屋からビール一ケースと焼酎を一本を取り寄せた。「これは贈賄だ」と始めは抵抗したものの、娘たちが笑いながらちょこっと飲むのを見て、彼もグラスに手を伸ばした。ハンブルクから来た娘が彼のヘルメットを頭に乗せ、別の娘が剣帯を帯び、三人目が剣で遊んでいた。彼はビールのグラスを次々と干し、そして調子に乗ると娘たちに演説をぶっていた。
「お前たちはこの件をそう軽い問題だと思ってはいかん」と彼は言った。「発生した損害は小さなものではなく、店主は憤慨しておる。訴訟手続きが始まっている。わしが思うにお前たちの何人かは鍵と格子の中へ入ることになるだろう。」
[中略]
娘たちはそれを認めなかった。しかしハンブルク娘は――乱闘の首謀者に他ならなかったが――ヘルメットを頭に乗せ彼の膝の上に座ると、彼は嬉しそうにして腕を娘の肩に回しさえした。「お前はザンクト・パオリに行ったことがあるのかい」 彼は優しく尋ねた。彼女は笑ってあると答え、そして聞き返した、私と行く気はありませんか、と。
「今日はもう遅い」と彼はごくりとビールを飲みこんで言った。とても疲れたように感じた。暑い日に徒歩で歩きまわり、アスパラガスの強い香りが効いていた部屋で、たっぷりの飲酒が効果を現したのだ。空気は次第に色めいて、娘たちの笑い顔がかすみ始めてきた。いまや空気はすっかり色づいた。「色とりどりのスカート」と彼はつぶやいた。もはや抵抗はできず、姿勢が崩れこっくりした。頭はテーブルの上に沈んだ。彼は深く静かな眠りに落ちた。

(S.210)
娘たちは空いたベッドの一つを戸外に出し、そこにヘプケを引っ張って行き寝かしつけた。剣は傍らの地面に突き刺し、剣帯をそれにぶら下げ、ヘルメットをその上に乗せた。シラカバの葉とトウヒの針を取ってきて、それでもってヘルメットとベッド台に飾り付けた。次の朝、娘たちが様子を見に出た時には、もうベッドは空になっていた。木の葉の飾りはなおベッドの上にあったが、憲兵の姿はなかった。その後も、しばらく彼が姿を現すことはなかった。

* * * * * * * * *

マケーベン母さんから聞いたお話しの中からもう一つ、それは森林監督官ハンネマンのことだ。彼は村はずれの森の縁にある家に、一人きりで住んでいた。結婚もしていないし、子供もなかった。家には犬が何匹かと、あるとき翼が動かなくなっているのを森から持ち帰った老いたカラスが一羽いるだけだった。翼が治っても、カラスは家に居ついた。監督官が見回りをしていると、時には木の頂から舞い降りてきて、肩に止まる。

ある日の昼のこと、赤いスパニエル犬フラックスを連れて夜明けから歩いて疲れ、犬もまた、何時間も炎のように茂みの中を駆け回って疲れ、オークの下の茂みで共に眠り込んだ。やがて目覚め、彼は横になったままアスパラガス畑を見渡した。

そこには、こちらに青い斑点、あちらに赤いのと黄色い斑点、まるで復活祭の飾り卵のように色とりどりだった。それはアスパラガスを刈りながら進んできた娘たちに他ならなかった。もちろん、アスパラガス畑は森林監督官には気に入らなかった。もしこのアスパラガス畑を再び若いオークの挿し木で覆うことができたらどんなに素晴らしいことだろう、などと考えながら色とりどりの斑点を眺めていると、そのうちの赤い斑点がだんだんと大きくなり、彼の方に向かって来た、斑点に腕が生え足が生え、いっそう明るくなり、ついに一人の娘が立ち現れた。
それは背が高く美しく華やかな少女だった。髪の毛は屈むたびにばらけて肩に降りかかる、汗がきれいな粒となって額に浮かび、そして脚ときたら木の皮をはいだ若いオークのようだった、というのも少女は靴も靴下もはかず、裸足で畑を歩いていたから。そしてハンネマンと犬の前に立った時、彼女は特に驚いた風もなく言った:「さあ、監督官どの、よく眠りましたか?」
監督官は何か奇妙な気がした。コウライウグイスがオークの木のなかで狂ったように囀り、犬に視線を投げた時、その絹のように柔らかい毛がハリネズミの毛のように逆立っていた。しかしそれ以上に驚いたのは少女の衣服が透明になって、彼の上に身を屈めると、スカートもブラウスも身に着けていなかったことだ。監督官は目を閉じようとしたが、彼女は恐れげもなく彼の髭を掴み、にこにこ笑いながら言った:「アスパラガスのこと知ろうと思わないのね、森人間さん。」

(S.216)
話しの異様な展開に驚く「私」に対して、マケーベン母さんは、それはアスパラガスの魔女だった、森林監督官は魔女と湿原へ行った、いっしょに黒い泥炭の所まで行っちまったと言う。どこもかしこも探したが、家には犬たちとカラスがいただけ、監督官は見つからなかったと。赤いスパニエル犬は、と「私」が尋ねると、長らく悲しそうに辺りを歩きまわっていた犬は、牧師さんが引き取って、いまはそこにいるのさ、とのこと。

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そのような話、また別のいろいろな話を語ってくれたマケーベン母さんが亡くなって、長い年月が過ぎた。ここからは「私」自身の体験として、アスパラガスの刈り取りに集まった中の、ある一少女について語られる。
いろいろな顔から記憶が浮かぶことがある、そして記憶から顔が浮かぶことがある。その違いは何か? いま私が目を閉じると、まず白い斑点が見える、それだけだ。しかしその斑点に一つの顔が隠れている、顔には見覚えがあり、再認識がある。眼前に顔が浮かび上がるとき、私は言う:「これはマルタの顔だ。」マルタというのは、春に黒い木の小屋で住んでいた刈り取り娘の一人だった。
Erinnerungen können aus Gesichtern hervorgehen, und Gesichter aus Erinnerungen. Was ist der Unterschied? Wenn ich jetzt die Augen schließe, sehe ich zunächst einen weißen Fleck, nicht mehr. Aber in dem Fleck versteckt sich ein Gesicht, die Ähnlichkeit ist da und auch das Wiedererkennen. Indem das Gesicht vor mir auftaucht, sage ich mir: ≫Es ist Marthas Gesicht.≪ Martha aber war eine der Stecherinnen, die im Frühling in dem schwarzen Holzschuppen wohnten. (S.218)
この出だしから、「記憶」を、「記憶と映像」というものを、ユンガー独自の視点から語ろうとしていることが伝わってくる。さて、マルタなる少女の「顔から浮かぶ」記憶は、どのように展開するのだろうか。

五月のある夕べのこと、「私」は牧草地の防護垣の中へ迷い込んだ一人の少女を見つけた。垣に沿って歩いて出口を探していた。すでに長い距離を歩いた後らしく、歩き疲れ不安に陥っていた。こんなやり方では出口を見つけるのは難しく、もう夕闇が迫っているなか、「私」の姿を目にして道を尋ねてきた。手引きをして防護垣から出て、馬の放牧場の上方に来たとき、そこにはカモのいる池があったが、少女は疲れ切って、座りこんでしまった。

当時流行の、腰がきつく締まったロングの服を着て、青いリボンのついた幅広の麦わら帽子を被り、白い透かし編みの手袋をして小さな日傘を手に持っていた。「踊りに行っていたのですか?」と尋ねると、「踊りには行きません」という答え。ダンスには行かないのに着飾って、こんな牧草地を歩いているとは不思議な娘だ。池に足を浸して水をパチャパチャいわせてたり、暗がりの中を近づいてきた馬に驚いたりしていたが、しばらくして彼女の方を見やると、腰を落としてぼんやりうずくまり、肩を震わせ両手で顔をふさぎ、声を出さずに泣いていた。驚いて「何か心配事があるのですか?」と尋ねると、
「放っておいて下さい。泣くと気分が良くなるのです。すぐに泣きやみます。ここは何もかも私には馴染めないものばかりです。」
「あなたが馴染めないものって何なのですか?」
「何もかもです。土地も人も。自分自身にもここでは馴染めません。」

≫Lassen Sie mich. Das Weinen tut mir gut. Es geht gleich vorüber. Alles ist hier zu fremd für mich.≪
≫Was ist denn fremd für Sie?≪
≫Alles, das Land, die Menschen. Ich bin mir selber fremd hier. ≪ (S.221)
馴染めない fremd という言い回しに注意が引かれる。ユンガーの短篇のキーワード(**)の一つだ。土地にも、人にも馴染めない、ここでは自分自身にも馴染めない、と少女に語らせているが、こうしたひどい疎外感はこの頃のユンガーの作品の重要なテーマとなっている。彼自身が苦しめられた感覚であろう。

黙りこくっている彼女をふと見ると、顔を覆う両手の指の隙間からこちらを見ている、そして驚いたことに、笑い声が聞こえてきたのだ。雨かと思えば陽が射す、四月の天気のようだと「私」はびっくりする。そのあと小屋まで送って行った。この道すがらは、無口だった先ほどまでと打って変わって、尋ねられることには何でも答えた。

次の土曜日、「私」は小屋まで訪ねて行った。エプロン姿でカゴとナイフを手にした彼女の姿を見つけて、明日の三時に、例の池のほとりで待っているよと声をかけた。そのあと森を抜け、放牧地を散歩しながら少女のことを考えた。
なぜ彼女は実際より小さくて敏捷で几帳面に思えるのだろう。ひょっとしたら、と独りごちた、単に目が大きいからではないか。とても愛くるしく、女性らしい形ではあったが、私にはその茶色で注意深く油断のない目は他の何より大きく見えた。私はまた彼女が話したこと、両親も兄弟姉妹も親戚もない、家も住まいも部屋もない、有るのは一切の持ち物を詰めたスーツケースだけだと言ったことを考えた。どのような持ち物なのだ? いまさっき着ているのを見たエプロン、ロングの晴れ着、日傘と白い手袋なのか。彼女が必要とするものすべて、そしておそらく写真か思い出の品、こんなところだろう。スーツケースは彼女の身体からみれば相当の大きさだろうが、世間一般のものからすると、ごくちっぽけだ。そんなに持ち物の少ない者は動くのは軽やかだ、巣も卵も雛もない小鳥が大地の上を飛行するように軽やかだ。だがどうしたことだろう、私は自分に言った、彼女はすべてを身に着けて運ぶ、過去、現在、未来ひっくるめて。自分自身も身に着けて運んでいる・・・
Warum kam sie mir noch kleiner, behender und genauer vor, als sie war? Vielleicht deshalb, sagte ich mir, weil nur die Augen an ihr groß sind. So zierlich, so nach der weiblichen Schnur abgemessen sie war, die baunen, aufmerksamen, wachsamen Augen schienen mir größer zu sein als alles andere. Ich bedachte auch, was sie mir erzählt hatte, bedachte, daß sie weder Eltern und Geschwister noch Verwandte hatte, weder Haus, Wohnung noch Zimmer, nur einen Koffer, in dem alle ihre Sachen waren. Was für Sachen? Nun, die Schürze, in der ich sie eben gesehen hatte, das lange Sonntagskleid, der Sonnenschirm und die weißen Handschuhe. Alles was sie brauchte, und wohl noch einiges dazu an Bildern und Andenken. Der Koffer mochte, an ihr selbst abgemessen, recht groß sein, aber abgemessen an dem, was in der Welt an Besitz ist, war er winzig klein. Wer so wenig hat, der bewegt sich leicht, leicht wie ein Vogel, der über Lnnd fliegt, der weder Nest, Eier noch Junge hat. Was tat das aber, da sie doch, wie ich mir sagte, alles bei sich trug, ihre Vergangenheit, Gegenwart und Zukunft eingeschlossen. Sie trägt sich selbst bei sich ... (S.222f.)
彼女は過去、現在、未来すべてを身に着けて、自分自身も身に着けて運んでいる。時々泣いて、誰とも知り合いにならないなら、それでも重くはないだろう、というのが「私」の感想だ。「自分自身も身に着けて」は、彼女が「自分自身にもここでは馴染めません」と吐露したことと呼応しているはず。マルタは住む家も部屋もなく天涯孤独で、馴染めない自分自身を身に着けて軽やかに暮らしている。このように天涯孤独の少女の謎めいたところが次第に読者に示されてくるが、それに向きあう「私」の気持ちの動きにも注意が惹かれる。少女の振舞いの受け取り方に特異なところがある。その性格、振舞い、表情の説明が、とても魅力的な造形になっている。

日曜日、約束の時間にカモの池のほとりに座っていると、長いドレス、青いリボンのついた麦わら帽、日傘、白い手袋、先週と全く同じ装いでやってきた。「私」は、――こんな言い方が許されるなら――と断って、彼女が実の姉のように見えたと言う。最初に会ったときと全く同じ姿が、本人ではなく「実の姉」のように見えたとは、 ユニークな感想だ。同一であるゆえ同一でない。

彼女には勇気と他人を信頼する心がある。小さな存在ながら身に着けている勇気と信頼に「私」は驚かされる。彼女は人を信じ切ったら、天真爛漫で朗らかだった。当時「私」は彼女を実際より弱いと見なして、マルタの快活さはどこに根拠があるのか、まともに見ていなかった。奇妙なのは「私」がすべてを正確に記憶していることだと言う。そもそも特別なことは何も起きていない。防護垣の中を散歩し、お喋りし、草に座り、そうして数時間を一緒に過ごすと彼女を小屋へ送って行く、それだけなのに。
しかしこれほど私の記憶にくっきり刻み込むことができたのは何だったのだろう。風景の中へ紛れ込むようにやってきて、ごく狭い茂みにでも身を隠せるこの小さな人物の、どこがいつまでも残るものなのだろう。初めはひょっとしたら、私より果断で気丈だったことかもしれない。彼女は自分が何者か、何をしたいか知っていたし、自分の道をわきまえていた。もし誰かがとても小さいのに、あごを引き、何事にもひるまず、時には威圧感さえ与える態度で周囲に視線を向けるとすれば、そこにはなにか関心を引かれるもの、ことによると心を打つものもありうるだろう。しかし他人がどう見るかなど彼女自身は何ら知ろうとしなかった。[中略]彼女は自分を知っていた。だが私は自分も彼女も知っていなかった。我々が女性の弱さと呼ぶものは、おそらく正真正銘の救援資源、女性のあらゆる力の座で、弱さと目される一つ一つは、別の見知らぬ力の上に置かれていて、その力で苦も無く払拭してしまう。
Was war da aber, das sich mir so genau einprägen konnte? Was war denn Nachhaltiges an dieser kleinen Person, die in die Landschaft wie hineingeweht war und sich hinter dem kleinsten Busch verstecken konnte? Zunächst vielleicht dieses, daß sie entschlossener und sicherer war als ich. Sie wußte, wohin sie gehörte, wußte, was sie wollte, und kannte ihren Weg. Wenn jemand so klein ist und dabei das Kinn anzieht und unerschrocken, manchmal fast drohend und gebieterisch um sich blickt, dann kann das etwas Belustigendes haben, vielleicht auch etwas Rührendes. Aber davon wollte sie nichts wissen. [...] Sie kannte sich, und ich kannte weder mich noch sie. Das, was wir weibliche Schwächen nennen, sind vermutlich die wahren Hilfsquellen, der Sitz aller Kraft bei den Frauen, denn jede dieser Schwächen ist auf eine andere, fremde Kraft angelegt, mit der sie mühelos fertig wird. (S.225f.)
ここの最後に指摘される、「別の見知らぬ力」とは何か。男性には fremd で、女性は自覚せずとも持っている力か。その力があるから、マルタはしっかり武装した存在で、誰も心配する必要がないのだ、と「私」は言う。その正体は不明ながら、ここではそのような力があると、読者は一応は受け入れて読み進むしかない。しかし「私」がいちばん惹きつけられたのはそれではないと言う。では何か? それを明らかにしたいと言明する。
私はそれまで彼女のように明確で確固としたところが優美さと結びついた女性というものを見たことがなかった。これはおそらく稀なことだ、というのはこのような性質は両立しないのが常だ。彼女の動きの中には正確さと敏捷さ、同時に優美なものがあった。ノロジカのように優美で、それに周囲を油断なく見まわす大きな茶色の目が似合っていた。それは素晴らしいものだったが、同時に私には少々耐えがたいところもあった。というのは茶色の目の視線がぼんやりとうつろになったとき、その時には全く異なったイメージが私の中に浮かび上がる、それはどこか泉の上に身を屈めるときに見えるイメージと比べたく思うものだ。その時は鋭敏さ思慮深さが、夢の上に被さった覆いのように見えて、その覆いはさっと取り払われたのだ。彼女がそうした視線で周囲を見ると、すべてが魔法にかかったように見えた、そして私が彼女のことを忘れ得なかったのはこの視線のためだった。
Nie zuvor hatte ich ein weibliches Wesen gesehen, bei dem wie bei ihr das Bestimmte, Genaue sich mit der Anmut verband. Das ist wohl etwas Seltenes, denn diese Eigenschaften pflegen sich auszuschließen. In ihrem Bewegungen war etwas Abgezirkeltes, Behendes und dabei Anmutiges. Sie war so anmutig wie ein Reh, und dazu paßten die großen, braunen Augen, mit denen sie lauschend und wachsam um sich sah. Etwas Köstliches war daran, aber auch etwas, das für mich nicht leicht zu ertragen war. Denn es kam vor, daß die Blick der braunen Augen sich verlor, abwesend wurde, und dann stiegen ganz andere Bilder in mir auf, Bilder, die ich denen vergleichen möchte, die man in einem Brunnen sieht, wenn man sich über ihn beugt. Das Hellhörige, Verständige kam mir dann wie eine Decke vor, die über dem Traum gelegt war, und die Decke wurde zurückgeschlagen. Wenn sie mit einem solchen Blick um sich sah, dann schien alles Zauberei zu werden, und wegen dieses Blickes habe ich sie nicht vergessen. (S.226)
ここは「私」の気持ちを読み解くうえで一番の難所だ。マルタの「茶色の目の視線がぼんやりとうつろになったとき」の「私」のうちで生じる映像が描写されたが、理解できるだろうか。思いつく言葉を補って読んでみる。その映像は泉を覗き込んだ時に見える像(揺らぐ自画像?)と比べたくなるもの。彼女の視線の(それまでの?)注意深く利発なところが、(彼女の? 自分の?)夢の上に被さった覆いのように思われて、その覆いはめくり取られた。そこにはどのような映像が見えるのか。泉に映る像もナルシスでもなし、よくわからない。夢の覆いとはどのような覆いか。だいいち夢の像は何かの膜越しに見えるものか? 水面・鏡面は、太古の昔より神秘に結びつくモチーフではある。めくり取られる、カヴァーがさっと開かれる。Decke はカヴァー、カヴァーを取り除くは entdecken という動詞がある。英語の discover である。覆いをめくり取ってどのような映像が、何が発見されるのか?

続けて「私」は言う。
それについて語るのは容易でないし、語ることができていないだろうと思う。彼女は私をその視線で見ることができて、同時に私が驚いているのを見ないことができた。私はあたかも変身の場を覗き込んでいるような、あたかも変身したものに取り囲まれているような気分だった。これは何を意味しているのだ? 一人の人間がそこにいて同時にいないことができるのか、他を見つつ他から見えないなんてことがあるのか? 人間はできるのだ。だれもその時はもう自分の鏡像ではない。では、鏡の前に行った時、この覚悟はできているか、対面するのが自分の似姿ではなく、全く別の、全く予期しなかったものが現れる、オオカミ、一本の木、ノロジカ? これは馬鹿げた魔法の世界からきた馬鹿げた想像だ、もしかするとそれは私自身の馬鹿げた憂愁から浮かび上がるものだ。彼女は私を見た、そして私はそれを忘れなかった。
Darüber etwas zu sagen, ist nicht leicht, und ich fürchte, daß es mir nicht gelingt. Sie konnte mich mit einem solchen Blick ansehen und zugleich nicht ansehen, daß ich erschrag. Mir war, als ob ich in Verwandlungen hineinsähe, als ob ich von Verwandelten umgeben wäre. Was aber will das heißen? Kann ein Mensch zugleich da sein und nicht da sein, kann er sehen und unsichtbar sein? Er kann es. Keiner ist dann sein eigenes Spiegelbild mehr. Muß er nicht, wenn er vor einen Spiegel tritt, darauf gefaßt sein, daß nicht sein Abbild entgegentritt, sondern etwas ganz anderes, ganz unerwartetes, ein Wolf, ein Baum oder ein Reh? Nun, das waren närrische Vorstellungen aus einer närrischen, zauberhaften Welt, und vielleicht stiegen sie aus meiner eigenen närrischen Schwermut auf. Sie sah mich an, und ich vergaß es nicht. (S.226f.)
マルタという少女の謎めいたところ、その「顔から浮かぶ」記憶と映像を追ってここまで来たが、少女はとても魅力的で心を引く人物だし、その通常の描写を逸脱するような描き方にも深く印象付けられるところがある。せんじ詰めれば彼女の視線が生じさせる不可思議な作用の分析だ。その上でよく理解できたかと言うと、大いなる疑問符がつく。「それについて語るのは容易でないし、語れていないだろうと思う」と「私」が言うのだから、まあ理解できなくても仕方がない。だから加えて、あたかも変身の場を覗き込んでいるような、あたかも変身した存在に取り囲まれているような気分と言われても、曖昧に頷くしかない。鏡を見て、対面するのが自分の似姿ではなく、オオカミ、一本の木、ノロジカ? それは「私自身の馬鹿げた」メランコリー Schwermut から生まれた馬鹿げた魔法の世界だ、と言われればもうお手上げだ。

そもそもユンガーの短篇に登場する女性はほとんどが謎めいた存在である。イタリア人軽業師ラウラ ("Laura")、窓に見える少女フェリチタス ("Felizitas")、孤児で小作人の妻となったドーラ ("Der Knopf")、ブーシ島の娘ソフィア ("Dalmatinische Nacht")、 漁師の娘マリアンネ ("Urlaub")、庭師の娘テレーゼ ("Die Pfauen")、伯爵令嬢アレキサンドリーネ ("Der Blaue Stein")、機械工の娘ネリー ("Schwarze Malven") などなどである。自伝的エッセイ『緑の枝』で回想に上る女性たちも、それぞれがそれぞれのスタイルで謎めいている。だがマルタほど言葉を尽くして描写される登場人物はほかに無いだろう。そして彼女は、とび切り謎めいた、そして心を引く少女なのだ。

アスパラガスの季節が過ぎ、刈り入れ娘たちが去る日が近づいてきた。最後のデートの日、彼女は大切な白い手袋を失った。それで、娘たちが出立する日、「私」は彼女に白い手袋をプレゼントした。彼女はきれいに包装した小箱を差し出して、他の娘たちとともに車に乗り込んだ。
 「たぶん来年もまた来るのでしょうね」と「私」は声をかけた。
 「たぶんね。お元気で。」
車が発った後、小箱を開けると、名前が刺繍されたハンカチが入っていた。次の年、彼女は来なかった。「私」はマルタと再会することはなかった。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * *

目前に広がる田園と森林と沼地と農地、その風景を彩る賑やかなアスパラガスの娘たち。あれやこれやのエピソードが語られ、不思議な少女マルタも去った。人が行き交い、季節が巡る。騒がしさもやがて忘れられ、あたりに静けさが戻る。カッコウはもう鳴かない、アスパラガスの芽が土から頭を出す。秋に「私」は畑の中を歩いた。畑のアスパラガスの茎はいまはもう緑ではなく、黄金色で、西風が吹き揺らすと日光を受けて輝いている。春から始まった物語が終わりには秋が深まっていた。空で鳥の鳴き声がした、ツルの群れが大きなくさび型を作って北から湿原の上を渡ってきた。若い二人のジプシー娘も畑でツルのダンスを踊っていた。
[使用テキスト: Friedrich Georg Jünger: Werke. Erzählungen 1 (Klett-Cotta, Zweite Auflage, 2004) S.198-230]
* ティブルティウス Tiburtius von Rom 二世紀末か三世紀初めに殉教したとされる聖人。教会暦(農事暦)の類には何種類かあるが、四月十四日をティブルティウスの日とするものがあり、そうした暦には、Tiburtius kommt mit Sang und Schall, er bringt den Kuckuck und die Nachtigall. という句が掲載されているものもあるようだ。
** たとえば『ラウラ』の fremd を、アンドレアス・ガイヤー Andreas Geyer は三つの相から分析している。「ラウラ Laura」 参照。