拾遺集(30) Aus meinem Papierkorb, Nr. 30緑の枝 -12- Grüne Zweige -12-1907年以来ハノーファー郊外、シュタインフーダー・メール西方の町レーブルクで、悠々と暮らしてきたユンガーの両親であったが、にわかに転居することになった。父は45歳までに働いて得た貯えで、それからは生活のために稼ぐ必要は無く、この12年間研究と趣味に過ごしてきた。だが戦後の経済状況をみて家・土地を売却、ザクセンの小都市ライスニヒ Leisnig に薬局を購入して移住した。再び仕事に就かねばならないと考えたのである。ライスニヒは「フライベルク・ムルデ」河畔の小都市。ムルデ Mulde とはもともと丘や山と対になる谷や低地・窪地を意味する。 ムルデ川はエルベ川の東を流れる河川、船舶の航行はできない。チェコに源流があるツヴィッカウ・ムルデ Zwickauer Mulde と南ザクセン源流のフライベルク・ムルデ Freiberger Mulde の二つのムルデが、ライプチヒ南東のコルディッツ Colditz で合流して、統一ムルデ Vereinte Mulde oder Vereinigte Mulde になり、デッサウ近くでエルベ川に流入する。ライスニヒは合流直前のフライベルク・ムルデの河畔に位置する。 [右の図は blaues-band というサイトから転載しました] フリードリヒ・ゲオルク・ユンガーは自分が育った家、庭、風景を失った。突如、すべてが失われ、思い出だけが残された。大地から引き抜かれたような気持ちで、こうした変化を受け入れることがなかなか出来なかった。だがこの感情は新しいものではなかった。戦場でそのような感情が生まれ始めていた。ついには、お前は植物ではない、光も空気も水もいたる所にあり、どこへ行こうが生きていけるのだ、と自分に言い聞かせた。あの庭師ローベルトが、戦争で片足が動かなくなっていたが、帰還すると両親の新しい住居にもついて来たことは有り難かった。数年後結婚して離れるまで以前のように働いてくれた。 転居してまもなく妹ハンナ Hanna の結婚がきまった。この結婚式に、ユンガーはあの三姉妹の末妹ヴィーゼを招待した。彼女はライスニヒの風景が気に入った。切り立った崖に建つ城に行き、 フライベルク・ムルデの谷を見下ろした。彼らは流れを目で追い、遠くに見える村々の数を数えた。建物が密に建ち、土地は豊かで、利用されつくされている。それがユンガーに、広く見渡す限りの荒野、目路はるか人の影がない原野への思いを呼び起こした。ここでは狭い境遇の中に置かれたような気がする。 けれどもこの新しい新しい土地、環境での最初の数カ月は彼には特別の魅力があった。それは匿名性の魅力である。かつて彼を苦しめた「見知らぬもの」を、その無資格の存在、純然たる否定性を思い出した。それは「見知らぬ」としか言いようのない、それ以外の何物でもないもの、だが随所にさまよっているもの、生のさ中に疎外を呼び起こすもの、であった。新しい環境に移ったとき、このようなイメージの中に新たなものが生起した。新たな環境においては、彼は自分自身が「見知らぬもの」であった。それが心地よかった。「見知らぬ」fremd という言葉が新たなトーン、アクセントを持ち始めたのだ。 すべてが見知らぬものとなりうる。これは見知らぬ少女、見知らぬ花、見知らぬ家、と言ってみる。するとたちまち身中を消えがたい、謎めいた感覚が貫いた。この感覚がすべての知覚に加えられ、まるで山彦あるいは鐘の余韻のように、耳の中でなかなか消えなかった。いつもこの感覚は驚きを呼び起こした、慣れたもの・親しいものが消滅し、代わりに何か新規なものその場を占めるからだ。明らかにこの感覚は心の深みに触れるものだった。その感覚の中で、ずっと無傷に持ち続けてきた所属の感情が損なわれた。過ぎ去ったものは別の光線を当てられ、明瞭に新しい展望でもって現れた。過去は今よりもっと多くの構築物と秩序があった。まさに平穏期 lucida intervalla、ぱっと明るく光る瞬間がそれを示した。すべてがなにか一時的なものとなった。私は即興で生きなければならなかった。それは苦ではなかったし、別の生き方はできないと思われた。自分は何をすべきか、という問いが再び現れた。父は自由にさせてくれたが、息子たちの中で一人は法律家が欲しいと思っているのは窺い知れた。父の希望に沿って進むのには苦労はなく、ライプチヒ大学の法学部に入学手続きを取った。ライプチヒは大学とドイツ帝国最高裁判所の所在地であり、法学の牙城であった。無数の法律家がいた。大学教授、裁判官、弁護士、学者、実務家が都市生活の景観を成しているだけでなく、彼らの集まりは閉鎖的な社会を形作っていた。法学部は特別な名声を博していたが、その創設に当たった学者たちはすでに過去の世代になっていた。その世代の一人、老ミッタイス(*)はなおも講義を持っていたが。この学者はシュペングラー(**)の著作で引用されていたので名前は知っていた。ユンガーはその当時シュペングラーの著作を熱心に読み、それは彼の思想に新しい方向を指し示すものだった。 ライプチヒの話題に入る前にちょっと述べておくことがあると言う。そのころ彼の母がバイエルンから連れて来た家事手伝いの少女がいた。ユンガーが『西洋の没落』を読んでノートを取っている部屋で、少女は手仕事をしていた。少女は静かで、息遣いさえ聞こえなかった。彼女はユンガーに心を寄せたが、彼はまったく気づかなかった。言葉やしぐさでそれと知らせることはなかったのだ。彼女が居なくなって、初めてそのことを教えられた。聞けば洗濯女の手から彼の洗濯物を抜き取って自分が洗っていたとのこと。ユンガーは控えめな心情に心打たれた。年経てから少女の母親の手紙で、彼女が母親に相談したこと、母親は娘を非難することなく帰ってくるようにとも言わず、ただ心を込めて仕事をすること、祈りを忘れないようにと助言しただけだったことが知れた。ユンガーは〈悲恋は悲劇ではない〉 "Eine unglückliche Liebe sei kein Unglück" と感想を述べているが、これを読まされる読者にとっては何とも応対に困る挿話ではあるまいか。 さて最初にライプチヒに出かけたとき、あるカフェのテーブルに座っているマンタイ Manthey (「緑の枝 -9-」参照)に出くわして驚いた。同席していたのは、ソンム以来知っている同じ連隊の、ユンガーと共にフランドルへも送られた士官だった。マンタイは療養していたスイスから戻っていて、やはり法学を学んでいてユンガーよりずっと先に進んでいたのだ。少し昔話をした後、話題はカフェで演奏されていた音楽のことになった。ふたりはフラジオレット[Flageolett-Töne フラジオレットまたはフラジョレット。ハーモニクスのこと]のことを話していた。ふたりの会話から浮かび上がる音楽はごく平凡で、厳しく言えば正確さに欠け、その優雅なカフェと同様、耐えがたく通俗的だとユンガーには思われた。かつて同室であったとき、行進中に気の合う同僚と交わしていたマンタイの煩瑣な文学談義を思い出した。二人との交際が深まることはなかった。 ユンガーがライプチヒ大学を選んだのは法学部の名声の故ばかりではなく、両親の住居が近いからでもあった。毎週末、両親のもとを訪れることができた。ライプチヒは思っていたより灰色の町で、忙しく立ち働く商人や使用人がアリの群れのようで、ユンガーには見慣れない光景だった。町の容子を知ろうと歩いて、たくさんの中庭、パッサージュと間道、路上の競りや皮革商でごった返すブリュール通り[かつて〈世界一の毛皮街〉 „Weltstraße der Pelze“ と呼ばれていた]、無数の喫煙具のストック、見本市の賑わいなどには驚かされた。皮革や紡績が工場として操業しているところは、ケムニッツのような紡績都市がいつも不快であるように、いい感じを受けなかった。ザクセンで目についたことは、敏捷な行動、旅行好き、社交好きなこと、これらは北ドイツでは馴染みのなかったものだ。だが一番おかしいと感じたのは、自らを皮肉り、滑稽な存在にすることである。グループで休日に出かけるときには〈おどけ屋〉 Spaßmacher を雇って連れて行く。それは一種の道化のようなもので、新聞に広告も出している。ザクセンのジョークには自嘲と自己満足が隣り合っていて、両者の結びつきがこの土地の言葉の響きとなっている。 あらゆる種類の商工業を営む者たちがこの町の雰囲気を性格づけているが、ライプチヒは学問、書籍と音楽の町でもあった。法学のゼミナールを受講している講義室の壁には17世紀以来の、肩まで垂れさがるものなど様々な鬘をつけた学者の肖像画が掲げられていた。 この学者の巣窟からそう遠くないところに芸術の中心があると思うと、驚きを禁じ得ない。あらゆる対位法芸術の中心、あれほど多くのプレリュード、フーガ、トッカータ、シンフォニー、カンタータ、ミサ曲が生まれ、厳格なポリフォニーの中心となり、同時に偉大な名手自らがオルガンの前に座ったその場 [聖トーマス教会、ヨハン・セバスティアン・バッハがカントールを勤めた] は、学者の巣窟からいくばくも離れていないのだ。冷静な理性とそして空想がここでは入り混じっていて、それにいくらか東洋的なもの、オリエントの風合いが加わっている。ザクセンとオリエントはもちろんはるか遠く、面白いほどお互い離れているのに。ザクセン風オリエント ―― それって何?ユンガーは食事はグローセ・フォイエルクーゲル(***)でとった。この建物はゲーテも住んでいたところだ。そして住居はラートハウス・リング[町の中心を囲む環状道路の市庁舎近辺]に定めた。ここから大学までは指呼の間である。彼は一日の大半を大学で過ごす。講義はきちんと聴こうと決めていて、この決意を固く守った。そして法学の講義以外にも、神学、哲学、言語学の興味を惹かれる講義は聴講し、さらに法医学、動物学の研究所にも顔を出し、植物園も訪れた。当時大学は学生数が急増していて、その半数はまだ軍服を着ていた。まともなスーツを仕立てる生地も資金も無かったのだ。アウグストゥス広場に行くと、学生が巣に出入りするハチのようにひしめいていた。ユンガーが想像していた大学生活のイメージは正さなければならなかった。彼の思っていた「大学の自由」akademische Freiheit は当たらないのであった。大学は致命的に工場に似ていること、これも驚きの一つだった。 戦場帰りの学生は、ひたすら修学期間を短縮しようとしていた。試験に出る部分だけ学んだ。その見極めが知識そのものよりも重要だった。ユンガーは知をテクニックと見なす考えにもう驚くばかりだった。大学と自分との間に生きた関連を構築することは初めから困難に思えた。大都会では友人を見つけるのは簡単だと想像していたが、この時代の交友はすべて束の間のものだった。帰還兵士の受け入れ準備に当たった宿営所での同僚、パールとかファン・ケーのことを思い返したが、そのような友人関係はもう永遠に終わったことを思い知らされた。だから人と交わらず、自分だけを頼りに生きた。しばしば町をうろつき、エルスター、プライセ、パルテまで足を延ばし、遠く郊外を放浪した。しかしどこへ行ってもここはまた離れるのだという旅行者の気分が抜けないのであった。 法学を好きになって勉強を始める学生は稀で、ほとんどは実際的理由による。法学部には、職業選択を迫られたが、特にこれという志望のない学生のたいていが潜り込んでいる。どうしてこんなに取っ付きにくくて困難な苦行に向かうのだろうか。ローマ時代は子供でも十二表法を暗唱して法に親しんでいたというが、ドイツでそのような環境は無い。いまは法律は学者の手中にある。法学教育はシステマチックに始まり、長年の沈思黙考による知を教授するが、それが実際にどう用いられるかを示さない。それゆえ民法、刑法訴訟の叙述が学生には理解しがたい。というのは訴訟の手続き・進行に関する実際を見たことがないし、日々の練習でのみ慣れてゆくことになっていて、すべての実見が欠けているのである。 ユンガーの法学への向かい方には多分に恣意的なところがあり、計画や脈略はほとんどなかった。始めは古いドイツの法律、特にザクセンシュピーゲル(****)を好んで読んだ。ローマ法にも関心を向けた。ローマ法はもっとも明瞭でもっとも確固としていた、これほど明白で厳密なものは他にないからだ。市民法に関する五つの講義にはしばしばため息が出た。複雑怪奇な迷路、留保だらけで行きどまりに満ち、素人ではその入り口にも踏み込めない。この迷宮で若い法学生は日々技を磨かねばならない。 この道の困難なことがすぐに明らかになった。この分野でトップになろうという気にはならないので、なおさらであった。だが一度始めたことを途中で投げ出すのは面白くない。始めたことは真面目に取り組もうと思った、やがて勉強の成果が表れてきたことでこの決意を固めることができ、好もしさも生まれてきた。これは始めは形式的なものへの嗜好だった。法学は公理を基に組み立てるのではないから、数学や論理学のように純粋に演繹的な学問ではないが、その方法は圧倒的に演繹的で、三段論法で組み立てるのである。法学に特有の厳密さというのは、自然科学の厳密さとは異なっている。自然科学では演繹によって一般的な法則の知識を得られるのである。じきに私は自分には演繹的方法の素質が無いこと、実験などには向いていないことが分かった。法学の演繹的な方法には反発するばかりだった。私は法学というものはその鋭い洞察と正確さで、精神的な力や高貴さが欠けていない、なお完全な学問なのだという印象を持っていたのだ。とくに最初のうちは、区別立て Distinktion は面白いものだった。それでローマ法の債務法はこの点であらゆる洞察をめぐらせる努力の手本だと思われた。まずはその構造秩序と外観を大急ぎで学ばねばならなかった。そのあと全範囲をはっきりと捉える勉強に進んだ。受講した講義ではそれに足りなかった。学期末には講義はたいてい中途半端なところで終わるのだ。それゆえアウエルスヴァルト先生 Doktor Auerswald の補修授業(Repetitor / Repetitorium)に出ることにした。このコロキウムは口頭試問の受験指導に徹底していた。細長い、薄暗い部屋で長方形のテーブルに20人ほどの受講生が席についている。しばしば隣室まで受講生が詰めていた。室内は煙草の煙が充満している。先生が短い質問をする、それに対して適切に答える訓練である。質問が連発され、学生の誰もが答えられないと、先生が額に皺を寄せて自ら答える。休憩時間には近くのコンディトライで焼き菓子《寝巻のリンゴ》[Apfel im Schlafrock ( 週に何時間かは、試験のための授業とは別にディートリヒ博士 Doktor Dietrich の自宅で開かれる『ローマ法大全』 corpus iuris の講義に参加した。この先生については、『緑の枝』の続編にあたる回想記『年月の鏡』[Spiegel der Jahre. Erinnerungen (1958)]で、「ゲヴァントハウス」ホール正面上方にあるラテン語の格言が話題になったこと(「真剣なこと」参照)が語られている。先生はユンガーが講筵に列したことを喜んでくれ、しばしば授業時間を延長してホラチウスやヴェルギウスなどを語り合った。そしてよくラテン語で認められた葉書が送られてきた。ユンガーがライプチヒを離れてからも20年以上にわたって年賀状のやりとりが続き、先生の80歳の誕生日に祝辞を贈ることもできた。 * Ludwig Mitteis (1859-1921) は1899年からライプチヒ大学で古代法制史の教授、1901年からザクセン科学アカデミーの正会員。 [お断り] 緑の枝 -13- Grüne Zweige -13-11月のある夜、ライスニヒに出かけた折、何人かの知人と山の下へ降りて川添の居酒屋でワインを飲んだ。橋を渡って帰って来たのはすでに真夜中を過ぎていた。そこでまた彼らは窓に明かりの灯っている小さな飲み屋を見つけて入った。店内にはもう一団の客がいて、ユンガーは片隅にいた16歳くらいの娘を一目見て惹きつけられた。それは、一種の衝撃、はっとするような驚きだった。この霧の夜、彼はそれほど気分がよいわけではなかった。大きな緑色のタイル張りストーブの前に腰掛けて少女を見つめた。赤い刺繍の入った白い服、首筋と腕を露わにしていて、近くで催されたパーティから流れてきたようだった。卵形の顔、大きな茶いろの目、周囲は天気と同様陰気だったが、彼女の面立ちはすべてを明るくした。一度仲間の一人を送って外へ出て、戻って来た少女は、彼が注視していることに気付いたようなので、彼は少女に近づいて話しかけた。彼女は何事も拘りなく受け答えし、やがて心情にわたることもざっくばらんに話し、手を握らせるまで親密になった。ユンガーがまた会いたいと告げると彼女は同意し、再会を約して別れた。この出会いは、予期せぬ驚き、何かの瑞兆と彼には思われた。きっと再会できると信じて別れたものの、それでもきっと来る、いや来ないかもしれない、心の千々に乱れる4日間を過ごした。だが約束の日、約束の場所に彼女は来なかった。一時間以上待ったが姿を見せないので、これで自分の心の混乱は終わりだ、と言い聞かせて引き返した。だが鉤は深く刺さっていた。帰宅して、少女の名前も住所も知らないことに気付いた。出会いの日に得た情報を浚って、彼女の名前、住む村のことを記憶から探り出した。彼は翌日、雪の降りしきる中をその村に出かけた。大きな農場、農民の家屋敷があり、川にかかる橋の側に町家らしい建物が何軒かあった。このどれか一軒に彼女は住んでいるはずだった。村の中の長い通りを二度往復したが、彼女には会えなかった。ユンガーはこの地域の景色に馴染みになり始めたばかりで、谷間の流れ、川岸の崖、小高い畑地の丘、樹木で覆われた山頂などなど。近々もっとよく知らねばならないと思った。 毎日村へ出かけ、ひたすら苦しい行きつ戻りつの往来を続け、歩き回った。一時も同じ場所に留まらず、不安に駆られ、こうして動くことにのみ救いの力があるのだ、と思われた。まるで地上からかき消えたような少女が、常に彼の眼前にあった。何をしていても彼女の姿が、何を考えていても彼女が忍び寄ってくるのは秘事に思われた。こうして…… ようやく再会できた。彼女――愛称ブーリ Buri ――と再会できたのは彼は偶然ではないと確信した。夕方、町を歩き回った末、帰宅しようと振り向いたところに、彼女は居たのである。あの約束の日は、母が病気で来れなかったのだという。 ブーリの方はユンガーについていろいろ聞き知っていた。これは彼を喜ばせた。少し黙っていると、「どうしてそんなに無口なのですか?」とブーリは尋ねる。彼は「以前一度会ったかのような気がする」と答え、「あら、不思議。わたしもそんな気がするの」というようなやり取りがあって、二人はまたまたの再会を約して別れる。 ここでユンガーはデジャヴュ déjà vu の問題を取り上げる。彼にはこの現象がしばしば訪れ、時としてとても強いことがあるようだ。収納されない記憶は、鍵を見つけられない記憶は、我々を責め立てる。その記憶は、そのキーでもってすぐさまわかる、他の記憶とは異なるのだという印象を与える。それはいつも好ましいものとは限らない。というのは何か混乱したもの、夢のようなもの、かつての疎遠な存在のエコーか鏡像のようなもの。 デジャヴュの最も強い感覚は次のような事象であった。ある日、ハノーファーで兵営を出た時、ある士官を訪ねて行った。汚い、何階建てかの貸家に住んでいた。階段を上ってゆくと、下から音楽と歌が聞こえてきた。体を屈めて階段の狭い窓ごしに、高所から影になっている中庭を見下ろした。下には老人と、まだ子供のような少女が立っていた。私が下を見たその瞬間、老人は演奏をやめ、少女も歌いやめて、二人は私の方を見上げた。高い建物の囲みに振り下ろす陽の光が二人の頭部に注いで、ブルーの背景に不思議な感じで浮かび上がっていた。私はすっかり混乱してすぐに身を引いた。というのは同じ事象が同じ経過で一度見たことがあるという確信に、これまでになかった強さで、撃たれたからであった。私は階段を駆け下りて、音楽家を見ようとしたが、二人は姿を消していた。中庭の壁際に一輪のヒマワリが咲いていて、以来、その種の花を見ると全事象が私の中で繰り返された。浮遊し、きらめいて、しかし暗く。それゆえ、私には重荷になった。すべては、と最後に自分に言った、錯覚であり、お前が見た夢なのだ、と。ブーリに最初に会った時もデジャヴュの感覚があった。どんな少女を見ても、これほどしばしば強く繰り返すことはなかった。その翌夕のデート。橋の上で待ち合わせだったが、雪、雨、嵐。これでは彼女は来れないと思ったが、引き返そうと振り返ると、そこに彼女がいた。外套に身を包み、ぐっしょり濡れた顔で立っていた。この夜以来二人の関係は親密さ、確実さを獲得した。彼女がどんな風に育ったか、いまどんな風に生活しているか、どんなことを考えているか、根ほり葉ほり尋ねた。彼女の顔にはまだ子供っぽいところ、まだ半ば眠りから覚めていないようなところがあった。家にも送って行った。村は川と崖の間にあって藪とマツに覆われていた。彼女は両親の家と、自分の部屋を見せてくれた。 それ以来、彼女と、たとえ一目でも会わないで過ぎる日はなかった。彼女が一歩一歩近づいてくるような気がした。幼い少年のような感情!! 子犬をプレゼントし、二人の名前を掘ったメダルをプレゼントした。彼女の喜びは次第に躍動感を増し、他で見たことのない、全身を震わせて喜びを表すようになった。 彼女は音楽サークルに入っていた。冬にはいくつかの劇を上演。クライスト『こわれがめ』のエーフヘンを演じた、と聞いた時、ユンガーはいいとは思わなかった、その役は難しいだろうし、君に合うとは思えない。そう言うと彼女は童話劇『雪の女王』のチケットをくれた。それは橋を渡った向こうの川べりにある居酒屋(旅籠)で上演された。出かけてゆくと、広い、手摺のついたバルコニーに囲まれた広間で、驚いたことに隅々まで満席だった。初めに音楽が奏されて芝居の上演となり、最後にすべての出演者が参加する舞踏会となった。彼女は芝居の途中で抜け出して彼に会いに来た。薄い衣装で寒いだろうと、彼は外套をかけてやる。「怖くないかい」「少し」…… 彼女は全力で彼にしがみつく。 ちょうどそのころ、ユンガーは修了試験(試補試験)と博士学位口頭試問に合格、ディートリヒ先生からラテン語で認めた祝福の葉書が届いた。 試補試験に合格したユンガーはライスニヒ地区裁判所で研修勤務を開始した。ライスニヒを選んだのは、ここは両親の住む町であり、ブーリの住まいに近いからだった。他の多くの地方と同様、ここも古い城の中に行政機関、裁判所がある。仕事の量はさほど多くなく、もし上司の裁判官があのようでなければ、もっとやりやすかったであろう。裁判官というものは一国一城の主だと想像していたが、上司は独立の気概無い小役人、ひたすら職務を大過なくこなすことだけを考えている。あらゆる形式を守り、一点一画にいたるまで変更することを禁じる。「法務官は些事を顧みない」minima non curat praetor なる格言とは無縁である。この上司と一緒に、例えば書記役として書類を作成すると、あまりの緩慢な進み具合にユンガーは居眠りしそうになる。慎重というより失敗・遺漏を恐れるのである。第一次大戦の敗北で、ドイツ帝国は崩壊し、ワイマール憲法下で共和国となったが、社会の混乱は収まらなかった。労働者は政治問題で燃え上がっていた。ひたすら先例に従って仕事を続けてきた上司は状況に適応できず、過激化したデモ隊に執務室から拉致され公衆の面前にさらされた。この屈辱で精神を病み、退職を余儀なくされた。 この夏の日々、ユンガーは毎日のようにブーリと会った。夜は、よく城の円形広場 Rondel で待ち合わせ、丸い石のテーブルに腰かけた。頭上には裁判官の宿所があり、しばしばバルコニーに姿を現すのが見えたものだ。ある日のこと、円形広場にやってくると、これまで目にしたことのなかった白い花の茂みが見えた。近寄るとそれは白い服のブーリで、夕闇の悪戯だった。この取り違えと変身は彼に強い印象を残した。あらゆる目の錯覚の中で、これがもっとも愛すべきものと思われたからだ。このように、崖の下で過ごした時間は貴重なものだった。 秋の初め、ユンガーはマイセン Meißen へ異動し、レーレンヴェーク Röhrenweg にある家に住むことにした。窓から谷間がよく見下ろせる住まいで、向かい側の山にはワイン畑が広がっていた。ワインにまつわる一連の仕事に関心を惹かれ、モスト(発酵前の果汁)を手始めに、新酒のときから、しっかり発酵したものまで、すべてを味わった。彼は自分がその庭園に住む、この美しい古都が気に入った。また時々はドレースデンにも出かけた。かつてのザクセン王国も第一次大戦後は共和制に移行していたが、南国のような青空のもとの風景、川の流れ、石壁を伝い登る色とりどりのブドウ、華やかな旧王都の市街が印象に残った。 ある朝、ブーリの夢を見た。彼女とは毎週末にしか会っていない。ベッドから庭を見た。色とりどりの灌木の茂み、緑の針葉樹の植わった庭を見た。常ならぬ新鮮な光景に、輝く緑と色彩の華麗さ、きらめく露、火と虹色の光が飛び散るさまに驚いた。半睡状態で思った、なぜいつもはこれほど美しく見えないのか。いつもこの庭を見ているではないか。だがこんな風に見えたことはない、すべてが違っている。お前は新しい目を獲得したのか、それゆえ新しい庭園を見ることができるのか、これまで見たことのない庭園を初めて見ているのだ。いま初めて本当の姿を見ているのだ。忘れ得ぬ幸福の瞬間だった。すべての現象が強烈な幸福感と結びついた大いなる明るさを伴っていた。私は再び眠りに落ちた。しばらくして目覚めた時、がっかりしたことに、もはや華麗な光景はなかった。マイセンの裁判所はやはり城内に置かれ、彼の執務室からエルベ川が見渡せた。部屋に入って窓から見下ろすと、エルベ川と行き交う汽船が見えた。それを眺めながらしばしば、ここはかつてソルブの国(*)なのだ、と自分に言い聞かせるのだった。執務室を共にする試補はフォン・St男爵 Freiherr von St. であった。フォン・Stは、 ハレルヤ、美しい朝、この讃美歌ばかりを歌っていた。雨の日も曇りの日も「美しい朝…」と歌う。この歌以外聴いたことがない、彼は芸術的人間ではなかった。一度ゲーテを引用して聞かせたことがあった。 アメリカ、汝は優良なり、だが、彼にこの詩句の意味を解らせることはできなかった。まったく無意味な句だ、 Basalte なんて語は単に韻を踏むだけのために用いられているだけ、と言うのだった。その後フォン・Stに詩を暗唱して聞かせることはしなくなった。二人の会話は実り多いものとはならなかった。Stは経済理論を持ち出すが、そこにはアダム・スミス Adam Smith 的な思想が窺えるのであった。ユンガーには魅力のないテーマだ、大学時代からアダム・スミスは退屈だった。 大学で勉学を始めた当初から、国民経済学 Nationalökonomie と経済学 Wirtschaftswissenschaft の講義に学生が殺到しているのに気付いた。法学生も受講を義務付けられていた。受講者はみな経済学を経済的に、すなわち時代の要請にこたえる秘薬として、万能薬として考えていた。ユンガーには逆に、このような発想こそ時代の問題ではないかと思えた。それで経済学科目は手を抜いて、試験に必要な概要部分だけ学んだ。法学生はこの科目で落とされることはなかったからだ。 彼には昔の官房学 Kameralwissenschaft のほうがあらゆる国民経済学よりはるかに充実した内容があると思われた。重商主義者 Merkantilisten も重農主義者 Physiokraten もスミス主義者 Smithianer も読んだが、すべてが疑わしく思われた。とくにマンチェスター学派 Manchester-Schule には反感を覚えた。それはすべて産業主義に帰着するからだ。アダム・スミス、リカードに帰する、イギリス風の切り口だ。 フォン・Stは新しい経済学を吹聴する時、彼の理論・構想には一種救いの力 heilende Kraft に帰する点を読み取ることができた。Stはさまざまなプロジェクトを挙げる中で、どこかある場所を名指して、そこに運河を掘削すべきだと主張した。ユンガーにはStの真面目さにむずむずさせられた。 「運河が完成したとしましょう」と私は彼に言った。「それで何が良くなるというのですか」このような、素早く富を増やすという企図が、貨幣価値が急速に失われているときに生じたのは驚きだ、とユンガーは言う。そのころ、毎週、毎月貨幣の価値は暴落した。インフレ(**)が頂点に達した。当時、町のワイン酒場で食事をしたが、最後には美味しく食べるには3兆マルク支払った。ある時など、マイセンの城の広場が10億マルク札で敷き詰められていた。この札は1枚1プフェニヒの価値だった。 冬、フライベルク Freiberg に異動となった。ここは鉱山とベルク・アカデミーの町だ。町に着いた時、深く雪に埋もれていて、古い家々の切妻屋根も厚い雪を被っていた。マイセンと同様、この町も気に入った。ここで鉱山・地質・鉱物学に携わった学者たちの名前が次々と浮かぶ。ヴェルナー、レオポルト・フォン・ブーフ、フンボルト、鉱山長フォン・ヘルダー(***)などなど。ユンガーはミュンツバッハ川に沿って散歩、周辺の土地にまで足を延ばした。 ここでは検事の仕事に配属された。地区検察の仕事を彼一人に任され、千人を超える人間と言葉を交わし、多忙で早朝から夜まで働いた。陪審裁判所 Schwurgericht、地方裁判所の刑事部 Strafkammer の審理に顔を出す。就任早々多くの書類の山が待っていた。それは他人が新任に押しつけたものだ。他地区の検察との押し付け合い。50か所で犯罪を犯した被疑者の扱いがユンガーに降りかかった。この中で、それまで犯罪や犯罪者について持っていたイメージが間違いだったと気づいた。犯罪者について別にロマンチックな感情は持っていなかったが、硬い、硬直させられた人間だど思っていた。だがなぜ優しい心魂の人間が、凶悪な犯罪者のなかにいないと見なすのだろう。硬いとか温厚とかは犯罪者になる要因ではないと気づいた。 そのころよく聞かされたのが、犯罪者も人間だ Der Verbrecher ist auch ein Mensch なるフレーズ。これは間違ったヒューマニティーから出ているがゆえにユンガーは反対だった。 これについて、ある法律家と論争したことがあった。「それは間違った言い方だ。彼は人間だから犯罪者だ、と言わねばならない」このあたりにユンガーの、経済学・法学に対する独自の態度が窺われ、のみならず彼の思想の芯のようなものがくっきりと示されている。 * ソルブ人はかつてドイツ東部地方に住んでいたスラヴ系民族。「緑の枝 -4-」参照。 緑の枝 -14- Grüne Zweige -14-その夏、ユンガーはフライベルクを去ってライプチヒに戻った。当時兄エルンストがライプチヒ大学で動物学を専攻(*)していて、動物学研究所 Zoologisches Institut 近辺の一画に住んでいた。フリードリヒ・ゲオルクはその近くに住まいを借りた。物理学と数学を専攻する弟のハンスもそこに住んでいたが、ミュンヘン大学へ移るところだった。19世紀末に建てられた動物学研究所の建物はブリューダー通り Brüderstraße が タール通り Talstraße の稜角と交わるところにあった。その交差点は下の地図の右下あたりに位置する。その一角は独特な特色をもった地域であった。各種の研究所 Institute、売春宿 Bordelle、酒場街 Schankwirtschaften がぎゅっと詰まっていて、町に不思議な色彩を与えていた。夜な夜なあまたの居酒屋に騒々しい客がたむろし、夜になったら活動を開始する人間が方々の路地から湧き出てくる。深夜まで酔っぱらいの蛮声、歌声が聞こえてくる。それに引き換え日中は静まり返っている。シュテルンヴァルト通り Sternwartenstraße の路上では野鳩が歩き回る。ユンガーの住んでいたとき、鳩の群れの中に一羽の白い鳩がいた。だがマイセンの陶器を思わせる白い羽毛がいつしか灰色に汚れていった。この土地のファンタスティックなところ、荒廃放置の極にあるところが初めは面白かったが、そうした印象は失われてゆき、どんよりと陰気な場所でしかなくなった。 植物園 Botanischer Garten は近くだったのでユンガーはよく訪れた。家主の老婦人は伯爵夫人で言葉を話せるオウムを飼っていたので彼は兄とも「オウム伯爵夫人」と呼んでいた。オウムのほかに3匹か4匹の猫も飼っていて、これらがユンガーの部屋にやってくる。 この鳥は私を楽しませてくれた。廊下を散歩し、嘴で私の部屋のドアを引っ掻き、ドアを開けてやるとそこにある椅子に飛び上がる。雨が降ると、この鳥がよく「伯爵夫人、雨ですよ」大声で叫ぶのを耳にした。そして決まって甲高く耳をつんざくような金切り声を挙げるのだった。最初は驚き感心したが、別に感心するほどのものではなかった、というのもオウムは単に音声をまねているだけで、雨ですよという発声は飼い主が以前口にしたことを繰り返しているだけ、晴れの日にもきっと同じく、雨ですよと叫ぶのである。ユンガーは忙しかった。午前は裁判所、昼は監獄、午後は法医学の研究室。そこで医師と法律家が出会う。大都会では不審な死体は決して珍しくない。それが犯罪に関わると疑われた場合、死体は押収され、検死または解剖に付される。 これは医師と法律家が出会うプロセスの一つであった。死体解剖の際には、頭部、胸部、腹部が切り開かれる。死体は必ずしも新しく無損傷ではない。森の中で風化したり墓から掘り出された断片だけということも相当数ある。だから誰もが進んで参加したいものではなく、他人に押し付けたいと思うことは分からないではない。だが私はいずれの機会にも参加し、吐き気を催すことはなかったし、見る価値のあるものを多く目にした。解剖にはたいてい老練のコーケル教授 Professor Kockel が助手を伴って出張ってくる。教授はユーモアもあり、そのユーモアは生涯を死体解剖に精励した医師の、該博な知識に裏打ちされたものであることがわかる。 解剖に付される死体の中には、とても肉付きのいい若い女性の死体もあった。それは堕胎を試みて塞栓症で亡くなったものだった。犯人である彼女の恋人もその場に引き出される。死体の身元を確認するため、刑事訴訟法でそう定められているのである。彼は解剖される死体を見るに耐えられず、失神する。参加したもの皆で解剖を進め、胎児を探す、それは白くてエンドウ豆ほどの大きさでしかなかった。そのように午前、午後を働いて、夜は以前と同様、アウエルスヴァルト博士 Dr. Auerswald の補修授業 Repetiorium に参加した。再び、細長い、薄暗い部屋で長方形のテーブル席についたのである。 自由時間は兄のエルンストと過ごした。動物学研究所を訪ね、講義を聴いた。当時知りあいになった、近くに住むピストール Doktor Pistor は哲学の大学教授資格 Habilitierung 獲得の準備中で、屋上階の修道院室のような部屋に住んでいた。天気のいい日にはパジャマとスリッパで、眼鏡をかけて散歩に出かける。何も頓着することなく近所の人々と話す。売笑婦とも、市場の売り手婆相手でも平気であった。当時彼はヘーゲル Hegel に取り組んでいて『精神現象学』にどっぷりと浸っていた。そしてユンガーをもそこに引き入れようとしたが、そのころユンガーはカントに取り組んでいてヘーゲルの著作では『歴史哲学』しか読んでいなかった。それには強い印象を受けたが、同時にはっきり相容れないものを感じた。弁証法なるものにはどうしても馴染めなかった。 多くのものが私の中を入り乱れて過ぎていった。私には自分自身について明せきに知ろうとする性癖があった。この性癖は微塵もゆるぎないものだったが、これを行う道筋と手段は必ずしもはっきりしていなかった。我々は不可解なものに惹きつけられる。私はこの傾向をやわらげるよう努めた。神秘的なものを明白に明瞭にするのではなく、明白なもの明瞭なものを神秘化しようとした。表面にあるものは、その背後に潜むものの故に、世俗的な目から逃れ隠れるために、そこにあると私には思われた。それゆえ意味の学説のひとつに執着したのだ。私は周囲の現象にくまなく明瞭なものを探し求めた。そして大いに想像を掻き立て膨らませてくれるカントの本体 Noumena なるもの、自分はそれに向いていると思われた。ここでユンガーが《表面にあるもの》《背後に潜むもの》と言うのは、カントが厳しく区別した《物の現象の認識》Erkenntnis der Erscheinungen der Dinge と、悟性 Verstand による《物の認識》 Erkenntnis der Dinge に対応するものと思われる。前者が Phaenomena で、後者が Noumenaである。世界の現象の奥の究極のもの、それは人間には知り得ないのだ、というカントの《理性批判》は多くの人々にショックを与えたのだが、知り得ない本体(物自体)なるものが大いに想像を掻き立ててくれるとは、ユンガー独特の受け取り方だろう。常に自意識と向き合っているユンガーの。 ライプチヒをもはや離れないのだろうかという考えが時折浮かび、この考えには何かわびしさがあった。どうしてかそのころ彼にはこの町の醜悪さ、利用し尽され、色褪せくすんだところがやたら目に付くようになった。 彼は二人の老弁護士の事務所で働いていた。代理で週に三日か四日は法廷に立った、同時に1ダースの訴訟を担当していたのである。 場所自体が仕事を難しくするのでなければ、手早く楽々とこなしたことだろう。そこは空想的な夢幻の場所であった。夢幻の場所は人の住まない荒地、もはや回転しない古びた水車があり、壊れた石に苔がむしているといった、そんな土地にあるとするのは誤りだ。夢幻の地は我々の大都会の真ん中に、多忙な活動の真っ只中にあり、ライプチヒの区裁判所は私にとって、これまで知った最も非現実的な場所の一つであった。すべてのものが疎遠になる、非現実の感情がそこで呼び起こされた。仕事を続けながら、それが自分の本志に反するなりわいだという意識が抜けなかった。仕事の中で自由の感じが得られなかった。それにブーリとのことも不安だった。ここ数年の付き合いで別れの気配などまったくなかったのに、どうやら彼女の母が割り込んできて状況が変わったようだった。母は二人のことは見込みがないと考え、娘は責めたてられて、ついには涙ながらにユンガーと別れると誓った。母は彼のことを恐れていて、直接話をしようとはしなかった。4年間付き合ったブーリはきっと自分のもとに帰ってくるとの希望を抱いていたが、8か月後に婚約の知らせを受け、14か月後に結婚したことを知らされた。 彼は住まいを替える決意を固め、新しい住居を探して、オウムと猫たちに別れを告げた。引っ越しは住む場所が変わるだけでなく、ライプチヒ滞在の最後のフェーズの始まりだった。 転居先には、アルベルトパーク Albertpark(**) の縁にあるガーデンハウスを見つけた。そこは老夫婦と二人の娘のいる家だった。部屋はすっきりと明るく、朝日が射しこむこの部屋をユンガーは後々まで懐かしく思いだす。部屋の世話をする二人の娘はどんな細かい塵も見逃すまいと競いあった。二人は新鮮なリネンの香りに包まれた、家の妖精だった。 法廷に出ることは稀になった、二回目の国家試験が近づいてきたからだ。そしてドレースデンでこれに合格した。長々と続く一連の試験の最後のものだった。合格すると、試補 Assessor としてどこに赴任するつもりかと尋ねられたが、採用を断ってライプチヒに戻った。 兄エルンストが結婚し、町を去っていたので、独りぼっちであった。ピストールがただ一人の知り合いで、ときどき二人でプライセ川の岸まで散歩した。奇妙な散歩だった。ピストールは自分の考えに没入していたので、まるで夢遊病者と連れ立っているような印象であった。ヘーゲルの勉強法も驚くべきものだった。本からひたすら抜書きをして、何千もの大小さまざまな紙片を部屋中にまき散らしていた。抜書きを整理し、彼独自の分類に仕分ける。まるで家をいったん壊して、再建し直す作業のように見えた。 人と付き合う困難さを感じていた。そのころユンガーは一人きりでいるのが最も好ましかった。ライプチヒに来た時の孤独が戻ってきた。午前は部屋で勉強、午後は公園を通り、白鳥とコイに餌をやり、ほとんど毎日ドイツ文庫 Deutsche Bücherei へ行き、数時間過ごす。往き来の道すがら、柵や生垣にごく甘い香りを発するナス属 Nachtschatten (Solanum) の植え込みが繁茂して、いまでもその紫の花と赤い実を目にすると当時の隠者生活を思い出す。時は過ぎ、周囲の静けさは増していった。秋が近づくにつれ、憂鬱は深まった。ごく些細な刺激に激しく揺り動かされるのであった。 ローゼンタールでベンチに腰掛けていたら、古い樫の木の上方に一群のノガモが飛んでいるのを見かけ、陽が沈んでゆくのが見え、なぜかわからないが、涙が溢れてきた。一つの動きが、私が空しく戦っている一つの動きが私を打ちのめす、それは何か心地よく美しいものに注目した瞬間に生じるのであった。そのような印象に抵抗するには無防備だった。あたかも全身を鋤で引かれるような苦しみ。そのような状態をはっきりと把握することはできず、終わりのないモノローグにふけるのだった。 まずは自分は法律家でいられないことがわかった。それは一挙に分かったのではなく、何カ月も考えた揚句のことだった。ザクセンのある小さな町で弁護士が試補を求めていて、もうしばらく弁護士を続けようと思ったユンガーはそれに応じた。この弁護士いわく、大戦後の新しい労働法に通じていないのでその分野の係争を代わりに担当してもらいたい、とのこと。顧客はみな小さな工場の経営者。まさしく経営者と労働者の争いの真っただ中に投げ込まれたのである。そして新しい法律はきちんと整備されたものではなく、日々の係争から生まれた産物で、荒削りのまま。彼は自分の置かれた位置が馬鹿げたものと感じた。この訴訟は必要なものだが、自分が携わるものではないと思って、早々に辞めた。 自分は裁判官にも弁護士にも成れないと思い知った。その理由もわかった、法律そのものが、自分が真っ直ぐに関与できる秩序ではない、自分が熱意をもって情熱をもってもっぱら献身できるものではなかったのだ。自分が裁判官、検事、弁護士として真面目な顔つきで法廷に出るとき、時として自分自身について笑いがこみあげることがあった。 笑いが浮かんだのは、あるとき、私が弁護を担当した少女の泥棒が、涙ながらに、罪が軽く済んだと、感謝したときだ。このあばずれ少女は、イタチのようにほっそりすべすべしていて、かすれ声で、濡れた目で、後悔と償いの気持ちを演じたので、それはまさに専門家がぞっとする言葉で更生の余地なき色泥棒と名づけるものだった。白状するが、私は満足して彼女を見ていた。しかし、一番荘重な、一番厳かな瞬間に私を苦しめたこの自尊心のくすぐりを押さえるのは、私には何と難しかったことか。そのことについて自らを咎めるのではなく、この矛盾の軌跡を一つ一つ追ってみた。裁判はその劇的な性格がしばしば現れるので、真面目さの傍らにパロディーが見える手続きだ。抽象的な法に関わる時、熱情を持って処することは難しい。この法律は正しいか。この事例は罰せられるべきか。ひどい誤審はめったにないだろう、しかしたいていの場合、量刑に裁判官の判断が混じってくる。出かける前の夫婦の諍い、不眠、不機嫌が裁判官の判断に影響を及ぼす。まっとうな理性ある人間ならこのような不完全さに怒りを覚えたり、不満を持たないではいられないだろう。 彼にとってさらに重大なのは、法学的思考が自分に合わないことだ。それは直観に基づく自分の天分・性向に反する。法学的思考はすべて証拠の積み上げで、正確さの論理はいつも証拠に押し付けられる。このようにすべて証拠を基にしたプロセスが、直観で動くユンガーの性分に合わないのだ。 ブーリと別れて以来、新しい付き合いにしり込みするようになった。彼女のことを思わないで過ごす日は無かった。ことあるごとに彼女の姿が目の前に浮かぶのだった。もう取り返せない過去となったと思うと、喪失が明らかなものとなった。あのような交際はもう二度ともたらされないのだ、あのような存在はもう見つからないのだ。彼女が時々やって来て、二人で過ごしたライプチヒの場所が、一つ一つ彼女のことを思い出させる。繰り返し蘇る記憶がユンガーを揺さぶる。なかなか彼女への思いが消えず、喪失の気持ちが和らぐまで時間がかかった。 ユンガーの住む家の前にいかにも裕福な人が住まう一軒の家があった。鉄格子で道路と区切られていて、全面が細い庭に囲まれていた。その家に住み込む何人かの若い娘が、ときどき興味深そうにこちらの窓を見やる。ある夕、窓辺に寄ると一人の娘がこちらを向いてにっこりした。大声で挨拶の言葉を叫んだが、聞こえないという身振りをしたので手紙を書くという身振りをする。相手も身振りで郵便箱を示したので、数行のメモを書いてその家の郵便箱に入れた。すぐに回収された。公園を散歩しましょうと書いたが、彼女はこちらに同意の頷きを返してきた。 翌夕、公園で落ち合ったが、雨が降り出したので一本の木の下でおしゃべりをした。彼女の名はルイーゼという。官吏の娘でブランデンブルクの小都市の出身、父は数年前に亡くなっていた。彼女がきちんと育てられていることがすぐに分かった。灰色の瞳、濃いブロンドの髪、柔らかな青白い顔。一方の鼻翼が他方より短い感じ。毎週デートするようになった。数か月後、突如姿を消した。もうずっといなくなるのかと思ったが、ほどなく喪服姿で戻ってきて、母が亡くなったとのこと。彼女はそれを夢で予感していたと言う、すなわち亡くなる前夜、亡き父が灯りを持って彼女の部屋に現れたそうだ。母の死は彼女を弱らせたが、いくらかショックが収まると、ケルンの親戚に行くと言って旅立った。彼女の発った日、彼女の部屋の窓を見下ろした。いつもと違って暗いままであった。そのうち彼女のことをほとんど忘れた。ふたたび会うことがあるとは思わなかった。 そのころ町はいつにもまして陰鬱だった。そこで過ごす日々はなにか夢の世界のようだった。ユンガーは誰とも付き合うことなく過ごした。一人でいると自らと自らの思考に身をゆだねることができ、多くのことがそぎ落とされる。もっと他人と交渉を持つべきだという考えもあったろうが、一人では退屈ではないが、他人の中にいると退屈だった。規則正しい日々を送り、自分の考えを突き詰め研ぎ澄ました。かくてライプチヒを去ってベルリンに行く決意を固めた。 11月のある日、窓から見ると思いがけずもルイーゼがいて、合図を送ってきた。すぐに公園で会った。彼女はライプチヒで暮らすことに決めました、これからはしょっちゅう会えますね、と言う。ユンガーが、自分はベルリンに行くと告げると、彼女はがっかりした様子だった。このときユンガーは、彼女が彼のためだけにライプチヒに帰って来たとは知らなかった。二か月後の別れを控えた冬の夜、雪玉が窓に投げつけられ、窓を開けるとルイーゼの姿があった。雪のローゼンタールを長い時間散歩した。「じゃあ、ベルリンにいらっしゃるのですね?」と言うので彼が肯うと、「それがいいのかもしれません」とほほ笑みながら言うのだった。やがて別れの日が来たが、思いのほか彼女は明るかった。彼を追ってベルリンにゆく決意をすでに固めていたのだが、それを口にすることはなかった。 - - - - 『緑の枝』抜書きと註、完 - - - - 緑の枝 追記3 Exkurs III[追記 2019/10]『緑の枝--記憶の書』 Grüne Zweige. Ein Erinnerungsbuch (1951) 1898年にハノーファーで誕生してからライプチヒ大学で法学を修め、試補研修を終えて司法界で働く資格を得ながら、法律家の道を放棄して1928年にベルリンに移るまでの、フリードリヒ・ゲオルク・ユンガーの幼・少・青年時代の回想を描いたのが本書である。一冊全体が《記憶》により書かれているが、叙述を辿ると豊かな自然の中で過ごした少年時代、次に兵士として、そして法学生・法律家として三つのフェーズを区別することができる。原生林や河川湖沼、学校、家族、友人、戦場、戦友、夢、デジャヴュ、性の目覚めなど、さまざま思い出す中で取り立てて忘れがたいいくつかの記憶は特に詳しく語られている。 その後ユンガーは1928年から1935年までベルリンを拠点にフリーの著作家として活動することになり、その《記憶》は、 『年月の鏡--記憶集』 Spiegel der Jahre. Erinnerungen (1958) に書かれることになる。両書とも第二次世界大戦後に出版されている。生きて体験した過去と、時間を隔てた執筆・出版であることが《記憶》の主題化に結び付くと言えるかもしれない。記憶は「過去の現在化」Vergegenwärtigen des Vergangenen である(「緑の枝 -6-」参照)とも指摘している。 ところで「緑の枝」というタイトルはどんな意味合いでつけられたのであろうか。典拠・出典となる文献はあるのだろうか。まず思いつくのはグリム兄弟のメールヘン『三本の緑の枝』Die drei grünen Zweige (KHM206) である。これは『童話集』第7版の最後に「子供の聖者伝」(KHM 201 -210)として付け加えられた中の一篇である。[以下、ごく簡単に粗筋を記しておく] 森に住む一人の世捨て人、普段は祈りと他者のためになる善行に身をささげていたが、あるとき罪人が刑場に引かれてゆくのを見て、ふと「当然の報いを受けるのだな」と漏らした。すると小鳥が飛んできて「人を裁くのは神様だけだ」と神の怒りが伝えられ、天使が持ってきた一本の枯れ枝をいつも身に着け、眠るときは頭の下に敷くようにと指示される。世捨て人は森を出て世間の家々を泊まり歩く旅に出る。あるとき、老女が留守居をする家に宿泊を乞う。老女は3人の強盗を働く乱暴な息子がいるからと断るが、あなたにも私にも危害を加えることはありませんと、泊まり込む。真夜中に帰ってきた強盗はなぜよそ者を泊めたのだと怒ったが、世捨て人の話に耳を傾け、神に罰せられた次第を聞いて心を動かされ、自分たちの深い罪を悔い改めた。そのあと階段の下で眠った世捨て人は朝になると亡くなっていた。そして枕にしていた枯枝からは三本の緑の枝が伸びていた。タイトルに『三本の・・・』とあるが、3という数字、モチーフは童話(あるいは西洋の伝説の類)に頻出するものだ。グリム『童話集』でタイトルに3がつくものは、『糸くり三人女』『三つの言葉』『三枚の鳥の羽』『三人の幸運児』『三羽の小鳥』など枚挙にいとまない。 童話を想起させる『三本の』を取り去った、ユンガーのタイトルのままの『緑の枝』から何を想起するかとなれば、聖書の「ノアの方舟」(創世記 6~9章)の印象的な場面が思い浮かぶのではないか。 人が地のおもてに増え、悪がはびこった。世は乱れて暴虐が地に満ちた。神はすべての人を絶やそうとされた。神はノアとノアの家族、すべての生き物の二つずつが箱舟に乗るよう命じられた。四十日の大洪水。水は百五十日のあいだ地上にみなぎった。水が引いてきて山の頂上が見えるようになったのでノアは鳩を飛ばす。最初はすぐに戻ってきた。 それから七日待って再びはとを箱舟から放った。はとは夕方になって彼のもとに帰って来た。見ると、そのくちばしにはオリブの若葉があった。ノアは地から水がひいたのを知った。さらに七日待ってまた、はとを放ったところ、もはや彼のもとには帰ってこなかった。[日本聖書協会1955年改訳版第8章10節~12節]「ノアの方舟」の物語に登場するのはオリーブの葉 Ölblatt である。実は、下に示すように、本書のクロス装表紙に金色で木の枝が描かれている。この枝はオリーブに見える。 下の写真は我が家のベランダにある鉢植えのオリーブ。ご参考までに!? ところで同じ『緑の枝』なるタイトルの物語が日本の小説家によって書かれている。それは辻邦生『十二の風景画への十二の旅』中の一篇である。すなわち、クロード・ロラン〈シバの女王の船出〉に付けられた第一の旅『金の壺』から始まり、すべて3文字タイトルで『地の掟』『風の箏』『氷の鏡』などと続き、第十一の旅としてニコラ・プッサン〈冬またはノアの洪水〉に付けられた物語が『緑の枝』である。これは副題に《ある洪水に襲われた山野の物語》とある。 [ニコラ・プッサン Nicolas Poussin (1594-1665) の「四季」Les Saisons は4点の油絵連作で、ルーブル美術館所蔵、その1点が〈冬またはノアの洪水〉L'Hiver ou Le Déluge である]「私が辿った旅路のなかで、あの四十日四十夜の豪雨とそれにつづく百五十日の大洪水ほど恐かったものはなかった」と物語は始まる。語り手の「私」は、歓楽に明け暮れする都会のある長者のに滞在していた。人々は男も女も日夜快楽を追う生活を送っていた。退廃した風俗のなかで例外的な人物は、長者の一人息子の養育係エノク夫妻であった。乏しい給料と冷たい待遇にもかかわらず、主人の息子をこよなく愛し、心を込めて養育していた。 [以下、辻邦生全集8(新潮社 2005) によって粗筋を記す] 『緑の枝--記憶の書』なるタイトルは、著者がこれまでの30年を振り返り、また新たな道に踏み出す節目に、再生・新生のシンボルであるオリーブの枝のイメージを採用したと見てさしつかえないかもしれない。そうみなした上で本書の《記憶》のなかで『緑の枝』の意味合いと結びつく箇所はないだろうかと考えてみる。浮かんでくるのは、1907年にシュタインフーダー・メール西方の町レーブルク Rehburg に移った時の、庭仕事の場面(「緑の枝 -4-」参照)である。 この庭仕事とそれに携わった喜びは、ある一つの観察によって強力な推進力を得た。ローベルトが湿った砂に挿したゼラニウムの枝がしばらくして根を出してきたのを初めて目にしたとき、私を捉えた驚きのことをよく覚えている。この事象は私には理解できない不可思議で、このからくりが私を襲った感情、それは描写しがたいものだ。ひょっとしたら、財布に幸運の銅貨を発見した人間が抱く感情と似たものかもしれない。切断された枝がどこから自立する力を得たのだろうか?芽継ぎ・接木によって根ができるさまを目にして、植物の生態の不思議に打たれたユンガーは「さまざまな小枝 Reis を土に植えて」 (S.78) この秘密を探ろうとした。ここで Reis という語が用いられているが、これは木の小枝、若枝、柴、粗朶の意で用いられる語である。ひょっとしたらこの挿し木の経験も『緑の枝』というタイトルと響き合うのではないか。 |