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DVD・この世の外へ クラブ進駐軍/MOVIE・五線譜のラブレター


◆12月30日◆MOVIE◆五線譜のラブレター◆

 コール・ポーターを知ったのはいつの頃だったのか。はっきり何年という記憶は無いが、ある舞台がきっかけだったのは覚えている。私がまだティーンエイジャー だった頃、コール・ポーターの生涯を歌で綴ったミュージカルの舞台中継があった。
 ブロードウェイかウェストエンドのどちらかで上演されていた作品だったと思う。男女2組、4人の男女が一台のピアノとサロンのような場所でコールの生涯を語り、演じ、歌うという構成だった。コール・ポーター、その妻リンダ、その友人のカップル、そしてピアニストも時には歌うというもので、洒落た大人の作品に仕上がっていた。
 何の気なく見た放送に、全編を通して何と魅力的な曲ばかりが詰まっているのだろうと驚き、次々に登場する歌に音の記憶を呼び覚まされ、いかにコールの歌を知らず知らずのうちに聴いていたのかを知ったあの日。それは出逢いというべきもので、恋にも似たものだった。

 次に強烈な印象を残したのはk.d.ラングの「So in Love」。以前から彼女の歌声には参っていたが、そのハスキーで胸に迫る声に完敗した。その楽曲を含むHIV患者の為のチャリティーCD「Red Hot&Blue」。このアルバムでコール・ポーターの歌は90年代のミュージシャン達により、更なる新化を遂げた。いや、新化ではなく可能性と普遍性が示された。
 U2の「Night and Day」アニー・レノックスの「Everytime to say Goodby」デヴィット・バーンの「Don't fence Me in」など挙げればきりがないが、とにかくどれも面白いアレンジになっている。
 それと平行して購入したのはヴァージンレコードから出ているスタンダードなコー ル・ポーターのアンソロジー。メル・トーメ、エラ・フィッツジェラルド、ルイ・アームストロング、フレッド・アスティアなど名だたるヴォーカリスト達の歌が綺羅星のごとく入った名盤で、これにもまた参ってしまった。以来、私の中でコール・ポーターは重要な作曲家になり、コールという人の人生も含めて興味の対象となった。

   さて、映画「五線譜のラブレター」である。この作品はコール・ポーターの生涯をある種客観的に、そしてある種主観的に描いている。周知の事実であるが、彼は同性愛者であり、それを知った上でリンダという女性はコール・ポーターと結婚した。その、一般的に考えると不思議な二人の関係は一体どういうものだったのか。コールが男達と遊ぶことに対して、妻は本当に冷静でいられたのか?という所がこの映画の見所の一つになっている。

 ところが、ところがである。全編を通して散りばめられたコール・ポーターの歌が素晴らしくて、改めて歌詞を読みながら聞く音楽が胸に迫って、それだけで感動してしまう私には、もはやこの作品の出来を客観的に考える判断力は残っていなかった。音にのせると、何て「I love you」とい言葉はキラキラと輝くのだろう。音楽と一緒になると、言葉は何て素敵に命を持ってくるのだろう。歌の力、音の魔法。またしても、コールの天才ぶりを見せつけられてしまった。
 作曲家としてだけでなく、作詞家としても彼は稀有な存在なのだ。そして、その歌はリンダへの愛情に満ちている。(ように、この映画では描かれている)まさに、五線譜のラブレター。体は他の人のものでも、心は君を思っているんだという、妻へ向けてのラブレター。だからこそ、歌は命を持っていてキラキラと輝いている。

 さて、出演者である。コール役のケビン・クライン。実物のコール・ポーターはとても小柄だったのを知ってるだけに、最初まず長身すぎてコールらしくないと感じたが、一旦音楽が始ってしまえば、そんな事は些細なこと。
 いつも洒落た格好をして、歌い、ピアノを弾き、浮気な男を好演している。コール役は彼しか居ないとは言わないし、未だコールとケビンの距離は私の中で縮まっていないが、物語の主人公として考えるとそれなりに良かったと思う。
 妻役のアシュレイ・ジャドは彼の才能をこよなく愛した女性リンダの強さと弱さを伝える演技。彼女もまた、社交界の華であったリンダ役にふさわしく、ゴージャスなドレスを自然に美しく身に纏っていて、晩年のシーンはちょっと無理を感じなくもなかったが、儚さもあり、とても良かった。
 そして、全編を通してコールの一生を語るよう促すMCはジョナサン・プライス(ミスサイゴンのMC役で有名)。どこかで見たことがある、誰だろうと思いつづけてクレジットでジョナサン・プライスの文字を見た時には、なるほどと思った。
 他に、コールの親友や恋人など色々出てくるのだが、時代を感じて面白かったキャラクターは、ディアギレフだった。コールの時代、ディアギレフの全盛期だったのだと、今回初めて知る事が出来た。

 最後に、重要な音楽である。これがまた豪華な顔ぶれとなっている。エルヴィエス・コステロ、ダイアナ・クラール、シェリル・クロウ、ナタリー・コールなど、他とにかく全編を通して個性的な歌手が次々に登場。サントラも魅力的なものになっているに違いない。しかし、一番心にしみる歌はケビン・クラインが妻役リンダに歌う歌だった。

 ミュージカル映画の黄金期を築いたMGM80周年記念作品「De-Lovely 五線譜之ラブレター」。パーフェクトな映画とは言わないが、コール・ポーターという一人の天才音楽家を知るにはおすすめの作品であり、歌の力、言葉の力を再発見出来る貴重な作品である事は間違いない。


◆12月05日◆DVD◆この世の外へ クラブ進駐軍◆

 何とも不思議な映画である。きっとこれが坂本監督の作風なのだろうが、観客は見ている間中一体この話しはどこに行きつくのだろうかと考え続けることになる。
 一見まとまりのない話しに感じられるのは、その物語の起伏の低さと劇的な結果の不在から来る一種の戸惑いがもたらすものなのだろう。逆に言うと、我々は余りにもエンターテイメントに徹したハリウッド映画に慣らされてしまっているのかもしれない。

 「この世の外へ クラブ進駐軍」はこちら側に極度の緊張状態を持たせることはなく、しかし確実に心の中に入りこみ、目を離させない吸引力を持っている。見た後、しばらく心の中に余韻が残り続け、二度目にこの映画を見た時、漸く監督の物語る速度、過剰でない演出に心地よさを感じ始める。そして日本が舞台で日本人が主人公であるにも関わらず、見終えた時には日本のことよりも、アメリカに戦後はなく、第2次世界大戦から彼らはずっと血を流し続けているという現実が重く心に残るのである。

 これは人の「強さ」と、人が「傷つく」という事を描いた映画である。そして鑑賞後、我々の心に残るのは反戦の思いであり、今も傷つき続けている兵士達のことなのだ。押しつけることなく、終戦直後という時代をフィクションではあるものの、現実に近い形で切り取り、直接的ではなく間接的であるが故に、深く反戦を語りかけてくる。いや、そこには反戦といった主義主張はなく、判断はこちらにゆだねられているのだ。

 舞台は終戦直後から数年間の東京。GHQが占領する日本で、進駐軍基地内のクラブでジャズを演奏する5人の男達を中心に、混沌とした復興の日本が描かれる。監督自身が若く戦後の復興を知らない世代であり、私自身ももちろん実体験はないので、これがリアルであるかどうかは想像でしかないのだが、とにかく良く再現されている。
 非常にこだわりを持ったセットが創りこまれており、当時の風俗も随所に登場。見ている側は戦直後の日本を垣間見たような気持ちにさせられる。

 この映画の記者会見の中でオダギリジョーが、「当時の人達は今と違って物が豊富にあるわけではなく大変だったのに、みんな明るい笑顔で写真に写っている。それを表現したい」という事を言っていたが、この映画に出てくる多くの人はその笑顔の通り、現代に生きる我々より苦境に立たされているのにも関わらず前向きだ。もちろんその中から零れ落ちていく人間も描かれているが、絶望してもおかしくない状況の中で、どうにかしぶとく生きていこうとしている。

 先にも述べたように、この映画には劇的な結論は存在しない。5人のジャズバンド、ラッキーストライカーズのサクセスストーリではないし、誰のサクセスストーリーでもない。皆心の中に何かを抱えたまま生きているし、それは解決しない。でも、考えてみれば、人間が生きているっていうのは、そういう事なのだ。時にはそんな映画に出会ってみるのもいい。
 耳に残るのは、ダニーボーイとA列車で行こう。そして、題名になっている、この世の外へ。

<追記>
 ラッキーストライカーズを演じる5人の俳優がいい。そして、進駐軍の二人もいい。
 萩原聖人はサックスより歌が上手い。彼の父親役の大杉連がいい味を出している。
 オダギリジョーは得がたい存在。監督にしてのぼり調子のオダギリ君と言わしめるだけの勢いと魅力がある。彼らの行きつけの酒場「Cherry」でオダギリが怒るシーンは実におかしい。
 MITCHは本当のトランペッターだけあって流石に上手いし、いい顔をしている。役者なのかミュージシャンなのかどっちなのだろうと思うほど彼の演技は自然だ。
 松岡俊介はクラシカルなハンサムで、監督が言う通り落ちついている。Cherryでジャケットに半ズボンを履いてるのを見て、思わず岡野玲子のファンシーダンス陽平ちゃんを思い出してしまったというのは、思いっきり余談。
 監督曰く、宙ぶらりんな知名度(笑)村上淳は誠実さが良く出ている。
この5人(1人だけプロだが)全員が実際に楽器を演奏したのには、本当に拍手ものである。

 一方の進駐軍の二人。この中の一人が、あの問題作「マグダレンの祈り」のピーター・ムラン監督だったのには驚いた。二人とも程よい素朴さがあった。

 そして、坂本順治監督。この人の大阪人特有の突っ込みと間は、うっかりしてるとやられてしまう。心の中で何故か何度もこの映画を反芻してしまうのだ。


<September>

MOVIE・ヴァン・ヘルシング


◆9月18日◆MOVIE◆ヴァン・ヘルシング◆

 ウィル・ケンプが出て、ヒュー・ジャックマンが主役で私が見に行かないわけがない!と言うわけで、最近忙しくてなかなか行けなかった映画館に、久々に行って参りました。

 さて、ヴァン・ヘルシングはユニバーサル始まって以来の予算で作られた超大作。何と200億円かけてます。社運を賭ける(?)ほどの力作です。その出演者の一人がウィルだった、というのは凄い事です。監督がGAPのCM見ただけでウィルにオファーを出したというのも凄い事です。ダンサーだと知らなかったとか何だとか(笑)いうのも、凄い事です!

 それはさておき、とにかくこの「ヴァン・ヘルシング」はおもちゃ箱のような映画でした。これぞエンタテというか、これぞユニバーサル映画(笑)。豪快、豪華なB級映画という感じで、深い事は考えず楽しんじゃえ!な映画です。ユニバーサルはもともとモンスター映画で大きくなったB級系エンターテイメントな映画会社なので、これは極めてユニバーサルらしい作品です。

 さて、これからはネタバレが色々入ってくるので未見の方はここで読むのをストップしてください。

 まず、この映画の時代設定のぐちゃぐちゃさが!!!最高です。ジキルとハイドにドラキュラ、狼男にフランケンシュタインが登場。ジキルとハイドもヴァンが退治するのね。初耳!  そのヴァンはカーボーイ風な服装でご登場。かっこいいので全くOKなのですが、考えてみれば、ちょっとヨーロッパでは珍しいスタイルですね。
 そしてバチカンの地下は秘密基地!だったって、皆さん知ってました?バチカンは確か私の記憶が確かなら、キリスト教だったはずですが、地下にはチベット風の僧侶まで居る不思議ワールド。そして、随分昔のはずなのに、その壁にはスクリーンがあり、ウィル演じるヴェルカンやその妹あな王女の写真が映し出される!のです。うーん。この時代に写真とプロジェクターかぁ。。。ウィルの写真が美しいので、これも全然OK!

 さて、カーボーイかという服装のヴァン・ヘルシングことヒュー・ジャックマン。カーボーイのような帽子、深くかぶっても顔が見えるようにしても、何をしてもかっこいい。「X-メン」のウルヴァリンの時からすっかり彼にはやられている私ですが、あの笑える髪型のウルヴァリンよりこの地毛の長髪のヴァンの方が数倍かっこいい!!男性で長髪がうっとうしくない珍しいキャアクターです。今はもうすっかり短くなってますが。

 それにしても、今回もまた「俺には過去の記憶がない」って。もー、笑えるっていうか、ヒュー・ジャックマン永遠のテーマでしょうか。「X-メン」のウルヴァリンもヴァン・ヘルシングも過去の記憶が無い男。映画が変わっても、いつも彼は過去の自分を探している事に変わりはないのでした。それがまた、影があっていいんですけどね。いつもとことん強く、一見正義の見方風ではないのに、思いっきり正義の見方だし。くーっ。女心をくすぐってくれます。
 でもヒット作が続いているとはいえ、完全にエンターテイメントなアクション映画がメインで、今のところアカデミーが狙えるような演技派である必要は余り無い役が多い彼を見てると、だから舞台も両方やってるのねと思ってしまいました。彼なりにバランスをとっているのでしょう。とはいうものの、トニー賞での演技を見る限り、舞台も思いっきりエンターテイメントしていましたが(笑)

 さて、漸くウィル・ケンプです。最初の登場は森の中で両手を頭の上で縛られているシーン。 顔がクローズアップされ、何かに怯えているような表情がとっても!いいのです。好きなキャラクターがいじめられている姿って、結構楽しかったりするのですが(笑)困った表情のウィルはなかなか惹かれるものがありました。しかし!彼が一番良く映っているというか、彼が彼だとはっきり良く落ちついて見られるシーンはこのシーンだけと言っても過言ではない。
 かわいそうな王子、ヴェルカン。彼はこの後狼男に噛まれてしまい、登場する度、苦しみ、叫び、狼男になり、人間になり、また狼になり、電気攻めにあってもがき、苦しみと、とにかく忙しい!!!じーっと見つめていても、どこがCGでどこがウィルで、いつ変化して、いつ元に戻るのか!はぁはぁはぁ。もう、じっとしてなさいっ!!!って感じで、動態視力を試してくれるのです。しかも、今回の狼男は「脱皮型」。ちぎるちぎる、もがくもがく。もー、ウィルが筋肉質なのか、CGで筋肉質になってるのか、わかりません。どんどんちぎってます。特に狼男に完全に変わる満月の夜。脱皮しまくりでした。でも何故が腰布はちゃんと脱皮しても人間に戻るとついてるんですけどね(笑)後はもう、フランケンシュタインのかわりに雷に打たれるシーンでもがいて苦しんでるシーンが続くばかり。かわいそうです。ほとんど叫んで終わってました。
ああ、だから映画じゃなく、舞台に出てなさいってあれほど言ったのにって、私が一人でつぶやいてただけですが(笑)

 台詞は最初の「俺を狙え!」というところ、狼男になりかけでアナ王女に語るシーンなど、いくつかあるのですが、ちょっと硬かったかな。初々しいといえば、初々しかったです。あまりのフレッシュさに、エンドロールで「Will Kemp」の文字を見た時には、プチ感動している自分に、あんた保護者か?と自分で突っ込みを入れてしまいました。

 さて、今回魅力的だったアクターは他にも居ます。ドラキュラ役のリチャード・ロクスバーグ。「ムーランルージュ」の公爵が印象的な俳優ですが、今回のドラキュラ役はとてもセクシーでますます好きになってしまいました。あの黒髪を後ろで束ねた髪型、とてもいいです。今迄のドラキュラとは違ってとてもスタイリッシュでした。
 花嫁3人とのやりとりは、結構コメディが入ってて、相変わらずまじめな顔の演技で笑わしてくれました。しっかりした演技も、コメディーもOK。この人は本当に懐の深い役者だと思います。ユアン・マクレガーが凄い役者だとムーランルージュの時大絶賛していましたが、本当に魅力的です。見た目も毎回違って見えるのも不思議です。素の彼は結構地味で老けて見えますが、このドラキュラはとてもそんな風には見えません。かなり美しい。
 余談ですが、この映画がきっかけで、ドラキュラの花嫁役の一人と本当に結婚してしまったのは驚きました。

 次にカール役のデヴィット・ウェンハム。「ロード・オブ・ザ・リング」のボロミアの弟ファラミア役を演じていた彼ですが、彼もまた出てくる度に見え方が違う驚きの俳優です。「ムーランルージュ」の最初に出てくる黒髪ボブの女装したオードリーと、ファラミアと、このカールが同じ人だとは思えない!そして、とっても不思議だったのはこのカールの背丈でした。
 ファラミアではそこそこの高さがあると思っていたのですが、このカール役ではヒューの肩ぐらいまでしかないのです。うーん。ヒュー・ジャックマンは180cmを超える長身ですが、それにしても小さすぎる。カールの役は狂言まわしなので、低く見せるようにしていたのでしょうか。謎です。誰か本当に身長を教えてください(笑)ホビットとはいいませんが、本当に小柄でした。
 さて、その演技ですがとても良かったです。程の良さがあるというか、その地味さに名脇役になっていく可能性を見ました。ファラミアではあんなにかっこ良かったのに、カールは完全に道化役。三枚目に徹していました。その変わり様は凄いの一言。

 アナ王女役のケイト・ベッキンセール。あのウェストの細さは驚きでしたが、コルセットとヒールで走りにくかったはず。しかし、どこから見ても、ヴェルカンの「お姉さん」にしか見えません。妹とは思えない。しかも、結構濃い顔なので、兄弟にも見えない(笑)
 個人的には、「アンダーグラウンド」の彼女の方が面白そうだと思いました。

 役者の話しはこれぐらいにして、この映画の第二の主役CGです。かなり多用しています。マトリックス、ロードオブザリングで慣らされた今、何を見ても驚きませんが、今回ウケたのはこれです。ウィルとヒューのウルフマンの違い。
 ウィルの役ヴェルカンが狼男になる時は、茶色でちょっと細い体型で、普通のウルフマンなのですが、ヒュー演じるヴァン・ヘルシングのウルフマンは全身かなり毛深く真っ黒で、とっても大きく立派でした。
 ヒュー・ジャックマンが変身した途端、「ウィルの狼と狼なりが違う!!強そう!」と元の人間に会わせてウルフマンも変化する法則を見出し、大発見!と笑ってしまいました。誰がデザインを決めたのか知りませんが、ウィルとヒューのウルフマンを並べたら、ヒューはウィルの絶対1.5倍ぐらいになってるような気がします。

   さて、CGを使わず幻想的だったのはドラキュラの開いた舞踏会のシーン。シルク・ドゥ・ソレイユがこのシーンを作っているのですが、プラハの城で1000人のエキストラを用いて撮ったこのシーンは実に贅沢。もっとゆっくり見ていたかったのですが、物語の展開上あっという間に終わってしまい、非常にもったいない。でも、それだけ贅沢な映画なのです。何せ、信じられないぐらい長いエンドロール。この映画に携わった人の多さは並ではありません。もう、いつまでも続く人の名前に、思わず眠ってしまうほどでした(笑)

 さて、ここで監督のお話しを。どこから切っても本当にこの作品はスティーブン・ソマーズ監督の作品です。「ハムナプトラ」を見た人なら分かるでしょうが、とにかくどんなに深刻な展開の時でも、この人絶対に笑いを入れないと気が済まないのだと思います。
 敵と闘うシーンは、スリリングなはずなのに、いつも思わず笑ってしまうのです。ピンチがピンチに見えないというか(笑)独特なライト感があり、それが為に余りウェットにもならない。という訳で、アナ王女の死も、ヴェルカンの死も、フランケンシュタインの悲しみも涙を誘う事なく、あらまあ!ぐらいで過ぎていってしまうのです。だからといって、何も残らないという訳ではなく、主人公達のその後は見たくなるので、シリーズものは得意な監督だと思うのですが。この続編は作らないと言ってるそうですが、さて、どうでしょう。個人的には、ヴァン・ヘルシングとカールというキャラクターは育てていって欲しい気がするのですが。

 全体を通して、非常にハリウッド的でお祭りみたいな映画なので、深みやリアリティをこの映画に求めるのは間違っています。それがないと許せない人は見てはいけません(笑)
 ちょっと長すぎる事はさておき、ソマーズ流ジェットコースターのような映画を楽しみたい人にはとってもおすすめ。見終わった後、あはは、楽しかったね、と言って帰って来られる映画です。

 とこれだけ語った上で一言。ウィル・ケンプとヒュー・ジャックマンが出ているだけでもう、まともな判断力を失ってる私には、何も言う事はございません。(語り尽くした後で言うのも何ですが。笑)ああ、楽しかった。


<March>

MOVIE・ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還


◆3月14日◆MOVIE◆ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還◆

 何だろう。この感覚は。ロードオブザリングの最終章にあたる、「王の帰還」をみてから、私はずっと考えている。この、心の中にザラっと残ったものを。何か落ちつかないこの感覚を。その正体は一体何なのかと。

 一作目にあたる「旅の仲間たち」が公開されてから3年。遂にこの壮大なる物語は「王の帰還」でピリオドを打った。彼等とともに私の心の旅が始って3年の時が経過したのだ。その間この作品に対する思い入れは衰えることなく、大抵は失敗に終わる「3部作」という形式をとった大作も、この作品だけは駄作にはならないという確信を持ち、劇場で観た後ノーカット版にあたるDVDを購入し、メーキングも必ず観るというのがパターンになった。

 製作者がこの作品に取り組んだ時間は7年。そして、出演者が関わった時間は4年。 三部作を一度に撮影し、その後編集、3年にわたって発表という形式は映画史上初の試みだった。
 その結果歴史に残る興行収益を記録し、歴代のアカデミー賞最多部門受賞に並ぶ11部門、しかもノミネートされた部門全てで受賞という史上初の快挙を成し遂げた。

 それほどまでに大掛かりな作品、輝かしい功績を残した作品であるのだが、映画そのものは決してハリウッド映画超大作の色合いを持たず、インディーズ系映画のテイストを残し、非常に完成度の高い、映画好きが手塩にかけて作った作品になっている。終始一貫して細部にまで監督ピーター・ジャクソンの目が行き届いている。
 全2作もそうであるが、この「王の帰還」も目を見張るアーティスティックな場面が随所にあり、3時間半もの長い時間はあっという間に過ぎ去る。長いとは感じさせない物語と完成された映像。スタッフのこの作品にかける愛情がスクリーンを通してこちらに伝わってくる。

 しかし、この長い物語の着地点はいつも我々が慣れ親しんだ物語の最後とは違うものであり、どうやらそれが手放しに面白かった、感動したといった言葉を安易に口に出せないようにしているらしい。心のどこかにずっとひっかかりが出来ているのだ。

 普通、ファンタジー中の主人公は、艱難辛苦を乗り越え、最後はヒーローとなって物語はハッピーエンドを迎える。しかし、この物語はそれとは異なる構造を持っているのだ。
 指輪を託されし者は、ホビットであるフロド。彼は指輪をサムと一緒に捨てに行く。しかし、この物語の最後にヒーローとなるのは、「王の帰還」というタイトルが示すように、ホビットであるフロドではなく、アラゴルンである。
 運命を背負った者とヒーローが一致する普通の物語であるなら、アラゴルンが指輪を託され、命がけで火口に捨てに行き、王となるはずであるが、「指輪物語」はそうならないのだ。しかも、旅の終盤フロドはどんどん指輪の力に浸食されていく為、フロドの物語はサムの物語に感じられるようになってくる。
 指輪に侵されたフロドを支えるサム。「私に指輪を背負う事はできませんが、あなたは背負う事は出来ます」と言って、自分も極度の疲労で歩く事もままならないのに、フロドを背負って滅びの山に向う彼の姿は実に感動的であり、物語を見ている者は次第にフロドよりも、心身ともに弱ったフロドのおもりをしながら旅を続けるサムの忍耐力と信念、フロドを思う気持ちに心奪われ、指輪を捨てる旅の中心人物はサムなのではないかとすら思えてくる。

 更にそこにゴラムが絡んでくる。このゴラムは実に重要なキャラクターで、実は彼こそ第八番目の旅の仲間であり、恐らく最も指輪を愛した者である。
 最後の最後、フロドはこれほどまでに苦労して捨てに来た指輪を滅びの山の裂け目に投げ込む事を拒否する。指輪の恐ろしさである。そこに指輪を取りかえそうとするゴラムが登場し、結果もみ合ううちに指輪は山の中に落ちてしまい、ゴラムも溶岩にとけて消える。しかしその時の彼の表情は幸せそうなのだ。「愛しいしと」と運命を共にする事が出来たのだから。一番長く指輪と関わった彼らしい最後であり、その存在は実に哀れでかわいそうなのだが、結末を見るとフロドが指輪を捨てに行く使命を背負った者ならば、ゴラムもまたそうだったのだと思われる。指輪の消滅は彼なくしてはありえなかった。

 さて、一方のアラゴルンだが、彼の活躍も素晴らしい。危険を顧みず、幽霊の兵士まで見方につけ、オークとの闘いを征し、指輪を捨てに行く援護射撃を捨て身で行う。実に英雄らしい。そして遂に指輪が溶岩の一部となった時、彼は王冠を戴きアロウィンと再会を果たして王となり祝福を受けるのである。
 この場にフロドをはじめ4人のホビットも現れ、王に頭を下げる。その時、王となったアラゴルンは頭を下げる必要はない、友なのだからと言うのだが、ここで改めて「指輪を捨てに行ったフロド」と「英雄である王アラゴルン」の違いが歴然となる。別に私はフロドが王になればいいと言っている訳ではない。また、最初からストライダーと呼ばれていたアラゴルンは王になる役目を背負っている事も、フロドが指輪を捨てにいかなければならない事も知っていた。しかし、ここまで大変な思いをしたフロドであるのに、その後の扱いがあっさりしているように感じられる。主人公はフロドではなかったのか?と疑問を持つほどに。

 そして、ストーリー的にはアラゴルンが王になり、世の中に平和が戻ったという事になるのだから主役はアラゴルンと考えられるのだが、その割りにはそれぞれのキャラクターがたっており、話しが重層化していてそんな単純には判断できない。何だろう、この落ち着かない感じは。とここまで来て、漸く当たり前の事に気がついた。この物語は「指輪物語」なのだ。そもそも、指輪を捨て、ヒーローになり、ハッピーエンドを迎える話しではないし、キャラクターがそれぞれに深く描かれており、たっているだけにキャラクターについつい気をとられてしまうが、主人公は指輪なのである。指輪を取り巻くキャラクター。指輪が常に物語の中心にある為に、様々な登場人物が同時進行で動いており、それぞれの思惑、使命により彼等は行動し、物語が複雑化していくのだ。
 フロドの使命は「指輪を捨てる事」であるから、その目的を達成したところで彼の役目は終わっており、それによって英雄になる訳でもなく、彼はホビット庄に帰る事が出来るという事で完結する。そして、指輪の威力がこの世の中から無くなったからこそ、王の末裔アラゴルンは本来の姿ともいえる王の座につく事になった。彼のヒーロー物語は指輪を語る上で語られているものであって、決して英雄伝が主ではない。そして、指輪が主役であるからこそ、その影響力を受け心に大きな喪失感を抱いているビルボ、フロド・バギンズは、指輪に深い関わりのあるガラドリエル、そしてその威力を知り、ともすれば誘惑されるかもしれないというリスクを感じていたガンダルフとともに、エルフの船で船出するのである。指輪の所有者になった過去を持つビルボとフロドは、二度と普通の生活に戻る事は出来なかったのだ。
 これは、物語に登場するキャラクター達の話しではなく、あくまでも指輪の物語であり、その指輪を取り巻くキャラクターが生き生きと描かれている「指輪物語」なのだ。ここまで来て、漸く心の中のひっかかりのような物がとれてきた。この物語の主となるものは何なのかというところがひっかかっていたのだ。指輪。全ては物を言わない物質である、指輪の物語だったのだ。

 さて、ここからは映画そのものの詳細についてみていきたい。まず、ますます見事になったのはゴラム=スメアゴルのCGである。彼はCGのアクターとして、その演技力を映画界で長く記憶される事になるだろう。そして今回改めて感動すら覚えたのは、WETAの技術力と美学、こだわりの姿勢である。2作目にもちらっと登場した、象に良く似たオリファント。そしてそれを操る従者。ビジュアル的に独自の美学を感じる。
 また、ゴンドールの扉の彫刻は、ロダンの地獄門をも思い出させる。このCGとは思えない質感は見事である。そして、王の都、ゴンドールの撮影で使われたミニチュア。実に良く出来ている。オークが扉を破るために使った獣型の火を吹く破壊兵器ですら、こだわりを感じさせる彫刻作品になっていて感動すら覚えた。そして石の都の芸術性。また、その都を白馬でかけるガンダルフを上から見下ろす形で追うシーンが長く続くのだが、このシーンはどうやって撮ったのだろうか。セットを組んだのか、それともCGなのか。またメーキングフィルムが楽しみである。

 さて、次にアクターに目を向けたい。今回またレゴラスの活躍が凄かった。何といってもオリファントを一人で倒すシーン、これでもか、これでもかという格好良さを見せつけてくれる。2作目の階段スケボー降りと、馬の前方から手綱を持ってひらりと馬の背に飛びのるシーンに並ぶ、超人ぶり、格好良さである。このシーンでまた、くらくら来てしまう女性が増えた事だろう。
 また、人間側劣勢のシーンで船からアラゴルン、レゴラス、ギムリが降り立ったシーンは思わず黄色い声をあげてしまいそうなほどかっこ良く、女心のくすぐりどころを知っていて、さすが女性が書いた脚本だと思わされる。そして、幽霊の軍を率いて突撃していくアラゴルンもいい。援軍到着を待つ間、ガンダルフがゴンドールの兵に混ざって、杖と剣の両刀使いで闘う立ち回りシーンもかなりクールだ。
 そして、今回注目すべきはホビットのピピン。彼の歌う故郷を思う歌も、ボロミアを思い父親であるデネソールに忠誠を思わず誓ってしまうシーンも、のろしをあげる為に賢明に頑張る姿も、全て印象に残っている。そしてそんなピピンとの別れを悲しみ、自分も闘いに加わるメリーもいい。今回ホビットは大活躍である。
 サムは言う迄もなく懐の大きさを見せてくれた。ショーン・アスティンはいい役者になったなぁと感慨深くなってしまったほど、サムに必要とされるまじめな性格、器用ではないけれど色々先を考えながら行動し、精いっぱいの忠誠心を説得力を持って演じている。そして、闘い初めて初めて良く見えたのはエオウィン。彼女には恋に生きるより闘う女で居て欲しい。ナズグルを倒すシーンでは胸の空く思いがする。そう感じた女性は多かった事だろう。

 さて、ここまでは褒めちぎって来た状態だが、ここでちょっと突っ込みも入れておこう。まずアラゴルンとレゴラスが二人並んでクローズアップされるシーン。本当はそうではないのかもしれないが、珍しく合成チックな絵で驚かされた。この映画にしては珍しい。そして、フロドがシェロブに襲われるシーン。クモのお化けの蜘蛛の糸にぐるぐるまきにされるフロドの姿は、どうみてもミイラだったし、その後顔の部分だけ切り裂いて出て来た彼の顔はあまりにも人形チックで笑える。きれいに几帳面に糸を巻き過ぎていて、急にリアルさがなくなってここは何だか不自然だ。まるで人型の白の繭全身スーツを着たように。
 そしてクライマックスとも言えるアラゴルンの戴冠式。このシーンでアルウェンとの再会を果たし、皆の見守る前で二人は熱いキスを交わすのだが、今迄の緊張から急にお姫様の出てくるおとぎ話にワープしたような、見ている側にはちょっとした虚脱感があった。
 幸せなシーンでいいのだが、今迄のテイストからするとちょっとはみ出た感がある。個人的にはアラゴルンには気の毒だが、彼には王となって落ち着いた人生を送るのではなく、いつまでもストライダーとしてさすらっていて欲しかったというファン心理も働いているかもしれないが、ともかく、もっと違う描き方もあったのではないかという、脚本へのちょっとした不満が残らないでもない。

 と、字数制限が無いのをいい事につらつらと書き連ねて来たが、ともかくこの長い長い指輪を巡る物語は、終わりを迎えた。
 今迄映像化は無理であると言われ続けた物語とピーター・ジャクソン監督という希有な男との幸せな出会い。それを支えた素晴らしいスタッフ達。そして、この物語を描く上で必要不可欠だった自然を保有していた驚くべき国、ニュージーランド。全ての要素が揃って初めてこの映画は完成した。
 この作品で映画の技術はまた格段にあがったと思う。また、本作はCGとは技術を見せる為ものではなく、表現上必要不可欠であるから使うのだという事を、多くの映画人に指し示したと思う。また、時間に追われながらも最後まであきらめず細部にまでこだわり続ける事の大切さを教えてくれた。兵士一人一人の鎧にすら模様を施したWETAの緻密な作業に改めて拍手を贈りたい。

 この映画は間違いなく、歴史に残る作品となり、これからも繰り返し多くの人が観続ける映画になるだろう。たとえ技術が今より格段に進歩した未来に改めて見直したとしても、この作品は色あせないと思う。それは、この作品はスタッフ全員の愛情と情熱の産物だからである。

 最後に、これだけの長い年月を一本の映画にかけたスタッフ全員の勇気に、拍手を贈りたい。


<January>

MOVIE・マトリックス レボリューションズ


◆1月11日◆MOVIE◆マトリックス レボリューションズ◆

 前作と同じく、鳴り物入りで始った公開初日が2003年11月5日。某番組の某お方がこの映画に値段をつけるなら、「1万円〜5万円!」と、前回の100万よりは控えめになったものの、未だ評価が高かった「マトリックス・レボリューションズ」を見たのは、公開からほぼ2ヶ月後でした。

 「マトリックス・リローデット」が、私的には前売り価格の1300円ジャストプライスだったのと(ポイントは、決して定価の1800円でなく、前売り値段という事!)途中まで見たのだから、まあ最後まで見ておくかという、テンションが低いなりにピリオド打ちをしておこうという考えのもと、とりあえず前売りだけは購入。その後ずるずると見に行く機会がずれ込み、シネコンでもメインシアターから小さな場所に移ってからの鑑賞とあいなりました。本当に会場、小さかったです。それなりに混んではいましたけど。

 さて、期待しなかったのが良かったのか、2作目があの状態だったので、今更何があっても感じなくなっていたのか(笑)リローデットの時のような怒りは全くなく、さらりと鑑賞終了。
 実際上映時間も2作目の3時間から、3作目は2時間強に縮まり、作品自体も結構あっさり。まあ、ネタ切れというか、CGを多用した戦闘シーンに物凄くお金がかかったらしいので、長く作るには予算が足りなくなったのか(笑)  私はあちこちで笑いのツボが押されたりなんぞもしたのですが、まあこんなもんでしょ、結末はまあ、これぐらいしかないよねという低いテンションで劇場を後にしました。

 さて、ここからはネタバレですので、これから見る方、結末を知りたくない方は読まないでください。

 まず、あれだけばらまかれた謎は、夢オチにも似た、私に言わせれば「シムシティー」(市長になって街を育てていくというシュミレーションゲーム。街のあちこちで色々な事が起こるのをコントロールして、街を運営していく)オチで全て解決!まあ、そうなる事は2作目でアーキテクチャーがでてきた瞬間から分かっていましたが。

 生身でも奇蹟を起こせるようになったネオは、マトリックスとリアルワールドの境界にある地下鉄のホームで目覚めます。格好はマトリックスバージョンですが、境目にいるせいか、何の力もありません。つまり、溝に落っこちたまま出られないような感じ。ここはトレインマンが支配する世界だそうですが、うーん。支配してる割には、追いかけられたらトレインマンは普通に逃げてるし(笑)時計見ながらするすると電車を乗り継いで逃げてましたが、これではこのエリアの法則、現象、設定を熟知している程度でしかない。おかしいなぁ。。。このエリアのマスターとは、ちょっと思えない。

 ネオを助けるべくトリニティたちはメロヴィンジアンに会う為、クラブHELLへ。このHELLがまた、監督の(弟だか兄だかどっちだか知りませんが、片方らしいです)趣味全開!今までもそのテイストはありありでしたが、今回はもろSMコスチュームのオンパレードでした。ここまで露骨にやっていいんでしょうか?っていうぐらい。フランスのエスプリ臭を撒き散らすキャラクター、メロヴィンジアンが居る場所なので、哲学好きだそうな監督が、エスプリ→フランス→哲学→ミッシェル・フーコー→SMという展開をしたのかどうかは知りませんが(笑。案外ありかも)恐ろしく趣味に走ってました。

 そして、今回もまたパーセフォニー演じるモニカ・ベルッチはお添えもの。露出度の高い赤いドレスに身をつつみ、メロヴィンジアンの横に座ってるだけ。セリフもなし。存在感だけでの演技と言いたいところですが、印象に残ったのは強調された胸の谷間ぐらいという悲しい状態です。何故ベルッチがこの仕事をひきうけたのか、ちょっと謎。彩りに置かれた以外何の意味もないような。

 さて、前作を撮り終えた後、予言者オラクル役の女優が急死してしまったため、今回のオラクルは別人が演じています。「私もここまで容姿が変わってしまうなんて。まだ私もとまどっている」というようなセリフがあるのですが、とにかく、容姿が変わってしまう程ダメージを受ける闘いをオラクルはしたという設定になってました。ちょっと苦しい言い訳に聞こえなくもないけど。オラクル役に関しては、いい雰囲気の女優さんだったので、彼女が居なくなっていまったのは非情に残念です。スタッフはさぞかし焦ったでしょうね。

 それにしても、今回笑えたのはファイティングシーン。1はワイヤーアクションで鮮烈な印象を残し、2では高速道路で車を刀で切っちゃったり(ルパン三世の五右衛門が思い出されますが。笑)壁を蹴って宙で舞ったり、棒を使って華麗に相手を倒したりしてましたが、もう色々やりつくした感がありました。
 2作目でネオがスーパーマンより早く空飛んでるのはもうギャグでしたが、それはまあともかく、スタッフも今更壁を蹴って回転しても空飛んでも驚かれないと考えたのでしょう。ではどうするか。重力の無視と壁のない空しかありません!(笑)  HELLのスタッフが天井を歩きながら闘ってるのを見た瞬間、私の笑いのツボがギュッと押されてしまいました。そうきたかと。更に、スミスとネオの最後の闘いに至っては空中戦!もう地面では闘い尽くしたって事ですね。うーん、笑える。完璧日本のアニメです。ジャンプ系少年漫画にありがちな空中戦を実写で見たなぁという感じ。

 更に、日本のお家芸とも言える合体ロボも登場。「ザイオン、イカに襲撃される」の場面では、キャプテン、ミフネ(またこの名前が笑える。侍的闘いをする武士道な人という設定らしい)を始めとする戦士達が戦闘用ロボットに乗ってバトルを繰り広げます。これが、おかしい!
 人型ロボットに乗るのですが、自転車かってぐらい人は剥き出しでロボットに腰掛けるだけ。タイムボカーンシリーズ(歳がばれる・・・笑)でも乗る場所はちゃんと保護されてたのにぃ。何でむきだし?役者の表情をしっかり見せたかったから?更にこの戦闘用ロボット、弾入れは手動で、きれる度に弾入れ人が弾をカートに乗せて、命がけで走ってくるのです。原始的過ぎる・・・
 また、ロボットと体が一体化した作りになってるので、向かってくるイカを打ち落とすのに、自分も万歳して撃ってるし。そして、上から来る敵を撃ち落してるので、剥き出しな人たちは撃ち落した物の直撃にあい、敵からの攻撃だけでなく、それでも命を落とすのです。ミフネさん、直撃されて顔割れてました。何もそこまで?!っていうぐらい、顔に亀裂が入ってました。

 一方、ザイオンに帰らず自分たちの使命に真っ向勝負のネオとトリニティは、その途中スミスの入った人間に、ネオが両目を焼かれてしまいます。それでも見える奇跡の人ネオ。そして、例のエネルギー栽培工場も登場しつつ心臓部に乗り込んで行きます。
 姿を変えたアーキテクチャーが出てきてネオをマトリックスにアクセスさせるシーンでは、アーキテクチャーの触手みたいなのがネオを持ち上げ、頭に接続コードを差し込むのですが、この触手に全身持ち上げられるシーンを見て「あ、風の谷のナウシカだ!」とナウシカとオームを思い出したのは私だけ?

 さて、接続後、表裏一体という事だったネオとスミスの闘いが始ります。オラクルをのっとり、今や最強となったスミス。その熾烈な闘いは、さほど驚くものはなく、もう、何でもありだと思っているだけに坦々と進み、豪雨の理由はいまいち分からず、そして結局「スミスにわざと体をのっとらせた予言者オラクル」が勝ち、何事もなかったかのようにバージョン7の世界がスタートしました。6代目ネオとオラクルのお陰で、多少ザイオンの人間は生き残り率がアップしましたが、とにかく、全てはアーキテクチャーとオラクルの手の中という事ですね。

   アーキテクチャーとオラクルが河辺に立ち語るシーン。両親から離れた少女が「またネオに会える?」「いつかね」といった会話は、言うまでもなく、またバージョン7の最後にネオが現れる事を暗示していて、もう見なくていいけど、形的には「続く」。
 結局それオチかいっ!と突っ込みを入れる力もなく、尻つぼみになった話しに数年間付合った少しの疲労を感じながら、劇場を出ました。夢落ちよりはまだマシかと、プチ・フォローを入れながら(笑)

 ああ、しかし。3部作に名作無し(と結構世の中で言われてますよね)とは良く言ったもので、「マトリックスお前もか」でした。でも3作目がこけるだけでなく、2作目から駄目だったのは「駄目駄目じゃん」ですよね。1作目が良かっただけに、残念です。とほほ。


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